母「あ,またイスから降りようとする!」
子「おりたい〜」
母「ダメです.全部食べてからにしなさい」
子「おりたい〜」
母「1,泣かない.2,みんなと一緒に食べる.分かりましたか?」
子「わかってない」
母「わかってないんやな.ほなあなたはあたしたちの子やない.家の外に,放り出すで!」
父「『たち』かいな」
母「だってこの子,ぜ〜んぜん食べへんのよ.ほんでイスから降りて,(さきの子・あとの子が横たわっている)ベビーベッドに行って,ちょっかいかけてくんねんから」
父「うーん」
母「はいもお(抱きかかえる)」
父「どないすんねんな」
母「玄関から,放っぽり出すんや」
子「ママ〜〜」
母「今さらママママ言うてもあかん.出て行きなさい!! (外に投げ出し,扉を閉めて鍵をかける)」
父「お外,出たりせんやろか…」
母「まあ大丈夫やろ.反省してくれたらええんやけど」
これは子どもが正しいよ。反省すべきはお母さんの方じゃないか。プッツンきた。
幼少期の私は少食で、3歳頃は、8枚切りの食パン1枚を1/8に切ったのを少し齧ったら「もういらない」。当時の私は全く動かない子で、昼も夕も夜も眠っているか、ペタンと座って周囲を眺めているか。活動的なのは朝だけ。「それなら少食なのも当然でしょう」と母に相談されたお医者さんはいったそう。
子どもの食事というと標準量を押し付ける方が少なくないそうです。大人でも食事の量には数倍の差があって、各自の生活や体質に見合ってさえいれば健康に生きられます。子どもにばかり標準量を押し付ける意味はない。お医者さんに相談すれば、ちゃんとそういう答えが返ってくるはずではないのか。
私もこれまでそれなりの人数のお父さん、お母さんを眺めてきたけれど、親が指定した分量まで食べない子どもを叱る人がずいぶんいる。既に食欲を失っているのに無理やり食事をさせるなんてのは、虐待とどう違うのか。医師が勧めるのは「親子で運動をして自然と空腹になるように……」といった方法であって、叱りつけたり罰を与えて脅すなんて方法を勧める病院はないと思う。
一見、子どもの健康を慮っているようでいて、実際には大人が個々の子どもの実情を観察する手間を惜しみ、「ふつう」を一方的に押し付けているに過ぎない、という場面は多い。不幸の連鎖が云々といった話はしたくない。いま、この子がかわいそうだ。それで十分だと思う。
以前、別の場所でこういう話をしたとき、相手の方の第一声が「残飯がもったいない」だったので、のけぞりました。お父さんかお母さんが食べればいいでしょ、そんなの。うちでは父が食べるか、保存・再調理して次の食事の1品になっていました。みんな、食べ残しは捨ててるわけ? 保存方法に気をつけて、きちんと再調理すればいいだけの話なのに。
ていうか、たくさん皿に盛るから残飯が出るので、子どもの実情に見合った分量を観察から見出だすことが先決。どうして親がサボることが話の前提になっているのかがわからない。
で、子どもが大きくなったら、最初は少なくよそっておいて、「食べたい分だけ自分でおかわりしなさい」と指示します。流し台では高すぎて台を使っても少し危ないから、食卓テーブルの隣にちゃぶ台のようなものを置いて、そこに味噌汁やおかずの入った鍋と炊飯器を並べておくわけです。「食べられる分だけよそいなさい。食べ残しは禁止ですよ」と、「残さず食べる」の指導は、ここで登場します。
「子どもが鍋をひっくり返したらどうするの」
「そりゃ10回か20回はそういう失敗をするよ。でも、チャレンジに伴う悪意なき失敗に小言は不要。毎回淡々と、親子で一緒に片付けをするだけで、だんだん注意深くなる。それに、ちゃんと片付けをできたら、子どもをほめるいい機会になるよ」
「嫌だよそんなの」
「まあ、子どもを叱りつける方が楽なのは事実。あるいは、失敗しない大人が子どもの代わりによそってしまう方が、よっぽど簡単だよね」
「そうはいわないが……」
これは「あたしたちの子やない.家の外に,放り出すで!」なんて話じゃないので、どっちでもいい。無限のリソースを持っている人はいないので、費用対効果を考えて判断すればいいこと。
私が「効果」と考えているのは、この2点です。たぶん、小言中心で子どもを育てても、子どもと一緒に苦労してほめ言葉中心で育てても、結果には大差ないと思う。大きく違うのは、思い出だけ。その程度のメリットのために、大きな子育ての手間をかけるのは無理だ、というなら、それはもう仕方ないと思う。
標準量を調べているなら、勉強熱心だからまだマシなのであって。親の都合や直感で子どもの食事の量が決まり、「もっと食べたい」といっても「もう食べたくない」といっても子どもが叱られる、という理不尽が日本中にある。その子が「あれは何だったんだ」と親を恨んで大人になるならまだいいが、いつの間にかひどい親の方に共感して「当然でしょ」となっている人が多いからヤバイ。
私は3歳から幼稚園に通っていたのだけれど、午後、母が迎えに行っても着替えができていない。だいたい1時間半かかるので、他の子と一緒にはじめると、お迎えの時間に間に合わない。送っていったときも、靴を脱いで上履きに履き替えるのに30分かかるので、母が私を送っていってから始業のチャイムが鳴るまでには上履きを履き終わらない。
そのようなエピソードを聞いて「そんなことが現実に可能なのか?」と小学生の私は疑問に思ったのですが、その後、弟が幼稚園に行ったときに昔の担任の先生に尋ねたら、母と同じ話をしてくれました。「本当だったんだ……」と驚きました。あるとき母が迎えにいったら私がきちんと登下校用の制服を着ていたので母はとても喜んだのだけれども、「朝から着替えもせずに、あの席に座ったままなんです」と。母も先生も大笑い。
とにかく動かない。人と話をしたがらない。そんな私が、2年後には、幼稚園から帰るとサッと着替えて友達の家へと走っていくようになった。お医者さんに相談しつつ、むしろそれゆえ過剰に心配することなく、温かく見守ってくれた周囲の人々には、心から感謝したい。
その日もわたしは区民プールにいて、適当に泳いでからプールサイドで休んでいると、わたしのとなりに3人の親子連れがきた。お母さんと、娘ふたり。*どうやら娘ふたりの「どうしてもプールに行きたい」「今すぐ区民プールに連れていくべし」という要求に負けて、お母さんがふたりをここに連れてきたらしいということがわかった。*
しかし、こういうときの子どもはたいてい気まぐれである。いざプールへ来てみると、水に入るのがこわくなってしまったらしい。いつも入っているプールより深かったのかもしれない。ふたりの娘は、「こわい、プールいや」といって近づこうとすらしない。*
ふとお母さんの顔を見る。憤怒である。*お母さんはもうがまんならないといったようすで、「いいから入りなさい」「入らなければけじめがつかない」*けじめ。KEZIME。*理屈としてはわからなくもないけれど…。*
「あの、すいません。そのー、娘さんもね、こんなにいやがっていることですし、プールに入れるのは、かんべんしてあげたらどうでしょうか」*
お母さんはぽろぽろと泣いていた。「そうですよね、私、おかしいですよね」*ふたりの女の子も無言のまま、母親とわたしを交互に見ている。子どもを育てるとはかくも理不尽な戦いであるとそのとき感じた。(*は中略の記号)
私の父はどうしたか。「あ、そう。じゃあ、あそこにでも座っていなさい」といって、一人で2時間もプールを楽しんだ。父は泳ぎが得意だった。
母は水が苦手なので、母が子どもたちをプールに連れて行ったのは1回きりだった。近所の市民プールには、泳げない保護者のための2階観覧席があって、ここには服装そのまま+下足で上がれる。母は日傘をさして上からしばらく子どもたちの遊ぶのを眺めていたが、「暑いから帰る」といって、先に帰った。3人とも自転車で向かったのだし、入場料は先払いなので、とくに問題はなかった。
母は1回ついてきて、それで、道中にきわめて危険な箇所のないことを確認したので、以後、子どもたちは勝手にプールへ行けるようになった。成田ニュータウンの場合、信号機ゼロで吾妻ハイツから中台の市民プールまで自転車で行けたから、小学2年生(私)+幼稚園の年中さん(弟)の組み合わせでプールに通うことは可能、というのが母の判断だった。
自動車なしで生活できない街には、こういう自由度がない。リンク先のエピソードの舞台というのも、たぶん自動車なしで移動できない街なんじゃないか? 距離的には自転車でも行けるのだけれど、交通量の大きな道路をいくつも横断しないといけないから小学生と幼稚園児だけで行かせるわけにはいかない、みたいな。
子どもだけで自宅から数キロ離れたプールへ出かけるのは楽しかったな。父がいれば帰りがけにアイスを買えるのが嬉しかったけど、その代わり、帰る時間とかは父の気分で決まってしまう。私たちはアイスより自由を選ぶことが多かったように思う。
夏休みになると、母は実家へと私たちを連れて行き、私たちを祖母に預けて、実家の近くに住む伯母と旅行に出かけたりした。伯母のところに年上の従兄弟たちがいて、子どもは子ども同士で毎日遊び暮らした。
なんで祖父母の家ってあんなに部屋数が多かったんだろうか。ま、いろいろな豊かさを食い潰して育ってきたんだな、私は。
いろいろなことを一人で抱え込んで、完璧にこなそうとするが、当然そんなのは無理で、それでも一人で何とかしようとして、いっぱいいっぱいになって暴発してしまう……。何でそうなるの? と、ついつい思ってしまうのだけれど、それって「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」みたいな発想なんだろうな、たぶん。釈然としないけど、きっとそうなんじゃないかな(とでも考えないとやりきれない)。
みんなもっと無責任になればいいのに。「プール? 勝手に行けば?」みたいな。道中で何らかの事故に遭って死ぬかもしれないけど、いいじゃん、子どもが自分の意思でプールに行ける自由の方が大切だよ。そういうことにしようよ。
これまでに読まれた本のなかに,『田中博史の算数授業のつくり方』は入っていますか.もし読んだ経験があるなら,私はこの本から「子どもをよく観察すること」「教える者どうしのネットワーク」「水道方式への対応」を知ったのですが,徳保さんは何を得ましたか.
『田中博史の算数授業のつくり方 (プレミアム講座ライブ)』を書店で買って読みました。全体として有益な本だと思いますが、著者の主張を裏付ける客観的な証拠がゼロなので、「その指導はおかしいよ」と思う人をねじ伏せる力は乏しいですね。
P64「船が5艘あります。1艘に4人乗ります」なら5×4でいい。小2算数において掛け算の基本形は「基準量のいくら分」だとしても、「5艘」が基準量となりえない理由がない。例えば5艘の船の持ち主が、船を改装して定員を何人にするか思案している状況を想起すれば、5艘を「基準量」、定員を「いくら分」と考えて最大輸送人数を求めるのが自然。P64の写真のように正確な図を描ける子が5×4と立式するなら、田中さんがそれを4×5と訂正するのは無益だと私は思う。
P67下図について、私なら「ケーキとプリンは2×3とも3×2とも考えられる」「ボールペンとドーナツは3×5とも5×3とも考えられる」と指導したい。箱の数、ケースの数、皿の数だって基準量とみなせるからです。「それでは底辺層の子が混乱する」というのが、ケーキの例では2×3だけを正解とする考え方。だからそれに対して私は、「本当にそうなんですか? 上位層の子の憎しみを買うに足る成果があったんですか?」という疑問を持っているわけです。
5×3にバツがついた画像を見て、私は「これは絶対おかしい」と強い直感を抱きました。古傷をえぐられました。ニュートラルに受け止めたtakehikomさんなら田中さんの説明を読んで「なるほど」と思うのでしょうが、私は前提が違います。
船の問題は5×4で理屈が通るし、計算結果も100%正しい。これをバツとすることで学校の授業に絶望する子が必ず生まれます。だけど「5×4もOKと説明するとクラスの底辺層10人が掛け算を理解できなくなる」という証拠があれば、私だって誇りを持って授業に協力できたんだ。私の犠牲によって誰かが救われたという証拠がなければ、絶望の中で息絶えた私の心の一部は、いつまでも浮かばれません。
私自身は,《BA型》は乗法の意味理解を確認するため,事前的評価(ただし乗法ではなく除法の導入として),形成的評価,総括的評価,外在的評価のいずれにおいても出題され得るものと認識しています.また実態として,《BA型》は現行そして一つ前の学習指導要領解説に入っていますし,自治体の学力調査でも出題されていることを伝聞しています.
私は学習指導要領を誤読して援用したり批判したりすることには苛立ちますが、それは私が学習指導要領の内容に全面的に賛同していることを意味しません。『5×3を推す』において私が学習指導要領解説を補助線としてしか参照していないことに注意してください。(ところで現行の解説書の2年生の範囲の中にBA型問題の例ってありましたっけ?)
