趣味Web 小説 2011-11-30

加野瀬さんの「逆張り」説に反論する

1.

「そういう意味ではない」のはわかっているが、「私が書いたら、fujiponさんの記事とはかなり趣きの異なるものになるはずだ」と思って、カチーンときた。それで、岩崎夏海さんの質問に回答します(約1.3万字)(2011-10-23)を書いた。もともと書きたい内容はあったけど、長い記事になるのは目に見えていた。「面倒くさいしパスしようか……」と思っていたときにFTTHさんのコメントが目に入り、重い腰を上げたわけだ。

2.

前項のFTTHさんのコメントからの派生で、加野瀬さんが私の名前を出している。

既に何度も書いてきたことだが、加野瀬さんは納得されていないようなので、以下、再論する。

3.

私が書くのは、次のような記事だ。

  1. 自分が関心を持っている分野の記事
  2. 自分が書きやすいジャンルの記事(補記:書くことへの障害・コストが少ない)
  3. 自分の視界の中で主流となっていない意見を述べる記事(注:その多くは「枝葉」の部分に少し特徴があるだけで「幹」の部分は主流派と同根)

私の主張を「無理なロジック」と思うのは加野瀬さんの解釈であって、私は「自分が正しいと思うことを素直に書いている」だけだ。正しい意見が目立たない現状への不満が、基本的な執筆の動機となっている。自分が100%賛同できる意見が既に存在するなら、わざわざ書かない。文章を書くのは、とても面倒なこと。だから、読んで満足したら、それでおしまい。

私は、自分が関心を持っていて、小さな労力で文章を書けて、「正論」がないがしろにされている(or大切なことがいくつか抜けている)テーマについてだけ、書く。とくに付け加えたい意見がなければ、私は何も書かないので、ブログの読者が私を「天邪鬼=多数意見に必ず反発する性格の人」と感じても無理はない。

私は(経験的に、そういった方が話を聞いてもらいやすいから)「天邪鬼のいうことだと思って聞いてください」と最初に断ったり、少数派体質を自称したりしているが、本心では自分が天邪鬼だとは思っていない。たいていの話題について、私は多数意見に賛成しているからだ。「みんな」と意見が同じときは黙っていて、意見が違うときだけ口を開くから、ブロガーとしては天邪鬼に見えるだけ。私が特異だとすれば、その1点。

具体例をいくつか

著作権法違反を指摘するにしても、私はマジコン需要の背景にあるゲームソフトの違法なアップロードへの批判などは書かない。既に優れた記事が多数あり、屋上屋を架す意欲はない。だが、壁紙スレまとめ記事など、何百人もはてブをしていながら、誰一人「著作者への名誉の分配」と「対価の支払い」の欠如を批判しない事例については、「おかしいじゃないか」と書く。私が書くしかないからだ。

tumblrについても、当初は無断転載への批判が多かったので、しばらくスルーしていた。だが、次第にtumblrで横行する無断転載を受容する空気が広まり、無断転載に怒る側が「神経質」などと反発される時代が到来したので、私はtumblrユーザーの安直な著作権無視を強く批判するようになった。「みんなやってる」なんて理由で安直に無断転載をする人々は許せない。「このコンテンツは、どうしても無断転載しなければならぬ」という確信、信念があるときに限って法を踏み越えるべきだ。

転載許可の出ている記事をスクラップするYahoo!ブログの機能を叩いたネット世論が、どうして転載許可のない記事を勝手に転載するtumblrに優しいのか、私にはサッパリわからない。Yahoo!ブログのときは「多くの人にスクラップされたくて他人の記事を盗む人が必ず登場する」「実際に登場している」ということが、批判の理由となっていた。だったらなおさらtumblrはヤバイ。無断転載をせず、オリジナルのコンテンツだけで大人気になっているtumblrなんて、滅多にない。それなのに、Yahoo!ブログ批判と比べて、tumblr批判は私の視界の中で存在感がない。私が書いても注目されるかどうかはわからないが、とにかく私もtumblr批判を書かねばならぬと思って、いくつか書いた。

Togetterも、Twitter APIの利用規約に違反していて、本当はAPIを利用できず、したがってツイートの転載が許されないはずのサービスなのに、大人気になっている。利用規約を守ることがツイートを権利者に断りなく再利用できるための条件なのに、利用規約を踏みにじる人やサービスが多すぎる。私はそうした状況に深く憤り、かなりの手間をかけて、大勢に読まれそうな形で批判記事を書いた。

4.

