備忘録

平成23年4月30日

1.

不安を感じる人間がなるべくリスクを避ける行動をした。
ただそれだけの当たり前の行為に難癖をつけ始める不合理さ。

私は「当たり前」を肯定する感覚には与しない。みんなが間違っているなら、「当たり前」を批判するのが正しい。

いや、引用文中の「当たり前」は、文章を素直に読めば、そういう意味じゃないよね、という反論があるかな。つまり、「回避できるリスクを回避するのは合理的」であって、「リスクの甘受ばかりを説くのは不合理」だ。こんな簡単な理屈、誰だって理解できるだろう……という意味の「当たり前」でしょ、これは、と。

人間の直感は、リスクの客観的な比較には向いていない。いま、少なくとも東京では、放射性物質は過剰に怖がられている。もし放射性物質のリスクへの対処にそれほど高いコストを支払っていいというならば、もっと優先順位の高いことがあるわけだ。

例えば、未成年者の飲酒・喫煙の撲滅に、どれだけ真剣に取り組んでいるか。20歳になるまで喫煙と飲酒をしなかった人は、その後も喫煙や飲酒を習慣化する割合が低いというデータがあったと思う(私の記憶力には問題があるので、あまり信用しないでください)。もし私の記憶が正しいとすれば、子どもに喫煙や飲酒をさせないことは、多少の放射線よりよほど子どもの寿命に大きな影響があると考えられる。

2.

飲食に話題を絞っても、塩分、糖分、脂質の方が、放射性物質より重要じゃないか? 中高生が小遣いやバイト代を何に使っているか、砂糖水やお菓子を大量に摂取してはいないか、十分な関心を向けている保護者がどれだけいるのだろう。というか、自分たちが子どもに与えている食事が塩分・糖分・脂質過剰でないと断言できる人は、じつは少ないと思う。

あるいは、料理の習慣がないまま子ども下宿させると、食生活が途端に乱れることが少なくない。で、そのまま社会人になってしまう。これは性別など関係ない。それなのに、子どもに勉強だけさせて食事を作らせない親御さんが、やたらめったら多い。勉強より命の方が大切じゃないか? いやまあ、失業こそ寿命を縮める最大の要因だから、勉強はもちろん重要なのだけれど、そのために犠牲にしていいことと悪いことがある。

また別の話題になるが、ひとつのリスクに対処するために、大人の視点で勝手に「そのメリットは無視できる」と判断されたもののリストを見ると、「本当にこれ、やめちゃっていいの?」と首を傾げる。外遊びとか、プールとか、海水浴とか。別に原発事故があろうとなかろうと「数字に表れている明確なリスクと感覚的なメリットのどちらが大事なんですか」という論法は成立する。もともと子どもの外遊びを禁止していたご家庭は一貫しているとしても、事故で考えを変えた方には、その根拠を問いたい。

……と、調子よく書いてきたものの、どうも分が悪いな。これで1人でも説得できるという気がしない。

本当は「つまらない心配をする方がよほど健康を害する」といいたいが、調べていったら一般論として持ち出せそうな明確な根拠を見出せなかった。で、それを封じてしまうと、結局、「心配のしすぎ」だと思う私にも、あまり他人を説得する材料はないんだな。

3.

須田さんの文章は面白い。いま起きていることは、「バカな人が大騒ぎしている」という話ではないと思う。別に私だって専門家のいってることはよくわからない。わからないが、須田さんや私のような視点から見ると、「放射性物質のリスクばかり、ことさらに騒ぐ理由がわからない」とはいえる。

頭の出来の問題ではなく、視点・価値観の問題。

平成23年4月29日

著者なりの仕様の理解をザックリ示した上で、「結局どうすればいいの?」という需要に応えた記事。読み終えて「わかった」感がある。

こっちは全く「わかった」感が得られなかった記事。いや、どちらも「本当はわかってない」のかもしれない。違うのは私の読後感だけであって。でも、この違いって何なんだろうな。

読んでも全く「わかった」感のないブログって、文章がちょっと面白くても、たいてい読むのをやめてしまうのだが、finalventさんのだけはアンテナの「巡回先」に入れ続けている。読んでも「わからない」ので、「そういえばfinalventさんも何か書いていたな」という記憶しか残らないから、時間の無駄のような気はずっとしている。だけどアンテナから削除しようと編集画面を開くたび「……また今度にしよう」と。

私の場合、意見の合わない書き手の記事というのも、たいていは巡回先から外してしまう。意見が近い人の記事なら微妙な差異を感じ取りやすいけど、意見が遠い人のは類型化して把握することになるので、特定のサイトやブログを巡回し続ける意欲を、いずれ失ってしまう。意見は違っても人格に5年以上も興味を持ち続けられる相手というのは、やはり限られていると思う。

補記:

私は非常に面倒くさがりなので、現在も巡回先は20に満たない。過去、一時的に30近くまで増えたときには、巡回が面倒に思えてきて自主的ネット断ちに至った。「その方が健康によさそう」と納得できたらいいが、実際には、費用対効果の問題で「我慢している」に過ぎないから、それはそれでストレスがたまる。

その後、自分の中のナマケモノ回路と対話を繰り返して、巡回先を20未満とすることで折り合った。

平成23年4月28日

なるほどなあ、と思った。狭い経験から直感的に「正しい」「おかしい」を判断すると、いろいろ陥穽があるという、いつもの話ではあるが。

平成23年4月28日

Opera11.10では画像のみを表示したとき、大きな画像を自動的にウィンドウのサイズまで縮小して表示する機能が搭載されたそうだ。で、これはスゴイと感心して記事が書かれたのだけれども、その後試してみたら Firefox 4 、 Chrome 9 、 Safari 5 でもできた……できなかったのは IE 8 だけという。適当なこと書いてすいません。と訂正が入った。

しかしこの機能は2001年に登場したIE6に搭載されていたものと同じだ。「画像の任意の場所をクリックすると、その周辺が原寸大に拡大表示される」というところまで同じ。IEは遅れているどころか、かなり進んでいたといえる。だが、コメント欄での私の指摘は、1週間放置されたままだ。

Firefoxとかの名誉には配慮するが、IEが相手なら、事実に反する非難でも訂正する必要はないというわけか? 無自覚ないじめっ子と同じ態度で不愉快だ。好意的に解釈すれば、IEコンポーネントのタブブラウザなどではこの機能が動作しない場合があるので、「IE8をチェックしたつもり」になっているのかもしれないな。

平成23年4月28日

リンク先記事の内容はタイトルとは少し違っていて、1930年代のアメリカは約10年で実質GDPが倍増するほど生産性の向上が急速だったので、政府が大胆に支出を増やしてもなかなかデフレからの脱却と失業率の抑制を実現できず、結果的に大恐慌となってしまったのだ、という話。

少し視点を変えてみると、実質GDPが増大して、生活水準が嵩上げされても、多くの人々の幸福感には直結しないとわかる。実質GDPの成長率がむしろ鈍化した戦後の好景気下の方が、主観的な幸福度は高かった。デフレ下で実質GDPの増大と名目GDPの横這い・減少が続く現代の日本の状況について、「実質GDPの推移を見る限り、他の先進国とほぼ同等だよね」という議論があるけれども、やっぱりそれは違うよな、と。

平成23年4月28日

この記事に「0.02%の嘘」であるということすらも嘘かもしれないんだよね、現状は。低レベル放射線の長期的影響について、○○%とかはっきりしたことが言えるほどのデータも学者の統一見解もないでしょ。というコメントが寄せられているのだけれども。

私などは、そのようには考えない。0.02%かどうかは怪しいにせよ、0.1%よりはたぶん小さいんだな、と。0.02%という数字の小数第2位が有効かどうかに固執してホントかウソかという話をするのは、専門家の仕事でしょ。素人は、つまり0.1%に満たないんだな、と考えればいい。

で、ふだん自分は0.1%という確率をどう扱っているだろうか、と考えてみる。すると、安全基準というのは、けっこう厳しくできているんだな、と私は感じるわけだ。

が、そう感じない人もいる。リスクをゼロにしたいと口にする人とか。でも、そういう人の行動を眺めていると、案外リスクを取っている。例えば、「走る」とかね。「歩く」方が明らかに安全だ。が、そういう指摘をしても、ただ怒るだけで、「走る」のはやめない。ここで私は、わからなくなる。

平成23年4月27日

お値段8倍の靴(2011-01-02)の続き。

1.

私は毎月一定額を自動積立定期預金で消尽し、残額で家計をやりくりしている。賞与は7月と12月で下期偏重のため、上期の赤字を下期の黒字でカバーする計画。

近年は自動振込みを活用して生活費を定額制にする方法が人気だそうだ。しかし私は、あえて定額積立にしている。

私の就職と弟の大学進学は、同じタイミングだった。弟は私と違い下宿をしたので、実家の家計は厳しくなった。そこで私は、弟が大学を卒業するまでずっと、実家の口座へ振込みを続けた。だが結局、私の支援は不要とわかり、弟が大学院へ上がる際に全額が返ってきた。私はこのお金で銀行に口座を作り、自動積立をはじめた。実家への送金の延長なので、「これは誰かのために使うお金。自分のものではない」と思っている。

自分のための貯蓄なら、生活を定額にして残額を貯蓄に回してもよい。だが私の場合、自動貯蓄は自分の中の偽善心と折り合いをつけるためのコストに過ぎない。だから私は、これを「強制貯蓄」と呼んで定額を自動で積み立て、残額を自由にしている。仕事を頑張って給料が増えれば、それだけ自分は自由になれるわけだ。

そんな私にとって、「自分の貯金」とは「強制貯蓄の残額で家計をやりくりする中で余ったお金」を意味するようになって久しい。このお金は、普通預金(+通常貯金)として存在している。

2.

普通預金と全貯蓄の推移

2009年、リーマンショック後の不況と支出の増加により、普通預金が通年で減少した。翌2010年の上期には、定期預金の増加分が普通預金が減少分を上回り、総貯蓄まで減少した。この異常事態に私が気付いたのは、2010年の秋だった。かつて何の苦労もなしに実家への送金と普通預金の増加が両立していた私は、すっかり天性の倹約家だと思い上がり、長らく預貯金の残高をチェックしておらず、事態への対処が遅れた。

毎月の収支

まさかの普通預金減少に恐慌をきたした私は、急速に支出を圧縮した(2010年8月→同年12月は驚異の57%カット)。やれば案外、できるもの。だが、これで安心だと思った矢先、東日本大震災が発生した。困ったときはお互い様と考えてドカンと出費したはいいが、普通預金の残高は、かなり悲しい感じになってきた。

支出計画

支出計画は、2010年下期は応急処置とし、2011年上期は2008年、下期は2007年の消費水準を参考に策定した。なお、「生活」は家賃+管理費+光熱費+雑費、「食費」は水回りの出費全般を含む。その他の分類が何を意味するのかは秘密。

支出の内訳

2011年5月以降は予定・見込み。水色の太線は支出計画である。

計画と実績のズレ

計画に無理はないか、あるとすればどの部分かを調べるために作成した図。灰色分野の計画倒れがひどい。他はまずまずの結果か。震災さえなければ……というようにも見えるが、毎年どこかで災害は起きるのだから、灰色分野にもっと多くの予算を割いて計画を立て直すべきかもしれない。

3.