私は「年度末の実力テスト」と書きました。それが自治体の学力調査だったのか、民間業者作成のテストだったのかは知りません。いずれにせよ、私は学習指導要領であれ自治体の学力調査であれ、「皿の枚数は基準量たりえない」という硬直した考え方を押し付けるなら、「その指導は間違っている」といいます。
「現状、これがスタンダード」なんて話には、説得力を感じません。田中さんの本を買うついでに30冊ほどパラパラと眺めてみましたが、著者が自分の主張する指導法の正しさを科学的に証明しようと試みる本は皆無。教育の世界は科学的な手続きと無縁なんだな、と思いましたね。偶然いま口のうまい人が、個人の狭い体験に基づいて「これは素晴らしい」と思っている指導法が、教育の客観的な実績とは無関係に広がっていく。
教育学者って、いったい何をやっているのだろう。工学の世界では学者さんの数百年に及ぶ探求の蓄積のおかげで一般の技術者は迷いなく悪手を捨てることができて、良い手の中で妙手を探すことに集中できるというのに、教育の世界は口先の議論ばかり重ねて客観的事実の積み重ねが乏しいから、教育技術が本当に進歩しているのかどうか、サッパリわからない。
実質的にマルタは宗教国家ではなくなるわけか。法律と道徳が癒着していることの問題について。
「PTAにはいじめを解決する力がある」という命題が全く信じられていないんだな。それで、いじめのきっかけを作らないことにばかり意を払う。横並びでリクルートスーツを着る就活学生と一緒。
また、ひたすら「誤解」を恐れるばかりで、手紙が教室に集まる方々に「自分を理解してもらう」ツールでもある、という事実には目を向けない。「どんな人で、何を考えているのか、全くわからない」状態なら、トラブルを起こすきっかけもないだろう、という発想。徒競走をしなければ順位がつくことはなく、個々の差異は顕在化しない、という発想と似ているように感じる。
下手な手紙で子どもが笑われたっていいんじゃないの。そりゃ恥ずかしいだろうし、傷付きもするだろうけどさ、そういうことを極端に恐れる感覚の方に、私は不気味さを感じるな。模範解答を見ながら書けば、そりゃ、ひとつはトラブルを回避できるだろうけど、なんか頑張りどころを間違ってるように思う。
あと、ネット上にテンプレートがないことを愚痴りながら、自分は手紙を公開しないというのも、ちょっと抜けている感じがした。いや、やっぱりそのままだと公開できないんだと思う。プライバシーとかいろいろあって。でも、それなら、愚痴をいいつつも「まあ、仕方ないね」という感じになるのが本当じゃないの?
この話題と直接の関係はないのだけれど、産経新聞が陸前高田市(だったと思う)の被災者へのアンケート結果を載せていて、集落単位での避難・仮設住宅への入居・高台への移転を希望しているのは、じつは1/3くらい、という結果だった。もちろん無視できる数字ではない。けれども、「やっぱり報道から受ける印象とは違うんだな」と。
いや、だってさ、私が被災したとして、集落云々とかどうでもいいもん。集落にこだわっている人は1/3くらいだというなら、納得できる数字なんだ。
で、私が違和感を持っていたのは、若い人を中心にサッサと個人・家族の単位で避難していくことに「寂しいねぇ」という声が、よく報道されていたこと。そういう他人の事情に頓着せず、個人の意思で自由に移動できる世界をこそ望む人が過半じゃないの? と不思議だった。アンケートの結果を見て、ホッとしたというか、「何が何でも集落単位じゃなきゃダメ」とか騒ぐ人がいなくてよかったね、とか。
労働組合もそうだけど、結束している集団は強い。でも、個人の自由にしましょ、というと、集団としての交渉力はガクンと落ちてしまう。片っ端から切り崩されていくから。1/3の側にとっては、個人の自由派は苦々しい存在。なので、「仕方ないね。でも寂しいね」で済んでいるのは、本当に21世紀でよかったな、と。
「ぶりっこ」は卑怯、反則、ズルっこのカテゴリーなのかなぁ。表も裏もなく常に「ぶりっこ」的な言動の人なら許される、みたいな文化があったように思うから……。でも相手次第で態度を変えることのない人なんて、いやしないよね? 自分に適用されて困るルールで他人を裁くことを当然視するのはヘンだと思う。
だいたいこれくらいで勘弁してくれるかな……と思ったら、相当に厳しかった。安全のコストってけっこうかかるんだなあ、と。
架空のキャラクターを演じて発信されているツイートなんだから、実際の書き手と違っている部分があってもいいじゃないか。でも、世間の反応は、そんな私の感覚とは全然違っていた。これはキツイな……。
はてブでも指摘があったが、私の両親に関する記述には、大胆な脚色と美化が含まれている。また勤務先に関する記述には、以前にも少し触れた通り、意図的に事実と異なる記述を豊富に混ぜ込んでいる。その他の記事も、実記風の文体で書いているだけで、実態は小説だ。しかし、現状では誤解されても致し方ないかな、と思ったので、対策することにした。
これが新しいフッター。これだけ明瞭に「フィクションです」と書いておけば大丈夫、かな? いや、まだ安心できないな……。
ブログのタイトルも『小説』に変更することにした。これでも勘違いするなら、さすがに読者の方がオカシイだろう。
あー、これね……。上戸彩さんの『アテンションプリーズ(2006)』を見た後で、堀ちえみさんの『スチュワーデス物語(1983)』をレンタルしてみたら、本当にショックだったんだよね。どうして会社ってこんなにまじめでつまんないところになっちゃったんだろうか、と。人余りの時代の残酷を思い知ったよ。
上戸彩さんが演じていたマイペースな主人公は、現代っ子じゃなくて、むしろ昔気質で、それが21世紀ではファンタジー世界のヒーローになってしまっている。悲し過ぎると思った。
急転直下であんなことになってしまったイランよりはマシだとは思うが、イランの国民はイスラム革命を支持したわけだ。日本でも、我が身の不遇を呪う人々がプッツンきて、損得を度外視して正義の貫徹による平等な不幸を求める可能性はある……。
私はエンジニアとして著者がいう「大成」をしたいとは思わないので、むしろどんどん実践していこうと思った。地味に食い扶持を稼ぐことを第一義として、職場では歯車に徹すると思い定めた場合、バッティングする項目は相当に多いんだよね……。
あるいは、こういうのを軽い気持ちでつまみ食いする人って、勝手にリスクを取って一発逆転を狙い、けっこうな確率で失敗して、責任感は感じているのだけれど実際には失敗の穴を個人で埋めることなんてできるわけもなく、みんながスタンドプレーの後始末に苦労させられる、みたいな。そういうの、ありがちじゃないですか? 挑戦だ、決断だ、と掛け声は立派だけど、幸運と実力を勘違いしているので足元がお留守、とか。
んー、でも、それって、結果から逆算して、そう思っているだけかも。他人の気持ちが軽いか重いかなんて、私には判断つかないもんな……。
前へ進んでいく人がいるから、全体として発展する。旧態依然の仕事できっちり稼いで「チャレンジできる環境」を提供することと、失敗の尻拭いをすることが自分(たち)の存在意義なのだろうな。不満を口にすれば、最後にバカを見るのは自分だろう。最終的には勇気の成果のおこぼれを貰う立場だという自覚があるなら、怒りを抑えて他人の失敗に寛容になることが大切。
「愚痴を聞いてもらおうとしたら逆に自分への批判が大多数になった」みたいな話は、大手小町やYahoo!知恵袋にありがちなことだという印象だったが、Togetterもその仲間入りか。
以前、自分のツイートを自分でまとめるのはキモイという意見を目にしたときは、「そういうつまらないことをいって人の自由を奪うのは賛成できないな。というか、他人のツイートを勝手にまとめたら権利上問題があるという点についてはどう考えているのか」と思った。でも、自分がカッカしているとき、自分のツイートをまとめるのは、たしかにやめた方がよさそうだな……。
こういうの、いいな。面白い展開。
こういうのがよくわからない。「悪い晒し上げ」と「良い晒し上げ」がある、ということなのか?
やはり本家はすごいな。まあ、話題にならない大多数のスレッドはこんなんじゃないのだけれど、それはそれで読む動機付けがないというか……。だから私にとって大手小町というのはこういう場所で、だから基本的に近づかない。2ちゃんねると一緒。あれも実際にはのんびり雑談してるスレッドの方が多いのだけど……。
まず不思議なのは、就職希望者の皆さんはどうして「暑いのにリクルートスーツを着てないと落とすような企業」に入りたいと思うのか、という話で。その我慢強さが入社後もずっと継続するならいいが、いや実際、過半数の者は我慢するわけだが、それでも企業の側から見れば3年離職率は高すぎる。
とにかく、リクルートスーツなんか求めていない企業は無数にあるのだから、就活学生はもっとそういうところに入ろうとするべき。例えば、ネット経由の就活が一般化したため、リクナビなどに登録しておかないと有名大学からの応募がほとんどなくなってしまい、仕方なく中企業までが大枚はたいてリクナビに登録するようになった、という前例がある。ネット経由なんか認めない、といった頑張る企業もあったけれど、ただ損をしただけで終った。
究極的には学生の方が強いのだ。ネット経由の就活が広まったのは、学生がものぐさだったからに過ぎない。オンラインでエントリーシートを送れる時代に、何でリクルートスーツなんだ。手書きの履歴書を落とす企業と同様「リクルートスーツじゃなきゃダメだなんて企業は、こっちから願い下げだ」と言い切ってほしい。
それにしても採用側の基準の「いい加減さ」はどうにかならぬのか。フィーリングで面接をするのはいいとして、どんな人を採りたいのかが不明瞭なんだよな……。以下、全くの素人談義だが。
アルバイトの採用の方が、よほどきちんとしている(というか私の理想に近い)。求める人材像が明確で、客観的な能力試験で足切りし、本音で「**に対応できますか」「**を我慢できますか」と本当に求めていることをズバリ迫って、応募者の側も意外と正直に答えているように思う。もちろん実際にやらせてみたらダメだということはよくあるのだが、面接で全くチェックされなかったことが問題になるというケースはそれほど多くないのではないか。
どうして就職活動って、面接なんだろうな。いや、面接をするのもいいけど、履歴書と応募票と面接だけだというのが本当に疑問で。コストの問題なのかもしれないが、しかし……。
関係ないけど、これは面白かった。これほど遅刻して叱られ続けている人でも勤続して班長にまでなっているのは心強い。あー、でも、誰に何を叱られたか、サラサラと書き出せるのはすごい。遅刻の問題を除けば優秀なんだろうな。私なんか人にいわれたことをすぐ忘れてしまう。それはヤバイよな……。
相手の年齢で態度を変える人は好きじゃない。10年ほど前にネットで何かを書き始めた頃、私はプロフィールに年齢がわかる情報を書かず、日常雑記の備忘録まできちんと目を通す常連読者さんだけに年齢がわかるようにしていた。その理由は、私が「若い」とわかった途端に態度を変える人が少なくなかったからだ。
ときどき揺れはあったものの、私は人生の大先輩も10歳代の方にも「さん」付けと水平目線を基本としてきたつもりだ。が、「つもり」と「現実」には落差があって、過去ログを読み返すと歳の差をいいことに嵩に懸かって書いていることがままあって、ガッカリする。→例:中間管理職(2003-05-24)
ともかく、10歳児にマジになってる
と嘲ったり、それを大人気ない
と考えたり、10歳児なのに何故かネット議論を熟知している
などと侮ったりする感覚には距離を置きたい。自分の中にもそうした感覚があるからこそ、よく自覚して、抵抗しなければならないと思っている。
はるかぜちゃんは俳優やテレビタレントとして活躍されている春名風花さんの別名なのだそう。私には他人を「ちゃん」付けで呼ぶ習慣がないので、以下、はるかぜちゃんのことは春名さんと書きます。
リンク先の議論については、正直なところ、よくわからなかった。
目の前にデモに押しつぶされそうになってるベビーカーや、あつくて顔真っ赤になってる赤ちゃんがいたから、かわいそうと思っただけの話(ω)そんなんで、どこかのジャンルにわけられたくないです(ω)ぷんすか
harukazechan 2011/06/11 22:43:54
社会が子どもに配慮すべきなのは当然。ところが現状では何かにつけて「母親の管理責任」を非常に重くみる社会的文脈が存在している。その上で(しかもデモに限って)「あんなところに連れて行くなんて」というDISを重ねることが何を意味するかくらい分かりそうなものだが。
deadletterjp 2011/06/12 18:21:10
数日経って、もう一度読み返してみて、「こういうことかな」と思ったことがあったので、簡単に書き留めておきたい。
春名さんは、赤ちゃんが疲れた様子だったから「かわいそうだ」と思ったので、それが反原発デモのひとコマだったことに特別な意味はない、という。だから、deadletterjpさんがいうようなデモに限って
