備忘録

平成23年10月31日

1.

2.

3.

平成23年10月30日

平成23年10月29日

平成23年10月28日

1.

「店が注文を忘れていて1時間も待たされたので、皿をひっくり返してやった」という話。

「怒る」のは問題ないが、「怒ったからやっていいこと」なんて、何もない。暴力は論外として、例えば「怒ったから大声を出していい」のか? 私はNoという。大本の原因はお店にあったとしても、大声を出すという選択をしているのは自分。怒り方を選ばなかった責任は、誰にも転嫁できない。

怒った人がやっていいのは、怒っていない人でもやっていいことだけ。

2.

あと、個人的には、お互い様の精神でいきたい。「注文が忘れられているのかな?」と思ったら、「いつ頃できそうですか?」と訊ねるようにしたい。完璧な店員も、完璧なお店も、現実には存在しない。私が仕事でミスをするように、お店にもミスはある。ミスを咎めるより、お互いにミスをフォローできる方がいい。

これはひとつの理想であって、現在の私が実際にいつもそのようにできているというわけではないが、とにかく私が目指すのは、そういう世の中。

お節介は無用だ。ダメな店は自然と潰れる。市場による淘汰に任せるべき。全てのお店が、全てのお客さんを満足させる必要はない。ときどきオーダー抜けする店員と、「別にいいよ」という客の組み合わせで成り立つ店だって、あっていいはずだ。お互い緩くやっていきたい人たちにも居場所は必要なんだよ。

私のような間抜けにだって、就職先はあった方がいい。システムでフォローしきれない領域は、常にある。有能ならざる店員と、お互い様の精神を持った客の相互フォローで、底辺の社会を回していきたい。行きつけの店に、ある日優秀な人がやってきて、「何だこの店は!」と怒って皿をひっくり返したら、悲しくなる。

「皿をひっくり返さない」「大声を出さない」という前提があるなら、私は「怒る」ことまでとやかくいわない。ただ、なるべくなら、お節介はやめて、次からは他の店を選ぶという方法を採って、棲み分けに協力してほしい。現状維持でOKな「その店に通い続けている客」にとって、無用の変化を持ち込む人は迷惑。

平成23年10月27日

1.

この記事を見て興味を持って『映像の原則 改訂版』を買ってみたら、文字がギッシリで驚いた。これはこれで貴重な本だろうけど、「視聴者が覚えておくと面白いこと」が知りたかっただけの私には、内容が重かった。一般向けに図解中心で要点・結論・具体例だけまとめたバージョンがほしいな、と思った。

2.

映像批評の書籍だと、画面写真の利用許可が出ない場合、模式図で説明する。構図を語るだけならキャプチャ画像をそのまま使う必要がなく、「引用の必然性を欠く」ということだろう。

ネットで趣味的に活動している方は、安直に画面キャプチャを大量に使用するので、ズルイと思う。こういうのを基準として、有料の書籍に対し「画面写真が少なくてわかりにくい」的な感想を書く人もいる。この悪循環、どうにかならないか。

平成23年10月26日

他人にぶつけた批判が、そのまま自分にも当てはまってしまうことを、俗に「自爆」といいます。自己矛盾の一形態。これに対し、過去に他人を批判した言葉が、後に自分自身を攻撃することを、ネットスラングで「ブーメラン」といいます。

最近は、時間差なしに、いったそばから自分自身を傷つけてしまう批判も「ブーメラン」という人がいて困ります。時間差なしは「自爆」、時間差ありは「ブーメラン」という言葉の使い分けを放棄してしまったら、言葉を増やした意味がない。

平成23年10月25日

1.

このところ、「この話題で記事を書こう」と思ってブックマークしてから、実際に記事を書くまでの期間が長すぎて、どこでその話題を知ったのかを忘れてしまうことが多いのだけれど、これはRinRin王国で紹介されていた話題。

国語の授業で学ぶのは、文章の標準的な読解技術。私は、そう考えています。ところが。

初めて読んだ学習指導要領の内容は、私にとっては衝撃的でした……。

「書いてあることをそのまま読み取る能力」の育成は、国語教育の目標のごく一部でしかない。そのかわりに、様々な分野の評論家がテレビとかで主張してきたこと、それを見聞した国民が「そうだ」「その通りだ!」といってきたことが、いっぱい詰め込まれています。

他方、新聞に載る県立高校入試問題やセンター試験問題には大きな変化がない。とすると現在も、私が中学生・高校生だった頃と同様に、学校の授業を「馬鹿馬鹿しい」と思って見切りをつけ、自主的にコアな読解力・語彙力・漢字力の習得に打ち込んだ人が、好成績を修めていることが予想されます。