収支見通し

中期計画。全貯蓄は参考値。強制貯蓄分は「あるけど使えないお金」なので無意味だ。問題は普通預金である。2011年は震災の影響でプラマイゼロ。2009年、2010年の赤字を解消するには、2013年まで緊縮財政を続ける必要がある。

平成23年4月26日

1.

東日本大震災の復興計画について多くの議論が行われている。

経済学の教科書に従えば、計画経済みたいなことはせずに、当人たちの希望に任せればいいじゃないか、という話になると思う。復興資金を地方自治体もしくは被災者に給付して、それで好きにしなさい、というべきだろう、と。

ただ、そういう話をする際にひとつ問題なのが、その資金の出所。復興という大義名分が立っても、打ち出の小槌と勘違いしてみんなの税金を浪費されてはたまらない。

で、ものすごく残酷なことをいうようだけれども、復興債は、国債ではなく地方債にすべきなのではないか、と思った。都道府県に財政的な自由度が乏しい現状ではダメかもしれないが、理想的には、地方債とするのが正しいと思う。

「ひどいこというなぁ」と呆れられるかもしれないが、海嘯(つなみ)というのは、何度でもやってくるわけだ。海嘯に負けないすごい対策をしたら30兆円かかったとして、今回、震災で壊滅的な被害を受けた地域のGDPは年額1兆円程度で、長期的には経済が縮小していくと見込まれていたわけだから、30兆円の元を取れないうちに防潮堤などの耐用年数がきてしまう可能性が高い。(GDPを全て防災に注ぎ込んだら生活が成り立たないことに注意)

復興資金を出す人と、復興によって利益を受ける人とが別々だと、復興を望む側に失うものはないから、経済的な合理性を超えて「もっと多くの復興資金をください」といい続けることになる。私はそれでいいとは思わない。「復興に要したお金は、いずれ復興した地域の人々が返済する」という仕組みが必要ではないか。

既に起きてしまった災害への当座の支援はするが、わざわざ危ない場所に暮らし続けて、「みんなのお金で立派な防潮堤を造ってください」という論理を堂々と主張する人々にはウンザリする。自分たちで造るか、危険を承知で暮らすか、引っ越すかの三択で考えるべきだ。

2.

被災地の奮闘を取材したドキュメンタリー番組をたくさん見たが、どこもかしこも行政に対する怒声であふれている。無力な被災者は行政を怒鳴りつけて利益を引き出そうと必死である。価値観が多様化した社会では、被災者のニーズも一様ではない。ならば住民自治の原点に立ち返って、新しい考え方で復興を進めたい。

例えば、老若男女を問わず、生き残った被災者に(被災状況に応じて)1人あたり1000万〜5000万円を支給したらどうか。「1人あたり」だから、支給額が1億円を突破する家族もあるだろう。なお、市町村には50%を上限として、この支給金に特別に住民税をかけてよい、とする。なお、予算は10兆円程度になるだろう。そして、国は基本的に、支給金の他には、お金のかかる支援策はしないことにする。

本当に被災者の多数派が故郷の復興を強く望んでいるのか、私は疑問を感じている。市民にお金を渡せば、従来は支援の乏しかった「移転したい人」も平等に救われる。従来通り復旧したい人や高台に移転したい人だって、10〜30家族くらい仲間を募れば、何とか実現できるだろう。しかも自分たちの自由にできる。

個人がバラバラに動くより行政が先導する方が合理的に見えるかもしれないが、無力な被災者を「権力を怒鳴りつける利益獲得競争」に巻き込むのは残酷だ。そんな政治は民主的でない。被災者に金銭という権力を分配し、各個人が主体的に被災対応に関わっていけることには、多少の無駄より大きな価値があると思う。

平成23年4月25日

1.

統一地方選挙の後期分が終った。

東京都御蔵島村のことだそうだ。島なので、人口が300人そこそこでも自治体の独立を守る意味があるということなのか……。

地方税の税収は6000万円そこそこ、使用料が5020.7万円、諸収入が8170.7万円と少し。税収より独自収入の方が大きい。そして予算は11億円超……。都と国から4億円超の支援が入り、地方交付税交付金も3億円を優に超えるから、無理が通っている。これで「自治」体とは、よくいったもの。

御蔵島村が議員=陳情係というのでは、教科書的な「健全な地方自治」は成り立たない。住民の負担と行政規模の乖離はあまりにも激しく、御蔵島村の財政は東京都議会の胸先三寸である。

2.

独自収入と支出の比率は絶望的であり、もはや御蔵島村が財政的に独立できる望みはない。「一時的に手厚い支援をすれば、その後は支援なしでやっていける」とは考えられない。

こうした自治体の住民には、生活水準を維持して都市へ移転するか、生活水準を落として現在地に残るかの選択を促すべきだと思う。いま多くの日本人が「よりよい生活」を求めて生まれ育った街から移動している。強制ではないならば、移転の促進は残酷ではないと考える。

具体的には、年間1人あたり125万円(≒4億円/320人)の支援を、個々人が現金で受け取るか、本州との永遠に埋まらない生活格差の穴埋めに投入し続けるか、当人たちに判断を任せてはどうか。

例えば「現在の支援策を打ち切って年間1人あたり125万円の現金を支給する。村を出た後も5年間は支給を継続する」と決めたらどうなるだろうか。もし全島民が支給金の全額を村に寄付すれば、従来通りの行政を維持できる。が、そうはなるまい。

年間1人あたり125万円、4人家族なら年間500万円、5年で2500万円。それだけの金額が自分たちのものになるなら、島民の多くも、島を出る方が合理的だと判断するのではあるまいか。いまはどうせ自分のものにならないお金だと思うから、「都と国は半永久的に御蔵島村への支援を続けるべきだ」というのであって、本当は島での生活に、投入されている金額ほどの価値を見出してはいないと思う。

人々の本音を引き出す仕組みを構築できれば、自ずと不合理は解消されていくだろう。

平成23年4月24日

私は面倒くさがりなので、よく見に行く動画共有サイトは1つしかない。いくつものサイトのインターフェースとか、どのあたりを巡回したら自分の興味にあった動画を見つけられるのか、といったノウハウを身に着けるのが面倒くさいからだ。

しかし当然、その1つのサイトにない動画は全く視界に入ってこないわけであり、そのことを残念に思う気持ちは大いにある。費用対効果を検討して「複数のサイトを常用する手間に見合うだけのメリットはない」と結論付けたが、ようは「残念だなあ」に対して「仕方ない」といっているだけであって、費用ゼロで「残念」を解消できたらいちばんいいのだ。

こんな私からすると、動画のマルチポストは大歓迎だ。「話題の動画」は全部、マルチポストしてくれたらいいのにな。

Googleなどの動画検索で満足できたらいいのだけれど。Pixivでタグを経由して画像を追っかけている人は、Pixiv内の検索がGoogleの画像検索のカスタマイズ版で置き換えられてしまったらウンザリすると思う。動画検索も状況は同じ。通り一遍の検索語で上位に登場するコンテンツさえ視聴できればいい、という人には伝わらない感覚だと思うが。

補記:

転載OKじゃない動画を第三者が無断で転載するのには基本的に反対。「著作権より大事なこと」のために敢えて無断転載したというなら、その言い分を聞きたい。だが、安直な考えでやっている人が多すぎないか。

平成23年4月23日

とりあえず2ちゃんねるやはてブでは「マナー違反ではない」が多数派らしい。いま優先席付近以外では通話以外はOKということになっているから、「電車に乗る→携帯電話の電源を切る」というマナーはもう消えた。とすると、マナーモードにしても緊急地震速報は鳴る場合があることが直接のトラブル要因なのか。

電車の中で地震速報のアラームが鳴っても対処のしようがないだろう、という意見もわかる。地震がくるとわかっていれば吊り革にしっかり掴まることができる、という人もいるけど、電車なんてのはいつだって急停止があっておかしくないもの。地震速報が鳴るかどうかにかかわらず吊り革はきちんと掴むべき。

電車じゃなく映画館ならどうか。映画館って、マナーモードならOKだったんだっけか? 近所のシネマロブレでは電源OFFが求められていたような記憶がある。こうなると緊急地震速報も動作しないことになるな。

「地震速報より大切なマナーなんてない」という意見も目にしたが、そうだとすると、「携帯電話の電源をOFFにしてください」という指示はありやなしや。一部の不心得者が不用意に音を出すのを撲滅するより、地震速報を受けられるようにすることの方が優先順位が高い、という話になりはしないか。

電池切れを起こした携帯電話を充電するためにちょっとコンセントを借りる件についてはどうだろう。窃盗罪という観点はともかく、マナーのレベルでは問題にならないのかも知れぬ。

でも実際のところ、緊急地震速報のおかげで助かったという人、そんなに多いのかね。命は何より重いので、1人でも助かったなら云々という人もいるだろうが、映画館はやっぱり電源OFFでいいんじゃないのか、と私は考える。人の命も大切だけど、気持ちよく映画を鑑賞できることも大切だよ。場内では携帯電話の電波を遮断している映画館も増えてきて、当然そこでは緊急地震速報だって受信できないわけだけど、私は断然支持したいな……。

ところで、試験会場での携帯電話の電源オフに異論のある人は、ほとんどいないらしい。人命より試験の邪魔をしないことのほうが大切なのか。ここは面白い論点なので、もう少していねいに扱ってほしいと思うのだが、「電車内で緊急地震速報を鳴らしていいなら、試験会場でも携帯電話はマナーモードでよいのでは?」という主張に対しては、頭ごなしにバカ扱いするひとがほとんど。何というか、多数派が、自分が多数派であることを確認するために少数派を叩いているだけ、という感じで不愉快だな。

まあ、緊急地震速報なんて、あと1ヶ月も経てば滅多に鳴るものではなくなるので、カリカリするだけ損だろうな、と思う。

余談:

……うまくまとまらなかったのでオマケとして書くのだけれど、0か1かみたいな議論の立て方をする人って結構いるのだけれど、その人の実際の行動を観察すると、確率が高いか低いかを考慮に入れていることが多い。で、それを指摘してみるのだけれど、「でも0じゃないんでしょ!」と取り付く島がない。

しかし実態として所詮は確率の問題なのであって、取り乱している人は一時的に混乱しているだけだと捉えるならば、緊急地震速報ごときにどの程度の意味があるのか、という話を避けては通れないはずだ。

平成23年4月22日

1.

なぜ辞表を提出できないのかがわからない。わからないが、わかる。

私は運動会が嫌いだった。自殺予告などをして運動会を中止に追い込むことに成功したニュースを目にするたび、誤解を恐れずに書けば、犯人に憧れた。すごいな、と思った。後先のこととか、広く世間に与える影響などを考えれば不合理なアイデアも、個人の空想・妄想・煩悶の中では魅力的に見える瞬間が、ある。

運動会をサボりたい、と周囲に訴えれば、必ず説得やらお説教やらをされるだろう。想像するだにうんざりする。ふと、まだ体験したことのない大きな破滅を空想の世界に閉じ込めておくことより、何度も実際に体験してリアルに想起できることを回避する方が、優先順位が高くなってしまう人がいても、おかしくない。

私が***を盗んだのも、後から考えてみれば、ようするにそういうことだった。なぜ明々白々な不合理を選択するのかは、当人にすらわからない。私は自分の破滅を完全に予見していた。それでいて、自分を止めることができなかったのだ。大人だって同じだろう。

2.