赤ちゃん連れの母親を批判するのは云々という意見は的外れだという。
私も、この手の批判は何度か受けてきた。自分が思ってもいないことで批判されるのはウンザリする。でも、私の場合は、1年、2年、5年という年月が経ってみると、意外に「あの批判は正しかった」と気付かされることが多かった。
**にこだわりはない。批判の対象が**だったのは偶然だ。心底、そう思っていたし、今も自分自身の心に問えば、答えは同じ。ところが、自分の行動は、その心を裏切っていた。何年か経ち、同じような場面には何度も出くわしてきたのに、結局、私は**の事例でしか、そのことについて批判する文章を書かなかった。数年ぶりにまた書きたいと思った事例は、何と**の亜種だった。そんなことが、何度もあった。
今回の例にあてはめてそのカラクリを説明すると、こうなる。野球場でもデパートでも人ごみの中で疲れた赤ちゃんを見れば「かわいそうだ」と思うのだが、わざわざTwitterで批判を書くことはない。あるいは、書くとしても、10回見て1回書く、といったペースなのだ。一方、デモに参加中のお母さんが連れている赤ちゃんが疲れた顔をしているのを見ると、すぐにTwitterで批判を書いてしまう。
「かわいそう」と思う気持ちの程度に、差はあったか? 自分の心に問えば、「全く差はありませんでした」と答える。ところが、自分の行動には、明瞭な差があるのだった。春名さんも同じだ、とはいわない。春名さんのことはわからない。でも私の場合は、そういうことがよくあったし、きっとこれからもあるだろう。
これは、私が逆に他人の心と行動のズレを指摘した記事。実際の行動には明らかに温度差があって、そのことが否応なく意味を持ってくる
のは、そう珍しいことではない。
deadletterjpさんやamamakoさんの批判の妥当性は、現時点では、私には判断できない。ただ、自分の心に問うただけで「この批判は不当」と簡単に片付けてしまうのは危ないと思う。
上で「春名さんのことはわからない」と書いておきながらみっともない話だが、以下、何の根拠もなしに私の憶測を述べる。
春名さんはやっぱり、疲れた赤ちゃんを見かけたのが「デモ」だったから、批判を書いたのだと思う。「デモ」は「スポーツ観戦」や「買い物」や「海水浴」などと比較して価値や必要性が低い行動なので、赤ちゃん連れの母親が参加するべきではない、という価値判断が、無自覚のうちに行われているのではないか。
春名さんはおそらく「邪推です。海水浴場でも、赤ちゃんが熱中症になりそうな現場を見かけたら批判してました」と仰ると思う。実際、その通りかもしれない。
だけど、数年の月日が経ったときに、もしも、もしもですよ、自分の行動実績が「結局、赤ちゃんが人ごみの中で疲れた顔をしているのを見て母親を批判したのは、あのデモのときだけだったな」とか、「その後、海水浴場などで100回くらい疲れ顔の赤ちゃんを見たけど、批判したのは3回くらいだったな」といったものだったなら、心に問うても発見できなかった自分自身の姿に、光を当てるチャンスだと思う。
数年前、私の出身小学校を廃校にする話が持ち上がった。私立高校の付属小学校だったのだが、どうにもこうにも卒業生の「その後」が思わしくない。
付属中学校の出身者は大多数がそのまま高校へ内部進学して、有名大学などに大勢が合格していくのに、付属小学校の出身者はバラつきが大きかった。途中で脱落して、付属中学や高校への内部進学すら「しない方が本人のためではないか」という相談の対象となるケースが少なくなかった。逆に、ふつうに付属中学を受験した場合、余裕で合格して奨学金が貰えそうなトップ層は、たいてい近隣の私立中学へと転出していった。
つまり存在意義が問われる状況だった。私が在籍していた頃から状況は同じだったので、もう付属小学校はあきらめて、付属中学校を拡充することにリソースを割きたい、と新校長が考えたのは当然のことだ。ちょうど、高校と付属中の校舎の建替えが迫ってもいた。新校舎の設計が固まる前に判断する必要があった。
結論からいえば、卒業生と教員の大反対で廃校は撤回された。私は廃校反対の署名を拒否したし、廃校撤回運動のイベントと化した同窓会にも参加しなかった。私が在籍した当時から、あの学校は、少なくとも算数の授業に関して、私立校である意味がまるでない私立校だった。
卒業生はノスタルジーで母校を存続させたがったが、それなら自分たちのお金で運営すればいい。私は何人かにそういったが、「はぁ」「いや……まぁ」「その……」「う〜ん」くらいの反応だった。
真言宗の大きなお寺が、寄付金で教育財団を作って運営している学校だ。授業料が安くて、浄財なしには存続し得ないのだ。授業料を値上げして完全独立採算としたら、生徒が集まらない。学校を存続させたい卒業生たちも寄付金を出さない。だけどお寺の信徒さんのお金で学校を潰さないでください……って、そんな学校、今すぐ潰れていいよ。いい加減にしろ。
小学校生活は、総じて楽しかった。でも、私立校である意味のない私立校を存続するなら、その不合理は、不合理を望む者が背負うべきである。
かけ算をめぐる論争でいうと,モノはもちろん,出題(文章題のインスタンス)となるでしょう.そして,誰かが提示したモノ=出題だけを見て,その良否を判定してはいけないのです.
良否を言うためには,まず,その出題がなされる背景を押さえておきます.解答者は何を知っていて,その出題に答えることになるまで,どのような出題を(授業あるいはドリルで)見て学習してきたかを,可能な限り,知りたいところです.リアルタイムで監視というわけにはいきませんので,ある程度の推測,そして誤差が含まれるのは,仕方がありません.
次の段階は,見てきた問題のグループ分けです.そしてグループ単位で,どういう意図なのか,最終的にどのようにして問題が解けるようになればいいのか,言ってみれば「解法」を推定します.なお,「解法」には,立式・計算の方法を含みますが,それらに限定されません.かけ算の文章題でいうと,「何が『一つ分の大きさ』,何が『いくつ分』になるかを読み取ること」そして「その問題はかけ算を使って答えられる,と判断すること」が指摘できます*5.
世の中でどういった出題がなされているかを知るのはもちろん,事前事後の学習者の能力(「〜できる」という形であらわされるもの)を手っ取り早く知るには,出題における前提条件がよく分からないネット上の議論よりも,算数以外に課題をお持ちでお忙しい現場の先生に尋ねるよりも,入門にと話題の本を買ってその背景にあるマイナーな考えに陥ってしまうよりも,まずは問題集を何冊か買って読むことを,推奨する次第です.
それはtakehikomさんの前提に賛成した場合の話だと思う。takehikomさんが仰っているのは、ようするに、「教師側の土俵に乗れ」ということ。3×5≠5×3問題で燃えた側は、元生徒として怒っているんだ。「バカ教師が、くだらない指導をしやがって!」と、生徒の目線で怒っている。私はそう思う。
怒っているのは、小学生の頃、算数の単元テストで90点以上を当たり前のように取っていた人が大半のように見える。そういう元生徒たち(の少なくとも一部)は、「不出来な生徒を救うために用意されたステップ」を自分たちにまで強制した教師たちに、深い憤りを感じている。「不必要なルールを持ち込んで、それで本当にわかりやすくなったとでも思っているのか。ふざけるな」と。
しかし算数教育の歴史を紐解けば、基本的には、多くの教師が実践してみて「この指導法はなかなかいいな」と思った方法が、全国に広まったことが読み取れる。私が学生時代に教育関連の図書を濫読した限りでは、正直ろくな実証研究がほとんどないことは気にかかるが……。
少し補足すると、「まともな実証研究がない」とは、「指導法Aと指導法Bの効果を、きちんと検証や追試が可能な形で比較した研究」が皆無に近く、教育雑誌のバックナンバーを次から次へと読んでも読んでも「個人的な狭い体験に寄りかかった話」に終始して実験データが出てこないことにガッカリした学生時代の経験からいっている。
教育学部のある大学だったから、大学図書館にはいろいろな雑誌のバックナンバーが蔵書されていた。とても全部は読みきれないが、明治図書の『現代教育科学』誌は、ときどき誌面で勃発する論争が面白く、約1年かけて30年分を流し読みした。だが同誌は、誌名に「科学」を謳いながら、掲載記事のほぼ全てが個人的な体験、伝聞、せいぜいアンケート調査程度に基礎付けられたものだった。いくら面白くても、「こんなのをいくら読んでも本当のことはわからぬ」とも感じた。
他の会社の雑誌もいろいろ読んだが(雑誌はひとつの記事が短いから講義の合間の空き時間に読むのには都合がよかった)、少なくとも一般の教員向けの雑誌に載っている記事は、どれも実証的ではなかった。絵画などならともかく、計算問題や漢字の読み書きの指導くらい、きちんと実験を組み立てて授業の成果を収集し統計処理を行うことが可能なはずだ。「指導法Aが指導法Bや指導法Cより優れている」ことを教師の感覚や思考ではなく客観的なデータから明らかにする実証研究が、あまりにも少ない。呆れた話だと思う。
このたびtakehikomさんに触発されて近所の市立図書館で算数の授業の組み立て方に関する本で掛け算の初歩を扱っているものを何冊か探して読んだが(というか市立図書館には数冊しかそのような本がなかった……)、やはりロクに参考文献の記載がない。まともな実証論文に基づいて「このような指導法がいい」と解説するのではなく、筆者の個人的な体験から書かれている。10年経っても状況に変化なし。こんなものを何千ページ読まされたって全然、説得力を感じない。
「結局それって、あなたが個人的にわかりやすいと思っているだけの指導法ですよね? あるいは、教師の世界で根拠ナシに常識となっている指導法。そうじゃないというなら、その指導法が本当に優れていることを示す証拠を出してくださいよ。証拠がないなら、私が説得される理由なんか、ひとつもないと思いますけどね」
どうにもこうにも、こんなことでは、お互いに個人的な体験だけをベースに罵り合いをしているのと大差ない。教育学部の先生方はいったい何をやっているのだ。理論もいいが、せっかく付属学校があるのだから、ちゃんと実証すべきだろう。
しかし、そういう状況ではあってもだ、一応は学会やら何やらで「(個人的な感触ですけど)よい結果が出ました」という報告の集まった教育手法が学校で普及しているのであって、これを頭ごなしに否定するのは、やはり無理筋だろう。3×5≠5×3問題にカッカとした人の大半はそうは思わないだろうけれど、私はとりあえず、教育の世界の経験の蓄積に一定の敬意を払いたい。
小学校の算数なんてのは、誰だって教えられる。けっこう多くの人が、そう思っている。教師の教え方が、特別にうまいとは思わない。実際に授業参観をしてみて、ますますその思いを強くする。頭の悪い教師が、頭の悪い授業をやっている、そう思う人は、多数派ではないかもしれないが、全国に数百万人はいるだろう。
私のように、小学校の生徒だった頃から「先生はバカ」と認識してきた人も、かなりいるはずだ。何でこの先生はこんな教え方をするのだろう、俺たちの方がまだしもマシな授業をできそうだ……成績上位層のクラスメートと、そういう意味の会話をどれだけ繰り返してきたかわからない。
私が考えを改めたのは、学生時代に小中学生を教える機会を持ったことによる。私は数ヶ月で学級崩壊を起こし、アルバイトをクビになった。これが悔しくて、教育学部の講義を聴講し、ひとつの科目では特別に単位もいただいた。大学図書館へ通い詰め、教育関連の本を山積みにして読んだ。体系的に身についたものは何もないが、学んだことの一端は、別の補習塾での再挑戦において、多少は活かされたと思う。
ふつうの人は、私のような体験を持たないから、自分が余裕綽々で100点を取れた科目を教えていた先生に対して、少なくともその授業のやり方について、学ぶものがあるとは考えていないだろう。友達同士で勉強会などしたことがあれば、自分の説明によって友達が「わかった!」となる体験を繰り返すことになる。「学校の先生もこういう風に教えればいいのに」と軽蔑こそすれ、学校の先生の指導の背景に何か素晴らしい理論があるなどとは思いもよらない。実感として、先生の授業は失敗しているように思えて仕方がないからだ。
それに、たくさん勉強してみた私だって、教師側の事情を理解はするが、1あたり量を被乗数とする、そして「5皿」は1あたり量ではありえず、「3個/皿」だけが1あたり量である、という指導が素晴らしい完成されたものだとは微塵も思わない。その指導法が、どれほど成績上位層の深い怒りを買うか、当事者として実感してきたからだ。教育界は成績下位層を救う研究には熱心だが、その弊害を十分には認識していないと私は感じる。3×5≠5×3問題の燃え上がりようは、そのひとつの帰結だろうと思う。
はじめて聞く,常識ある大人は,「バツはおかしい」ではなく「なぜバツにされるんだろう」と反応します.
