回答してみます。きちんと根拠を挙げる手間を惜しんでいるにもかかわらず、かなりの長文になりました。(追記:余談を3000字ほど削ったので、現在は約1万字となっております)
- 何でぼくのことを承認欲求の強い人間だと思うの?
私は、岩崎さんは承認欲求の強い方だと思っています。
大多数の方は、多かれ少なかれ他者に認められたいという気持ちを持っているでしょう。私もそうです。けれども、私は多くの場合「私の実力をもっと認めるべき」とストレートにはいうことを避けます。その理由は、私の周辺では、そうした自分の欲望に忠実な言葉は、嘲笑や侮蔑を引き寄せる力が強く、結果的にプライドを傷つけられる結果を招くことを、経験的に思い知っているからです。
世界全体でどうなのかは、わかりません。しかし、私はこれまで、そうした環境に身をおいてきました。そして、そこから出たいとは思っていません。承認欲求の露出に厳しく当たる文化について、私は批判的です。ところが、私は「公言する自己評価が100で実力が90の人」を嫌い、「公言する自己評価が50で実力が60の人」の方を好みます。私はこの情動をコントロールし、せめて表に出さないようにしたいのですが、いつまで経ってもできないままです。
つまり私自身、現時点では、自分が批判し、憎んでさえいる状況を構成している、張本人なのです。本当に承認欲求に寛容な社会へ行けば、私は自分の醜悪さを日々突きつけられることになります。それは耐え難い。私がやるよりずっとひどい承認欲求ヘイトが横行している環境に身をおけばこそ、私は自分を「相対的にマシな人格の持ち主」だと思って自尊心を保てるのです。
さて、はてなダイアリー(の閲覧数上位5%)も、はてなブックマークも、Twitterの一部の方面も、承認欲求ヘイトが目立つ場だと私は認識しています。あえてそのような環境に身をおいて、「もっと私を認めるべき」といった主張をしたら、嘲笑や侮蔑が降り注ぎます。私なら、とても傷付きます。
初めてのことならば、結果を予想できなかったとしても仕方ありません。しかし岩崎さんは、何度も同じことを繰り返されています。その行動を素直に解釈すれば、岩崎さんは「嘲笑・侮蔑欲求」の持ち主ということになります。それもありえない話ではありませんが、可能性は低いと私は思います。とくに根拠はありません。根拠はないけど、岩崎さんが嘲笑・侮蔑欲求を満たすために「もっと私を認めるべき」という趣旨の記事を書いていらっしゃるのではないと思う。
ならばその意図は何か。私はやっぱり、言葉通りの意図なのではないかと思う。正面突破で突き抜けてこそ得られる、巨大なカタルシスを希求されているのだ、と。もしそれが実現できたなら、とてもカッコいい。
くだらない連中に対して、彼らの気分を害しないよう気を配って、嫌味のない自己演出を破綻なくやり抜き、そうまでしてようやく「岩崎はなかなか凄いヤツだ。認めてやろう」と上から目線で下される審判に一喜一憂するなど、卑小な態度です。私だって、それはわかっています。でも、私は、そうでもしなければ私が他人から誉められるなど不可能なのだと諦めています。だから屈するのです。
私は「大きな承認」までは求めていないのでしょう。「ささやかな承認」で十分。だから卑屈になるのです。これに対して、岩崎さんは、どうしても大きな承認がほしいのではないか。だから、あえて近視眼的には損な、茨の道を歩んでいらっしゃるのではないか。
私が「岩崎さんは承認欲求の強い方だと思う」理由は、以上です。
- 何でぼくがブックマークのためにブログを書いてると思うの?
