コメントするのも疲れたのでリンクのみ。
記事を小分けにするのが面倒くさくなったので、いくつかまとめて出す。
こういうタイプとは馬が合わないんだけど、だからって嘲笑するのは違うと思う。やっぱり意識の高い人は基本的に私より優秀なので、邪魔しない方がいい。税金とかを経由して、彼らの成果のおこぼれにありつくのが私の立ち位置。自分の目指す姿ではないけど、足を引っ張ることなく、共存していきたい。
私の回答は(以下略) 参考:こんなことを、考えている。(2011-07-10)
「最初によい出会い方をしたから」ということかな。個人的には、胸に響くものがあった。ケータイ小説とかもそうなのだけれど、どれもきっと誰かにとって大切な作品群なんだよなぁ……とか。
議論の余地がない話。経済成長が止まれば、医療の進歩にキャッチアップするためには、増税などで医療への資源配分を増やすしかない。それが嫌なら、諦める他ない。さらに少子高齢化が進展しているので、このままでは現状維持すら不可能。あと、貧しさゆえに最先端の医療を受けられずに死ぬ命を問題視する人には、日本人なら死なない病気で死んでいる海外の貧しい人々についてどう思っているのか、問うてみたい。
匿名でいたい人の実名を公開して黙らせようとするのはよくない。ただ、それはそれとして、「海外ニートさんって、実名では書けないようなことを書いていたっけ?」と不思議に思った。現在の職場の悪口は書いていなかったと思うし、慌ててブログの記事を全部消しちゃうことなかったのに……。
まあ、私も上司バレしたときは、いったん全部消して、自分の気持ちが落ち着いてから「よく考えてみたら問題なかった」といって再公開したので、「うわぁあああ!」ってなったときに過剰反応しちゃう感覚はわかるつもり。それでも、また気が向いたらまた新しいブログを始めてくれたら嬉しいです。
ここに来て、以前私が言っていた「マスコミvsネット」論は撤回し、今後は「当事者性vsないものねだり論者」の新しい対立軸の論考へと移行することを宣言したいと思っています。 sasakitoshinao 2011/08/29 21:46:30
「新しい対立軸」ではないよね……。佐々木さんが関心を向けたのがこのタイミングだっただけで、私が物心ついた頃から今と同様に存在していたものだと思う。
関空を出て、京都の街について、みんなおしゃれだな、化粧もがんばってるな…、私は旅装で激しくやばいじゃないかwと焦りつつ、何とない違和感を感じました。
違和感を感じ
た一方で、私は旅装で激しくやばいじゃないかwと焦
る感覚があるわけだ。これが「おしゃれを強いる不健全さ」の正体でしょ。何がどうやばいのか、ちゃんと考えてみたらいいんじゃないの。私は、「自分の生活を見つめ直してみたら、周囲の人々よりおしゃれ度が断然低くても、実害は皆無だった」という観察結果を得て、気が楽になった。
「みんなが**だから自分も**じゃなきゃいけない」という同調圧力は、案外、自分自身の思い込みだったりする。あるいは、これまでの人間関係に固執して、もっと自分と気の合う人を探す努力を放棄した代償。まあ、新しい人間関係を構築できない可能性を恐れるのは当然で、私も根拠なく「大丈夫だよ」とかいえないわけだが……。
短い記事なので、実験の条件などがよくわからない。ちなみに私は、テレビ東京『午後のロードショー』を見るときは、goo映画で事前にあらすじをチェックする方。展開が気に食わない作品は、最初から見ない。見てから文句をいうのは、見る時間も文句をいう時間も無駄。
論文は、結論を最初に読む。あと、推理小説とかで途中で飽きたら、後ろの方を見る。それでもつまんなかったら読むのをやめる。面白かったら、途中も読む。個人的に「謎」はイライラの種。「謎」があるから面白い、と思うことは滅多にない。主人公の出生の謎とか、そんなの、最初に明かしてくれた方が味わいがあっていいじゃないかと思うことが多い。近年は、謎のある主人公が登場すると、ページをパラパラして主人公の正体が明かされるページを探すのが癖になっている。
古いテレビドラマを見たり、漫画を読んだりするときは、Wikipediaの人物紹介がネタバレ満載で重宝する。世間に私のような人はとっても少ないみたいなんだけど、ゼロじゃないのだから、たまにはフィクションの世界に私のようなキャラクターが登場してくれたらいいのにな、と思っている。
法は人々の価値観から生まれるわけで、法に触れるまでは完全に自由だ、なんてことはない。「ただ批判する人もいるだけ」とはいえなくて、やっぱり言論には力がある。「言葉で批判されているだけだから、あなたの自由は少しも抑圧されていない」というのは、客観的にはどうあれ、主観的事実とはいえない。
そうではないとすれば、現代アートも美味しんぼコラも片岡Kさんの本も状況は同じ。どれも権利者に訴えられたわけじゃないから、法的な問題にはなっていない。でも、違う。同じじゃない。その違いが、現実にカオスラウンジの活動の障害となっているわけだ。片岡Kさんは……Amazonレビューが荒れた程度でとくに困ってなさそうな感じだけど。
大学の講師が講義中の出来事をブログに書いた件だって、第三者が懸念を表明しただけで、当人が怒っていて、何か法的措置を検討しているわけじゃない。それでも、批判は現実に影響しているように見える。
『オレ的ゲーム速報@刃』や『はちま起稿』が文脈を無視した情報の切り取りから生まれた誤解を拡散していることも、「単なる言論・表現だから自由」といって済む話かというと、やはりそうではない。「スルーすればいい」というのは第三者の意見で、当事者は「馬鹿げた誤解」や「くだらない揚げ足取り」に傷付く。
JINさんのニコニコ生放送を視聴してみると、素人が自分の狭い観察範囲で見聞きした話を再放送しているだけなので、もともと信頼性のない情報なのだと。だから、仮にそれを信じる人がいても、信じる方がおかしいんだ、と。同じ理屈はかつて悪マニの件でも聞いた。
現に人が傷付いているのに、誰も結果に責任を取らず、反省もしないなんてことが許されるか。悪マニのときは、「悪徳企業」とは「違法行為をしている企業」という意味ではないので「悪徳企業といっても名誉毀損にならない」なんて主張もあって、仰天したものだった。総会後の飲み会に参加してみたら、支持者の方々は、素朴に「悪いものを悪いといって何が悪い」という考えだったので、私は言葉を失った。
「刑事罰に値するか?」というところに線を引くならともかく、「真実性の不明確な自称被害者の証言だけを根拠に特定の企業を悪徳と決め付けるのは悪徳企業撲滅のための正しいステップだ」と心底から思い、それが絶対に守るべきネットの自由だ、表現と言論の自由だ、ということなのだった。「自分が誤解をしたのは、誤解を招いた方に原因がある。私に反省すべき点はないから訂正も謝罪もしない」と同様の主張だ。
ウェディング社問題から7年経ったが、状況は少しも変わっていないように思える。相手が自分より強靭だと見るや、途端に無責任になる。集団の言論が帯びる暴力性を、自由の問題と結びつけて反省しない。法的な規制はともかく、自主的な規制にすら原理主義的に反発する。
私個人の価値観においては、教師が学生の不愉快な言動について書くのは「あり」。「現代アート」がダメなら美味しんぼコラもダメ。『刃』や『はちま』が意図的に「誤解」を拡散していると決め付ける根拠は十分でなく、批判者が挙げている程度の証拠で問題の記事群をストレートに規制するのは弊害が大きい(ので原田ウイルス事件のように著作権侵害で潰すのが穏当/権利者には「狙い打ち」が許されると思う)。
以上を踏まえて、さらにこう考える。講師が講義中の生徒の言動についてブログ等に書くことを嫌だと思う人への配慮はすべき。例えば、講義の最初に「小レポートの内容は授業中、ブログ、著書で公開される場合がある」と宣言する際、その理由をていねいに説明する。その上で、「どうしても嫌だ、という場合は、今日の小レポートの末尾に書いてください。成績には影響しません」と言い添える、など。
逆に批判する側も、「信じられない」「許せない」だけで事足れりとせず、様々な背景を持つ人が一堂に会し意見を出し合う意義、授業に参加するとはどういうことか、レポートとは何か、といったことについて、対立意見の持ち主が何をいっているかについて、同意までは求めないが、理解をしようとしてほしい。
自分は正しいので、何も譲る必要はないんだ、という発想だと、法律しか自由を縛るものがないので、「あれもこれも法で規制するしかない」という風になっていってしまう。
Togetterの方でリンクされてる資料がリンク切れで読めないのだけれど、「偏差値40以上の大学は進学した方が得」というのは、シグナリング効果(=自分の優秀さを証明することで、証明がないライバルより賃金が高くなる効果)の影響を含めての話のはず(→参考資料)。
大半の大学は、実際には就業年数が4年縮まる損と釣り合うだけの人的資本の増進を実現できていないから、企業が大学1年生を引き抜いて就職させる方が、学費も税金による補助も節約でき、当人も生涯収入が増える。*ならば高校3年生全員がセンター試験を受けて、上位1割か2割だけが進学して、他は試験結果を手にして就職活動をしたらいいんだ。進学率が下がり、国公立大学でも家計に余裕がある人には私学並みの学費を負担してもらえば、「優秀だけど貧しい人」に手厚い支援をできる。
Ex. 学費の上限=(所得ー200万円)×0.15
収容性・多様性・近接性の全てにおいて地域格差があり、問題だという。
それが「問題」だとしても、対策がない。1県1国立大学じゃ足りないってことなんだが……例えばの話、日本中の人口30万人以上の都市圏の全てに総合大学を設置するとか、現実的な話ではない。仮に設置できたとしたって、レベルの問題がある。じゃあ全都市圏に学力上・中・下の3つの総合大学を設置するの? 「ハイ、そうです」っていうのかもだけど、そんなミニミニ総合大学は、人員・設備の不足から実質的に大学たりえない。
高校までと比較して、大学は学びの形が細分化されている。だから近所に単科大学がひとつだけあっても、あまり意味がない。まず、自分が合格できないなら、存在しないのと同じ。合格できても、就職のためのステップという観点からは、自分が到達可能な最高水準でなければ、損である。そして、学びたいことと学べることがズレていたら、やっぱり面白くない(過半の高校生の「興味」なんて思い込みや印象程度のものだが)。
1980年代の資料[PDF]だが、東京都でさえ三大都市圏(ただし東京都内を除く)+隣接県への進学者が20〜40%の階級に入っている。大阪府では40〜60%にもなる。生家からの距離より、他の何かを重視して大学を選びたいということであろう。
どうしても進学率を維持したいなら、「費用対効果を考慮し放送大学を活用すべき」が私の持論。毎日キャンパスへ通う人数は現在の数分の1でよく、また家計に余裕があるなら国公立大学も私学と同等の学費を取るべきだ。そうすれば、優秀なのにお金がない人への手厚い支援が可能になる。手厚い支援が保障されていれば、能力があるのに諦める人は減ると思う。
「みんな地元で進学できたらいいよね」というのは、各地の大学を同等とみなせるという仮定の上に成り立つ話。**大学の**先生に学びたい、**研究室に入って**研究をしたい、みたいな事例は所詮、例外だと割り切っているわけだ。実際、そうなんだろう。就活時のシグナリングを重視して自分が入れる最高水準の大学を選び、学部学科へのこだわりすらない受験生が少なくない。
だが、中堅以下の大学は、「大卒」という以上のシグナルにならないのが現実。費用対効果を考えれば、放送大学に吸収する方がマシだと思う。現在の放送大学のままでは代替できないが、業務内容やスタッフを拡大してさ、全国の地方自治体と連携しつつ就職支援とかも頑張っていくなら、話は違ってくるじゃないか。
個人的には、人々が貧しい故郷を離れて、自分を最も幸福にしてくれる土地へ移動するのは断然正しいから、むしろ人口移動を促進すべきだと考えている。けれども、多くの人はそうは思っていない。図を見ると、高校卒業が人口流出の契機となっていることがわかる。一部にイレギュラーはあるが、大学進学率の高まりとともに人口の流出幅が拡大していることも見て取れる。そこで、センター試験で平均得点率が75%未満でも合格できるような大学は解散して、そのあたりにしか入れない子は放送大学で我慢させ、地元に残したらどうだ。