「なぜバツにされるんだろう」と反応する側が「常識」を標榜できるほど多数派だとは思わない。ネットでこの問題に関心を持った人の多数派が世間での多数派かといえば、それは怪しいけれども、小学校の先生の仕事を信頼せず、自分の直感的判断の方を上に置く大人は、かなりの割合を占めるのではないか。
この場合、「常識ある大人」よりも「良識ある大人」という表現の方が、私にはしっくりくる。
少ない書籍や論文を読んで想起できる,膨大な数学教育の蓄積からは,樹形図や,領収書の書式,m times n(『かけ算には順序があるのか』, p.45)といった少数・軽微な事例が,今後,変化を与えるようには到底思えません.
takehikomさんのこの認識には賛同するが、少数・軽微だからといって切り捨てる姿勢は、掛け算を苦もなく理解できた元生徒たちの怒りを無視している。生活体験の多い子、自分で算数絵本などに親しんできた子、翻訳絵本などにたくさん触れてきた子が、つまらない形式を押し付ける学校の授業に、どれほど失望したか。大多数の子どもが算数をできるようになることと引き換えに、誰がどんな犠牲を払ってきたか考えてほしい。
実際問題、学校で成績上位層寄りの授業をやれば、ほぼ確実に下位層が取り残されて授業に参加する意欲を失い、学級崩壊が起きる。私はかつて、自分の理想の授業を実践して、討ち死にした。だから、「量が確定した順に被乗数、乗数とする」と授業しろ、というつもりはない。
だが、掛け算は、掛け算的状況の「イメージ」さえ正確に掴むことができていれば、必ず正解できる。だから、この俺様に「3個/皿」を被乗数にしろ、なんてくだらないルールを押し付けるなよ、と。問題文の国語的読解の通り、5枚の皿に3個ずつという思考の流れに沿って5×3と立式して何の問題があるのか。この考え方で確実に全ての問い(注)に対して正しい答えを導けるじゃないか。掛け算の本質を理解している子に、くだらないルールを強制するのはやめてくれよ、といいたい。
注:ここでは「くだらないルール」の理解度をチェックする「指導のための指導」は、算数指導の過程にしか登場しないものであって、それは本来の問いではない、とする。私の頃も、年度末の実力テストでは「りんごは全部で何個か?」だけが問われ、足し算しても、絵に描いて数えても、掛け算で求めてもマルになった。
「どうやって、わかっている子とわかっていない子を見分けるんだ?」なんてのは、教師の都合に過ぎない。その「教師の都合」に解決策が見つかり、しかもそれが現実の限られた授業時数の中で実践可能となるまで、私は「今すぐ強制をやめろ」とはいわぬ。ないものねだりはしない。だが、「過半数の生徒にとって、まずはこうして形式を縛った方が掛け算は理解しやすいんだ。だからいいんだ」といって、その陰で犠牲になっている者を見ることをやめる教師がいれば、かつての自分に代わって大声で抗議したいよ。
3×5≠5×3問題で「こんな指導はおかしい」「かえって子どもが算数をわからなくなる」と声を上げた人の大多数は、実際に教室で自分の理想とする授業を実施してみれば、愕然とすることになるだろう。
教師がなぜ現在そのような指導をしているのか、虚心坦懐に歴史を紐解く意義を、私は否定しない。たしかに批判した側の多くは、自分の直感的な違和感があまりにも明瞭だったためかどうか、そうした謙虚さを欠いていた。小学校の教師なんてバカばっかりでしょ、という経験に裏打ちされた先入観によって、自分が「変だ」と感じた指導は「ダメなものに決まっている」と考えてしまった。
だけど、この違和感を無視していいということにはならないよ。takehikomさんのいうBA型問題の指導など、本来は不要なはずだ。掛け算の「イメージ」がない大多数の子に掛け算の指導をするには、「5皿」は絶対に乗数で「3個/皿」は絶対に被乗数という形式を押し付けて、この枠組みの中で掛け算に慣れ親しませていくのがベストの方法だ……なんて胸を張られては不愉快きわまりない。
「□(四角)の式」が登場したとき、「結局、ぼくの考え方で正しかったのか……。いきなり引き算の式を書け、とか、よくもあんな授業をしてくれたもんだ。問題文に書いてある通りに3+□=10と式を書いて、それから引き算をして□の数字を探すという手順でよかったんじゃないか。あのとき、先生はいったい何が気に食わなかったんだ? 何度もリボンの図を描かせてさ。先生のやり方とは違うけど、ぼくの考えも正しいよね、って、それを理解してほしかったのに、全く話が通じなかった。ああいう理解力ゼロの愚かな先生は心臓発作で死ねばいいのに」と心の底から教師を憎んだ気持ちを、私は忘れていない。
学習塾と無縁だった私にとって、学校の教室は唯一無二のものだった。体育館で新しい教科書を受け取ると、休み時間も夢中になってページを手繰り、「そうか、これからこんなことを勉強するのか」とワクワクした。家に帰ってからも、理科の教科書の写真を眺めたり、国語の教科書の小説を読んだりして過ごした。
しかしその思いは、大抵つまらない授業によって裏切られた。とくに算数だ。毎度毎度、教師の誘導に「おつきあい」して、教師の望む式を書く。その繰り返し。年度が替わって担当教師が交代しても(注:私の出身校では小学校から中学校と同様の教科担任制だった)、授業の進め方は変わらなかった。苦行である。そのうち、悟りが開けたりしないか。だが、何もないまま、6年間は無情に過ぎ去った。
卒業間近なある日のこと。「徳保くんはお勉強ができたから、学校の授業は楽しかったでしょう」「……」たしかに、お勉強が苦手な人よりはマシだったろう、と思ったから、私は黙り込むしかなかった。胸の内では、嵐が渦巻いていた。「いいからアンタは今すぐ教師を辞めろ。少なくとも算数の担当からは外れるべきだ。不愉快きわまりない」もちろん口は閉じたままだったが。
書籍や論文・論説を通じて,乗法に関する指導方法のスタンダードを知りました.そして,「かけ算の順序」という問題設定が不適切であり,「順序派」(「順序否定派」とも)の主張が,現在の小学校の算数教育に貢献しそうにないという理解に至りました.
私自身は、そのスタンダードな指導方法にロクな根拠がないことを再確認した。「おちこぼれを減らすためには仕方ない」と思いたかったのだが、「本当にこれでおちこぼれが減るっていう証拠がないじゃないか」と。図書館に足を運び、数冊を読んだが、時間と手間の無駄だったな、と思った。
ただ、私の場合は少し特殊で、自分で学級崩壊を起こした経験があるので、直感的にはスタンダードな指導法に納得しないものの、「たぶん、私がすんなり納得できる指導よりは、こっちの方がマシなのだろう」とも予想する。
それでも、そのスタンダードな指導法に抑圧されてきた日々を、私は忘れていない。その点に配慮のない(ように見える)スタンダードな指導法の擁護論には、強い反感を持つ。takehikomさんは、多くの「非順序派」の口の悪さ、倣岸不遜な態度と対照的だ。まず文章が紳士的であり、多くの資料に目を通し、自分の関心事だけでなく他人の関心事についても網羅的に取り扱って……。それでも、感情的な反発は抑え難い。
たぶん、スタンダードな指導法が、いまある中では一番マシなのだろう。きちんと実証されてはいないが、きっとそうなんだ。でも、この延長上に、「算数は好きだけど、学校の算数の授業は大嫌い」だった私が救われる世界は描けない。そんなもの、認められるか。とはいえ、私にも答えは見えていないのだが。
算数教育の本の著者が「力不足で申し訳ありません。上位層の納得と底辺層の引き上げを両立できる指導法はいまだ発見されておらず、現状ではスタンダードな指導法を選択するのが最良なのです」とデータ付きで説明してくれたなら、かつて虚無感と哀しみと怒りでゴウゴウとうなりをあげた私の胸の内の嵐と、算数の授業に絶望しながら学校へ通っていた20数年前の私への、せめてもの供養になると思う。
パパが,3人の子どもに言いました.
「おやつの時間だな.みんなで,おいしいのを食べるか」
「わーい!」
「ちょうどチョコレートをもらったところで,仏様のところにお供えしているから,取ってこよう」
「いくつ?」
「そうだなあ…ひとり5個でどうだ.あ,ちょうどいい,かけ算の問題だぞ.5個ずつ3人で,ぜんぶでいくつだ?」
「(声を揃えて)ごさん,じゅうご!!」
「そのとおりだ.だから15個持って来るよ.たしか15個入りだったんだよな…」
パパが,チョコレートを持って,そしてママといっしょに,3人のところに戻りました.
「ほらやるぞ」
「わーい!」
「そら.1個目は,いち,にい,さん,パパ,ママ.2個目は,いち,にい,さん,パパ,ママ.そして3個目は,いち,にい,さん,パパ,ママ」
「あれ…?」
「みんな3個ずつあるよな」
「パパ,おかしいよ!」
「どうした」
「さっき,ひとり5個って言ったじゃない!」
「言ってないよ.かけ算の問題だぞ.5人いてて3個ずつで,ぜんぶでいくつだ?」
「(声を揃えて)ごさん,じゅうご!! あれ!?」
「な.うちは5人家族なんだから,5人に3個ずつで,チョコレートはちょうど15個だ.めでたしめでたし.はい,パパの分はごちそうさま.お前らも早く食べろよ」
「パパ,ぜったいおかしいよ〜!!」
これは国語の問題であって、掛け算の問題ではない。
徳保的算数では、先に確定した数を被乗数にするのだから、3人が先に確定しているなら3×5、5個が先に確定しているなら5×3になる。3が「人数」なのか「1人あたりの個数」なのかという話であって、つとめて国語の問題。
よく読めばわかりますが、「パパ」が嘘をついていることが問題なのであって、掛け算云々は全く関係がない。私なら「ちがうよ! ひとり5こで、3人いて、ごさんじゅうご、でしょ。うそつきはドロボウのはじまり! ぼくたちのチョコレートをうそついてとらないで!」と怒ります。
「5×3=15」という計算をしたことだけ覚えていても、5と3の意味を忘れてしまったら意味がないという話でしかない。
たぶんtakehikomさんが仰りたいのは、1人あたりの個数を被乗数にする、というルールがもっと絶対的なものだったとしたら、そのルールから「5×3=15」の5の意味が、この場合においては確定するじゃないか、だからこんな詐欺は起こりえず、いったいわないの水掛け論に陥らずに済む、ということでしょう。
でも、正直、そんなつまらないルールで掛け算を縛るのはデメリットの方が大きいと私は思いますね。
- 子どもたちを喜ばせ,自身がチョコレートを取りに行こうとする時点では,パパは「5個ずつ3人」にしようと思っていました.
- ところが途中でママと出くわしました.事情を言うと,「ママも,ほしい」となりました.
- しかし15個のチョコレートを4人でとなると,割り切れません.さらに,「ごさん,じゅうご!!」と言わせたのが反故になります.
- そこで「5人いてて3個ずつ」と方針転換して,トランプ配りの要領でチョコレートを配りました.強弁というよりは,ママに責任を負わせないための言動なのでした.
takehikomさんは、こんなのが「嘘をついていい理由」になると思っているのか……。私とは価値観が相当に違うんだな。
「ママも、ほしい」なら、そういえばいい。子どもたちが「嫌だ、ママにはあげない」というなら、「そうか」と諦める。それから、子どもたちがチョコレートを食べ終わるまで、何かお喋りなどしながら、ずっとそばにいること。ただし、子どもたちが話題にしない限り、チョコレートの話はしない。絶対にせっつかない。
その後、子どもたちが「わたしも、ほしい」という場面があれば、「じゃあ、パパのを分けてあげるよ」と笑顔で答える。新しい袋を開けて総量を増やすこと(=大人にしか真似できない解決策)は、絶対にしない。同じことを、数年かけて幾度も繰り返す。そうすれば、伝わる子には伝わる。これで伝わらない子には、お説教をしたって伝わらない。
ではお説教は常に無意味か。そうではない。子どもが完璧超人に育つことはないから、いずれ「優しい心の持ち主と同じように振舞う方が、長い目で見れば得なので、そうする」ことを教えねばならない。これは相当に込み入った話なので、言葉による解説が欠かせないと思う。
なお、「他人にあげていいものといけないものの区別」の指導は、また別に行うこと。この指導を怠ると実害が生じるが、それでも優先順位は低いと思う。
算数以外では、漢字の指導について、「バッカじゃないの」という反応がウェブでは目立つと思う。
「先生も間違うことは多いし、先生の示した正解が唯一のものだとも限らない」と小学校の先生は何度も説いたけれども、実際に反論してみると、全く埒が明かないのでした。相手が子どもだと思ってバカにしているのか、壊れたレコードのように同じ説明を繰り返すだけ。先生の言い分はよくわかったから、先生もこちらの言い分をまじめに聞いて、理解して、その上で私が納得するような説明をしてほしいといっているのに、「俺の説明を理解すれば黙るはずだ」と思っているらしい。
こちらの土俵に乗らないなら乗らないでもいい。でも、その理由は説明してほしいじゃない。ところがサッパリなんだ。どもりのひどい私の話を聞くのは骨が折れただろうけど、それほど複雑な話ではなかったはずです。「話の通じないバカ教師は今すぐクビになればいいのに」と何度思ったことか。
教師が天下り式に指導したって結果が素晴らしければ「そういうものか」と力づくで納得もさせられるけれど、年度末に行われる実力テストのクラス平均点は、どうもパッとしない。ムカつきましたね。
3×5≠5×3問題とか、漢字の些細な字形に固執した採点基準などへの「バッカじゃないの」という反応は、かつて小学生だった人々の、数十年越しの異議申し立てなんじゃないかと思う。20数年前の私が、現在と全く同様に自説を主張できたわけはない。しかし、直感的な「先生それおかしくない?」という疑問や、イメージレベルでの問題の捉え方は、少なくとも私の場合、当時も今も変わりない。
小学2年生の頃から、私は「皿が5枚あります」と最初に書いてあるのだから、5×3が正しいに決まってるだろ、と思ってきたわけです。どうして足し算のときのように文章通りに立式させないのか? 「□の式」などが登場したときには、「ざまあ見ろ」と思いました。それは私が自然とやってきたことの追認でしかなかったのに、対症療法を膨大に詰め込まれてきたクラスメートは軒並み壁にぶち当たりました。私も、中学で連立方程式を学んだときには「鶴亀算って何だったんだ……」と脱力したわけですけど。
注:昨日の記事に引き付けて書けば、私は小学生の間はとうとう鶴亀算の「イメージ」を形成できなかったのです。だから直感的に正答への道筋が「見える」には至らず、先生のガイダンスを思い起こして順々に考えていかねば、答えを得られなかったのでした。で、中学時代に小学校のドリルを引っ張り出してきて鶴亀算や並木算の問題を集中的に解き直してみたら、天啓がひらめいて、「なんで今の今までこんな簡単なことがわからなかったんだ」と、再び愕然としました。「イメージ」というのは、突如として頭の中に出現するものです。
実際に『5×3を推す』指導法で教室が混乱しないのかどうかはわからないし、ハッキリいってしまえば、知ったことではない。かつて3×5を強制されたことに、私は未だに怒っていたんですね。記事を書いてみて、私はそのことに気付かされました。恨みつらみを文章にしたのです。
自分で新しい教育プログラムを作ってみたって、きっとうまくいかない。そういう予感はあります。かつての優等生たちは雄弁かもしれませんが、実際に例えば自分の子どもにうまく掛け算の「イメージ」を伝えられるかといえば、なかなか難しいだろうと思う。
算数教育の研究には長い歴史があり、そこそこ実証的に試行錯誤してきた経緯があって、現在のような指導手順が存在しているわけです。算数の教え方指南の本を図書館で濫読しましたが、ある段階においては、冒頭に引用したような問題において3×5という立式を実質的に強制するのが、「ふつうの公立学校で実際に可能な授業のやり方としてはベスト」ということで概ねコンセンサスが得られているようなのです。「多くの子どもが躓いた段差を、どうにかして緩やかな坂道に作り変えよう」という試みが営々と続けられてきた、その結晶が、現在の指導手順です。
だけど、今も日本のどこかで、そういう授業に「バッカじゃないの」と思いながらも先生の都合に合わせて3×5という式を書いてマルをもらってる小学生がいて、ずーっと教師をバカにし続けて大人になっていく。そして数十年後に、何かのきっかけでプッツンきて大騒ぎすることになるのだと思う。
小学校の算数の授業ではいろいろなテクニックを学びますが、私はそれらにまともに付き合おうとはしませんでした。暗記を苦手としていたことも大きいですが、核心的な「イメージ」さえ持っていれば、自ずと正解への道筋は「見える」のだから、場当たり的な工夫なんか必要ないじゃん……という感覚が大きかったです。黒板での発表や小テストでは仕方なく先生の意図に沿って問題を解いていましたが、授業中、手を上げることはほとんどしませんでした。「授業の流れに沿った答え」を発表する作業が、とても虚しく思えたからです。
「いろいろな解き方を探してみましょう」という問いも、くだらないと感じていました。要は知りたいことがわかればいいのであって。ときどきビックリするような解き方もあるのだけれど、どうせそんなの自分では思いつかないし、所詮、自分で思いつく解き方なら「どれでも根っこは一緒じゃん」っていう。
先生の期待している解き方がなかなか出ないと、「徳保くん、どうですか、他にアイデアはありませんか?」と振られるので、仕方なく黒板に「こういう解き方があります」と「正解」を書いてあげたりしていました。でもそんなのは教科書を予習していればわかることなので、「今日は教科書を机にしまって勉強しましょう」とかいう教師はさっさと辞めろ、時間の無駄じゃないか、と思っていたものです。ていうか、ふだん予習・復習をしっかりやりなさいといっていたのは何だったんだ、アホか、と。
よくわからない例え話をすると、山は山なのであって、「こういう登山道があるのが山だ」と定義付けたら、「見慣れた登山道が見つからないから山を山だと認識できない」なんてことになってしまう。初心者向きの登山道を歩くのは、山の「イメージ」を掴むのが目的であるべきで、登山道そのものよりも、そこから見えるものの方が重要なんです。
テスト問題に取り組むのは、目隠しされて知らない土地に置き去りにされるようなもの。「はい、目を開けていいよ」といわれたら、サッと周囲を見回して、「ああ、ここは山の裾野だな、山頂はあっちか。さて尾根はどこだろう。あっちの沢は危険そうだな」と当たりをつけて山を登っていく……そういう能力を養成することが学校には期待されているんじゃない?