「辞表を提出しにくい雰囲気があるのが悪い」という一部の感想について。

何万人もの自衛官を被災地に派遣するとなれば、数人くらいはリンク先にあるような事件を起こす人がいても、おかしくない。私が「***を買いたいので小遣いを増やしてください」と相談することに困難はなかった。全ての人が常に合理的な判断をするわけではないのだから、何をどうしたって、事件はゼロにはならなかったと思う。

1件でもこんなことが起きていいわけはない。が、こうした事件をゼロにするために、無限大のリソースを割くこともできない。周囲の人が何をどうすれば私が***を盗まずにすんだのか、と私は何度か考えてみたが、いつも結論は「何をどうしたって無理だったんじゃないか?」だった。例えば、両親がエスパーのように私のほしいものを見抜いて***を買い与えていたら……私はまた別のものを盗んでいたんじゃないか、という気がしてならない。「辞表を提出せずに仕事から逃げるため、犯罪を行って警察に逮捕される」なんて不合理な道を選ぶ人を救うのは、並大抵のことではない。

「辞表を提出しにくい雰囲気があるのが悪い」とか、「旧軍の頃から兵士の心のケアがないがしろにされている」といった批判に一定の妥当性はあるのだろうが、それが原因だといえるほどの根拠は、私には見出せなかった。前述の通り、私は、こうした事件を根絶できるとは考えていない。事件発生率の高低の比較をすべきで、1件でもあったらアウトといったら、現実的な範囲内に「答え」は存在しないと思う。

ところで、「敵前逃亡は軍法会議にかけるべき」といった類の感想も僅かに見られた。個人的には、第二次大戦の経験から「敵前逃亡への寛容さは軍の強さと関係ないことがわかった」と認識している。だとすれば、無益な血を流すことなく、敵前逃亡には寛容な態度で臨む方が、理に適っていると考える。

平成23年4月21日

記事をよく読むと、自前の発電機を用意して対応すると赤字になるから無理だ、といっている。データセンターはトラブル対応のサービスが重要なので、主要顧客の近くでないと営業できないから、関東地方を離れることもできないのだそうだ。

……ということならば、値上げをすべき。それ以外に合理的な解決策はない。政治の力で不合理を通せば、経済的には、社会全体としては必ず不合理の害が上回る。

ただ、そもそも論をいえば、一律25%削減などと社会主義的、計画経済的な不合理をやろうとしているところに第一の問題がある。もし可能であれば、「全体として25%削減する」ことにして、電力購入権の取引市場を作るべきだ。時間が迫っているから、公開市場を作るのは難しいかもしれないが、電力購入権を金銭で売買することだけは認めるべきだ。

電力購入権の取引ができれば、消費電力を減らしやすい企業も減らしにくい企業も(取引ができない場合と比較して)得をする。節電が生産の削減だけでなく利益にもなるとすれば、ボランティア精神に乏しい企業であっても、いっそうの節電努力をするだろう。

その結果、オイルショックのときと同様、恐慌に駆られて高値掴みしてしまう企業も出てくるだろうし、逆にやたら安く売ってしまって公開する企業もあるだろう。でも、それでいい。相場というのは、多くの人の試行錯誤によって形成され、そうであればこそ、概ね合理的な結果が自動的に得られるわけだ。

統制経済なら、何でも政府に責任を押し付けることができる。人々は暗中模索を嫌うから、先行きが不透明になると、政府の統制を希求してしまう。しかし政府に押し付けることができるのは観念的な責任だけであって、非効率の害は必ず私たちの生活に降りかかってくるのだが。

平成23年4月20日

輸出総額は前年同月比で2.2%減、とのこと。4月はより厳しくなる見込みだそうだが、その理由は生産体制の問題が大きいという。これは私の実感にも合う話。

少年犯罪が増えたか減ったかというような話題では、不思議と事実に着目する人がネットの一部では目立つように思えるのだけれども、貿易の話題になると「福島第一原発の事故で日本の輸出産業は全滅」といった記事がたびたび人気を集めている。(ちなみに私が眺めているのは、はてなブックマークTweetBuzzです)

まあ、今日まで統計は出ていなかったわけだけど、少年犯罪については、そもそも「冷静になってみると少年犯罪が増えている気がしないな」という生活人としての観察があって、だからこそ「やっぱりそうだったか」と納得されたのではなかったか。貿易統計については、むしろ事実の方に違和感を覚える人が多そうだ。

新聞社は統計に表れた事実を無視できないが、同時に読者が求める報道もやっていかねばならぬ。そこで貿易赤字の減少に目をつけた。4月は前年比2桁の輸出減少と貿易赤字が見込まれるので、5月下旬にはきっと大きな記事が出るのだろうと思う。

でも、見方を変えれば輸入が堅調で、人々は消費水準を(あまり)落としていないということであって、明るいニュースでもある。だが、読者はそのような分析を求めていないと編集担当は判断したのだろう。おそらく、その判断は正しい。残念なことだ。

平成23年4月19日

今回の天災でサプライサイドとデマンドサイドが同時にズタズタという異常事態に陥り、
(単なるマクロ政策では)超インフレが到来しかねない(そもそもみんなが勝手に経済活動=生産や消費を行うだけで大規模停電等で社会インフラ自体が崩壊しかねない)状況となり、
(今までの「田舎者は死ね」思想は無かった事にして)取り敢えず復興土建でサプライサイド&デマンドサイドを同時にカバーしなくてはと焦りまくり、、、
、、、というのが今のリフレ派(ネットリフレ派)のテイタラクですわなあ。

私は相変わらずリフレ支持。当然、このような意見に対しては異論があります。

  1. 実際問題として、震災後の日本経済に目立ったインフレ傾向は見られない。間もなく基準改定が控えているので、+1%未満なら実際にはデフレと考えていい。個別の商品分野を見れば値上がりしたものもあるけれど、全体としては相変わらず金融緩和が望まれる状況だと思う。
  2. 東日本大震災によって失われた日本の生産力は、全体に対する割合としては大きくない。2008年第2四半期からの莫大な需要減を回復できていない状況で、今もって日本経済は需要過小で生産能力が余っています。震災前、デフレギャップは60兆円という試算もありました。政府予想の被害額16〜25兆円は主に資産の被害で、毎年の生産力への震災の直接的な影響は1兆円程度と予想されています。つまり、デフレギャップは全く埋まっていない。
    四半期別GDP速報 2011年1-3月期・1次速報(2011年5月19日)
  3. 人々が避難生活を送っている地域のGDPは1兆円程度でも、サプライチェーンを通じて日本経済全体に影響があるのであって……というのはその通りだけれども、自動車の生産にせよ何にせよ、1年も止まっているわけではない。長期的にも代替が不可能な生産物は多くないので、サプライチェーンは被災地の復興を待たずに回復します。ですから春の間は直接被害の10倍の影響があっても、1年間の累計ではGDPに10兆円も影響しないという試算が出てくるわけです。
  4. 二次被害として生じた電力不足はたしかに大きい。今年度中は厳しい。けれども、生産力と電力消費は比例しません。第1次オイルショック、第2次オイルショックでは数年にわたり日本のエネルギー消費量は低下しましたが、いずれの期間においても平均すれば日本経済はプラス成長を実現しています。
  5. リフレ派に巨額の復興投資を支持する方がいるのは、供給力の回復を焦っているからではないでしょう。国全体の経済発展を目指すなら、被災地の復興より効率のよい投資先は多々あります。例えば、法人税減税でもした方がよほど生産力の増強には役立ちます。ですから、被災者を助けたいという思いと、消費の萎縮を補う大きな政府支出が必要、という状況認識が巨額の被災地支援への支持につながるわけです。

とはいえ……私自身は復興に数十兆円も投じるのが正しいとは思わないな。精緻なプランを持っているわけではないが、考え方の骨子は、近日中に書く予定。追記:書きました↓

平成23年4月18日

以下、技術的困難や政治的困難を無視したメモと断っておきますが。

原発事故があろうとなかろうと、震災直後と今夏の電力不足は生じていました。政治的困難を突破して不合理を排し、価格による需給調整で電力消費の効率的な抑制を実現できないか。全産業で一律15%削減、民生の需要抑制は個人の心掛けに任せる、といった電力需要の抑制策は非効率。その帰結は所得と雇用の減少であり、結局は国民の生活水準を引き下げます。

1.

電気料金の引き上げの大部分を税金の形で行い、それを財源として弱者の保護を行う、という風にできないものだろうか。元気な人たちは公民館や集会所に退避するとか、あるいは家族みんなで小さな部屋に集まって過ごしたりすれば、稼動するクーラーの数が減って、かなりの節電になるかもしれない。電気代が大幅に上がれば、多くの人が自然とそういう風に行動するのではないか。小幅な値上げでは弱者の保護もおざなりになるし、節電の効果も乏しい。大幅な一時値上げがよいと思う。

思えばクーラーなんて最初は1部屋だけだったのに、今では全室冷暖房完備の家が増えている。あるいは、天井を高くしたり、吹き抜けを作ったり。どんなに効率がよくなっても、人々の電力消費が増え続けたのは道理でした。つまるところ、人々はクーラー1台あたりの電気代が減ったら、その分を他の何かに消費するのではなくて、「余った電力」を消費する別の家電(例えば2台目のクーラー)を買ったのでした。生活水準の向上は電力消費とともにあったということでしょう。

昨今はやりのLED照明というのも、結局は同じことになるのではないかと思う。もちろん、部屋をもっと明るくしたいという欲求は多分ないから、電球は増えません。けれども、天候に関係なく乾燥機を使うようになる、とか。梅雨時に乾燥機を使っていると、暑い夏がやってきても、洗濯物を干すのが面倒でたまらなくなる。乾燥機を使うと電気代が高くなっちゃうから……という重石が取れたら、スーッと楽な方に流れていく。

2.

