詳述する意欲がわかないが、「2.」のリンク先の内容について、私は異論を持っている。
画像の出典がわからない。もし自作だったら申し訳ないが……。はてブでも出典を気にしている人が皆無なのが気になる。
2007年の時点で、「任意のimg要素に役に立つlongdesc属性がついている確率は、10万分の1である」
「これは異常だ」という判断に自信があるなら児童相談所にでも通報すればいい。それほどのことじゃないなら、冷房をつけて窓を閉めればいいと思う。子どもは泣くもの、叫ぶもの。私は、暴走族が近所を走っても、震度3の地震がきても目が覚めないので、窓を開けて寝るけど……。
私は、どっちも読まなくてよいと思う。興味があるなら、読めば面白いだろうが、たぶんそれで人生が変わるということはない。まあ、私のブログもそう。読んで何かに役立てようとしても、うまくいかない。読んで面白かったらそれでいい、というスタンスが気楽でいい。
タイトルは「釣り」で、真っ当なレスが多かった。「立派な自炊」を目指すから高くなる。一人暮らしなら、それなりの割り切り方というものがある。このあたり、自炊否定派の人たちには勘違いがあると思っていたので、ちゃんとそういう説明をしているレスがあってよかった。
個人的には、キラキラした主張をする人には距離を置きたい。敬して遠ざける。でも、社会には必要な存在。私も直接・間接に、こうした方に助けられて生きているのだと思う。はてブなどでは自己矛盾やらを突っ込まれているけれど、ぜひ70歳くらいまでこの調子で頑張ってください。
皆さんは何をダサいと思い、何をクールだと思いますか?ビビッドな感覚を知りたいです。
こんなことを、考えている。(2011-07-10)と、ほぼ重なる内容になりますが……。
クール | ダサい |
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憧れるのは、とことん自分に正直に生きながら、なんとなく周囲に許される人。あと、自分の平凡さを認識しつつ、それでも自分を大切にできる人。
私の中では緩やかに関係する話をいくつか。
告発する側にだって、権利やら自由やらが、あるんじゃないかと思う。自分に理のないことを知りながら、嫌がらせのつもりで訴えているというならともかく、大真面目に訴えているのだと思うし。まともに考えれば告発した側がオカシイのは明らか、であるならば、ドーンと構えていればいいんじゃないの。
あるいは、本当にこれで刑事裁判になって、しかも有罪判決が下るのであれば、もともと法律上、言論の自由の範囲はとても狭く、これまで告発する人が滅多にいなかっただけだということ。この場合、告発を自粛させるのは法治国家のやり方ではない。法律を改正す必要がある。
何だろう、と思ったら、精神的コストの話だった。精神的コストは客観的な比較が難しいので、鈍感力を鍛えている人は、同性でもこういう意見に賛同してくれない。「ヒッチハイクで気ままに一人旅、したいんでしょ? 野宿ができない、って、それ、あなた自身が嫌なの? 周りの人が嫌がっているの? どっち? 家族? だったら、もう大人でしょ、自分で決めなさいよ!」という会話を聞いたことがある。
誤解を恐れずに書けば、池田さんが「きっと裁判にはならないし、仮になっても絶対に勝つ」とわかっていても刑事告発に対して「言論の自由の圧殺だ!」と怒るのと、似たような話なんだろうな。「野宿なんて無用心じゃない?」って心配する人の大半は優しい人なんだから、実際に何かの被害に遭えば「悪いのは犯人」というでしょ。そこで「自己責任」といって犯人側を免罪するような人は、男性が被害に遭っても同じことをいうと思う。「無用心じゃない?」は、ただ心配しているだけで、批判どころか忠告ですらない。
それでも、言われる側にとっては、言葉の一つ一つが重石になり、気軽になるためには、防犯対策で身を固めるしかない。「自分の心の問題なのだから、そこを変えたら、例えば鈍感力を鍛えたらいいんじゃないの」といいたくなるが、いうは易し、行なうは難し。ちょっと関連:原因と責任(2006-07-01)
「非コミュでありたい」私には、あまり関係ない話だった。私が求めているのは「非コミュのまま、そのデメリットを緩和する方法」なんだよね。「非コミュじゃなくなる方法」じゃないんだよ……。デメリットをなくすのは無理だとしても、緩和するだけなら、テクニックで多少はどうにかなるんじゃないかと思うのだが。
あー、つまりこういうことか、結局そういうテクニックが存在するとしたら、それは「非コミュじゃない人を装う」他にないんだ、と。非コミュが非コミュのまま「ま、いっか」と許され、放っておかれる方法なんてのはないよ、と。つまらん。そんな結論は夢がない。
ペットボトルで買って冷蔵庫に入れておくなら、炭酸の強度は自分で調整するということでもよいけれども、自販機で買ってすぐに飲む場合、弱と強の違いは無視できない。手に持って時間調整していたら冷たさを維持できないし、結露もずいぶんついてしまう。
あと、やはり炭酸の強度は味覚に関わるので、それぞれの飲料に最適な炭酸の強度というものがあると思う。もちろん全員が満足することはないのだけれど、作り手として「これだ!」という炭酸強度はあって当然。消費者は炭酸強度の調整まで込みで商品の良し悪しを判断していることが多いと思う。
そもそも論として、消費者の選択肢は多い方がいい。私はマーボー豆腐の辛口くらいならおいしいと思えるけれども、世の中には「激辛」を謳った「こんなもの食べられん」と思うレベルのものがたくさんあって、しかもそんなのがスーパーで山積みになっていたりします。あんなの人が食べるものじゃないよ、と私が毒づいても、売れているんだから仕方ない。
自分と関係ない商品が棚を占拠していると、「これさえなければ自分好みの商品がもっと増えるんじゃないか?」と思ってしまう。でも実際には、棚が空いた隙間は、また自分と関係ない商品で埋まるのだと思う。「こんなもの食えるか」と私が思ったものを買っていた人が、いなくなったわけじゃないのだから。
炭酸が強すぎるとキツイから? だったら炭酸じゃない飲料を飲めばいいじゃないですか。それか、炭酸なんてあけてしばらくすると抜けてなくなっちゃうんだから、一口飲んで「強いな」と感じたら、ちょっと揺らしておいておけばすぐ弱まるでしょう。
それを最初から「弱」というのは、ただ単に消費者の選択肢を奪っているに過ぎない、と思うのです。コーヒーで言えば、「舌を火傷しないように」って最初からぬるいコーヒー出されるようなもんでしょう。大きなお世話ですよ。
微炭酸くらいのシュワシュワ感が好きだった人に「待たずに飲める」選択肢が増えた、ともいえそう。
あるいは、コーヒーでも自販機のはそんなに熱くない。やっぱり、すぐ飲む前提だと、喫茶店で飲むのとは話が違ってくるんじゃないかな。「待つことのコスト」の問題。
さらにいえば、最初からそこそこの温度で淹れたコーヒーと、熱々で淹れて冷めてきたコーヒーとでは味が違うし、強炭酸の飲料を放置しても最初から微炭酸の飲料とは風味が異なっているような感じがする。ブラインドテストでは消えるような違いかもしれないけど、気分の問題でしかないとしても、実際に主観的に味が違うなら、それはやっぱり「違う」わけであって。
ようするに何がいいたいのかというと、「微炭酸は生産者のゴリ押し商品」みたいな見立てには疑問があるわけです。次第にラインナップが増えているように見えるところからして、おそらく消費者の需要にマッチしているのではないかと。
W杯サッカーとJリーグも、抽象化すれば構図は似ていて、世界大会の勝敗に一喜一憂するだけの「タダ乗りファン」が多数派。オリンピックもそうだけど、これほど多くの国民がスポーツの結果に一喜一憂するならば、「消費税の税率0.1%分をスポーツ振興税とする」とでもした方が、スッキリすると思う。
受益者負担の原則で、スポーツに関心のある人だけから税金を徴収しろ、という意見もあるだろうけど、過半の国民の主観的幸福に直結する政策なんて、むしろ珍しいくらい。市民の1割しか利用しない(そして5割は利用したいという希望すら持っていない)ような運動公園の整備に多額の住民税が投入されていることに文句をいわないなら、これをダメだという理由は乏しいと思う。
わかりやすい形で大きな税金を投入したら選手へのプレッシャーが……という不安もないではないけど、ロクな支援もなしにプレッシャーばかりかけるのが日本人の現状だと思っているので、それよりはマシじゃないか? どうしても心配なら、「支援を拒否する仕組み」を用意しておけばよいと思う。
camel_neck この人はスポーツの経験無いのかなあ。一緒に喜んだり悔しがったりしてくれる人がいるって選手にとっては嬉しい事なのに。
引用したのははてブのコメント。個人的には、必ずしもそうとはいえない、というのが実感。いろんな人がいる。
例えば私は、夏休みの宿題の絵が賞を取ったとき、先生が喜ぶのが不愉快だった。「あなたは生徒に勝手に絵を描かせているだけで、何も教えてないだろ、アホか」と。宝くじに当たったのと同じじゃないか。単なる幸運って、他人に自慢するようなこではないですよね?