私はそもそも、加野瀬さんらが、岩崎夏海さんを「ハックルさん」と呼ぶことを、きわめて不愉快に思っていた。私の認識では、「ハックルさん」はウォッチャー視点で岩崎さんを「観察」している人々の間で流通している呼称。私を「トクボン」だの「トクヤス」だのいう人と一緒。公の場で「ハックルさん」などと書くのは、礼を失した態度であり、倫理的に間違っている。

見解の相違と、ある「場」における常識と異端の差異に過ぎないのに、少数派に対して多数派が侮蔑の感情を露わにして少しも恥じるところがない状況こそが問題。自信家は悪じゃないが、自信家を公然と侮蔑するのは悪。「その自信には根拠がない」という指摘は、相手に敬意を払うことと両立するはずです。

こう考えている私は、加野瀬さんの気にくわないのなら、あいつ気にくわない!とだけ言えばいいのに、正論を持ってくるのが格好悪いという発言に、首を傾げた。「ムカつく相手を罵倒していい雰囲気」を作るために「正しい本旨」を持ち出しているのは岩崎さんを叩いている側の人々ではないか、と思ったのだ。

それとも、加野瀬さんは、はてブとかで、ただただ空気に乗っかって何ら理由を述べず岩崎さんへの侮蔑感情を開陳するだけの人々を「カッコいい」と思い、あれこれ理由を述べた上で岩崎さんをキチガイと呼ぶ人々を「格好悪い」と認識しているのだろうか。私には、そうは思えないのだが。

あえて「わかりやすさ」優先で踏み込んだ表現をしてみる

以下は、「私には、そうは思えない」という推察が当たっていることを前提とした話なので、注意していただきたいが、加野瀬さんの主張を私なりに整理すると、次のようになる。

加野瀬さんは自分の都合でダブルスタンダードを押し付けている。正論に反論できないから、イメージ操作で対抗しているわけだ。意識的にズルをしているとは思わない。加野瀬さんの中で、整理がついていない部分なのだと思う。

5.

加野瀬さんがコメントしていた記事の本題についても、少しだけ。

批判が集中すること自体は、問題視しない。だが、その批判の中に暴言や侮蔑感情の発露などが含まれていることが問題だ。

かつて私は、暴言を吐く人は、多数派の地位に安住してリミッターを解除しているのだと思っていたが、よくよく観察してみると、そうではなかった。暴言を吐く人の多くは、自分が多数派でも少数派でも関係なく、賛成できない主張に対して暴言で返しているのだった。

「総つっこみ」の状態になると、暴言がたくさんまとまる。私個人の受け手としての感覚を書けば、暴言を吐いている人が明らかに少数派なら「許せる」が、たくさんあると、とてもつらく感じる。数の暴力をひしひしと感じる。「少数派なら暴言を吐いてもよい」という主張には反対だが、体験的に、「自分たちが多数派であるときは、いっそう言葉に気をつけるべき」と私は考えている。

外野から徒党を組んでいるように見えるのに、当の言及者が徒党を組んでいる意図がない、徒党を組んでいるように見えることを意識していない、というのは不自然だとは思いますが。被言及者側からは「いじめ」に見える可能性があったとしてもそれを考慮しない、というのは酷い話です。

私はK2Daさんの、この感覚に共感します。批判をするのはよいのですが、「総つっこみ」の状況を把握したならば、ふだん以上に言葉を慎み、数の暴力に加担しないよう気を付けるべき。賛成できない意見には「私は賛成しません」とだけ書いて、嘲笑などすべきでない。いつだって嘲笑などすべきでないが、自分が多数派であるときには、多数の嘲笑が生み出す暴力に対して、とくに自覚的であってほしい。

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