30年で大地震の確率は87%・・浜岡停止の最大の理由だ。確率計算のプロセスは不明だが、あえて単純計算すると、この1年で起こる確率は2.9%、この一カ月の確率は0.2%だ。原発停止の様々な社会経済的コストを試算するために1カ月かけても、その間に地震が起こる確率は極めて低いはずだ。
今月を振り返って、いちばん面白かったのはこの話題かな。
この話題をご存じなかった方は、できればリンクした順に読んでいただきたい。
私はどうだったかというと、まず「概算なんだから竹中さんの発想でいいんじゃないの」と思ったんだけど、あまりにも批判がすごいので、だんだん自信がなくなってきてしまった。ときどき「完全に間違った批判」もあって、これは違うよな、と冷静さを取り戻したつもりでいて、実際はそうではなかった。
「ポアソン分布」には、閉口させられた。見覚えはあるけど、もう私が忘れた言葉。いまさら復習する気にもなれず、「なんか怖いから黙っていよう」が結論。
その後、oxonさんの記事が出て、「うん、私もこういうことがいいたかったんだ」と思ったんだけど、よく考えてみると、「そりゃウソだろう」と。本当に「こういうことがいいたかった」なら自信がなくなるわけがない。ようは、私自身はいつも「一定期間内に一定以下の回数しか起きないと予想されていること」について、とりあえず竹中さんのように概算していたから、それを否定されてムッとしただけなんだよな。
さて、oxonさんの記事を読んでから半月経った。今はまだ、「概算なんだからこれでいいの」ということと、リンク先に頻出しているタイプの批判について「それは違うよ」と説明することが、自分の力でできる。でも1年後はどうだろう。10年後は? いまいち、自信がない。
静岡県にある浜岡原発が政府の要請で操業を停止した。東海地震の発生確率が高いから、東日本大震災で福島第一原発を襲ったのと同じくらいの海嘯が来ても大丈夫なようにするための工事が完了するまでは、とりあえず停めておくのだそうな。
そもそも震度6の地震が起きても多少の海嘯がきても浜岡原発は安全。だから「大地震⇒必ず福島第一原発のような事故を起こす」を前提とした意見には賛成できない(一例)。過去、大地震が常に大きな海嘯を伴っていたわけではない。東日本大震災の海嘯も、地震の規模や震源地から必然的に想定される大きさではなく、いくつかの条件が重なった結果、これほどの規模になったという。
稀に起きることが実際に現実となると、「今後はそれを想定して……」という話になる。そうして過剰品質になってしまう。「いや、原発事故なんてのは絶対に起きてはいけないのだから、1000年に1度だろうと1万年に1度だろうと、起き得る災害には全て備えるべき」というのが反対意見かな。でも隕石の衝突を持ち出すと「極論だ」といわれたので、その間に線引きがあるのだろう。
浜岡で現在の海嘯対策では足りない海嘯が来るのって、どれくらいの確率なんだろう。宮城のあたりでは、地面を掘って地層を調べてみたら1000年くらい前に今回と同等の海嘯が来たことがわかったというが、静岡県で同じような話は聞かないな。ともかく私は、東海地震が今すぐ起きても、よほど運が悪くない限り、とくにどうということはないだろうと思っている。「だろう」じゃ困るんだ、という人とは会話にならない。価値観・人生観の違いだな。
仕方ないので、世間話で原発の話題が出ても、私は黙っていることにしている。
「印象操作だ」と思う人はいてもおかしくないが、これは対数グラフで表現するのが妥当なデータ。少なくとも捏造ではないな。あと、私のグラフの読み方では、3月の放射性物質の降下量は、過去の最大値と比較して10倍の差がない。4月には過去の最大値より低くなっている。今後もグラフは右肩下がりだろう。
とすると、2011年単年では過去最悪の数字になることは間違いないとしても、3〜5年で区切れば、高い水準の放射性物質の降下が何年も続いた時代の方が、少なくとも東京都民にとって、危険度は高かったということになるのではないか。まあ、5月の降下量が4月から横這いだったら、前提が狂ってしまうのだけれど。
また現代の東京では、降下した放射性物質の大半が下水に流れていく。面倒なのは下水処理場か。そういえば何か報道があったな……。
今夏は節電のために本気でクールビズを推進するのだという。政府が旗を振っているだけでなく、民間の関心も高いようで、新聞でもテレビでも、何度も特集が組まれている。おかげさまでアロハシャツは日本移民が考案した(らしい)という雑学はもう3〜4回も見聞きした上に、世間話にも出てきた……。たぶん、この先いろいろな人から4〜5回は同じ話を聞くことになるのだろうな、と思った。
ところで、聞き飽きた話がまた出てきたときって、どう反応するのがマシなんだろう。
ま、クールビズなんてのは制服のある会社に勤めている人間には関係ない話だな。
そういえば中高生がワイシャツなどの裾を出しているのをよく見かけるけど、いい加減、当人にとって不快な服装を強いる指導なんか諦めて、「裾を外に出す前提でデザインされたシャツを着なさい」と指導方針を転換した方がどれだけいいだろうか、と思う。
本当にその通りなら法律を変えるべき。でも「ネットで声の大きい層は、社会的には少数派で、だから法律を変える力を持っていない」と私は認識しています。やはり転載したい人は転載自由のコンテンツを探して転載するのが正しい。そうしたコンテンツが足りないなら、自分で転載自由のコンテンツを増やしていくこと。
現状、「いいじゃん」っていってる側って、表現規制に反対する人たちとか、あるいは喫煙している未成年みたいな立場・状況だと思うんだよね。断然、味方が少ないのに、自分の身の回りでは反対意見がボコボコにされているから、圧倒的に不利な状況なのに危機感がないというか……。
個人ユーザーがシンプルだが機能的な制約の多い端末を好んだ歴史はない。そうした意味では、コンシューマ市場でうまくいくかはまったくの未知数、というよりも、むしろ成功に対しては懐疑的と言わざるをえない。
Androidの成功ですっかり霞んでしまっているけれど、GoogleはChrome OSの可能性をまだ諦めてはいないらしい。次期Windowsもウェブベースのソフトウェア環境を提示するといわれているので、いまはパッとしないけれど、数年後には満開の花が開いているのだろうか。でも、個人的にはやっぱり本田さんの意見に同意。Chromebookは成功しないと思う。Linuxベースのネットブックもマニアにしか受けなかったし……。
ネット暦のそこそこ長い人には、「ダサい見た目の安心感」みたいな感覚があるように思う。
ゾッとした話題。ちなみにリンクの後ろに(はてブ)を付しているのは、リンク先記事の主張・ものの見方に私は賛同していないが、自分の考えを書くのも面倒なので、はてブで多様な意見を読んでみてほしいと思っている話題です。
とりあえず成人マークを付けて重版してみてほしい。成人マークを付けて区分陳列したら、本当に商売にならないのかどうか、実証してみてほしい。
都道府県議会や市町村議会の議事録を見る限り、日本を分割したって決断なんかできやしないと思う。市町村に十分な権限が与えられている問題、予算の都合と関係ない問題ですら、決断できていない。
この手の話題は嫌いだが、ニュー速民の自虐ネタが集積されていたので。
n+1次転載のブログがTwitterで爆発的な人気を得て、その結果、様々な批判も呼び寄せることになり、ブログの消滅に至った。
Twitterって2ちゃんねる以上に出典の記載にルーズな人が多くて気になる。日常会話感覚ということなんだろうが……。2ちゃんねるは「ひどい人たち」の集まりだと思っていたのだけれど、じつは平均値を取ると一般人よりはマシだったらしい、というあたりにグッタリ。
MSN産経の記事タイトルではよくわからないが、ようするに「被写体と構図がほぼ同じというだけでは著作権の侵害に当たるとはいえない」という判決だった。個人的には大歓迎。
