趣味Web 小説 2011-11-20

進学率が高止まりすると学歴による賃金格差が広がる

1.

もどきの部屋で紹介されていた論文についてのメモ。

大卒の価値が低下しても、高卒の価値がそれ以上に低下すれば、大卒の相対価値は上昇する。

矢野さんが「大学は過剰ではない」と考える根拠は、大卒が増えても高卒との賃金格差が縮まっていないこと。私は、そんなの、全く根拠にならないと思う。

以前も書いたけど、大学進学率が高まれば高まるほど、大卒か否かで足切りをする妥当性は高まる。「高卒の中にも優秀な人がいる」可能性が、どんどん低下していく。結果、高卒採用者のキャリアパスが狭まっていく。能力主義といっても、最初からチャンスも与えられず、そのことに当人も疑問を抱かない状況が固定されれば、有名無実だ。

2.

私の勤務先の場合、現在の70歳代の方には、中卒・高卒の取締役がいた。60歳代でも中卒・高卒部長が何人もいた。現在の50歳代では1人しかいない。管理職として、大学で学んだ経験が必要なわけではない。管理職に求められる能力に長けている順で序列化したら、大卒以上の学歴の人ばっかりが上位を占めるようになったに過ぎない。そして、現在の35歳以下の中から、中卒・高卒の部長が登場するかというと、これは非常に厳しい。全員を知っているわけではないが、私が顔を合わせた範囲内でいうと、まず当人のキャリア意識に壁がある。

高卒者は第二次産業中心の経済では高級を得られたが、第三次産業中心の経済では薄給に甘んじる他なかったとする海外の論文を引用して、矢野さんは教育投資は重要性を説いている。私にはこれも、勘違いのように思える。

私の狭い見聞からいうと、製造業においても、高卒と大卒の賃金格差は開いている。高卒の人の仕事が、少しずつ限定されてきているからだ。以前なら、社内教育で中卒・高卒入社の人にあれこれ教えたら、かなりの割合の人が、20代で電験3種を取っていた。ちなみに私は、30代になったけど、大卒のくせに取っていない。ところが、進学率が高まるにつれ、中卒・高卒採用の人向けの社内研修が、つらくなってきた。

具体的には、「誰も宿題をやってこない」「多忙を理由に何人も授業に出てこない」といった状況が頻発し、破綻した。クラスに1人でも「これは」という人がいれば、講師役の先輩社員は意欲を保てる。だが、全滅となると、心が折れる。「3年続けたら1人くらい見つかるかも」「……」「ですよね」

進学率が高止まりしている状況には、学歴による賃金格差を広げる要素があるのだと、私は思う。進学率が高くなればなるほど、早く就職することが挫折と結びつくようになる。せっかくの社内研修の機会を与えられても、「もう勉強はいいよ」「どうせ、自分にはわからないし」と敬遠するようになってしまう。

昔から、そういう人はいた。いたが、高卒入社組の中に優秀な人が一定以上の割合で存在していれば、電験3種を目指す社内研修制度そのものが消えてしまうことはなかった。電験3種は、雑用技術者からエース技術者への切符だった。自学自習の道はある。だが、研修制度があったらどれだけ楽か、挫折しにくいか。その研修制度が、講師の心が折れて、途絶した。高卒採用者の待遇の固定化は、こうして進んでいく。

3.

同じ年齢の高卒と大卒の社員の能力の平均を比較すると、実際、何らかの差はあると思う。問題は、それが「大学で学んだこと」による差なのか否か。

私は、高卒段階までに既に現れている能力差でほとんど説明がつくと思う。それに加えて、足切りラインを越えた自信とか、それによって保てた希望とか、そういった要素の影響も、いくらかあるだろう。

現時点における学歴無用論や大学過剰論は、若者の進路を誤らせる罪深い無責任なメッセージである。

これには半分賛成。進学率が高まって、「大卒足切り」の有効性が確実になっていく中、自分だけ「降りる」道を選んで得をすることはない。「高卒だけど、私は並みの大卒より優秀です」と主張しても、聞く耳を持たれない。他人の能力を見極めるのだってコストがかかるから、形式的な判断が可能なら、そうしたいのだ。

だから、個人が学歴無用といって進学を放棄するのを、安直に後押しするのは無責任。しかし、社会全体で進学率を下げて、「大卒だけでは、現在、大卒がやっている仕事を賄いきれない」状況にすれば、世界は変わるはず。したがって、個人の生き方としては進学を勧めつつ、社会の向かうべき方向としては、進学率を大胆に引き下げる(or過半の大学を放送大学に置き換える)べきである。

大卒が足りなくなれば、企業は、優秀な高卒を見出さねばならなくなる。だが、優秀な高卒と、そうでもない高卒を明確な線で区切ることは不可能だ。それゆえ、全ての高卒の社員に門戸を開いて、研修を再開するだろう。その結果、高卒者全体の価値が上がっていく。

たとえ少数でも、「中学・高校では落ちこぼれだったけど、数年頑張ったら電験3種を取れた」という実例が毎年のように出てくると、空気が変わる。学習意欲が変わってくる。高卒の採用枠が増えることで、研修を受ける高卒の社員の母数が増え、確率の低い事象が毎年起きるようになる。昔話ではなく、目の前でスターが誕生することの効果は大きい。

余談:ペーパー試験

高卒予定者向けの入社試験では、10数年前から、理数のペーパー試験を課していない。

なぜペーパー試験をできないのか。それは、分数の掛け算、割り算も全然できない事実を目にすると、採用意欲が殺がれてしまうからだ。「こんなの、採用したくない」「でも、採用するしかない」「技術者枠だぞ。いくら何でも」「じゃあ採用ゼロでいいのか!」この板挟みで苦しい。それで、ペーパー試験をなくした。

私の頃は、漢字テストと慣用句、ことわざのテストをしていたが、それも次第に結果が悲惨になってきて、今はやめてしまったそうだ。社内文書に頻出する漢字や言葉がわからないのでは困る。困るのだが、採用しないといけない。採用を決めてから、漢字の勉強をしてもらう方針に切り替えた。

「頭のデキ」の分布は今も昔も変わらないと思う。だが、成績下位層の家庭学習の時間は、70年代との比較で大きく減少している(様々な調査が同じ結果を示している)。それでペーパー試験がなくなってしまったのだろう。

で、ペーパー試験を課さない会社、課すけど悲惨な点数でも採用する会社が増えていくと、高校生はますます勉強しなくなる。ドラマを見ていてもそう。就職を目指す人は頭を下げるばかりで、勉強をしない。昔の映画だと、就職試験のために勉強する描写があったりするのだが……。

余談:大学院進学率

工学部とかだと、院へ進学する人が増えすぎて、高卒と大卒の間で起きたことが、再現されているような感じだ。これをまた教育の再分配が云々といって、みんな院へ進学させる方向へ進んで、何かいいことがあるかというと、何もないだろう。

過去の大卒と現在の院卒に能力の差はない。が、過去の「優秀な大卒」と同等の人を採用しようと思ったら、院卒から選ぶのが無難。完璧な入社試験など存在しない。期待外れはいつだってある。院卒がみな優秀なわけはない。だが、より確実なのは院卒。不景気で人余りだから、「研究・開発系の技術者は院卒しか採用しない」という方針でも、人手不足にならない。

しかも、2年間の学費も、就業年数の短縮も、企業側は全く負担しない。ここに企業のタダ乗りの構造が生まれ、局所的な合理化の積み重ねによって学歴インフレという壮大な無駄が、再び起きているわけだ。

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