高卒就職者の地元志向は年々高まっていることが明らかになっている(参考資料[PDF])。進学時に地元を離れなければ、大卒者も高卒者と同様に過半の者が地元での就職を希望し、もし職が見つからなかったとしても、移動をせずに失業を選ぶのではないか。(和歌山県の場合は人口集中地域が大阪府との県境なので、気軽に越境して大阪府で就職する人が、やっぱり少なくなさそうだけど……)
現在は浮遊民と化した大卒若年層の存在と、不景気による人余りがあるから、企業側の都合で事業所の配置が決まる。しかし景気が回復した際に、海外からの労働力移入を阻止できれば、労働者の方が動かないのだから、企業は労働者のいる土地に事業所を配置する他なくなる。日本経済の効率は低下するが、それでも地方の衰退速度は緩やかになるだろう。
……とまあ、私がいくら力説しても、世の中がこういう方向に変化することはないね。自分の人生と願望を肯定したい人が多いから。そりゃあ、私の書いていることは暴論で、いろいろ粗があるのだろう。でも、難点を指摘して私の提案を否定したって、現状に問題があることに変わりはない。
私の案がバカバカしいというのは、実際そうなんだろう。それはそれでいいから、バカな意見を否定してお終いにしないで、自分なりの解決策も考えてみてくださいな。「どんな解決策も、その代償を考えると現状よりよい結果にはならないので現状維持が最善」という結論でも結構。
「ご都合主義」をめぐる見解の相違かな。だいたい現実というのはつまらない。確率の高い事象ばかりを材料にしたのでは、まず面白い話にならない。特異な価値観・能力・強運を持つキャラクターと、確率の低い事象が次々起きる歪んだ舞台を用意するのは、小説の定石じゃなかろうか。「ふつうじゃない=リアリティがない=面白くない」といったら、たいていの小説に当てはまってしまう。
もしドラに登場する、主人公にドラッカーの『マネジメント』を薦める書店員を「リアリティがない」とか「実在したらダメ店員」と批判するのは、揚げ足取りだと思う。岩崎さんの仰る通り、それがなきゃ主人公のチームが県大会を勝ち進むことはなかったわけで、結果オーライで「店員さん、ナイス判断!」と解釈するのが小説の読み方というものだろうと、私も思う。
これは映画でも何でも同じでしょ。『踊る大捜査線』の映画第2作では、指揮官が部下の自主行動に任せる判断をして結果的にうまくいくのだけれど、個々の場面では部下の自主行動に任せてうまくいくこともいかないこともあるだろうけど、総合すれば組織捜査の方が勝率がいいはず。馬鹿すぎる上司を無理やり登場させて、観客の庶民根性をくすぐって夢を見せているだけ、という批判も成り立つけど、だったら何なの。
私もいろいろケチをつけたがる方なんだけど、じゃあ自分の好きな作品に同じような欠点がないのかといえば、そんなことはない。「スルーすれば楽しめるのに、なぜか気になってしまう」ポイントが人それぞれ違うという話でしかないのだと気付いた。
「気付いた俺エライ」かよ……ってウンザリされるかもしれないけど、「自分がスルーできるこのご都合主義は、いいご都合主義。なぜなら……」と説明を試みたならば、その苦しさに愕然とされると思う。例えば、もしドラの書店員がダメで、DBで超サイヤ人がボコボコ登場するご都合主義は許せる理由なんて、きれいに説明する手があるようには思えない。
採用面接の実況ツイートの内容が批判を浴びたが、じつはそのツイートは創作だったのだという。はてブやTwitterでの反応を見ると、「ありえない」「信じられない」と公言する人が大勢いた。
疑いの気持ちを持つのは自由だが、それを公言したら名誉毀損になるかもしれない……と不安に思わないのか? 私などは、このブログで実記風の書き方で創作をたくさん書いてきたから、「作り話でした」といわれても、違和感がない。そして創作を前提としてさえ、「誤解を招き会社の名誉を毀損したのが問題」というに止まらず、「創作でも内容的にアウト」という意見まであったので頭が痛くなった。
じゃあ、趣味で残虐な殺人を描く小説を書いてる人の勤務先がわかったとして、その勤務先企業に「こんなのを書いてるヤツは人格に問題があるから解雇すべき」とかメールするのか。児童ポルノ漫画だったら、どうなんだ。公権力でなく一般市民なら圧力をかけて表現を潰していいのだとしたら、表現の自由って何なの?
とはいえ、「創作でもアウト」は今のところ少数派。だから逆に、創作だとすると既に生まれてしまった怒りの大きさと釣り合わない。やり場のない感情の処理はコストばかりかかって見返りがない。「創作ではなく事実」なら、感情をぶつける対象が復活する。その方が、都合がいい。この「都合」が、無意識を揺り動かし、自然で素朴な感情の発露として、自分に「ありえない」といわせてしまう。
証明しようのないことを証明しろと迫られて閉口した経験のある人、少なくないと思う。「悪魔の証明」という言葉を知っている人も、結構いると思う。もし今、自然な感情に従うなら、過去の自分が流した悔し涙は、今日の自分に裏切られる。気軽に「嘘だ」とか「隠蔽だ」とか公言することを、あなた方ですら自制できないなら、希望なんてどこにもない。
これまた「ありえない」という反応がいくつも出ている話題。30年以上生きてきて、この程度のことを「ありえない」と断言できる人の方が「どうかしている」と私は感じる。
「偉い人」の倫理的な指示をエヘラエヘラと聞き流して、「客先に出るものじゃなし、裏方の遊び心をどうしてわからないのかねぇ」とか嘯く人って、少数派だけど実在する。操作ミスで客先に出ないはずのものが出ちゃったから問題になったわけだけど、「きわめて低い可能性については考えない」ことはままある。
「いい加減にしろ」って怒られても、上司は怒ることしかできないと、直感的に理解している。配置換えすら難しい。代わりの人を探して、また仕事の手順を教えて……といったコストを考えたら、よほどのことがない限りは、「困った人だけど我慢する方がマシ」なことが多いからだ。
というか、人を探して教育するコストを無視できるなら、私だってもっと優秀な誰かと交換されていいはず。現在の私と同じだけの給料で、私の2倍か3倍の成果を出す人材は、日本のどこかにいるだろうと思う。いつまで経ってもそうならないのは、やはりそうした人材を見出すコストの問題を解決できないからだ。
ともあれ、人の話を疑うことと、「嘘だ」と言い放つことの間には、線を引くべきだ。名誉毀損で訴えられる可能性はまずないとしても、根拠薄弱な罵言を許容するなら、自分だってロクな根拠もなしに嘘つき呼ばわりされることになる。多様な現実を、「ふつうはこうだよね」が塗り潰していくことになる。
「ふつう」の人は、周囲を苛立たせるデメリットがお遊びにこだわりたい自分の気持ちと釣り合わないと思うから、あるいは「万が一」への不安が勝つから、もしくは「代わりなんかいくらでもいる」みたいな脅しがコストの概念を欠いていることに気付いていないから、訂正を指示されたら従うのでしょう。
でも、「自分はそうだ」から、「誰もがそうだ」と飛躍したら世界を捉え損なう。それなりの年数を生きていれば、「絶対にこうだ」と思ったことすら外れる、という経験を積み重ねているはず。そして自分の特異な体験が「ありえない」と断じられる悲しさも体感しているはず。なのに、どうして。
世界が、人間が、自分の共感できる範囲に収まる画一的で単純なものであってほしい、という願いは強く、それゆえ「見ても見えない」「聞いても聞こえない」のか?
別に自分の彼女じゃなくても、とにかく女を貶めてゲラゲラ笑うことで面子やら男同士の連帯感やらを保とうとする人って、腐るほどいますもん。実生活でも、ネット上でもね。あれって要するにミソジニーを全面に押し出したホモソーシャルなわけだけど、「『俺は男だえらいんだ』大会」と呼んだ方がよりわかりやすくて通じやすい気がします。
私は、こういうのは男女を問わないと思っていたんだけど、この記事への反応を見るに、実際には男性がやることの方が多いらしい。
父が伯父と妻の欠点を語り合う場面には出くわしたことがないが、母と伯母たちは顔を合わすといつも(父や伯父がその場にいるかどうかによらず)「夫のダメなところ披露大会」をやっていた。「テレビドラマってのはいつまで昭和をやっているんだ。平成の世のリアルを描いた方が面白いのに……」と私は思っていた。
その後、高校生になってから、他人と悪口で盛り上がりたい場合は、悪口の対象が自分の家族であっても当人のいないところでやるのが世間の常識だと私は知った。で、30歳を過ぎて、「女性はそういうことをしない」と思っている人が相当に多いことを、ようやく知った。どうも私は世間知らずで困る。
あと、やっぱりテレビドラマの脚本家というのは、私よりか世間をよく観察しているんだな。
『ユースフル労働統計 −労働統計加工指標集−2011』から面白いデータをいくつか拾っていくシリーズ。とりあえずここまで。
少子高齢化が進む一方で、定年後の労働時間がどんどん減っている。なお若い人の労働時間が減っているのは、進学率の高まりと、自営業者の減少によるもの。サラリーマンは定年後に5年くらいしか働かないので、農家や自営業者が減ると、全体として労働時間が減る。
以下は、いつもの話。みな読み飽きていると思うので、読まなくてよい。
まず景気を回復して人手不足社会を実現した上で、「身体が動く限り死ぬまで働いて税金と保険料を支払い続けるのが当たり前」な世の中を復活することができたなら、少子高齢化の悪影響は相当程度まで改善が見込める。また日本の労働者が1000万人増えるわけだから、一時的には高度経済成長すらありえない話ではない。そうすれば財政危機も一挙に改善に向かうのだが……実現可能性はゼロ近傍。
2007年頃の若者が正社員になれない程度の「人手不足」のとき、若者の正社員化と遊休高齢者の雇用という話にはならず、外国から単純労働者を受け入れようという議論が盛り上がった。私の周囲でも、それを自然な議論の流れと考える人が大多数。世論がこれじゃあ、政治家が「遊休高齢者の活用で人手不足解消」という未来はないな、と思った。
末期の自民党政権で徴兵ならぬ徴農を訴える声が出ていたが、どうしてもやりたいなら引退して家でゴロゴロしてる元気な高齢者を徴農すべき。個人的にはそう思う。基本的に、農業は高齢者でもできる仕事。
「高齢者に働いてもらおう」というと、同じ職場に居座るケースを想像する人が多いようだが、そうではない。仕事を「生涯かけて取り組むもの」と狭く捉えるのは不合理で、世の中を眺めてみれば「高齢者にお願いしたい仕事」がたくさんあることに気付く。若い人がそうした仕事に張り付いているのは、もったいない。
人には、年齢や身体の状況に応じて、その時々に向いている仕事がある。長い経験を本当に必要としている仕事は、じつはそれほど多くない。だから、老人にできる仕事は老人がやる、若い人は若い人でなきゃできない仕事をやる、という社会の方が、経済的にはよさそうだ。問題は……人の心かな。過去に縛られる心。
『ユースフル労働統計 −労働統計加工指標集−2011』から面白いデータをいくつか拾っていくシリーズ。
勤労者世帯と比較して、失業世帯がどんな支出を我慢しているかというデータ。格差が一番大きいのが教育費……というのは予想通りだけど、やっぱり悲しい。→「公立校だから学費が安い」ってのはヘンだと思う(2011-07-22)
「衣食住」の内、最も削れないのが「住」らしい。勤労者世帯より1人あたり住居費が高くなっていることにビックリするけど、失業者世帯の方が平均世帯人員数が少ないことがその理由。水回りを共有できることなどから、同居人が多い方が1人あたりの住居費は節約できるというわけ。まあ、失業者といっても、みんなずっと失業しているわけじゃないから、引っ越したりしない人が多いのだろうな。
あと、データの補足をよく見ると、失業者世帯の平均年齢は57.1歳。定年退職後に次の仕事を探している世帯が相当に多く含まれているということ。とすると、教育費が少ないのも、住居費を節約しないのも、ある程度はそういうことで説明がつくわけだ……。
これはデータの出典が違っていて、職はないが求職中ではない世帯も含んでいる。だから不労所得がある世帯とかも含んでいるので、いわゆる失業のイメージとは違うデータになってます。消費支出が勤続10年目の私よりずっと多いのも、まあそういったわけ。
しかし、どーなってるんだ、このデータは……。30代では勤労者世帯より失業世帯の方が支出が多いって、それ、どゆこと?