産業向けについては、夏場の平日午後の電気に産業向け全体で需要が2010年比15〜20%減となるまで際限なく割り増しの消費税をかけ、その税収分だけ法人税を減税できたとしたらどうでしょう? 電力消費量に比して利益の大きな産業への自動的な支援になりますよね。

また従業員数に比して電力消費量の大きい産業では、深夜・早朝へのタイムシフトが起きるでしょう。深夜手当てより電気代の方が痛いからです。同時に、古い工場の工業団地への移転も進むはずです。住宅街の中にある工場での24時間稼動は難しいですから。

当然、ここで淘汰される企業も出てくるのですが、今後の日本では電力需要のピークを抑制することが最重要課題なのだと仮定すれば、新時代に対応できない企業が淘汰されるのはやむをえません。雇用については、タイムシフトを実施できた会社のシェアが拡大し人手不足になることで、最終的には吸収されるのではないでしょうか。

平時にこうした政策を取る必然性は乏しいのですが、一律15%削減との比較なら、この方がよほどマシだと思います。深夜勤務の人は増えますが、それを問題視すべきなのは、深夜勤務を強制されて他に行き場がない場合と、深夜手当てが安すぎる場合などでしょう。「いや、場合とかじゃなくて、絶対にそういうことが起きるから論外」というなら、いま深夜勤務している人の存在だって忘れてはいけない。既にあるものを等閑視している人が、追加分にばかりワーワーいうのは説得力がない。どうせその追加分だって、見慣れたらもう、問題だと思わなくなるに決まってます。

社会主義的な手法で平日13〜19時の電力使用量15%削減を実現すれば、みんなで貧しくなるしかない。けれども価格で調整すれば、儲かる会社も給料が増える人もたくさん出てきて、経済のプラス成長と電気の節約は両立しうるのではないか。

平成23年4月17日

1.

2.

3.

4月27日から5月23日に発売延期とのこと。私は年末に発売予定の一般家庭用SPIDERに興味を持っています。

平成23年4月16日

1.

……。

2.

デマの基盤は正義感のようなところにあることが多いのが厄介。「証拠もないのに他人を責めない」ということを徹底するしかないな……。心の中で疑っているだけなら、それはデマにならないわけで。

「のどかな」という形容詞を付ける免罪感覚には距離をおきたい。それはそれとして、海水を被った食料品や衣料品はどうせもう商品にならないので、それらは「ご自由にお持ちください」とやってもよかったろう。震災で管理部門と連絡が付かなかったとしても、現場の権限でそうしたことがある程度できたらいいのにな。他人の著作権を無視する連中は許せないが、著作権フリーのコンテンツを公開することには大賛成という話と同じスタンス。

もし仮にそうしたことができなかった理由が「食中毒を起こしたら責任問題になる……」というような心配だったとすれば、日本のどこかで再び起きる災害に備えて、社会的なコンセンサス作りが必要だと思う。

私は上の記事に賛成。非常時に必要とされる職種でも関係なく休みたい人は休める社会が正しい。「市民生活を支えるため」なんてのは強制を許す理由にはならない。JavaBlackさんのいう何が何でも出社しなければならない仕事など、あっていいはずがない。

3.

平成23年4月15日

1.

人に相談されたら、これらの記事を紹介している。

2.

老若男女を問わず、私も含めて、デマと全く無縁の人はいないと思う。まあ、「デマ」の定義にもよるのだけれど。自分の目で見たことさえ「絶対に確実」などではないのだが、判断を何から何まで保留し続けることだって不可能。多少の不確実性を乗り越えて物事を決めていかねばならない。

ところで、この手の話題で「オカン」を情報弱者のように位置づける人をネットではよく見かけるのだけれど、どこまで本気なのか、私にはよくわからない。個人的には、自分と同世代の軽挙妄動が目に余ると感じる場面の方が、よほど多いので。例えばkobeniさんも「ネットではデマが淘汰される」と信じているわけだ。それは明らかに事実と違っているのに、なぜ気付かないのか。

……と書いてからはてブを見たら、私の感想を代弁してくれてるコメントがいっぱい。何かまた記事を書くのが面倒くさくなってきた……。

「ここから先は安全」という線引きは不可能であって、「どの程度のリスクなら許容範囲か」という話なのに、そういう問題の本質をどれだけ説明されても理解しようとせず「絶対安全」を求め続ける人がいるわけだ。彼らが納得するような説明などありはしないのだが、新聞紙面にも政府が説明不足だから消費者が安心できない、といった論説が載る。

リアル日常会話の相手にもこういう人がいて、ウンザリしている。私としては議論も説明もしようがないから、この話題になると、私はただ黙り込むことにしている。私には誰も説得できない。「出荷の自粛が解除された地域の野菜を積極的に買う」など、自分にできる範囲で黙って行動していくしかない。

原発事故があろうとなかろうと奇形は生じる。その発生率が通常より高いか低いかが問題なのだが、いったん事故が起きると、その後、何でもかんでも「事故が原因でこうなった」と解釈されてしまう。もとのテレビ番組を視聴していないので、映像にどんな解説が添えられていたのかわからないが……。

3.

平成23年4月15日

1959年9月26日午後6時過ぎ、伊勢湾台風が紀伊半島の潮崎に上陸した。「もはや戦後ではない」といわれてから3年、戦後の経済成長を受けて気象予報は大いに発達、ラジオ・テレビも普及していた。9月20日に静かに誕生した熱帯低気圧は、21日に成長して台風18号となり、22日から23日にかけて急激に発達、列島直撃が予測された。24日、台風18号は日本の観測史上最大・最強クラスの台風となり、国民は全力で対策を行った……。

当時、父は11歳、母は7歳。父は知多半島の付け根の街に、母は岡崎平野の「日本のデンマーク」と呼ばれる地域にある街に暮らしていた。

独立心の強い父は、倉庫兼用の離れ家で生活していた。24日から窓という窓に板を打ちつけ、柱の間に違木の形に補強財を入れた。25日には雨が降りだしたが、屋根へ登って瓦を止める針金をさらに増やした。26日の朝には母屋から丸1日分の食料を運び込み、台風が過ぎ去るまで離れ家の扉を堅く閉ざすと宣言した。父が母屋を出ると、祖父は母屋の扉を封印した。風の音がすごく、お互いの金槌の音は聞こえなかったという。

母に特別な記憶はない。

原稿用紙10枚分超の対策記事を書くつもりだったが、中途で放棄。

平成23年4月14日

周囲を観察していると、1つ上の「団塊の世代」に比べると、私たちの世代は相当に病弱・虚弱で、やたらと元気で丈夫な「団塊」よりも、たぶん先に死に絶えるだろう。

直感的に「そんなバカな」と思って調べてみたところ、死亡率は全世代で低落傾向にあることがわかりました。だからといって「現在の中年が過去の中年より病弱ではない」とはいえません。「病弱になったけれども、医療体制の強化によって死ににくくなった」のかもしれない。そうはいっても、全世代で死亡率が低下しているという事実は、やはり大きいと思う。

年齢階級別死亡率推移

おおもとの資料は人口動態調査ですが、今回は総務省統計局の資料から数字を拾っています。

ちなみに日本では今後、死亡率の上昇が予想されています。ただしその理由は、長年の少子化の結果として高齢者の割合が増えていくことです。人々が病弱になって平均寿命が短くなる……とは予想されていないようです。

平成23年4月14日

「ぼくのかんがえたすごい復興案」です。私は大真面目に書いていますが、ジョークだと思っていただいても可。

1.

過日、ある知人が「インフレというのは供給を需要が上回るから起きるのだとすれば、東北を中心に大きな打撃を受けている観光地の旅館やホテルを避難所として、宿泊料は政府紙幣を発行して賄っても、インフレにはならないんじゃないか」といった。ガラガラの観光地では、明らかに供給力が余っているじゃないか、というわけだ。もし人手が足りないとしても、被災者を一時雇用すればいい。なるほどなあ、と思った。

ちょっと計算してみると、現在、避難所で暮らしているのは16万人ほどだそうだ。1泊1人1万円とすると、16万人×1万円×365日=5840億円、となる。えっ? たったそれだけ? 正直、驚いた。

この程度の金額なら、前例に囚われず……というか、今後は避難所暮らしを強いるのなんかやめて、被災者の観光地での吸収を基本政策にでもすればいいじゃないか。市町村単位での移転は困難だとしても、高々100世帯の集落単位での移転なら、不可能ではない。「このまま夏がやってくると衛生面で悲惨なことになるぞ」といわれる避難所暮らしを強いているのは、ケチな(あるいはインフレをとても恐れる)国民なのだと思った。

補記:

新聞記事によると、現在、旅館が被災者を受け入れると1日5000円が支給されているのだそうだ。それで利益が出るところもあるにはあるそうだけど、たいていの旅館は客単価を1泊1人1万円に設定しているので、半ば慈善事業と化しているのだという。それでも、被災地から離れた旅館へ避難した人々は、毎日温泉に浸かり、暖かい布団で眠ることができている。

かつて裕福な結核患者は親族の支援で1年、2年と湯治して、また社会に復帰していった。2年間くらい、みんなのお金でのんびりしたって、それで自立の精神が腐ってしまうなんて心配は、無用ではないだろうか。

2.

話のスケールを上げます。

従来、日本のデフレギャップは20兆円とか60兆円などといわれていた。もしその通りなら、単純には、政府が20兆円くらい浪費してもインフレにはならない、ということだ。それで今、復興国債を20兆円くらい発行し、日銀に引き受けてもらおう、なんて話が出ている。でも、本当にインフレにならないなら、いかなる意味でも返済不要の政府紙幣の方が「わかりやすいじゃないか」と思う。以下、「20兆円を浪費できる」前提で書く。

a)

被災地では20兆円もの予算を執行できる体制がない、という主張には根拠がある。が、それは従来型の復興をする場合であって、発想を変えれば20兆円なんて足りないくらいだ。

大学の教養科目で学んだ防災の教科書(いま手許にない)には、「被災地復興の理想形は、いったん被災地を国有化し、次の災害にしっかり備えて全面的に街を作り直すことだ」と書いてあったと思う。しかし大災害の際には権利者の居場所を突き止めるのも難しいし、予算の制約も厳しいし、絶対に土地を手放さない人も少なくないので、過去、少なくとも日本では一度も実現したことがない。

これを、やる。

まず、「震災前の公示地価の3倍の補償金と引き換えに、絶対に土地を手放さねばならない」という特別な法律を制定する。で、被災地と、周辺の山を片っ端から国有化する。権利者が行方不明の場合は、とりあえず土地を収用し、後から補償金を支払うことにする。これらは国家による重大な私権の侵害だが、再び人が津波に流されないためには、どうしても必要な措置だと信じる。

b)

いま仮設住宅の建設を急いでいるのは、不衛生な避難所で夏を迎えれば、大勢が病気に苦しむことが目に見えているからだ。また避難所の劣悪な環境に耐えかね、コミュニティを離れる苦渋の選択をする人がどんどん増え、それを放置すればコミュニティの再生は不可能になる懸念があるからだ。

しかし観光地の旅館に逗留していただくなら、かつての結核療養のように2年程度は継続をお願いできるのではないか。それなりの大きさの観光地なら、集落単位で被災者を受け入れられる。コミュニティがバラバラになる心配もない。大きなスケジュールが見える、子育ての心配がない、必ず故郷に帰れる、といった条件が揃えば、結束を保ちつつ復興の日に備えて英気を養うことができるのではないか。

2年間あれば、慌てて仮設住宅を建てる必要はない。山を削って高台に広い土地を確保し、電気・ガス・水道を整備して、新しい街を建設する。新しい街には、住宅地と産業用地を用意する。なお、港のそばにないと不都合な施設、海水をたくさん使う事業所などは、再び津波に襲われることを覚悟して海辺に作るしかない。でも低地には住宅地を作らない。

今回の津波では多くの高齢者が逃げ遅れた。多くの記録映像に、迫る津波が視界に入ってもなお走ることのできない高齢者の姿があった。また、核家族化が進行したいま、余命の短い老人は、津波に流された個人住宅を回復することができない。血族が代々同じ家に暮らし続ける時代とは、条件が違っている。従業員さえ無事なら長期計画を立てられる企業であれば、再び低地に事業所を再建してもよい。だが個人住宅は、同じ場所に再建してはいけない。

c)

住宅地は、もとの集落ごとに、世帯数と人口に応じて配分する。住宅やアパートは、土地と交換した補償金で建てていただく。借家住まいだった人は、やっぱり何らかの借家に暮らすことになると思う。

産業用地は参加者制限ありの競売で払い下げる。

この先は、一定の資金を配分した上で、詳細は地方自治と自由経済に任せたい。

3.

