備忘録

平成23年9月30日

Googleが「みんビズ」というウェブサイト作成サービスを始めた。中小企業や個人事業者向けの、Jimdoをベースとしたサービスだそうだ。見た目のきれいなウェブサイトを簡単に作れるので、もはや「街角のホームページ業者」は商売にならない? しかしWeb担当者Forumの結論は、コンテンツ作りができる客は少ないから、プロの仕事はなくならない、というもの。とても共感できる話だった。

ただ、コンテンツ作りの部分は、理由はわからないけれども、素人が「自分でもできそう」と思いがちな部分。従来なら「ウェブサイトを自分で作るなんて無理だ」と思って最初から「プロに頼ろう」となった人が、とりあえず自分でサイトを作ってみて、「どうして紹介事例のような感じにならないのだろう……」としばらく悩み、それからようやくプロに相談するという流れになっていくのかな、と。

そう考えてみると、みんビズもホームページビルダーも同じようなところを狙った製品なんだな。しばらく前からHPBは初年度無料のウェブサーバーサービスとの連携とか、テンプレートの充実とか、そのあたりに注力していたけど、その狙いがやっとクリアに理解できたような気がする。

「あなたにもウェブサイトを作れます」といって客を集めて、まあそれは嘘じゃないのだけれど、やっぱり消費者が思い描いていたようなウェブサイトにはならない。いろいろな中小企業のサイトを見た感じ、6割くらいは「ま、これでいっか」で、残り4割の枠をプロが争っているのかな、と思う。

関連:

自分でサーバーに設置するタイプのCMSをいくつか試してみると、Jimdoにせよ、いろいろなレンタルブログサービスにせよ、複雑・高機能なものを、より多くの人に使えるようにするべく、たいへんな工夫が凝らされていることがわかります。

私は「自分で全部把握できている感」を求めてレンタルサーバーにコンテンツを置いているのだけれど、もう、私のようなやり方を、ふつうの人に勧めたいとは思わない。

自分の能力を考えると、上記リンク先より高機能なCMSがほしいなら、自分でサーバーにCMSを設置するより、レンタルサービスを利用する方がよさそう。リンクしたCMSはどれも試してみましたが、現在は最もシンプルなFreeWEBに落ち着いています。

平成23年9月29日

平成23年9月28日

他人への配慮というなら、母親の気持ちにも配慮したらいいじゃないか。母親だって他人のうちの一人ではないですか。

自分なりの理想像があるけど、日常的にはそれを実践できていない。でも、せめて他所の方には、理想の自分を演じたい。それが母親の願いでしょう。なぜ、その願いを踏みにじるのか。どうして母親への配慮より、火災報知機の点検をする人や、宅配便の配達員さんへの配慮を優先するのか。私には、それがわからない。

もし、「身内」の母親には配慮なんかしないでいいんだ、という考えなら、yuhka-unoさんもお母さんも、私から見れば大差ない。

自分に害なす相手のために実際に何かをする気にはなれないとしても、せめて心の中では、本当は赤の他人にするくらいの配慮はすべきだったな……と考えるようにする。他人の生き方に対して、批判はしても、尊重することを忘れない。そうした努力なしに、誰もが暮らしやすい社会は実現し得ないと思う。

平成23年9月27日

1.

和菓子屋での修行の回、従業員たちが新しい和菓子の案を出す時に、大吉アナは、「故郷を離れて働く子供が、親元を離れて初めて親のありがたみがわかって、親に感謝して贈るための和菓子」を提案したところ、和菓子屋の女将さんに、「悪いけど、お利口さん」と評されてしまう。一方、他の従業員は「焼肉を模した和菓子で、名前が『叙々苑』」を提案する。女将さん曰く、こっちのほうが面白い、と。その後、大吉アナは、ポッキーを木の枝に見立てた和菓子を作り、自分の殻を破ることができた。

次に行った旅館のご主人は、特に厳しく、自分が良く見られようとしたり、形だけ取り繕おうとすることを許さない。真にお客さんのことを考えて行動することを求める。これはつまり、大吉アナに対して、上司である自分のご機嫌を取ることを許していないのだろう。

和菓子屋と旅館、両方に共通していたのは、「自分が良く見られたい」という心を徹底的に排除しているということだった。和菓子屋なら、良い和菓子を作るのが目的であって、その和菓子を作っている自分が良く見られることではない。旅館なら、お客さんにとって良いことをするのが目的であって、自分が良い従業員だと褒められるためにするのではない、ということなのだろう。

母は、意識上では他人に対する親切心のつもりでいたが、実際は自分が悪く思われないための行動だったので、私が相手にとって良いだろうと思ってしたことが、母にとって良くなかったということがよくあった。

yuhka-unoさんのようなことを仰る方は多いのだけれど、私は納得できない。

2.

和菓子屋の事例は、テレビ番組の企画で和菓子屋に弟子入りした若手アナウンサーが「まじめ」な新作和菓子を提案したのに対して、この店で実際にお客さんに喜ばれるのは「気取らない面白さ」ですよ、と諭された話。アナウンサーの発想が無条件に悪いのではなく、客をよく観察して商品開発をしなさい、ということ。

翌週、旅館に弟子入りしたアナウンサーは、その仕事ぶりを「形だけ取り繕っている」と批判されます。しかし、本当にそうだったのか。「パッと見には問題ないけど、実際にはお客さんへの配慮が足りない状態」だったのは事実だとしても、それは単に思慮の浅さの表れでしょう。そこに「形だけ取り繕う」意図を見出すのは、悪意の解釈だと思います。

私は、yuhka-unoさんのお母さんのケースも、基本的には同じだと思う。yuhka-unoさんが、良かれと思ってやったことであっても、お母さんから見たら「それは逆に相手を不愉快にさせるよ」だったり、あるいは「こうした方が、もっといい」だったりしたのでしょう。逆にyuhka-unoさんから見て、その指示は納得できないもので、結果もいまいちだったから、理不尽に感じたのだと思います。

つまり何がいいたいのかというと、和菓子屋の女将と旅館の主人は「相手のための気遣い」をしていて、若手アナウンサーとyuhka-unoさんのお母さんは「自分が嫌われないための気遣い」をしていた……という対比には同意しない、ということです。

……よくわからない? では、再論します。

3.

本来、お客さんにとって良いことをすれば、良い従業員だと褒められるはずです。これを分離して考えなければならない状況は、おかしい。

例外はあります。いくらお客さんが喜ぶとしても、営利企業の根幹が揺らぐようなことをしてはいけない。長い目で見て利益が得られると判断できれば、目先の利益を削ってもよいですが、そうでないなら、いくらお客さんが喜ぶとしても「あれもタダ」「これもタダ」みたいなことをしてはいけない。

そうはいっても、世の中にはお客さんにとって良いことをせずに、良い従業員だと褒められるケースはあるじゃないか、と。うん、それは、「成果」を判断する上司の目が曇っているのですね。

例えば、和菓子屋のケース。女将が気に入った案と、アナウンサーの案を両方とも実際に商品化してみたら、アナウンサーの提案した和菓子の方がよく売れたかもしれない。この場合、「気取らない面白さ」を狙った和菓子を提案した先輩こそ「客より上司の目に適応した従業員」であり、女将も「客の実際の好みより自分のセンスを優先する上司」だったことになります。

ようするに、yuhka-unoさんが仰っているのは結果論です。それなのに、「まじめ」な和菓子は客に受けないという仮定をまるで事実のように扱って、そこから逆算して、「アナウンサーは客のことをきちんと考えていなかった」とする。この主張は言外に「ちゃんと考えたなら、そんな答えにはならないはずだ」という意味を含んでいるので、アナウンサーはお客さん以外の何かについて考えていたのでなければ矛盾します。それで「こういう提案をすれば上司ウケがいいと思ったんだろう」なんて悪意の解釈が出てくるのです。

でも、「上司ウケ狙い」なんてのは、言い掛かりです。本来「お客さんが喜ぶ=上司も喜ぶ」のはずです。「上司ウケ狙い」なんて批判が成り立つなら、まともな提案はひとつもできなくなってしまう。

和菓子屋の女将は、さすがに言葉を選んでいます。お利口さん……つまり、案としてきれいだけど、売れる商品という感じがしないということでしょう。物の売り方として、理詰めで納得させるというやり方があり、これを志向すれば「きれいな提案」になります。しかし経験的には、これは茨の道なんですね。女将の意見には、私も説得力を感じます。

でも、私がアナウンサーの立場だったら、「実際に客の反応も試さずに適当なことをいうな」って思いますよ。いっても仕方ないから実際には黙っているとしてもね。ポッキーを木の枝に見立てた和菓子自分の殻を破ることができたとか、なんてムカつく番組なんだろう、と思う。

平成23年9月26日

1.

greeやモバゲーで大きな売り上げを実現できるゲームの作り方に関する記事はこれまでもたくさんあったが、これが決定版のように感じた。過去に目にした記憶のある論点が、全て入っている。そして、価値観の問題にもきちんと踏み込んでいることに感心した。

網羅的に物事を語れる人って、すごい。尊敬する。

関連:今年の記事で印象に残っていたもの

2.

記事の内容についても少しだけ触れる。

やっぱり商売に王道はないんだな。コンソールゲームと携帯電話向けのオンラインゲーム(以下「オンラインゲーム」と書く)とでは消費者が違っていて、それぞれに適したゲームの作り方がある。「ゲーム」という言葉と、パッと見は似通っていても、両者をゴッチャにして語ることには実りがない。

これって、初期のテレビドラマと映画の関係に、通じるものがあるのかも。還暦前の方は、幼い頃にテレビに触れて、すっかりそれに慣れているのだけれど、いま70歳代以上で映画館に入り浸っていたような人々は、途中にCMが入る民放のドラマに対して、なかなか馴染めなかったと聞く。大長編映画の途中休憩は、お芝居の幕間と同じですんなり受け入れられるけれども、CMはどうしても許せず、「映画ってものを何だと思っているんだ」となった。

greeが『テトリス』などのレトロゲームを取り入れたように、テレビも映画を放送していった。往年の映画ファンは無粋なCMにプッツンきたが、それも次第に諦めの境地へと達していった。いま、「映画をテレビで放送するのは作品への冒涜」と怒る人は、ほとんど消えた。コンソールゲームとオンラインゲームも、一緒になるとは考えにくいが、次第に交流は深まっていくことだろう。

ただ、テレビドラマを全く視聴しない映画ファンは少数派だろうが、コンソールゲームファン(の大多数)もいずれオンラインゲームもプレイするようになるのかというと、それはどうかな……。

3.