再び「全国消費実態調査」由来のデータ。収入の減少に合わせて消費を減らすというのは、やっぱり人間には無理なんだな。
『ユースフル労働統計 −労働統計加工指標集−2011』から面白いデータをいくつか拾っていくシリーズ。
まず、どんな人が転職しているかというデータ。イメージ通りの箇所と、ちょっと意外な箇所がある。
日本で転職して給料が増える業界って、あまりないみたいだね。若い人の転職は平均すると賃金が増えるようだけど、40歳を過ぎて早期退職した方々の再就職活動などは非常に厳しいみたい。
退職金が勤続年数に比例せず、一定の期間を越えると急増するという仕組みになっている企業が多いので、元の会社でも転職先でも基準を満たせない40代での転職が、退職金という観点からは最も不利になるのだそうな。逆にいえば、会社にとって、それくらいの年齢の社員に辞められるのがいちばん困るので、そういう仕組みにしているのだろうな……。
こんなに差があるのか。たぶん「能力と待遇が見合わないから転職する」といった人は日本ではまだ少なくて、前の会社が嫌だったとか、リストラされたとか、そうしたネガティブな事由で転職する人が多いということなんだろうな……。
『ユースフル労働統計 −労働統計加工指標集−2011』から面白いデータをいくつか拾っていくシリーズ。
バブルの頃から「経済成長はもういいじゃん」とか吹く人がとても増えたような気がする。その後の歩みを見ると、まさに有言実行。順調に「ロハス」っぽい生活へと転換中らしい。以下、いくつかポイントを拾う。
所得がみるみる減少していくのに消費の変動は緩やか。90年の時点で生活水準を固定していれば、かなりの節約生活ができたはずなんだけど。
耐久消費財の保有数量推移を見ると、「もう経済成長はいらない」の裏の本音が透けて見える感じがする。維持費のかかるものだけでも、自動車は3割増、エアコンの台数は2.4倍、パソコンは10倍、個人向け携帯電話は0から一挙に1世帯2.3台へ。世帯普及率だけ見るとよくわからないけど、じつは日本人の生活は、この20年で相当リッチになっている。
その他にも洗髪洗面化粧台、システムキッチン、ファンヒーター、衣類乾燥機は倍増したし、温水洗浄便座に至っては約10倍。そうして家庭のエネルギー消費は2000年代まで増え続けたわけだ。
『ユースフル労働統計 −労働統計加工指標集−2011』から面白いデータをいくつか拾っていくシリーズ。
高学歴化と高年齢化の進展により、80年代のドラマなどによく登場した「課長にもなれないダメな夫」は、いまや「ふつう」になりつつあるということ。人口が増加中の社会では、日本中でベテランが相対的に少なかったので、大した能のない人物でも、ペーペーよりはマシだから昇進させるしかなかった。だが今はそうした状況にないので、昇進の基準が厳しくなったわけだ。
今しばらく、親を超えられない子どもたちの時代が続き、その後はまた「蛙の子は蛙」に復していくことになるだろう。
何でもいいからとにかく課長と呼ばれてみたい人は、建設業か不動産業へ進むのがいいらしい。逆に、肩書き自慢に向かないのは運輸業や宿泊業。家族や親戚にこうした業界で働く人がいたら、昇進の話題は出さない方がよさげ。
部下の人数が多いから「偉い」というわけでもないだろうが、部長が部下全員の姓名と顔を覚えているのが当然の業界と、そうでもなさそうな業界がある、ということがわかるデータ。金融・保険業の課長と部長の格差も面白いな。
こうした資料は、取材をしないで小説を書く人には、いくらか参考になると思う。例えば、情報通信業界を舞台にした小説で、ちょっと目立つ働きをした部下に対して部長が「キミの名前は?」と問うシーンを描いてしまうと、どうにもリアリティがないわけだ。
『ユースフル労働統計 −労働統計加工指標集−2011』から面白いデータをいくつか拾っていくシリーズ。
高卒と大卒を生涯賃金で比較すれば大差ないが、それは定年が同じだからだ。時間当たり賃金を見れば、これだけの差がある。
男女の賃金格差は、労働時間だけでは説明できない。
20年かけて変化はこれっぽっち。
労働者の学歴、勤続年数、勤務先の企業規模の構成比を男女で揃えても、これほどの賃金格差がある。何なのコレ? 女性は管理職に登用されないってこと? しかし……有権者として20年間のうち11年間分は私にも責任があるわけなんだけど、一体どうしたらよかたんだろう。あと、これから何をしたらいいの?
フィクションの世界だと子どもは大人に「あんたらがこんな世の中にしたんだろ!」っていうんだけど、いちおうその大人ってやつを11年やってみて、「いや、別に俺がこういう世の中にしたわけじゃないし……」っていいたい。でも本当は責任があるわけだ。こうして自分が何もできなかった11年間というものを見せつけられて、いまどんな顔をしたらいいのかわからない。
男女の生涯賃金格差と、その格差が最近20年間ろくに縮まっていないことに絶句するが、今回の記事では、以降この問題には触れない。なお、これらはいくつかの仮定の上に成り立つ推計値なので要注意。データの作成方法などはリンク先の資料を参照のこと。
ともあれ、このデータに接して、「高校入試や大学入試以上に、就職活動も頑張るべきだな」と私は思った。「とりあえず大学へ行け」を当然視するなら、「とりあえず大企業を目指せ」をいわないのは片手落ち。
私には関係ない話だった……。おそらく世間の9割の人にとっても関係ない話だと思う。「将来有望」な人はお疲れ様。どうぞ好きなだけ悩んでいてください。
私(たち)にできることは、当たる確率の高い箱からくじを引くことだけ。「絶対に外れくじを引かない方法」は夢物語と諦めるしかない。「中学レベルの勉強なんて頑張れば誰でも100点を取れる」とか素朴に信じてる連中の言葉に騙されてバカを見るのは、もうたくさん。凡才には凡才向きの戦術がある。
会社にはシステムとしての力があって、同じ能力の人でも、優秀なシステムの中で働けば、大きなアウトプットを実現できる。優秀な機械だって、部品の大半はふつうのネジや鉄板。組織も同じ。組織の大半はふつうの人で十分なのであって、ここに「ふつうの人は勤務先次第で大いに得をできる」理由があります。
何年経っても、はてブ界隈では世間の1割未満の人に向けた記事が大人気。利用者が増えたら状況が変わるのかと思ったけど、全然変わらない。以前は、テレビが「きれいごと」を並べ立てるのは番組の製作者がエリートだからなのかと思っていた。でも実際はそうでなく、建前の物語を欲している人が世の中に多いらしい。
ただ、少し気になるのは、本音剥き出しの親に対して、子の方は本音まで建前に染まっている人が目立つこと。ずっと夢を見続けられるだけの実力があればいいけど、実際にはどれもサボる口実でしかなくて、「もっと勉強すればよかった」「ちゃんと就活に取り組めばよかった」と後悔する人が少なくなさそうに思える。
大半の就活生に向けて本当に語るべきは、「履歴書の第三者チェックと面接の練習をやろう」くらいだと思う。受験勉強と違って、なぜか就活生の大半はぶっつけ本番。だから完全に対策した者勝ち。いまは鈴木健介『就活は子どもに任せるな』など、面接の練習に付き合う大人向けの解説書も安価に売られてる。建前論は挫折したときにすがればよく、まずは本音をきちんと見据えて実利を追うべき。
いやー、驚きますよね。この2011年において、JTBに興味をもつ学生を8万人も育てる日本の大学教育の質ってどうなんですかね。もうちょっと先見性のある学生を育てた方がいいんじゃないかと思いますけど。
JTBという一企業はともかく、半世紀以内に旅行業界自体がなくなることはない。先細りであれ、存続する。だから、この先ずっと続く戦線の縮小と撤退を担う人材は、当面必要とされ続ける。誰かがやらなきゃならない仕事なんだ。「8万人も」だからこそ、JTBでいいんだよ。
これほど大学進学率が高まった今、Chikirinさんが納得するキャリアプランを立てるような学生ばかりでは困るんだ。「何となく**が好きだから」程度の理由で、あちこちの業界に飛び込んでいく学生が主流でなければ、日本は大多数の若者が泣き暮らす国になってしまう。JTBに入社してから3年後には後悔しているかもしれないが、内定が出たそのときは「やったー!」と喜ぶ、そういう学生が大多数の方が健全だよ。
Chikirinさんの記事は、世間の上位3%程度の人、公立小学校のクラスでNo.1くらいの人に向けた話で、その他の有象無象の側である私たちには関係がない。こういうのを勘違いして、何の裏付けもなしに「自分はChikirinさんの側の人間だ」とか思い込んでも、いいことない。
まず私の基本的な認識を記す。(就職活動の思い出(2011-04-13)のダイジェスト版です)
もう何度目かの就職氷河期だが、相変わらず過半の就活生は面接の練習をしていない。エントリーシートを提出する前に第三者のチェックを受けている人も僅かだ。そんな就活は、運試しと大差ない。いろいろな情報に目を通して、たくさんの企業にエントリーして、落ちまくって、お金もかかって、たいへんな苦労したつもりでいて、本当は逃げている。
リンク先の記事はどれも面白いけれど、たぶん読んでも就活は楽にならない。「わかったつもり」と「できる」の間を埋めるには、一部の才人の他は、相応の苦労を要する。単純な話、親に見せられないエントリーシートを書き、親に見せられない面接をやっている内は、就活もくじ引きも大差ない。私はその苦労を逃げ、運よく内定を得た。その後、身近な人がその苦労を乗り越えて成長する姿を目の当たりにした。彼を尊敬すると同時に、自分の就職活動がどれほどひどいものだったかを理解した。
鈴木健介『就活は子どもに任せるな』は実質的に「ふつうの就活本」なので、この本の致命的な欠陥は、売る対象を間違えているところ
だと生駒日記は書いている。
私は、この本はこのタイトルで正しいと思う。だいたい就活のために書店で本を買うのは大学の新卒くらい。高校新卒や中途採用の人で、就活中にこうした本を買って読んで勉強していたという人に出会ったことがない。大学新卒の人数は頭打ち、就活生の過半はバンザイ突撃型、そして無料のネット情報が充実してきて「書店で本を買って勉強する就活生」は希少種になりつつある……となると、就活本市場に未来はない。となれば、就活生の親御さんに本を売ろうと考えるのは当然のことだ。
就活は大学選び以上に人生への影響が大きいのに、なぜか親御さんの関心が薄い。発破をかけるばかりで、親御さん自身が勉強して詳しくなろうとはしない。でもそれは、「親御さん向け」として売られている解説書が乏しいから、という理由もあるのではないかと思っていた。高校入試や大学入試の解説書と同様に、その内容は「当人が読むものと実質的に同じ」で構わない。商品として「親御さん向け」という装いがあればいい。前書きや後書きから「人生の先輩」としてのお説教を省く、など。
ドラマとかで「お母さんには今の就職のことがわかってないんだよ」といってアドバイスを聞かない子がよく出てくる。人に聞くと、「あたしもそういった」「だって本当にわかってないんだもん」と口々にいう。そうだとして、私がよくわからないのは、そういわれて親が黙ってしまうこと。なぜ勉強しないのか。
ドラマの脚本家もいろいろ取材してそのように書いているのだろうし、実際、「昔話で説教するな」といわれたら引き下がってしまう人が多いのだろう。そうした状況を変えていくためには、やはり「親御さん向け」の就活本がもっともっと増えて、その内容が就活生当人向けと実質的に同じ内容であるという状況が、少しずつ広まっていくしかないのではないか。
親向けの情報と、当人向けの情報が違っていると、共通認識が生まれない。生駒日記は内容が同じなのが不満らしいのだけれど、同じ方がよい。
かつて高校入試の指導を少しだけやった経験からいうと、ご両親が面接について勉強熱心で、ご家庭で面接の練習を繰り返した生徒さんは、さすがに見事なものだった。まあ、親だけ熱心でも子に拒絶されてご家庭での面接練習ができないケースが多くて、まず「親子で面接の練習をできる」かどうかの親力格差がものすごいのだけれど、その解決策はわからない。
ドラマ『フリーター、家を買う。』では父子の確執を乗り越えて、父が子の履歴書のチェックと面接の練習に関わるようになったことで内定が出るようになるのだけれど、私の経験と見聞きしてきたことに照らして、「リアルだな」と思った。一人で「苦労」しても成長しない。漫然と自炊していても料理がうまくならないのと一緒。
子どもの就職は保護者にとって他人事ではない。「18歳を過ぎたら何があっても知らん顔する」というなら話は別だが、実際はそんなの無理なんだから、自分の人生を左右する大問題なんだ。とはいえ、口先だけで発破をかけ続けたら「何もわかっていないくせにグチャグチャいうな!」と喧嘩になるだけ。田中秀臣『偏差値40から良い会社に入る方法』などの良書を読んで、ちゃんと勉強して真剣に取り組むべき。
そして鈴木健介『就活は子どもに任せるな』は、面接練習で面接官役をやるのに非常に有用な本。だから売る対象は少しも間違っていないよ。
2chで「ガンダムで例えてくれ」の亜流で「DBで例えてくれ」というのがありますが、これも面白い。
**チェッカーってマネタイズの仕組みがチェッカーのページに貼った広告くらいしかなくて、さしたる実益のない趣味の領域で作られているものが多いんですけど、これはアフィリエイトの組み込みが上手い。イラストの著作権侵害を回避するアイデアなのでしょうが、膝ポンもの。Amazonの画像だけから、これだけのキャラクターをよく集めたものだなあ、というあたりも感心します。
戦闘力=購読者数×ブックマーク+購読者数+ブックマーク
それにしても、ちょっとこれは条件がウチに有利すぎるかもですね……。第1項の掛け算が凶悪で面白い。いまなら本当はTwitterでの言及数やFacebookやGoogle+での反響もデータに使いたいところですが、簡単に拾えて信頼できるデータがないのが残念なところ。
ところで、フリーザよりもっと上の方はどうなっているんだろう……。
ランキング1位は悟空!?