1.は5840億円、2.ではさらに20兆円(では足りないかも)を政府紙幣で賄ってもインフレにならない、という前提があっての話。

本当のところは、どうなんだろう。以前から何度も書いていることだけれども、日本ではもう長いこと、労働力率がどんどん低下している。その理由は高齢化なのだが、「それなら仕方ないね」ではないのだ。日本ではこの30年余りの間に、60代以上の就業率が急落した。それが労働力率低下の真因だ。リタイアして幸せならいいが、「定年がなければ、もっと仕事を続けたかった」という人が過半なのだ。

若年失業を解消しても、「60歳定年+延長雇用5年間」なら余剰労働力は500万人分程度。しかし、昔のような「働ける限り働くのが当たり前の社会」を復活できれば、日本には1000万人分を優に超える余剰労働力が眠っていることになる。労働者を6000万人から7000万人に増やせるなら、100兆円くらい「潜在」GDPは上昇する。いま、その労働力は完全に「潜在」しているので、一般的な潜在GDP(需要さえあれば今すぐ実現可能なGDP)としては現れていない。でも、「日本全体で+100兆円」即ち「国民1人当たり+80万円」が日本経済の真の実力だと私は思う!

おそらく、1.はともかく2.を実施したら、実際にはインフレになってしまうだろう。でも、数年かけて雇用+1000万人、生産力+100兆円さえ実現できれば、震災復興と全国の防災対策に100兆円を投入してもインフレにはならない。これこそオール日本で行うべき震災復興、日本の再起動だよ。

津波襲来想定地域の高所移転やスーパー堤防などを実現するには、膨大な私有地の買い上げが必要。おそらく、完了しないうちに100兆円程度はアッサリ使い果たす。自由の国で人の命を守るには、それだけのお金がかかる。まだ、やるべきことがある。だから、経済成長は、断固実現しなければならない。

余談:

将来的には「高過ぎる進学率」も下げて16〜24歳の労働力率を上げ、労働者をさらに200万人増やすべき。ただし政策の優先順位は「人手不足社会の実現→(現在の進学率を前提とした)若年失業者の吸収→老人雇用の拡大→進学率抑制」だ。手順前後はダメ。なお、日本の経済政策は、日本人の生活水準の向上を第一目標とすべき。国内に失業者を抱えながら、単純労働を外国の方にお願いするのは絶対に反対。

平成23年4月13日

今日も就職活動の話。私は2001年の3月から7月までの4ヵ月半、就職活動をした。

1.

私と同期入社の20数人のうち、SPIなどのペーパー対策をやっていたのは4〜5人だった。大学の就職課の先生や就職サポーターの方に相談して模擬面接を受けたのが1人、友人・知人と面接の練習をした人すら2〜3人しかいなかった。提出前の履歴書を他人にチェックしてもらったことがある人も、ごく僅か。

数日経ってから合否だけ知らされるので、何社落ちたところで反省点もわからない。就職氷河期だったというのに、みな「怖い」「厳しい」というばかりで、ロクに対策をすることもなく、無為無策のまま10社、20社と落とされ続けた。模擬面接や履歴書の第三者チェックをした方がいいことはわかっていた。誰に頼めばよいかも知っていた。なのに、やらなかった。私もそうだった。

就職活動には苦労した。結局、素の自分を受け入れてもらおうとしたのが間違いだったのだ。自分は背伸びして就職しようとしていたのだから、履歴書も、面接で話すことも、背伸びする必要があった。相手の都合に自分の方が合わせる必要があった。当たり前のことだ。落ちて落ちて落ちまくって、ようやく、ストンと胸に落ちた。それから間もなく、複数の会社から同時に内定をいただいた。

「当初は眼中になかった素敵な会社に入れてよかった」というのは結果論だ。あの日々を思い起こせば、時間を浪費したとしかいいようがない。

2.

2002年2月、研究室の同輩が後期の院試に落ちた。もうどうにもならないので就職するしかないという。仕方なく先生は、地元の小企業に紹介状を書いた。ただし、紹介状を渡す条件として、「誰に見せても恥ずかしくない履歴書を仕上げること」「面接の練習を十分に行うこと」の2項目を挙げた。私は、履歴書の1次チェックと模擬面接の副面接官を担当することになった。

まず履歴書のチェック。研究室の同輩は、なかなか履歴書を見せてくれなかった。何度も書き直しているのだという。ようやく彼が履歴書を持って研究室に現れたのは、期限前日の昼頃だった。夕方までに郵便局へ速達の依頼をしなければ間に合わない。彼の履歴書を見て、私は愕然とした。

詳細は書かぬ。ともかく、即座に書き直しとなった。続いて就職を決めた院生の先輩がチェックする。また書き直し。日が暮れた。先輩の再チェック。翌朝までに、再び書き直してくることになった。翌朝、やっと先輩のOKが出て、先生に見ていただいた。「よし。だが、間に合うのか」先生は、それだけ仰った。彼は先輩の軽自動車に乗って直接会社へ履歴書を届けに行った。

続いて面接の練習。履歴書のことで彼は信用を失っていたので、本番の3日前には先輩が電話で彼を呼び出し、模擬面接をはじめた。1週間前の時点では「なるべくきなさい」といっていたのだが、彼は顔を出さない。そこで先輩は電話をかけ、「なぜこれないのか。バイトは午後8時に終る? だったら、それからこい。徹夜で面倒を見る」と詰め寄り、当日は朝から何度も電話して現在地を報告させ、無理やり研究室へこさせた。

彼は卒論のまとめも一時休止して「空き時間はずっと一人で面接の練習をしていた」はずだった。ところが、やはり模擬面接はボロボロだった。よく話を聞くと、たしかにあれこれ考えてはいるのである。

私は、「自分の4ヶ月余りの苦闘も、こういう惨めな努力だったんだな」と悟った。昔から、成績と無関係な、あくまで自分の実力を知るためのテストでも、受けるのは嫌だった。抜き打ちテストには「エーッ!!」と抗議の声を上げたものだ。私が履歴書の第三者チェックから逃げ続けた理由も、面接の練習を自分一人だけでやりたかった理由も、同じだった。

彼の履歴書は、たった一晩で見違えるように進化した。面接の受け答えも、2日で別人のように堂々としたものになった。「すごい!」と私はいったが、心は冷めていた。他人のチェックを受け、自分の欠点を客観視する効果は、最初から、よくわかっていたはずなのだ。なのに、どうして自分はそうしなかったのだ? その答えは、目の前にあった。

悲しいからだ。苦しいからだ。泣きたくなるほど、つらいからだ。顔を歪め、背中を丸めてしまう同輩を目の前にして、私は身を切られるような思いがした。

3.

たいていの人は、自分に甘いのだと思う。履歴書がダメなまま、面接が下手なままの方が、客観的には悲惨なことになっていく。でも、合否の結果しか通知されないならら、主観的には深く傷つかない。でも傷ついてはいるので、「つらい」「苦しい」と人並みの苦労をしているように錯覚する。

あちこちの会社に落ちて落ちて落ちて、だんだん履歴書の志望動機欄を埋めるのにも慣れてくる。だが実際は、どんな業種でもちょっと書き換えれば通用する、個性も内容もない文章を書き慣れただけ。むしろ雑になっている。本当はわかっている。でも、ごまかしている。敗北の連続が、無駄だったとは思いたくないから。

面接も同じ。面接官の言葉を自分の狭い体験に結びつけるのがうまくなったようでいて、それが有効なアピールになっていない現実から目を背けている。調子よく喋っているときだけ語勢が強くても、自分の中に確信がなければ、途端にボロが出る。うまいことをいおうとする必要などないのに、これは有意義な努力なのだと自分を騙す。己の薄っぺらさを満天下に晒すだけだと本当は気付いているのに……。

就職活動を続けるうち「ストンと胸に落ちたこと」を私が明瞭に言語化できたのは、じつは就職活動後のことだった。就職担当の先生に報告がてら少し長い話をしたとき、ようやく自分の就職活動の顛末を理解できた。いや、それもまだ甘かった。自分のみっともなさ、情けなさを、正視していなかった。だから、半年後に研究室の同輩の就職活動に協力する中で、ショックを受けたわけだ。

愕然とするような履歴書も、衝撃的なまでに下手な面接も、全て自分だった。やっと本当にわかった。これは落ちる。落ちて当たり前だ。日本の名だたる大企業が、こんなのを簡単に採用したのでは、むしろヤバイ。だけどみんな、最初はそうさ。私が恥ずかしいのは、現実から目をそらし、漫然と様々な企業を受けては落ちるのを繰り返していたことだ。

周囲の働き掛けの賜物とはいえ、こうして身を切られるような場へ出てきて、のた打ち回って苦しみ、そしてメキメキ成長した同輩は立派だ。私にはできなかったことを、やってのけたのだ。尊敬する。

補記:

客観的には、履歴書の第三者チェックも、他人を交えた面接の練習も、やらない理由がない。けれども、当人にとって苦痛が成長の喜びを上回るなら、自発的にそれらをやろうとすることはないだろう。

素晴らしい履歴書を仕上げれば、もちろん嬉しい。しかし、そのために必要な苦痛は、たいていの人にとって、嬉しさの数倍にもなるだろう。他人様から見れば、それで生涯収入が数千万円も変わるのだから、余裕で元を取れる。だが人の気持ちは、もっと短いスパンに焦点を当てるようにできている。

小中学校の抜き打ちテストごときを、なぜあれほど嫌だと感じたのか。零点だっていいはずだ。自分の実力を認識して、今後の学習に活かすことが大切なんだ。でも、「仕事の進捗状況を今すぐ報告してくれ」といわれると、ヒューッと胸に風が吹く。週末の定例会議までに何とか遅れを取り戻そうとしているところなのに……。ダメな自分と向き合って傷付くことを恐れる弱さは、何も変わっていない。

たぶん、報告会議がなかったら、私はどんどん仕事を遅らせていくのだろうと思う。優秀な人は、自分で自分を追い込んで、どんどん前進していくから、進捗報告会議なんて時間の無駄だろう。そういう人は、履歴書の第三者チェックだって、無意味と感じたろう。他人はヌルいからだ。面接の練習もそうだ。就職サポーターは、基本的に優しい。何とか褒めて伸ばそうとする。だから録画のセルフチェックの方が緊張感があったろう。