だけど、そんなことをいっても仕方ない。仕方ないので、消費税の税率0.1%分がスポーツの代表選手への支援予算になる、というくらいのわかりやすい仕組みを作って、「同じ日本人というだけで誇らしげにしていい根拠」を作ったら、私みたいな偏屈でも納得しやすい。
nekora たまたま同じ国籍という理由で、金持ちは貧乏人を助けるべき、稼いだ所得を再度分け配る仕組みを強めるべき、的な事を言ってたIDの反応チェック用
うん、だから私は「再分配は普遍の人権に基づくべき。だから日本国内での再分配より、地球単位での再分配の方が重要だ」と思っていますよ。個人的な欲望に敗北し続けている(=自分の意思では収入の5%程度しか再分配できていない)現在の私がいっても説得力がないかもしれませんが。
新聞だけ読んで(ただし社会面は短信以外読まない)、民放テレビを見なければ、ウンザリしないで済みます。棲み分け推奨。ああいう報道を歓迎する人が、きっと多数派なんでしょ。テレビは需要に応えているに過ぎない。
「逆。テレビが日本人をダメにしているんだ」という意見が仮に正しいとしたって、エリートが庶民の娯楽を頭ごなしに奪うような社会は嫌だね。子どもから「低俗な漫画」を取り上げるような方法で、啓蒙なんてできるもんか。ただ憎まれるだけだろう。エリート層が圧力団体となってメディアを実質的に規制したって、エリート層が差別反対の市民団体と同じような存在となるだけで、民心の実態が何か変わるわけじゃない。
あえて問題の早期解決を目指すならば、残酷なようだが、失礼な質問をピシャリとはねつける人を増やしていくしかないと思う。嫌な質問をされないのが理想だが、当面、それは無理なので、質問される側に働きかけて、あるいはせめて自分が質問される立場になったときに、「そのような質問には答えません」とはねつけるよう、努力すること。
ツール・ド・フランスが日本の報道では「無視されている」というのだけれど、産経新聞ではステージ毎にAP通信の短信を載せています。紙面の狭い産経が報道しているくらいだから、他の全国紙が全く報道していないということはないでしょう。地方新聞は、産経よりもっと海外の話題を扱う紙面が狭いから、載ってなくても驚かない。
今日もまた、リンク先とは関係ない話をします。
先輩社員って、よく「メモを取れ」っていうでしょ。先日、私もついつい、そういうことをいいたくなったんだけど、ふと「話の全体像が見えていない状態でメモを取るのって難しいよな」と思った。
それで、説明をしながら、自分で自分の話のメモを取ってみた。その結果はというと、割と悲惨な感じ。話の粒度も、部分的には作業の順番さえ、バラバラ。自分の説明が、いかにダメなのかがわかった。
「あー、なるほど、教える自分自身が、何を教えたらいいのか、よくわかっていないんだ。話しながら考えているんだ。これじゃあ、聞く方はたいへんだな」つくづく、そう実感した。
だからいまは、「3分、待ってください。少し調べて、正確な回答をしますので」といって時間を貰ったり、あるいは「申し訳ないけど、30秒だけ待って!」といったりして、正方形のポストイットに回答メモを作成してから、質問に答えるようにしている。
あと、なるべく質問者のデスクまで出向いて回答するよう、心掛けている。問題が起きている現場には、説明に必要なものが揃っているので、伝えたいことをきちんと伝えやすい。移動する手間より、説明のラクさと、理解確認のしやすさが大切かな、と思う。
ポストイットを使うのは、PC作業とかで、モニタに貼り付けられるように。説明するとき、メモが画面のサイドにあると便利。そういうわけだから、糊の部分が左側の裏側にくるように90度回転させてメモを書く。糊を上にしてしまうと、モニタの下側に貼り付けることになって、説明するとき、ちょっと見にくい。
そんなわけで、質問に回答する側も、メモを作ってみると楽しいですよ。
とくに私のように、ただ入社が早かっただけで、能力的には後輩より劣る先輩社員の方々は、有能な後輩の貴重な時間を無駄にしないためにも、会社の業績を上げるためにも、質問にはメモを作って回答する方がよいと思います。質問にパッと答えられないとバカだと思われるかもしれないけど、実際にバカなので、それを隠そうとするより「バカなりに頑張ってる感」を演出する方が、生き残るためには有利でしょう。
かつて、私(井上)は、薬学部教員や薬剤師に、
「薬学部での教育って、薬とは無関係なことが多いけれど、仕事に役立っているか? たとえば、膨大な時間をかけて実験技術を教え込んでいるけれど、薬剤師が薬局や病院で実験をすることなんてありえないじゃないか」
と聞いたところ、
「実験技術は、無菌調剤や秤や分包機の操作に役立っている」
という、まことに無理のある答えしかできなかった。そんなものは、せいぜい3日もあれば習得可能だ。
リンク先は2009年の記事。今春、東日本大震災の海嘯(つなみ)に分包機をさらわれてしまった病院に、未分包の薬剤が配給された。それで、便利な自動機に頼らず原始的な環境できちんと分包すること実習が、初めて現場で役に立ったという話を聞いた。実際のところ、3日で慣れるくらいの作業だったそうだが……。
私大薬学部の学費は6年で1300万円近い。ドラッグストアで客のいうままに薬を手渡すだけの(というか、ゴチャゴチャいわずにスッと渡す方が客に喜ばれるような)薬剤師になるために、これほどの費用と時間を要するのは、ヘンじゃないかと思う。あのような仕事は収入もそれほど多くはないだろうし、学費を取り戻すだけでもたいへんなことだ。准薬剤師みたいな資格がほしい。
処方箋を受け付けている薬局でも、機械的に処方箋通りに薬を出す作業をしている人が少なくないように見える。薬剤師は確認と監督に専念して、定型作業は准薬剤師が行う、といった役割分担をできないか。
高校生の頃、隣の家に薬剤師さんがいた。子どもが大きくなったので近所の薬局で働くようになったが、担当の仕事はレジ打ちや薬の説明書きの印刷などだった。基本的に調剤などはしないが、印刷された薬の説明を読んで手渡す際に薬に触れるから、やっぱり薬剤師の資格が要るのだ、というような話だった。
この人を薬剤師にするために、私的にも公的にも、いったいどれだけのコストがかかったのか、と考えずにはいられなかった。
あまりに自然な欲求は、それが満たされても、満足感がない。現代人の「一人になりたい」という欲求は、「もし素敵な人がいたら一緒に暮らしたい」という欲求の陰に隠れているので、「素敵じゃない人と一緒に暮らさずにすんでよかった!」という幸福感が得られない。
バブル崩壊後にも実質GDPは平均的には増大を続けていて、しかし生活水準が上がったようには思えず……というパラドックスは、非効率な「一人世帯」が増えていることで説明できるのではないか、と私は思っている。「非効率な生活スタイルを選択する自由」を拡大するコストが、経済成長の果実より大きかったとすれば、生活水準の低下と経済成長は両立しうる。
経済成長の果実は、社会的な浪費によって、主観的な幸福を増やすことなく消えていく。明治時代の人口爆発、平成の「お一人様」増加ほどではないが、薬剤師がレジ打ちをやっているのも「浪費」だと思う。
著作権の話題3つ。読むだけで疲れた。
こちらは商標権の話題。先行するソフトウェアと同じ名称で機能も同等のソフトウェアが登場したのだという。少なくとも日本では、商標は登録しないと保護されない。『履歴消しゴム』は商標登録されていなかったので、法的な解決は困難なのだそうだ。
他方、先行したソフトウェアのファンが書いた記事(リンク先の記事)が話題になると、先行した側のアイコンが、Mac OS のゴミ箱アイコンに酷似しているとの指摘がなされた。著作権は登録不要だから、法的にはこちらの方が危なっかしいらしい。薮蛇だったような感じもする。
書き手の一人が顔見知りなので、興味を持って買い求めた本。内容についてはカスタマーレビューを参照してください。
ここで紹介したのは、そのタイトルに不安を感じたから。それで調べてみたところ、『るるぶ』はJTBが商標登録しているのだけれども、進路、大学、学問、学部学科といった情報の提供は指定商品または指定役務に含まれていなかった。それで安心はしたのだけれど、観光ガイドとして著名な『るるぶ』のイメージを無断借用していることに変わりはなく、法的には許容されるとしても、「だから問題ない」といっていいのかどうか。
私は注文時には発行者情報をよく見ていなくて、実物が届くまでJTBパブリッシングから出版された本(『るるぶ』の増刊か別冊)だと勘違いしていた。だから、「こういうタイトルって、いいのかなあ?」と、腑に落ちないもやもや感がある。
たしかに『とろっ豆』のゼリー状のたれは便利だと思う。日本パッケージデザイン大賞2009金賞を受賞したというデザインもいい。いまミツカンでは4つの商品で便利な新容器を採用しているそう。4種の中では、『ほね元気』を買うことが多いです。
でも私が一番好きなのはタカノフーズの『旨味』です。旨味のだし袋には『アンプルカット』という工夫があり、私が従来品に持っていた不満はすっかり解消されています。であれば、やっぱりゼリー状より液状の方が私好み。また『落とし蓋+丸底』のケースも、よく考えられてると思います。
タカノフーズは新ケースの普及には慎重だけど、アンプルカットのだし袋は『おかめ納豆』ブランドの中でどんどん使用商品が増えているので、興味があれば手にとってみてください。
ミツカンのゼリーたれと新容器が発売されたのは2008年秋、タカノフーズのアンプルカットと新容器は2009年登場。四半世紀も大きな進化のなかったものが、ここ2〜3年でグンとよくなってきたというのは、技術者の端くれとして勇気づけられる話だと思う。
容器も一人分が主流になったのも最近というほどではなくても、25年前ということもなさそう。
私の文意は「25年前くらいに、現在の姿に近い商品が初めて登場した」というもの。ゼリーたれ、アンプルカット、丸底ケース、いずれもまだ主流にはなっていない。しかし技術的革新は初登場のタイミングで起きているので、そこに注目しています。とはいえ、25年前に「一人分サイズ+フィルム+たれ」という3要素が登場していたという証拠は持っていません。
ちなみに、発泡スチロールのケースは1960年代以降に普及したそう。サイズはともかく、ああいうケース自体には半世紀近い歴史があるということになります。
その当時であれば、買ってきた容器のままの納豆を食卓に出すのはマナーに反するまではいかなくても少し手を抜いたと考えられたのかもと今にして思ったり。でも一人分の容器が一般的になってくると、そのまま食卓に出すのがこれまた一般的か。
いちばん大きいのは、食卓のマナーがだんだんルーズになってきているということなのでしょうが……。他の要素を探してみると、例えば、ネギやオクラを刻んで入れたりする人が減ったことも関係しているかも。いろいろ合わせるなら、ある程度大きな容器に移さないと都合が悪い。
ところで、ウズラの玉子や大根おろしなんかもおいしいのですが、私の周囲だと、そういう食べ方をしたことない人がけっこういて、そんなものかと思いました。
「経済的事由による退学者が1校あたり0.71人から0.44人に減ったので、高校無償化は正しかった」と主張する記事。
馬鹿馬鹿しい……。そりゃ減るだろうよ。無限にリソースがあるなら、学費だけじゃなくて、通学の交通費も、制服も、体操服も、給食費も、部活動に必要な諸費用も、修学旅行の参加費も、何なら生活費まで国が出したらいい。そうすりゃ経済的事由による退学者はもっと減るよ。ようは、費用対効果の問題でしょ。