いろいろなブログで調べてみたのだけれど、Livedoor Readerの購読者数がぐんぐん伸びているところは見当たりませんでした。いまRSSリーダーってなかなか厳しいんだな、と思いました。
私はお気に入りの巡回には今もはてなアンテナを使っています。ブラウザ付属のRSSリーダーも数年前から少しだけ活用しており、リンクと言及の補足用に検索エンジンの検索結果を入れています。でも最近は、ブログ文化が衰退したようで、あまり機能していません。以前はブログで感想を書いてくれた人の大半が、今ははてブでコメントするか、Twitterでつぶやくだけで満足できてしまうらしい。個人的にはとても残念。
実名の人による実名晒しには批判が集中したのに、2ちゃんねるでの実名晒しは誰も批判しない。おかしいんじゃないか、という記事。
池田さんに攻撃されても天羽さんはますます意気軒昂といった様子だったが、瀬尾さんは実際に言論を封じられた。ところがネット世論は、池田叩きはやったけど、瀬尾さんの擁護はしなかった。だったら「言論の自由」とかいうな、と。そんなもの、ただの道具でしかなくて、自分が気に食わない言論が滅びるんなら胸がスーッとするんだろう。いい加減にしろ。私はそう思った。
鳥山明の画集や背景画像スレのまとめには批判的なはてブコメントが全然登場しないのに、マジコンの話題になると「これはひどい」という連中がワーッと現れるのはおかしいじゃないか、と書いた記事。この記事を書いて間もなく、2ちゃんねるのまとめサイトでこんなAAを見かけた。(これ自体はtt_clownさんの記事経由の孫引き)
で、「私が何を書いても、これ以上にわかりやすく、インパクトのあるものにはならないな」と思って、なんだか気抜けしてしまった。あちこちで何度も何度も貼られたAAなので、マジコン云々の話題に関心のある人は、既にどこかで見たことがあるだろう。でも、ネット世論は全然変わらない。こういうAAを貼って、それで「わかってますよ、いいたいことは」という顔をして、頬かむり。
最近のはてブだと、芸能人の画像スレまとめ記事とか。
そりゃもうね、いちばんひどいのは、「著作権なんか知ったことか」という人だよ。だけど主観的にはむしろ、マジコン関連の話題になると「ひどい」と声を上げるけど、画像スレ系には黙ってる人の方が気になる。「この記事を知りませんでした」「じゃあ、いま知った」「はい」「……で? なぜ怒らない」「……」
口にしていた理屈は方便で、「許せない」の本当の基準は違うところにあった。だから、「許せない」の理屈がそのまま当てはまる別の事例について、頭では「よくありませんね」と思っても、感情はそうでない。だったらその本当の理由を掲げるべきだ。たまたまその辺に転がっていた大刀を振るうのはやめろ! 見ていて腹立たしい。
でも、そうしてイライラしながら数年を過ごすうち、「自分も同じだな」と。前々から「そうじゃないか」とは思っていたのだけれど、やっと諦めがついたというか、何というか……。
**にこだわりはない。批判の対象が**だったのは偶然だ。心底、そう思っていたし、今も自分自身の心に問えば、答えは同じ。ところが、自分の行動は、その心を裏切っていた。何年か経ち、同じような場面には何度も出くわしてきたのに、結局、私は**の事例でしか、そのことについて批判する文章を書かなかった。数年ぶりにまた書きたいと思った事例は、何と**の亜種だった。そんなことが、何度もあった。
「ありのままの自分」とやらを見つめて、心が晴れたか? そんなわけあるか。ただただもう、心の底からうんざりした。
ペットボトルのキャップを4万個集めてポリオワクチン50人分になったという話題に対してはてブの反応は冷笑的で、ペットボトル飲料水を一人一本我慢して、100円寄附してたら、2650人分でした
というコメントもあった。その後、実際にそれを実践した高校があったのだが、紹介記事がはてブでスルーされているという話題。
七里ガ浜高校の生徒は「たしかに偉い」と思う。でも、私もスルーしそう。何というか、「これ、ひどいね」「ねー」というコミュニケーション欲求の方が強いんだな。「こんないいことをしている人がいたんだよ!」「へー!」というコミュニケーションもしたいのだけれど、そっちは閾値が高めに設定されてる感じ。これまでに何度も、「人のいいところはどんどん見つけて褒めていかないと!」という話に「そうですね」と頷いてきた私にして、この体たらく。
ダァメだこりゃ。あぁあ。あーあ。もう嫌だ。もーう嫌だ。
暑い。
Togetter は Twitter API の利用規約を遵守してほしい(2011-06-08)には散々追記したが、昨日の記事のついでに、さらに補足をいくつか。
kanose なんか誰も指摘してないんだけど、togetterで自分の発言削除できる機能あるよ…?
それだけでは十分でない。API経由でツイートを再配信しているサービスは無数に存在する。その全てをチェックして削除依頼を出して回るのは不可能だ。
Twitter APIの利用規約は、ユーザーの事前の許可がない限り、ユーザーが非公開にしたり削除したりしたツイートの再配信を禁じている。そのものズバリの記述はないが、諸所の文言から「当然そうだろう」と思ってTwitterのサポートに問い合わせたら、「その通りです」という趣旨の回答を得た。
ようするに、ユーザーが公開しているツイートはAPI経由で再配信できるが、ユーザーがツイートを削除や非公開としたら自動的に再配信を停止する必要がある。この規約なら、世界中の無数のサービスにツイートの再配信を許可しても、ユーザーの公開権は保護されているといえる。
atsushieno twitter APIの利用規約はtwitterとtogetterの関係であってこのブログ主のような第三者がtwitter API利用規約をたてにtogetterにサービス修正を要求することは法的にはあり得ない。
fragilelove 利用規約は提供者と利用者で結ばれる契約なので提供者が規約に沿うよう求めることはできても第三者が利用者に遵守を強制はできない。もし損害が生じたのであれば、利用者または提供者に裁判を起こすことである。
ご指摘の点は理解している。もしTogetterがTwitter APIの利用規約を守るつもりがないなら、私はTwitterに「TogetterにAPIを使わせるな」と抗議するつもりだった。
ユーザーは、Twitterがかかるコンテンツを、かかるコンテンツの使用に関する弊社規定に従って、他の媒体とサービスでのかかるコンテンツのシンジケーション、放送、配付又は公表のために、Twitterと提携する他の会社、組織又は個人に対して提供する権利がこの実施権に含まれることを承諾します。
ユーザーは、コンテンツ又は本サービスを複製し、変更し又はこれに基づいた派生作品を作成し、配付し、販売し、移転し、公表し、公演し、送信し、又は使用することを望むときは、本サービス(又はこの規約)により認められる場合を除き、Twitter APIを使用しなければなりません。
私はTwitterの利用規約を読み、Twitter API経由でツイートが再配信されることを理解した。その際、Twitter APIの利用規約を読み、「このようなルールでAPIが提供されているなら安心だ」と判断してTwitterを利用することにしたのだ。
ところが現実には、Togetterをはじめとして、Twitter APIが認めていないはずの「ツイートの無断転載」をやっているサービスが、堂々とTwitter APIを利用しているのだった。
ユーザーが公開中のツイートがAPI経由で再配信されることは、Twitterの利用規約に同意した全ユーザーが了解している。だが、ユーザーが削除したり非公開にしたりしたツイートは、「ユーザーの事前の許可」なくして再配信できない。もしユーザーの許可を得ることなく削除済みツイートを公開し続ければ、それは「無断転載」である。
「無断転載」をやっているサービスはいくつもあるが、Togetterは国内最大級のTwitter API利用サービスだ。これほどの大物がTwitter APIの利用規約を守っておらず、それに対しTwitterが何もしないならば、Twitter APIの利用規約など空文といってよいだろう。これはユーザーに対する背信である。表向き「このようなルールでAPIを提供しているので安心ですよ」と装いながら、実際にはユーザーの公開権を踏みにじる悪辣なサービスにもAPIを開放し続けるなど、到底認められるものではない。
しかしトゥギャッター社は、私の問い合わせに対して「今すぐは無理だが、いずれはTwitter APIの利用規約を完全に遵守すべく、努力している」という趣旨の回答をくださった。現状はともかく、TogetterはTwitter APIの利用規約を尊重しているようだ。そこで私は矛を収め、しばらく状況を見守ることにした。
私はこう判断したわけだが、「現時点で利用規約を守っていないTogetterにはAPIを使わせるな!」という人も、世の中には存在すると思う。
choplin そもそも件のtweetが著作権で保護される対象となるのかどうか不明。著作権を持ち出すならまずそこに触れるべきでは。
だから私はTwitter APIの利用規約違反を武器とした。とはいえ、Togetterにまとめられたツイートの多くは、著作権が認められるに十分だ。それらはAPI経由の場合のみ、事前に再配信の同意が得られている。APIを利用できなくなれば、公開中のツイートの再配信も基本的に無断転載となり、Togetterはほぼ死ぬ。
PoohKid 引用ってなんだろね?API使わず手動なら利用規約関係ない?