テレビと映画館は違う。専用ゲーム機と携帯電話は違う。物理的な違いは決して無視できないが、やはり何といってもビジネスモデルの違いが大きい。とはいえ、「作品」そのものは、かなり重なっている。

映画ファンがテレビドラマを「映像作品自体で金を取れない低質なもの」とバカにしたようなことが、ゲームの周辺で、いま再現されている。テレビドラマは、当初は作品の前後にしかCMを入れていなかったのだが、それでは商売にならないことがわかり、本編の途中にCMを入れるようになった。それを映画ファンは「感動が台無し」「作品より銭が大事なカネの亡者」と嘲笑したのだが……。

映像メディアの主役は、映画からテレビへと移った。ゲームの主役も、コンソールから携帯電話へと移っていく……いや、既に利用者数では逆転が起きているのかもしれない。映画とテレビも、まず視聴者数で逆転が起き、後に制作費も逆転していった。映画ファンが悲しんだように、コンソールゲームのファンも悲しい。

今後数年が、悲しみのピークだろうか。主役交代がもっと明確になれば、オンラインゲーム叩きも落ち着いてくると思う。私は、その先の時代を見たい。

平成23年9月25日

据え置き型電話と見分けがつかないPHS電話機のWX02A イエデンワが話題に。

個人的には、今までこういう機種が存在しなかったのが不思議に思える。携帯電話は持ちたくないけど、固定電話は工事費とかがつらい……ということで悩んだ経験があるのは、私だけではないと思う。資料に目を通した感じ、留守番電話録音機能について書かれていないのが気になる。据え置き型らしく50件くらいまで対応してくれたら面白いように思う。

固定電話の録音機能がリッチになった90年代、「故人の遺品を整理していたら録音データの中に家族宛のメッセージが残っていた」「祖父母が孫の声の録音データを年に1〜3件くらい消さずに残しておき、成人のお祝いの会に電話機を持ってきて録音データを披露した」とか、いろいろなドラマが生まれた。30秒×3件なら実務的な道具の枠を出ないが、30秒×30件以上なら物語になる。

PHSは旧機種が使用不能になるような通信方式の刷新が予定に入っていないし、撤退さえなければ10年間使い続けられる可能性がある。10年間あれば、リッチな留守録機能がドラマを生み出すには十分。でも、わざわざイエデンワを買う人が留守録の件数の多さに魅力を感じるわけがない。そんなに留守録が多いなら、とっくにふつうの携帯電話を買っているはず。

とすると、イエデンワには留守録機能がないという可能性も……。端末の機能ではなく通信事業者のウィルコム側で留守録対応するサービスがある(そもそも電話がつながらないケースに対応するもの)ので、端末側に留守録機能がなくても、おかしくはない。

でもね……「留守録50件? そんなに電話かかってこないよ」という人こそ、ドラマを作りやすい人なんだよね。しょっちゅう留守録が増えるような人って、どんどん録音を消しちゃうから、逆に無意味でさ。こういう、不必要な機能がドラマを生み出す話って私好み。社会の豊かさの象徴のような気がする。

余談

このところ子ども向け携帯電話の新作が少ない。いや、あるにはあるんだけど、ボタンがひとつだけで、保護者への連絡専用とか、そういう端末なんだよね。いくら少子化が進んでいるとしても……と思っていたのだけれど、周囲の人に話を聞いてみると、子どもが子ども向け携帯電話を歓迎していないのだそうな。

どうせなら自由度の高い端末をほしがるというのは、自然なことだと思う。説明書はどうせ読まないから、説明書にふりがながあってもなくても気にしない。しかも、子ども向けだからといって端末価格が安いわけでもない。WILLCOM STORE|電話機を見ても、nicoハートは少し安いだけ。

多機能端末を、自主的に機能を絞って使うのでもいいけど、個人的には、最初から機能が少ない方が好み。それで子ども向け携帯電話には関心を向けてきたが、ボタンひとつではさすがに困る。WX01UTはライトメール以外のメールに対応しない実質的に通話専用の端末。子ども向け市場が変質したかわりに、一般端末の幅が広がったのなら嬉しい。

平成23年9月24日

同じことを何回でも書く試み。

問題発言の削除を責める人には与しません。削除した後で、「私はそんなことはいいませんでした」と嘘をつくなら、それは問題です。しかし、そうであっても批判すべきは「嘘」であって、過去の発言を公開の場から取り下げたことではないでしょう。

「なかったことにはできない」は自省の言葉です。完全ではないにせよ、ひとつ間違いを認めて言葉を撤回した人に対して、永遠に旧悪を磔にして晒し続けることを正当化する言葉ではありません。少なくとも私は、そう思います。

「消すな」は見せしめの論理。見せしめの論理は、悪党の常套手段。恐怖で人を支配する発想です。正義の名のもとに、悪を屠って祭壇に捧げ、その血によって世界を自分の信じる破邪の光で満たさんとする企みです(中二病)。生贄なしに広められぬ正義など、正義ではない。悪を叩いて、叩いて、何もいわなくなるまで叩き続けなければ安心できない人は、自分の心の闇にも眼を向けるべき。

削除を叩く人には、発言の撤回も反省のひとつの形だと、わかってほしい。正しくあろうとする人こそ、自らの怒りの感情と真っ直ぐに向き合い、それを制御する意志を持ってほしい。

あるいは。所詮は価値観対立である。どちらに絶対の正義があるわけでもなく、ある「場」において多数派が少数派を黙らせただけのことやもしれぬ。衆寡敵せずやむなく退いた少数派が、何を反省するわけもない。これは戦争なので、投降しない敵を膾切りにしてやるのだ、と血気に逸るのはわかる。が、それでも、問いたい。それが、本当に、あなたの正義か。

平成23年9月23日

1.要約

刑事や営業現場などを描いた作品には、新人が先輩の後ろにくっついて数ヶ月間歩き回り、先輩の仕事ぶりをひたすら観察し続ける場面が登場する。個人的には、理に適った教育法だと思う。デスクワークも同様に、研修中はひとつの机に先輩と新人が椅子を並べて仕事をするのがよい。また、新人は先輩の仕事の一部の下請けをして、新人の作業が止まると即座に先輩が困窮する仕組みとすると、コミュニケーションが促進される。

2.

「なんでもかんでも、調べずに考えもせずに、全部訊こうとするなー」とも、「時間ももったいないし、いつまでも考えてないで、先輩をうまく利用しなよ」とも言える。その間のどこに線引きするの?と言われたら、「ケースバイケース」としか答えようがなかったりします。

先輩と新人の距離を物理的に縮めることで、この手の問題はだいたい解決できる……という話は「質問できない新人」の簡単な指導法(2009-11-18)に書いた通り。この機会にもうひとつ、オマケで付け加えるなら、「右も左もわからない状態の新人に与える仕事」の選び方がポイントになると思う。

結局は新人教育の優先順位ということになるのだろうけれども、新人といえど、人員というのは毎月30万円くらいが吹っ飛ぶ高額設備。これを動作不良のまま放っておくことの損失は大きい。見えやすい小さなコストに惑わされず、新人教育には「損して得とれ」の精神で臨むことが重要だと思う。

教え育てる場面に「対話」の存在は必然だったのです。「ちょっとググればわかるのに」と言ってしまうことで、そういう対話の機会を断ち切っている可能性があります。

私は田中さんがこう仰っていることに賛成。そして、「新人が適切な質問をしない」ことより「先輩の放任主義」の方が問題だと思っている。何も教育せずに、ただ待っていたって、凡人が成長するわけがない。

自発的な対話をサボる言い訳に事欠かない先輩が、新人にコミュニケーション不足の責任を全部被せるのは無責任。対話が面倒くさいのはお互い様。先輩は忙しいからこそ、積極的に新人に話しかけざるをえない状況を、自分で作っていくべきなんだ。

先輩は、自分の仕事の一部を、新人に下請けに出す。下請けに出す仕事は、最初はきわめて小さな単位とし、1時間後には「できた?」「できてないとしたら、どこで引っ掛かっているの?」と問うていく。サクサク進めば1時間で終わる仕事を20くらいこなしたら、たぶん1週間が過ぎている。

その後は、小さな仕事の組み合わせで、2時間の仕事、3時間の仕事を発注していく。新人が作業を終えないと自分の首が絞まる。怒鳴っても成果は上がらぬ。こうなると、腹を括って時間を作り、手取り足取り教えるのが、長い目で見れば結局はいちばんいいとわかってくる。頭ではわかっていても身に沁みてわかるまで面倒なことから逃げ続けるのが人間。気楽に始めて自分を追い込み、いちばん面倒なことを、きちんとやるのだ。

新人さんは、初歩的なところで躓いていることが多い。「書類がどこのプリンターから出力されたのかわからない」「この書類、パンチで穴を開けちゃっていいのかな……」とか。そんなもの、イチから自分で調べるのは時間の無駄。場当たり的に吸収するしかない知識は出てきた順に詰め込む、「調べ方」のコツがあればそれを教える、といったことを、可能な限り教えていく。

新人の面倒を見ることになってからしばらくは、毎日最低でも30分間くらいは、新人に向かって何かを説明している時間でないとおかしい。目くらましのような小さな戸惑いと躓きを数百個潰すと、ようやく本格的な課題が見えてくる。新人をその地点まで導くことが、当面の目標になる。

平成23年9月22日

この商品かどうかはわからないけれども、小学生の頃、木屑粘土に出会った私は、「紙粘土はもう古い。これからは木屑粘土の時代だ!」と思った。何せ軽い。適当に作った物でも「それなり」に見える。乾燥後にカッターでサクサク追加工できる。とにかく扱いやすくて楽しいのだ。

が、理由はいろいろあるのだろうが、現在に至るも、油粘土と紙粘土の牙城を崩すにはいたっていない。通販なら買えるけど、ふつうのホームセンターでは扱っていない。一般のスーパーマーケットには、当然ない。図書館で工作の本を見ても、木屑粘土を扱っているものはほとんどない。残念なことである。

とりあえず塗ってみるだけでもいいのだけれど、目の細かい紙やすりで磨いてからだと、本当に金属加工をしたような感じになる。手で持ってみると意外な軽さに「おっ!?」と声が出てしまうくらい。面白いので、おすすめ。

ただ、よほどハマらない限りは、こういうのって使い切らないんだよね。で、開封後も放置しておくと劣化してダメになっちゃったり。だから、お子さんのいる方は、まず自分が試してコツをつかんで、それから「一緒に夏休みの工作を仕上げよう大会」としてお子さんの友人も家に呼んで、ワーッと使い切るのがよい。

木屑粘土はブロンズ風にしなくてもいい感じになるので、塗料の方が先になくなるのは問題ない。

平成23年9月21日

一国一城の主の集まりである商店街は、復活が難しい。商売の都合より、これまでの経緯や思い入れを優先できてしまうから。あと、リーダーに権限が集中していないから、決断ができない。みんなが賛成できるアイデアしか実行できないのは厳しい……。

うちの近所の駅前通りも同じ。もっと繁盛するお店に場所を渡せばいいものを、一等地にしがみついて自分たちの商売を押し通そうとする。そりゃ負けて当然だと思う。20年前の駅前再開発で市議さんらが頑張って土地を集約してスーパーとかを建てて、そこがいまも賑わっているから助かってるけど、それがなかったら今頃、駅前砂漠になってるところだった。

はてブのコメントとかにもあるけど、商売をやめるなら引っ越してほしい。住居と店舗がくっついているのが、古い商店街の最大の問題点だと思う。昔住んでた街の例だけど、店を畳んでも商店街の一員であり続け、住環境がどうのこうのとかいって商売を続けてる人の必死の生き残り策を邪魔してたのは、わけわからん。

平成23年9月20日

1.