でも、私のような凡人は、そうはいかない。好きにしていいといわれれば、自分を甘やかしてしまう。苦労してます。頑張ってます。主観的には、そう。全力でやっているつもり。でもそれは、本当は全力じゃないわけだ。自分で自分を騙しているに過ぎない。

平成23年4月12日

新入社員が見学にやってきたので、ちょっと話を聞いた。

一部のネット上では「日本では履歴書は手書きじゃないとダメ」ということになっているようだが、オンラインでエントリーシートを受け付けているような会社なら、たいていワープロ印字でいいらしい。というか、「最初から手で書くなんて考えもしませんでしたが、何社からも内定をいただきました」という人が過半だったのが面白かった。

会社説明会に手書きとワープロ印字の両方の履歴書を持参して、どちらがよいか質問してから提出していたという人もいた。「で、答えは?」「ワープロ印字の方がいい、という会社しかなかったですね。だから6社目からはワープロ印字の履歴書しか作成しませんでした」「サンプル数は5か……」実験データとしては心許ないけれども、5連続でワープロ印字が選択されたなら、ふつう手書き版を作り続ける意欲はなくすよな。

そんなわけで、リクナビ経由で就職活動をするような方々は、手書きが嫌ならワープロ印字で押し通していいと思う。それで落とす会社の方が少ないようなので、わざわざ少数派の、時代に取り残されたような会社に入ることもないでしょう。

念のため。自由経済なのだから、手書きの履歴書を求める会社だって、あっていい。手書き履歴書の作成が得意な人が、そうした企業を目指すのも悪くない。手書きへのこだわりが「愚か」だなんて断定できない。手書き履歴書の強要を嘲笑している側にも、明確な論拠はないはず。事実の裏づけを欠いた意見の押し付け合いをしても虚しい。市場競争の結果で勝負しましょう。

自由経済というのは、人々が思い込みを捨てて多様な方針で突き進み、死屍累々の中から事前には想像もできなかった勝者が現れるところに、その良さがあるんだ。「みんな」の考えが「正しい」と決め付けたら、そんなのは計画経済と同じじゃないか。行政サービスなら、市場による淘汰が起きないから、仕方ない、常識に沿って運営するしかないのだが。

平成23年4月11日

1.

首都圏の人間が「放射線から身を守るには」という紙面を読まされた時、どう思うだろう。当然「福島第一原発の放射能物質は、東京にも降り注ぐのだな」と理解するに決まっているではないか。

新聞には、いろいろな記事が載る。それをバラバラに取り上げて云々するのは、新聞の読み方ではない。廃品回収に出す前に震災直後1週間の新聞をザッと読み返してみると、次のような情報が読み取れた。

  1. 政府による避難や屋内退避の指示には従うべき。
  2. 原子力発電所の敷地外に、人が直ちに死ぬような危険は存在しない。今回の原発事故によって周辺市街地に生じているのは、将来、ガンなどが発症しやすくなるというリスク。このリスクはなだらかに変化するので、安全の線引きは恣意的なもの。どの程度のリスクなら許容できるか、という価値判断の問題になる。
  3. 関東地方全体に多少の放射性物質は飛来するが、原発から遠く離れてしまえば、喫煙などと比較して十分にリスクは小さくなり、むしろ心配が引き起こす心因性の健康被害の方が大きくなる。とはいえ、リスクがゼロでないのも事実。屋内退避地域と同等の対処をする方が、放射性物質に対して、より安全には違いない。
  4. 原発事故の完全な収束には時間がかかるが、周辺への放射性物質の放出の抑制ができれば、放射線量は次第に減っていく。「現在の値がずっと続く」と仮定した健康被害の想定は、「これより悪くはならない」という目安と考えてよい。

烏賀陽さんが批判している朝日新聞の報道は、上記第3項の後半部に対応するものだろう。新聞は多くの記事で紙面を構成しているのであって、ひとつの記事に上記の4項目を全て組み込むことはしない。朝日新聞の紙面は確認していないが、第3項の前半に対応する記事もどこかにあったはずだ(同じ日付とは限らない)。

2.

結論は、「チェルノブイリ級の事故になることはまずない。なっても汚染物質が降るのは半径30キロメートル程度」とあるではないか。あまつさえ「首都圏のブリティッシュスクールは休校すべきか」という問いに「地震や津波を別として、被曝の心配なら、その必要はない」とまで言い切っている。「今回の事故をチェルノブイリに例えるのは、完全に間違っている、と強調した」(イギリス政府主席科学顧問のジョン・ベディントン氏)。

烏賀陽さんの記事でいちばんわからないのは、この部分だな。こんなの、日本政府の発表と変わらないではないか。ベディントンさんだって、「絶対にそうだと言い切れるか? 保証するか?」と問われたら、日本政府と同等の腰の引けた表現になったろう。だったら政府見解を報じる新聞を読んでも、安心できたはずだ。

結果的には、30km圏外でも地形や風向きの関係で人が住み続けるには問題のある水準の放射線量になった地域が出たわけだが、それでも直ちに健康に影響するほどではなかった。避難が1〜2ヶ月遅れても、飲酒や喫煙の習慣と比較すれば格段にリスクは小さく、許容範囲内だ(私の基準では)。

日本政府の見解を読んでも全く安心できない人が、イギリス政府の科学顧問やアメリカ政府、オーストラリア政府の見解を正確な情報と認識し、それを読んで安心するというのは、奇妙な話だ。

クライシスに市民のために役立たない報道など、何の存在価値があるのだ。

烏賀陽さんは、私より情報の収集と咀嚼に長けているはずだ。それなのに、私が上にまとめた程度の情報も新聞から読み取れなかったのはなぜか。それは、最初から新聞をきちんと読む気がないからだと思う。

関連記事:

3.

新聞というのは、読者の代わりに何かを考えてくれる存在ではない。いや、ある程度はそういう機能も持っているが、基本的には読者に判断の材料を提供するのが仕事だ。原発事故報道でもそれは同じであって、新聞には毎日、何人もの専門家のコメントが掲載され続けた。人によって意見は違っていたが、それでも一定の幅に収まっていることは理解できた。その先は、読者が自分で判断すればいいことだろう。

私自身は、13日の朝刊を読んだ時点で、原発から150km離れた街に暮らす自分がオロオロするような事態ではないと判断した。

平成23年4月10日

みんなの党の予算修正案では、公務員や教員の給与を2割削減するという部分が注目されやすいみたい。私の考えは、3年前にBI@Kのコメント欄に書いた通り。

公務員になりたいと思う人が減って定員割れになるくらいまで待遇が悪化し、公務員になったら親が泣くくらいにならないと、国民の公務員叩きは無くならないのかな、と思っています。いまだに子どもが公務員になると親も親戚も友人も「よかったね」といいますからね。私の同僚も区職員に転職して「すごい!」「うらやましい」といわれてました。

かつて公務員が「羨ましくない」時代があった。当時の人々は「公務員の待遇を改善して優秀な人を雇い行政サービスの水準を上げる」よりも「減税」の方がいい、と考えていた。今もそれは変わらないと私は予想している。給与を2割削減すれば定員割れになるかもしれないが、政治家が先回りしてそれを防ぐより、有権者の判断に任せる方がよいと思う。

公務員の給与水準は大企業との比較で決められているそうだが、多くの国民は、官は民と比較して「勤務先の倒産」や「整理解雇」のリスクが低いと認識している。給与が大企業と同等なら、リスクが低い分、公務員の方が魅力的に思えるわけだ。官民格差をゼロにするなら、リスクの格差を相殺するまで官の給与を低く設定する必要がある。不景気で失業率が高まれば民間企業で働くリスクは高まるので、それに応じて公務員の給与を引き下げなければ(国民目線では)官民平等にならない。

多くの親が子どもを公務員にしたいと願うのは、民間企業でいえば、異動先の希望が間接部門に集中するがごとき状況だ。間接部門は利益率を左右する重要な仕事だが、まず売上げが伸びないと会社の発展はない。平均すれば優秀な人材が集まりやすいのは人気のある仕事。公務員が1番人気では、社会の先行きが心配だ。

まあ、bewaadさんが仰る通り、恒常的に緩やかなインフレが続けば、公務員の給与はインフレ率に即応しないので、民間より引き上げが遅れる。結果、自然と民高官低の給与格差が生まれる。この問題に限らず、デフレを脱却して緩やかなインフレに復帰して安定すれば、インフレを前提に構築された様々な再分配の仕組みが再び正常に動作するようになり、人々の不安や不満のいくつかを同時に解決すると予想されている。

だから、公務員の給与引き下げより、デフレの脱却に政治的リソースを振り向ける方が望ましい。でも、そういっている間に20年近く経過したわけで、デフレ脱却の政治的困難が大きいなら、公務員の給与引き下げで民が官を羨む悪状況を解消してもいいような気がする。国内でつまらない対立を続けるべきでない。

補記:

公務員が本当に低リスクかどうかは、あまり問題ではない。人々が低リスクと認識し続ける限り、公務員人気は揺らがない。つまり定員割れはない。

給料が適正水準になったら怨嗟の声がなくなるかというと、さにあらず。公務員にせよ客室乗務員にせよ、業務に必要な能力がない者が「自分ならもっと安い給料でも働くのに」と思うから厄介。

最後に残るのはこの問題。ただ、公務員の場合、納税者が考えを改めるまで人材の質より給与水準の方を取るべきだ。為政者のお節介で民意を無視して生活の実質を守るのは、民主主義の社会ではないと思う。

平成23年4月9日

2月末にみんなの党が予算組み替え動議を出して、一部で話題になっていた。

いくつかリンクしてみたけれど、組み替え動議案が最もシンプルにまとまっていると思う。

あとすっごく大きな歳出削減がされているんだけど、ちょっと俺の日本語力じゃあ読解できなかった。歳入庁創設による保険料収入増による支出減。なんだかよく分からないが歳入庁を作ると保険料収入が増えて、保険料収入が増えると支出が減るんだって、しかも3兆円も!さすがだよね、マジックみたいだけど、法律が書ける経済学者がついてる政党の言うことなんだから当然信用するしかないよね。

じつのところ、私はwhat_a_dudeさんの批判を最初に読んだ。そして、この部分がピンとこなかったので、それからようやく予算組み替え動議案を読んだ。そこには、こう書かれていた。

キ.歳入庁創設による徴収増に対する一般会計負担の削減(削減:▲3兆円)

日本年金機構の徴収部門を国税庁と統合し「歳入庁」を設置するための第一歩として、国税情報を社会保険庁徴収に活用。社会保険料の徴収率向上と人員削減の一石二鳥を実現する。

「歳入庁」創設による徴収増に伴い、徴収増額と同額の年金および医療の一般会計予算を軽減する。

……。これはつまり、来年度予算の組み替え動議という形式を借りて、自党の政権公約を国会の議事録に残す戦術かな。質問では細切れの政策しか語れないから。

2月末に議論を始めて、1ヶ月で歳入庁を作り、1年で3兆円の歳入増を実現できるかといえば、まあ不可能だろう。年金と医療への一般会計からの補助も、実質的には徴収不足の補填として機能している分があるとしても、法律上そういう話にはなっていない。徴収増は年金と医療の収支を改善するのであって、一般会計の削減には直結しない。