事故やミスがない限りは、短期的に健康に影響が出るわけじゃないので、後世に伝えるべきは全て伝えてから最期を迎えるはず、という判断なんじゃないかな。
インフレになれば自ずと所得税や相続税などの増税が実現する。消費税の課税ベースも拡大する。だからインフレに対応した減税措置を行わないだけで、インフレは財政に好影響をもたらす、はず。
小学校というところは、ずっと時間が止まってるように見える。私が小学生だった頃と、ほとんど何も変わっていない。
リンクした記事の内容はどうでもよくて、個人的に気になっているのは、どうしてネットではアニメを話題にする人がこんなにも目立つのか、ということ(それはもちろん「私の見ている世界が偏っているから」という理由が一番大きい。それはわかっているが、しかし)。
私の場合は実写のドラマや映画を観る時間の方がずっと長いから、ネット上でみんなの感想や意見や考察をまとめたサイトがあったらどんなにいいだろうと思う。
正直、アニメ番組は一人で見ているとそんなに面白いと思えないことが多い。ニコニコ動画の公式配信でコメントと一緒に視聴したり、ネットで読める感想などを下敷きにして視聴すると「どこをどう面白がったらいいのか」がようやくわかって、それで俄然興味が出てくる、みたいな感じ。
そんなのがなくても実写のドラマは楽しめているんだからそれでいいじゃないか、という話でもない。映画の場合、「ダメな映画」でもネットに出た感想文で予習してから観てみると滅法面白く思えたりすることが少なくない。素晴らしい作品も、「考えすぎ」な感想文を後で読むと、また楽しい。映画も情報ハブは存在しないけど、面白い映画評は大抵はてブ経由で読めるから、まあいいと思う。でもテレビドラマの感想は空白地帯。
そりゃGoogleで検索すれば実写ドラマの感想だっていくらでも出てくるのだけれど、あれは効率が悪すぎるよ。Twitterで検索するのはさらに非効率。2ちゃんねるを直接閲覧するよりもっとストレスがたまる。実写ドラマについても『やらおん!』みたいなサイトが切実にほしい。これまで誰もやらなかっただけで、じつは需要があると思うんですよ。
ひとつのまとめサイトというのは無理だとしても、はてブで実写ドラマの感想まとめ記事が毎回きちんと上がってくればそれでいいのだけれど。実際は全然。たまに話題になるのもドラマ単位の大雑把なやつ。やっぱり1話単位じゃないと……。
数ヶ月遅れの更新を基本とするようになって久しい。日付が追いつきそうになるとまた2〜3ヶ月休むので、いつまで経っても今日の話題を今日のうちに書いて公開する、という風にはならない。
じゃあ例えば5月23日付けの日記は本当に5月23日に書かれていて、私はそれを時間を置いて公開しているのかというと、そういう記事は1〜2割程度。大半の記事は、公開前の一週間の内に書かれている。ただ、記事の趣旨は、だいたいその日付のあたりに考えたこと。その後の状況の変化によって考えが変わった部分があっても、日付の頃に考えていたことを、そのまま書いている。
現在は非公開のはてブが私のネタ帖だけど、基本的にコメントもタグもなく、「考えたこと」は私の頭の中にしかない。
さて、私が時差更新をしている理由はいくつかある。
私は日記を書きたいのだが、実際に毎日書くのは嫌だ。書きたくなったときに、まとめて書きたい。雑誌に連載された「作家の日記」を読むと、締め切りの前日にまとめて日記を書くような作家が少なくない(意外とそのあたりは皆さん正直である)。高校時代にそういう作家の習性を知って、何だかホッとしたんだよね。
小学5年生のとき国語の宿題で「日記を書く」というのがあった。1学期の間ずっと続く大型の宿題だった。私は毎日書くのが嫌だから、週1回の提出日の前日にまとめて書いていた。でも書くことがないから、「月夜に猫が鳴いていた」なんて話を書いていたのだけれど、先生から「もし猫が鳴かなかったら、この日は日記を書かなかったのですか」みたいなツッコミが入った。私は「日記は毎朝、前日の最も印象深かったことを書いてます」と返答したのだけれど、「日記は毎日書きなさい」という指導には何の意味があったのか。
作家は締め切りがあるから仕方なく月1回とか週1回というペースで日記を書かねばならなかったけれども、私は趣味で書いているのだから、何ヶ月前の日記をまとめて書いたって問題ないはずである。書かれた内容が当時の自分の考えたことであれば、何の不都合もないんじゃなかろうか。
以上が時差更新をする最大の理由で、それ以外はオマケかな。
オマケの中で割と大きいのは、「反発の大きそうな話題はタイミングを外したい」という考え。例えば震災からの復興についての私の主張は、ちゃんとリアルタイムに書いたのに「最低2ヶ月は隠しておこう」と思った(実際5月23日の時点では未公開となっている)。当たり障りのない内容に書き換えてしまえばいいのだろうが、それでは私の日記にならないので、タイミングを外すことで注目を集めにくくしたかった。
タイミングを外せば、旬の話題を追っかけている層には見つかりにくく、しかし常連読者さんには読まれるのではないか。つまり……震災復興の記事を探している人には読んでほしくない。そういう人は私という書き手に何の思い入れもないから、「こんな奴は許せない」と思ったら、「この徳保という奴を黙らせよう」という風に考えがち。炎上ってのは、つまりそういうことでしょ。言葉と数の力で言説を叩き潰そうとする試み。でも「徳保隆夫の備忘録だから読む」という人なら、賛否はともあれ、一意見として存在を許すと思う。
勝手な甘えかもしれないし、「幸運に賭けている」だけともいえるのだけれど、ともかく私の中にはこんな考えがあるわけだ。
で、じつは下書きファイルというのを私はリンクしていて、「どうしても私が書いた文章をすぐに読みたいという人はそちらをご覧ください」ということにしている。下書きファイルはGoogleなどでは検索結果の掲載順位が低いので、一般の方が読むことはまずないだろう。また、下書きファイルはその名の通りのファイルなので、マークアップをしてないテキストが放置されて、ウェブブラウザからだと見るに堪えない状態が長く続くこともある。そんなこんなで、これまでのところ、幸運にも私の希望は実現できている。
だいたいこういうのは3項目くらい書くと「いい感じ」になる、と思っているのだけれど。
じつはこの記事はリアルタイムに書いていない。2ヶ月も書かずに放置したせいか、本来書きたかったことを忘れてしまった。誰かの記事にリンクして書き始めるというタイプの記事なら、それを何度も読み直すうちに当時の自分が考えていたことが蘇ってくるのだけれど、これはそういう記事じゃないからなぁ……。
そんなわけで、以上でおしまい。
個人的にコトリコさんの電子書籍は絶対に売れて儲かると思っていたので、以前、元手の資金が足りないかなみたいな話があったときには、「出資したい」という意思を伝えたような記憶がある。利益は1.5万円か……。もし資金を出すだけで5千円くらい配当をもらえたら、すごくいい話。獲らぬ狸の皮算用ですけど、「あー、やっぱり強引に出資しておけばよかった!」とか思ったり。実際にそうしたら、たぶん赤字になったんじゃないかとも思うわけですが(すっぱい葡萄)。
とまあ、私はカネの話ばかり思い浮かんでダメですね、この話題は。「コトリコさんが延滞している住民税はどうなったんだろう」とか、「イラストレーターの取り分は売り上げの1〜2割で限定版が2つ売れてコトリコさんの利益は1.5万円って……コトリコさんの方が利潤が少ないじゃないか」とか、そんなことばっかり気になる。あと(偶然)売れ残っている限定版の絵はどれなのか。
段ボールはけっこうコストがかかったらしい。たしかに、カット面はきれいだった。なかなか、商売をするのはたいへんだな……。いいところは「当たり前」と思われて褒められず、もっと高級な何かと比較して劣っている部分ばかり批判される。といいつつ、今回レビューで批判したのは私です。すまぬ。
ところで、レビューで書いた表裏のライナ(紙)はK5、波部はAフルート(5mm段ボール)だと思います
