趣味Web 小説 2011-06-17

私は算数の授業に絶望していた。 (3×5≠5×3問題)

さらが5まいあります。1さらにりんごが3こずつのっています。りんごはぜんぶで何こあるでしょう。

1.

かけ算をめぐる論争でいうと,モノはもちろん,出題(文章題のインスタンス)となるでしょう.そして,誰かが提示したモノ=出題だけを見て,その良否を判定してはいけないのです.

良否を言うためには,まず,その出題がなされる背景を押さえておきます.解答者は何を知っていて,その出題に答えることになるまで,どのような出題を(授業あるいはドリルで)見て学習してきたかを,可能な限り,知りたいところです.リアルタイムで監視というわけにはいきませんので,ある程度の推測,そして誤差が含まれるのは,仕方がありません.

次の段階は,見てきた問題のグループ分けです.そしてグループ単位で,どういう意図なのか,最終的にどのようにして問題が解けるようになればいいのか,言ってみれば「解法」を推定します.なお,「解法」には,立式・計算の方法を含みますが,それらに限定されません.かけ算の文章題でいうと,「何が『一つ分の大きさ』,何が『いくつ分』になるかを読み取ること」そして「その問題はかけ算を使って答えられる,と判断すること」が指摘できます*5.

世の中でどういった出題がなされているかを知るのはもちろん,事前事後の学習者の能力(「~できる」という形であらわされるもの)を手っ取り早く知るには,出題における前提条件がよく分からないネット上の議論よりも,算数以外に課題をお持ちでお忙しい現場の先生に尋ねるよりも,入門にと話題の本を買ってその背景にあるマイナーな考えに陥ってしまうよりも,まずは問題集を何冊か買って読むことを,推奨する次第です.

それはtakehikomさんの前提に賛成した場合の話だと思う。takehikomさんが仰っているのは、ようするに、「教師側の土俵に乗れ」ということ。3×5≠5×3問題で燃えた側は、元生徒として怒っているんだ。「バカ教師が、くだらない指導をしやがって!」と、生徒の目線で怒っている。私はそう思う。

怒っているのは、小学生の頃、算数の単元テストで90点以上を当たり前のように取っていた人が大半のように見える。そういう元生徒たち(の少なくとも一部)は、「不出来な生徒を救うために用意されたステップ」を自分たちにまで強制した教師たちに、深い憤りを感じている。「不必要なルールを持ち込んで、それで本当にわかりやすくなったとでも思っているのか。ふざけるな」と。

しかし算数教育の歴史を紐解けば、基本的には、多くの教師が実践してみて「この指導法はなかなかいいな」と思った方法が、全国に広まったことが読み取れる。私が学生時代に教育関連の図書を濫読した限りでは、正直ろくな実証研究がほとんどないことは気にかかるが……。

2.

少し補足すると、「まともな実証研究がない」とは、「指導法Aと指導法Bの効果を、きちんと検証や追試が可能な形で比較した研究」が皆無に近く、教育雑誌のバックナンバーを次から次へと読んでも読んでも「個人的な狭い体験に寄りかかった話」に終始して実験データが出てこないことにガッカリした学生時代の経験からいっている。

教育学部のある大学だったから、大学図書館にはいろいろな雑誌のバックナンバーが蔵書されていた。とても全部は読みきれないが、明治図書の『現代教育科学』誌は、ときどき誌面で勃発する論争が面白く、約1年かけて30年分を流し読みした。だが同誌は、誌名に「科学」を謳いながら、掲載記事のほぼ全てが個人的な体験、伝聞、せいぜいアンケート調査程度に基礎付けられたものだった。いくら面白くても、「こんなのをいくら読んでも本当のことはわからぬ」とも感じた。

他の会社の雑誌もいろいろ読んだが(雑誌はひとつの記事が短いから講義の合間の空き時間に読むのには都合がよかった)、少なくとも一般の教員向けの雑誌に載っている記事は、どれも実証的ではなかった。絵画などならともかく、計算問題や漢字の読み書きの指導くらい、きちんと実験を組み立てて授業の成果を収集し統計処理を行うことが可能なはずだ。「指導法Aが指導法Bや指導法Cより優れている」ことを教師の感覚や思考ではなく客観的なデータから明らかにする実証研究が、あまりにも少ない。呆れた話だと思う。