速度も面積も水の量もみんな、この掛け算の「イメージ」があれば、少しも難しくない。逆に、「イメージ」のないクラスメートは、いちいちゼロから学んで、最初はバツをたくさんもらって、それからだんだん正答率を上げていくという手順を踏んでいました。
最後には90点、100点をみんな取るので、一見、到達点は一緒なのですが、じつはそうでもない。単元テストではクラス平均90点を実現しても、年度末の実力テストで「こんなの見たことない」という問題が出てくると、クラスで数人しか解けない。そして解けなかった人は、「登山道が見つからなかった」という意味の敗戦の弁を述べます。「ほら見ろ、登山道の説明ばかりしているからこうなるんだ」と私は思ったのだけれど、じゃあ具体的にどんな指導をしたらいいのかといえば、それはわからない。
算数が得意だった人にもいろいろあって、ひとつは先生や教科書のガイダンスに従って考えていく人なんだけど、私はそうじゃありませんでした。私が「わかった!」と感じるのは自分の中に「イメージ」ができたときで、先生の説明は、その言葉にし難いイメージを生徒に伝えるための道具に過ぎない、という風に考えていました。だから、基本問題の段階で「イメージ」ができてしまえば、応用問題を説明するために先生が奮闘する姿に「お疲れ様」と心の中でつぶやいて、話を聞かず勝手に先の問題を解いていました。
で、まあ、掛け算の「イメージ」とは何か、ということなんだけれども。うーん、こういう言葉で伝わるかどうかわかりませんが、「掛け算的状況」というのがあるわけです。説明しろっていわれたら、私も「1あたり量」がどうのこうのというしかないのかもしれませんが、私自身は直感的に「あ、これは掛け算だな」と、わかるわけです。「1あたり量」云々というのは、それがわからないときの取っ掛かりであって、それによって掛け算を定義付けてしまうと、分数の掛け算・割り算あたりで躓く。まあ、一番最悪なのは掛け算を足し算で定義付けることなんだけど、その害は大昔から専門書にいくらでも書かれているので略。
5枚の皿があります、各皿に3個ずつリンゴが乗っているようです、ではリンゴは全部で何個ですか、といったら、これは「掛け算的状況」です。「なんで?」といわれても困る。どうしてもといわれれば私も学校の先生と同じような説明をするしかないかもしれない。
が、私はそんなことをいちいち考えて「これは掛け算だな」と判断したのではない。問題文を読めば情景が浮かび、それを見た途端に5×3の行列のような「イメージ」が沸いてくる。でもって、私自身は皿が5枚であることを先に認識したのだから、私自身の思考を素直に式に表せば、5×3というように、5がまず出てくる。単純な話なのです。
私のように掛け算の「イメージ」から直感的かつ自然に5×3と立式する場合、私は「リンゴを皿の上にどう置くか」は全く考えていない。「既に皿の上にリンゴがある情景」を想起しています。
だからこそ、私は行列のような「イメージ」を感得し、皿の枚数と1皿の上にあるリンゴの個数のどちらが先でも「同じこと」だと直感的に理解するから、単純に「先に確定した皿の枚数を被乗数とする」のが自然だと思うわけです。(誤解する人がいそうだから補記すると、個人的には、「より自然なのはこっち」というのは、そう説明すれば十分な話だと思っていて、マルバツの採点基準にすることを支持するわけではない)
takehikomさんはリンゴの配り方に焦点を当てたり、順列で全てのケースを数え上げたりといった考察をされているのだけれども、個人的には、そもそも静的な状況を扱っている問題なのだから、配り方とかどうでもいいんじゃないかな、と今は思います。(当初は多くの方が配り方を云々していた雰囲気に流されてしまった)
誰がどういう風にリンゴを皿の上に並べたにせよ、結果として5枚の皿に3個ずつリンゴが乗っている状況を見て、リンゴの個数を掛け算で求めれば、それでいいわけでしょ。まあ件の問題は、問題文中に「掛け算で解け」と書いてないから、絵を描いてリンゴを数え上げても、足し算してもいいじゃん、とかもいいたくなるけど……実際、年度末の実力テストでは何でもアリなので、力技でも何でも正解に辿り着いた者が勝ちなわけで。
私は被乗数と乗数を区別し、被乗数×乗数の順序で記述するルールに積極的な存在意義を認めますが、他方で1皿あたりのりんごの個数だけを「1あたり量」とみなして被乗数とする指導には否定的です。その直感的な理由は、5×3=15の状況は15÷3=5とも15÷5=3とも表現できて、5と3を区別するのはナンセンスと感じるからです。「1あたり量」と「いくつ分」に本質的な違いはない。どちらもモノの見方しだいで「1あたり量」だとも「いくつ分」だとも考えられます。→5×3を推す(2010-12-21)
体験的には、私が小学生のとき、先生が語感にこだわって「1あたり量」の指導をした結果、「掛け算と割り算の相互変換問題」でクラスメートが悲惨な正答率を記録したことが背景にあります。もうひとつ例を挙げれば、後に学ぶ長方形の面積を求める単元において、あるクラスメートが「たて」が「1あたり量」で「よこ」が「いくつ分」だと理解し、それゆえに立式で行き詰る場面に出くわしたときの気持ちも忘れられない。
彼女は、斜めに印刷された長方形の絵を見て、どちらの辺が「たて」なのかわからず、涙目になっていました。私は哀しみを覚え、そして深い怒りに襲われ「無能な教師は今すぐ辞表を書くべきだ」と思ったけれど、実際にしたことはといえば「どちらでもいいんだ。先生は、今では、たてとよこのどちらを先に書いてもマルをくれるんだ。以前とはいってることもやってることも違うのだけれど、先生ってのは、そういうものなんだ。先生がかつて話したことは、適当に忘れて生きていくしかないんだ」と説明することだけでした。
では私が被乗数と乗数をどう区別しているのかといえば、「先に(仮に)定めた数字を被乗数、後から定めた数字を乗数とする」という、いささかアバウトなものです。
まず皿が5枚あることを数え上げて、次に1枚の皿にりんごが3個あることを数え、そして、各お皿の上にあるりんごの個数が等しいことはパッと見て視覚的に判断できたとすれば、式は5×3でいいじゃないか、というのが私の発想。まず皿が5枚あることを確定したのだから、被乗数は5でよい。逆に、もし先に1皿あたりのりんごの個数を数えたなら被乗数は3で、式は3×5となります。この区別は文章読解の問題となります。
私自身、『5×3を推す』ではトランプ配りを想定した例示をしているのだけれど、本当は、そんなこと考えていない。最初から3行5列の行列に相当するイメージがパッと頭に浮かぶわけ。これは行列そのものじゃなく抽象的なイメージなので、掛け合わせる数がどんどん増えても全く苦になりません。他人に説明する場合には言葉を介す必要があるから仕方なく行列に例えるのだけれど……ともかく、行を先に数えても、列を先に数えても、どっちでもいいでしょ、と。
だから皿の枚数を先に数えても、1皿あたりのりんごの個数を先に数えても、どちらでもいい。ともかくわかった順番にメモして、九九を使って掛け算すれば、全部のりんごの数はわかる。そうした直感的な状況のイメージがあるわけです。
私はこのように考えるので、「1あたり量」を被乗数とするのが本来の形だが交換法則を考慮すれば「いくつ分」を被乗数としてもよい、という主張には与しません。交換法則は計算の道具であって、立式において考慮することではないはずです。「5×3」がより自然だと思うのは、文章を素直に数式に落とし込めば「5×3」になるから。むしろ「3×5」の方が不自然です。
「5枚のお皿に3個ずつりんごをのせると、皿の上のりんごは全部で15個になります」といった文章を、「15個のりんごを5枚の皿にのせると、りんごは1皿あたり3個になります」「15個のりんごを3個ずつ皿にのせると、必要な皿は5枚になります」という2つの文章に書き換える問題、あるいはその逆。
割り算的状況を掛け算的状況に書き直す問題はみなまずまず正答していたと思いますが、ひとつの掛け算的状況から2つの割り算的状況を導く方は壊滅的でした。
その原因は、私はやはり、掛け算的状況の文章について、「1あたり量」にこだわって3×5=15しかありえないと指導したからじゃないかと思う。掛け算なら式は1種類なのに、割り算になったとたんに15÷5=3と15÷3=5の2種類の式がある、というから混乱するのではないでしょうか。
掛け合わせる数字のうち、最初に確定したものを被乗数、2番目以降に確定したものを乗数とする、というシンプルな発想なら、割り算で難しいのは「何を割るのか」を見定めることだけ。後は、先に確定した数字で割ると未確定の数字が判明する、というように、こちらもシンプルな話になります。
takehikomさんは3×5≠5×3問題について多くの記事を書かれていまして、圧倒されます。私はもう、個人的に関心を持ち、ものをいいたくなった部分については書いてしまったので、とくに追加したい内容はありません。今回は、もっとくだらない話を少し書こうと思います。
いまあらためてウェブに残った大勢の放言の残骸を読み漁ってみて、まず第一にムカムカしてくるのはやはり、学習指導要領解説を全く読めていない人が多いこと。検索してみると、自説に都合のいいように学習指導要領解説を読み、いい加減な援用をして勝ち誇る人が延々と出てきます。
別にそれは議論の最重点ではない。3×5≠5×3問題について、いわゆる「非順序派」は、学習指導要領解説が味方ではないとわかれば、手のひらを返して学習指導要領解説を攻撃するに決まっています。本当は権威など重要ではなく、自分の直感が満足するかどうかだけが問題なのです。
だから私を含む多くの論者は、takehikomさんが希望するような、過去の算数教育研究の積み重ねを踏まえた議論などするつもりはないし、まとめサイトも作らないし、本も読まない。そういうことをする必要性を全く感じない。だって、それで少しも困っていないから。面倒なことをする動機付けを欠いています。自説の正しさには直感的な確信があり、間違っているというなら説得してみせろ、という気分でいるのです。
偉い先生のいうことだろうと歴史のある議論だろうと、いま俺を納得させられない議論は信用しない、という気分は、少なくとも私が物心ついて以降はずっと、社会に蔓延し続けているように思います。学校でも「先生のいうことを鵜呑みにするな」「迷ったら自分を信じろ」と教えられてきましたし。
それでも権威付けの習慣が消えないのはなぜか。それは、自分の立場を決めかねている層には「権威が効く」ように思われるからでしょう。
実際、私自身の行動を注意深く観察してみるに、直感的に「響く」ものがない話題については、権威付けの上手な主張を「とりあえず選択」しているようです。逆に、直感的に「これが正しい」と判断した場合は、自説とぶつかる権威の方を、不遜を不遜とも思わず疑っています。おそらく、多くの人が私と似た判断フローを持っているのだと思います。そうだとすれば、自分は信じてもいない権威を援用して自説を補強するのは、矛盾した行動だとはいえません。
多くの人はしょせん自分の「常識」感覚に寄りかかった議論をしているに過ぎないから、自分が所属している(と思っている)クラスタにおいて、多数派の側に立てるかどうかは(精神的安定のために)重要です。Twitterやはてブやコメント欄でお手軽に意見表明する程度の層を少しでも取り込むための手段として、学習指導要領解説が役に立つなら援用するということでしょう。
ともあれ、私は、3×5≠5×3問題そのものよりも、学習指導要領解説をきちんと読めない国語力の低さのほうに興味を引かれました。『立式の論理と計算の便宜』は、まさにそうした私の問題意識を反映した記事です。この記事を読んだところで「結論」は変わらないでしょうが、学習指導要領解説の読み違えをしていた人は、その部分について、各自の記事を訂正すべきだと思う。
続く『5×3を推す』も、私が書いているのは国語の話。takehikomさんがまとめた論点の中では、まったく傍流に位置します。
そう。グーグルのチームは2つのブルーから1つ選ぶこともできない。あの41通りのグラデーションを試してどれがベターか比べてるという話は本当さ。ついこの間もボーダー幅を3か4か5ピクセルかで言い争いになって、そんなに言うなら自分の主張が正しいことを証明しろと言われたさ。こんな環境では、やっていけない。こんな瑣末なデザインの決め事で口論なんて、もううんざりだ。この世界には対処しなくてはならない、もっとエキサイティングなデザインの課題が他にあるのに。
このところ、Googleの様々なサービスのデザインは、良くも悪くも、ずいぶん変わってきている。この変化の速さと大きさから想像するに、辞めたデザイナーに同調する側がGoogle社内で主流派になったのかもしれないな。
ボーダーの幅や、特定の部分の色の選択などにいちいち科学を持ち込んで、地味な作業を延々と積み上げていた頃、Googleのデザインは保守的でつまらないものだった。それはWindowsのクラシックスタイルのようなもので、たしかに革新的とはいえず、ダサい印象もあったが、やはり使いやすかったと思う。
