趣味Web 小説 2011-08-06

memo:takehikomさんへのレスポンス 3

母「あ,またイスから降りようとする!」
子「おりたい~」
母「ダメです.全部食べてからにしなさい」
子「おりたい~」
母「1,泣かない.2,みんなと一緒に食べる.分かりましたか?」
子「わかってない」
母「わかってないんやな.ほなあなたはあたしたちの子やない.家の外に,放り出すで!」
父「『たち』かいな」
母「だってこの子,ぜ~んぜん食べへんのよ.ほんでイスから降りて,(さきの子・あとの子が横たわっている)ベビーベッドに行って,ちょっかいかけてくんねんから」
父「うーん」
母「はいもお(抱きかかえる)」
父「どないすんねんな」
母「玄関から,放っぽり出すんや」
子「ママ~~」
母「今さらママママ言うてもあかん.出て行きなさい!! (外に投げ出し,扉を閉めて鍵をかける)」
父「お外,出たりせんやろか…」
母「まあ大丈夫やろ.反省してくれたらええんやけど」

このような「しつけ」は、どんな文脈があろうと、許容できない。社会から排除すべきである。

200を超える当雑記の親馬鹿エントリから,どんな話を,親馬鹿エントリとして取り上げるかというのが,把握できるようになっています.「ドアの前でママ~」は,それに合致しませんし,あえてスタイル違いをしてみるにしても,これでは斬新さもインパクトも出せません.

子どもが食事に飽きたとき親が考えるべきことの引用の仕方も,同じです.これで切られたのでは,そしてそこまでの記述で文句を言われるのでは,書いたほうとしてははなはだ残念です.

takehikomさんは、時と場合によっては、引用したような「しつけ」が許されると考えているのだろう。だから、時と場合の情報を削ぎ落とした私の引用は、不当だといいたいわけだ。だが私は、どんな場合においても、引用したような「しつけ」を許容しない。

父「待て待て,勝手口に向かって走ってないか?」
母「え?」
子「(勝手口のドアを開けて入り込み)ママ~~」
父「あっさり戻ってきたなあ」
母「朝晩,こっから出入りしてるんよなあ」

これが、最初の引用部の続き。さて、このオチがあったら、何か話が変わるだろうか? もちろん、何も変わらない。たまたま今回は結果オーライだったことは、免罪符にはならない。

これは,7月5日の自分の対処が失敗でした.最初に挙げたエントリを全部読んでもらった上で,次のことを尋ねればよかったのでした.

「(勝手口のドアを開けて入り込み)ママ~~」がなかったら,言い換えると,閉められたドアの前で「ママ~~」と泣くばかりだったら,日記に書いていただろうか?

このように問題設定をすれば,これについては明確にnoです.

まず、日記に書いたことが問題なのではない。ネットに書いたのは悪事がバレた理由でしかない。

次に、家から締め出すなどという「しつけ」は、結果によらず悪いことだ。

この問題は、以前話題になったセクハラサイコロと似ていると思う。教師は繰り返された結果オーライ(=ジョークの範疇として対象児童に理解されたこと)に安心していたが、数回のセクハラ成立で人生が暗転した。そして失敗したケースだけでなく、「そもそもセクハラサイコロ自体が悪いことだった」と糾弾された。また、教師に悪意がなかったことは、その過ちを決して帳消しにはできなかった。

セクハラサイコロの先生だって、職員会議や保護者会でセクハラサイコロを問題視する発言が出れば、ヒヤッとしただろう。「結果オーライが続いているから大丈夫」といってどこまでも押し切ることなどできない、とも感じたろう。

では、「あなたはあたしたちの子やない.家の外に,放り出すで!」といって子どもを「外に投げ出し,扉を閉めて鍵をかける」ことはどうだろうか。それは、まずい結果になったとしても「悪意はなかったのだし、不運だったね」と理解されるような指導法なのか? 「いや、そうではないな」という感覚があるからこそ、結果を伏せた引用を見て、takehikomさんは嫌な感じがしたのではないだろうか。

親にどれほど大きな愛情があろうとも、虐待は成立しうる。繰り返された結果オーライも、一回の失敗で吹き飛ぶ。結果オーライが続いているうちに、悪い指導法とは縁を切るべきだ。

追記:

労作の記事。私にはこういう記事は書けない。

論点など徳保氏自分
子どもが食事に飽きて遊び始めてしまう簡単な解決策あり別に悩んでないんやが

……えっ!? 子どもが食事に飽きて遊び始めてしまうことが「解決すべき課題」ではないなら、「しつけ」をする理由がないじゃないか。それとも、現状の「しつけ」で望み通りの成果を得られているから、別に悩んでないといいたいのだろうか。

親が子に「あなたはあたしたちの子やない.家の外に,放り出すで!」とまでいう状況が悲しくないのか。「どうにかして、こんなひどい言葉を口にすることなく、同じ教育成果を得たい」と悩まないのか。子どもを玄関から放り出して鍵をかけた(状況を見た)とき、罪悪感で胸が痛んだりはしないのか。

とはいえ、takehikomさんのよりひどい(と私には思える)事例は世の中にいくらでもあって、その多くについて私は何の反応もしていない。今回は文中リンクへのレスポンスとして記事を書いた。このような切っ掛けがある場合は別として、とくにtakehikomさんを選んで批判し続ける理由は乏しい、と思ってはいる。

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