私は、岩崎さんがはてなブックマークをたくさん獲得すること自体を主目的としてブログを書いているとは思いません。
岩崎さんの記事一覧を眺めるに、はてブ受けをとくに考慮していないように思える記事が、少なからずあるように見えます。
書きたいことを書くのが基本線で、ときどき出てくる「これは、いろいろ工夫をして、なるべく多くの人に届けたい内容だな」という記事についてだけ、本旨を曲げない範囲内でタイトルや記事の構成をはてブ向きに調整しているのではないか。この場合、はてブは自分の記事を宣伝するためのツールとして利用されているわけです。
いくらでも暇があり、自分の中に無尽蔵のアイデアがあるなら、毎日凄い記事を更新し続ければいい。安定的に閲覧者数が1日10万人を超えるレベルになれば、はてブ対策など空しくなるというもの。けれども通常、それは不可能。ならば、これぞという記事だけはてブ向け調整を施すのは費用対効果の高い策だと思う。
岩崎さんの場合、はてなにはアンチがうようよしているので、はてブ以外のルートで「狙って一時的にアクセスを万単位で増やす」方法があるなら、そっちを使いたいはず。Twitterで受けるのは時事ネタということはわかっていますが、記事をどう調整したらTwitterで広まりやすくなるのかについては、はてブほど知見がまとまっていません。「多くの方に読んでほしい→はてブ向け調整」となるのは、消極的な選択では?
自分と異なる価値観に基づく記事が話題になっている状況に出くわしたとき、「これは釣り」ということにすると安心できる人がいます。これはTwitterでもはてブでも同じ。まあ、本当に「釣り」ということもあるのだろうけれど、安直に決め付け過ぎと感じることが間々あります。
で、「はてなブックマークをたくさん獲得することを主目的としてブログを書いている」なんてのも、同じような話だと思っています。そんなわけあるか、と。「釣り」と同様、嘲笑と侮蔑が横溢するはてブをたくさん獲得することに何のメリットがあるというのでしょうか。それなのに、「はてブ乞食」などといって何か説明がついたような気がして安心するという、その感覚の方が不思議。
「得体の知れないものに向き合ったとき、その名前がわかっただけで気持ちが落ち着いてくる」という心理があるそうなので、これらもそのひとつの形なのだろうと思います。
前述の通り、記事のはてブ向け調整は、閲覧者を一時的に増やすための工夫だと、私は解釈しています。自分の記事は大勢にとって読む価値があると信じるからそういうことをしているのだと考えるのが自然ではないですか? 他にもいろいろ考えはあるのかもしれないし、たしかに真実はわからないのだけれど、「釣り」だの「はてブ乞食」だのといった理由付けで腑に落ちるような人々には同調し難いです。
- なぜぼくの悪いところだけを取りあげて良いところを見ようとしないの?
ネガティブなタグとかつけずに、無言でブクマしている人は、よいところを見ている人だと思う。とりあえず、無言の反応の半分以上が(どちらかといえば)肯定寄りの反応なのだと思って見直すと、気持ちが落ち着いてきます。
私自身がそうなのだけれども、何かの感想を口にするのは、面倒くさい。そして、面倒を乗り越えるための閾値を超えるのは、私の場合はたいてい「これは気に食わない」というケースです。私の母は料理が上手でしたが、おいしいごはんを食べても、私は滅多に「おいしい」といいませんでした。喋るのがとにかく億劫。そんな私でも、たまにちょっとまずい料理が出てくると、即座に「これはまずい」といいました。
自分の体験がそのまま他人に当てはまるとは思いませんが、私は「無言は肯定」とみなすようにしています。
人の心は、10回ほめられたことよりも1回けなされたことの方が印象に残るようにできている、という話を、いろいろな人から何度も聞かされてきました。本当にそうなのかどうかはわかりませんが、私の体験には、よく当てはまっているように思います。
そして、自分にはそういうバイアスがあるのだとよくよく自覚しつつ、「たくさん否定された」と思っていた自分の記事のはてブを見直してみると、案外、「無言」のブクマが多いことに気付きます。無言でもタグがネガティブなら否定なのでしょうが、価値中立的なタグばかりなら、これも「無言の肯定」と解釈したい。すると、「プチ炎上していたという認識の記事でさえ、こんなにも肯定的な反応が多かったのか」と、蒙が啓かれる思いがしました。