個人的には、「公立高校だから学費が安い」という仕組みは不合理だと思う。学費の補助は所得に応じて行えばよく、一定以上の金持ちの家の子は、県立高校でも国立大学でも、私学へ進学した場合と同じだけ学費を負担すべきだ。単純には「課税収入が1000万円で補助ゼロ、200万円で「標準の学費+事実上必須の諸費用」を無償化できる金額の補助をして、間を直線補完する」とか、そんな感じの仕組みの方が、理屈が通っている。
また、高校生になったらもう全然勉強しなくて、入学したときが学力のピークだという子が何万人もいる。そんな子らの高校生活は道楽であり、社会が補助する意味がわからない。
学ぶ意欲も能力もあるのに、貧しいがゆえに進学を断念することは絶対に防ぎたいが、そうした子を救うための費用は、予算の付け替えで絶対に捻出できるはずだ。前述の通り、「公立校だから学費が安い」という不合理を排すれば、財源として十分だろうと思う。本当は学ぶ意欲のない子への支援打ち切りも実現してほしいが、これは運用が難しいかな……。
ともあれ、高校の学費の一律無償化なんて政策を継続しながら増税されてはたまらないと思う。
涙ぐましい節約の努力をするより、自家用車を手放す方がよほど有効だったりしないか? 「それはない」という人が多いかな。
いま私は栃木県に暮らしているが、自動車なしの生活は可能だとわかった。自転車に乗るのも難しい高齢者がどうやって生活しているのか、興味を持って観察してみると、便利な地域であれば、案外、何とかなっていることに気付く。自家用車があれば、選択肢が増える。逆にいえば、ただそれだけが、自家用車の存在意義。
自家用車の有無で最も選択肢が広がるのが、住居だろう。車がないなら、駅の近くなど、生活に必要なサービスが一通り揃った土地に暮らさねばならない。内科などの病院も近くにほしい。不動産屋でそういうと、途端に選択肢が10分の1に減る。
なお、商店は、1種1店舗あればよい。商店を選べないことは、案外、問題にならない。選択肢が減ったそのときは、すごく損をした気分になるが、家計簿に大した変化は出てこない。車を手放したプラスの方がずっと大きいはずだ。「子どもの習い事が……」という話もよく聞くが、それも選択肢の問題。
通勤? 冬場に積雪が続く地域を別とすれば、10km以内なら自転車で通えない理由ってある? 年平均3日程度の積雪ならタクシー通勤が可能。帰りは同じ方向の同僚数人で乗れば、かなり安くなる。あるいは、雪が積もったら有給休暇を申請するとか。免許を取って仕事で運転するのは結構。でも自家用車は持たず、通勤は徒歩か自転車にする。そういう話をしている。(改訂 2011-08-18)
所詮は程度の問題にすぎないものを、絶対的な問題と錯覚している人が多いんだ。地方では自動車が必須、なんていってる人の過半は、本当は「車がなくても何とかなる」。小さな町村では本当に必須なのかもしれないが、そういうところは人口も少ない。
みんないずれは歳をとって運転ができなくなるというのに、「自家用車なしでは成り立たない生活」にどっぷり浸かってしまっていていいのかね。不便な場所に一軒家を建てちゃった人とか、どうするのだろう。子育てが終ったら駅前の狭いアパートに引っ越す予定ならいいけど。
高齢者がちゃんと引っ越さないから、高齢者需要は小さいままで、それゆえ高齢者向けの不動産市場がうまく立ち上がらない。悪循環だ。
とりあえず一人暮らしの人は、自分だけの問題なので、自動車を手放すことを検討してみたらいいと思う。試しに一週間、自動車に乗らずに暮らしてみたりして。十分に自動車が普及している地域の場合、駅からの距離よりも、築年数などの方がよほど家賃への影響が大きかったりする。駅近は高いと決め付けずに、ちょっと調べてみてほしい。
何かを諦めれば、そのコストが浮く。外食、居住環境、自家用車、みんな同じ。節約をする際には、「ま、いいか」と思える領域を見つけることが大切だと思う。強い欲求を理性で抑えようとすると、疲弊する。
自動車ってのは、なきゃないなりに生活できるのに、いったん持ってしまうと、手放すのがつらくてたまらなくなる。まるで麻薬のような商品だ。いま自家用車を持っていない人は幸いであり、なるべくその生活を維持することを勧める。安直に車を買うと、「主観的に最低限必要と感じる手取り収入」が年間20万円ほど増える。つまり1か月分の手取り収入が消える。
逆にいえば、自動車がなければ、約1か月分、仕事を楽できる。この「1割の余裕」は、「身の丈にあった仕事の選択」と「健康的な労働時間」の実現に、大いに役立つ。「支出を増やす分、頑張って収入を増やそう」と考えるのが罠で、それはお金に振り回される人生への入り口である。
「現在の居住地を離れない」という選択肢を捨てられないなら、マイカー前提の土地に暮らす人が車を手放せないのは当然でしょう。
ただ、半世紀前まで、庶民の過半はマイカーを持っていませんでした。「自動車なしで生活できる街」とは、決して都会ではありません。日本の人口密度が低かった頃、土地は余っていたのに、市街地は小さくまとまっていました。その意味を忘れ、マイカーでの移動を前提に居住地を定めた人々は、いざ歳をとって運転できなくなると、転居を拒否して公的な生活支援を求めます。
しかし老人の身勝手に怒っても始まらない。「便利」が「必要」に転化する仕組みを自覚して、これ以上、世の中に「必要」を増やさないことが大切だと私は思います。既に車を持っている人は、もう貸す耳を持たない。でも、まだ持っていない人は、そのまま持たないのが吉。
はてブでは「年収の差で貯蓄額の差が説明できてしまうではないか」といって話を終わりにしている人が多いが、データを見てみると、そう単純ではない。
上の表は記事中の図版2つをまとめたもの。このうち、支出の部分のみを抽出して整理すると、次のようになる。
貯め上手は19.7万円、貯め下手は25.7万円を消費しており、その差額は約6万円と大きい。貯め上手の消費額は貯め下手の約3/4となっている。貯め上手と貯め下手の消費行動には、無視できない違いがある。
貯め下手の人は、何に気をつけるべきか?
初歩的な分析から、
これで消費の差額の57%が解消できることがわかる。これこそが「なぜかお金が貯まる人」の本当の“貯め習慣”2つ。節約を志す人は、何はおいてもこの2項目に全力で取り組むべきだ。
これらも足せば、差額の79%まで解消できる。その他の細かい部分は、重要ではない。日経の記事では100円単位の無駄遣いが年間では大きな差
なんて見出しが躍っているが、月額6万円もの差は、100円単位の無駄遣いの積み重ねから生まれているのではない。大局に目を向けるべきだ。
アンケート調査の結果からは、「細かいところでルーズな人は、大きなところでもルーズ」という相関があるようだ。私は「大きな問題さえ片付ければ、小さなところは気にしなくてよい」と考えるのだが、実際には、まず小さい問題を気にする習慣がないと、大きな問題を解決できないのかもしれない。
例えば、この記事で私は「外食しない」「旅行は帰省のみ」「新車は買わない」と提案したけれども、「うん、そうだね」と賛同してくれたのは、細かな節約に気を配れる人が過半だった可能性がある。日経が細かな節約術をつらつら書き並べるのは、遠回りのようだけど、節約とは忍耐なので、細かな節約から忍耐力を鍛えていく必要があるのかも。
こんな記事もあるけど、1円にルーズな人より、1円にシビアな人の方が、1万円を節約できる人の割合は大きいと思う。
うー、それでも、「目的意識を持て」「口座を用途別に分けろ」「家計簿をつけろ」なんて、やっぱり脇筋だと思う……。そんなことをせずとも、「ローンを組まない」「住居費を1.3万円減らす」を実践することは可能なんじゃないの? 肝心な情報が埋もれてしまっているのは、もったいない。
ところで、貯め上手と貯め下手の収入と支出を比較すると、どうなるか。
ようするに、データの信頼性が問われる結果となった。
おそらく、貯め上手の人は、アンケートに答える際、実際よりも個別の支出額を小さく申告している。ボーナスから消費に回した分を、月割りで出費に加算していない。
そして貯め下手の人は、毎月の貯蓄額について、見栄を張って嘘をついている。あるいは、実家から年20万円近い仕送りがあることを、黙っているのかもしれない。
「時間の制約なしに現金を引き下ろしても手数料を取られないようにしたい」という方のための記事。年に10回程度、会社帰りに郵便局に寄って現金を下ろせば足りる私などからすると「ご苦労様」という感じだが、一生懸命こういうことを調べて、あれこれ工夫してでも自由度を高めたいと考える人がいるのは理解できる。
教えられて真似しようとするような人には、なかなか、つらいだろうな。この件に限らないが……。
読んでガッカリ。「人と交流したいと思っている人見知り」なら役に立つかもだけど。私が知りたいのは、人と双方向の交流をせずに、それでも不都合なく、得たい情報を得て生きていける方法なのだが。
こっちは一言も話をせず、ただ黙っているだけでも「その場に居座ることを許される」方法とか、ぜひ知りたい。電車で移動しているとき、他の乗客の会話に耳を澄ますのは、すごく楽しい。でも自分がお喋りしながら通勤・通学するのは苦痛。わかる人にはすごくよくわかる話だと思う。楽しいお喋りを近くで聞いていたいけど、話しかけられるのも、自分が何か話すのも嫌なんだよ。
合コンなんかも、できれば一度、見学してみたい。みんなホントにドラマでやってるような会話をしてるのかな、っていう単純な興味。でも、参加して、自己紹介も何もしないで、一切質問にも答えないで、というのは無理でしょ。「会費は支払うので、端っこで見物だけさせてください」って、通用しないじゃない。私は一緒に盛り上がりたいわけじゃないんだよね……。
そういう壁を突破する方法って、ないものねだりだから、誰も書いてくれないのかな。でも、ネットだと、たいていの人がROMでしょ。私はこういう「淡いコミュニケーション」が好きなんだよね。数千人が読んで、10人かそこらがはてブして、2人か3人がちょっとだけコメントする、というくらいの。
だから何とかして、日常生活もこんな感じにできないかと思っているわけ。99%を「聞き専」で処理したい。何のリアクションもせずに、情報を一方的に受信したい。顔も個性も見えない透明な存在でいたい。
対話のあるところに、愛が生まれる。
対話のないところに、愛はない。
愛がある人生が、やっぱりいい。
対話はね、いらないの……。そういう私みたいな人のために、誰かライフハックを考えてほしい。
もちろん私は考えない。どうせ、大したことを思いつかないもん。考えるだけ無駄。1500円くらいの本なら買ってもいいよ。代金なら支払うからさ、私の代わりに、頭のいい人に頑張ってもらいたい。
「休みの日は何をしているんですか」という質問が、嫌い。話の取っ掛かりがほしいという事情は理解するが、やめてほしい。
他人の質問に答える形で自分自身について話すのは、たいてい楽しくない。だから就職活動の面接は苦痛で苦痛でたまらなかった。
世間や他人のあれこれについて自分の意見・感想をいうのは好き。それらに絡めて、自分の話したい部分だけ、自分のことを語るのは好き。
私が話したいことと、話したくないこととの間には、微妙な線引きがある。それなのに、他人は軽々にラインを踏み越えた質問をしてくる。だから、嫌。