多くの国民は、学校教育の成果には不満を持っているとしても、この学習指導要領は大筋で支持すると思う。「書いてあることをそのまま読み取る能力」の育成に注力するような改定には、大反対が予想されますね。でも、私はこういいたいよ。

書かれている通りに文章を読み取る力なしに、有意義なコミュニケーションはありえない。足もとがお留守の状態で、思考力だの発信力だの、そんな応用領域の話ばかりやって、有意義な成果が得られるだろうか。テレビドラマには、早合点と誤解が原因のすれ違いが描かれ続け、多くの視聴者が登場人物に共感している。読解力・語彙力・漢字力という問題解決の一丁目一番地をないがしろにした先に成功はない。

2.ケーススタディー

まず前提知識として、「Stay hungry, Stay foolish」が時価総額世界一の企業を一代で築きあげたスティーブ・ジョブズさんの信条だったことを押さえておく必要があります。国語の課題文なら、補注が必要でしょう。以下では、シロクマさんは前記の内容を知っていたと仮定しています。

なお、私が現代文を最も得意としていたのは、苦手科目を敬遠して好きな現代文の勉強ばかりやっていた高2の頃です。その当時も、私はセンター試験の現代文の問題で確実に満点を取れるようなレベルではありませんでした。それから13年が経っています。現在の実力は疑わしい。なので、よくよく疑いつつ読んでいただきたいのですが、私は、シロクマさんの読解は「受験国語的には間違い」だと思います。

岩崎さんの3つの問いは関連しているのに、シロクマさんはバラバラに読み解き、しかも自分の第一印象を全く疑わず、相手が変なことをいっているのだと決め付けて、文意を取り違えたのです。

実際に岩崎さんがどう考えていたのか、それはわかりません。他の文章も合わせて検討したら、シロクマさんの解釈が正しいとわかるのかもしれない。どちらも間違いで、別の解釈が浮かび上がるかもしれない。しかし、引用した部分だけを受験国語的に「素直に読む」ならば、シロクマさんの読解は間違っています。

問1 課題文中の「スティーブ・ジョブズのような人間」とは、どのような意味ですか。本文中から書き抜いて答えなさい。
私の回答:「Stay hungry, Stay foolish」の体現者
問2 岩崎さんが、自分をジョブズになぞらえる理由を書きなさい。
私の回答:自分こそ「Stay hungry, Stay foolish」の体現者だと思っているから。
問3 課題文中の「ザッカーバーグみたい」という表現について、岩崎さんを「ザッカーバーグみたい」と評した人々は、岩崎さんとザッカーバーグさんに、どのような類似点を見出したのか。次の選択肢から、最も適切なもの1つを選びなさい。
 a) 若い世代に属すること
 b) 不器用な生き方
 c) IT関係の実業家という職業
 d) 社会的な評価の大きさ
私の回答:b)
問4 岩崎さんの自己認識として、次の選択肢から、最も適切なもの1つを選びなさい。
 a) ザッカーバーグさんにもジョブズさんにも似ている。
 b) ザッカーバーグさんには似ているが、ジョブズさんには似ている。
 c) ザッカーバーグさんには似ていないが、ジョブズさんには似ている。
 d) ザッカーバーグさんにもジョブズさんにも似ていない。
私の回答:c)
問4 岩崎さんは「自分とジョブズさんは同じくらい偉大な人物だ」と主張している。(Yes/No)
私の回答:No

岩崎さんの3つの問いは、相互に関連しています。ひとつながりの文章です。

なぜ私がAに似ていると思うのか? Bに似ているとは思わないのか? 私こそBの信条の体現者だというのに。

こう書けば、文章の骨格が見えやすいでしょうか。

  1. 問1の解法:第3文は第2文の補足説明。第3文から該当する箇所を見出す。
  2. 問2の解法:第2文の補足説明である第3文をパラフレーズする。
  3. 問3の解法:第1文と第2文の対比に注目する。また第2文の補足説明である第3文の内容に注目する。
  4. 問4の解法:第1文と第2文の対比に注目する。
  5. 問5の解法:これは問3の確認問題。

3.