「人を試す」側のメリットは明らか。これは予行練習のメリットに近い。「机上検討が十分なら予行練習は必要ない」と断言する人は、あまりいないと思う。問題は「試される」側のデメリット。

「試される」側のデメリットは、主観的なもの。アタマさえ切り替えられれば、「ま、試すのが合理的だよね」「一時的に不愉快になるのは仕方ないけど、こういうのはお互い様だし、別に気にしないよ」と考えることが可能。といっても、現実にはアタマを切り替えるのは難しくて、ダメな人はダメ。

では、いろんな人が集まっている会社では、どういう風にやっているのか……と思って観察してみると、ちゃんと答えは出ていた。

会社というのは、社員を信頼しつつ疑う必要があって、検査・調査は、どうしても欠かせない。そこで、最初は小さなことから始めて、だんだん大きなテストへと段階をシフトしていき、検査に慣れていってもらう、ということをやっている。

重要なのは、基本的に検査は予告ありだということ。そして、最後まで完全な抜き打ちテストはやらない。最低限、「1ヶ月のうちのどこかでやる」「範囲はここからここまで」くらいの予告をする。

社内のいろいろなルールがきちんと浸透しているか、実践されているか、本当に実態を知りたかったから、いちばん効果的なのは抜き打ちテスト。それはわかっているけど、それはやらない。そういうのを押し通すと、メリット以上のデメリットが生じるから。

余談1:

ルールを徹底しなければならないクリティカルな部分は、どう管理したらいいか。

正解は、「毎日チェックする」。もっと重要なものは、毎回、「全てチェックする」。劇薬の使用量管理とかですね。で、その毎日のチェックが形骸化していないかどうかのチェックは、「定期監査」として実施する。とにかく、絶対に漏れがあってはいけないものを、どんな形であれ抜き打ち調査の対象にはしない。

抜き打ち検査はサンプル調査なので、クリティカルな部分は、もっと確実な方法で管理する必要がある。これは「人を試す」話でも同じではないかな。

余談2:

採用面接とか、どうして事前に予告をやらない会社が多いんだろうね。別に、全質問を予告する必要はない。大体こういうことを訊ねます、という予告は、絶対にやった方がいいと思う。

私の現在の勤務先の場合、二次以降の面接については、事前にその概要が告知されていました。「**取締役はこういう人材を求めている。社長はこういうことに関心を持っている。会長の期待はこうである。面接は、受ける当人は長く感じるだろうが、実際には時間が非常に限られている。ポイントを押さえて受け答えをするように」

お互い、何をチェックするのか、されるのか、わかっていて「人を試す」方がいい。

2.

あらためて、冒頭のリンク先で紹介されている「事業に失敗して財産を失ったと告げて反応を見る」という事例について。

ぶっつけ本番で、それが演習と告げることもせずに、大規模な予行演習をするのは、馬鹿げている。会社でそんなやり方、絶対にしないでしょ。それはやっぱり、不合理だからだよ。

かつて私の母は月2回ペースで「もしお母さんが病気で倒れたら」という訓練を子どもたちに課したけれど、いざというとき頼りになるかどうかは、練習で十分に把握できるもの。信頼できない人は、練習に身が入らない。「ねえ、冷蔵庫の中身が少なくて料理ができないよ」「じゃあ、買い物に行くしかないね」「えー」「だって、お母さんが寝込んでいたら、自分で行くしかないよ」「でも……」

もし「いざという場合には自分が頑張らなきゃ」と思っているなら、「そうだな、買い物の練習をしておかないと、買い物がうまくできなくて、お母さんが腹ペコで死んでしまうかもしれない!」と考えて、ちゃんと買い物に出かけるはずなんだ。買い物に尻込みする感覚があるからこそ、いまここで課題を潰しておかないと、緊急時に困ることは明白なのだから。

もとの話題でも同じ。まず机上検討をすべき。実際に事業が失敗する可能性はあるわけで、机上検討だからといって全く身が入らないようなら、判断材料としては十分でしょう。

ただし、1回で決め付けるのは早計です。最初は買い物を渋っていた私と弟だけど、だんだん諭されて、買い物の練習をするようになっていった。「いざというとき、本当に助ける気があるのか」という問いを何度も投げかけることで、次第に変わっていくものが、あるかもしれない。

平成23年9月19日

1.

あるゲームデザインが流行ったときには、それをコアにしていろんなモチーフのゲームを作るべき。作り手は飽きてしまうので、『新しいものを』という考えになりがちだが、ユーザーとしては『まだまだ同じものが欲しい』という状態である。そういうとき(作り手)は早く変化しすぎずに、(ユーザーが)いま欲しいと思っているものを提供するべき。

消費者として同意できる話。私はコンピュータRPGなら『ドラクエ』が大好きなのですが、『ドラクエ』は意外に個性的な作品で、代替可能な作品がほとんどない。

手もとの記録を見ると、私はコンピュータRPGを80作品以上、とりあえずエンディングに到達するまでプレイしています。ところが、下記の「私的『ドラクエ』4条件」を概ね満たす作品は、『ドラクエ』シリーズ以外に出会ったことがありません。

私的『ドラクエ』4条件
  1. 全滅のペナルティーが皆無に近い(所持金が半分になるだけ)
  2. ルーラ(=街の中でも外でも自由に使える移動手段)
  3. リレミト(=ダンジョンからサクッと脱出/ゲーム開始後数時間以内に習得)
  4. 時間さえ投入すればプレーヤー自身はほとんど成長しなくても本編をクリア可能

項目の並びは、重要度順。最低限第1項は満たしてほしい。第2項、第3項も、ぜひほしい。第4項は、強く求めるものではありません。

2.

私が一番「ふんがーっ」となるのが「全滅=リセット」。全滅しても問題ないようにすると、イベントや物語の演出が「わや」になってしまうので、製作者として嫌なのはわかります。

例えば『DQ9』で竜を守る村が襲わるイベント中、主人公らは「村の外に出てレベル上げ→宿屋に泊まって体力回復」のセットを何度でも繰り返せます。その間ずっと、村人も侵入者も棒立ち足踏みを続けます。ここで戦闘に負けると教会で復活。状況は何も変わっていません。これではギャグです。

でも、ゲームだもの、プレーヤーが満足なら、それでいいじゃないですか。全滅のペナルティーの低さは、私が『ドラクエ』に安心できる最大の理由。最低限この部分だけでもいいから、『ドラクエ』を真似した作品が、もっと増えてほしいと切に願う。

ルーラは、「似たものはあるけど使いにくい」作品が多い。街の外でしか使えないとか、乗り物に入って行き先を選ぶとか、ワープポイントからしか瞬間移動できないとか……。ゲーム性の都合でそうせざるを得ないと納得できる作品ならいいですが、面倒な仕組みにしている理由がサッパリわからない作品が少なくない。

リレミトは、けっこう実現してる作品が多いですね。

第4項も、案外、実現されてます。レベルさえ上げればバカでもクリアできるようになっていることが多い。「何時間投入すれば楽勝水準になるか」という難易度調整の問題はありますが……。逆に、レベルを上げると敵もどんどん強くなる作品があって、「勘弁してください」と泣きが入ることも。

ま、第4項はオマケ。アクションRPGで、こういう注文をつけたら、本末転倒な気もするし……。

2年半前にも、こんな記事を書いていますね。その後、さらにたくさんの作品をプレイしてみても結局、「私的『ドラクエ』4条件」を全て満たしてくれたのは、1年に1作品程度のペースで登場する『ドラクエ』シリーズ本編のリメイク作品だけでした。どうしてなんだろう。私は残念でなりません。

『ドラクエ』は、かつて「二匹目のドジョウ狙い」の作品が無数に発売された思われていますが、実態は全然違う。Wiiのバーチャルコンソール(VC)にはRPGだけで88件も登録されていますが、「私的『ドラクエ』4条件」を満たす作品はゼロです。私の見落としがあったら申し訳ない。それでも、非常に少ないのは間違いない。

「二匹目のドジョウ狙い」の作品は志が低かったので、VCとなって時代を超えることができなかった……という可能性もあります。しかし私は、『ドラクエ』の美点を本気で模倣しようとした作品は、そもそも皆無に近かったのだと考えています。画面写真だけ見たら同じようなゲームでも、遊んでみたら全然違う。そういうことって、決して珍しくないわけです。プレーヤーでない人には、そこがわからない。

3.

「だったら『ドラクエ』の旧作リメイクだけ遊んでいればいいだろ」という話じゃないのです。

いろいろな作品をプレイしていて、「ゲーム的に、全滅=リセットの必然性はないよね? 全滅を許すと演出がダサくなるだけだよね? でもこれ、スタイリッシュさを追求してる作品とは思えないんだけど……」とか「この作品で、街の中でルーラできちゃいけない理由が思いつかない」と思うことがよくあるわけです。

魔法でワープできたら世界観的に問題がある作品でも、「1画面の簡単な世界地図上を飛行機が移動していく模式図を表示する」など、見せ方の工夫ひとつでしょう。よその街へ移動するのにいちいち街を出て飛行機に乗り込ませるシステムは面倒くさい。本当に飛行機を操作して移動するのは最初の1回だけにして、以後はルーラと同等の小さな手間で移動できたら、どんなにいいか。

何から何まで『ドラクエ』と同じにしてほしいというのではない。それではつまらない。むしろ、新しい作品に触れたい。でも、4項目だけは、いや3項目だけは『ドラクエ』準拠にしてほしい、と思う。そんなに無茶なことをいっているつもりはないのですが……。

追記:

VCに3作品が登録されている『メタルマックス』シリーズと、まだVCにない『桃太郎伝説』『ナイトガンダム物語』も、私的『ドラクエ』4条件を満たしているとの指摘をいただきました。未確認ですが、付記しておきます。

平成23年9月18日

「見知らぬ誰か」や「読者様」がご高説を垂れてくださるのは聞き流せても、身内意識のあった人に評論家的な物言いをされるとカチーンとくる、っていう感覚、私もわからないでもない。

私は高校時代、文藝部がとても楽しかった。私は創作活動には興味がない。だから小説も詩も、半強制の全員参加イベントのとき以外は、基本的に書かなかった。では何をしていたのかというと、「何を書いても読者の反響がない」と愚痴っていた部員のために、毎回長文の感想を書いていた。これは、たいへん喜ばれた。