私の場合、たまにしか顔を合わさない人と、内面に踏み込まないお喋りをするのは好き。
実家にいた頃は両親との会話が苦痛だったが、年に1回か2回しか顔を合わさなくなったら、両親との会話が楽しくなった。
いやさ、私も散々、「ないものねだりしても仕方ないので、コストを支払って果実を得るか、割に合わないと考えて諦めるか、選択するしかない」と書いてきたわけだ。で、この件については、「割に合わないので諦める」ことにしている。それで決着のついてる話。
だけど、「新説が出たよー」という案内が目に飛び込んでくると、やっぱり期待しちゃうんだよね。
「やる気がない」原因として学習性の無力感を挙げる人が多いけど、個人的には、生まれ持った性質がいちばん大きいと思う。私は「やってみたら、できた」という体験がたくさんあって、「たいていのことは、頑張ればそれなりの結果が得られるだろう」と楽観的だ。それなのに、ほとんど何もやる気が起きない……。
「頑張ってまで、得たい結果じゃないな。ただ愚痴ってる方が、楽でいいや」っていう。現状は選択肢の中ではベターなだけで、満足しているわけじゃないので、「努力せずに良い結果が得られるなら大歓迎!」なのは当然。
例えば中学校の定期テストとかでさ、「前回の2倍くらい勉強して、それで10点だけ点数が上がって嬉しいか」という話。私は「だったら勉強時間が半分で、10点低い方が割に合う」と思う方。その10点に、勉強の苦痛に見合うだけの価値を見出せない。人生のたいていの物事について、私はそういう風に考える。
satoruさんの記事を読んだときには、その主張に頷いたのに、さくら側の回答を読んだら、コロッと意見が変わってしまった。それだけなら驚くにはあたらないが、さくら側の主張に目新しい内容が全くなかったことに、私は愕然とした。私は単に、「そういうモノの見方」を忘れていただけだったのだ。
私は毎日のように何かに対して怒っているのだが、その大半は、こうした「本来なら怒る理由がないこと」なのではあるまいか。しかも、「怒るようなことじゃない」といえる理由について、かつてどこかで見聞きしているのではないだろうか。
怖いな……。
すさまじい嘲笑と侮蔑の嵐。個人的には、笑えない。
断片的に聞きかじった話を人に伝える場合、適当に行間を補わないと「話」にならない。その際、推測で補った部分は、自分の推測だとわかるように話さねばならないのだが、だんだん面倒くさくなってきて、ルーズになってしまう。それで、あとでトラブルになる。
あるいは、どこかで聞いた話を右から左へ伝達しただけのつもりだったのに、「それ、誰の情報?」と突っ込まれた途端に、「どこかで聞いたという記憶」がパッと消えてしまうことがある。「そんなバカな」と思われるかもしれないが、私は、そういうことがよくある。とんでもないことだが、現実だ。
まあ、そもそも論として、「知人から聞いた」なんてのは信頼できる情報とはいえないわけだが、その頼りないソースすら、追及されたら消えてしまうような話を、私はしている。私のいうこと、書くことなんて、基本的には全て創作と思っていただいたほうがよい。
絶対確実だと自信を持っていえることなんて、ほとんど何もない。まして予測不能の話題が降ってくる雑談の場では、頼りない記憶からものをいうしかない。ならば黙っているのが安全だが、気楽な雑談の場で黙り続けるのはキツイ。いい加減な根拠でいい加減なことをいうリスクは承知しているが、黙りこくれば即座にコストが発生するから、私はついつい、安直な方向へ逃げてしまう。
だから私の場合、帰宅してから今日の雑談で自分が話したことのソースを確認するのは、珍しいことじゃない。坂井美絵子さんをバカにしている人は、そこのところどうなの。みんな確実なことしか喋ってないの? ついつい断定口調でいっちゃったけど、じつは根拠が怪しかったことって、ないの?
Twitterでも、うろ覚えの話を書いて、後で自分の記憶を疑って、ソースが見つからないので削除したこと、私はあるよ。「勘違いでした」とTogetterのコメント欄では謝ったけど、「勘違いじゃなくて捏造だろ、ウソで他人を批判するなんて最低だな。ちゃんと謝れ」と詰め寄られたら、どうにもならない状況だった。
「悪意はなかった。本当に単なる記憶違い」といいたいのだけれど、スイッチが入ると、「いいから謝れ」一辺倒になって、みんな全然、話を聞いてくれない。坂井美絵子さんも、同じような感じなんじゃないかと思った。本当のところはわからないが、わからないなら、とりあえず好意的に解釈しておきたい。
単なる思い込みが、いつの間にか自分の中で「根拠のある話」に摩り替わってしまうことがある。坂井さんも、「根拠はないけど自分は信じていない、不安だ」といったなら、大勢に批判されるような話じゃなかった。でも、何かしら根拠があったような気がしてきて、つい断定的に書いてしまったのだろう。
どこかで聞いた。そんな気がする。きっと、自分以外にも同じ話を聞いた人がどこかにいて、それを辿っていけばなにかソースがあるんじゃないか。そういう発想、することない? 私はあるよ。自分が聞いたのは伝聞情報なんだけど、遡っていけば何かきちんとした根拠があるはず、そう信じたい、ってこと、あるよ。
いうだけいってからソースを探すのって、たしかに奇妙な感じがするかもしれない。だけど、会社でも突込みが入ってから資料を補充して対抗するとか珍しくないし、実際のところ、よくあることなんじゃないの? 違いますか?
メディアとしての新聞が、報道を通じて、裏側でどんなことを考えていて、世の中をどういう方向に持って行きたいのか、報道された記事だけを追っかけていても、なかなか見えてこない。
裏側の思惑みたいなものは、むしろ「報道されなかったこと」を通じると見えてくる。あらゆる事実がどこかで報道されている現在ならば、たとえば朝日新聞なら、「その日朝日新聞が報じた事件」と、「その日朝日新聞が報じなかった事件」とを併記して、それを通じた「朝日新聞的なものの考えかた」の理解を提供する、そんなサービスがあったらうれしいなと思う。
ありもしないものを探し求める試みだと思う。「心にもない真実」は存在しうる(2011-06-19)と私も書いたけれど……。
以下、少し話は変わりますが。
オウム真理教事件のときに、宗教家として麻原さんを評価するという吉本隆明さんのインタビュー記事を掲載したのは、よりによって産経新聞だったし、2003年のイラク戦争の際に「9.11はサウジアラビア発であってイラク発の事象ではない」という内容の特別寄稿記事を目立つところに掲載したのも産経新聞だった。(産経新聞の例ばかりなのは、他のは図書館でしか読まないから)
マスコミをひとつの人格のように扱うことは、現実的でない。また産経新聞の例を出すと、元論説副委員長は増税して財政再建を急げという論者で、現在も特別記者として寄稿を続けている。ところが、この方が現役の論説委員だったときに外部から招聘した編集委員は、積極財政派。産経にきてから数年経つけれど、相変わらず大規模な財政出動と一層の金融緩和を強く訴え続けている。社説は論説委員が書くので、産経新聞の社論は消費税増税なのだけれども、編集委員がやたら出稿するから、紙面では積極財政派の方が印象的だったりする。
北方領土について、社論は四島一括返還だが、二島先行返還論に与する記事も載った。佐藤勝さんや鈴木宗男さんへのバッシングがすごかったときにも、同情的な記事が載った。それも外部識者の寄稿ではなく、産経新聞の記者が書いていたから、「へぇーっ」と思った。
あるいはスポーツ面でも、勝利を称えたり、敗因を分析したりする記事の中に、敗者に寄り添った記事が登場する。マイナーな競技の場合、大会に出場が決まっただけでは事実を伝える程度の記事にしかならない。今期はずっと調子がよくて、それには理由もあって、だから心中期するところがあった……といったストーリーは、大会で勝てば記事になるが、負ければそのまま消えていく。ふつうはそう。ところが、ウェブではどうか知らないが、紙面の方には、ときどき「負けたけど記事にしました」というのが載っている。
他の新聞をよく知らないから、産経が特別に「いい加減」という可能性もあるが、ひとつの人格を仮定すると矛盾するのがマスメディアの実情ではないか。
地方新聞の場合、掲載されない記事がとても多いだろう。祖父母の家へ行って中京新聞を読むと、地方紙の地方紙たるゆえんがわかる。産経新聞は日本の一部地域でしか売れていないのだろうが、産経が全国紙を志向していることは、中日新聞と読み比べれば、すぐにわかる。
「新聞の裏側」が明らかにするのは、社論の違いではなく、単純に、紙面の面積の違いだろう。読売や朝日と比較して、単純にページの少ない産経や毎日に載らない話題は多い。日経は経済記事に紙面が圧迫されており、地方紙は地元の話題に紙面の過半を持っていかれるので、全国紙的な話題は絞り込む必要がある。
あと、リンク先の記事では現代のIT技術を駆使すれば簡単なこととして書いているが、実際には「新聞の裏側」なるサービスを実現するのは難しい。自動で項目を立てるのは不可能に近いし、単語の抽出では、同じことを伝えている記事なのかどうかを判別できないはずだ。
しかし、我々四人はゲーマーだから最適性や最大の効率を求めざるを得ない。それがゲーマーとしての性なのだ。我々四人には「ビアンカを道具のように利用して低レベルキャラのレベル上げをしなさい」とこのゲームを作った連中が我々に向けて推奨しているようにしか思えなかったのだ。
このように、ゲーマーたちがその心を亡くさないように、ゲームを作る方達は、くれぐれもNPCの女性を利用し、傷めつけることによって効率的にレベル上げができるようなシステムには絶対にしないでいただきたい。
やねうらおさんはようするに、「できる」ことは「やる」といっていて、自分で自分を律することを放棄しているわけだ。やねうらおさんは、それが「ゲーマー」という人種なのだ、と定義して開き直るのだが、そういう特殊な言葉の定義をするなら、言葉をカッコに入れてほしいと思う。
ゲームシステムが悪いから心をなくすのではなくて、もともと心ない振る舞いを自分に許しているから、ペナルティがないと我慢できないのだ。私はMMORPGには疎いが、『ドラクエ』などについては、許可なくNPCの財物を奪わないことを自らに課してプレイしている。当然、苦労するわけだが、それでいいのである。
『ピクミン』はピクミンをモンスターに投げつけて命からがら生き延びていくゲームなのだが、ピクミンを一体も犠牲にせずクリアしてのけた人がいる。私はこういう信念が前面に出た遊び方を好ましく思う。
もし、やねうらおさんが、「効率」のためなら俗世間の倫理など踏み躙る、という信念を持った「ゲーマー」ならば、文句はない。「NPCを痛めつければ効率的にレベル上げできることを発見した!」といって研究成果を誇り、一種の照れ隠しとして心を亡くした云々といっているなら、納得できる。
だが実際のやねうらおさんは、本当はNPCを痛めつけたくないのだけれど、それを自分たちは我慢できないから、ゲームシステムの方で残酷なプレイには適当なペナルティが与えられるようにしてほしい……という受身の姿勢に終始している。これが気に食わない。その上、「ゲーマー」を自称する。これまた気に食わない。
近年、コンシューマーゲームに対して「やりこみ要素」があるとかないとかいった評価がある。だが、「やりこみ」はプレイヤーが自分なりの価値基準を掲げてやることで、製作者から与えられて喜ぶようなものじゃないと私は思う。やねうらおさんの文章に対して抱いた感情は、この苛立ちと共通している。