このたびtakehikomさんに触発されて近所の市立図書館で算数の授業の組み立て方に関する本で掛け算の初歩を扱っているものを何冊か探して読んだが(というか市立図書館には数冊しかそのような本がなかった……)、やはりロクに参考文献の記載がない。まともな実証論文に基づいて「このような指導法がいい」と解説するのではなく、筆者の個人的な体験から書かれている。10年経っても状況に変化なし。こんなものを何千ページ読まされたって全然、説得力を感じない。

「結局それって、あなたが個人的にわかりやすいと思っているだけの指導法ですよね? あるいは、教師の世界で根拠ナシに常識となっている指導法。そうじゃないというなら、その指導法が本当に優れていることを示す証拠を出してくださいよ。証拠がないなら、私が説得される理由なんか、ひとつもないと思いますけどね」

どうにもこうにも、こんなことでは、お互いに個人的な体験だけをベースに罵り合いをしているのと大差ない。教育学部の先生方はいったい何をやっているのだ。理論もいいが、せっかく付属学校があるのだから、ちゃんと実証すべきだろう。

しかし、そういう状況ではあってもだ、一応は学会やら何やらで「(個人的な感触ですけど)よい結果が出ました」という報告の集まった教育手法が学校で普及しているのであって、これを頭ごなしに否定するのは、やはり無理筋だろう。3×5≠5×3問題にカッカとした人の大半はそうは思わないだろうけれど、私はとりあえず、教育の世界の経験の蓄積に一定の敬意を払いたい。

3.

小学校の算数なんてのは、誰だって教えられる。けっこう多くの人が、そう思っている。教師の教え方が、特別にうまいとは思わない。実際に授業参観をしてみて、ますますその思いを強くする。頭の悪い教師が、頭の悪い授業をやっている、そう思う人は、多数派ではないかもしれないが、全国に数百万人はいるだろう。

私のように、小学校の生徒だった頃から「先生はバカ」と認識してきた人も、かなりいるはずだ。何でこの先生はこんな教え方をするのだろう、俺たちの方がまだしもマシな授業をできそうだ……成績上位層のクラスメートと、そういう意味の会話をどれだけ繰り返してきたかわからない。

私が考えを改めたのは、学生時代に小中学生を教える機会を持ったことによる。私は数ヶ月で学級崩壊を起こし、アルバイトをクビになった。これが悔しくて、教育学部の講義を聴講し、ひとつの科目では特別に単位もいただいた。大学図書館へ通い詰め、教育関連の本を山積みにして読んだ。体系的に身についたものは何もないが、学んだことの一端は、別の補習塾での再挑戦において、多少は活かされたと思う。

ふつうの人は、私のような体験を持たないから、自分が余裕綽々で100点を取れた科目を教えていた先生に対して、少なくともその授業のやり方について、学ぶものがあるとは考えていないだろう。友達同士で勉強会などしたことがあれば、自分の説明によって友達が「わかった!」となる体験を繰り返すことになる。「学校の先生もこういう風に教えればいいのに」と軽蔑こそすれ、学校の先生の指導の背景に何か素晴らしい理論があるなどとは思いもよらない。実感として、先生の授業は失敗しているように思えて仕方がないからだ。

それに、たくさん勉強してみた私だって、教師側の事情を理解はするが、1あたり量を被乗数とする、そして「5皿」は1あたり量ではありえず、「3個/皿」だけが1あたり量である、という指導が素晴らしい完成されたものだとは微塵も思わない。その指導法が、どれほど成績上位層の深い怒りを買うか、当事者として実感してきたからだ。教育界は成績下位層を救う研究には熱心だが、その弊害を十分には認識していないと私は感じる。3×5≠5×3問題の燃え上がりようは、そのひとつの帰結だろうと思う。

余談:

はじめて聞く,常識ある大人は,「バツはおかしい」ではなく「なぜバツにされるんだろう」と反応します.