受験国語は、「実際に書かれている内容を素直に読めばこうなる」という技術を確認するものです。そんなもの、実社会では役に立たない、という意見もあるでしょう。しかし私は、言葉を素直に読み解く以外に、どのようなコミュニケーションのあり方がありうるのか、疑問に思います。

「他のテキストも合わせて検討すれば、解釈が変わる可能性もある」と、先に書きました。しかしそれとて、テキストに根拠があっての話です。

ケーススタディーで扱った事例について、仮に10人中9人が直感的にはシロクマさんの解釈に賛同するとしても、私が引用した文章だけを根拠とする限り、受験国語的には私の解釈の方が正解(に近い)でしょう。しかし本当に10人中9人がシロクマさんの解釈を支持するなら、「受験国語的な読み方なんて現実のコミュニケーションでは役に立たない」といわれるかもしれない。

しかし、「書かれている通りに読む」と「社会的には誤読」となるような言語では、価値観の異なる者同士の意見交換は不可能です。価値観や先入観を同じくする者にしか通用しない解釈が「正しい」としたら、異なる前提を掲げる者同士の対話は不毛です。

「書かれている通りに読む」のが正解とされていればこそ、書き手が「書かれている通りに読めば自分の意見が伝わる」ように文章を書き、読み手は「書かれている通りに読む」ことで、前提や価値観の違う者同士であっても、ひとつの言語で意思疎通を図ることが可能となるのです。

平成23年10月24日

私がよくやらかす認識ミスとして、「自分の記事に対して否定的な人々をひとつの人格として処理してしまう」というものがあります。

例1

たくさん批判が集まっても、案外その内容は重なっていない。たいていの指摘は少数意見でしかない。にもかかわらず、私はついつい、「全ての批判者が、全ての種類の批判をぶつけてきた」と錯覚しがち。上記の例では、Aさんの指摘とBさんの態度が、私の中では合体してしまい、バカな発言に至っているわけです、

例2
  1. ブログがプチ炎上して、はてブのコメントとかにたくさんの批判が寄せられる。
  2. 手っ取り早いところからひとつずつ反論していくのだけれども、だいたい3つか4つの批判に反論したあたりで疲れる。
  3. 「これだけ説明しているのに」みたいな愚痴を書く。
  4. 「まだ肝心な批判に何も答えていない」と反発される。実際、その反発した人にとっての「肝心な批判」とやらに、私はまだ回答していない。
  5. 私のほうは批判者をひとつの人格に擬しているから、「あなた方」にはもう散々反論してきただろ……という。
  6. でもそれは勘違いなので、通用しない。「ちゃんと答えろ」と言われ続ける。

これは割と勘違いに気付きにくい例。私は「全ての指摘にきちんと応対する」義務を認めませんが、しかし、勘違いは勘違い。「あなた方」は私の頭の中にしかない存在なので、「あなた方」に憤懣をぶつけても実りがないことは認めます。

平成23年10月24日

私は何かきっかけがないと文章を書けない。

昨日の記事はやたら長いが、全体を通していいたいことというのは、とくにない。岩崎夏海さんの質問は、私がここしばらくネットを眺めつつ考えていたことと重なっていた。そこで、岩崎さんの質問に答えるという形式で、あれこれ書いたら、長くなった。

単体で記事にしておいた方が、後で自分でリンクするのに都合がいい文章というのもあるので、一部をリライトして、ほぼ同内容で単独の記事としたバージョンも作っておこうかと今は思っているけれど、きっと、面倒くさがって先延ばしにしているうちに忘れてしまうのだろうな……。

平成23年10月23日

回答してみます。きちんと根拠を挙げる手間を惜しんでいるにもかかわらず、かなりの長文になりました。(追記:余談を3000字ほど削ったので、現在は約1万字となっております)

Q1

私は、岩崎さんは承認欲求の強い方だと思っています。

a)

大多数の方は、多かれ少なかれ他者に認められたいという気持ちを持っているでしょう。私もそうです。けれども、私は多くの場合「私の実力をもっと認めるべき」とストレートにはいうことを避けます。その理由は、私の周辺では、そうした自分の欲望に忠実な言葉は、嘲笑や侮蔑を引き寄せる力が強く、結果的にプライドを傷つけられる結果を招くことを、経験的に思い知っているからです。

世界全体でどうなのかは、わかりません。しかし、私はこれまで、そうした環境に身をおいてきました。そして、そこから出たいとは思っていません。承認欲求の露出に厳しく当たる文化について、私は批判的です。ところが、私は「公言する自己評価が100で実力が90の人」を嫌い、「公言する自己評価が50で実力が60の人」の方を好みます。私はこの情動をコントロールし、せめて表に出さないようにしたいのですが、いつまで経ってもできないままです。

つまり私自身、現時点では、自分が批判し、憎んでさえいる状況を構成している、張本人なのです。本当に承認欲求に寛容な社会へ行けば、私は自分の醜悪さを日々突きつけられることになります。それは耐え難い。私がやるよりずっとひどい承認欲求ヘイトが横行している環境に身をおけばこそ、私は自分を「相対的にマシな人格の持ち主」だと思って自尊心を保てるのです。

b)