一般論としてはやねうらおさんがゲーマーであることに疑いの余地はないのだろうが、私はゲームに対して自分の本能に従って「適応」するばかりで、自らルールを打ち立てる気概のないプレイヤーを「ゲーマー」と呼ぶ気にはなれないな。
iww 「許可なくNPCの財物を奪わないことを自らに課してプレイ」みたいなのはよくある縛りプレイの一種。やね氏のは効率を最優先する縛りプレイみたいなもの。 どれも遊び方としては対等だと思う 2011/08/18
私は効率優先の遊び方を否定していない。効率を優先したいならすればいい。ただ、その結果NPCを傷付けることも「自分の選択として引き受けるべきだ」と思う。
やねうらおさんが様々な遊び方のパターンを列挙して、「どのケースでも自分の提示する改善案の方がゲーム体験を改善する」と訴えたなら、印象は違っていた。でも実際のやねうらおさんは、製作者の意図を理解しながら、敢えてそれを無視して残念な思いをし、文句をいっている。これは受身一辺倒の消費者様の態度だ。ゲームと能動的に向き合う「ゲーマー」の態度ではない。私はそう思う。
それに、システム的に倫理的なプレイを強要されるようなゲームは息苦しい。『ドラクエ』にはNPCの財物を奪うことへのペナルティがないからこそ、私は泥棒禁止プレイを楽しんでいる。NPC盾戦術に誇りを持っている人だっていると思う。やねうらおさんの提案は、ゲームを貧しくするもののようにも思える。
案外、「逃げる」コストは大きいということなんじゃなかな。「逃げなきゃ助からないほどの災害なら、死んだ方がマシ」という人も多い。世の中、生命に無限大の価値を認めている人ばかりじゃない。
私も、地震の本番で机の下に隠れたのは、二度しかない。生命に無限大の価値があるなら、きわめて低確率の事象から身を守る行為であっても、必ず割に合うはず。
ところが、机の下に隠れることで支払うコストなど高が知れているのに、その程度のことすら惜しんできたのが私。東日本大震災のときも、初期微の段階で逃走した人もいたのに、私は悠然と構えていて、本震がきたときに後悔した。何というか、「必死に逃げる」ことを惜しむような感覚が、私にはある……。
今春卒業した大学生のうち、正社員など正規雇用で就職した割合は、女子が66・4%で男子の57・7%を8・7ポイント上回っていたことが、読売新聞の「大学の実力 教育力向上の取り組み」調査でわかった。 就職活動で女子が男子より現実的な選択をしている傾向がうかがえる。男女別の正規雇用率が分かったのは初めて。
なかなか厳しいなあ……。
「男女問わず就職はたいへんだ」というのが、この話に対する私の素直な感想だが、やっぱり差異に注目する人が多いんだな。そりゃたしかに8.7ポイントは小さな差ではないが……。
これほど就職率が低下していても、私が何人かに話を聞いた限りでは、第三者(就職課の職員や、あるいは友人・知人・家族でもよい)を交えた面接の練習や、エントリーシートを提出する前に誰かに見てもらうということをしない人が大多数なのだそうだ。ある意味、その徹底した「テスト嫌い」には感心する。
一体どこまで就職率が低下したら、大多数の就活生が面接の練習をし、エントリーシートを第三者チェックを経てから企業に送るようになるのだろう。50%? 40%? それとも、学生の自由に任せる限り、過半の学生の「テスト嫌い(=現実の直視を避ける性質)」は永遠に無職への恐れを上回り続けるのか。
ま、かくいう私も、ぶっつけ本番で落とされ続けて、それでも頑なに「模擬試験」を受けようとはしなかった一人。人間というのは、「自分のダメなところを直視したくない」という動機から、一生すら棒に振るわけだ。怖いね。私も、最後には運良く就職できたけど……いやほんと、幸運だったとしかいいようがないな。
夫と意見の相違があって(直近の具体的なトラブルはゴキブリ退治を夫婦のどちらが担当するかという話)家を出たが、育児のノウハウの乏しい夫が子どもの面倒を見られるのかどうか心配でたまらない方の手記。実家には癌を抱えた母と高校生の妹と小学生の双子の妹がいるのだが、頼りたくないという。
他人にアドバイスする気にはなれないから、自分ならどうするだろう、と考えた話をメモしておく。
ようは優先順位の問題。
と、整理した上で、もし自分なら、母親と妹たちを頼る。癌でも貧乏でも関係ない。困ったときに相談するのも親孝行だ。兄弟姉妹の絆だ。自らの人生を背負う矜持があれば、「ダメ、助けられない」といわれても、受け入れられるだろう。そうである限り、ゴチャゴチャ考えることはない。
ゴキブリは、よほど神経質に対策しない限り、近隣に発生源があれば入り込んでくるもの。私はどこでも同じような生活を続けているが、引っ越すたびに出現率がガラッと変わる。
中学生の頃がいちばんひどかったな。団地の1階で、いちばん近い窓から数メートルの位置に扉つきのゴミ集積所があった。あるときから住民のゴミ出しのマナーが悪くなり、ゴキブリが大発生した。結局、収集日の何日も前に生ゴミを出す人がいるとダメなんである。ゴミ回収のたびに団地の清掃員の方が水洗いをするのだけれど、ゴキブリは一時避難するだけ。連中に餌を与えないことが大切だと思い知った。
ホイホイも煙も解決策にならず、1年ほど苦しめられたのだけれども、一念発起して家族総出でホウ酸団子を数百個作り、家の内外のあらゆる箇所に置いたら、あっという間に一掃された。こんなに効くならもっと早くにやればよかったと思った。戸外の団子はすぐに回収したけれども、その後、家の中にはいつも毒餌が置かれるようになった。
この体験があるから、私はその後もゴキブリが出ると毒餌を仕掛けることにしている。大塚にくらしていたときもアパートの1階で、10数メートルの距離に扉つきのゴミ集積所があって、そこにいつも生ゴミがあった。当然、ゴキブリの大発生源である。こんな状況では、家の中で何匹叩いたところで控え選手がいくらでもいるから、意味がない。
毒を食らったゴキブリは、生きてはいても動きが鈍いので、簡単に倒せる。叩いて殺して死骸を紙ごしに掴むのも嫌なら、掃除機で吸い取ってしまってもよいと思う。毒餌を食べたゴキブリなら、もう出てこない(元気なのを吸い取っても、また出てくるだけ。逆流防止弁とか、埃で隙間ができていることが多いし……)。
あと、中学生の頃は台所のホイホイに毎晩何匹もゴキブリがかかっていたから、毒餌をまいたら家中に死骸が転がるかと思いきや、全然だった。その後、引越しの際にも、やっぱり死骸は出てこなかった。とすると、みんな家の外へ出てから死んだのだろうか。後にベランダなどで毒餌を食らってヨタヨタ歩くゴキブリに遭遇することがあったが、そのときにはもう家の中にしか毒餌はなかったのだから、死ぬ前に外へ出たことになる。
周囲の状況にもよるのだろうが、意外なところでゴキブリの死骸に出会って「ウワァ!」という経験は、私の場合はない。まあでも、このあたりは知人間で体験談の食い違う部分なので、覚悟はしておいた方がいいのかも。でも生きているよりは死骸の方がマシだと思うけどね。生きているときにそこまで潜り込んだからそこで死んでいるわけでさ、死骸に驚かされるのが嫌だから、ホイホイの方がいい、という理屈はよくわからない。
そりゃたしかに、ホイホイなら、ホイホイの中でしか死んでいないわけだけれど、ホイホイに入るまでの間にどこを歩き回っていたのかといえばさ……。
そんなこと、私に限らず、皮肉屋の皆さんはみなわかっているんじゃないの。ようは気持ちの問題でしょ。客観的・物理的なメリットは何もなくたって、建設的な発言をするより、気に食わないものを批判することの方がよほど主観的に優先順位が高いから、そうするのだと思う。
所詮は気持ちの問題であるならば、気持ちさえ切り替えればよほど楽しく生きられるのは間違いない。頭の片隅に、この感情さえコントロールできたらどんなにいいか、というイメージは置いておきたい。
が、実際には、何もしない。報われる保証のない努力なんてしたくない。それに、ポジティブなことを話したり書いたりしてる人が、実際それほど幸せそうには見えない……今の自分よりはマシだとしても、頑張ってまでなりたい姿ではない。何も努力せずにああなれたらいいだろうな、でもそれは無理だというなら、このままでいいや、くらいでしかない。
「暑い、なんていうほど暑くなる」というのは他人様の理屈。本人にとっては、暑さへの怒りを発散させた方が、精神の健康上、よろしい。暑いのに黙っていたらストレスがたまるんだ。自然に対して怒っても客観的には無意味だが、主観的には有意義である。
他人が「暑い、暑い」といっているとイライラするけど、自分は「暑い」といいたい。立場の違いをゴッチャにしてはいけない。嫉妬も同じ。他人の嫉妬にはイライラするけど、自分は嫉妬したいの。嫉妬なんかしてないで、自分もそうなればいいじゃん、てのはひとつの正論だろうけど、無意味な言葉だね。「自分もそうなる」ための努力なんて、割に合わないんだもの。嫉妬してるだけの方が、よほど自分にとっては合理的なの。
「暑い、なんていっても涼しくならないだろ。黙ってろ」といった人が、ふと気を抜くと「暑い」とこぼす。聞き手の理屈に目を奪われて、話し手の理屈を忘れているから、自己矛盾するんだ。このあたりの問題に自覚的な人は、例えば「俺を不愉快にさせるのが損だってのはわかってるよな? 暑いといいたきゃ、俺に聞こえない場所でやれよ。それとも、俺をイライラさせてでも、俺に聞こえる場所で暑いっていいたいのか、お前は」みたいな言い方をするわけだ。
で、ウェブの場合、他人を怒らせるコストが低いので、聞き手の理屈を話し手の理屈がグイグイ押す。
自省の文句なら「どうぞご自由に」という感じかな。君は苦難の道を行け、我は安易な道を行く。
以下、「逆張り」であることを前提に読んでください。
小見出しはリンク先記事から。
オマケ。飽きるまで書いてみる。
遅刻は殺人と同罪というのは、本質的に生命の価値を信じていない有意義病患者。「何をなしたか」にばかり目を向けて、「ただ生きていること」に感動できない人々とは、仲良くできそうにないな。まあ、この「殺人」は修辞に過ぎないのだろうけど。
案外、飽きるの早かったな。
今日、早くも梅雨が明けてしまった(関東・甲信越、北陸)。
暑い。夏バテなのかどうか、食欲が減退してる。暑い……。ずっと扇風機に当たっているのだけれど、とにかく暑い。
要約版にざっと目を通した。「新聞記者って、報告書の面白いところを見つけて紹介するのがうまいよな」と、いつも通りの感想。たしかに第2章第2節がいちばん面白いように思う。その他、個人的には第2章第3節にも興味をひかれ、要約版だけでなく本文の方もじっくり読んだ。
仕事のモチベーションを「夢」「職」「金」「人」に整理した記事。レーダーグラフで表現すると自分の特徴を表現できるのかもしれない。
ダラダラと3つ並べただけでまとまりを欠いているが、とにかく暑くて頭が回らないので、ここまで。
「終電=定時」を前提として「勉強時間を確保する」方法を考えるhase0831さんの記事に対して、「終電=定時」を前提とするのは馬鹿げている、まず就労時間を短くすることを考えるべき、というのは、果たしてGoTheDistanceさんがいうような「斜め上
からの批判」なのだろうか。私は、むしろ真正面からの批判だと思う。