岩崎さんの記事のはてブも、よくよく観察してみると「無言の肯定」が真の多数派であることが多い(注:非公開ブックマークは無言の肯定とみなす)。さらにいえば、「有言の肯定」すら、スターの数や文字数では負けていても、人数では意外に「否定」側の1/3を超えているケースだってあるのでした。
もちろん、無言を全て「肯定」と仮定するのは乱暴です。でも、はてブするのは閲覧者の5%未満、その3割が非公開、4割が無言、コメントするのは残りの3割程度。はてブのコメントは、きわめて少人数の、しかも偏ったサンプルです。その他大勢の物言わぬ閲覧者の内訳を、この僅かなサンプルをもとに推測するのは、とても妥当とはいえないと私は思います。
私が「ふつう」でないことは重々承知していますが、私の狭い経験と、拙い観察眼から(ロクな根拠もなしに)蛮勇を奮って目安を示すと、無言の読者の2/3は「肯定」か「どちらかといえば肯定」と思っていい……というか、そう思ってだいたい問題にならない、のではないかと。
- カエサルは「人間は自分が見たいと思う現実しか見ない」と言ったけどそれについてどう思うの?
カエサルの言葉は正しいので、まず自分自身がよくよく気をつけなければならないと思っています。が、「思っているだけ」が実態ですね、私の場合は。
- なぜぼくのことを偉そうと批判する人ほど偉そうなの?
他人の態度を「偉そう」と批判しない人の中にも、ものすごく「偉そう」な態度をとる人はたくさんいます。ぼくのことを偉そうと批判する人ほど
という認識の妥当性は、保留したい。
あと、私がよくやらかす認識ミスとして、「自分の記事に対して否定的な人々をひとつの人格として処理してしまう」というものがあります。
岩崎さんが同じ間違いをしているという確証はありません。でも、岩崎さんに対して明確に「偉そう」という批判をしている人は、それほど多くありません。「ぼくのことを偉そうと批判する人ほど偉そう」と傾向を論じられるほどにはサンプルが揃っていないように見えます。
自説を肯定・補強する側の態度の大きさはあまり気にならないが、否定する側が「偉そう」なのはムカついて仕方ない、という経路もありますね。これは岩崎さんにも、批判者の側にも当てはまると思います。
経験的には、批判として「偉そう」という人の少なからず、やっぱりそれなりに自分自身は言葉を慎んでいます。
これに対して、素朴な感情の発露として「偉そうなのがムカつく」と書いている人たちは、別に改善を求めているわけじゃなくて、お互いに「お前の偉そうな態度はムカつくな!」「全くだ!」と言い合う殺伐とした空気こそ居心地がいいと考えているような……。
だから、「ムカつく」派に向かって「まず自分の態度をどうにかしろ」といっても「はぁ?」という反応になってしまう。批判派と「ムカつく」派を一緒くたにすると、話がこじれます。
- ブーメランって言葉を知っているの?
他人にぶつけた批判が、後に自分自身を攻撃することを、ネットスラングで「ブーメラン」といいます。Q6に登場する「ブーメラン」は、この意味でしょう。
知ってはいるけど、「一般人」の自分たちには無関係だと思っているんじゃないかな。で、自分たちと同じようなことを、「読者の多いブログの書き手」や「ベストセラー作家」がやると、叩く。「立場が違うので、切り分けは正当」という発想なのだろう。
私程度ですら、Twitterで無根拠な非難をする人に抗議すると「一般人のつぶやきなんだからいいでしょ」という意味の対応をされることがあります。情報伝播力の大小によらず、無根拠な非難などやっていいはずがないのだけれど。(最近の例:私の抗議とkimukou_26さんの対応/その後、kimukou_26さんは私をblock)
ついでに書く。私が最近プッツンきたのは、elm200のツイートが誤読の連鎖を生んでいるのを見てご説明申し上げたら、サクッとblockされたこと。脱力して日が開いてしまったが、今日になって誤解の連鎖の方にも抗議した。
誰しも早とちりや誤解はするだろう。臆断を完全に避けたら何もいえなくなる。それはわかる。けれども、書き手に「それはこういうことですよ。本文中にあなたの質問への回答は全てありますよ」と説明されてblockという対応は何なのだろう。とくにelm200は、「個人の感想です」を盾に無体な非難をたくさん受けてきた人じゃないか。そういう人さえこういう対応をするのでは、カジュアルな誹謗中傷は永遠になくならぬ。
- なぜぼくのことを『ソーシャルネットワーク』に出ていたマーク・ザッカーバーグみたいだと思うの?