という推測は当たっていたようでホッとしました。
理屈のところはよくわからないので、後でまた考えることにして。
段ボールを選んだのは、物理的に一定の体積と質量と耐久性がほしかったからなのかな。個人的には名刺サイズのカードの方がよかったような気がしますが。んー、でも宣伝を考えたら段ボールの方が字面のインパクトがあってよかったのかも……。いろいろ考え出すと、段ボールで正解だったんだろうな、と思えてくる。
もし名刺サイズのカードを注文するなら、このサービスがいいと思ってる。名刺作成サービスなんだけど、絵柄作成の自由度が高いので、実際には名刺じゃないカードも作れる。またテレホンカードみたいなプラスチック薄板に印刷することも可能。1000枚刷った場合、プラスチックカラーに両面カラーのオフセット印刷をして1枚41円くらい。
2007年に紹介したときよりサービスの内容も公式サイトもすごくリッチになっていてびっくりしました。じつは最近、利用する用事がなくって……。
同じことを何回でも書く試み。
muffdivingさんは日経ベンチャーの記事をバカにしているんだけど、私は、採用する側は原則として勝手な基準で採用すればいいと思う。おかしな基準で人を採用する企業は、いずれ市場競争に敗れていくはずである。嘘をついてはいけないとか、**については必ず事前に説明しなければいけない、といった一定のルールはあった方がいいと思うが、ルール外の部分は自由でいい。
履歴書は手書きに限るとか、印影が曲がっていてはいけないとか、そういう基準で採用する会社を、観念的な批判にさらすべきではないと私は考えている。そのような批判は有害無益だと思う。なぜなら、批判する側に実証的なデータが全くないからだ。字がきれいで印影の角度がきっちりしていることと、仕事の成果に、相関がないとはいいきれない。ならば、口先の議論ではなく、市場競争で白黒つけるべきだ。
いまどき大企業ならたいてい履歴書はプリンター出力でOKになっている。印影が傾いているといって落とされるなど、まず考えられない。そうだからこそ逆に、そういう「つまらないこと」を採用の重要ポイントとする会社も存在していいはずだ。確かな根拠もないのに「時代遅れ」を攻撃して、世の中を「現代」とか「常識」の色で塗り潰すのは間違っている。
ヘンな採用基準を就職希望者の側が攻撃するのは、奇妙なことだと思う。そんな会社、入ってもいいことないに決まってるじゃないの。自分の価値観と社風がマッチしていないということでしょう。
自分の会社の人事がヘンな採用基準を打ち出したというなら、「ふざけんな。そんな基準で採用の可否を決められたら俺が困る」と思うのも理解できるけど。
例え話をしたい。自分がひどいと感じる色のペンが文具店に売られているとする。それが自社の商品なら、営業や開発に「何やってんだ。こんなのダメだろ」と注文をつけたくなる。でも買い手の立場なら、単にスルーすればいい話でしょ。世間の常識とやらがマイナーな価値観を押しつぶすような社会は嫌ですね、私は。その大前提さえ共有されていれば、「この色は私の好みではありません」というのは自由。だけどその場合、「こんな色のペンを売るのは許せない」みたいな言い方にはならないはずではないか。
リクルートスーツの慣習に不満を述べる人もちょくちょく見かける。あれも、気にしてない会社が相当に多い。学生たちが勝手に怖がっているだけだ。ちなみに私は、父親が太って着れなくなった若い頃のスーツをもらって就職活動をした。雑談風の面接だとそのスーツが話題になることがよくあって、「じつは……」と話すと感心されることが多かった。スーツが話題になった面接では落ちたことがない。
転職については経験がないので触れないが、新卒で就職を目指す学生は、自分が正しいと思うことを恐れずに貫くのがよいと思う。自分を曲げてでも入りたい会社があるというなら別だけど、数十社にエントリーシートを送るような就職活動をするなら、相手に合わせるという考え方だと自分を見失ってしまうと思う。
個人的な体験を安直に一般化していわせてもらうと、数十社から落とされ続けているとしたら、それは自分の方針がまずいのではなくて、実力より上の会社を狙っているから。適切な水準の会社を受ければ、必ず通る。そういうものだと思う。
そうして学生たちがちゃんと「自分に合った会社」を選ぶ気概を持てば、企業の方こそ、真に必要な能力以外の条件で学生を落としてしまうと、有為な人材を逃してしまうリスクが高まる現実と向き合わねばならなくなる。だが、真に必要な能力とは何か、どうやったらそうした能力のある人を選別できるのかがわからない。わからないからこそ、自由競争を維持することが重要である。
新人に組織人としての経験は問わないが、プログラミングの経験は問いたい、という話だと理解した。いまどき、趣味でプログラムを作成して世に出すのは、個人でも可能なこと。入社してからプログラマーになるつもり、なんて人材は信頼するに値しない。プログラミングに強い興味関心があり、趣味でもプログラミングをやっているような人を雇いたい、と。
なるほどな、と思う。思うけど、たいていの企業は、そんな条件で足切りをしたら必要な人員を揃えられないだろうな。ITバブルが崩壊して就職氷河期だった2001年に就職活動をした世代ですら、SPI程度の就職対策もやらないのが新卒組の過半だった。内定者の懇談会ではみな「就職活動には苦労した」と口々にいったけれど、よくよく話を聞いてみれば、企業が自分を採用したくなようにするための「まともな努力」をした人は2割にも満たず、企業の採用担当者に同情しましたね、私は。
大卒の就職率が6割だとか7割だとかいうけれど、漢字の読み書きもロクにできない学生が過半だというのに、よくそれだけ採用されているものだ。私が入社したときに新人研修の一環で漢字テストがあって、内定者には事前に出題範囲のテキストが渡されていたのに平均点が50点程度だったから、人事の人がブチ切れた。
別に、最近の若者がとくに勉強しないということではないだろう。だから、生まれた時代のせいで就職に「苦労」する若者に、一定の同情はする。だけど、むしろ何の勉強もせずに就職できる方がおかしくて、就職は厳しいくらいで当然なんじゃないのか、という気持ちもあるんだよね、正直なところ。
まあ、そういう私は不良社員なので、実際に入社希望の学生らと廊下ですれ違うと「もし自分が仕事を辞めていたら入社枠が1つ増えるのかもしれないな。何だか悪いなあ」とか思って、肩身が狭いわけですが。
就職活動で「苦労」したという人って、漢字や技術の勉強そっちのけで他人に好印象を与えるファッションとか仕草とか、こういう会話術とか、なんかそんなことばかり気を配っているような感じ。中学校の定期考査でいうと、結局、自分の好きな科目ばっかり勉強して、苦手科目は最初から捨てている、みたいな。
やっぱり、体育と家庭科だけ点数がよくても、主要科目の出来が悪けりゃ評価はイマイチじゃないかと思うのだけれど。似たような話で、よく「大学の成績は参考程度」というけれど、それは「教養科目で優を稼ぐ」みたいなのは意味ないよ的な話。電気の技術者として応募する人の回路理論演習Iが「可」ではマズい。
たいていの人は、仕事でさしたる成果を上げられない。本気で頑張ってないから、というのは気慰めで、実際には一生懸命に頑張っても特別に素晴らしい結果は得られない。そのあたりは学校のお勉強と同じ。
じゃあ学校はつまらない場所だったか。楽しかったのは休み時間と放課後だけか。そうでもない、と思うんだよね。いや、そうだった、という人もずいぶん多いだろうとは思うけど。たぶん会社もそうで、さしたる成果を上げられなくても、コツを押さえれば、それなりに生き抜いていけるようになっているのだと思う。
リンク先の記事の中の「たしかにそうだ」と思う部分と、いろいろな人から親切に教えてもらったことなどを交えて、自戒を込めて私なりに整理しておきたい。