しかし Windows Vista までは逡巡しつつもクラシックスタイルを使っていた私も、Windows 7 からはデフォルトのスタイルを利用している。私がふと疑問に思うのは、「クラシックスタイルを改良していったら7のスタイルになるのか?」ということ。Douglas Bowmanさんがウンザリして辞めたのは、「それは無理だ」と考えていたからだろう。
A案とB案の比較ができることはわかっている。では、B案のほうが優れているとして、A案を科学的に改善していったらB案に到達するのか、という話。
最近のGoogleは、以前のデザインを少しずつ改良していくのではなく、ユーザーテストで支持された別のデザイン案で置き換えるという「Windows方式」に転換しているような気がする。
そうではないのだとしたら、何かしら技術的なブレイクスルーがあって、相当大きなデザインの変更まで科学的に行えるようになったのか? Yesなら夢が広がるけど、個人的には使いにくくなったように思えるから、世界中のサービスにこれを真似されては堪らないな……。
ロンドン条約(1972)には不合理な部分がある、というのが私の認識。基本的には間違っていない条約だから、拙速に脱退してしまうのはまずい。1996年の議定書をさらに推し進めて、「投棄管理の厳格化と影響評価のための手続き」を条件に使用済み核燃料の投棄再開に道を開くべき。
厳格な管理が不可能と判明したり、影響評価をした結果「やっぱりダメだ」となったなら、それは仕方ない。だが、十把一絡げにダメだという大雑把な条約を前提条件としてしまうのは、感心しない。
2ちゃんねるでは反論がいろいろ出ているが、使用済み核燃料は水溶性じゃないし、重いから容器が壊れても浮いてこない。水深1万メートル級の深海では、水面近くまで核物質を運搬するような生物も見つかっていない。水面に近い光が届く範囲と海底付近にはそれなりの密度で生物がいるけれど、間の領域の生物密度はかなり低い。食物連鎖で海溝の底の物質が水面まで上がってくると単純にはいえないのは、そのため。
原発事故で問題になったのは、運転中や停止後まだ熱い間の原子炉で発生する軽い放射性物質が水と一緒に流れ出し、また水素爆発で飛散したこと。あの爆発でもプルトニウムなどの重たい物質は原発の敷地外へは出なかった。海に投棄する使用済み核燃料は冷えた状態にあって、その周囲に軽い放射性物質を次々に生み出したりはしない。だから、容器が壊れても、とくに問題ない。
以上は仮説なので、「本当にそうなのか」は環境評価の方に調べていただく。けっこう長い間、使用済み核燃料や古い原子力潜水艦は海溝に捨てらてきた。ロンドン条約では一律に禁止されたが、きちんと研究すれば条件付でOKになる可能性がある。結果としてアウト判定が出た場合、調査費用は「無駄遣い」と批判されるのだろうが、セーフの場合の利益は大きいので、ぜひ挑戦してほしい。
空気は温度差が大きいので、ダイナミックな対流が起きる。だが海の深い部分の水温はほぼ一定なので、対流は起きない。では黒潮や親潮などの海流は何が引き起こしているのかというと、風が起こしている。だから海流は、海の深いところには関係ない。浅い海では海流も対流もあって、海の水はダイナミックに動くという印象があるが、深海の水は基本的に澱んでいて、重たい物質を運ぶ力を持たない。
……今後、さらによく調べたら、こうした知見がひっくり返るかもしれない。だから、今すぐロンドン条約を脱退して使用済み核燃料の海溝への投棄をすべき、といいたいわけではない。しかし、条約があるからといって、最もリーズナブルな方策の実現可能性を探る努力を放棄するのは、賛成できない。
@igi ふぁぼったーの仕組みは知りませんが、元のツイートを消しても消えない(=無断転載している)なら著作権法違反。相手の許可を得るか、無断転載OKを公言している人のツイートだけを利用するべき。親告罪は告訴があるまで公訴を提起できないだけで、罪は罪。「文句いわれたら消す」は悪質。
10:19 PM May 1st webから igi宛
このツイートを削除してみたが、やはり、ふぁぼったーからは消えないようだ。Togetterと同様、抗議すればすぐに消してくれるのだろうと思う。
だが、削除済みツイートを許可なく無断転載し続けること自体がTwitter APIの利用規約に反しているのだから、ふぁぼったーがその仕様を変更するつもりがないのならば、ふぁぼったーはTwitter APIへの接続を遮断されても文句はいえないだろうし、ルールを守ってTwitter APIを利用している他の多くのサービスとの競争において、きわめて不公正だといってよいだろう。
私が著作権を放棄しているのは deztec.jp 内のコンテンツだけです。「矛盾」を指摘する前によく読んでほしい。また、いくつかのご意見に対して補足の記事を書きました。ぜひご一読を。
私は先月よりTwitter社のサポートに問い合わせをしてきました。
【問い合わせの要点】
「私がいったん公開した後に削除または非公開にしたツイート」を、
私に断りなく転載・公開し続けるサービスは、
Twitter の API の利用規約に違反しているか?
【私の希望】
「はい、違反しています」or「いいえ、違反していません」
いずれかの回答をいただきたい。
Twitterのサポート担当者は、削除済みツイートの無断転載を続けるサービスはTwitter APIの利用規約に違反していることを明言してくださいました。この応答はTwitterサポート#1829415に記録されています。
- I.4.A. Exporting Twitter Content to a datastore as a service or other cloud based service, however, is not permitted.
- II. Don't surprise users
- II.1.B. Get users' permission before
Twitterサポートの回答を得た私は、Togetterを運営するトゥギャッター株式会社に、概略以下のような問い合わせをしました。
Togetter内の記事に、私が既に削除したツイートが無断転載されています。私の削除済みツイートが転載され続けることについて、私は貴社に対して事前にも事後にも許可を出していません。
ユーザーが削除したり非公開にしたツイートをユーザーに無断で転載・公開し続けるサービスは、Twitter API の利用規約に違反しており、Twitter API を利用できません。私はTwitterサポート#1829415において、現在のTogetterは規約違反との回答を得ました。(注:サポートの回答です。Twitter社の公式見解ではありません)
Togetterは特定のツイートの削除依頼には応じていますが、それでは不十分です。クレームがつくまで無断転載を放置するようなサービスによる利用を、Twitter API の利用規約は否定しているからです。ユーザーがTwitter内でツイートを削除したとき、多少のタイムラグはあっても、全世界のTwitterのAPIを利用したサービスにおいても、当該のツイートは削除される必要があります。
Togetterの仕様を Twitterの利用規約に合致するよう変更されることを、私は要望します。この要望が実現すれば、結果的に私のツイートが無断転載されている状況も解消されるはずです。
以上、ご検討くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
TwitterのユーザーはAPI経由でツイートを再利用されることに同意していますが、そのAPIには利用規約があります。その利用規約によれば、削除済みのツイートはAPIを利用したサービスにおいても削除されなければなりません。ユーザーは削除済みツイートを表示し続けることまでは同意していないのですから、削除済みツイートを表示し続ければ、それは無断転載になります。
失言や炎上のログを著作権を無視した形で収集・公開できるサービスが「表通りに出店している」のはおかしい。よくない使い方をしているユーザーは僅かです。規約の枠内でサービスを設計しても、Togetterは本来の魅力をほとんど失わないはずです。
Togetterが仕様を変更すれば、新しく無断転載サービスが誕生するに違いありません。しかしながら、規約を守らないサービスが「表通り」から一掃されれば、その利用者数は十分に少なくなるでしょう。それは「こういうことは正しくない」という社会的なメッセージになります。
私としては大満足の回答! どうもありがとうございました。Togetterは本来あるべき形への歩みを放棄していなかったんですね。気長に対応を待ちたいと思います。
Twilogは、当人の許可を得て過去ログを取得するのだから、主要部分はクリーンです。しかし公式RTまでログ取得の対象とする機能には課題があります。引用の要件が満たされていればよいのですが、そうでない場合は、元のツイートが削除されると無断転載になってしまいます。
TwitterはAPIを無断転載に利用することを否定しています。Twilogは公式RTのログ取得をデフォルトONとしており、他人の著作物を転載することの危険性についての注意喚起も乏しい。現状のままではTwilogが利用者に責任転嫁するのは難しそうに見えます。
コメントで教えていただいたのですが、favstar.fmというふぁぼったー類似サービスでは、ツイートの削除に対応しているそうです。なんと10秒で対応してくれるという。本当かな? と思って調べてみたところ、私の削除済みツイートは消えていませんでした。ついでに調べたふぁぼったーの方も、やっぱり消えていませんでした……。
Twitter社は利用規約の遵守を条件にTwitter APIを開放しています。API経由で取得したツイートをガイドラインにしたがって表示すればTwitter社と提携したツイートの再利用となり、Twitterのユーザーは規約によりこれを許容しなければなりません。
しかしながら、Twitter APIの利用規約に従わないサービスは、Twitter APIを利用できません。Twitter APIを利用せずにツイートを取得した場合や、利用規約を守る意思のないサービスがTwitter APIを利用した場合、それらはTwitterの提携先とは認められないはずです。そのようなサービスがツイートを再利用するためには、各Twitterユーザーの許可を取るか、引用の要件を満たす必要があります。
米国議会図書館が全ツイートのログを保持し、場合によってはその一部を公開するそうです。しかしそれは、著作権より重要な特定の目的を実現するために必要な場合に限られています。著作権はおそらく、世界でもっとも重要な権利ではない。だから、ツイートの無断利用も、正当化できる場合があると思います。でも、それなら、米国議会図書館などに倣って法律を作るべきです。
Togetterに問い合わせをした件について、私が削除したツイートに書かれていたのは、大した内容ではありません。
@mitiyon たしかに携帯電話が壊れても逮捕には結びつかないので、公共システムの堅牢さには少なくとも業界標準の適用を義務付けて、それに達していない仕様ではダメだということにすべきだ、といえるかもしれませんね。
2010-11-03 16:35:53
ただこれだけです。しかし、大した内容であろうとなかろうと、私には自分のツイートを削除する権利があります。いまTogetterの無断転載によって、私はその権利を不当に奪われています。それでいいはずがない、といいたいのです。
かつてニコニコ動画やYouTubeは、テレビ番組の丸上げを厳しく取り締まることを要請されました。Togetterも、ツイート再利用業界の国内リーディングカンパニーとして、そろそろアングラな世界とは距離を置いてほしい。Twitterのユーザーがひとつひとつのツイートに対して保有している権利を、きちんと尊重したサービスを構築すべきです。
人それぞれ著作権より大切だと思うものはあるでしょう。しかし、真に「このような場合には著作権よりこちらを優先すべきだ」という社会的なコンセンサスがあるならば、立法が可能なはずです。ネットでは声が大きくとも、実際には少数派でしかないなら、それなりのやり方をすべきです。
私は何度も書いてきました。他人の著作物を自由に再利用したい人々は、同じ考えを持つ者同士でコミュニティを作り、その内側で理想を実践すべきだ、と。その世界が魅力的であれば、大勢が「私も参加したい」と思い、続々と集まってくるに違いない。あるいは、個人的に再利用自由なコンテンツを世界に提供していくのもいい。しかし現実には、理想社会の建設を「他人の権利を踏みにじるところから始める」人が多すぎます。
「利用規約で削除対応を求めつつAPIにその機能を用意していないTwitterはおかしい」という意見がありますが、Twitterは、ある種のAPIを作らないことによって、Togetterのような過去ログ参照サービスを否定しているのかもしれません。もちろんTogetterなどがAPI強化の要望を出すのは自由ですが……。
Twitterのサポート担当者の言葉は勝手に公開できないので、私の送信した内容のみ示します。手元のログデータに従い、新→古の順としています。
どうもありがとうございます!
