これまでに読まれた本のなかに,『田中博史の算数授業のつくり方』は入っていますか.もし読んだ経験があるなら,私はこの本から「子どもをよく観察すること」「教える者どうしのネットワーク」「水道方式への対応」を知ったのですが,徳保さんは何を得ましたか.
『田中博史の算数授業のつくり方 (プレミアム講座ライブ)』を書店で買って読みました。全体として有益な本だと思いますが、著者の主張を裏付ける客観的な証拠がゼロなので、「その指導はおかしいよ」と思う人をねじ伏せる力は乏しいですね。
P64「船が5艘あります。1艘に4人乗ります」なら5×4でいい。小2算数において掛け算の基本形は「基準量のいくら分」だとしても、「5艘」が基準量となりえない理由がない。例えば5艘の船の持ち主が、船を改装して定員を何人にするか思案している状況を想起すれば、5艘を「基準量」、定員を「いくら分」と考えて最大輸送人数を求めるのが自然。P64の写真のように正確な図を描ける子が5×4と立式するなら、田中さんがそれを4×5と訂正するのは無益だと私は思う。
P67下図について、私なら「ケーキとプリンは2×3とも3×2とも考えられる」「ボールペンとドーナツは3×5とも5×3とも考えられる」と指導したい。箱の数、ケースの数、皿の数だって基準量とみなせるからです。「それでは底辺層の子が混乱する」というのが、ケーキの例では2×3だけを正解とする考え方。だからそれに対して私は、「本当にそうなんですか? 上位層の子の憎しみを買うに足る成果があったんですか?」という疑問を持っているわけです。
5×3にバツがついた画像を見て、私は「これは絶対おかしい」と強い直感を抱きました。古傷をえぐられました。ニュートラルに受け止めたtakehikomさんなら田中さんの説明を読んで「なるほど」と思うのでしょうが、私は前提が違います。
船の問題は5×4で理屈が通るし、計算結果も100%正しい。これをバツとすることで学校の授業に絶望する子が必ず生まれます。だけど「5×4もOKと説明するとクラスの底辺層10人が掛け算を理解できなくなる」という証拠があれば、私だって誇りを持って授業に協力できたんだ。私の犠牲によって誰かが救われたという証拠がなければ、絶望の中で息絶えた私の心の一部は、いつまでも浮かばれません。
私自身は,《BA型》は乗法の意味理解を確認するため,事前的評価(ただし乗法ではなく除法の導入として),形成的評価,総括的評価,外在的評価のいずれにおいても出題され得るものと認識しています.また実態として,《BA型》は現行そして一つ前の学習指導要領解説に入っていますし,自治体の学力調査でも出題されていることを伝聞しています.
私は学習指導要領を誤読して援用したり批判したりすることには苛立ちますが、それは私が学習指導要領の内容に全面的に賛同していることを意味しません。『5×3を推す』において私が学習指導要領解説を補助線としてしか参照していないことに注意してください。(ところで現行の解説書の2年生の範囲の中にBA型問題の例ってありましたっけ?)
私は「年度末の実力テスト」と書きました。それが自治体の学力調査だったのか、民間業者作成のテストだったのかは知りません。いずれにせよ、私は学習指導要領であれ自治体の学力調査であれ、「皿の枚数は基準量たりえない」という硬直した考え方を押し付けるなら、「その指導は間違っている」といいます。
「現状、これがスタンダード」なんて話には、説得力を感じません。田中さんの本を買うついでに30冊ほどパラパラと眺めてみましたが、著者が自分の主張する指導法の正しさを科学的に証明しようと試みる本は皆無。教育の世界は科学的な手続きと無縁なんだな、と思いましたね。偶然いま口のうまい人が、個人の狭い体験に基づいて「これは素晴らしい」と思っている指導法が、教育の客観的な実績とは無関係に広がっていく。
教育学者って、いったい何をやっているのだろう。工学の世界では学者さんの数百年に及ぶ探求の蓄積のおかげで一般の技術者は迷いなく悪手を捨てることができて、良い手の中で妙手を探すことに集中できるというのに、教育の世界は口先の議論ばかり重ねて客観的事実の積み重ねが乏しいから、教育技術が本当に進歩しているのかどうか、サッパリわからない。