私もそれほど実践できているわけではない。というか、私は全然できてないけど、一緒に仕事をしていて「いいなあ」と感じる同僚を見て「自分もこうありたい」と思っているだけの話も、たくさん混じっている。実際の私を知っている人が読んだら、失笑しそうだな。ま、そんなものでしょ。
この記事は、私と同様に「平均点が低い」人に向けて書いた。優秀な人、自分を信じている人には関係ない話かな。でも優秀な人だって、いつも最高の成果を出せるわけじゃない。だから、平均点が低い人の生き方も頭の片隅においておくと、コケたときパニックに陥って傷口を広げたりせずに済むかもしれない。
私は「99%の人には関係ない」に一票。それでも本当に100万人に影響するなら大したもの。
それにしても、フィリピンっていつまで(相対的に)日本より貧しいままなんだろう。昨年、台湾の1人当たり購買力平価ベースのGDPは日本を超えた。名目GDPではいまだ2倍強の差があり、なんというハンデ戦をやっているのだろう……と思うが、それはまあいい。他方、フィリピンの1人当たり購買力平価ベースのGDPは日本の1/8に満たない。1980年頃は日本の1/7くらいだったので、相対的な差が開いてしまっている。
英語圏に対して言葉の壁がないフィリピンの苦難の道程を見ると、日本で英語教育を強化したって、未来がバラ色になるわけではなさそうだ。せめて東南アジア諸国の中でフィリピンが経済的に優等生である証拠を見つけたかったのだが……。
上でちょっと書いたGDP云々は、ここで調べました。河内淳さんが趣味で作っているサイトだそう。すごいな。河内さんは他にも人気サイトをいくつも作っていらっしゃる。使命感ではなく個人的な楽しみから作っているのだとしても、大勢の役に立っているのは事実であって、フリーソフトの作者の方々と同様、頭が下がる思いがします……。
ちょっと気になったのはGoogle Chart APIを利用しているというブログ貼付用のグラフ画像。苦情はGoogleにいうべきなのでしょうが、グラフの線が少し下にずれる傾向にあって、1980年代のフィリピンのグラフがX軸と重なってしまい、日本の1/7程度のようにはとても見えないという……。
45分間の動画全編を見たい方は16.99ドルのDVDを買ってください。そりゃ値段が高すぎるというなら、アメリカのAmazonで1.99ドルにてオンデマンド配信版を視聴できます(日本国内からでは不可だが……)。ともかく、YouTubeに無断転載されているのを喜んで視聴するような人ばかりでは困る。
2ちゃんねるでもはてブでも「すごい」という声がたくさんあるが、その何割がちゃんと対価を支払っているのか。こういう発売されたばかりの商品をネットに即上げするのを歓迎する空気を作ってはいけないよ。
というわけで、以下は公式の販促映像だけを見た感想なので、実際の本編映像とはいくらか違っているかもしれません。
静かで不気味なBGMを切れ目なく流し続けて基調とする。膨大な映像素材から数秒ないし長くても1分程度のシーンを切り取って、あまり脈絡なく並べてつないでいく。映像の切替は撮影地点の市町村名を字幕で入れること(だけ)で表現し、ナレーション等は入れない。地名は出すが地図はない。客観データを入れない。
素材がすごいのだから、そのまま静かにつなげば見る者に訴えかけるものがある、という確信か。実際、狙い通りの出来になっているようには思う。
どうして日本のテレビ局はこういう番組を作らない(作れない)のか、という意見をあちこちで目にした。たしかに、日本の地上波テレビ放送では、この企画は通りにくいだろうと思う。でもそれは能力の問題ではなく、これが「独自素材が極端に乏しく、権利の取得に最大の手間とコストがかかる」タイプの番組だからだ。
私はメーカー勤務の技術者だが、「コストの大半が外部に流れていく」タイプの商品には、まずゴーサインが出ない。自社の設計技術や生産ラインを最大限に活かし、多少なりとも主張や独自性のある商品でなければ、「我が社で作る意味がない」といった評価を受ける。おそらくテレビ局も事情は同じで、横断的に映像素材をかき集めて、言葉は悪いが「垂れ流しにする」なんて番組は、やっぱり無理なのではないか。
地震って怖いね、津波って怖いね、なんてことはみなわかっているので、それだけで番組を作りたいといっても、企画書を突っ返されると思う。ナショナルジオグラフィックが製作したような映像は、その気になれば日本のどのテレビ局でも作ることは可能で、だからこそ、そういう企画は通らないのではないかと私は思う。
もともと自社の制作力・取材力が乏しく、映像を買ってきて放送している衛星系のチャンネルなら……いや、既にナショナルジオグラフィックがこれだけの映像作品を仕上げているわけだし、その字幕を日本語に変えて放送するのが精一杯だろうな。お金が無いもんね。
もし4月中旬以降の段階で日本の地上波テレビ放送局のどこかがこういうドキュメンタリー番組を制作・放映したとして、視聴率が取れたか。答えはNoだろう。タイミングを考慮すれば、この番組は記録映像に16.99ドルを支払う小さなマーケットでしか、商業的に成り立たない。『魔法少女まどか☆マギカ』をゴールデンタイムに放映しても視聴率は散々で、CM収入だけでは赤字になったろう、という話と構図は同じ。
まどマギは深夜に放送してBDが売れたからいいけど、ナショジオのドキュメンタリーは「ネット受け」映像で、しかも無断転載に人が群がっている。ニッチといえどもそれなりの市場がある英語圏でなければ費用を取り戻せそうにない。だからやっぱり、日本で制作するのは難しい。……と、ここで終るのも悲しいので。
NHK総合で4/29から5/8まで視聴率の期待できない時間帯で断続的に放送されたドキュメンタリー番組群。NHKスペシャル、ETV特集、クローズアップ現代など、企画メインの番組としてうまくまとまらなかった取材映像を、素朴に、素直に編集した番組です。「で、NHKとしては何がいいたいの?」という質問には答えない。現実の一端を伝え、その先は視聴者に丸投げする、ある意味で挑戦的なシリーズ。
どこかのはてブのコメントにもあったけど、とくに宮城県歌津半島を取材した『孤立集落 どっこい生きる』は傑作だと思う。再放送もDVD化も期待できないのが残念……。
関係ない話だろうとは思うが、記事を書いている途中で思い出した件について書く。
昨夏の甲子園(第92回全国高校野球選手権大会)で成田高校がベスト4まで勝ち上がった裏で、地元の成田ケーブルテレビは収入も増えないのに出張取材が続いて金銭的にとても苦労した、という話を人づてに聞いた。独自映像ばかりでまとめられた特集番組は、年末まで繰り返し放送されて視聴者をうんざりさせたという。
県大会の頃はフライのボールをきちんと追いかけることもできないレベルだったカメラマンも、甲子園での最後の試合では千葉テレビの下手なカメラマンと肩を並べる水準の映像を撮れるようになっていた。もう一生、野球の試合を撮影する機会などないのかもしれないが、その成長ぶりには感動した。他方、この使命感を会社の利益に変換する妙案があったらいいのにな、とも思った。
「Amazonはどうしてこんな素晴らしいレビューを消すんだ?」という疑問の声が噴出しているわけですが、私の知る限り、Amazonに深い考えはありません。
かつて私が書いた『クロノ・トリガー』を絶賛するレビューは、長い間「最も参考になるレビュー」であり続けましたが、ある日突然、消えました。私は驚いてAmazonに問い合わせたのですが、その回答は「字数オーバーだから」でした。Amazonのカスタマーレビューは800字以内でなければなりません。たぶん誰かの通報があったんですね。それでチェックが入り、形式的に削除されてしまったのだろうと思います。
私が書いたレビューの中で、支持率9割超かつ200以上もの「参考になった」票が入ったレビューは他になかったので、とても悔しかったです。けれども、字数の規定に違反していたのは事実だったので、私は納得するしかありませんでした。