安心しました。
おかげさまで、今後とも楽しくTwitterを使っていけます。
本当にありがとうございました。
お世話になっております。
Please give a plain answer to me about an important point.
たびたび申し訳ないのですが、肝心な点について、回答をください。
http://dev.twitter.com/api_terms
I.4.A. Exporting Twitter Content to a datastore as a service
or other cloud based service, however, is not permitted.
II. Don't surprise users
II.1.B. Get users' permission before
II.4.B. For example, your Service should execute the unfavorite
and delete actions by removing all relevant messaging and
Twitter Content, not by publicly displaying to other end users
that the Tweet was unfavorited or deleted.
Togetter や Favotter が、上に引用した規約に違反していることは
明らかだと私には思えます。しかし私の規約の解釈が間違っているかも
しれないので、問い合わせをしているのです。
【問い合わせの要点】
「私がいったん公開した後に削除または非公開にしたツイート」を、
私に断りなく転載・公開し続けるサービスは、
Twitter の API の利用規約に違反しているか?
【私の希望】
「はい、違反しています」or「いいえ、違反していません」
いずれかの回答をいただきたい。そうでないと、API の利用規約の
解釈を巡って、Togetter の担当者との議論に決着がつきません。
以上、よろしくお願い致します。
担当者 様
問題は未解決=疑問が解消されていない状況ですので、
ご対応をお願い致します。
Sorry, I cannot understand English.
I hope for the support in Japanese.
Please E-mail in Japanese.
お世話になっております。
APIの利用規約に関して、質問したいことがあり、連絡させていただきました。
現在、API経由で取得したツイートを無断転載しているサービスが多々あります。例えばTogetterやTopsyやFavotterがそうです。それらが無断転載をしているといえる根拠は、2つあります。
1.twitterの中で自分のツイートを削除しても、Togetterなどにはツイートが表示され続ける。(転載)
2.Togetterが私のツイートを再利用する際、私の許可を求めない。(無断)
また、著作権違反のツイートをTwitterのサポートに訴えて削除していただいても、上記のようなサービスに無断転載されたツイートは消えません。これはTwitterにとっても問題のある状況ではないでしょうか。
というわけで、私は以下の疑問を感じています。
「ある時点においてAPI経由で取得できたツイート」なら見境なく無断転載し、その後、元のツイートが消えても転載を続けるサービスは、TwitterのAPIと著作権に関する利用規約に違反しているのではないか?
私がこの疑問を持ったのは、私が削除したツイート(http://twitter.com/deztec/status/29550293132)がhttp://togetter.com/li/65659に無断転載され続けているのを発見したからです。Twitterの著作権担当サポートの方に連絡したところ、TogetterはTwitterの外部サイトだから関知しないとのことでした。しかしTogetterはTwitterのAPIを経由して私のツイートを無断転載したわけです。
もし、こうしたAPIの利用法をTwitterが許容するとしたら、私が「自分のツイートを削除する」ためには、API経由でツイートを無断転載している無数のサービスを全て探し出し、各サービスにいちいち「私のツイートを削除してください」とお願いして回らなければなりません。そのような状況では、Twitterのユーザーは実質的に著作権の一部である「公開権」を奪われていることになると思います。公開権とは、自分の著作物を公開する権利とともに、公開を中止する権利も含む、と私は解釈しています。
Togetterは、私が「このツイートを削除してください」と申し入れれば、その通りにするでしょう。しかし問題はそういうことではないのです。「私が削除しtwitter.com内から消えたツイートを、権利者の申し入れがあるまで無断転載し続ける」ことが、そもそもTwitterのAPIの利用規約ではないか。私が削除したツイートは、Togetterからも自動的に消えるようにしなければ、Togetterというサービス自体がTwitterの規約に違反しているといってよいのではないか。
そこで私はTogetterに根本的な仕様変更の申し入れをしようと思っているのですが、その前に、現状のTogetterはTwitterの利用規約に違反しているという私の解釈が正しいのかどうか、まずTwitterのサポートの方にお尋ねしたいのです。
長くなりましたが、以上、ご回答をいただければ幸いです。よろしくお願い致します。
Twitterのサポート担当者の言葉は勝手に公開できないので、私の送信した内容のみ示します。手元のログデータに従い、新→古の順としています。
***様
お世話になっております。
> APIチームに報告しましたが、これからアップリについてはapi@twitter.comご連絡ください。
了解しました。
1.私が削除したツイートを、Togetterが無断転載している。
2.Togetterは今後も権利の侵害を繰り返す可能性が高いため、個々の無断転載をやめさせるのではなく、こうした無断転載が再び起きないように、Togetterの仕組みを変えることが大切。
3.TogetterがAPIの利用規約を遵守し、「API経由で取得できなくなったツイートの再配布」を停止すれば、著作権の侵害は起きなくなる。
私はこう考えて、Twitterサポートの著作権担当部門に問い合わせをしました。
しかし「これはAPI担当の領域だ」と仰るのであれば、今後はAPI担当の方に問い合わせをするように致します。
ご対応いただき、どうもありがとうございました。
***様
お世話になっております。
私の意図が伝わっていないようなので、もう一度書きます。
> 報告したツイートは削除されたようです。
とのことですが、http://togetter.com/li/65659 を見ると、削除されていません。
http://twitter.com/deztec/status/29550293132
> @mitiyon たしかに携帯電話が壊れても逮捕には結びつかないので、
> 公共システムの堅牢さには少なくとも業界標準の適用を義務付けて、
> それに達していない仕様ではダメだということにすべきだ、
> といえるかもしれませんね。
> 2010-11-03 16:35:53
このツイートを投稿したのも、twitter.com 内でこのツイートを削除をしたのも、私です。
私がご相談しているのは、私が削除したツイートが http://togetter.com/li/65659
に転載されたままになっているのはているのはおかしいのではないか、ということです。
Twitter の規約には、API 経由でツイートが外部に配信されますよ、と書かれています。
しかし私が削除したツイートは、もはや API 経由では読み取れないはず。
ならば Togetter が削除済みツイートを再利用し続けるのは規約違反ではないでしょうか。
twitter.com の中では、私の意図通りにツイートが削除できていますが、問題は
Togetter のようなツイートを無断転載するサービスです。
かつて一度でも API 経由でゲットできたツイートなら、半永久的に無断転載しても、Twitter の利用規約には違反しないのでしょうか?
私が Twitter ログ収集サイトに対して著作権保持者としていちいち削除を要請して回るのは非現実的だと思います。
いまご相談している件では、たまたま Togetter だけが無断転載をしていますが、もし私のツイートがリンクを含んでいた場合、TweetBuzz や Topsy などにも無断転載されていたはずです。
リンクを含むツイートを収集するサービスは無数にあって、とても全部は把握できません。
Twitter でツイートを削除したら、Twitter の規約にしたがって API 経由でツイートの再配信をしている全てのサイトからも私のツイートは削除されるべきだと私は思います。
それとも「Togetter のやっている無断転載は Twitter の利用規約に違反していないので、無断転載されたツイートの削除要請は Togetter に対して行うべき」なのでしょうか?
以上、あらためてよろしくお願い致します。
概要: その他
タイトル: 著作権に関する問い合わせ
お困りの内容: copyright@twitter.comへ以下のような問い合わせをしたのですが、私には読めない英語での返信しかなく、困っております。日本語でのサポートはしていないのでしょうか?
なお、返信には#1748844という番号がついていました。
----------------
担当者様
(i) 著作権所有者又は著作権所有者を正式に代理する人の物理的あるいは電子的署名。
(略)
(ii) 侵害されたと主張する著作物の名称。
http://twitter.com/deztec/status/29550293132
かつて上記のURLで公開されていたツイート。
(iii) 除去されるべきであり又はアクセスを不可能にすべきである、侵害している又は侵害活動の目的物であると主張する資料の名称、及びその資料の在り処の特定を弊社に許容するに相当に十分な情報。
http://togetter.com/li/65659
上記URLでは、私が削除したツイートが転載されています。
(iv) ユーザーの住所、電話番号、電子メールアドレスを含むユーザーの連絡先情報。
(略)
(v) その資料を申し立てられた方法で使用することについては著作権所有者、その代理人、又は法令はこれを許可していないとユーザーが誠実に確信すると述べているユーザーによる供述。
Togetterでは、私のツイートの他にも、APIで検索できなくなった古いツイートがたくさん転載されています。これは利用規約の
Except as permitted through the Services (or these Terms), you have to use
the Twitter API if you want to reproduce, modify, create derivative works,
distribute, sell, transfer, publicly display, publicly perform, transmit, or
otherwise use the Content or Services.
という記述に反しているように思います。それとも、ある時点でAPI経由で取得できたツイートは、半永久的に再配布し続けてよいものなのでしょうか。
「Twitterの利用規約に同意した私は、Togetterのような削除済みツイートを転載している全てのサービスを自力で探し出し、いちいち削除依頼をしていかなければ、削除したはずのツイートの転載を全て潰すことができないのだろうか」という点について疑問があり、問い合わせをさせていただきました。
(vi) 通告の内容が正確であることと、虚偽の供述を行うと偽証罪に問われることを承知した上でユーザーが著作権所有者の正式な代理人であることを述べた供述。
私はユーザー名 deztec のツイートの著作権所有者本人です。
お忙しいなかたいへん恐縮ですが、(v)の件について、ご回答をいただければ幸いです。
以上、よろしくお願い申し上げます。
Twitterのサポート担当者の言葉は勝手に公開できないので、私の送信した内容のみ示します。手元のログデータに従い、新→古の順としています。
I hope for the support in Japanese.
Please E-mail in Japanese.
I do not understand English.
あらためて書きます。
私の問い合わせ内容は、私のツイートを過去にAPI経由で取得したTogetterというサービスの事業者が、私が当該のツイートを削除した後にも、そのツイートを無断転載して公開し続けていることについてです。
おそらくTogetterは、私が申請すれば、削除対応をするでしょう。しかし私がまだ気付いていない、同様の、無断転載サービスが、他にもたくさんあるかもしれません。それらを全て検索していちいち削除申請するのは、現実的ではありません。
私は、Togetterのような(ある時点においてAPI経由で取得できたツイートは、その後、取得不可能になっても気にせず再配布し続ける)無断転載サービスは、そもそもtwitterのAPIの利用規約に違反していると考えており、サービスごと停止すべきだと思います。
Twilogのような、自分のツイートだけを自らの許可に基づいて転載するサービスと、Togetterのような第三者が無断転載するサービスとでは、本質的に異なることを理解していただきたい。
私はtwitterの利用規約に同意しましたが、Togetterのような再利用の仕方までは容認していません。
twitterはTogetterをAPIの利用規約に違反していると考えるのか否か、ご回答をいただきたい。
Sorry, I can not understand English.
Please mail me in Japanese.
担当者様
(i) 著作権所有者又は著作権所有者を正式に代理する人の物理的あるいは電子的署名。
(略)
(ii) 侵害されたと主張する著作物の名称。
http://twitter.com/deztec/status/29550293132
かつて上記のURLで公開されていたツイート。
(iii) 除去されるべきであり又はアクセスを不可能にすべきである、侵害している又は侵害活動の目的物であると主張する資料の名称、及びその資料の在り処の特定を弊社に許容するに相当に十分な情報。
http://togetter.com/li/65659
上記URLでは、私が削除したツイートが転載されています。
(iv) ユーザーの住所、電話番号、電子メールアドレスを含むユーザーの連絡先情報。
(略)
(v) その資料を申し立てられた方法で使用することについては著作権所有者、その代理人、又は法令はこれを許可していないとユーザーが誠実に確信すると述べているユーザーによる供述。
Togetterでは、私のツイートの他にも、APIで検索できなくなった古いツイートがたくさん転載されています。これは利用規約の
Except as permitted through the Services (or these Terms), you have to use
the Twitter API if you want to reproduce, modify, create derivative works,
distribute, sell, transfer, publicly display, publicly perform, transmit, or
otherwise use the Content or Services.