「問題設定の誤り」は、ありがちな間違いなんだ。問題を捉える根本的な枠組みが間違っているので、ロクな結論が出てこない、ということは多いんだ。
午前始業なら、終電=定時なんてのは断然おかしい。「定時」というのだから、一時的な忙しさではないということだ。当人はよくても、そんなのを許してる職場は、組織として社員の健康管理に責任を持つ仕組みを欠いている。そんなのを許すから世の中からブラック企業がなくならないのだ。いくら当人が納得していても、(午前始業なら)終電=定時なんて絶対に間違っている。この根本問題を前提として受け入れてしまった議論なんて、そもそも評価に値しない。
サードプレイスの効用を説くのはいいが、もっと違う文脈で持ち出すべきだろう。「終電=定時という前提で勉強時間を確保するには?」なんて馬鹿げた問題の解答として引っ張り出されるのでは、サードプレイスもかわいそうだ。サードプレイスは(自分自身に対する)人権侵害をギリギリ継続可能なものとするために存在するわけではないだろう。
サードプレイスの効用を語るエントリで、本人の深夜残業がブラックすぎてウケルというコメントは人格否定に近しい暴言であります。そんなことは本文とは無関係であります。
そんなことがあの記事の本題だったなら、せめてタイトルを変えてほしい(願望)。現状、検索エンジン経由とかで当該記事に到達する人たちに、最も伝えるべきこと(=そんなに仕事をしてはいけません)を伝えず、ロクでもない解決策(=ひどい状況に適応する方法)を案内するのだから、よくない記事だと私は思う。
世の中にもっとひどい記事はいくらでもあるのだから、hase0831さんの記事に多くの批判が集まったのは、不運なことだった。でも、根本的に問題設定を誤っている記事に対して、その最大の問題を指摘するコメントを本文とは無関係
と切り捨てるGoTheDistanceさんはどうかしている。もちろん、批判を構成する暴言について「それは暴言だ。撤回しろ」というのは、正当。それは批判そのものの正しさとは関係なく成立する。
「俺は美味そうなラーメンを作った。蕎麦の味の方が優れていると思うのなら、蕎麦つくって客の評価を問え」を支持したいが、「ラーメンという食べ物は政治的に正しくない!」議論が発生するのが以下略
圧倒的多数が「ラーメンという食べ物は政治的に正しくない!」という議論をしているなら、それもアンバランスだと私は思う。私はhase0831さんが批判に屈して記事を取り下げてしまうことは全く望んでいない。こういう記事があって人気を集めているが、あるべき批判もちゃんと目立っている、というのがよいと思う。
だから現状は、私の理想に近い。これに対して、GoTheDistanceさんは、現状に批判的である。ここに対立があり、私はGoTheDistanceさんの記事に反論を書きたくなったので、書いた。
現状、英語を勉強しない人が多いのは、勉強の苦労に見合った見返りが見込めないからだと思う。英語の勉強がどれだけつらいかは主観の問題なので、「英語ができないままなら解雇するぞ」と脅されても、「英語を勉強するより他の会社に移る方がマシだ」と思う人は少なからずいそう。あと実際問題、法律の関係上、英語を勉強しないからといって社員を解雇できる会社はほとんどないはずだけど、それはまた別の話かな。
私の勤務先が何度か英語の得意な人を採用しようとしたけれど、結局、待遇が見合わないらしくて、高い英語力を採用の要件とすると、「英語だけが売りの人」しか雇えなくなってしまう、という話を聞いた。話の出所は世間話で、人事課じゃないから、どこまで本当かはわからない。でも、個人的には「リアリティがあるな」と思った。
学生時代、電子機械工学科で英語が本当に得意な人なんて200人中10人くらいしかいなかった。そういう人は大学院を経てみんな著名な大企業へ行ってしまう。私の勤務先くらいの「大企業」には目もくれない。そして学生の5割は「大学に入学したときの方が英語力あったよね?」という感じで、3割が何とか英語力をキープ、残る2割だけが学生時代に英語力を多少なりとも鍛えたといえる人たち。じゃあこの英語力の低い8割の学生に就職先があるかないかといえば、ある。
ようは、「一流企業の一流の技術者を目指すなら英語が必要だよね」「いや、二流までは必要」という話で、三流以下で満足できる人には関係ない。
たぶん、日本人の大多数は、役に立つレベルまで英語を勉強するより、生活水準を下げる方を選ぶと思う。ていうか、実際、中学生や高校生を見てみれば、7割くらいの子が、寸暇を惜しんで一生懸命に勉強するより、生涯収入を下げる方を選んでいるでしょ。その未来の姿が私たちなのだから、英語だけ心を入れ替えてまじめに勉強する……なんて、ありえないとわかる。
現在の東南アジアでも庶民が携帯電話を持っているので、大多数の日本人は、英語を勉強しなくたって携帯電話を取り上げられたりはしない。自動車は微妙だとしても、都会のスラムで暮らすという逃げ道がある。
世の中には「英語ができないと悲惨だよ」と脅す人がいっぱいいるのだけれど、勉強するより、貧乏になる方が楽なんだよ。私もそうだけど、それくらい勉強が嫌いなの。「どうして座して死を待つんだ!」って叫ぶ声がいくら聞こえてもね、「やれるものならやってみろ」だよ。
みんな、子どもには「勉強しろ」ってうるさいけど、自分ではやらないでしょ。「俺は高卒で苦労した」なんて愚痴ってる暇があるなら、放送大学を卒業すればいいんだよ。でも、9割以上の人は、そういうことをしない。所詮、そんなもの。そういう親の背中を見て、子どもも勉強しないの。当たり前でしょ。「自分が勉強するより、子どもに勉強させる方がずっと楽だな」って直感的に理解できちゃう。欺瞞に気付くわけだよ。
仕事で忙しくて勉強する暇なんかない、とか何とか。全部、言い訳だって、子どもにはわかる。だって、ソファに寝転がってテレビ見てるもん。平日に忙しいなら休日に3時間とか4時間くらい、何かちゃんと勉強しているのかという話でさ。そんな大人、どれだけいるの。3割もいないよね。7割の子が家庭学習をしないのなんて、「蛙の子は蛙」みたいな話なんだよ。
リンク先とは関係ない話になるが、笑えるのは「みんなが英語を勉強しないと国が貧しくなる」という意見。んなもん、知ったことか。日本に絶望した人は勝手に脱出すればいい。みんなが勉強してくれたら日本にも未来があるから、残ってあげてもよかったんだけど……みたいなことをいう人もいる(言い方は違うのだが、言ってる内容はつまりそういうこと)のだが、「黙って出て行け」といいたいよ。
とりあえず私の場合、義務教育は抜群の好成績で修了したんだから、文句をいわれる筋合いはないね。意地でも英語の勉強なんかしてやんない。とりあえず、今は、しない。「みんなのために勉強しろ」っていう人がムカつくから、しない。それはもちろん言い訳で、本当は英語の勉強が嫌いだから勉強しない。
ちゃんと勉強して、いい大学を卒業して、いい会社に入ったんだから、あとはクビにならない程度の勉強しかしない。入社数年目で父の年収を超えたとき、「もう十分だ」と思った。いま「英語が苦手な社員はクビ」といったら会社は成り立たない。会社が潰れたら? それは困る。こんないい職場は他にない。だから会社が傾いて、それを元に戻すために一番必要なのが英語なら、英語を勉強すると思う。でも、英語の優先順位が2番目以降なら、分業でいきたいね。英語は他の誰かに任せたい。それくらい、英語の勉強はしたくない。
少なくとも英語の読み書きは中学レベルならやれば出来る。そして中学レベルで十分だし。
中学の定期テストで100点満点を取れていたのなんてクラスで1人くらいだろ。あの程度のテストで60〜70点台が平均点だったんだから、中学レベルならやれば出来る
とか、どこの秀才を相手に話しているんだ。無茶をいうな。
あと「中学レベルで十分」はウソ。どう考えてもウソ。実際、中学の範囲までは英語のテストで95点くらいを取り続けていた私が、全然できないもん。まず単語がサッパリ。こういうことをいうと「単語は覚えるんだよ」とか返されるんだけど、「じゃあもう、それって中学レベルじゃないじゃん」っていう。「開成高校入試で100点満点を取れるまでは中学レベル」みたいな話と一体どう違うのか。
このへんで色々なエンジニアをフォローしてニュースフィードをRSSで読むと色々捗るよ。
どーでもいいけど、「捗る」って表現はいったいどこのローカルではやってるんだ?真面目に使い方おかしいし意図が伝わらないから、やめたほうがいいと思う。
「捗る」は「はかどる」と読む。「仕事が捗る」というのが最もポピュラーな使い方じゃなかろうか。
ymotongpooさんは色々捗る
と書いているので、「仕事に限らず、趣味も私生活もやりたいと思ったことをどんどん実現していける」というくらいの意味だろう。
私はymotongpooさんの文章における「捗る」の使い方に何の違和感も覚えなかったし、辞書的にもおかしな点はないと考えるから、むしろOverleoさんのコメントの方が理解し難い。
……と思ってTwitterで検索してみたら、意味不明の「捗る」は1割未満な感じ。なんだ、問題ないじゃないか……あ、そうか、わかった! ネットスラングと化しているのは「色々と捗るぞ」なんだ。流行っているというほど使用者は多くないようだけど。
「色々と捗るぞ」検索結果を限界まで読み流した感じ、国語的におかしい使われ方はあまりないように思った。でも、「色々と」の部分をごまかすことで「これイイよ、マジおすすめ」みたいな気分を伝える定型句になっているんだな。だから、具体的に何がどうはかどるのか、誰も質問しない。なるほどね。
ところで「またひとつ、賢くなってしまった。」って元ネタなんだったっけ? 則巻博士だったような気がするけど、もっと昔からあるフレーズなのかな。
注:「船が5艘あります。1艘に4人乗ります」という問題は『田中博史の算数授業のつくり方 (プレミアム講座ライブ)』p64が出典です。
私は「自分の発想で100%正解できる」のに、「先生の指導・誘導に従わないとバツがつく」ことに絶望していたのです。立式の形を制約しないと学校の先生が「この子はわかっている」「わかっていない」の区別がつかないとしても、それは教師側の問題。それを生徒の自由を縛って解決するのは、自分の無能のツケを生徒の絶望で支払う行為。許せない。
田中さんの本にあった問題文を図で表すワークは素晴らしい。図解によって児童の考え方を教師が把握できるならば、多様な立式を許容する指導も可能になります。ところが、田中さんには前述の「許せない」という感覚が薄いから、きちんと図を描けている子どもに単一の式を強要してしまう。本末転倒ではないか。指導上の都合で解法に制約を加えたのであって、本来は多様な解法が許容されるべき。指導上の都合が解消されているにもかかわらず制約を押し付け続けることに、いったい何の意味があるのか。
takehikomさんも、『トランプ配りは教育上有害』が典型的ですが、手段と目的が転倒しているように見えます。もし算数教育の関係者がみなtakehikomさんと同じような感覚なのであれば、成績上位層の子を絶望させない指導法など、100年待っても研究も発見もされそうにない。問題が「問題」と認識されてすらいないのですから。
どれも既に述べたことの繰り返しですね……。以下、気になる点へのレスポンスと補足など。
教師ではなく,教育システムでしょうね.この種の出題が1人の教員によるものではないことは,上の「B県学力調査」が示唆しています.