他のいくつかの学校の文藝部の方とも淡い交流を持ったが、どこも「感想がもらえない」ことを悩みの種としていた。それで私は、「文藝部には、書くのが好きな人と、読んで感想を書くのが好きな人の、両方が存在するのがベストなのではないか?」と考えた。よその文藝部はみな「創作が好きな人」ばかりで、「仲間の作品を読んで感想を書くのが好きな人」はいないらしかった。

そんなわけで、大学に入って文藝部に仮入部してみて、先輩方が先の大学祭の際に作った冊子をもらった際も、いつも通りに作品の感想を書いて提出した。そうしたら、頭ごなしに怒られた。「失礼だ」とか、いろいろ。最後は、「創作に興味がないなら、よそのサークルに行ってください」でおしまい。

でも、私が「感想を書く」動機は、小説や詩の書き手が目の前で喜んでくれることだったので、ミス研とかでは、全然ピンとこなかった。私は書店に並んでいる本を読んでも感想とか書かないし、感想を誰かと共有したいとも思わないわけで……。

そういえば高校時代にも、他校の文藝部の冊子に、こちらの文藝部から本音の感想を送ったら絶縁されたことがあった。「交流には興味があったけど、そういう感想がほしかったわけじゃない」的な言い分に「バッカじゃねーの」と当時は毒づいたものだが、今にして思えば、そこで世間の常識というか、人情の機微を学んでおけば……と思わないでもない。

ま、どのみち「創作者の集まり」だった大学の文藝部に私の居場所はなかったわけだけど。

平成23年9月17日

昨日の記事からの流れで、リンク先の資料をざっと眺めてみた。

登録会員数

登録会員数の推移

まず、はてなのIDを持っている人数は上記の通り。幽霊会員が多々含まれているとしても、会員数は増えていると見て間違いないと思う。なお、グラフは示さないが、PC版の閲覧者数は2006年には779万人/月だったが、2011年には2300万人/月で、3倍増となっている。

かつて登録会員数と閲覧者数の比率は1:20くらいだったが、現在は1:10程度だ。はてなの広告資料によると、某大手ブログAでは1:2.3なので、はてな会員は某大手ブログAの会員の5倍近い情報伝達力を有していることになる。「話題作りのプレゼント企画なら、はてな会員向けにやるのが高効率ですよ」みたいな?

以下は、はてなのコンテンツの閲覧者についてのデータ。原本が広告資料なので、はてなの登録会員ではなく、はてなのコンテンツをどんな人が見ているのかが重要だということ。

男女比

男女比の推移

もともと多かった男性が、さらに増えて7割に達した。「そもそもはてなを見てる人が少ないのだから、苦手な女性層取り込みに躍起になるより、得意な分野を伸ばす方がいい」というセオリー通りの展開……かな。

居住地域

居住地域の推移

関東への一極集中が進む。ポジティブに考えれば、関東で地歩を固めている状況だ。三大都市圏の合計割合は微増。総閲覧者数はどんどん増えているのだから、はてなは地方で順調に閲覧者を増やしている一方、近畿と東海で伸び悩んでいる。ただし近畿・東海でも閲覧者の絶対数は増え続けていることに注意。

年齢層

年齢層の推移

はてなは中年に人気。35〜44歳が全閲覧者の4割を占め、45〜55歳が2割強、25〜34歳が1割強。25〜55歳で75%にもなる。気になるのは、18〜24歳の年齢層の利用者が3%しかいないこと。0〜17歳の利用者と合わせても17%に過ぎず、いささか将来性に不安を感じるデータとなっている。

ただし、はてなの閲覧者数が3倍に増えていることを考慮すると、若年層においても絶対的な利用者数は増えていることに注意。あくまで相対的に、若年層が存在感を失いつつあるということ。

世帯年収

世帯年収の推移

2009年以降、平均以下の世帯年収の層が増えてきていることがわかる。閲覧者が増えるに従い、世帯収入の面では、ユーザー層の偏りが解消されつつある。

関連:

平成23年9月16日

はてブで評価の高い歴史(通史)の本ってどんなのなんだろう……と思って検索したら、この記事が出てきた。

こういう記事に、はてブがたくさんつく。すごいな。ちなみに私は、「これは自分には関係ない記事」だと思った。

はてブのユーザー層の内訳って、どうなっているのだろう。はてなの広告商品案内資料のP10を見ると、はてブ読者の34%が世帯年収700万円以上なのだそうだ。こうした読者層に受ける記事をブクマしているのは、やっぱり同じような属性の人々なのだろうか。

先ほど記事をリンクしたブログ、なんか見覚えがあるんだよな……と思って、記憶を掘り起こしてみると、はてブで人気の記事がいくつもあって、私もその記事のタイトルにくすぐられて何度か読みにいき、そのたびに「自分には関係ない記事だった」とガッカリしてきたブログだったことがわかった。

中には「大学の新入生必見」なんてはてブコメントのついている記事もあったけど、やっぱりそれも私には手が出ない水準だった。私は大学では成績上位層だったはずなんだけど。読書猿さんの記事が「新入生必見」だなんて、一体どこの大学の話なんだろうか。

まあ、私と同学年に限っても、私が得意とした「学校のお勉強」ですら、私より優秀な人が10万人くらいいる。全日本では600万人以上になるだろう。600万人……すごい人数だ。1000や2000のはてブが付いた記事が、私には役立てられない高水準な内容だったとしても、とくに不思議はないということだよな。

おまけ

はてなユーザーの世帯年収

これも読者の側のデータであることに注意。また、はてブの読者に限定すれば相変わらずリッチであることは、上述の通り。

平成23年9月15日

聴くだけ世界史(古代~近代へ)

高校までの学校の歴史の教科書は「無味乾燥」と批判されることが少なくない。教科書ではないが、教科書風に編集された『聴くだけ世界史 古代-近代』から「身分制議会」の項の一部を紹介する。

プランタジネット朝のジョン王は、フランスのフィリップ2世に敗れて大陸領の多くを奪われ、また教皇インノケンティウス3世に敗れて、教皇の封建的臣下になるなど失政が続いた。そこで貴族たちは、王にマグナ=カルタを認めさせた。しかし、ジョン王の子ヘンリ3世がマグナ=カルタを無視したため、貴族のシモン=ド=モンフォールは反乱を起こし、それまでの貴族の会議に都市の代表などを加えた議会を開いた。これが、イギリスにおける身分制議会の始まりである。その後、エドワード1世時代には、後世の議会の模範となった模範議会が開かれ、14世紀には上下二院制となった。

年表
1215 マグナ=カルタ(大憲章)
1265 シモン=ド=モンフォールの議会
1295 模範議会

聴くだけ世界史 古代-近代』に「マグナ=カルタ」が登場するのはここだけであり、その解説も引用した部分が全てだ。「簡潔すぎて論外!」と怒る人の顔が目に浮かぶ。私も、高校生の頃は、そっち側だった。

何せ引用部のような圧縮された記述が400ページ近く続くのだから、ふつうに取り組んだらウンザリして放り出すこと間違いない。それに、これだけの記述ではマグナ=カルタが何なのかすらわからない。カードゲームの一種と誤解されたりして? そのあたりはやはりどうしても資料集などで補足する必要があると思う。

が、それでもなお、今の私の中では、かつて受けた「山川の教科書を暗記するまで勉強しなよ」というアドバイスは正しかったな……という気持ちが勝る。

マグナ=カルタの具体的な内容とか、それが後の歴史に及ぼした影響、あるいはマグナ=カルタ起草時の面白いエピソードや、その背景にあった思想やら何やらという話は、たしかに面白いだろう。けれども、マグナ=カルタについてまず押さえるべきは、マグナ=カルタは貴族が王を掣肘するツールとして登場し、それだけでは不足だったので議会という機関が誕生した、という流れなのだと思う。

イギリス王はなぜ戦争に連敗したか、貴族がなぜマグナ=カルタや議会を発案したか(発案できたか)、など疑問を持つ人もいよう。憲法とは何か、立憲君主制とは? なども興味深いテーマだ。が、個人的な興味に深入りする前に、まず通史を概観すべきではないか。学習意欲も、時間も限られている。引用したような簡潔な記述の積み重ねでさえ、上下巻で400ページ近くを費やさねば世界史を語り終えることはできない。歴史のお勉強が大好きな人は内容豊富な教科書を読み込むこともできるのだろうけれど、全員が取り組むには荷が重い。

エリート様はあれこれ無茶をいってくださるが、庶民の教養としての世界史は、高校レベルでも高度すぎるくらい。私は高校1年で世界史を履修し、定期テストでクラス上位の成績をキープしていたのに、シモン=ド=モンフォールの議会とか模範議会といった言葉に聞き覚えがない。授業は1年を費やしてアメリカ独立戦争まで進んだので、勉強していないはずはないのだが。「世界史? 得意だったよ」という昔のクラスメートも、ホンモノを除けば実態はそんなものだって。

歴史の好きな人に、「これくらいの本で勉強している」という話をすると、「こんなスカスカの本じゃ何もわからないよ」みたいなことをいわれたりするんだけど、「そうですよねー」と受け流すのがよいと思う。

学研の『聴くだけ』シリーズ+資料集
聴くだけ日本史古代~近世 聴くだけ日本史(近現代) 聴くだけ世界史(古代~近代へ) 聴くだけ世界史(近現代) 詳説日本史図録 第4版 最新世界史図説 タペストリー

余談:

ネットで有名な『世界史講義録』は、ほぼ同じ内容を2.3倍の字数を費やして説明している。意外にコンパクトで、スッキリとした解説だが、ほんの少し説明を詳細にするだけで分量が2倍以上に増えてしまうことがわかる。

ちなみに『世界史講義録』はひとつの記事がだいたい50分の授業1回分に相当し、『聴くだけ世界史 古代-近代』の項立てで3〜5項目、読み上げ音声にして15分くらいの内容を扱っている。週に3回授業があれば9〜15項目進むわけで、まじめに取り組んでみると、これはなかなかハイペースだ。

私は小学生の頃から社会科の先生が嫌いだった。教科書を最初から最後までちゃんと授業中に取り扱った先生が、小中高で2人しかいなかったからだ。「授業でやらなかったページは自習してください」は3学期の恒例行事。しかし『世界史講義録』などを見るに、ちゃんと1年で教科書を終えるのは容易なことではない。

そうはいっても、教科書が終らない教師はダメだろ、と思う。思うが、ハードルを越える難しさも理解したということ。「プロなんだから」などといって切断するのは、私の流儀ではない。

平成23年9月14日

知人のやってる勉強会(っぽいもの)で、日本史がブームになっている。私の役どころは「物識り」なんだけど、日本史は詳しくない。まあ、私程度が「物識り」役を務めて問題ないくらいの場なので、センター試験で60点くらい取れたらいいんだろうけど、凡人にはこれが難題なんだ。

1.