さて、はてなダイアリー(の閲覧数上位5%)も、はてなブックマークも、Twitterの一部の方面も、承認欲求ヘイトが目立つ場だと私は認識しています。あえてそのような環境に身をおいて、「もっと私を認めるべき」といった主張をしたら、嘲笑や侮蔑が降り注ぎます。私なら、とても傷付きます。

初めてのことならば、結果を予想できなかったとしても仕方ありません。しかし岩崎さんは、何度も同じことを繰り返されています。その行動を素直に解釈すれば、岩崎さんは「嘲笑・侮蔑欲求」の持ち主ということになります。それもありえない話ではありませんが、可能性は低いと私は思います。とくに根拠はありません。根拠はないけど、岩崎さんが嘲笑・侮蔑欲求を満たすために「もっと私を認めるべき」という趣旨の記事を書いていらっしゃるのではないと思う。

ならばその意図は何か。私はやっぱり、言葉通りの意図なのではないかと思う。正面突破で突き抜けてこそ得られる、巨大なカタルシスを希求されているのだ、と。もしそれが実現できたなら、とてもカッコいい。

くだらない連中に対して、彼らの気分を害しないよう気を配って、嫌味のない自己演出を破綻なくやり抜き、そうまでしてようやく「岩崎はなかなか凄いヤツだ。認めてやろう」と上から目線で下される審判に一喜一憂するなど、卑小な態度です。私だって、それはわかっています。でも、私は、そうでもしなければ私が他人から誉められるなど不可能なのだと諦めています。だから屈するのです。

私は「大きな承認」までは求めていないのでしょう。「ささやかな承認」で十分。だから卑屈になるのです。これに対して、岩崎さんは、どうしても大きな承認がほしいのではないか。だから、あえて近視眼的には損な、茨の道を歩んでいらっしゃるのではないか。

私が「岩崎さんは承認欲求の強い方だと思う」理由は、以上です。

Q2

私は、岩崎さんがはてなブックマークをたくさん獲得すること自体を主目的としてブログを書いているとは思いません。

a)

岩崎さんの記事一覧を眺めるに、はてブ受けをとくに考慮していないように思える記事が、少なからずあるように見えます。

書きたいことを書くのが基本線で、ときどき出てくる「これは、いろいろ工夫をして、なるべく多くの人に届けたい内容だな」という記事についてだけ、本旨を曲げない範囲内でタイトルや記事の構成をはてブ向きに調整しているのではないか。この場合、はてブは自分の記事を宣伝するためのツールとして利用されているわけです。

いくらでも暇があり、自分の中に無尽蔵のアイデアがあるなら、毎日凄い記事を更新し続ければいい。安定的に閲覧者数が1日10万人を超えるレベルになれば、はてブ対策など空しくなるというもの。けれども通常、それは不可能。ならば、これぞという記事だけはてブ向け調整を施すのは費用対効果の高い策だと思う。

岩崎さんの場合、はてなにはアンチがうようよしているので、はてブ以外のルートで「狙って一時的にアクセスを万単位で増やす」方法があるなら、そっちを使いたいはず。Twitterで受けるのは時事ネタということはわかっていますが、記事をどう調整したらTwitterで広まりやすくなるのかについては、はてブほど知見がまとまっていません。「多くの方に読んでほしい→はてブ向け調整」となるのは、消極的な選択では?

b)

自分と異なる価値観に基づく記事が話題になっている状況に出くわしたとき、「これは釣り」ということにすると安心できる人がいます。これはTwitterでもはてブでも同じ。まあ、本当に「釣り」ということもあるのだろうけれど、安直に決め付け過ぎと感じることが間々あります。

で、「はてなブックマークをたくさん獲得することを主目的としてブログを書いている」なんてのも、同じような話だと思っています。そんなわけあるか、と。「釣り」と同様、嘲笑と侮蔑が横溢するはてブをたくさん獲得することに何のメリットがあるというのでしょうか。それなのに、「はてブ乞食」などといって何か説明がついたような気がして安心するという、その感覚の方が不思議。

「得体の知れないものに向き合ったとき、その名前がわかっただけで気持ちが落ち着いてくる」という心理があるそうなので、これらもそのひとつの形なのだろうと思います。

前述の通り、記事のはてブ向け調整は、閲覧者を一時的に増やすための工夫だと、私は解釈しています。自分の記事は大勢にとって読む価値があると信じるからそういうことをしているのだと考えるのが自然ではないですか? 他にもいろいろ考えはあるのかもしれないし、たしかに真実はわからないのだけれど、「釣り」だの「はてブ乞食」だのといった理由付けで腑に落ちるような人々には同調し難いです。

