趣味Web 小説 2011-09-02

自分の解釈と相手の責任

テレビ番組の司会者として著名な島田紳助さんの引退会見があり、いろいろな人が分析をやっていた。実際のところ島田さんが何を考えていたのかは、もちろん私にはわからない。というか、考える意味のないことだと思っている。私にとって島田さんが、テレビ画面の向こう側の人。言葉を素直に受け取ればいい。

ところで、私が人にお詫びをするとき、大野さんが書かれているような思惑はあるよ。でもさ、だったら何なの。いや、大野さんは何ともいっていないのだけれど、記事の反響の方を見ると、「こういうわけだから、もっと叩いて紳助を凹ませるべき」みたいな空気が充満している。……ハァ、こうして私もまた悪意の解釈をすることから逃れられない。どうしようもないね、これは。

純粋に保身抜きの言葉なんて、ありえない。わざわざ偽悪的に振舞ってさえ、自己の利益につながる解釈は成り立つし、実際、それは当たってもいる。ましてふつうに話して、頭を下げて、それを保身だといえば、まさにその通り。「ごめんなさい」という言葉を文字通りに解釈すれば免罪の要望。「許してください」という言葉なんて、さらに直截。謝罪と保身は切り離せないんだ。謝罪の言葉に保身を見出して批判する人は、ないものねだりをしている。

で、ここからが本題なのだけれど、大野さんの記事は、大野さんの解釈と、実際に島田さんが考えていたことをゴッチャにしていない(と思う)。はてブやTwitterでコメントしている人も、本当は大野さんと同じなのかもしれない。でも、中には境界線が曖昧になっているように見えるコメントが散見され、もやもやする。

「こう思った」は自分の問題。内心の自由。でも、「だから叩いていい」となると、自分の解釈が相手の責任になってしまっている。それは、おかしい。

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