という記述に反しているように思います。それとも、ある時点でAPI経由で取得できたツイートは、半永久的に再配布し続けてよいものなのでしょうか。
「Twitterの利用規約に同意した私は、Togetterのような削除済みツイートを転載している全てのサービスを自力で探し出し、いちいち削除依頼をしていかなければ、削除したはずのツイートの転載を全て潰すことができないのだろうか」という点について疑問があり、問い合わせをさせていただきました。
(vi) 通告の内容が正確であることと、虚偽の供述を行うと偽証罪に問われることを承知した上でユーザーが著作権所有者の正式な代理人であることを述べた供述。
私はユーザー名 deztec のツイートの著作権所有者本人です。
お忙しいなかたいへん恐縮ですが、(v)の件について、ご回答をいただければ幸いです。
以上、よろしくお願い申し上げます。
私が3歳から21歳まで過ごし、いまも両親が暮らす街、成田ニュータウンについて、とくに資料を参照せず、一住民の認識を書き記す。1980年代までの成田ニュータウンは、自動車と歩行者の接触事故がない街、マイカー不要の街の理想に迫っていた。だが、挫折した。(2011-07-18 写真や図版を追加し全面改訂)
千葉県成田市の成田ニュータウンは、成田空港関連従業者および経済発展に伴い増加する人口を吸収する街として計画された。JR成田駅西側の丘陵地帯を用地とし、1968年に事業着手した。事業面積487ha、計画人口6万人(人口密度:約1.2万人/km^2)の計画だった。
成田ニュータウンの特徴を列挙する。
自然の地形を利用しているので、全ての場所で構想を100%実現できていたわけではない。だが、全くの絵空事に終わっているわけでもなかった。
成田ニュータウンで撮影した写真を、いくつか示す。
歩道橋へ向かう坂の勾配がきわめて緩やかなことを確認できると思う。徒歩空間と自動車空間が立体的に分離された街であれば、人と車が接触(=交通事故)は、きわめて起こりにくい。
街区内の緑あふれる歩道。歩行者に最高の道が用意されている街だから、みんな徒歩で移動したくなる。車道の脇に用意された歩道ではなく、歩行者専用の道だから、子どもも、大人も、高齢者も、安心して自分のペースで歩くことができる。
左側は幼稚園。学校等は車道に面しており、低い位置に作られている場合もある。また「2車線の歩道」は他の街では滅多にお目にかかれない貴重なもの。広い歩道を家族連れが歩き、狭い歩道を自転車が駆け抜けていく、といった使われ方をする。無駄なようで無駄でない。
車道が生活空間よりかなり低い位置にあることがわかる。車道は十分に広く、また通勤の他にマイカー需要がほとんどない(街区内の徒歩移動で生活が完結する)から、渋滞しない。
これが、成田ニュータウンの提案した「人と自動車が共生できる街」だった。
成田ニュータウンは自転車操業で事業が進められたため、成田空港の拡張工事が遅れたことは、計画に甚大な影響を及ぼした。居住希望者数に見合った集合住宅を売るのではお金が足りないため、計画人口6万人の看板を下ろし、集合住宅を一戸建てに切り替えて販売した。結果、人口は4万人止まりとなった。
集合住宅ブロックなら、車道との接続口が1箇所限定でも買い手があった。だが戸建住宅街では、車道との接続口がいくつもなければ売れなかった。集合住宅ブロックの住人は「車道が遠い」ので街区内を徒歩で移動したが、戸建住宅街の住人は「車道が近い」ので自動車で移動した。いったん自動車に乗ってしまえば、300mも3kmも大差ない。
成田空港は、21世紀になってようやく第二滑走路が供用された。増大する労働人口を吸収するため、戸建住宅で埋まった成田ニュータウンの外に「美郷台」「はなのき台」「公津の杜」が建設された。いずれもロードサイド型の商店や病院を中軸に据えた自動車本位の街だ。歩道が車道のオマケになっている街だ。
3つの新市街と成田ニュータウンを合わせて、ようやく人口は6万人を少し超えた程度。成田ニュータウンは本来、古い集合住宅の建替高層化で7〜8万人まで人口を増やせた。第二滑走路が20年早く建設されたなら、土地を浪費せず「老人に優しく、子どもが安心して遊べる街」を実現できていた。つくづく残念でならない。
2つリンクしたが、以下では松永さんの記事の感想を書いていく。
今回の震災でも、インフラの復旧は電気が断然早かった。まあ、水道をやられたら電気だけあっても風呂には入れないわけだが、とにかく電気は1週間以内に復旧してくれる頼もしいインフラだ。
たしかに電気は復旧した後も停電する。だが震災直後の計画停電は、意外と早く終わった。夏場も、基本的に停電はしない方向だそうだ。仮に夏と冬に停電が起きるとしてもせいぜい2〜3年のことなので、総停電時間は高々200時間だろう。200時間に備えて数十年の暮らしを設計するのは馬鹿げていると思う。
それに計画停電なら、終わる時刻がわかっているわけで、エレベーターが止まって部屋に帰れないなら、地上で時間を潰せばいい話。地震直後の終りの見えない停電のときには、避難所へ行けばいい。特殊な状況には、割り切って特殊な対応をすべき。
さて、高層緑化型都市計画が見直されるか、という話。
今後、日本は数十年以内に確実に少子高齢化で人口半減時代を迎える。むしろ土地は余る時代がやってくる。そのときに老人となっている我々自身のことを考えても、高層よりも低層の方がずっと適しているということになるだろう。コンパクトシティ構想においても、中心街に住居を集めるとしても高層化の必要性はなくなっていく。
現在でも、本来なら超高層住宅など必要ではない。が、小さな建物と狭い道路が一等地を無駄遣いしているから、狭い空き地に20階建てのビルを建てるしかない。宅地からも固定資産税をガッツリ取るといった半世紀以上前から提案され続けている施策を実施して、土地の流動性を大幅に高めないと、「たくさんの低層建築+超高層住宅」という非効率はずっと続く。
2009年のデータによれば、23区内の住宅の総床面積は約1億平方メートル(平米)、オフィスは約9千万平米。これに対して東京23区が約6億平米、山手線の内側が約6千万平米だ。23区内の土地の1/20を建物用地として20階建てのビルを建設すると、大雑把には総床面積6億平米程度となり、4億平米の増床が可能だ。すると単純には(実際には無理だが)23区外の東京駅から半径30km圏内の無人化+職住隣接が実現できる。10階建てとしても1億平米増床できるから、埼京線沿線を無人化できる。
一等地から小さな建物を全て排除し、区画を整理して道路を減らし、10〜20階程度のビルを建設できれば、土地利用の圧倒的な効率化が可能になる。でもそれが不可能だから、超高層住宅が必要になってしまう。
例えば古い街があって、半分の家が再開発に協力してくれても、賛成派の土地はモザイク状になるため、まとまった土地の面積は全体の数%程度がせいぜい。街の中で引越しをしてもらって半分の土地を空けるということができればいいが、不可能だ。となれば、やはり超高層住宅を建てざるをえない。
今後、自動車を前提とした低人口密度社会は見直しを迫られると思う。高度成長期のインフラを更新する財源の不足に対応するためには、集落の統廃合が合理的だ。でも結局、見直さないのだろうな……。
集積の利益はきわめて重要だ。日本の経済発展は、繁栄している土地に人が集まることで維持されてきた。過疎の問題は、人口の減少ではなく、「生活水準を維持できるだけの富を生み出せなくなった土地にしがみつく人々」の生活保障だった。この先、全国の都市で過疎問題が起きる。
人口が減った過疎の村で、「インフラの補修費を節約するため、村の中心部に住宅を集中する」といった計画を実現した例はほとんどない。ひたすら陳情を繰り返して、広い土地に散らばった家々へ電気と水道を引き、膨大な量の道路を直していく。その非効率を続ける財源は、もうないというのに。
市街地でも、まず学校が維持できなくなった。次は集会所や公民館。行き着く先は過疎集落と同じである。街を統合するしかない。しかし……それは無理だろうな。となれば、日本は集積の利益を諦め、非効率なインフラ補修をやって、貧しくなっていくしかない。
私の場合、いとこが4人いて、うち3人が結婚しているのだけれど、1番目と2番目の結婚式には出席しなかった。出席したくない理由などなかった。でも、出席したい積極的な理由がないから、わざわざ愛知県まで行って出席する気になれなかった。つまり単なる面倒くさがり。
じゃあ3番目の式にはなぜ出たのかたのかというと、これは気分の問題だな。私の「面倒くさがり病」が弱まってきたタイミングだったから、としか説明のしようがない。
ちょっと面白いなと思ったのは、いま結婚式の招待状って、事前に意向伺いがあるのね。招待状を出す時点で既に会場のキャパは決まってしまっているので、招待状を出してから「出席率が悪い」と判明するのでは困る。だから電話やメールであらかじめ出欠を確認して、それから招待状を出すという。なるほどなあ、と。
じゃあドラマとかで、招待状がきてゴミ箱に捨てるシーンとか、あれはどういうことなんだ? んー、あれは同窓会か……。たぶん、そうだな、うん。あれっ!? でも、出欠の返事を出すのを迷っているうちに当日になってしまって、同窓会の案内葉書にしたがって会場へ行く、なんてシーンを見たことがあるような……。その場合、出欠の確認をとる前に会場が決まっていることになるから、やっぱりおかしいな……。
その後、いとこたちとは何度も会っている。子どもが生まれたのでお祝いをしたりとか。ちなみに、いとこの子は男の子なら従甥(じゅうせい)、女の子なら従姪(じゅうてつ)というそうだ。
ま、そんなわけで、「なぜ葬式に出たくないのか」を語らず、「出ないこと」の影響ばかり考えている増田さんの様子に、何となく感ずるものがあった。たぶん、人に説明できるような「葬式に出たくない理由」は存在しないのだろう。自分にとって無意味な行事に参加することに徒労感があって、もともとは「どっちでもいいなら出ない」くらいの気持ちだったんだけど、「出ない」と宣言してみたら話がこじれてしまった、とか。
まあ、これは私の妄想なので、実際は違うのかもしれないが。
ともあれ、理由の説明などせずとも、誰も説得できなくとも、「葬式に出ない」と決めたなら、無理やり出させることは現実的には不可能。因習に従わない人がいると、「なんでだ」「理由をいえ」とうるさい人がたくさん出てくるが、説明しても問題は解決しない。正直な気持ちを話したって納得しないんだよ、どうせ。だから「とくに理由はありませんが」といって、ただ欠席すればいい。
みんなと違うことをすると、ただそれだけで不安になる。誰かに「それでいいんだよ」といってもらいたくなる。増田さんが葬式に出なかったことで実用上の不都合は発生しないはずなので、私は「それでいいんだよ」といいます。
増田さんのお母さんは、情けない思いをしただろうけど、それは自分の価値観によって自分自身を苛んでいるのだ。子どもが葬式に出なかったせいで誰かにいじめられるとか、そうした具体的な不利益はないだろう。いまどき陰口を叩く人も少ないだろう。むしろ「たいへんねぇ」と同情されるんじゃないか。そんなわけだから、家族の迷惑については、あまり思いつめなくてよいと私は思う。
葬式が本当に「遺族のためのもの」なら、孤独視した老人の葬儀を行うNPOがやっていることって、何なんだろうな。簡素なりとはいえ、棺に花を入れたりしているのだけれど。あれなんか、遺族のためでもなくて、「これから死にゆく登録会員たち」のためのセレモニーなんだろうな。
全く賛成しない。かつて、カメラの前で実際には愛していない相手とキスなどをし、その姿を大勢に見せる映画俳優は、親泣かせな職業といわれた。成功して大勢にちやほやされても、侮蔑の視線を投げかける者は少なくなかった。それがいつしか、俳優を蔑視する者は少数派に転落していった。
では、「カメラの前でキスをするなんてはしたない」という蔑視が衰退した結果、偏見を引き受ける覚悟がなくても俳優をできるようになり、俳優が職業として成立しなくなってしまったのかといえば、決してそうではない。底辺の俳優が本業で食っていけなかったのは、昔も今も変わらない。
「AV女優」や「風俗嬢」だって、「差別の構造なしでは職業として成り立たない」なんてことは決してないと私は思う。思うだけで、具体的な根拠はないが、差別をはねのけてきた数々の職業の現在を見るにつけ、私の思いは確信に変わっていく。
仮に現在の収入の一部が差別の対価だとしても、それはオプション。その部分がゼロになったからといって、収入ゼロにはならないはずだ。
その視線に対するお手当で給料がいいの。一生を生きるには安いかもしれない。もちろん安いだろう。だから「体売るやつはバカ」「売るよりも他に手段があるはずだろ」ってみんなが言うんじゃん。
なんでそういう現状を当然視するの? 非生産的な差別の構造を破壊し、偏見の対価分を削って、ふつうの職業に転換すべきだと、どうして考えないのか。
「収入が上乗せされていたんだから、嫌なことがあっても黙ってろ」なんてのは、人を黙らせる詐術だ。「いったん受け取ったものは返せない」という前提をどこかから持ち込んで道を塞いでみせているに過ぎない。本当に「上乗せ分は蔑視の対価として安すぎる」なら、上乗せ分を返上して蔑視がなくなることを望む人の方が多いだろう。
だいたい、「視線の対価を受け取ったけど、その後、差別の構造が破壊されたので丸得になった人たち」がいたっていいじゃないか。職業差別をなくす意義は大きいのだから、周辺でその程度の幸運(=メリットの不平等な配分)はあっていいと思う。