このように、Amazonは商品の販促に有利なレビューであっても、通報があれば形式的に削除しています。インクさんの『もしドラ』レビューは、その内容が商品を貶すものだったから消されたのではなく、単純に規定上限の2倍の文字量だったから消されたのだと私は思います。再投稿されたレビューはさらに100字ほども長くなっており、再び消されたことに何ら疑問はありません。
長いレビューを書いても通報されなければ消えないので、「800字を超えるレビューは一発削除」というメカニズムに気付いていないのかもしれない。インクさんの長文のレビューには読ませるものが多いだけに、削除のリスクを背負い続けるのはもったいないと思う。
まあ、本当に内容がひどくて消されるレビューもあるのだけれど、インクさんのレビューはどぎつい罵倒語を使っていないし、作品の内容にきちんと触れてもいる。内容がまずくて消されたとは考えにくい。
やっぱ、リンクしても読まれないから、コピペするわけだよなぁ、と。
著作権が切れているので、転載そのものはいいとして、テキストを入力したのは鈴木厚司さんで、校正したのは田中敬三さん。その成果をパッとコピペして、「いいのかなあ……」と。まあ、2006年にテキスト入力を完了したおかげで、こうして大勢に読まれて、「よかったね」という話なのかもしれないが、割り切れない。
この記事を見て怒っている人がいたので、私も読んでみた。こういう切り口もあるのか、と思った。
電線をリレーするたくさんの鉄塔のうち、ひとつ以上が地震で倒れることは想定されていて、だから非常用電源が用意されていたわけだけど、今回は海嘯(つなみ)で非常用電源も全滅して、それで事故に至った。「地震で鉄塔が倒れなければ外部電源喪失は起きなかった」というのは、論理的に正しい。ただ、たくさんある鉄塔をひとつも倒れないようにするのは難しいからこそ非常用電源が……。
さて、どう話したものか。少し考えて、「地震で鉄塔が倒れなければ外部電源が途切れることはなかった、というのは、その通りだと思います」といった。おかしいのは、この記事を読んでプッツンきて「東電と政府の隠蔽体質が云々」とか罵倒をはじめる人々。この記事自体に目くじらを立てるほどの問題は……。
ゲイツさんが支援しているのは核廃棄物が桁違いに少ない次世代原子炉だという。いい加減、核兵器の需要も乏しくなってきた。今後は、廃棄物の兵器への転用には期待できないが理論的にはより安全と考えられているタイプの原子炉が、次第に増えていくのではないかと思う。
東電が倒産していたら、給料だってバッサリとカットできたろうし、その結果、実際に不都合が生じて、だから仕方なく給料を上げて……と、短期的には苦労しても、長期的には実証の裏付けのある強力な形で話が先へ進んだだろうに。
それはもちろん空想で、実際には倒産したって社会実験みたいなことはできず、そして仮に給料を減らして不都合が出ても、何やかやでごまかして上辺の薄給を維持しつつゴニョゴニョすることになったのだろうから、歴史がどっちへ進んでも結果は大差なかったのだろうな。
そういえば、いろいろ社会実験をやってみたけど、とうとう(国民感情が納得するほどには)収入が減らなかったのが銀行員。逆に大企業のサラリーマンより薄給の人が過半になってしまったのが弁護士。銀行員の高給は市場が調整した結果だったけど、弁護士の場合は官の規制が給与水準を支えていたという違いがあった。
組織の底辺で「コミュニケーション能力が高い」といわれるのは、私の経験上は、こういう人。
前半3つは、私が上司や先輩に繰り返し指導されたことでもあります。先輩方には、「自分たちがつい邪険にするから後輩が没コミュニケーションになるのではないか」という問題意識がありました。いまは私もそう。だけど、本当にスゴイ人は、私のようにコミュニケーションが苦手な先輩社員も、サクッと使いこなします。
神業みたいな人心掌握術は、どうせ真似のしようもないから、悔しいも何もない。映画を見るように感嘆の声を上げるだけ。だけど、「愚直にやる」ことの凄味には、ガツンとやられました。そうか、「決して諦めない」ってのは、こういうことか、私は口先男でした、すみませんでした、心の薄皮一枚を剥いだらもう諦めてました、その気になればできるつもりでいたけど、私には絶対に不可能でした、ゴメンナサイ、みたいな。
ただ、こういうスゴイ人が、会議のような場でも有能に見えるかというと、そうでもない。採用面接でもオーラは出てなかったと伝え聞く。一人で喋らせると、平凡な印象なんです。先日、新人の最終面接を控えた偉い人が、「あいつみたいなのを採りたいんだが、見分け方がわからん」と困っていました。
私の妄想であるけれども、企業が求めているコミュニケーション能力とは、人当たりが良いとか、友達が多くいるとか、そういう能力ではない。企業が求めているのは、他人に未知の事柄を説明するという能力である。
リンク先の記事に書かれているのは、おそらくエリートに求められる「コミュニケーション能力」でしょうね。会議でみんなの同意を取り付けられる提案力、プレゼンの説得力、などなど。一般人には、もっと他に「本当は大切なのにできていないこと」がたくさんあると思います。
2年後か……。ちょっと悩むな。PHSにこれといって不満があるわけではないのだけれど、「電話番号を変えたくない」というストッパーがなくなってしまうわけでしょう。イーモバイルがPC接続でリーズナブルな定額料金を打ち出して以降、PHSを選ぶ積極的な理由を見失っている感じがする。
このところ九十九式がよく更新されていて嬉しい……という話とは関係ないけど、たまたま文中リンクされた記事でTumblrが話題になっていたので、また少し書く。
ふだんはよい人なのに、Tumblrを使っているときだけは悪い人になってしまう、という事例がそう珍しくもないので、Tumblrはヤバイと思う。他では無断転載とかしない人が、なぜかTumblrでは転載自由じゃない画像を無断で転載をしまくっていたりする。どれも偽アカウントだとは考えにくいよね……。
サイト運営者にさまざまな選択の余地を与える高機能な共有ボタンの提供はTumblrへの投稿数を増やし、サイトへのトラフィックを増大させる効果があることは間違いない。
Tumblrはトラフィック増大の効果が弱い。はてブでもtwitterでも、ブックマークやツイートをしてくれた人数より大きなアクセスがあるのだけれど、Tumblrではそういう経験がない。300人くらいリブログしているのに、アクセス解析に現れる数字は、多くても3割で、1割以下ということも珍しくない。
リブログする前に、本文の一部だけが切り取られて文意が歪められていないかの確認くらい……まあ、その「くらい」が面倒なんだろうな。リブログする人でさえそうなので、閲覧者が原本を気にすることなどほとんどないのだろう。
これほど原本を確認する人が少ないなら、全文転載ならともかく、数行だけを切り取る場合はむしろリンクなどせず「自分の言葉」として発信してほしいと以前、書いたけれども、実際にそのようにしてくれている人は、ほとんどいないみたい。
ともかく、Tumblrは外部にトラフィックを流さないし、ほとんどのTumblrユーザーは無言でリブログする。ウェブサイト運営者にとって、Tumblrはじつにつまらない。「Tumblrで共有」ボタンなんかより先に、Tumblrで共有されているコンテンツをURLの前方一致で検索できる仕組みを用意してほしいよ。
私の感覚だと、やっぱりはてブが断然いい。被リンク側の需要によく対応してくれている。ちなみに、このところmixi日記での言及はずいぶん減ってしまって、ちょっと残念。
これはなかなかいい感じ。よそから持ってきたツイートはきちんと引用の形式を守っているし、リブログで情報が付加されて面白さが増している。
正規の申請手順を踏んで、きちんと承認されたのに、後から罰を受けるのはおかしい。市長の一存でルールもないのに処分ができるような社会では、みな安心して生活できない。誰だって多少は自分の「当たり前」と世間の「当たり前」がズレている部分を持っているだろう。