こういうとき、頼りになるのが図書館の児童書コーナーと青少年コーナー。大人向けの教養本はいろいろあるんだけど、経験的には、ああいうので楽をしようとすると、結局は二度手間になるんだ。

岩波ジュニア新書 日本の歴史(全9巻/1999-2000)
日本社会の誕生―日本の歴史〈1〉 (岩波ジュニア新書) 飛鳥・奈良時代―日本の歴史〈2〉 (岩波ジュニア新書) 平安時代―日本の歴史〈3〉 (岩波ジュニア新書) 武士の時代―日本の歴史〈4〉 (岩波ジュニア新書) 戦国の世―日本の歴史〈5〉 (岩波ジュニア新書) 江戸時代―日本の歴史〈6〉 (岩波ジュニア新書) 明治維新―日本の歴史〈7〉 (岩波ジュニア新書) 大日本帝国の時代―日本の歴史〈8〉 (岩波ジュニア新書) 日本の現代―日本の歴史〈9〉 (岩波ジュニア新書)
小学館 Jr.日本の歴史(全7巻/2010-2011)
Jr. 日本の歴史 (1) 国のなりたち 旧石器時代から飛鳥時代 (ジュニア 日本の歴史) Jr. 日本の歴史(2) 都と地方のくらし 奈良時代から平安時代 (ジュニア 日本の歴史) ジュニア 日本の歴史 3 ジュニア 日本の歴史 4 ジュニア 日本の歴史 5 ジュニア 日本の歴史 6 ジュニア 日本の歴史 7

小学校高学年から……というのだけれど、まずこの分量がすごい。「こんなの本当に小中学生が読むのか?」と思ったのだけれど、調べ学習とかで需要はあるのだそうな。

小学館のは版型が大きく、図版も多くて、内容豊富。小学生が何かに興味を持ってまじめに勉強したら、両親よりも学校の先生よりも(特定の分野については断然)詳しくなることがよくある。そういうことに驚く大人は、いっぺん図書館へ行ってごらんなさい。これほどの本があるなら当然だな、と納得できますよ。

とか何とかいいつつ、私はどちらのシリーズも挫折したので読破できてません。いや、だってさ、単純に文字が多すぎるよ。1回読むだけで、どれだけ時間かかるの。小学館の本とか、ハードカバーで重たいから、手が疲れるし。これは無理! もっと関心が高まってから再挑戦する!

2.

何ていうの、社会人が片手間に勉強するんだし、試験を受けるわけじゃないし、勉強会に本は持込可だし、もっと手軽に勉強したいよね……というわけで、お世話になったのがこちら。

学研 聴くだけ日本史(全2巻/2010-2011)+聴くだけ世界史(全2巻/2011)+資料集
聴くだけ日本史古代~近世 聴くだけ日本史(近現代) 聴くだけ世界史(古代~近代へ) 聴くだけ世界史(近現代) 詳説日本史図録 第4版 最新世界史図説 タペストリー
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山川よりちょっと水準低めの教科書みたいな本。ただし図版が少ないので、別途、資料集がほしい。タイトルに「聴くだけ」とある通り、本文をそのまま音読する音声データ(2巻で計14時間)が入ったCD-ROMが付録についているのが最大の特徴だ。

頭のいい人は「14時間は長すぎる」と思うのかもだけど、私くらいだと、むしろ早く感じた。最初は本文に目を通しながら聞いていたが、読む方でつっかえて音声を止めたくなることが多かったので、勉強の仕方を変えた。

  1. まず資料集を眺めたり料理したり漫画を読んだり散歩したり昼寝したりしながら3回くらい流す。
  2. それから本を開いて「へー、こんな漢字表記なんだ」とか思いつつ、聴きながら読む。

以上。きっとテストを受けたらボロボロだろうが、個人的には「これくらいで十分」と感じた。流れで『聴くだけ世界史』もやってみた。こっちは図解が多くて内容が大胆に絞られているから、2巻で音声は10時間くらい。趣味のお勉強なら世界史の方が軽くていい。

いま語学春秋社から『石川晶康のトークで攻略日本史B Vol.1』『Vol.2』が発売されている。これは解説が詳しくて、2巻で26時間分の講義が収録されてる。「その方がいいじゃん」って思う人が多いかな? でも私は、片方を選ぶなら、聴くだけシリーズのように教科書風の簡潔な文体の方がいいと思う。人生の最優先課題が日本史の勉強なら、両方ともやるのが一番いいのだろうが、時間も興味・関心も有限なんだよね……。

平成23年9月13日

1.

必要なのは
「いざというときに、特に知識面で相談できる人が近くにいること」でしょうか。
これは別に「社会が」なんて大上段でなくて構わないんです。
町にひとつくらいに、子供が病気したときとか
私ではどうしたらいいか分からないときに「いつでも」相談できる場所があればいい。
近場に小児科医などはあり、良い先生でしたけれども
この「いつでも」という安心感は与えてくれませんでした。
並んでいたら待たなければいけないし、あまり小さなことでは相談しにくかったりと
完全ではなかったように思います。

私たちは子供のことを基本的には自分で何とかしたいと思ってます。
社会に甘えたいわけじゃありません。そんなにたくさんを求めていません。
ですが、もう少し安心して子育てしたいと思ってます。
ちょっとだけの理解と、いざというときのための手助けがあればいいなと思ってます。

もう少し社会というものを信頼させてほしいんです。
私は子育て時には「社会」というものに対してかなり不信感を強く抱きました。

個人的には、この増田さんの要望は、実現するのがとても難しいと思っている。

2.

私の周囲でも「子育て中はいろいろ不安だから、相談できる相手がほしいよね」という話は何度か出てきた。だがそのとき、「ただし……」と続く条件がある。

素人に、ただ経験者だというだけで偉そうに指図されたり、プライバシーに踏み込まれたりするのは絶対にNG。病気への対処、健康管理、育児・教育の全てについて信頼できる知識の持ち主で、しかもカウンセリングの技能があって、「あの人になら何でも相談できる、相談したい」と思える人がほしい。

さらに詳細を伺うと、次のような意見が出てくる。

これは、ボランティアを募って対応できる話ではない。健康相談まで受けるのだから、相当高度な教育を受けている必要がある。そのうえ増田さんが実質的に求めている「いつでも」「待ち時間ゼロ」「些細なことでも相談しやすい」を実現するには、数十万人のマンパワーを要する。人件費だけで約2兆円。育成費と施設費も、かなりの金額になる。

3.

両親や義父母と同居しても、パパ友やママ友同士で仲良くして悩みを相談しあっても、ご近所付き合いを濃密にしても、自分が本当に求めているレベルの支援は得られない。それでいて、これらの人間関係を維持するために必要なコストは(主観的に)耐え難い水準。

具体的には、例えば、3分間愚痴を聞いてもらうためには、その後で10分間もご高説を拝聴せねばならない。しかも、聞いたことを実践していないのがバレると、さらに30分のお説教が追加される。そのうえ感謝の強要だ。こんなことでは、とても割に合わない。少なからぬ現代人が、今や、そう思うようになった。

増田さんの「ささやかな望み」の実現費用は消費税1%分くらい。これが真に「社会への信頼を回復する切り札となる政策」なら、私は増税に賛成するが、実際のところどうか。

増税が嫌なら、「自分にできる以上のことを他人に求めない」前提で話を組み立てるしかない。お勉強して育児と健康のエキスパート+カウンセリングの達人になって、地域の人々のために空き時間の全てを開放する……とか、無理でしょ? 自分にできないことは、他人にもできない。自分自身を見つめ直さずに「社会に不信感を覚えました」といっても、どうにもならない。

4.

ふつうの人は、自分が納得できるやり方でなければ、無償で他人を手助けすることはできない。だから、増田さんのように干渉を拒否して理解だけを求めるなら、お金を出して人を雇うしかない。そんなの「本物の親切」じゃない、と思うかもしれないが、「本物の親切」は貴重品。一般人とは無縁のもの。

干渉が嫌なら、かわりに給金を支払う。干渉は嫌、お金も払いたくないなら、助けを呼ぶのを諦めるしかない。ここはそういう世界なんだ、と割り切れば、道は拓ける。

平成23年9月12日

1.

2010年5月に『米当局が株式取引をすべてキャンセル(無効)に… まさかの禁じ手発動で資本主義崩壊www』なんて話題があった。もちろん資本主義は崩壊していない。スイス銀行の強力な為替介入から一週間、早くも市場は落ち着きを取り戻している。

何か異例のことが起きるたび、「雪崩を打ったように大きな変動につながる」と煽る人がいる。スイスの件で私が注視していたのは、スイス国債が「暴落」するという主張。結論からいえば、為替の影響をいくらか調整するにとどまり、取引状況も落ち着いている。日本のGDPはスイスの8倍強だが、この8倍の差が「日本が同じことをしたら大変なことになる」理由といえるのかどうか。

海外の投資家が持っている日本国債は少ない。スイスのような断固たる為替介入をしたとき、ドル建てで日本国債の価格を維持するような市場になるとは思えない。利率がそこまで上がらないうちに、国内の投資家が「これは割安だ」と思って買うと思う。為替レートと国内のインフレ率はいまいち連動していないので……。

2.

「自分の信じる正義のためなら手段を選ばない」というのはテロリストの論理。せめて手段を選ばなかったことの代償くらい理解したうえで行動に移してほしいのだけれど、当然の結果に「失望した」と素でいっているように見えるから首を傾げる。追記によれば自分が正義だとは思っていないというのだけれど、だったら何だと思っていたのか、そこがわからない。

コメントレスで「プライベートアカウントは計数に含めないでほしい」という意見に同調しているが、プライベートアカウントだけで5ブクマに達した記事のほとんどは、少なくとも私にはSPAMには見えない。自分にとって目障りなものを撲滅するためなら、多くのものを巻き添えで犠牲にしてもかまわない(それらは自分にとっては価値のないものだから)みたいな発想をする人だから、テロリストの論理と親和的なんだろうな……。

3.

私はbookscanのプレミアム会員サービスが始まったばかりの頃からのユーザーなんだけど、月に50冊ずつのスキャンだから、まだあと1年分くらいスキャンしたいものが溜まっている。

問題は、あと1年、サービスが続くかどうか。書籍のスキャンは、自分でもやってみたことがあるけど、面倒くさすぎて私には無理。金持ちっぽい人が「自分でスキャンしてるよ」という記事を書いているのをときどき目にするけど、きっとその人はスキャン作業自体が楽しいのだろうな。

作者と出版社がスキャン代行業者に申し入れをしたというニュースに、私は戦々恐々。そこへ自炊代行ドットコムのこの回答が出て、目眩がした。喧嘩になりそうなことは、やめてほしいんだよね……。せめてあと1年、bookscanが業務を続けられたら、私はそれでいい。

私が素人なりに法律を読んでも、スキャン代行業者は旗色が悪い。私は権利者に害のあるようなことはしていないと思うし、今後もしないつもりだけど、数万人の利用者の中に数十人でもひどく悪いヤツが出てきたら終り。よくこれまで続いてくれたとも思うけど、どうかあと1年、続いてください。続いてください!