引用の要件を満たす記事を作るのにTwitter APIは不要。Twitter社の規約では、正当な引用を阻止できない。TogetterがAPIを必要とするのは、Togetterの記事の大半が「第三者による転載」だから。
yadokari23 正論とは思うけど私はこれらのサービスがこんなことでなくなってほしくないのでただちに削除を反映させなければならないというならAPI利用規約をかえるか仕様をかえてほしい。
かえてほしい
と要望するのはユーザーの自由。ただしTwitterに要望に応じる義務はない。
仮に、Twitterが「第三者によるログ取り」を実質的に否定し、「ツイートが流れていくからこそ気楽に発言できる」環境を作ろうとしているとしよう。このとき反対者が最も注力すべきは、Twitterを批判して考えを改めさせることではなく、ログ取り歓迎のサービスを作ったり支援したりすることだと思う。私企業の活動領域では、最小限のルールの下で個性的なサービスが自由に競い合い、勝敗は市場で決するのが自由世界の正道だ。Twitterが「第三者によるログ取り」を許容するかどうかくらい、運営会社が自由に決められる方がいい。
yadokari23さんのように要望を発するのはよいことだが、「ログ取りNGは間違い」と決め付けて一方的にルールを破るのはやめてほしい。ひとつの正義で塗り潰された世界はつまらないと思う。
Togetter は Twitter API の利用規約を遵守してほしい(2011-06-08)に書いたような観点からいくつか。
公式RTは(見た目はともかく)テキストの内容については同一性が保持されるし、ユーザーの意思で削除や非公開にすることが可能。Twitterは規約においてユーザーの権利を尊重することを謳っている。公式RTは、その点、十分に配慮されていると思う。
やっぱり、誰のどんな発言への反応なのか、パッと見てわかる形で示したい。新Twitterでは、返信機能を使ってレスした場合、ボタンをクリックすればツイートのつながりが見えるようになっている。でも、そのひと手間が嫌なんだ。どうせ10人中9人は、そんなボタンをクリックしないじゃないか。
うまいインターフェースは思い浮かばないが、人様のツイートの一部または全部を転載しつつ、自分のツイートと関連付けてひとまとまりで表示する機能は、可能なら実現してほしい。もちろん、転載元発言者の公開権は尊重して、原本が削除されたら、転載部分も削除されるということでよい。
これを仮に「参照RT」と呼ぶことにする。「参照RT」なら、非公式RTのような、字数の都合で後半を省略され非常に誤解されやすい文章になってしまうとか、文末をちょっといじられて文意が変わってしまうといった問題が起きにくくなる。
(注:QTの場合、引用の要件を満たせば無断で引用していい)
ボタンひとつ追加するだけでどうにかできるなら、割と使いやすいのでは? と思ったのだけど、どうだろう。
んー、でも複数のツイートを一まとめに表示するのって、API経由でツイートを再利用するサービスでの扱いがネックになるから、やっぱり無理なんだろか。
あと、嫌なツイートにレスするとき、非公式RTにして名前を**とかで置き換える、なんてことをしている人もいたりするし、非公式RTの全ての需要を満たしつつ公式RTと同水準でユーザーの権利を守る代替案は……難しいな。思いつかない。
「数が増えると対処できなくなる」のは、非公式RTも同じだ。例えば非公式RTで文意が変わるような改変をされたとき、相手が数人なら抗議して訂正を求めることもできる。だが、30人、50人となったら、もう無理だ。「著作権の侵害」をTwitterサポートに通報して、議論抜きで一方的に叩き潰すしかない。問題を「権利の話」に落とし込む理路がないと、そういう解決策が取れず、泣き寝入りを余儀なくされる。
「誰でも非公式RTしていいよ」といっていると、「勝手に非公式RTするな」とはいえなくなってしまい、「文章の改変や、後半部を省略する区切りの位置が、誤解を招くようなひどいものか、許容範囲内か」という議論をすることになる。この手の議論は、つらい。
6月30日に3つのサービスが終了した話。
『COOL ONLINE』は6月30日で無料サービスを終了した。2012年5月21日には、有料サービスも終了するとのこと。
『isweb』が消えた後なので、あまり話題になっていなかったように思うが、私もアカウントをもっていたサービスだ。寂しい。『tripod』はとっくの昔に消えたし、残る大物は何といっても『geocities』。最後の牙城として頑張ってほしいが、アメリカでは2009年に消えた。『fc2web』も、あと何年続くのか。
『Tok2.com』は続いてた。記憶とはかなり印象が違う……。運営会社、変わった? ……調べてみたら、2004年に営業譲渡されたインビジブルハンド社が、現在のパラダイムシフト社なんですね。7年で資本金が2倍超に増えてるから、総合的に成功している会社なんだろうな。
トクトクを手放した田部真行さんが現在展開しているサービスが『AXXISS』。初めて知った。とりあえず会員登録してみた。説明を読んでみたけど、どう使ったら便利なのか、まだピンときてない。
『さるさる日記』も6月30日にサービスを終了した。私がアカウントを作ったことのあるサービスが消えるのって、これでいくつ目だろう。
『エンピツ』『マイぷれす』『DiaryNote』はまだ続いているが、これもユーザーの寿命より先にサービスが終ってしまいそう。さるさる日記はデータのエクスポートができたからまだいい……と書いてはみたが、検索エンジンのキャッシュから移転先を探した感じ、人気のあった日記もほとんど過去ログが消えたようだった。「書いたら満足」な日記の書き手が多いのか。あるいは、公開してもどうせ読む人がいないと思って、ローカルに保存して再公開しないだけなのか。
あっ、『ナスカ』は健在なんだ。記憶にあるサービスが、全部残ってる。6年前に旧友が放置した日記がまだ閲覧できる! 嬉しいなぁ。『利用者の喜びの声』に3年間も新規投稿がなくて、近年はスパムしかないのは悲しすぎるけど……。以前に見たとき運営会社は正社員2名体制だったけれども、今はどうなんだろう。日記サービスの利用状況などを見るに、人が食べていけそうな感じではない。社長の使命感・責任感でサービスが継続されている、といった状況なのだろうか。
ところで『万人日記』が終ったのは2008年のこと。じつは3年経った今も過去ログが公開され続けている。珍しい。できれば10年、20年と公開を続けてほしいが、なかなかそれは難しいだろうな。
昔、知人が『CGIBOY』の無料レンタル日記を使っていた。今はサービスを終了して過去ログも消えている。プロバイダのオマケスペースに開設していたウェブサイトだけ残っていて、リンク切れが空しい。10年以上、没交渉だが……って、10年以上ずっとプロバイダを変えたりしていないわけか。ちょっと面白いな。実家のADSLなんかが、そのままになっているのだろうけど……。
おっ、『せっかくネット』も生存してた。mixiへ本拠地を移した顔見知りのサイトの掲示板がせっかくネットのものなんだけど、年に数回しか投稿がないのにサービスを維持してくれてる。嬉しい。
この知人は学生時代からBIGLOBEのオマケを使っている。仕事の都合とかで何度も引っ越しているのにプロバイダを変えていないのが不思議。BIGLOBEのオマケスペースは会員の回線からしか更新できないのが不便……って、4年も放置されているのか。実家の回線なんだな、きっと。里帰りしないと更新できないぞ、という。
『OTD掲示板』も6月30日に終了していた。スキンが使える、いい掲示板だったんだけど。
『いるかねっと』へ行ってみたら、2010年に無料レンタルBBSが終了してた。有料版は継続中だそう。サービス開始当初は運営者が非常に若かった記憶があるのだけれど、もう20代後半だよね。
『teacup.掲示板』『したらば掲示板』『EZBBS』は、まだ続いてる。
『ACR WEB』は近年でもアクセスランキングCGIを貼ってるブログをよく見かける。莫大なアクセスに耐えられるらしく、見事な生き残り成功組に見える。さっき確認したら、地味にレンタル掲示板も続けていた。
『ロケットBBS』も営業を継続していた。せっかくだから掲示板を復活させてみた。取ってないログもあったし……。でも、とくに使い道がない。どうしようかな、これ。アドバイス依頼の受付を終了した後に投稿された依頼は放置していたんだけど、意外にもみなさん、移転しつつもサイトの運営を継続されていて、ホロリときた。いや、私は何もしてないんだけどね……。
過去の言動を振り返るに、自説に沿った提案が実施された結果がサッパリでも、どこかにケチをつけて「だから結果がイマイチなのだ」というのが私の常だった。半分くらいなら説得力もあるが、9割方そういうことをいってきたので、私は責任逃れ体質なのだと思う。
私は毎回、大真面目に話しているのだけれど、「全体として失敗した」事例の9割が、「瑣末な問題の積み重ねで失敗したのであって根本は間違っていない」なんて考えにくいだろう。言い訳の自覚がなく、本気でそう考えているのが、むしろ問題なんだ。
もっとも、状況の変化に応じて、あるタイミングで敗者復活戦が行われ、いったん負けた路線が成功軌道に乗る場合がある。そのとき、以前の成功パターンに慣れた人は路線転換に苦労して置いていかれがち。人類に「持論に固執する」性質があるのは、社会の多様性を保ち、状況の変化に対応するための仕組みなのかもしれない。人の頭が固いのは改善不可能だから、頑固さが多様性・柔軟さを実現するように進化した……。
全てのことにこだわりを持つ人はいない。たいていのことは周囲に流される。だからたいていの事柄について、自分の意見を持った頑固な少数派と、その時々に(主観的に)結果のよい方を選ぶ節操のない多数派から社会は成り立っている。このバランスが、頑固さと多様性・柔軟性を結ぶ鍵なのだろう。
ただし、これは他の頑固者を許容するための考え方であって、私個人の生き方の指針ではない。
デフレに陥った後に残された政策方針は、伝統的な政策手段が効果を失うなら、困難は多いがデフレを「優等生的に止める」、つまりマイナス1〜2%の物価上昇率の状態から、(一度もプラス4%以上の物価上昇率にしないようにして)プラス2〜3%の物価上昇率の状態に、1〜2年間でソフトランディングする政策に挑戦するか、一時的に高率のインフレになることを甘受してでもデフレの状態を直ちに止める政策を講じた後に、高率のインフレを収束させる政策を講じるかの、(極言すれば)どちらか究極の選択を迫られているのだと思います。
少し補足すると、ソフトランディングを目指す場合、いつまでもランディングできない=デフレが続く可能性がある。だから究極の選択
になる。デフレの害をどの程度と見積もるかによって、取れるリスクが変わってくる。これまで日銀はソフトランディング路線を選択してきた。「日銀はデフレに苦しむ人々に冷たい」と批判されてきた所以だ。
リフレ政策支持といっても、マイルドな方は「ソフト路線の枠内でもっと果敢に攻めろ」という主張で、必ずしもリフレ=ハードランディングではない。これまで十分な結果を出せていないソフト路線だけど、ゼロ金利解除の条件などに工夫の余地が残されているので、ソフト路線の中でやれることは、まだまだあるようだ。過去の実績だけ見て、切り捨てられるわけじゃない。
私自身はデフレにうんざりしていて、ハードランディングを希求している。「政府貨幣を発行して、デフレが解消されるまで、毎月5〜10兆円ずつ市中国債を買って償還していく」とか。それはそれでよいとしても、結果に責任は取れない……のはともかく、世の中がどうなってもハードランディングを支持したことを反省しない未来の自分の姿が見えるので、もやもやする。
いや、実際に「やり方の問題」で、デフレ脱却の強行策を採ったこと自体が否定されるべきではないのかもしれない。だから、そういう批判を一律に「後付の言い逃れだろ」といって聞く耳を持たないことが正しいとは思わない。ただ、私のいうことはマトモに取り合わなくていいよ。