もう少し踏み込む。自衛官でも警察官でも市職員でも関係なく、有給休暇は自由に取れるべき。パニックになっている家族を放り出してまでやるべき仕事なんてないよ。「うちのことは大丈夫だから、お母さん、行ってらっしゃい」「お父さん、お仕事頑張ってね」と送り出された職員だけで仕事を回すべき。それで一時的に人手不足になるなら、仕方ないんじゃないの。
自衛官だから、警察官だから、自治体の職員だから、政治家だから、教師だから、管理職だから……そういうの、もうやめないか。「仕事に責任を持つ」ためには家族を放り出す他なく、この社会が本当にそんな犠牲を必要とするというなら、現在の社会のあり方は諦めるべき。1〜2割の仲間を諸事情で欠いても達成できる水準を、新しい基準線とすること。最前線を離れる仲間を「もちろん抜けられるのは痛いけど、大丈夫だから、何とかなるから、行きなよ」って送り出せないのはダメ。
土浦市の件、「それはおかしい」という世論が盛り上がって処分が撤回されたらいいと思ったが、二晩経ってみて、どうやら静かにフェードアウトしていきそうに見えるのが残念だ。
Yosyanさんの記事だと、職員自身がパニックを起こしたことになっている。コメント欄もそういう流れ。どういう解釈なのだろう。わからない。
発明者の説明はいかにも怪しげ。おそらく真実とはかけ離れているだろう。だが、理屈があろうとなかろうと、再現性さえあれば、工業的には問題ない。摩擦や接触の理論と一緒。
とはいえ、記事が出てからもう6年が経った。この「魔法」がたしかなものだったなら、そろそろ科学者の分析結果が出てもいい頃だと思うが、公式サイトの解説はますますオカルト色を強めている。まあ一度でも専門家に鼻で笑われた経験があると、専門家の協力を得て理屈を解明することに意義を見出せなくなってしまっても無理はない。だがそれでは、本当に素晴らしい技術であっても、埋もれてしまいかねない。
単純明快で容易に再現できる技術ならいい。けれども、再現条件がシビアな場合、理屈がわからないままでは歩留まりが読めないだろう。メカニズムをきちんと解明することは、最終的には会社にも利益のあることなのだが……。
インタビューに目を通した感じ、発明者でもある大和田社長は、CASエネルギーがどうのこうのという独自理論を否定されかねないことに直感的な嫌悪感を抱いているように見えた。もったいないな。技術と商品さえ残れば独自理論なんか消えたって……と私は思うけど、本人の気持ちはむしろ逆なんだろうな。
UFOに感動するおばちゃんの様子が、何度ガッカリしても思い込みで大感激する心を忘れない父の姿を思い出させてくれて、大笑いした後でしんみりした。父がワーワー叫んでバカ騒ぎする後ろで、母が「バッカじゃないの」と呆れている絵が思い浮かぶ。
ところで、2ちゃんねるの反応を見ると、同日同時刻に神宮会館で風船を飛ばすイベントがあったよ、という情報が出ていた。私は「宇宙人の乗り物ではない何か」なんだろうな、と思っただけで、じつはその直感的な判断の裏付けを取る努力を全くしていなかった。しんみりしながら読んだこともあって、グサッときた。反省させられた。
いや、今でも、別に風船と決まったわけではないのですがね……。あと関係ないけど、「日本がたいへんですよォ!」に対して鼻で笑う声が入っていて、個人的にツボに入った。両方揃って、世界は楽しい。
私の印象はTogetterのまとめとは違っていて、山本幸三議員が日本銀行の白川方明総裁の答弁に聞く耳を持たず自分の主張をするばかりだから、議論にならないのだと思う。
山本さんがしつこく確認を求めているのは、国債の日銀直接引受が特別会計の予算総則に基づいて実施されている事実と、そうでありながら現時点で円の信認は失われていないという事実だ。山本さんはここから「復興財源を日銀引受の国債で調達してもいいじゃないか」という話に持っていきたい。
山本さんだって、際限なく国債を日銀が引き受けていけば、どこかで通過の信認が失われると考えている。だが復興国債の規模は年額10兆円程度が想定され、既に行われている国債の日銀引受(年額11兆円)が約2倍に増えるだけのこと。だから通過の信認が「崩壊」するわけがない。円高が少し緩和される程度の影響が出るのは、むしろ望ましい……というのが、山本さんの認識なのだと思う。
ただ、国債の日銀引受が増えるにつれ通貨の価値が緩やかに下がっていくとは限らない。過去には突如として通貨価値が大幅に下落して経済が混乱した例がある。だから少なからぬ人々が、通貨の信認に傷を付けるような政策には不安を感じている。白川さんも、その一人なのだと思う。
山本さんは「政府が国債の直接引受に安心して復興にかこつけて将来の税収見込みの立たない大出費をすると日銀は予想しているのか。日銀は政府を信頼していないから直接引受に反対なのか」という意味の質問をする。だが、「通貨の信認が崩壊する」のは、人々が通貨価値の崩落を強く予想したときであって、実際に政府や中央銀行がそのような行動を取ったときではない。そうだからこそ、野田佳彦財務大臣と白川さんは「李下に冠を正さず」の方針を堅持したいと答弁しているのだが、山本さんはサラリと無視している。
この問題についてのリフレ派の言い分は、私の理解では、こうだ。債務残高が変わらない借換のための直接引受と新規国債の直接引受の区別には形式的な意味しかない。インフレ・デフレは全体の状況から生まれてくる。毎年、政府の債務残高は増えていて、日銀は約10兆円の直接引受をしている。直接引受の対象が借換債でも新規債でも、それは取引の名目の違いに過ぎず、トータルの結果に実質的な違いはない。
だから山本さんは、白川さんらの議論を受け流して、日本経済に巨大なデフレギャップが存在する以上、直接引受を年10兆円ほど積み増してもハイパー・インフレは起きないから、これをやるべきだ、という。
私は山本さんの主張に与する者だけれども、議論を追う限り、山本さんが白川さんや野田さんを説得できなかったのは当然だと思える。通貨の信認は人々の疑いによって容易に崩壊しうると考えるなら、金融政策は保守的にならざるを得ない。山本さんがすべきは、相手の不安を頭ごなしに否定することではなく、実証に裏付けられた説得だったろう。
白川さんや野田さんも理屈を述べるばかりで何ら実証的な説得をしていないのだが、正当な手続きを経て権力を付託された者を相手にそんな文句をいってもはじまるまい。お互い観念的に自説を主張するだけなら、野党の側に勝ち目はない。
この手の主張には与しない。個人的な信条として「文系」「理系」という言葉を使わないことを宣言するなら、当人の自由だと思う。だが、不完全さをあげつらいその弊害を理由として大分類そのものを否定するなら、同じ理屈で小分類も危うくなり、究極的には言葉が成り立たなくなるだろう。
dlitさんが「文系」「理系」の問題点として挙げているのは次の4項目だ。
こうした理由で「文系」「理系」を撲滅すべきだといえるならば、「女」「男」も撲滅すべきか。
dlitさんが Yes と即答されるなら、その価値判断はわかりやすい。「女」「男」といった大雑把なくくり方をするメリットは小さく評価するということだろう。「女」「男」の区分すら否定するなら、世の中のほとんどのケースについて、悩むことなどありはしない。
逆に No だとすれば、複雑な状況をグループ化の手法によって単純化して把握するメリットと、単純化のデメリットのいずれが大きいのかは、毎回きちんと精査する必要がある、ということになろう。また「所詮は比較の問題だ」ともいえて、デメリットばかり言い立てても片手落ちだとわかる。
「多少の不正確はあっても、大掴みで捉えることに、より大きなメリットがある」状況は珍しくない。大きなところから話を始めて、次第に微細な議論へ移行する際に、一定のコストを支払うことになるのは当然ではないだろうか。その手間を惜しむ気持ちはわかるが、解決策として大掴みで捉えること自体を否定するのは乱暴だと思う。
A: B君の進路は理学部?それとも文学部?