映画『ソーシャルネットワーク』が描くザッカーバーグさんは、「コミュニケーションに難があって、人格面で尊敬されない人」という人物設定になっていました。劇中のザッカーバークさんは、多くの観客が「おいおい」「それじゃダメだろ……」と突っ込みたくなる言動を繰り返し、観客の予想通り、人間関係で失敗していくわけです。その彼がSNSでビジネス的に成功していく逆説が面白い。
そこから転じて、ネットの一部において「ザッカーバーグさん」は「社会的には成功しているけれども人間的には言動に難がある人」の代名詞になっています。それゆえ、ネットの一部においては、とくに説明なく「ザッカーバーグみたいな人」というとき、ザッカーバーグさんのパーソナリティーの大部分が捨象され、コミュニケーション不全(だけ)が想起されるようです。
岩崎さんを「ザッカーバーグみたい」と評する人は、岩崎さんの言動を「おかしい」と思う自分が「常識」「ふつう」の側にいると、直感的に確信しているのでしょうね。
所詮、「常識」も「ふつう」も、「場」の設定次第です。はてなブックマークでコメントしたりタグをつけたりしている人たち(と、その周辺)だけを観察の対象とすれば、岩崎さんを「ザッカーバーグみたい」といってもおかしくないのは事実ですが、観察・調査の枠を広げていったならば、だんだんその前提が崩れていくと私は予想しています。
私は相当にズレた人間なので、いろいろ見誤っている可能性は大……と前置きした上で書きますが、ベストセラー作家に対してまず一定の敬意を払うということをせず、のっけから侮蔑の感情をむき出しにする人々は、日本人全体を母集団とすれば、十分に異端なように感じます。そして岩崎さんの個性は、とくにその点に注目するのでもなければ、世間ではスルーされる程度のものではないでしょうか。
つまり……日本人全体から無作為にサンプルを抽出して岩崎さんの言動と、はてブの反応を見せ、強いていえばどちらがより「ヘン」か、「おかしい」かを問うた場合、岩崎さんの言動をことさらに批判する人々の方を指さす側が過半数になるのではないか。仮にそうではないとしても、はてブのコメントほど片方に偏った結果にはならないだろうと思う。
- なぜ ぼくのことをスティーブ・ジョブズのような人間だと思わないの?
- ぼくのような人間こそ「Stay hungry, Stay foolish」の体現者だと思わないの?
岩崎さんが「Stay hungry, Stay foolish」の体現者であることについては、大方の賛同が得られると思う。その点を確認した上で問い直してもなお、多くの人は岩崎さんをジョブズさんのような人だとは思わないのではないかな。少なくとも、はてブでコメントしている人の多数派は……。
なぜかというと、ジョブズさんは「Stay hungry, Stay foolish」の代名詞ではないから。それはザッカーバーグさんが「癖毛」の代名詞でないのと同じ。
つまり、癖毛の人に「ザッカーバーグさんみたいだね」というのは決して間違いではないのだけれども、一般的には「ザッカーバーグみたいな人」と聞いて「んー、癖毛ってこと?」と思う人はほとんどいない。同様に、「Stay hungry, Stay foolish」の体現者を「ジョブズさんみたい」といっても間違いではないけれど、一般的には、とくに説明なく「ジョブズさんのような人」といったら、「革新的な製品を世に送り出して私たちの生活を変えた人」を想起するんじゃないかな。
そんなわけで私は、岩崎さんが「Stay hungry, Stay foolish」を体現していることを理由として自分をジョブズになぞらえることを「おかしい」とは思いません。でも、はてブでコメントしている人々が岩崎さんを「ジョブズみたい」と評さないことにも、疑問はありません。
- なぜぼくのことを語る時に「ベストセラー作家」とか「もしドラ」とかの枕詞をつけるの?