とはいえ、この手の野党提案について、こうした指摘は実り少ないと思う。現況を完全に前提として、今すぐ変更できる部分だけについて異論を述べる、という制約を課したなら、野党が自らの政治信条を政策に反映することは非常に難しくなる。現実味のある修正案を出すばかりでは、野党は与党の政策に対して全面的な批判をすることができない。むしろ大筋で与党の政策を追認することになってしまう。

例えば今夏に解散総選挙があって、意外にもみんなの党が勝ち、単独政権を形成したとする。そのとき来年度の予算案が、今回の予算修正案のようになるかというと、そうはなるまい。次の参院選で圧勝して衆参で単独過半数を取った後の予算でさえ、難しい。何せ変えなければならない法律が多すぎる。予算案だけでどうにかなる問題ではない。

野党の提案には、いろいろなものがある。この予算修正案は、民主党が4年かけて実現するといって半分くらい実現しつつあったが首班交代と震災でかなり後退した諸政策と同様に考えるべきではないか。つまり4年かけて半分も実現できたら万々歳というものなのだろうと思う。それくらい大きな政策変更を、たくさん含んでいる。

その上で、what_a_dudeさんの批判は、「この予算案を実現するために予めクリアしておくべき課題」のいくつかを洗い出しており、またどのような点でみんなの党と価値観を異にする人が、どの政策に反発するかを明らかにしており、参考になった。

補記:

結局、what_a_dudeさんが読解できなかったことの一部は、私にもわからなかった。年金については、徴収率を上げても、その結果として政府の支出が増えるのは未来のことだし、将来的に修正積立方式を放棄して完全に賦課方式に移行するつもりなら、増収分を積立金に回す必要がないから、国庫負担割合の引き上げを遅らせることができる、という話だろう。私はむしろ積立方式に近づけるべきだと考えているので、この案には反対だけれども、賛否とは別に話を理解することはできる。

でも健康保険の方はどうなんだろう。「健康保険は逆選択が働きやすい」と仮定するなら、徴収率アップで国庫負担が減るという理屈も通る。健康保険に年金のような明確な時間差はないが、健康保険を滞納している人に「ここ数年、病院のお世話にはなっていない=健康保険のありがたみを実感する機会が少ない」人が多いとすれば、こうした人からきちんと保険料を徴収することで健保の収支は改善する。しかし逆に現在の無保険者の多くが年金暮らしの老人だと仮定すると、徴収率の引き上げは健保の収支悪化を招く。いま健保の保険料を滞納しているのがどんな人たちなのかによって、徴収率向上の帰結も変わるわけだ。

平成23年4月8日

お説ごもっとも、と思う。他方、「面白ければ多少の欠点は吹き飛ぶ」という現実もある。文章が整っていてお題に忠実だけどつまらない文章より、破格だが面白い文章の方がよい。まあ、面白い文章の書き方は指導が難しいので、形式的に修正できる部分を改善していく他ない、という事情はわかる。それに、リンク先の記事にあるようなレベルの不具合なら、たしかにそれを解消しないと商品にすらならない。

なんで文章書けない人がライターなんかやってんだろ?
んで、なんでそういう人に「仕事」があるんだろうか?
世の中ってのは本当にわからんもんです。

信頼できるライターを探すのにもコストがかかる。そしてふつう、ほぼ確実に信頼できるライターは、原稿料が高いはずだ。安い原稿料で請け負うライターに頼めば、その何割か(あるいは全員)がひどい原稿を出してくるのは当たり前の話だろう。そして、はてな匿名ダイアリーで愚痴っている人の給料の何割かは、ダメなライターの存在を前提に組まれた予算から出ているのだろう。

ダメなライターがいなければ仕事が楽になる……というのは間違いで、仕事が減れば編集者の人数も減らされる。そういう共生関係になっているはずだ。

プロなんだから……なんて言葉に意味はなく、全ては市場による調整の結果に過ぎない。ひどいライターだとしても、今の原稿料で締め切りまでに原稿を上げてくれるライターを他に見つけられないなら、その人に頼むしかない。もし競合他誌が同じ原稿料でもっとよいライターと契約しているのなら、競合他誌は増田さんの職場より少ない人数の編集者で成立し、その分だけ利益が出ているのかもしれない。だがふつう、その利益は安い原稿料で請け負う優秀なライターとのコネクションを持っている人が大部分を持っていくもの。

いずれにせよ、増田さんの勤務先が潰れずに続いていくなら、その勤務先は市場を生き抜く力を持っているということ。そのやり方は間違っていないんじゃないかな。正解はひとつではない。原稿の修正に忙殺されている時間を自分だけの仕事に使えれば、もっとよい企画を考えつくのに……みたいな獲らぬ狸の皮算用をしても良い結果にはなかなか結びつかないないように思う。

こちらの記事の指摘は、割とどうでもいいと思った。というか、これくらい細かなことしか指導すべきことがないのは幸せなことだよな……。まあ教員採用試験を受けようという人が、冒頭のリンク先のようなレベルのダメ出しを食らっているようではみな困るわけだが。それにしても、何年も勉強を続けてきたのに、果てしなくダメ出しが続く現実に、ウンザリする学生の顔が見えるようだ。

平成23年4月7日

1.

日本銀行政策委員の経済見通し

審議委員9人による2011年1月の経済見通し。2010年10月からのわずか3ヶ月で実質GDPの成長率予測が全然違っていることに、まず驚かされる。しかし、よく見て本当に愕然とするのは、9人の意見が見事に一致していることだ……。みんなして同じような予想をして、みんなして外れている。何のために9人もいるのだろう。

日銀の政策委員会は、福井副総裁(当時)が中心となって人選を行ったといわれる最初期がいちばん面白かった。福井さんは自分と意見の異なる人を意図的に選び、また政策委員会で活発な議論が戦わされるよう、配慮したという。それが次第に、執行部提案に全員が賛同する、面白みに欠ける政策委員会になっていく。(藤井良広『縛られた金融政策』、中原伸之『日銀はだれのものか』)

2.

以下、種明かしなど。

10 月の「展望レポート」で示した見通しと比べると、2010 年度の成長率は、過去のGDP 実績値の改定により2010 年度の発射台が高まったこと( 統計上の「ゲタ」の上振れ) や年度の前半の実績がやや強めとなったこともあって上振れるものの、2011 年度および2012 年度の成長率については、概ね10 月の見通しに沿って推移するとの認識で一致した。

なるほど、統計上の問題ですか。ちなみに物価については以下の議論があった由。

多くの委員は、夏場に予定されている消費者物価指数の基準改定について言及した。何人かの委員は、基準改定によって消費者物価指数の前年比は下方改定される可能性が高く、このことを十分に視野に入れながら物価動向を点検していくことが必要であるとの認識を示した。複数の委員は、基準改定はあくまで技術的な変更であり、マクロ的な需給バランスの動きなどからみてデフレ脱却に至る展望が開けているかどうかを丁寧に点検していくことがより重要であるとの見解を示した。この間、複数の委員は、基準改定によって実際に消費者物価指数の前年比が下方改定された場合、経済主体の予想物価上昇率に影響を与えることがないか注視する必要があるとの認識を示した。

私がこのくだりを読んで不愉快になるのは、2011年度の消費者物価指数(生鮮食品は除くがエネルギーは含む)の見通しは0.0〜+0.4となっているからだ。基準改定を考慮に入れれば、今年もデフレが続くということではないか。そう予想していながら、早くも物価の上ブレの心配などしている。

パッと見にはいちおう緩やかなインフレを目指しているようでいて、実際にはデフレターゲットを行っている。これは見飽きた光景の繰り返しだ。政府は10数年来、景気に配慮して云々と意見を申し述べてきたわけだが、ならばどうしてこう、デフレ脱却に本腰を入れない人たちばかりを日銀の審議委員に推挙し続けてきたのだろう。私はそれが不思議でならず、過去に何度か備忘録にも書いてしてきた。

この4月に就任された白井さゆりさんもまた、「日銀にできることはあまりない」という考え方の持ち主で、何としてもデフレを解消すべき、そのためには非伝統的な金融政策を駆使することを厭わない、といった意見には与しない。審議委員の選任は、政府が日銀を変える最も強力な手段なのに、どうしてこうなのか。

3.

日銀の組織が現在の姿になって以降、金融政策を司る政策委員会の人選が面白かったのは最初だけ。まず強固な金融緩和派(ハト派)が消えた。そして今回、水野温さんに続いて須田美矢子さんが退任し、強烈な金融引締め派(タカ派)も消える。もはや誰の講演録を読んでも、現在の状況に対してハト派かタカ派か旗幟鮮明な人がいない。

デフレを脱却できないまま「異例の措置」を小出しにし、懸命に金融緩和している、という日銀。だが基準改定後にはマイナスに転落すると予想される物価見通しを公表しておきながら、いっそうの金融緩和策には慎重になる。議事要旨を見れば毎回いろいろ議論はされているらしい。だが結論は全員一致なのでつまらない。やっぱり、1人でも応援できる人がいないと、面白くない。

「どんな場合にもタカ派」なんて無責任な委員は、過去にも現在にもありえないだろう。かつて突出したタカ派として知られた篠塚英子審議委員も、急速な景気の悪化に即応して、きわめて大胆な資金供給策を提案したことがある。私が問いたいのは、いまこの状況に対して、どう考えるのか、だ。

平成23年4月6日

昨年10月の話題ですが。

1.

形式的にはabz2010さんの主張に理があるのだけれど、abz2010さん自身がまあエントリーの趣旨としては1年以上2年以下の「長期」では不十分で、もっと大幅に「長期」の国債をどんどん買えということかもしれないと書いている通り、keiseisaiminさんの問題意識に対応した議論にはなっていないように思う。

私にはやはり、日本銀行の「資産買入等の基金」における「買入対象」の設定は、その政策目標と整合的ではないように見えます。何のためにこんな自縄自縛をしているのか、私には理解できない。長めの金利を引き下げたいなら、残存期間の制限などせず、素直に残存期間の長いものを買う方がよさそうなもの。

直接引受っぽくなるのが嫌なら「発行後1年以上経過した利付国債」とでもすればよさそうに思えるし、発行量の少ない国債を日銀が買い占めてしまい市場が機能しなくなることを恐れるなら「種別に発行量の**%を買入上限とする」という制約をしてもよさそう。でも「資産買入等の基金の運営として行う国債等買入」において残存期間が2年より長い国債を買うことが政策意図に反すると考える理由、あるいは想定されるリスクって何なんだろう。私には思いつかない。

ただ、私が理由を思いつかないから日銀は自己矛盾している、というつもりはありません。単純な話、日銀の辞書では「長め=1年以上2年以下」だというなら、何ら矛盾はない。でも、それなら中期国債に倣って「中期」と表現してほしいと私は思いますが……。

2.