以前も書いたけど、選挙権を得て以降の政治関連の話題で、私が支持して後悔したことの筆頭はイラク戦争。結局、大量破壊兵器も、テロ支援の証拠もなかった。悪い独裁政権が倒れてよかったね、という話には乗れず、どうして査察の結果を待てなかったのかな、と。怖い怖いと思って、幻を撃った結果が大勢の死。
何も、言い訳が思い浮かばなかった。1割くらいは、そういうこともある。
日本で続くデフレについて、より強力な金融緩和策に踏み出すべきか否か、という議論が何年も続いている。私は数年前から、一有権者として、より強力な金融緩和策の実施を支持する立場だ。いわゆるリフレ政策に賛成している。
abz2010さんはイギリス在住だ。そのイギリスでは、2008年秋に顕在化した金融危機に対応した金融緩和の結果、高めの物価上昇率が続いている。abz2010さんは現地の生活実感を踏まえつつ、「日本もイギリスやアメリカと同様に強力な金融緩和をすべき」といった意見に、疑問を呈されている。
筆者はリフレ政策をめぐる議論は基本的にはある種のトレードオフの問題と思ってきたし、だからこそこういう微妙なトレードオフの問題で、なぜ日銀やリフレ懐疑派が間違っていると簡単に断定できるのか不思議に思ってきたが、リスクがこんなに少ないと思っているならトレードオフの問題ではなく、「素人が見てもわかるリスクよりリターンが圧倒的に高い施策をなぜ日銀はやらないのか? きっと陰謀でもあるに違いない!」という問題となるのは当然かもしれない。
果敢な(?)金融緩和をすれば最終的には一般物価はあがるだろうし、それがイコール経済成長ならこんなに簡単な経済成長策はない。 そしてリフレ政策の副作用として心配されているバブルは金融緩和が原因ではないかもしれないらしいし、そうであったとしても金融政策以外でコントロール可能であり、又、もし間違ってリフレ政策で金利が上がっても、財政への負担増は心配する必要は無いのである。
もしこれらが全て事実と信じられるのであれば筆者も断然リフレ政策を支持する所であるが、残念ながら筆者はリフレ政策を今も支持していないし、当面支持する予定も無い。
諸外国のリフレ政策が目覚しい成果を挙げてはいるとは、とてもいえない。単純比較はできないとはいえ、失業率の推移など、日本の方がマシなように見える指標もある。英米の景気は十分に回復しているとはいえないが、「金融緩和の行き過ぎ」を批判する意見が次第に強まり、中央銀行の政策会議メンバーの中でも、金融緩和の程度を絞っていくべきと主張する人が増えてきている。
それでも、「日本のようなデフレすら許容できる」とまではいっていないと思う。実質で経済成長しても、名目値がマイナスでは楽しくない。消費に弾みがつかない。税収も低迷する。そうして借金が積み上がり、これまた将来不安の種になる。様々な社会制度の調整をするにも、緩やかなインフレの中で、上昇率に差をつける形で行う方が、デフレの中で切り下げ合戦をするより心理的抵抗が少ない。デフレはよろしくない。
とはいえ新聞の経済面や国際面で海外の経済学者や中央銀行の方々の発言(の要旨?)を読む限り、以前にも書いた通り、「緩やかなインフレ率の実現自体が景気回復をもたらす」という主張は見掛けない。「金融危機後の大胆な金融緩和によりデフレを回避し、一定の物価上昇率を実現した。相変わらず景気は不調だが、金融政策の仕事は好景気の条件(の一部)を整えること。それ以上を望まれても困る」というあたりがコンセンサスなのかな、と感じる。
かつて私は、リフレ政策を説く本から「供給制約は部分的、全体としては需要不足による不景気ならば、もっと金融緩和すべき」というシンプルな政策論理を感得したのだけれど、誤読だったんだろうな、と今は思っている。「経済」はさておき、「経済学」の初歩くらいは理解できるようになりたいのだけれど。わかったようでわからない……。
いわゆるリフレ政策で実質賃金が下がるのは、短期的には本来の政策効果。実質賃金が下がるからこそ雇用の喪失を食い止められる。狭く深い痛みを減らし、広く浅い痛みを増やすのがリフレ政策だと思う。
ただ……韓国は失業率が低めなんだけれども、イギリスはそうじゃない。実質賃金が下がって雇用も回復しないのでは、何のための我慢だかわからない。「いや、デフレになっていたら大恐慌なみの失業率になっていたんだ」という可能性もあるけど、可能性の指摘だけでは納得できない。
小学校の校長先生は「スピーカーに注目!」という言葉を好んで用いていた。話し手に注目せよ、という意味である。もともとは県立高校の校長先生だったので、「スピーカー」といって話が通じると考えていたのだろう。だが小学生はみな演台の左右にあるスピーカーシステムの方を向いてしまい、校長先生はさらにヒートアップして「スピーカーに注目!」と声を張り上げるのだった。
あとで担任の先生から「校長先生のいうスピーカーとは、話している人という意味の英語です」と説明があったが、「では機械のスピーカーとはどう区別するのですか?」「校長先生が、機械のスピーカーに注目してほしい場合は、いったい何というのですか?」と質問が出た。担任の先生がどう答えたのかは覚えていない。
ともかく私たちは「スピーカー」に複数の意味があることは理解した。だが、その後も「スピーカーに注目!」といわれると、少なからぬ児童が、まずスピーカーシステムに注目し、それから校長先生の方へと向きを変えるということを繰り返した。私もその一人だった。他の人はどうだか知らないが、私は別にふざけていたわけではない。「頭でどうにか理解した」だけでは、身に付いた知識とはいえないことを体感した。
最初からギャラリーの支持獲得合戦においては「負ける」つもりでやる議論というのもある。「こちらの主張をきちんと理解だけしてもらえたら満足」というケースだ。自分と異なる価値観に基づく主張に同意はできないが、理解はできるはず。
しかし少なからぬ人々は、理解と同意が癒着していて、同意できない主張を理解できない。だからそうした人々を相手に「同意されないことはわかっているが、どうか私の主張を正しく理解して、その上で不同意といってほしい」といっても、全く話が通じない。それでも、自分の主張を、より理解されやすい形で書き残しておくことは有意義だと思う。
自分と価値観の違う方々は、こちらの主張をとんでもなく誤解してくださることが多い。しかし、それらの誤解の多くは、たしかに自分の言葉の一部が発端になっている。言葉の定義の問題だったり、多くの人がその言葉から連想する内容が、私の伝えたいこととズレていたり。そこからスタートして、最後には私が考えたこともなかったようなことを、私の文章の真意として読み取って、非難なさるわけだ。
人は自分の第一印象を守ろうとするので、最初に「これはひどい」と感じると、あれもこれも悪い方に解釈しようとする。やられた方は不愉快だし、こういう状態の人には何をいっても伝わらないことが多い。それでも、何とか理解をしてほしいという気持ちの高まりを、何らかの成果に結びつけることは有意義だと思う。
ふだんは気楽に書き飛ばしているのだけれど、誤解を解きたいと願う状況では、自分なりに知恵を絞ることになる。知恵を絞っても、たいしたものは出てこないが、それが実力なのであって、「こんなものか……」と自己認識も深まる。ともかく、ベストを尽くすに越したことはない。叩きの流れのできた場ではどうにもならなくとも、落ち着いてから別の場で苦闘の成果を出してみたら、かつての苦労が嘘のようにすんなりと大勢に理解されて「報われた」と感じたことがある。
とはいえ、理解と同意を分離できない人への応答は非常に消耗する。基本的には、割に合わない。黙っているのはストレスが溜まるが、それでも応答するよりはマシ。上に書いたことは、じつのところ、相手を見誤って始めた議論を打ち切る際に、「無意味ではなかったよな」と自分を慰めるための言葉だったりする。
あらためて注記するが、自分の意見をのっけからひどく「誤解」してくださる方々は、たいてい自分と価値観を異にしている。だから、誤解を解いた先にも同意は得られない。
俺は主張やそれに関する議論というのものは、ソースのないものが本物だとずっと思っている。「ソースは俺」としか言えないものこそが、まさに俺の主張であり、自分が主張する価値のある主張だ。ソースにこだわる議論というのは、主張ではなく、単に知識の量を競っているだけなのだ。
「主張」というから首を傾げるので、「価値観」や「考え方」といってくれたらすんなり受け入れられる。あるいは、単にカッコ書きにしてくれるだけでもいい。
以下、関係あるような、ないような話。
たいていの主張は、何らかの世界認識と価値判断から成り立っている。
対立する意見を押しのけて自分の意見を通したい場合の戦術として、自説のよさを訴える方法と、対立する意見を潰す方法がある。合わせ技で、自説が対立説より優れていることを示す、というものもある。
以下、対立説を潰すケースについて考える。
対立説を論破したい場合、世界認識の誤りを突く方法と、価値判断を批判する方法がある。
ギャラリーの支持を得ることにメリットがあって、自分の価値観がギャラリーの多数派の価値観に近いという自信があるなら、対立説を形成する価値判断を批判する戦術を取ってもいい。
でも安全策は、世界認識の誤りを突く戦術だ。価値観はしばしば「色眼鏡」と形容されるように、じつは価値観が違えば世界の見え方が変わってくる。価値観が事実を歪めてしまうことは非常に多く、みな多かれ少なかれ自分の議論に都合がいいように世界認識が歪んでいる。だから、注意深く観察すれば、対立説を形成する世界認識に瑕疵を発見できることが多い。
当然、自分の世界認識にも歪みはあるので、手強い相手なら、必ずそこを突いてくる。ギャラリーの支持獲得合戦においては、自分の誤りはケアレスミスと印象付けてサッサと修正してしまい、相手の誤りは主張を揺るがす本質的なものだと訴えていくのが、基本的な戦い方になる。
世界認識を完全に共有できたとしても結論に差異は生じるので、自説と対立説との本質的な対立点は価値観の違いにある。だが、双方の価値観がいずれも「常識」の範囲内にある場合、ギャラリーは価値観の差異をていねいに検討することを厭い、「世界認識に誤りの少ない側の主張が正しい」と結論付けようとする。
そんな状況で価値観の話を長々とやると、薮蛇になる。誰の主張にも少しずつ「常識はずれ」の部分がある。自分の価値観を明晰に語らず、相手の価値観の「常識はずれ」な部分を強調して批判するのが、ズルいけど有効な戦術になる。
……と書いてはみたけど、私がこうしたことを実践している(or実践できている)かというと、そんなことはない。
価値観の異なる相手を、議論を通じて説得するなど、まず不可能だ。議論には、それでもなお相互理解の促進という目的が残る。だが「価値観のズレを双方が強く認識したことが、その後の人間関係の妨げになる」ことも少なくない。こうしたトラブルは、周囲の人々にとっても迷惑だ。
だから多くの人は、議論をしない。議論したがる人にも、いい顔をしない。私なども、気に食わない意見を見聞きしたら、話題を変えてやり過ごすのが習い性になっている。
もちろん職場では議論に参加する。仕事では、組織として何らかの結論を出す必要がある。誰かの判断に任せるか、自分も議論に参加するかの選択なら、議論を希望する人が少なくない。また仕事の話題に関しては、価値観のズレが小さく、争点は世界認識に集中するから、議論を通じた説得・納得が実現しやすい。
ネットなどでの議論は、意義がよくわからない。他者への理解を深めたいなら、ていねいに質疑応答を重ねる方がよい。やはり自分の主張も理解されたい、ということか。でも相手は自分に興味がない。だから、相手を焚きつけて自分を無視させまいとする……これなら納得はできるが……。
あるいは、ある種の「場」には議論の見物を好む人々が集まっていて、彼らの支持を集めることができたら「勝ち」というか、「胸がスーッとする」みたいな感覚がある。これも議論の動機付けになる。
ただ、本当にギャラリーの支持獲得合戦をやりたいなら、議論を志向するより、言いっ放しの方が高効率。議論を続けても価値観の溝は埋まらず、説得も論破もできない。大団円がないので、ギャラリーは飽きてしまう。議論自体が注目を集めることは滅多になく、意見の応酬にメリットは乏しい。