「なぜバツにされるんだろう」と反応する側が「常識」を標榜できるほど多数派だとは思わない。ネットでこの問題に関心を持った人の多数派が世間での多数派かといえば、それは怪しいけれども、小学校の先生の仕事を信頼せず、自分の直感的判断の方を上に置く大人は、かなりの割合を占めるのではないか。

この場合、「常識ある大人」よりも「良識ある大人」という表現の方が、私にはしっくりくる。

4.

少ない書籍や論文を読んで想起できる,膨大な数学教育の蓄積からは,樹形図や,領収書の書式,m times n(『かけ算には順序があるのか』, p.45)といった少数・軽微な事例が,今後,変化を与えるようには到底思えません.

takehikomさんのこの認識には賛同するが、少数・軽微だからといって切り捨てる姿勢は、掛け算を苦もなく理解できた元生徒たちの怒りを無視している。生活体験の多い子、自分で算数絵本などに親しんできた子、翻訳絵本などにたくさん触れてきた子が、つまらない形式を押し付ける学校の授業に、どれほど失望したか。大多数の子どもが算数をできるようになることと引き換えに、誰がどんな犠牲を払ってきたか考えてほしい。

実際問題、学校で成績上位層寄りの授業をやれば、ほぼ確実に下位層が取り残されて授業に参加する意欲を失い、学級崩壊が起きる。私はかつて、自分の理想の授業を実践して、討ち死にした。だから、「量が確定した順に被乗数、乗数とする」と授業しろ、というつもりはない。

だが、掛け算は、掛け算的状況の「イメージ」さえ正確に掴むことができていれば、必ず正解できる。だから、この俺様に「3個/皿」を被乗数にしろ、なんてくだらないルールを押し付けるなよ、と。問題文の国語的読解の通り、5枚の皿に3個ずつという思考の流れに沿って5×3と立式して何の問題があるのか。この考え方で確実に全ての問い(注)に対して正しい答えを導けるじゃないか。掛け算の本質を理解している子に、くだらないルールを強制するのはやめてくれよ、といいたい。

注:ここでは「くだらないルール」の理解度をチェックする「指導のための指導」は、算数指導の過程にしか登場しないものであって、それは本来の問いではない、とする。私の頃も、年度末の実力テストでは「りんごは全部で何個か?」だけが問われ、足し算しても、絵に描いて数えても、掛け算で求めてもマルになった。

「どうやって、わかっている子とわかっていない子を見分けるんだ?」なんてのは、教師の都合に過ぎない。その「教師の都合」に解決策が見つかり、しかもそれが現実の限られた授業時数の中で実践可能となるまで、私は「今すぐ強制をやめろ」とはいわぬ。ないものねだりはしない。だが、「過半数の生徒にとって、まずはこうして形式を縛った方が掛け算は理解しやすいんだ。だからいいんだ」といって、その陰で犠牲になっている者を見ることをやめる教師がいれば、かつての自分に代わって大声で抗議したいよ。

5.

3×5≠5×3問題で「こんな指導はおかしい」「かえって子どもが算数をわからなくなる」と声を上げた人の大多数は、実際に教室で自分の理想とする授業を実施してみれば、愕然とすることになるだろう。

教師がなぜ現在そのような指導をしているのか、虚心坦懐に歴史を紐解く意義を、私は否定しない。たしかに批判した側の多くは、自分の直感的な違和感があまりにも明瞭だったためかどうか、そうした謙虚さを欠いていた。小学校の教師なんてバカばっかりでしょ、という経験に裏打ちされた先入観によって、自分が「変だ」と感じた指導は「ダメなものに決まっている」と考えてしまった。

だけど、この違和感を無視していいということにはならないよ。takehikomさんのいうBA型問題の指導など、本来は不要なはずだ。掛け算の「イメージ」がない大多数の子に掛け算の指導をするには、「5皿」は絶対に乗数で「3個/皿」は絶対に被乗数という形式を押し付けて、この枠組みの中で掛け算に慣れ親しませていくのがベストの方法だ……なんて胸を張られては不愉快きわまりない。