実際、そうなのでしょうが、生徒には関係ない話だと思います。私の場合は、年度末の実力テストでは解法自由で、そこでは思う存分やれたので、怒りは日々の授業を担当する教師に向きました。
平成23年6月17日の内容全体から,「指導は教員1人で行う」ことを暗黙の仮定としているように思われます.違っていたら,すみませんが補足をお願いします.
何のことだかわかりません。より具体的な指摘をください。例えば、もし私の文章がどのように書かれていたら、「指導は教員1人で行う」ことを暗黙の仮定として
はいないように読めるのでしょうか。そして、その仮定がなかったとしたら、私の主張はどのように変化するだろうとお考えなのです?
『「5艘」が基準量となりえない理由がない』と考えるとして,出題状況,それまでに学んだこと,そして5×4という立式からは,思考プロセスがまったく伝わりません.
それは教師の都合。生徒には関係ない。5艘の船があって、4人ずつ乗っているのだから、5×4で乗船者の総数がわかるに決まってます。なのに「まぐれ当たりをふるいにかけるため」なんて理由で、同種の問題を確実に解ける子が5×4とするのをバツにするのは馬鹿げてます。
教師が何を教えていようと、あるいは教えていなかろうと、5艘に4人ずつで5×4と考える子は出てくるし、それで絶対に総乗船者数を正確に求められるのだから、教師の都合でバツにするのはやめてほしい。
必要悪でしかないものを積極的に評価するのは間違っています。takehikomさんの挙げた例でいえば、救急医療の世界で現在「トリアージ」が必要だとしても、「トリアージが必要な状況は解消されるべき」という認識は共有されていて、できる限りトリアージをしないですむよう、みなが知恵を絞っていると思う。
翻って、「被乗数は1あたり量に限定する。4人/艘は1あたり量だが、5艘は違う」という指導をする人々は、そのような指導をせずにすむ道を本気で探してますか。その指導によって授業をつまらなく感じる子に対して、その犠牲が必要になる理由を明確に説明できるよう、実証データを集めようとしていますか。全てNoだと私は思う。「算数は得意だけど、算数の授業は大嫌い」な子どもが出てくるのは当然でしょう。
船の改装を持ち出すのは,作為的であり,不自然です*6.
私が5艘を基準量としたのは、問題文の中で船の数が先に確定しているから。5艘の船に4人ずつ乗るなら、5×4で総乗船者数がわかるね、と。これに対して、「5艘は基準量たりえず被乗数にはできない」という反論を予想したので、仮に被乗数=基準量という前提を受け入れたとしても、「5艘は基準量となりうるから被乗数にしていいんだよ」という思考実験を示したまでのこと。作為的であっても、「船の数は絶対に基準量たりえない」という命題に反例を示せたなら、用は足りています。
ケーキほかの問題については,過去の誤記に目を閉ざす者はの最初の図で,有向辺ではなく自由に行き来できるという考えを採ると理解しました.
最初からグループ分けした図が示されている場合、A「丸を3つ内包するグループが5つある」と考えたなら3×5、B「5つのグループがあり、それぞれ3つの丸を内包している」と考えたなら5×3と式を立てて丸の総数を求めるのが自然だと思います。(*今にして思えば『5×3を推す』の2番目の図は暗黙の前提が隠れており説明不足)
式は書き手の状況認識を簡潔に表現したもの。図の読み方は1通りでないのだから、式も1通りではない。その点、文章は解釈の幅が狭いので、文章に忠実に立式すれば、式のバリエーションは限られます。
あと字面の話で申し訳ないのですが,平成23年6月17日という1日の中で,あるところでは「3個/皿」とper付きの単位を書き,また別のところで上のように「5艘」と書いているのは,読んでいて落ち着きません.
??? 3個/皿は3個/皿、5皿は5皿、4人/艘は4人/艘、5艘は5艘ですよね。
念のため。6月17日に書いた通り、「徳保的算数」を工夫なく扱った授業が、現在の標準的な指導法より優れているとは思っていません。私が受けたかった授業と、クラスの多数派にとって望ましい授業は違うでしょう。実証データは一度も目にしたことがありませんが、標準的な指導法の方が「掛け算がわかる」子の割合を高められるのだろう、と予想しています。実際に「徳保的算数」で授業するには、何らかのブレイクスルーが必要なのだろう、と思います。
そうではあっても、「掛け算のわからない子が減って、よかったね」と現状に満足されては困るのです。算数の苦手な子を救うためには「混乱のもと」を極力減らすのが定石であり、だから確実に正解を導ける考え方の多くを「算数の授業においてはバツ」と決めて正解の種類を大幅に減らした……その結果、授業に絶望し、教師を心底憎む生徒を生み出しているからです。小学校の先生方は、小学2年の標準的な掛け算指導法が、多くの子どもを救うために少数の子どもに犠牲を強いていることについて、もっと真剣に向き合ってほしい。
私が最近読んだ『わかる教え方 算数2年』『だれでもできる学力づくり2年』『田中博史の算数授業のつくり方』には、少なくとも小学2年の掛け算指導に関して、そうした逡巡が伺えない。「仕方なく特定の解法を押し付けることにした」という後ろめたさがない。今や手段が目的に摩り替わり、例えば「5艘の船に4人ずつ乗る場合の総乗船者数を求める際、5×4と計算するのは間違いだ」と断じて胸を張ってしまう。なぜ「残念ながら教育学は未だ5×4をバツにするより効果的な指導法を見出せていない」と悔しそうにしないのか。
5艘に4人ずつなら5×4、という発想で確実に正解できるのに、それをバツにして、いいことをしたような顔をしているから、小学校の教師は憎まれるのだと思う。医療リソースの不足に起因する命の選別に胸の痛みを感じない医療関係者はほとんどいないだろうに、どうして教師には鈍感な人が多いのか。
私が最近やっちゃったのがフィルム。ふと部屋の整理をしようと思ってガラクタ箱を開けたら、APSのフィルムが底の方に転がっていた。
フィルムを触ること自体、久しぶりだったこともあるけど、私は完全にボケていて、それを「未使用のフィルム」と勘違いしてしまった。で、「もうフィルムカメラは所持していないし、こんなもの、取っておいても意味ないだろ。安いものだし、捨てちゃおう」と。
それから1ヶ月ほど経ったある日(ていうか数日前)、フィルムのネガを業者に依頼して電子化することを思い立ち、ネガシートの探索と整理を始めた。すると、1つだけAPSのインデックスシートが出てきた。APSはネガシートがないから、後で焼増しの指示をできるよう、現像時にフィルム内の写真を小さな画像で一覧表示したシートを作ってくれるのだ。で、この現像シートにはAPSのフィルムカートリッジを入れる袋がついているのだけれど、そこが空になっていた。「うわぁああ!」と声が出た。
私はインデックスシートを他のネガシートと一緒にファイルに入れていたので、カートリッジを外していたんだな。うん、APSは滅びるべくして滅びたんだよ。あんなの、やっぱり保管に不便だもん。……なんて悪態をついても始まらない。フィルムを捨ててしまったのは私である。
APSのインデックスシートは1枚しかなかったので、レンズ付フィルムで撮影したのだろう。で、プリントした写真も発見できなかったので、捨てたんでなければ、最初から1枚もプリントしていなかったということになる。となると、ハッキリいって「どうでもいいんじゃないか?」という気はする。納得して捨てたのなら、衝撃はなかった。あるいは、捨てたのが何年も前だったら、「仕方ない」と思えたろう。でも。
フィルムは先月まで部屋の中にあって、それを勘違いで捨ててしまった。ネガの電子化を部屋の整理より先に思い立っていれば……。たった1ヶ月……。いまさらどうしようもないことなのに、無性に悲しかった。
こういう時って、ショック状態だから、焦ってもダメなんだよね。インデックスシートに印刷されているのは、プリントもせずに放っておいたなりの写真でしかない。それはわかる。わかるんだけど、もう二度とプリントできないことが、悔しくて仕方ない。(´・ω・`)ショボーン
それにしても……10数年後、こうして悔しい気持ちになるためだけに、私は写真を撮って、APSのフィルムをずっと保管していたのだろうか。そんな考えが、止まらない。
何度でも同じことを書く試み。
相手が「嫌だ」「やめてくれ」と明言していても、それでもブックマークしたいか。「したい」場合もあるだろう。だが、「嫌だという人の気持ちを踏みにじってまでしようとは思わない」場合の方が多いのではないか。法律上許されていることであっても、人の嫌がることをする際には、立ち止まって考えたい。
「そんなことを嫌がるなんておかしいよ」と説得を試みるのはいい。でも、説得に成功するまでの間、相手は傷ついている。その痛々しい姿を見て「自業自得だろw」などと嘲笑する人間にはなりたくない。
どんな理由や、あるいは誤解があるにせよ、文化・価値観の違いがあるにせよ、他人の痛みを無視してはいけないと思う。そうした冷酷のために、自分もどれだけつらい目に遭ってきたか、よく考えたい。「自分の声だって誰にも届かなかったのだから、このバカの声だって誰にも届かないし、それでいいんだ」なんて考えてしまったら、自分自身だって永遠に救われないのではないか。
「自分の大切な大切な自由にケチをつけられた痛み」に我を忘れてはいけないと思う。「法律上、自分は悪くない」といって目と耳をふさぐのではなくて、いま目の前に痛みを感じている人がいる現実をきちんと受け止めた上で、「今回は、それでもブックマークします」か「今回はブックマークを控えます」かの選択をしたい。
自由を無駄遣いすれば、いつかその自由は失われる。「できる」から「する」のは文明人の態度ではない。「できる」けど「する」か「しない」か考える、そうした謙抑の姿勢を失えば、自由は狭く限定されたものになっていってしまうと思う。
某氏も「禁止」という言葉に強制力がないことは認めている。ブックマークされたくない側が「禁止」といっても、ブックマークする自由は全く侵害されない。