4.

早生まれは損か』にあるように、いくつかのスポーツでは、選手の生まれ月に明確な傾向が観察されている。連続殺人犯の誕生月に何らかの偏りがあるという話も、頭から「ありえない」と決め付けるのは早計。偽相関だとしても、相関があるというデータは研究の端緒となる。→検証する価値のある与太話(2006-12-21)

ただ、そもそも論をいえば、競技人口に比して選手の人数はとても少ない。「選手の中で何月生まれが多いか」なんて、重要な論点ではない。「選手になった人の大多数に当てはまり、選手になれなかった人では僅かな人にしか当てはまらないこと」を探求する方が有意義だと思う。同様に、連続殺人犯も例外的存在だ。「連続殺人犯にはどのような人が多いか」より、「どのような人が連続殺人犯になりやすいか」を考えるべき。

みんなのイメージに乗っかって「妻の話」といっているのだろうけれども、男女差というのは、仮にあるとしてもそれは平均値の差。かなり明確に性差の出る高校生段階の体力テストであっても、女子の平均値を下回る男子が4〜5人に1人程度はいる。

リンク先の記事が「妻の話」という書き方をしたことがことさらに問題だとは思わないが、「そんなの男女を問わないよね」と指摘したくなる側に、現在の私は共感する。

少なからぬ人の心には、世界をより単純に把握したいという欲求がある。もともとは人を観察してザックリと大雑把な分類をしたはずが、いつの間にか簡単な分類を守るために人の方を変えようとしはじめる。他人事のように書いているが、私自身、ふと気付くとそういうことをやっている。なかなか難題なのである。

5.

リンク先自体はつまらないのだけれど、後者の記事にxgst8pさんが寄せているコメントが刺さった。

「一般論」を見ると粗を探してしまう性格でして。申し訳ありません。

個人的には、なぜ、「「あいつ」は「いま」電車で化粧をするのか」に興味を示さず、「なぜ「最近の」「若い女」は電車で「平気で」化粧をするのか」に関心をもってしまう自分に対する不信感がそうさせています。

目の前の特定の人物の行動に対して疑問を抱いているのだから、その人に接触して質問をするのが一番いいんだ。でも、そうしない。もっと大きな括りで問題を捉えなおして、根拠の怪しい仮説に飛びついてしまう。なぜだろう。より少ない労力で、より大きな謎に答えを出した気分になれて、主観的に効率がいいから?

6.

それぞれ何かしらいいたいことがあったんだけど、略。

平成23年9月11日

1.

「言論統制だ!」といっている人の何割くらいが本気なのかわからない。目的が手段を正当化するという発想は私の中にもあるが、私はこのような反発の仕方はし(たく)ない。

2.

耳に痛い話。とくに「問題の過大評価」には心当たりが多く、身につまされた。

3.

別に彼のことを責めるつもりはないんですよ。彼に悪気があったとは思わない。むしろ、その程度のことも知らなかった僕が悪いのだし、笑われても当然のことだと思う。

それでも正直しょんぼりした気持ちになりました。講義の時間に先生に言われたとか、僕自身が実験の真っ最中だとか、テスト直前だとかじゃなく、世間話のレベルででしたから。もっとも、その悔しさをバネにネットワーク通信のテストではそこそこのテストを取れたから今となってはありがたい限りなんてすけどねw

悪気があろうとなかろうと、良い悪いの話をするなら、「よくない。もっと他の言い方をした方がよかった」が私の意見。感情を素直に発散できたことへの満足感は、果たしてtek_kocさんの「しょんぼり」と釣り合っていたのだろうか。「よくない」を前提とした上で、人間なかなかそういうふうにはできないし、こうしたこともお互い様なわけで……という話なら、「ま、そうですね」と私もいう。

悔しさをバネに云々というのは、当人がいうからいいので、つまりtek_kocさんが書くのはいいのだが、tek_kocさんをしょんぼりさせた側がそういうことをいったら、私は怒る。

4.

「わかるわかる!」って感じがした。メリットもないのに、思考に枠をはめてしまうのは、不幸のもと。Excelは表計算ソフト「だから」書類の作成に使うな、みたいな人とか、そんなことでプリプリして何のいいことがあるのかと思う。具体的な不都合があれば、その点を指摘すればいいだけの話。

5.

数千万人もユーザーがいるのにサービス終了。Slideなんて昨夏に買収されたばかりじゃないか。ユーザーがかわいそうだ。もし可能なら、引き取り手を探す努力をしてくれないか。

日本でLivedoorやGMOがいろいろなサービスを買って、数年後にジリ貧状況からの逆転が望めないサービスを終了していくのを、私は残念に思っていた。個人サービスや独立系の零細企業の方が、ジリ貧の状況でもサービスを継続してくれる割合が高いように見え、1ユーザとしては何のメリットもなかったな、と。

でも、Googleの所業をこうして目の当たりにすると、LivedoorもGMOも良心的だったな、と。freeweb、HOOPS!、Tripodを買収・併合したiswebを買った楽天も、無料版7年間、有料版は9年間、逆境に耐えてよくサービスを継続してくれたと思う。

6.

こういうのをみるたび感心するが、立派な手法を紹介してくださるご当人が、毎回ちゃんと道具を使っているかとうと……。仕事とかで「さあ使うぞー」といって使うくらいが、実際には限界なんじゃないかと思っている。「頭の中で無意識にこういうことをやっているんだ」といわれるのかもしれないけど、私にはとても信じられないな。

7.

私の回答

平成23年9月10日

1.

エコではあるのだけど、経済発展にとってはマイナスか。まあ中古でも売れれば何も売れないよりかはいいんだろうけど。 / スマホ、家電、古着… 中古品なぜうける?  :日本経済新聞 URL

経済成長とは付加価値の増大。もし中古市場が新品市場より大きな付加価値を生むなら、中古市場が大きくなって新品市場を食っていっても、経済は発展する。でも経験的には、中古市場より新品市場の方が大きな付加価値を生み出すことが多かった。「中古品が人気→経済が心配」という連想が働くことに疑問はない。

2.

「リフレ派」的には(「インフレ」「地価高騰」「景気刺激による労働力の広域移動の加速→大都市部においては更なる過密・再開発、地方部においては更なる過疎」etcを伴うが故に皮肉な事に不況期の現在以上に国民・メディア世論に政治が総攻撃される可能性が極めて高い)「リフレ」「経済成長」政策の困難性、、、

リフレ派の前提として、「日本経済の潜在成長率は1%台半ばより高い」というものがある。もし潜在成長率が1%台半ばなのだとすると、「デフレを脱却できていたら2000年代半ばの経済成長はもっと力強いものになっていたはずだ」という金融政策当局への批判が、成り立たない。

無論、名目で大きな経済成長を実現していれば、政府の借金はこれほど増えなかっただろうが、それってつまり名目で経済成長すると所得税などが自動的に増税になるという話であって……。

日本の税収弾性値は長い目で見れば1.1くらいといわれているけれども、ならばどんどん経済成長していけば税収も際限なく伸びるかといえば、やはりそうではない。適当なところで減税を余儀なくされる。実質経済成長率が年率4%を超えていた時代でさえ、減税は不可避だった。名目成長の多くがインフレ由来だった場合、減税圧力はさらに高まることが予想される。「リフレで税収回復」は、どこかで頭打ちになる。

話を戻すと、リフレ派が思い描くような状況が実現するためには、やっぱりデフレからインフレに転換するだけでは足りなくて、実質経済成長率も最低2%、できれば3%の実現が条件となる。「まずはデフレ脱却」とはいっても、経済成長促進策も絶対に必要。で、数年かけて、私なりにいろいろ本などを読んできた。

そうして見えてきたのは、経済学者の提案が民主主義的に却下されてきた歴史。その一端は2011年1月に(地域格差問題)と題した7つの記事にまとめた

経済成長は「合理的な変化」なしに実現し得ないが、人々は「自分だけは変化せずに経済成長の果実を得たい」と望んでやまない。過去、変化が加速しても、不況になっても、為政者たちはテロリズムに襲われた。先進国へのキャッチアップを概ね終えた今、魔法の種は、もはや尽きているわけだが……。

今回、あらためて考えてみたけれど、やはり1月に書いた記事が、私の当座の結論。土地に縛られた人々を肯定し、年3%の実質経済成長は諦めて、社会福祉はジリ貧になり、座して苦難を耐え忍ぶ未来しか見えない。4月には現実味を無視して思うところを書いたが、まあ、自棄のやん八(やけのやんぱち)の類かな、これは。

3.

高齢者の大多数は貧しいので、さして有望ではないと思う。将来への不安から消費を抑制したい気持ちと、自炊や買い物が面倒くさいという気持ちのどちらが勝つかと考えてみれば、大多数の人は宅配サービスにお金を出さないだろう。現在よりは市場規模が大きくなるにしても、いうほど有望だとは思わない。

より具体的に書けば、配達コストと消費者が受け入れられる価格の兼ね合いを考えると、相当に人口密度の高い地域でしか、「みんなが使ってるサービス」にはなりそうにない。高齢者がみな足腰弱っているのかというと、意外にそうではない。自家用車で移動できる高齢者の割合も相当に高い。老後の乏しい生活資金を宅配ごはんに投じるだけの動機がある人は、じつは限られている。

となると、「人口密度が相当に高い地域だけでサービスを展開し、宅配料金ゼロ円を謳う」くらいしか、私には宅配ごはん普及の道は想像できない。宅配ごはんは有望なビジネスというより、人口減少時代と少子高齢化を生き抜くための消耗戦のひとつであろう。

本当に超有望だと思う方は、起業するなり、投資するなりなさったらよい……と思ったが、個別の企業が成功するかどうかということは、高齢者向け宅配ごはん業界が高度成長するかどうかとは別問題なんだよな。評論家が未来予測に成功しても、当人は必ずしも経済的に成功できないのは、おかしな話ではないわけだ。

順番からすると、宅配ごはんよりこっちが先に普及するんじゃないかと私は思っているのだが……。

4.

はてブで知恵袋のベストアンサーがすごく注目されていたのだけれど、おかしな内容で首を傾げた。その後、AntiSepticさんの指摘に行き当たり、「やっぱりそうだよね」と。不換紙幣について「本当はタダの紙切れ」という感覚があって、それで自分では説明できないまでも、「これは変じゃない?」と思う人が少なかったんじゃないかな。

平成23年9月9日

注:以下の記事中で「DQNネーム」と「キラキラネーム」は同義です。

1.