いくつか理由があると思う。
はてブや2ちゃんねるなどでは、何らかの「切断」をする手続きが行われることがよくあります。切断された相手は、自説を「常識」「ふつう」の側に位置付けることを拒否され、言論空間で主導権を取ることが難しくなります。
切断は必ず成功するわけではなく、その「場」に集う人々の中の相当数が同意せず、「それは言い過ぎ」「俺らも同じ」「じゃあどうして**は気にしないの?」となって鎮火することもあります。
ウェブのあちこちで行われている言い争いの少なからずは、双方とも相手の意見を聞く気がない。客観的にはロクな根拠がないとしても、自分にとっては相手の主張が間違っていることは自明なので……。本当は相手にも自分と同じ見解に至ってもらいたいのだけれども、それは無理ということになれば、味方を増やすことが現実的な目標になります。切断に使われる事柄は議論の内容とは関係ないことが珍しくないけれども、うまくはまれば相手方の言論を支持しにくい空気を作れる強力な手段です。
で、「ベストセラー作家」というのも、まあ、そのひとつという感じがしないでもない。
弱い者を叩くのは気が引ける。この「場」においては自分が多数派に属している(はずだから自分が正しいことに確信を持っている)けれども、社会的に成功しているのは相手の方で、こっちは弱者、と規定するのは、よくある戦術。これも切断の一種。
「ベストセラー作家」が相手だから……なんて関係ないと私は思うのだけれど、そういう切断をすると、「強者が相手なら……」と心のストッパーを解放して、いいたい放題にいえるようようになるらしい。いや、そんな言い訳がなくてもいいたい放題じゃないか……という感じもしますが、切断すれば一片のやましさも感じずにすむということなんじゃないかな。
どうせ叩くなら、より強い者を叩く方が気持ちいい。
「ベストセラー作家」に何か期待があって、ベストセラー作家なのに(自分からみて)愚かな言動をする人がいるのは納得いかない、というパターンもあると思う。無名の誰かさんなら許せるけど、ベストセラー作家がこんな体たらくでは困る、と。私もこの考え方には親和的。
ただし今回の件についていえば、私自身は、岩崎さんにとくに何か問題があるようには思わない。見解の相違と、ある「場」における常識と異端の差異に過ぎないのに、少数派に対して多数派が侮蔑の感情を露わにして少しも恥じるところがない状況こそが問題。自信家は悪じゃないが、自信家を公然と侮蔑するのは悪。「その自信には根拠がない」という指摘は、相手に敬意を払うことと両立するはずです。
『もしドラ』は、一時期のケータイ小説と同様、ある方面においては「嘲笑でつながるコミュニケーション」に使える「リスクのない題材」となっています。その方面では、読まずに批判しても、誰からも怒られない。大川隆法さんの霊言とかと同じ扱い。
霊言の場合、もし突っ込まれたら、歴史上の人物の霊を呼びだして云々という部分を批判することで、その内容に触れずに全否定できるわけです。最終的には勝てるという安心感からか、面白おかしく抽出された部分を目にしただけで、実際に本文にあたることもせず、気楽にくさす人がたくさんいます。
『もしドラ』も既に散々批判がなされていて、そっち側が「常識」と考える人々は、読まずにくさすことに何ら不安を感じていない。
転じて、あの『もしドラ』の作者、と岩崎さんを紹介すれば、ごちゃごちゃ説明することなしに「まともな人からは総スカンを食っている本の作者なので、この人のいうことには耳を傾けない方がいいですよ」という牽制になります。先入観なしに触れたら岩崎さんに同調する人の一部を、「こちら側」に引き止める効果が見込めます。(一部、です。全員、なんて期待は最初からない)