メカAGさんが「主張」といっているのは、価値判断の部分だろう。「議論=価値観の交歓」などと定義すれば、たしかに世間の議論の大半は「議論ではない」。ただ、メカAGさんの記事からは、特殊な言葉の定義をした意味が見出せない。文意が読み取りにくくなっただけで、メリットがないと思う。
議論の多くは、もっと具体的な話題を取り扱っており、各スピーカーの主張は、世界認識と価値判断からなっている。この場合、世界認識に誤りがあれば、価値判断とは関係なく、その主張は否定されることになる。「情報源は?」という問いは、世界認識の怪しさを突くことで、主張を叩く戦法だ。
私も、議論が世界認識のすりあわせに終始し、とうとう何も話が進展しないまま物別れになることにイラ立つことはある。だが価値観対立を前面に出しても、有意義な議論にはなりそうにない。
価値観の優劣を判断する基準は、ないに等しい。ギャラリーの多数決によって「場」における社会的な正誤が決まるのがせいぜいだ。ギャラリーがいなければ、それすらない。となると、議論も言いっ放しも大差ない。言葉を尽くしても、お互いに持論を譲る理由は何もない。だから何の結論も出ない。
日常生活では基本的に「議論しない」ことにしているが、5年前に書いた通り、ウェブでの「議論」にも疲れた。自分は説得されないし、自分が他人を説得することもできない。同意は求めないが、誤解・曲解くらいは何とかしたい。だが、それもできない。
人に理解されたいと思うから泥沼になる。伝わる人には1回で伝わる。1回で伝わらなかった相手のことは気にしない方がいい。相互理解は諦めて、自分が一方的に相手の意見を理解して満足するなら、面倒に巻き込まれずに済む。他者の主張を理解できた気になるコツは結論オリエンテッドな議論(2006-12-12)に書いた。
そんなわけで、「異論・反論への応答は1回まで」と決めて久しい。年に数件の例外はあるが、近年はだいたいそういう風にしてきた。それでも誤解・曲解はムカつくし、ひどいのになると私が全く書いてないことを「書いている」と公言するウソつきもいて、プッツンくる。精神衛生上、(状況は変わらないとしても)怒りを表現する方がいいのかもしれない。
新人はこういうところが苦手だから……みたいな話ばっかり。「万年ヒラ社員街道をトボトボ歩き続けてるような先輩が、いくらかでも後輩の役に立つための講座」みたいな記事がほとんどない。
何ていうの、「引き上げる」話ばっかりで、「歩み寄る」という発想が乏しい。いや、リンクした3つの記事は、まだしもギャップを理解して新人指導のポイントを見出そうとしているのだから、これすら批判の対象としてしまったら、ほめる記事がなくなってしまう。だから褒めなきゃいかんと思うのだけれど……。
このあたりの記事に書いたようなことって、かつて無能ゆえに苦しんだ記憶と、いまも自分は無能同然だという認識があれば、すんなり納得できる話だと思う。たぶん、日本中の組織で、そっと実行されている方法でもあると思う。
それなのに、キラキラした言説が飛び交うウェブ論壇(?)では、トンとお目にかからない。「有能な先輩方に貴重な時間を割いてご説明いただくのだから、新人は同じ質問を二度せずにすむようしっかりメモを取らねばならぬ」みたいな話ばっかり。そんな偉そうにしないで、お互いに歩み寄ったらみんなもっと幸せになれる、という発想がないのはどうしてだろう。
私の先輩方は有能で、それゆえ私の出来が悪いことをを見抜いて、ダメ新人をうまく扱う方法を常識にとらわれずに考え抜いた。その成果は応用範囲が広く、私のような有能ならざる社員が後輩を指導する側に回った場合にも有効なのだった。例えば、質問しづらいオーラをまとった人(=私)でも、簡単な指導法のアイデアを実践すれば、最低限の指導が可能になる。
メモを作って回答することも、私のオリジナルではない。かつてとある先輩が、私の飲み込みがあまりに悪いので、パパッとメモを作って「これを見て半日頑張ってみろ」といってくれた事例にヒントを得たものだ。逆の状況……つまり、聞く側は優秀だが、説明する側が無能な場合にも、メモを作って回答するアイデアは大いに役立つのだった。
かつて無能な新人だった方々のうち2割か3割くらいは、いまもそれほど有能ではないだろうと思う。それでも、先輩になってしまった。で、あるならば、自分は有能ではないという前提に立って、指導法を模索すべきだと思う。そのとき参考になるのは、「貴重な時間を割いて無能な後輩の面倒を見る」道を選択した、有能な先輩方の「歩み寄りの工夫」だ。
さして有能でもない先輩が、「お前ら新人のために俺の貴重な時間を無駄にさせるなよ」という態度を取るのは、失笑モノだろう。どうせ自分の仕事はロクに進まないんだ。自分より優秀な後輩をきちんと育てることの方が、長い目で見ればよほど生産的だろうと思う。
納本制度に罰則がないのは、個人的にはよいことだと思う。でも納入率が金銭で改善できるなら、もうちょっとだけ税金を投入しても……。まあ、世の中あちこちにこうした問題があって、「もうちょっと」の積み重ねで財政が大赤字になっているのだが。
でも、諦めきれないな。納本制度の対象となっている出版物は年間10万点程度といわれているから、2〜5億円程度の予算があれば、全部定価で買えるんじゃないの? 納本という仕組みだから、何十万部も売れた本が入っていなかったりするので、買えるものは全部買うという仕組みに切り替えてもいいんじゃないかと。
2〜5億円というのは、人口数万人の都市で図書館の本館を建て替えるのにかかるくらいの金額。市町村の合併が進めば公民館に間借りした分館で置き換えることができる。それくらいの予算規模なんだよね……。大きな街と合併したくない町村が半ば意地で町外れに運動公園を整備するのに要したお金なんてのも、私は無駄だと思うわけだけど、その無駄金があれば2〜3年分くらいになる。
日本全国で小さな地方自治体がよそと張り合うために無駄遣いしている金額を見ると、そっちを合理化してここにお金を回すことができたらいいのに、と思うことがよくある。まあでも、それは、私から見て「無駄」なだけで、自治体の独立や面子を守りたい人々にとっては無駄じゃないんでしょう。個人的にはね、図書館くらい、近隣の自治体と完全にシステムを一体化しちゃえばいいのにと思うのだけれど。県内での図書融通も便利になりつつあるけど、よそから借りた本は返却ポストで返せないのが地味に不便だし……。
ちなみに国立国会図書館関西館の建設費は計画段階で363億円だった。建物にそれだけの金額を投入できるなら、図書を買うことにも予算を割いたって……。ま、そういう議論に賛成する人が少ないのだろう。かくいう私も、他の問題なら「罰則で何とかできないの?」という側に与しそう。思い入れの問題だよな……。
以下、最初はリンク先の話題について書いているのだけれども、だんだん関係ないところへズレていきますので悪しからず。
別に、有村さんが金持ちだろうと何だろうと、寄付を募るのは自由。日本人が日本人に対して優先的に所得を再分配する政策を支持しているように、「もっとお金に困っている誰か」より有村さんへの支援を優先する人がいてもいい。
私自身は、日本人への「えこひいき」を批判し、世界中のもっと貧しい人々への支援を訴える側に共感する部分が大きい。でも、多数派が、多数派の価値観を無条件に善悪の判断基準として少数派を排撃することへの憤りはもっと大きくて、自由と多様性が支持される社会であることが最重要。
無論、批判するのだって自由だ。しかし自由と多様性を認めるという前提は譲れない。たとえば「炎上」というのは、多数派の言葉の暴力で少数派を黙らせようとする営みであり、不自由と画一性の論理が底流にある。自由と多様性を基盤とする議論は、究極的には双方の立場を認めるものだと思う。
私もたびたび「絶対に許せない」などと書いてきたから、上記を読んで首を傾げる方も多そう。「絶対に許せない」とは「私は許さない」という意味で、説得の域を超えた主張撤回の強要にまで賛成するという意味ではない。権力の行使どころか、炎上すら不当と考えている。でも、伝わらない。誤解を招く表現だとは思う。
7月22日に起きた、計77人が亡くなった事件。おそらくノルウェーは、それでも死刑を復活させたりはしないだろう。一時的に世論は揺れるだろうが、最高刑の引き上げにも慎重な姿勢を保つと思う。事件を起こしそうな人物を予防的に逮捕するようなこともしないだろう。というか、そうであってほしい。
手記の書き手に同調する人が、書き手のいうほど多数派かどうかは疑問だ。でも、事件の衝撃が冷めやらぬ現時点においても、日本よりは、こういうことをいう人が多いのは確かだろうと思う。
北沢義博弁護士の話が面白かった。裁判では、立法者の意思は重視されず、裁判官が法律の文章から素直に読み取った解釈が、判決における解釈になる、という。なるほど、そうでなければ法律が違憲だとかいう裁判は成立しないわけで、いわれてみれば当然か。
弁:立法者が全部決めたら裁判官要らないじゃないですか。(中略)立法者がこう言ったからそれでもう決まりでというのは、リスクを忘れてると思いますね。(中略)
私:私は、この法案で何も問題ない、皆、気をつけることなど何もありません、てことが言いたいんですよ。それが確認されたと言いたいんです。だけども、北沢先生おっしゃることは、ようするに、この法案はやっぱり欠陥がある法律で、通すべきではなかったということを
弁:法律というのはすべてそういうリスクがあるんですよ。これは何の問題もないなんてことにはなりませんよ。だったら我々弁護士とか法律家要らないんですよ、だったら。
私:何でもそうなんじゃないですか。どれもそうなんでしょ。どの法律もそうなんでしょ。だから、ことさらこの法律についてとくに何か言うことがあるんですか。
弁:この法律にはこういうところに問題がありますよとお話ししてるんです。それはどの法律でも、これこれの問題がありますねと、必ず。それはもちろん、大小があってね、大きいものとほとんどない法律があるけども、これはどの変になりますかね。中間くらいじゃないでしょうかね。
引用部で私
とあるのは高木さんの発言。
高木さんは北沢さんがことさらに「コンピュータウィルス作成罪には問題がある」と煽っているといいたいようだけれども、それは高木さんの思い込みのように思えた。衆目の一致する「悪」だけを正確に撃つ法律は存在しない。この点を勘違いされては困ると考える北沢さんが、高木さんのような「こういうわけだから何も気をつけることはありません、安心してください」という説明を看過できないのは当然だろう。
立法府での議論が裁判で参照されるとは限らない。裁判官が立法者の言葉を参考にはしても、縛られはしない。こうした北沢さんの解説を否定する根拠が、高木さんにはないらしい。ならば、むしろ高木さんこそことさらに安全を謳おうとしているわけで、北沢さんは同じ反論を繰り返しているに過ぎない。高木さんが「まず安心と考えてよいが、リスクはゼロではない」と発言を後退させるのが筋だと思う。
また、ウイルス作成罪がないがゆえの問題が社会に蔓延してきた状況で、新しい法律のリスクをゼロにしようと頑張るのは不毛。北沢さんが、どんな法律にも何らかのリスクは潜んでいる、という話をしているのは、言葉の解釈がひとつに定まらない以上は、当然のことだと思う。法の解釈は立法者が自在に詳細を詰められるという立場を採用するなら、司法は立法の傘下に入ってしまう。その害はきわめて大きいので、その仕組みを認められず、しかしそれゆえに法はすべてリスクを孕む。このリスクは甘受するしかない。
リスクを下げていけば、どこかで立法の利益が弊害を上回る。リスクの予想には幅があるから、相当の安全率は掛けてよい。あれこれの議論の末、メリットと比較したリスクが十分に下がったと考えられるなら、なおリスクが残っている、ゼロではない、という理由で法案に絶対反対の姿勢を貫くことには賛成し難い。
あと、北沢さんがいっているのは裁判の話で、高木さんが法務省の方に質問するなどして調べてきたのは、現在、法務省が想定している法律の運用の話。法務省の説明は法務省を縛るはずであり(そうでなければ意味がない)、実際に裁判になって、裁判官が「意外な判決」を出さない限りは、だいたい高木さんが調べてきた通りに法律は運用されていくのだろうと思う。
つーか、この設定だけくれ! 僕に書かせろ!
頭からすべて書き直して、面白い作品にしてやるから!