これがもし本当だとしたら、差別であり問題。もし今後、「当人は公平に本人の能力だけを評価したつもりであっても、キラキラネームの応募者に対して(平均すると)実力より低い評価を与える」ことが実証されたなれば、いずれ「採用の過程では履歴書に本名を記載しない」というガイドラインが定められるのかも。

「当落線上の争いにおいて名前で損をする」くらいであれば、統計上は差別が認められても、個別の事例について差別を認定することは不可能だ。キラキラネームの線引きも難しい。微妙な領域を突き詰めても、あまり成果は見込めない。だから、百歩譲って当落線上で損をするまでは、仕方ないとしようか。しかし、キラキラネームの人を端っから色眼鏡で見るのはNGとすべき。

リンク先などを見ると、キラキラネームの人の能力を頭ごなしに「低い」と決め付ける言説が横行していて不愉快きわまりない。統計的に差が出る可能性は否定しないが、個人差の方が大きいのは明らかではないか。「そんなことはわかっているよ」という人もいるのかもしれないが、わかっているなら差別的な言動は慎むべき。差別言論が誰に咎められることもなく流通している社会で、人がどれだけ傷つくか、よく考えてほしい。

2.

統計的に、身長と出世には弱い相関があることが知られている。背が高い方が出世しやすい。だが知能と身長には相関がない。また、管理職に高身長の物理的優位点が役立つ理由も見出されていない。結局、高身長が周囲の人々に与える好印象が、出世の原因だといわれている。他に有力な仮説がないらしい。

では、多くの調査が示した、統計的に有意な白人と黒人の学力差を、どう考えるか。この学力差は、先天的な能力差を証明しない。家庭や学校、暮らす街などについては条件を揃えることができても、社会に蔓延する差別意識の影響までは取り除けないからだ。「黒人は学力が低い」という偏見は黒人の意欲を殺ぎ、個人差は大きいものの、統計に現れる規模で差別の自己実現が起きてしまう。

PISAの学力テストの結果を見ると、学力トップクラスのフィンランドでは数学の成績に男女差がない。ところが、他の参加国では軒並み男子の方が好成績だ。しかしフィンランドの女子には負けている。フィンランドの人々が先天的に特殊だと考える根拠はない。とすると、多くの国において、「女の子は数学が苦手」という決め付けが自己実現されていることが予想される。

現代の日本で、小中学生の親や、先生たちが、「女の子は数学ができなくてもいい」と言い聞かせているだろうか。基本的に、そのようなことはないはずだ、と思う(いつも例外はある)。それなのに、学力テストの結果には明白な男女差が生じてしまっている。

無根拠な差別を放置すると、いずれ差別は自己実現し、差別は「単なる事実」として流布されるようになる。空気のように蔓延し、差別と認識されることすらない言説こそ、恐ろしいのではあるまいか。

「キラキラネームの人は親に恵まれなかったので能力が低いに違いない」という偏見の蔓延を放置すれば、人々の差別が自己実現し、キラキラネームを付けられた子どもたちが発達を阻害される可能性がある。「名前で能力を決め付けるな」という素朴な主張を、何度でも繰り返さなくてはならない。

追記:

宮本さんの問題意識がよくわからない。いま注目すべきは、キラキラネーム差別が薄弱な根拠すら失ったという現実ではないでしょうか。

難読名の不都合は私も実感しているところですし、名前で個性を追求してコミュニケーションコストを増やす馬鹿らしさを指摘するのは、賛成です。命名文化の急激な変化への憂慮にも異論はありません。しかし、「キラキラネームだと色眼鏡で見られるよ」的な指摘は、偏見を助長する弊害が大きい。私は賛成できません。

もっとも、社会性のある提言ではなくて、処世術を説くことが当該記事の狙いなのであれば、理解できます。少数派か多数派かはともかく、キラキラネームを色眼鏡で見る人々が存在するのは事実ですし、私たちが片手間に頑張ったって、この手の偏見を駆逐できる見込みもないわけですから……。

平成23年9月8日

1.

「馬鹿」という以上の意味を持たない言葉がどんどん作られていくのは、攻撃対象を限定することにメリットがあるから。

要約版

  1. 自分と攻撃対象を切断したい。「礼儀がなってない」といったらブーメランになるが、「ゆとりwww」といえば自分は安全圏。
  2. 名詞1語の分類ラベルがほしい。入力字数は少ない方がよい。また既存の言葉はどうにもしっくりこないから、新語がほしい。
  3. 相手(の主張)のどの部分を「馬鹿」といいたいのかまで名詞1語で表現したい。「情弱乙」という表現の圧縮率はすごい。

原文(読まなくてよい)

  1. まず見逃せないのが、自分を批判対象と切り離す効果だろう。

    「ゆとり」「老害」「スイーツ(笑)」など、老若男女といった属性で区分した侮蔑語には、対象を少数派にする効果がある。「ゆとり」とそれ以外なら、それ以外の方が多数派になる。これは「老害」も「スイーツ(笑)」も同様だ。「ゆとり」が具体的にどう馬鹿なのかを問題にすると、多方面に批判が刺さって叩きの構図が成立せず、面白くない。だから属性で批判対象を区分し、その他大勢と切り離すわけだ。

    多くの人が自らを批判対象と切断して語りたいと願う限り、この手の言葉は必要とされ続ける。

  2. そもそも分類用のラベルとして必要とされていた言葉も多い。「割れ厨」「購入厨」とか、ゲームハード方面の「GK」「痴漢」「妊娠」などがそうだ。いずれも名詞1語での代替表現がない。

    「**シンパ」「**陣営」「**ファン」といった言葉は、万能のようで案外しっくりこないケースが多い。シンパといったら反体制分子っぽい。個人を陣営というのも難がある。ファンなら掛け持ちが可能で、排他性がない。「GK」「出川」「痴漢」「妊娠」といった表現は、日本語の隙間需要に対応して生まれた。

    分類ラベルとしての需要が大きい言葉は、「分類+意味付け」のうち、「分類」の方が第一義となっていく。「GKにもバカとそうでないのがいる」とか、株価などを見て「現実はGK」、モンハンの新作が3DSで出るという発表に「カプコンは妊娠」などという用例はその表れ。

    「割れ厨」「購入厨」には当てはまらないが、「GK」などについては、直截な表現を忌避する感覚にも合致したのだと思う。ゲハ民にも「内輪で楽しんでいるだけなのでそっとしておいてください」的な人々がいて、「ファミレスでゲハ民がGKとか妊娠とかいって盛り上がっていた」みたいな話題に「隠語を表で口にするな!」とマジ切れする。検索避け文化と心情面で相通じる要素があって、分類語の再発明を厭わない。

  3. 「情弱」「情強」は、自分を切断して他者を一方的に攻撃したい場合には使えない言葉。原発事故に対する「安全厨」と「危険厨」は、お互いを「情弱」と罵り合い、自らを「情強」と位置づけている。ただし自尊表現は「痛い」とされるので、実際に「情強」という言葉が使われるのは、「常勝ν速」「敗北を知りたい」と同類の自嘲ネタが多いと思う。

    「情弱」「情強」という言葉で自分を批判対象と切り離せないのは、何をもって「情弱」「情強」というかについて、コンセンサスがないからだ。お互いが「情弱」と罵り合うことが可能なのは、そのため。

    それでも、「バカ」ではなく「情弱」といえば、論点が絞込まれる。「バカ」では全否定になるが、「情弱」といえば、相手の感情や、論理展開能力への攻撃にはならない。「あなたと私の意見が異なるのは、前提知識に差があるからです」というメッセージになる。同時に、知識(=世界認識)さえ共有できれば、感情の問題も解決する(=私の現在の気持ちに共感するようになる)はずだ、という認識を示してもいる。

    「バカ」では大雑把過ぎる。論理破綻を指摘する「支離滅裂」という言葉と同様、知識(と知識を獲得する能力)の問題を指摘する「情弱」という言葉だって、あれば便利なのはわかる。しかもたった2文字の名詞1語だ。使い勝手がよい。「情弱」も含めて、tt_clownさんが「馬鹿」と言う意味だけが残ったという言葉の多くは、実際には、まだそこまではいっていない。

2.

「GK」「痴漢」「妊娠」というラベルは、コンソールゲームのプラットホームの好みが排他的であることを前提としている。そのため「面白いゲームソフトのファンであって、特定のハードに執着も思い入れもない」という人は、どれにも当てはまらない。「だから分類として不完全だ」という主張があるが、私には異論がある。

小学生の頃、メガドライブのセガ派と、スーパーファミコンの任天堂派の言い争いがあった。やりたいゲームがあって各々のハードを買ってもらったんだから、それで十分じゃないか、というのが多数派の感覚だったろうが、「自分が買ってもらったハードの方が優れていると、他人にも認めさせなければ気が済まない」人がクラスに数人いて、声を張り上げたわけだ。

彼らにしてみれば、穏健派は議論の土俵に乗ってこないのだから、どうでもいい。いないも同然だ。いない者には、分類ラベルを貼る必要もない。

私が思うに、少数の人々が一生懸命にバトルしているところへやってきて、「何を熱くなっているのかと思ったら、なーんだ、こんなことか。くだらない」と吐き捨てて去っていく一般人は、醜悪である。その醜悪さを認識した上で、「それでも冷や水を浴びせるのは正しい」と信じて水を掛けているなら許せるが、多数派根性で少数派の趣味嗜好を侮蔑しているのと見分けが付かない人も散見され、不愉快だ。

自分の直感だけで、安直にゲハの争いを「醜い」と評するなら、個々人のやっていることに差はない。自分が多数派の側にいて、「常識」により近い感覚を持っているから、「醜い」という言葉に頷く人が少し多いだけに過ぎない。でも真の多数派は、ゲハのコップの中の戦争になど関心を向けないよ。

平成23年9月7日

菊池さんも仰っていることだけど、「不安だから勉強したい」のではなくて、「不安にお墨付きがほしい」という心の働きがあるんだな。同時に、益なく有害な「放射能対策」の広まりを食い止めようとする側にも、「間違い」を攻撃することに精を出して、本来の目的に資するところのない言動を繰り返す方が絶えない。菊池さんはブログのコメント欄を閉じた方がいい、と私は思っている。

かくいう私も、自分の気持ちをストレートに表現することを最優先にしていることが多い。でも、他人を見ると、「もっとこうしたらいいのに」って思うんだよね……。

「不安になりたい」症候群

平成23年9月6日

こういう話題になると、とくににおかしくない問題まで「おかしい」といって恥をかく人が出てくる。

ところで、私も運転免許のペーパーテストには苛立った経験があるけれども、リンク先にもある通り、ふつうに解ける問題を落とさなければ合格できる。とはいうものの、それが難しいんだよな。1回だけ行った試験場では「聞いてはいたけど、合格のランプがつかない人って、本当にたくさんいるんだな……」と思った。