岩崎夏海さんを知らない読者への配慮。「『もしドラ』の作者」と紹介すると、『もしドラ』という名前を聞いたことがある人は、たぶん興味を持ってくれる。『もしドラ』といわれても「???」な人に対しては、「ベストセラー作家」と補足すると、やっぱり興味を持ってくれる。まるで魔法のような紹介の言葉。
でも不思議だよね。『もしドラ』という名前だけ知っていて、その概要も評判も知らない人の場合、「『もしドラ』の作者」といわれたって、何のイメージもわかないはずでしょ。「ベストセラー作家」も無内容な言葉に思える。ところが実際には、こうした説明をするだけで、「へー、じゃあその岩崎夏海さんっていう人についての話、聞いてみようかな」という空気になる。「ベストセラー作家」に対して、漠然と関心を持っている人って、意外と多いみたいなんだな。もちろん、全員じゃないよ。徹底して「どうでもいい」という人も多い。
私は今回、記事の冒頭では、岩崎さんについて、とくに何も紹介していない。それは、この記事が、岩崎さんではなく私に関心を持って「約1.3万字を読み通してやろう」という人に向けて書かれているから。話が何度も余談に流れるのも、同じ理由。岩崎さんへの関心で読者を引っ張るつもりはないので、こんな構成にしている。
- ぼくは本を出す前も出した後も変わってないのになぜ「ベストセラー作家になると偉くなって」というふうにイメージをねじ曲げようとするの?
そういうことをいう人の過半は、単純に、過去を知らず、また知ろうともせずに、「ベストセラー作家になったからこんなに偉そうなのだ」と早合点して、そういうことを書いているのではないか。
ところで、「何でも十全に調べてから書くべき」というのも無理があると、私は思います。しかし、とりあえずは憶測で書くとしても、そのことに後ろめたさは持ち続けるべきではないでしょうか。人を不愉快にさせておいて開き直る人にはなりたくない。抗議や指摘を受け、その内容に納得したなら、訂正の労を厭うのは無責任だと思う。膨大な過去ログを訂正しきれないことはあっても、それを全肯定するのは違う。
あるいは、「ベストセラー作家」になったのに、以前と同様の態度なのがダメ、という発想もあるかな……。
ブログやTwitterでも読者が増えると、次第に「もっと自重しろ」という圧力が高まってきます。零細ブログなら許されたモノの言い方がいちいち咎められたりするようになる。社会的な成功者ほど、言動を慎まないと「偉そうにするな」という批判を受けやすい。
社会的な成功者は、存在自体が「偉そう」。なので、「偉そう」の土台が盛られている分、言動の方で調整しないと、周囲から見た「偉そう」の度合いが上昇してしまう。ゆえに、言動が以前と変わらないのでは、「ベストセラー作家になったと思って天狗になりやがって」という反応を招く。
もっと「偉そう」のレベルが上がると、言動にどれほど気をつけても言い掛かりがつくようになるのだけれど、岩崎さんはまだそこまではいっていないと思う。
- なぜ「終わってる」という言葉で全てを説明できている気になれるの?
- ぼくはもう三年も前からここで「終わっている」と言われ続けていることについてはどう思うの?
- あるいは子供の時から「お前は絶対成功しない」と言われ続けていることについてはどう思うの?
- 「終わり」って三年も(あるいは四十三年も)「続く」ものなの?
- ぼくのことをすごいとは思わないの?