原案料を払えばいいんじゃないの。印税の2割とか。「タダで」といったら無理だろうけど、きちんと申し込んでみたら、原作者はNoとはいわないんじゃないか。
コミカライズなどの場合、原作からだんだん離れていって「原作」が「原案」になってしまうケースがままある。小説→小説というのも、私は具体例を知らないけど、あってはいけない理由がない。ライトノベルと山本さんが書くような小説とでは市場が違うし、書き手に求められる能力も違っているでしょう。
これが書評家のブログなら、「いや、あなたの批評はもっともだと思うけど、あなたが自分で書いても面白くなるとは思えないし……」というわけで、ジョークとして読み流すところだけれども、山本さんがそう仰るなら、ぜひ真面目に取り組んでみてほしい。「絶対に新刊で買う」と約束するので。
母「あ,またイスから降りようとする!」
子「おりたい〜」
母「ダメです.全部食べてからにしなさい」
子「おりたい〜」
母「1,泣かない.2,みんなと一緒に食べる.分かりましたか?」
子「わかってない」
母「わかってないんやな.ほなあなたはあたしたちの子やない.家の外に,放り出すで!」
父「『たち』かいな」
母「だってこの子,ぜ〜んぜん食べへんのよ.ほんでイスから降りて,(さきの子・あとの子が横たわっている)ベビーベッドに行って,ちょっかいかけてくんねんから」
父「うーん」
母「はいもお(抱きかかえる)」
父「どないすんねんな」
母「玄関から,放っぽり出すんや」
子「ママ〜〜」
母「今さらママママ言うてもあかん.出て行きなさい!! (外に投げ出し,扉を閉めて鍵をかける)」
父「お外,出たりせんやろか…」
母「まあ大丈夫やろ.反省してくれたらええんやけど」
このような「しつけ」は、どんな文脈があろうと、許容できない。社会から排除すべきである。
200を超える当雑記の親馬鹿エントリから,どんな話を,親馬鹿エントリとして取り上げるかというのが,把握できるようになっています.「ドアの前でママ〜」は,それに合致しませんし,あえてスタイル違いをしてみるにしても,これでは斬新さもインパクトも出せません.
子どもが食事に飽きたとき親が考えるべきことの引用の仕方も,同じです.これで切られたのでは,そしてそこまでの記述で文句を言われるのでは,書いたほうとしてははなはだ残念です.
takehikomさんは、時と場合によっては、引用したような「しつけ」が許されると考えているのだろう。だから、時と場合の情報を削ぎ落とした私の引用は、不当だといいたいわけだ。だが私は、どんな場合においても、引用したような「しつけ」を許容しない。
父「待て待て,勝手口に向かって走ってないか?」
母「え?」
子「(勝手口のドアを開けて入り込み)ママ〜〜」
父「あっさり戻ってきたなあ」
母「朝晩,こっから出入りしてるんよなあ」
これが、最初の引用部の続き。さて、このオチがあったら、何か話が変わるだろうか? もちろん、何も変わらない。たまたま今回は結果オーライだったことは、免罪符にはならない。
これは,7月5日の自分の対処が失敗でした.最初に挙げたエントリを全部読んでもらった上で,次のことを尋ねればよかったのでした.
「(勝手口のドアを開けて入り込み)ママ〜〜」がなかったら,言い換えると,閉められたドアの前で「ママ〜〜」と泣くばかりだったら,日記に書いていただろうか?
このように問題設定をすれば,これについては明確にnoです.
まず、日記に書いたことが問題なのではない。ネットに書いたのは悪事がバレた理由でしかない。
次に、家から締め出すなどという「しつけ」は、結果によらず悪いことだ。
この問題は、以前話題になったセクハラサイコロと似ていると思う。教師は繰り返された結果オーライ(=ジョークの範疇として対象児童に理解されたこと)に安心していたが、数回のセクハラ成立で人生が暗転した。そして失敗したケースだけでなく、「そもそもセクハラサイコロ自体が悪いことだった」と糾弾された。また、教師に悪意がなかったことは、その過ちを決して帳消しにはできなかった。
セクハラサイコロの先生だって、職員会議や保護者会でセクハラサイコロを問題視する発言が出れば、ヒヤッとしただろう。「結果オーライが続いているから大丈夫」といってどこまでも押し切ることなどできない、とも感じたろう。
では、「あなたはあたしたちの子やない.家の外に,放り出すで!」といって子どもを「外に投げ出し,扉を閉めて鍵をかける」ことはどうだろうか。それは、まずい結果になったとしても「悪意はなかったのだし、不運だったね」と理解されるような指導法なのか? 「いや、そうではないな」という感覚があるからこそ、結果を伏せた引用を見て、takehikomさんは嫌な感じがしたのではないだろうか。
親にどれほど大きな愛情があろうとも、虐待は成立しうる。繰り返された結果オーライも、一回の失敗で吹き飛ぶ。結果オーライが続いているうちに、悪い指導法とは縁を切るべきだ。
労作の記事。私にはこういう記事は書けない。
論点など 徳保氏 自分 子どもが食事に飽きて遊び始めてしまう 簡単な解決策あり 別に悩んでないんやが
……えっ!? 子どもが食事に飽きて遊び始めてしまうことが「解決すべき課題」ではないなら、「しつけ」をする理由がないじゃないか。それとも、現状の「しつけ」で望み通りの成果を得られているから、別に悩んでない
といいたいのだろうか。
親が子に「あなたはあたしたちの子やない.家の外に,放り出すで!」とまでいう状況が悲しくないのか。「どうにかして、こんなひどい言葉を口にすることなく、同じ教育成果を得たい」と悩まないのか。子どもを玄関から放り出して鍵をかけた(状況を見た)とき、罪悪感で胸が痛んだりはしないのか。
とはいえ、takehikomさんのよりひどい(と私には思える)事例は世の中にいくらでもあって、その多くについて私は何の反応もしていない。今回は文中リンクへのレスポンスとして記事を書いた。このような切っ掛けがある場合は別として、とくにtakehikomさんを選んで批判し続ける理由は乏しい、と思ってはいる。
夏休み終了。
今年は読書感想文の課題図書を読むことすら絶望的。まだ2冊しか読んでない。もう無理だ。無理だー。
かといって昨夏のように特別な何かをやっているわけでもなし……。
今日もアニモに発送する書類の整理。昨夕はじめた作文のテキスト入力がちっとも終わらないので閉口。作業としてつまらないだけでなく、文章の内容のひどさにもウンザリ。集中力が全く続かない。結局、5日のうちに発送するはずが、今日も発送できず、7日午前の発送を余儀なくされてしまった。
うわー、夏休み中に読もうと思った本が全然読めてない。
アニモに発送する書類の整理。
手書きの原稿は、いずれテキストファイルにするつもりだったが、面倒くさすぎて「いつか」といっているうちに10数年経ってしまったもの。これをそのままPDFにしたら、たしかに体積は減るけれど、字はいっそう読みにくくなるわけで、死ぬまで待ってもテキスト化などできそうにない。
さりとて、書類のPDF化なんてのはいっぺんに全部頼む方がいいんだ。そのせめぎあいで悩み、試しに手書きの作文原稿のテキスト入力をやってみた。これが大失敗……。
疲れて昼まで寝ていた。
甲子園出場で校歌が話題になった至学館高校……ではなく、地元の至学館大学のキャンパスを眺めつつ、祖父のお見舞いへ。時間帯が早かったので、朝食後の睡眠時間だった。
南山大学(の中の人類学博物館)→中京大学&中京高校(車の中から眺めるだけ)→名城大学→名古屋大学(車ry)→明和高校(車ry)→名古屋城
大学のキャンパスの広大さ、山ひとつ占拠しているその威容はすごいな。南山は比較的素朴な感じだったけど、それでも高校までとは比較にならぬ。中京大学も巨大なホテルみたい。もう父が通っていた頃の校舎はほとんど残っていないようだった。名城大学は伯父の母校。ここもすごい。裏の山が天辺まで墓地になっていて、山の端が墓石の凹凸になっているのも末期的な感じがした。名古屋大は広すぎて、明和高校は古ぼけていた。
名古屋城は久しぶり。暑い。なんかいろいろ工事をやっていたり、能楽堂(?)ができていたり。天守閣のあたりは変わっていないなあ。懐かしい。石垣はちょっとヤバそうに見えた。本丸御殿の再建工事をやっていたので、完成したらまた両親と一緒に来ようと思った。
駅前の超高層ビル群を見上げながら帰途に着く。小山には午後5時頃着。
洗濯などをした後、祖父の見舞いに行く。
桶狭間合戦場跡(今川義元公の墓など)→今川本陣跡(お寺の敷地内にある/資料館は閉鎖中だった)→沓掛城跡(公園になっている)→いったん帰って昼食→聚楽園公園(大仏と仁王像+現在は裏山にバーベキュー場、全天候プール、福祉施設などがある)→霊園(掃除をした)→帰宅
今日のドライブコースは父がかつて遠足で行った場所。半世紀ぶりの再訪に父も感慨深げだった。父は一人では出かけないので、ずっと大府にいてもDSで数独をやっているだけ。私や弟が祖父の見舞いのために大府へやってこないと、重い腰が上がらない。
ちなみに昨夏はあいち健康の森公園の遊歩道を一周、あぐりタウンげんきの郷を見学して昼食をとり、伊勢湾沿いに知多半島を南下。今年の2月には半田市、碧南市など知多湾の方へ行った。あと緑浜町の風車を見たり、新日鉄の高炉を近くで見ようとして失敗したりした。また桃山保育園、大府中、大倉別荘跡の大倉公園、大府小など幼少期に父が歩いた街を一緒に回った。
私はいつも2泊3日で予定を組むので、2泊目の夕食は魚魚丸で回転寿司を食べるのが恒例。これまでは正統派のを中心に食べてきたのだけれど、もう何度目かになるので、今日はせっかくだから変り種を食べようと思った。いろいろ挑戦してみたけど、骨の素揚げ、茄子田楽、とろすき身などはとくによかったな。今年はイワシがいいと勧められたけど、これも納得の美味だった。
母と一緒に間々田駅から徒歩5分の小山市立博物館へ。小山市の今昔などがわかる小さな博物館だった。同じ地点で数十年の間隔を空けて撮影された写真が面白い。また桑村と絹村があって、かつては絹の生産が盛んだったこと、市内の小学校の過半が明治時代からの歴史を誇っていることなど、面白い情報がいろいろあった。
図書コーナーに栃木県南部の20世紀をまとめた写真集があり、昼過ぎまでこれを読んだ。野木に高さ30メートルの煙突を誇るレンガ窯の跡があるという。いずれ行ってみるつもり。
昼食は小川屋で「大根ちらし天うどん」を食べる。千切りの大根とうどんの取り合わせは食感が面白い。サッパリしていて後味もよい。天ぷらもおいしかった。
各駅停車で上野へ。1時間余りで上野着。成田-東京より上野-小山(間々田)の方がずっと早いことを再確認。母は京成上野へ移動して生協に間に合うように成田へ。私は東京からのぞみに乗って愛知へ。
駅から歩いて午後6時半頃に大府の父方の祖父母宅へ。ここには7月25日頃から父が滞在している。祖母は既に就寝していた。明日は2年以上も入院の続く祖父の見舞いに行く。
イーモバイルの電波が入ったので、父の3DSをアンバサダープログラムに登録した。11日までだから、けっこう危なかった。
昨夕、母が来た。今日は朝からカーテンなどの洗濯をする。
あれこれ片付いた午後3時過ぎから母を花火会場に案内。沿道では出店の人らが準備に忙しい。ほとんど食べもの屋ばかりで、あちこちで道具を使ったり使わなかったりしてキャベツを切っていた。いろいろな機械があることがわかった。あと唐揚げ用の鶏肉を現場で切っている人がいたのには驚いた。事前につけ汁につけておかなきゃダメなんじゃないのか、唐揚げって。
早くも場所取りに忙しい人たちもいる。公園の高台の柵の近くは、ロープで近付けないようになっていた。河原には家族連れなどが既にいて、昼寝していた。雲行きは怪しいが、無事に雨が降らずに花火大会を開催できることを望む。
緑のカーテンを見るついでに、市役所の中も見学する。築50年近い、古い建物。ミヤコタナゴや下野しぼり和紙など展示品がひしめいていて面白かった。ロッテの成瀬善久投手が小山市出身者として紹介されていた。母はロッテファンなので大喜び。他には女優の小池里奈さんも出身者なのだそう。結城市出身で小山高校を卒業した元野球選手の広澤克実さんも出身者扱いなのがおかしい。
午後7時半頃から無事に小山サマーフェスティバル花火大会が開催された。非常階段の踊り場に椅子を持って行き、約1時間の花火鑑賞。