まあでも、小中学校の漢字テスト、英単語テスト、地名テストなどの平均点を思い起こせば、何ら不思議はない。多くの時間と10数万円の授業料を費やして自動車学校を卒業し、1日潰して試験場までやってきて、冷やかしのわけはない。可能な範囲内で精一杯の勉強はしたのだろう。それでも落ちてしまう人が、これほどいるのが現実。

自動車社会について、歳を取って運転ができなくなった人の問題はよく出てくるけれども、能力の問題で自動車社会から疎外されている人は、若い世代にも案外たくさんいるんだよな……。私も、ついつい忘れがちなので、注意していきたい。

平成23年9月5日

何なのかと思ったら寄付(=自発的な富の再分配)の話だった。なぜ日本の金持ちは社会貢献に積極的ではないのか、という。『ハーバード白熱教室ノート』に用語解説をゆだねて端的に記せば、「日本では自由主義が有力で、次に共同体主義が力を持っているから」が私の回答。

平等主義が自分の中で大きな存在となっていれば、家族や子孫を過剰に優遇することに後ろめたさを感じるものだ。より多くの貧しい者に手を差し伸べず、我が子の幸せの最大化にのみ関心を向けるのはエゴだと、自分自身に問い詰められることになる。逆に、共同体主義に染まっている人は、身近な者への特別扱いを当然視する。ずっと慈善事業への寄付を続けてきた人が、子どもが生まれた途端、さしあたり経済的な不安はないにもかかわらず「念のため」程度の理由で寄付をやめて教育資金の貯蓄を増やす……とかね、実際には、2つの善のどちらをより重視するか、という形で「私にとって真に重要なこと」は顕現する。

寄付は「高貴」な者の義務、というのは、巧妙な切断操作。不平等に目を向けず、「寄付とは**な者がすることである」という概念を持ち出して、「だから自分は寄付をしない」というエゴをエゴとも思わない。こうした「みんながそう思っているからそうなんだ」式の発想を他のあれこれより重視するのは、共同体主義の系譜。この手の共同体主義と自由主義が組み合わさっているから、日本では寄付が少ない。

かくいう私は功利主義に賛同するところ大で、社会全体でみて幸福が増大する限り富の再分配に賛成する。金持ちイジメで不景気になって全員が損をする……ということにならないギリギリまで再分配を強化するのがよい。逆にいえば、再分配をもっと抑制した方が結果的に幸福の総量が増えるなら、それでもいい。

余談:

かつての日本では金持ちがいろいろな寄付をしていた。でもその動機は平等主義ではなく共同体主義。だから、地元とか、母校とか、何かしら自分と関わりのあるところだけに寄付をしていた。だんだん共同体主義が弱まってきて、強固な共同体が家族にまで縮小されつつあるのが現代の日本。

平成23年9月4日

1.

こうした記事を読んで、「もっと勉強しないと」と考える人がいる。

私も、つまらない情報に振り回されないためのコツを身につける努力はする価値があると思う。でも、素人が片手間に勉強してNATROMさんのような考察ができるようになるというのは、現実的な話ではない。「勉強」したつもりで、断片的な知識を場当たり的に吸収するだけに終ることは目に見えている。

2.

素人が「自分でも何かがわかる」という勘違いをしているために余計な問題が増える、という事例がたくさんある。「**は犯人に決まっている」と決めつけて、裁判の結果を待たずに社会的制裁をする、とかね。

「自分の頭で考える」には問題がある。人には、判断を他人に任せて痛い目に遭うと、自分で考えて理解し(たつもりになっ)てやったことで失敗した場合より、損害を何倍も大きく見積もる傾向があるらしい。自然な感情に従うと、このバイアスに振り回される。だから、意識して対処する必要がある。

ところが世の中には、「判断を他人任せにすると失敗したときのダメージが大きいから自分で考えるんだ」という人がたくさんいる。バイアスを変更不可能なものとみなして、バイアスを与件としてライフハックを考えているわけだ。

社会について考えるなら、「人間って、そういうものだよね」と考えざるを得ないが、自分の人生くらい自分で制御する気概を持ちたい。人生が有限である以上、世の中には「自分の頭で考えない方がいい」ことがたくさんある。主観の歪みに振り回されて不幸になっては、つまらない。私は、そう考えている。

3.

私が実践しているのは、例えば……病気になって医者にかかったら、その指示とか、薬の用法などはきちんと守ること。きちんという通りにしてもダメだったら、他の医者にかかる。患者は、客観的に症状が改善されているかどうかだけを見つめる。自分の頭で考えて治療法をアレンジしない。

「医者の指示に忠実に従う」は、「自分の頭で考えない」の効果がすぐに実感できることのひとつ。それでも、何やかや自分で理屈をつけて、指示通りにしていない人がたくさんいる。私の中でも、この誘惑はとても強く、ときどき屈服する。その結果はデコボコだけど、平均すれば分が悪いよ。

この、「平均すれば分が悪い」という事実を直視することが大切なんだ。これがなかったら、いつまで経っても「経験的には、自分の頭で考えた方がいい」という結論は揺るがない。人は自分の頭で考えた結果について、成功を大きく、失敗を小さく認識するのだから、よほど不運でなければ、当然そうなるんだよ。

個別の事例を見れば、「医者のいう通りにしなかったけど問題なかった」ということはある。医者の指示は必ずしもベストじゃないから、自分で考えて、もっといい方法に到達することだってあるのかもね。でも、10回、20回と事例を積み重ねていけば、医者の方が分がよくなってくる。

何せ、自分の頭の程度は変わらないが、担当医は交代できる。これまで医者との縁に恵まれなかった人も、先の人生が長ければ、いずれ「医者の指示に従う」方が成績がよくなってくる。

お疑いの向きも、まずは実験として、やってみてほしい。3ヶ月くらいやってみて、自分の頭で考えて医者の指示を適当に崩していた頃と比較してどうか、写真とか、検査の数値とか、なるべく客観的に検討できる部分で比較してみてほしい。

平成23年9月3日

はてブで批判が集中するのもわかるのだけれど、だったら日本郵便に課せられている制約の方も一緒に取っ払わないと。具体的には、不採算地域でも統一料金で集荷・配達しなきゃいけませんよ、だからポストの数も一定数を下回ってはいけませんよ、といったルールをどうするのか。

信書配達の独占は、建前を排除すれば、ユニバーサルサービスのコストを調達するために与えられている特権。この特権を奪うなら、ユニバーサルサービスも廃止するのか、固定電話と同様にみんなから小額を徴収するか、税金で支えるか。現状、税の投入は支持を得られそうもないし、万国郵便条約の都合でユニバーサルサービスの完全廃止も非現実的なので、配達料金の1%か2%くらいのコストを負担することになるのだろうな。

ゆうちょ銀行の株式を政府が持ち続けることによる「暗黙の政府保証」も、同じような話。財投債などを経由した税金による利息の補助がなくなった今、金利面でゆうちょ銀行に優位性はない。ゆうちょ銀行が他の銀行が出店できないような田舎で窓口を維持し続けるためには、何らかの支援が必要になる。で、「暗黙の政府保証」だけでは預金流出を止められないことが明らかになったから、預け入れ限度額を2倍に引き上げよう、という話が出てきた。

と、ここまで書いてみて、最近も同じようなことを書いた気がするな……と思った。調べてみると郵政改革、5年経ってようやく腑に落ちたこと いくつか(2010-04-07)が当該記事。1年半前を「最近」と感じるようになるとは、私も歳を取ったものだ。

平成23年9月2日

テレビ番組の司会者として著名な島田紳助さんの引退会見があり、いろいろな人が分析をやっていた。実際のところ島田さんが何を考えていたのかは、もちろん私にはわからない。というか、考える意味のないことだと思っている。私にとって島田さんが、テレビ画面の向こう側の人。言葉を素直に受け取ればいい。

ところで、私が人にお詫びをするとき、大野さんが書かれているような思惑はあるよ。でもさ、だったら何なの。いや、大野さんは何ともいっていないのだけれど、記事の反響の方を見ると、「こういうわけだから、もっと叩いて紳助を凹ませるべき」みたいな空気が充満している。……ハァ、こうして私もまた悪意の解釈をすることから逃れられない。どうしようもないね、これは。

純粋に保身抜きの言葉なんて、ありえない。わざわざ偽悪的に振舞ってさえ、自己の利益につながる解釈は成り立つし、実際、それは当たってもいる。ましてふつうに話して、頭を下げて、それを保身だといえば、まさにその通り。「ごめんなさい」という言葉を文字通りに解釈すれば免罪の要望。「許してください」という言葉なんて、さらに直截。謝罪と保身は切り離せないんだ。謝罪の言葉に保身を見出して批判する人は、ないものねだりをしている。

で、ここからが本題なのだけれど、大野さんの記事は、大野さんの解釈と、実際に島田さんが考えていたことをゴッチャにしていない(と思う)。はてブやTwitterでコメントしている人も、本当は大野さんと同じなのかもしれない。でも、中には境界線が曖昧になっているように見えるコメントが散見され、もやもやする。

「こう思った」は自分の問題。内心の自由。でも、「だから叩いていい」となると、自分の解釈が相手の責任になってしまっている。それは、おかしい。

平成23年9月1日

1.

米国TVドラマの『BONES -骨は語る-』には、専門分野に関しては天才的な主人公の変人ぶりを強調する演出が多々あって、そのひとつに「子どもの頃に家族でボードゲームを遊ばなかったので、非常にポピュラーなゲームに関する基礎的な知識を欠く」という話があった。現代の日本でいうと「ひのきのぼう」「なべのふた」というキーワードから『ドラゴンクエスト』を連想できないようなもの、だろうか。

でも、日本人の大多数は、じつはそんな連想はできないわけなんだよね……。将棋のルールも案外、知られていないし、本当にポピュラーなのって、五目並べ、オセロ、トランプゲームのいくつか……くらい? UNOですら祖父母や伯父・伯母らは「何それ?」だったので、本当の日本人の常識なんて狭いものだと思った。

2.

DOMEMO (ドメモ)

リンク先で語られているようなゲームと並べて紹介すると、「そういうのの話はしてない」っていわれるかもだけど、個人的に気に入ってる卓上ゲームが『DOMEMO (ドメモ)』。知人のやってる勉強会(っぽいもの)に呼ばれたときに紹介されて、これは面白いな、と。簡単で、運の要素もあって、だけど考えなしよりは考えた方が有利で……というバランスがいいです。世評の高い『アルゴ』などは、私には難し過ぎて……。

「**のわかりやすい解説書」とかでもそうなんだけど、私は「小学校高学年向け」とか書かれているのくらいが、本当に「わかりやすい」「楽しめる」の上限。それ以上は、私には「苦行」に片足突っ込んじゃう。だから将棋も囲碁もサッパリ……。とくに囲碁の抽象性は全く受け付けなかった。