だから結局、オンラインブックマーク禁止問題とは、「禁止といっているのにブックマークされて傷ついた」VS「自由な行為に文句をつけられて傷ついた」という精神的被害の言い立て合いである。ちなみに法律は、「オンラインブックマーク禁止と叫ぶ自由」と「それでもブックマークする自由」を、ともに認めている。
自由を無駄遣いする危険を指摘するなら、言論の自由が制限される可能性に触れず、ブックマークする側の自由が制限される危険性ばかりいうのは片手落ちだ。でも、この問題で言論の自由が制限されるとは考えにくい。ゆえに私は「より弱い自由に依拠している側が、いかに自由を守り抜くか」という捉え方をしている。
私も以前はそう思っていた。いまは、そもそも「国旗に敬意を払う」こと自体に疑問がある。
国旗は国家の象徴であり、国旗に敬意を払うことは国家に敬意を払うことだ。だから例えば、国家の解体を目指す立場であれば、どんな国旗であれ、敬意を払う理由はないだろう。あるいは、国家というものを人々の幸福を実現するための手段に過ぎないと考えるならば、国家の必要性を認めるとしても、やはり右派が求めるような種類の「敬意」を払う理由はない。
国旗や国歌に対しては敬意を表すべきだよ。それは国民として自然なこと。自国のシンボルに敬意を持てない人間が、他国民とまともにつき合えるだろうか。国旗や国歌の内容に問題があると考えるなら、堂々と主張し、変更すればいいだけのこと。
そんな「べき」論に固執するなら左翼の主張を理解できるわけがない。理解する気がないなら、そこまでの話。elm200さんはこの件に関して多数派なので、それで人生損することもないでしょう。
余談を挟む。
私は相互の利益を考慮して「あるものは利用していい」とも考えるから、国家体制を否定する者が国家から支援を受けることを「おかしい」と思わない。これをダメだというと、多数派が圧倒的に有利な社会を構築して「多数意見に従わないなら独力で何とかしろ」と脅迫するのと同じことになってしまう。私はこうした「押し付けられた非対称戦」を肯定しない。否応なくそのような戦いに巻き込まれた者には、相応のハンデがあって然るべきだと考える。
だからいわゆる「君が代不起立訴訟」で最高裁が原告側の上告を棄却したのは、穏当な判決だとは思いつつも、「うーん、そうか……」と残念にも思った。
まあ、ね、「国歌斉唱の際に起立しない」という立場に理解を示す人がそれなりにいたから訴訟になったのであって。例えば「着任挨拶の際に起立しない」という思想信条の自由を訴えても、門前払いされたろう。少数派の人だって、もっと少数派の思想信条なんか平気で踏みにじって恥じることがない。そうだとすれば、所詮は原理原則の話ではなく、程度の問題に過ぎなかった。
ならば、上告が却下されたことに不思議はない。どこかに線を引くのだとすれば、2/3以上の人が「それでいいんじゃないの」というあたりになるのが自然だろうから。
左翼が「日の丸」を攻撃するのは、戦術だと思う。私の理解では、左翼は国旗そのものを否定するはず。だけど、そんなことをいっても世間がついてこないから、「日の丸は国旗にふさわしくない」といって日本の国旗を空位にすることを狙っているのだと思う。
左翼の主張する民主主義は決して多数決ではないので、みんなの意見と関係なく、正しいものは正しい。が、そう叫んでも世の中は少しも変わらないから、戦術として、より大勢に響く言葉を探し続けてきた。その結果、反日の丸運動に賛同する人の少なからずが、戦術として出てきた主張に同調する人たちになっている。
それでも、反日の丸運動の本意は、国旗そのものの否定。運動に賛同している人々の多数意見は違っているとしても、それがコア層の考え方なので、分派はともかく本流が新国旗の制定に向かうことはない。
子どもが食事に飽きて遊び始めてしまう、ということで悩んでいる親御さんが世の中にはたくさんいらっしゃいます。この問題には、簡単な解決策があります。
これは私にとっては常識的な指導法だったのですが、mixi日記やTwitterを検索してみると、どうも離乳食の次は1日3回の食事へパッと移行して、「食事のたびに子どもを叱りつける毎日」に突入する方が非常に多いらしい。私はもうビックリして、この記事を書きました。
以下、ROYGBさんの記事に応える形式で綴った補足の雑談です。
標準量にこだわる必要がないというのはその通りではあるけれど、「もういらない」と言った子供が少しすると「おなかすいた、お菓子食べたい!」とか言い出したりするのもありがちな気がします。もとの話の家庭でどうなのかということはわからないので、まあ一般論として。
あとは食事前にお菓子を食べたりして食事が食べられなくなるケース。これも与える親が悪いといってしまえばそれまでですが、お菓子と食事の配分というのは難しいところです。
人体はそもそも1日3食という生活スタイルと不整合で、1日5〜6食の方が自然だという話を読んだことがあります。ちょっと出典を思い出せないので、以下は眉につばつけて読んでください。
人類は年中食べ物のある環境で進化し、それから世界に広がったので、食事の回数が少なくてもすむ機構を発達させていません。「動く、食べる、休む」を1日に何回も繰り返すようにできています。農耕がはじまって以降、「動く」と「食べる」の関係が間接的になり、また「食べる」の手間が大きくなってしまったので、身体に我慢させて「食べる」回数を減らすことになり、1日2〜3回食べるスタイルに落ち着いたのです。
ただし、1日2〜3回の食事では脳などでエネルギー切れを起こすため、間食の習慣が残りました。「間食=お菓子」という構図は、食文化の発展による食事の手間の増大と折り合いをつける工夫から誕生しました。間食に適した条件として、作り置きできて、再加熱なしでもおいしく、素手で手軽に食べられて、持ち運びがしやすく、体積あたりの栄養価が高い……と並べていくと、お菓子の他にあまり選択肢がないことがわかります。
現代の日本には冷蔵庫がありますので、原点に返って、単純に料理を小分けにして時間を置いて少しずつ食べればよいと思う。あるいは果物とかですね。食後のデザートではなく、間食という形で食べる方が、かつての人類の生活に近い。文明の歴史は進化の歴史と比較すれば短く、現在も人体は文明以前の生活スタイルに適合したつくりのままなのです。
そんなわけで、子どもを30分〜3時間間隔の授乳から短期間で1日3食へ移行させてしまうのは、文明社会に暮らす大人の都合を子どもに押し付ける行為だと私は考えています。大人の都合が隅々まで浸透している小学校に入学するまでには、多少の訓練が必要でしょう。それでも、低学年なら家庭で午後3〜4時のおやつをとれますよね。ならば午前10時のおやつを我慢できることだけを目標にすればよいはずです。
また子供の年齢にもよるけれども、食事中に遊んだりしないというのも教えていく必要もあります。ベネッセのこどもちゃれんじなどの教材でも、そういったことを取り上げているときがあります。
それはそうなのですが、「どうして食事に飽きるのか」といえば、第一の理由は食欲が満たされてしまっているからだと思います。ROYGBさんの引用されている例では、食事中に遊びだした子の食べ残しを大人が食べてしまおうとすると、子どもは遊びをやめるらしい。でも、私が思うには、たぶんその子はもう満腹なのです。けれども、あとでおなかが空くのも嫌だな、と。「残りは後で食べる」という選択肢を奪われそうになると、将来の苦痛を回避するために、仕方なく食べるのです。
小学校入学が迫っているならともかく、1日5食でいい年齢なら、「おなかが空いたら食べる」「満腹になったら食事を終える」という身体の仕組みに対応した指導でよいのではないでしょうか。つまり、「もう満腹だけど、先を見越して、もっと食べておかないと……」なんて決断をさせるより、「残りはおやつの時間に食べる!」「じゃあ冷蔵庫に入れておきなさい」「わかった。ラップを取ってくるね」の方がいい。
「間食=お菓子」だから間食はダメで、だから1日3回の食事という生活スタイルを徹底しなければ……という問題の捉え方や状況認識には、根本的な誤りがあります。本来はする必要のない指導をして子どもに無用の我慢を強いる親御さんが多いように私は感じます。親が身体的に困難な内容を子どもに押し付け、当然、子どもはいうことを聞かず、お互い磨り減っていく。残念なことだと思います。
インターネットが普及してみたら、みんなが共有する情報は「食事中に子どもが遊び始める」「1時間かけても食べ終わらない」「食事の手が止まってお喋りばかり」「叱っても効果がない」といった愚痴か、そうした「問題」を親の視点から一方的に解決する方策ばかりでした。つまり従来と何ら変わりない。マスコミは情報消費者の需要によく対応していた、ということ。
「子どもが食事に飽きて遊び始めるのは悪いことだ」という直感に距離を置く大人が、あまりにも少ない。自分だって、かつては子どもだったはずなのに、子どもにも言い分があることを忘れているのです。それでいて、ライフハック系の記事とかで「間食は有効だよ」みたいな情報が出てくると「私も同感」みたいな反応がワッと出てくる。「あれっ!?」と思わないのかな。まあ、育児クラスタとライフハック大好き系の人々があまり重なっていないということなのかもしれませんが。
食事のマナーを教える指導は必要でしょう。ただ、「大人の都合をナマの形で子どもに押し付けるから大きな摩擦が生じる」という構図に気付くことの方が重要だと私は考えています。1回の食事の量を減らし、食事の回数を増やすことで、子どもの食事のマナーは劇的に改善する可能性があるのです。
同じことを何度いってもできない。なぜだ? バカなのか? 違うわけです。言いつけを守るのが、あまりにもつらい、だからできない。こんな簡単なことなのに? 子どもにとってはそうではない。たいていの子は、いい子になりたいと思っていますよ。だけど、あまりにハードルが高くて、理想を実現できない。そうして親は子にガッカリして、小言ばかりいう。叱られ続けて、子どもも自分自身にガッカリする。
こんな状況は、私たちが変えていくべきです。