はてブでコメントした人らであっても、岩崎さんがベストセラー作家になったことについては、「すごい」と思っている人が大多数ではないかな。でも、はてブとかには、「自分が逆立ちしてもかなわない強みのある人が相手でも、欠点(だと自分が思うことについて)は容赦なく叩いていい」という価値観の持ち主が集まっているわけで。
あと、肯定は、基本的に無言。もっといえば、肯定は無反応。自分自身の言動を振り返ってみて、強くそう思う。「いいな」を思った記事は、基本的にスルー。ブクマさえしないことが大半。いいねボタンも、Likeボタンも、私は滅多に押さない。無言ブクマや無反応(ページビューだけが増える)を肯定と解釈できないと、ネットはあまり楽しくならないと思う。
はてブのコメントや2ちゃんねるとかで「すごい」といわれるのは、難しい。そういう場所でリクエストをしても、「(ある意味)すごい」みたいな反応が主になるのは、残念ながら致し方ないところだとは思う。現状を素晴らしいとは思えないが、いいねボタンを押すことすら億劫な私が抱く、いろいろな記事に対する肯定の気持ちを計測する手段が、思いつかない。
- ぼくを本物だとは思わないの?
「本物じゃない」という批判は、昔からいろいろな場面で見かけますね……。口の達者な人に受けない作品や、その作者は、大抵そういうことをいわれるんですよ。「こんなのは映画じゃない」とか、「こんなのは小説じゃない」とか。で、「本物の映画監督じゃない」「本物の作家とはいえない」と続いたりする。
ようは「私(たち)の趣味じゃない」ということ。自分(たち)のおめがねにかなうのが「本物」で、そうでないのが「偽物」。
- ぼくの本を読みもしないで批判するのは卑怯だと思わないの?
コミュニティには分業の利益がある。誰かが読んで「この作品は読むに値しない」と判断し、その判断をみなで共有する。そういうのを「卑怯」と批判するのは的外れだと思う。
これは会社と同じ。個々の社員が全てを直接見聞きしているわけではない。報告書や、たくさんの報告書をまとめた資料を信頼して判断する。その判断を、組織全体で共有する。あるいは、JISのようなもの。中小企業は自社で検証して独自基準を作るのが非現実的だから、JISを信頼すると決める。
はてブでコメントする層においては、岩崎さんの著書は「ダメ」という結論が共有されている。全員が岩崎さんの著書を読んだわけではない。しかし、実際に岩崎さんの著書を読んで、いろいろな根拠を挙げて「ダメ」と判断した書評が、はてブのコミュニティで信認を得た。それで、「自分は読んでいないが、岩崎さんの著書を評価しない側に自分はコミットするぞ」と。
とはいえ、信頼できるレビュアーに判断を任せるまではよいとしても、伝聞情報だけでネガキャンまがいのことまでするのは、やり過ぎかもしれない。「ネガキャンまがい」の程度の問題が絡んでくるので、一概にはいえないが……。
それでも、はてブのコメント一覧を眺めてみれば、それに該当する可能性のあるコメントは、実際には少数派。それも、かなりの少数派。
Q5への回答に書いたことの繰り返しになるけれど、大勢からいろいろな攻撃を受けると、自分を否定する人々の人格をひとつに統合して認識してしまいがちなのです。50人がネガティブな反応をしており、うち3人が自分では読んでいない本のネガキャンをしているというのが客観的事実なのに、50人全員が読まずに著書を叩いていると錯覚してしまう。でも、その錯覚に基づいて50人に抗議しても、47人は困惑するだけです。
さらに厄介なのは、こういうとき、ネガティブな反応をしている人々にも次第に緩やかな連帯感が生じること。はてブで自然発生したアンチが、いつの間にかネガティブな話題で盛り上がるサブコミュニティを形成していく。
- 卑怯者だと罵倒されて悔しくないの?
自分が卑怯とは思えないことで「卑怯だ」といわれても、悔しくはない。大勢にいわれたら悔しいが、それは「周囲からの疎外」や「わかってもらえない」ことが悔しいのであって、卑怯を自覚していることを指摘されたとき(あるいは指摘を受けて自分の卑怯さに気付いたとき)の悔しさとは全く別物。
そんなわけで、岩崎さんに卑怯といわれても、岩崎さんの本を読まずに否定している方々は「悔しい」とは思わないでしょう。