B: 理学部
A: へー数学大変だね!
dlitさんはこの例文を示し、「理系」を理学部、「文系」を文学部で代替しても全く問題ない
ことを示したというのだが……。これは、相手のことをよく知らないから、まず理系か文系かを問うていた場面。それなのに、理学部と文学部の二択にするのは無理がある。どちらでもない可能性の方が高いじゃないか。
「Bくんの進路は理学部か工学部か医学部? それとも文学部か教育学部か経済学部? あるいはそれ以外?」などと小項目を列挙するのが煩雑だから、定義が多少曖昧でも名前のある大項目がほしくなる。「Bくんの進路は何学部?」という質問もありうるが、進路を大雑把にしか決めていない人も多いから、やっぱり「文系」「理系」くらいの大きさの言葉がほしくなる。
ちなみに、「Bくんは数学IIIと数学Cも受験科目の範囲内?」といったセリフなら、定義の曖昧な「理系」という言葉を使わずに、もともとの意図に沿った質問をしたことになるだろうと思う。
北欧の住宅と比較して、日本の住宅は断熱性に乏しく、光熱費が高い、という。で、結論はこう。
無駄なエネルギー損失の無い住宅を増やすこと、これこそが本当の環境対策なのではないでしょうか。というかね、条例で断熱設備などを必須要項にしちゃえば良いのにねー。初期投資は大きくなっても、将来を考えれば遙かに安い投資です。
基本的に、人々は自ら好んで(少なくとも主観的には)損な選択をすることはないはず。だからいくるさんの主張が正しいならば、自ずと高断熱住宅は広まっていくはずです。しかし全員が高断熱住宅を「よい」と思うわけもないので、公的な規制はすべきでないと私は考えます。選択肢を示すにとどめるべきでしょう。
ちなみに私は、現状の建築基準法もお節介が過ぎる法律だと考えています。耐震性能の基準は、品質の「見える化」によって消費者に商品選択の参考情報を与えることを目的として整理し直すべき。
「建築物の倒壊には外部不経済があるので、住人自身がリスクを甘受すればよい話、ではない」という問題には、保険への加入義務付けで対応できるはず。「あまりにチャチな建物は保険料がバカ高くなって価格メリットが消える」という制度設計が望ましい。また、建物の倒壊に外部不経済があるというなら、既存の建築物にも保険の網をかけるのが当然の理。すると、古い危険な建物に暮らし続けるリスクが保険料として「見える化」されます。その結果、最新の建築基準を満たさないことがわかった新築マンションが取り壊される一方、もっと危険な古い建物に大勢が暮らし続ける理不尽も解消されるはずです。
北海道の工務店さんに聞いたところ、これらを満たす住宅を東京で建てる場合、一般的な住宅より6割増しになるそうです。高くて買えない?
でも、非生産的な霜取り作業にかける手間、無駄に凍えること、無駄な暖房への費用を考えるとなんとかしたいものです。
ようは、住宅価格の6割アップと快適さの比較でしょう。大雑把に考えれば坪単価24万円の家が坪単価38万円になる、と。木造と鉄筋コンクリート造くらいの差かな……。あれっ!? とすると、「木造のまま壁を厚く、断熱材を多く、サッシを立派にすれば、安いRC造の家より快適だよ」なんて宣伝すれば、案外売れそうな気もするな、一戸建ての場合。
はてブを見たら首領さんが「快適」には金が掛かるけれど、「我慢」はタダですからね
と仰っていて、結局そういうことなんだろうな、と。北欧では寒さが我慢の限界を超えるので、住宅に大きな投資をしているのでしょう。
んー、ところで、現代の北欧には壁に隙間のあるアバラ屋とか、ないのかな。貧乏な人はどうしているんだろう? そういえば、4年暮らした社員寮の部屋は、冬になると隙間風が寒かったな。
- 事象を想定し,影響を評価し,対策を取る
- 事象を想定し,影響を評価するが,十分な対策は諦める
- 事象を想定するが,影響を十分に評価できないため,最大限の安全係数をもって対策とみなす
- 事象を想定するが,影響を評価できず,対策も取らない
- 事象を想定せず,対策も取らない
俊さんは、第3項まではいいが、その先はアウトで、福島第一原発の事故は第5項に該当するからダメだという。まず気になるのは、著者はどうして、自動車事故をゼロにしないことを肯定するのか。
自動車はわかりやすい例です.なぜかというと効用とリスクが明確で,被害についても,効用のためにリスクを取った本人の命と引き換えという単純な関係が保たれるからです.