念のため。1.で話題にしているのは、あくまで「資産買入等の基金の運営として行う国債等買入」の話。日銀はその以外の名目において残存期間の長い国債を買ってます。

日銀が遂行中の作戦はいろいろあって、そのうちのひとつにおいては「残存期間が2年より長い国債を買いません」という、それだけの話。所詮は日銀の都合による分類であって、市場の側からみれば、中澤さんと吉川さんがザックリ捉えているように、「日銀が全体としてどんな国債をどれだけ買っているか」が重要なのではないでしょうか。

補記:その後の「資産買入等の基金」

買入残高を5兆円から10兆円へ増額するとのこと。ただし指数連動型上場投資信託受益権等の買入れは2011年末までの予定を半年延ばして、2012年6月末までに行うということにしており、買入のペースが2倍になるわけじゃないよ、ということらしい。

平成23年4月5日

勉強になった。ヨーグルトや納豆などの発酵食品は環境管理が重要なので、長時間電気が途切れないことが必要なのか。といって、半導体のように「瞬断でも商品がパーになる」というものでもないから、工場に巨大電池は用意していないわけだ。まあ半導体の工場でもふつう、数時間もの停電に耐えるほどの電池は用意していないわけだが。

私がこのたびの震災で見直したお店の第1位はイトーヨーカドー。小山駅付近の価格勝負のスーパーがヨーグルトや納豆の取り扱いを断念する中、イトーヨーカドーは広島県などから商品を仕入れ、「値段は高いけど取り扱い中」としていた。

まあ、ヨーグルトはともかくとして、隣接する家電量販店では最初の揺れで天井から天板や大きなダクトの蓋がボコボコ落ち、スプリンクラーも誤作動して、店内がメチャクチャになった。これで客に怪我がなかったのは幸運でしかなかったろう。だがイトーヨーカドーの建物は、きっちり揺れに耐えた。

故郷にもイトーヨーカドーはあって、堅実経営でジャスコやダイエーより商品の値段は高め、というイメージだった。よく潰れないなと思っていた。ジャスコやダイエーが今回どうだったかはわからないが、激安の家電量販店や、価格勝負の近所のスーパーとの対比は興味深かった。目先の価格にとらわれず「イトーヨーカドーの安心感を買う」というファンの気持ちが、私にも理解できた。

平成23年4月4日

1.

日本でたくさん石碑が建てられるようになったのは明治時代から。日本人が豊かになったこと、技術が進歩したことから、「集めたお金が余ったので石碑を建てる」なんて事例が登場するようになった。それで明治時代以降、海嘯(つなみ)がくるたび義捐金の一部などを投じて大量の石碑が建てられてきた。

石碑巡りの旅をしたことのある方ならご存知の通り、「此処より下に家建てるな」に類する文面が彫られた石碑は滅多にない。割合でいうと1〜2%だったと思う。「地震が起きたらここまで逃げろ」という意味の言葉が刻まれた石碑の方がずっと多い。つまり、実際に被災した人々の98〜99%は、高所移転したいとも、しなければならぬとも考えてはいなかったのだと思う。

2.

岩手県の三陸沿岸などは,有史以来何度も繰り返し津波が襲ってきています。「明治三陸津波」では,釜石地区の6500人のうち4000人が命を落としています。

そんな歴史もあるので,例えば岩手県宮古市の丘の上には,明治時代の津波の鎮魂碑が建っていて,そこには「ここより下に家を建てるな」と書かれていたりします。しかし現在,この碑を無視するかのように,その碑の下には家が建ち並んでいます。

防災の啓蒙に熱心な方々は、姉吉の石碑が例外的な存在であることを隠して「先人の知恵」を持ち出すわけだが、褒められたことではあるまい。それでも片田さんは注意深く言葉を選んでいるが、畑村洋太郎さんのテレビ番組『失敗は伝わらない』での語り口は半ば詐欺的だ。

「此処より下に……」の石碑の文句を引用し、実際に三陸の海岸に行ってみると、あっちにもこっちにもたーくさんのこういう津波のことを書いた石碑がありますという。全くの嘘ではないが、じつに誤解を招く言い方ではないか。そして皮肉なことに、その石碑が建っているところより下に、人家がたくさん建っていますと続ける。その場面で表示される画像とキャプションはこうだ。

『失敗は伝わらない』より

「此処より下に……」の石碑は海抜60メートル。相当に高い位置にある。姉吉の周辺の集落が、その石碑より低い土地に復旧したのは事実だが、上のキャプチャ画像に写っているのはその石碑ではない(→姉吉集落 大津浪記念碑)。どこの石碑なのかはわからないが、話題の石碑でないことだけは一目瞭然だ。

「地震が起きたら急いで逃げればいい」と考えて低地に街を復旧した人々が立てた石碑なら、それより低い場所に家があっても不思議なことは何もない。石巻市水浜集落のように、避難訓練の徹底によって生存率98%を実現した街もあるのだ。

3.

画像

Google Earth で見る石碑の上に建設された姉吉集落と、石碑の下に広がる千鶏集落。津波の爪痕が生々しい。姉吉集落に津波で流された家はないが、山を削らずに高所移転すると、街が発展しない。保育園や小学校も、低地に復旧した千鶏に作られた。姉吉地区でも、学校へ子ども3人を迎えに行った母親が亡くなっている。

余談:

千鶏の小学校は低い丘を削って作られており、少し高台にある。南三陸町では志津川の西岸の丘に高校、東岸の丘に小学校と中学校を南北に並べて建設されている。この志津川高と志津川中にはビデオカメラを持った避難者がいて、津波の様子を撮影した動画がネットの一部で非常に話題になった。山が海に迫る土地で学校が山を削って建設されるのは、どうしてもまとまった面積が必要なのに、他に土地がなかったことによる。

低予算で高所移転を進めると、別荘地のように山の傾斜を残すことになり、ふつうそれでは街は発展しない。経済の変化に応じて土地の用途や区割りを自由に変更できないと、街は時間を止めてしまう。そうしないためには、山を削っての高所移転が必要になる。だが、山を削るにはお金も時間もかかる。これまでの政府の歩みを見るに、おそらく高所移転はない。もしあるとしても、山を削らずに移転する形になるのだろうと思う。

平成23年4月3日

3月21日の『クローズアップ現代』に、片田敏孝さんが登場。被災予想地域に暮らす人々(2007-04-16)という記事を書いたときに存在を知り、その後の活動にも関心を持っていたので、とくに興味深く拝見した。

僕も頭の中では、こんなこともありうるんだということは当然知恵としては持っていました。でも、そのレベルの状況想定を元にしてしまうと、あまりにも激しい状況が想定されますから、現実離れした対応が必要となってくる。そこで行政としては現実的な状況想定にして、それがハザードマップの形で表され、それに基づいて防災を進めてきたんですね。

「人命は地球より重い」なんていってみても、結局のところ、きわめて低い確率で起きることのために無尽蔵の予算を注ぎ込むことはできない。

津波は速い流れなので、防波堤で止めようとすると、運動エネルギーが位置エネルギーに変換されて一気に水が持ち上がる。ざっと1.5倍の高さになるので、15メートルの高さの津波は23メートルの壁がなければ防げない。津波が壁を越えると落下の衝撃で基礎を破壊し、壁ごと倒される危険もある。そうなればもう海水はどんどん入ってくる。

では少し安全を見て25メートルの壁を海岸沿いに張り巡らせることが可能だったか。それができれば、命が助かるだけでなく家屋の損壊もなかったはずだが。いや、それはもちろん無理なのだ。

避難計画にも同様の問題がある。避難所に逃げたが、その天井まで水がきて助からなかったという事例がある。だからといって、全ての避難施設を20メートル級の建物にできたかといえば、ここにも予算の問題が立ちはだかる。女川では鉄筋コンクリートの建物が横倒しになった。最悪の場合をどんどん考えていくと、現実的には打つ手なしということになってしまう。

防災といえど際限なき安全の追求は不可能であって、可能性の高い範囲内で対処していくしかない。今回のような「想定を超える災害」が起きると専門家を責める人が出てくるわけだけれども、「可能性がゼロか否か」という問いと、「災害対策の想定の範囲内かどうか」という問いのズレには注意しなければならない。

この話題もそうだ。はてブを見ると、防波堤の意義を見直す声がワッと出ている。0か1かという考え方をするなら、0でなかった以上、1の側に分類すべきというわけか。

だが予算には限りがある。仮に100億円かけた防波堤で浸水が6分遅れて100人が助かったとすれば、1人当たり1億円になる。予算には限りがあるので、1000万円で1人を救える方法があるなら、防波堤の10倍よいということになるだろう。もっとも釜石の防波堤は田老の防潮堤と異なり、まず漁業に必要なもの。それがついでに人命保護にも役立ったのだと考えれば、追加負担ゼロで100人助かったという話になるわけだが……。

平成23年4月2日

もうすぐ統一地方選挙。地方選といえば、昨年、故郷の市長選があった。現職の小泉一成さんと、元県議の湯浅伸一さんの一騎打ちで、勝ったのは現職。

昨年9月の記事でも少し触れたが、小泉さんは市長になって以降、市民との対話を精力的に重ねてきた。その記録を見ると、道路整備、美術館の建設、もっと大きな文化会館がほしい、などなど、道路と箱物の増強を求める声が、際限なく出てきている。小泉さんは、そうした市民の声を受け、公共事業の計画を次々に具体化していった。1期目は堅実的な運営に終始したが、当選した暁にはいよいよ計画は実施段階に移り、財政は大きく膨らむことになる。しかし住民税を上げるとはいわない。借金を増やすわけだ。

対する湯浅さんは、大型公共事業の見直しを掲げ、逆に市民税10%の減税を公約に掲げた。「減税日本」路線ということか。名古屋市と同様、減税の実現性には疑問符がつく。湯浅さんも教育、医療、福祉は充実させたいそうだ。箱物の新規建設は今後の予算を増やす要因であって、それをゼロにしても減税の原資にはならない。行政を効率化して市職員を減員するというが、成田市の場合、役所の人件費など高が知れている。市債残高は1年分の市税収入を超過して久しい。私には減税の余裕があるようには見えない。

選挙の結果は、小泉一成さんの圧勝だった。もともと現職は強いもの。湯浅伸一さんは市議、県議を歴任された政治家で、全くの新人と比べれば安心感があるけれど、現職に大きな不満がない限り市民はバクチをしたがらない。その上、おそらく多くの市民が、政策面でも現職支持だったのではないかと思う。

追記:

年末の選挙を勝ち抜いた第2期小泉一成市政1年目の予算は、前年比8%増。湯浅さんが勝っても大差はなかっただろうが……。ともあれ、こうした資料をきちんと作って公開しているのが成田市の偉いところ。

平成23年4月1日

1.

円谷プロのエイプリルフール特設サイトが震災で自粛になり、残念だ。ここ数年、4月1日の楽しみといえば円谷プロだった。

2.

謹慎ムードが社会を覆うとき、2ちゃんねるの存在はありがたい。とくに今回、twitterの窮屈さが2ちゃんねるで笑いに転化する構造は、とても素敵に思えた。

3.

オマケで震災関連の印象に残った記事いくつか。