「□(四角)の式」が登場したとき、「結局、ぼくの考え方で正しかったのか……。いきなり引き算の式を書け、とか、よくもあんな授業をしてくれたもんだ。問題文に書いてある通りに3+□=10と式を書いて、それから引き算をして□の数字を探すという手順でよかったんじゃないか。あのとき、先生はいったい何が気に食わなかったんだ? 何度もリボンの図を描かせてさ。先生のやり方とは違うけど、ぼくの考えも正しいよね、って、それを理解してほしかったのに、全く話が通じなかった。ああいう理解力ゼロの愚かな先生は心臓発作で死ねばいいのに」と心の底から教師を憎んだ気持ちを、私は忘れていない。

学習塾と無縁だった私にとって、学校の教室は唯一無二のものだった。体育館で新しい教科書を受け取ると、休み時間も夢中になってページを手繰り、「そうか、これからこんなことを勉強するのか」とワクワクした。家に帰ってからも、理科の教科書の写真を眺めたり、国語の教科書の小説を読んだりして過ごした。

しかしその思いは、大抵つまらない授業によって裏切られた。とくに算数だ。毎度毎度、教師の誘導に「おつきあい」して、教師の望む式を書く。その繰り返し。年度が替わって担当教師が交代しても(注:私の出身校では小学校から中学校と同様の教科担任制だった)、授業の進め方は変わらなかった。苦行である。そのうち、悟りが開けたりしないか。だが、何もないまま、6年間は無情に過ぎ去った。

卒業間近なある日のこと。「徳保くんはお勉強ができたから、学校の授業は楽しかったでしょう」「……」たしかに、お勉強が苦手な人よりはマシだったろう、と思ったから、私は黙り込むしかなかった。胸の内では、嵐が渦巻いていた。「いいからアンタは今すぐ教師を辞めろ。少なくとも算数の担当からは外れるべきだ。不愉快きわまりない」もちろん口は閉じたままだったが。

追記:

書籍や論文・論説を通じて,乗法に関する指導方法のスタンダードを知りました.そして,「かけ算の順序」という問題設定が不適切であり,「順序派」(「順序否定派」とも)の主張が,現在の小学校の算数教育に貢献しそうにないという理解に至りました.

私自身は、そのスタンダードな指導方法にロクな根拠がないことを再確認した。「おちこぼれを減らすためには仕方ない」と思いたかったのだが、「本当にこれでおちこぼれが減るっていう証拠がないじゃないか」と。図書館に足を運び、数冊を読んだが、時間と手間の無駄だったな、と思った。

ただ、私の場合は少し特殊で、自分で学級崩壊を起こした経験があるので、直感的にはスタンダードな指導法に納得しないものの、「たぶん、私がすんなり納得できる指導よりは、こっちの方がマシなのだろう」とも予想する。

それでも、そのスタンダードな指導法に抑圧されてきた日々を、私は忘れていない。その点に配慮のない(ように見える)スタンダードな指導法の擁護論には、強い反感を持つ。takehikomさんは、多くの「非順序派」の口の悪さ、倣岸不遜な態度と対照的だ。まず文章が紳士的であり、多くの資料に目を通し、自分の関心事だけでなく他人の関心事についても網羅的に取り扱って……。それでも、感情的な反発は抑え難い。

たぶん、スタンダードな指導法が、いまある中では一番マシなのだろう。きちんと実証されてはいないが、きっとそうなんだ。でも、この延長上に、「算数は好きだけど、学校の算数の授業は大嫌い」だった私が救われる世界は描けない。そんなもの、認められるか。とはいえ、私にも答えは見えていないのだが。

算数教育の本の著者が「力不足で申し訳ありません。上位層の納得と底辺層の引き上げを両立できる指導法はいまだ発見されておらず、現状ではスタンダードな指導法を選択するのが最良なのです」とデータ付きで説明してくれたなら、かつて虚無感と哀しみと怒りでゴウゴウとうなりをあげた私の胸の内の嵐と、算数の授業に絶望しながら学校へ通っていた20数年前の私への、せめてもの供養になると思う。

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