自動車事故で死ぬのが運転者だけならいい。でも車にはねられて死んだ人はどうなるの。何のメリットもなしに被害だけ貰ってるじゃないか。
仮に「現状程度の安全対策しかしていない自動車」と共存する社会を消極的にであれ支持して、きちんと意識していなかったにせよ様々なクルマ社会の恩恵を受けてきたのだから、ある水準以下の確率であれば「車にはねられて死ぬのも仕方ないね」というなら、原発事故についても同じような説明が可能になる。
ちなみに日本の交通事故死者は、累計で50万人を超えています。また自動車の普及に伴い、人々が安心して歩き回れる空間は寸断されてしまいました。自動車の利便性を擁護して、私たちはどれほどのコストを支払ってきたのか。
あるいは。東京電力は海嘯という現象そのものを想定していなかったわけではない。こうした場合に、「想定以上の海嘯」について考えないことを自動的に第5項に分類するなら、少なからぬ工業製品が第5項に当てはまりそう。
俊さんが例に挙げている自動車だって、規格の範囲内で乗員の命が助かるかどうかは調べているだろうけど、どこまでいったら死ぬのかというラインは調べていないと思う。自動車の安全規格を見ても、この条件をクリアすればいいよと書かれているだけで、アウトになるラインを見極めろとは書いてない。もし規格通りのチェックしかしていなかった場合、やっぱりそれって福島第一原発と同じですよね。
結局、私の疑問は何なのかというと、第2項と第5項を峻別する意味がわからない。
この2つ、そんなに違いますか? 「工学」の範囲内では、これって同じことだと思うんですよね。
リンク先記事の後半部は「どこまでを想定の範囲内とすべきか」を主題としていて、それこそが本題なのだろうと思いましたが、私はその話題には触れません。
今日は「こどもの日」。
子どもが中学生か高校生になったら、一家の食卓を担当できるよう教育すべきだと思う。いくら部活が忙しいといったって、食事もまともに作れないほど忙しいとしたら、そんなの部活のスケジュールの方がおかしいわけで。
部活帰りにスーパーで買い物をして、帰宅後実働30分くらいでパパッと料理する、といった技能は、自然と身につくほど簡単なものではない。現代だと、そういうことを実践している子が「かわいそう」といわれてしまうようだが、そんな世の中の方はどうかしている。親子が同居している間に、伝授すべき技能を伝授しないのは、無責任じゃないか。
これを、2ヶ月に1回ずつ、1年間続ける。年間で12週を要するカリキュラムで、うち子どもに料理を任せるのは6週間である。子どもの実力が不十分なら、さらに1年続ける。すると、「なるほど、お父さんはこう考えるのか」「お母さんはこんな工夫をしているのか」ということが、よく伝わる。
……などと人に話すと、「いや、ふつうの家庭では無理でしょ、そんなの」といわれる。でも時間の問題はないはず。買い物も料理も子どもの教育と関係なくやっていることでしょ。「中学生になると親子仲がヤバくなるから無理だ」というなら小学生の間にやればいいんじゃないの。じつは私もそうだったし。
世の中の親御さんたちのいう「無理」は、「子育てにそんな手間はかけたくない」という意味なんじゃないかな、と私は思う。でもさ、子どもが自分で料理をできるようになれば、週に1日くらいは「親が料理をしない日」を作ったりできる。子どもを信頼できるようになれば買い物だって任せられる。教育に手をかければ、いずれ自分だって楽をできるのに、どうして目先の苦労を厭うのだろう。
「私は毎日こんなに苦労しているのにどうしてお前は!」と子どもを叱るのがいいか、授業参観日に子どもが「日曜日はお母さんの休日なので、ぼくが料理を、弟が掃除をしています」といった作文を読むのを聞いて「おかげさまで週休1日です」と胸を張るのがいいか。
子どもが2人も3人もいて、それで「家事がたいへん。つらい」というのは、私にはよくわからない。子どもがよほど小さいうちならともかく、上の子が小学生になれば、まず床まわりの掃除は任せられるようになる。背がもう少し伸びたら、洗濯もお任せできる。高学年になれば、料理も問題ない。なのに、どうして子どもに何も教えずに、自分一人で家事を抱え込もうとするのだろう。
家事が好きで独占しているならまだいいけど、ことあるごとに「お前たちのために私は毎日とても苦労しているんだぞ」と恩着せがましいことをいって子どもをいいなりにさせようとするのだから、ひどい話だ。子どもが「ぼくなんかいない方がお母さんは幸せだったんじゃないか?」と考えるのは当然ではないだろうか。
とはいえ、「両親はだいたい居間でゴロゴロして笑ってたような気がするな」と子どもに思わせるのは、簡単なことではない。子どもに様々な家事を任せて「ありがとうね」「いつも助かるよ」といい続けるために、両親がどれだけの手間をかけたか。私がそのことに思い至ったのは、ハタチを過ぎてからだった。
だったら転向者の脳はどうなっているんだ? という反応があるわけだが、簡潔な記事を読むだけでも、きれいに真っ二つに分かれるとはいっていないことがわかる。リベラル派の脳にはこういう傾向がある、保守派の脳には別の傾向がある、というだけのこと。とすると中間派の脳の人が多数派なんじゃないのか。
金持ちの子がみんな成績優秀かといったら、そうではない。でも、統計を取ってみると、親の収入と子の学業成績には有意な差が出てくる。例えばこうした場合に、「傾向を見て個人を差別するのはNG」と単純には言い切れないわけ。「学歴社会は傾向として金持ちに有利」という事実に対応して何らかの補正をかけよう、という議論はありうる。(日本ではおそらく支持されない政策だが、米国などでは一部で実施されている)
とはいえ、リベラル派と保守派の脳に傾向として差異があるという話を有意義な何かに結びつけるアイデアは、いまの私にもないのだけれど。
家を買ったり建てたり引っ越したりする予定は全くないが、関心を持って眺めている連載記事。栃木県小山市に引っ越したら、新聞チラシに不動産の広告がとても多く、だんだん興味を持つようになった。私は最近まで知らなかったが、最近の無印良品は住宅の設計・販売や街づくりまで手掛けているのだそうだ。
記事に登場する間取りはいちいち説得力があり、「なるほど」と思える。それでいて、新聞チラシの中に同じような間取りは見当たらない。探し方が甘いだけかもしれないが、集合住宅の間取りって、時代によっていろいろ変遷はあれど、本当に定型化されてしまっているんだな、と感じる。
んー、でも、時代に応じた移り変わりは確かにあるので、十年一日のごとく保守的な設計を繰り返しているのではないことだけはたしかだ。生活動線についても、リンク先の記事とは別の視点から、きっと何か考えてはいるのだろうと思う。
例えば、古い集合住宅だと、主採光面にいくつもの部屋を並べていることが多い。だから南向きなら、リビングは南北に長くなる。私が育った団地でも、リビングと個室が横に並んでいた。
これが、2000年代の集合住宅になると、主採光面をリビングが占拠するのが当たり前。そして窓のない個室が登場。また各部屋を広くして部屋数を絞るのもトレンドみたい。90年頃の4LDKの面積だと、たいてい3LDKになってる。子どもが減ったのと、客間が不要になったという理由もあるのかな。あと和室がないのも特徴か。
個人的に、洗面所と脱衣所が一緒になっている間取りというのは、客を呼ばないことが前提になっているのだろうな、と感じる。あと、「着替えをどこでどのようにするのか」について、きれいな答えを出している間取りって、見たことがないな。
「お姉ちゃんが下着で家の中を歩き回っていて困る」のは、基本的には当人の性格の問題だろうが、3割くらいは間取りの問題だと思う。「脱衣所には下着だけ持っていって、半裸で廊下を歩いて部屋に戻ってからきちんと服を着る」のがいちばん楽だし自然、という。ようするに、脱衣所が、ちゃんと着替えをできるようなスペースになっていないからいけない。
だけど、かなり広い部屋でも、脱衣所に大きなスペースは割いていないんだよな……。そんなことどうでもいいよ、という感じなのかもだけど。
あとはもちろん、入浴と無関係の着替えも問題。「いや、ふつうに部屋で着替えればいいでしょ」っていわれるのかもしれないけど、例えば、歳をとると片足立ちで靴下を履くのは無理だから、腰掛が必要になる。
あるいは、服選びの問題。クローゼットに吊るされた服から探すならいいけど、箪笥のようなものからセーターなどを取り出す場合、候補の服をどこに並べるのかという問題がある。私の狭い体験では、床にバラまいちゃう人が意外と多かった。けっこう髪の毛とか落ちてて、掃除機をかけてからにした方がいいんじゃ……と思ったけど、何もいえなかったな。
畳というのは、あれは床なんだけど、ほっぺたをくっつけていいもの、というか、それくらいいつも清潔にしておくべきもの的な前提があるから、それで畳に服を並べるならいいと思うのね。でも絨毯やフローリングに服を並べるのってどうなの、って思う。私が気にしすぎなのかなあ。
既視感の反対語は未視感というのだそうだ。単なる物忘れとは違うらしい。既視感より未視感のほうがその不思議さを他人に伝えにくいためか、せっかく言葉があるのに、あまり用例がないように思う。
ところで、フランス語で既視感はデジャヴュ、未視感はジャメヴュという。
「インテリげんちゃん」という言葉が好きで、出典を調べたらここに辿りついた。1985年の「新潮文庫の100冊」ポスターのコピーだったんだね。あー、小学校に入学したとき、前年度のポスターが図書室に貼りっ放しになってたんだろうな。見覚えがあるもの。糸井重里さんのコピーだったんだね。
そういえば、母はかつて「コピーライターになりたいな」と思っていたけれど、そうなるための努力は全くせず、何となく琵琶湖畔のホテルに就職したのだそうな。なぜか滋賀県のホテルの募集情報が愛知県の高校にまで届いていたのだという。地元で就職するのもつまらないから、滋賀県まで行ってみたとのこと。