Q3

a)

ネガティブなタグとかつけずに、無言でブクマしている人は、よいところを見ている人だと思う。とりあえず、無言の反応の半分以上が(どちらかといえば)肯定寄りの反応なのだと思って見直すと、気持ちが落ち着いてきます。

私自身がそうなのだけれども、何かの感想を口にするのは、面倒くさい。そして、面倒を乗り越えるための閾値を超えるのは、私の場合はたいてい「これは気に食わない」というケースです。私の母は料理が上手でしたが、おいしいごはんを食べても、私は滅多に「おいしい」といいませんでした。喋るのがとにかく億劫。そんな私でも、たまにちょっとまずい料理が出てくると、即座に「これはまずい」といいました。

自分の体験がそのまま他人に当てはまるとは思いませんが、私は「無言は肯定」とみなすようにしています。

b)

人の心は、10回ほめられたことよりも1回けなされたことの方が印象に残るようにできている、という話を、いろいろな人から何度も聞かされてきました。本当にそうなのかどうかはわかりませんが、私の体験には、よく当てはまっているように思います。

そして、自分にはそういうバイアスがあるのだとよくよく自覚しつつ、「たくさん否定された」と思っていた自分の記事のはてブを見直してみると、案外、「無言」のブクマが多いことに気付きます。無言でもタグがネガティブなら否定なのでしょうが、価値中立的なタグばかりなら、これも「無言の肯定」と解釈したい。すると、「プチ炎上していたという認識の記事でさえ、こんなにも肯定的な反応が多かったのか」と、蒙が啓かれる思いがしました。

岩崎さんの記事のはてブも、よくよく観察してみると「無言の肯定」が真の多数派であることが多い(注:非公開ブックマークは無言の肯定とみなす)。さらにいえば、「有言の肯定」すら、スターの数や文字数では負けていても、人数では意外に「否定」側の1/3を超えているケースだってあるのでした。

もちろん、無言を全て「肯定」と仮定するのは乱暴です。でも、はてブするのは閲覧者の5%未満、その3割が非公開、4割が無言、コメントするのは残りの3割程度。はてブのコメントは、きわめて少人数の、しかも偏ったサンプルです。その他大勢の物言わぬ閲覧者の内訳を、この僅かなサンプルをもとに推測するのは、とても妥当とはいえないと私は思います。

私が「ふつう」でないことは重々承知していますが、私の狭い経験と、拙い観察眼から(ロクな根拠もなしに)蛮勇を奮って目安を示すと、無言の読者の2/3は「肯定」か「どちらかといえば肯定」と思っていい……というか、そう思ってだいたい問題にならない、のではないかと。

Q4

カエサルの言葉は正しいので、まず自分自身がよくよく気をつけなければならないと思っています。が、「思っているだけ」が実態ですね、私の場合は。

Q5

a)

他人の態度を「偉そう」と批判しない人の中にも、ものすごく「偉そう」な態度をとる人はたくさんいます。ぼくのことを偉そうと批判する人ほどという認識の妥当性は、保留したい。

あと、私がよくやらかす認識ミスとして、「自分の記事に対して否定的な人々をひとつの人格として処理してしまう」というものがあります。

岩崎さんが同じ間違いをしているという確証はありません。でも、岩崎さんに対して明確に「偉そう」という批判をしている人は、それほど多くありません。「ぼくのことを偉そうと批判する人ほど偉そう」と傾向を論じられるほどにはサンプルが揃っていないように見えます。

b)

自説を肯定・補強する側の態度の大きさはあまり気にならないが、否定する側が「偉そう」なのはムカついて仕方ない、という経路もありますね。これは岩崎さんにも、批判者の側にも当てはまると思います。

経験的には、批判として「偉そう」という人の少なからず、やっぱりそれなりに自分自身は言葉を慎んでいます。

これに対して、素朴な感情の発露として「偉そうなのがムカつく」と書いている人たちは、別に改善を求めているわけじゃなくて、お互いに「お前の偉そうな態度はムカつくな!」「全くだ!」と言い合う殺伐とした空気こそ居心地がいいと考えているような……。

だから、「ムカつく」派に向かって「まず自分の態度をどうにかしろ」といっても「はぁ?」という反応になってしまう。批判派と「ムカつく」派を一緒くたにすると、話がこじれます。

Q6

他人にぶつけた批判が、後に自分自身を攻撃することを、ネットスラングで「ブーメラン」といいます。Q6に登場する「ブーメラン」は、この意味でしょう。

a)

知ってはいるけど、「一般人」の自分たちには無関係だと思っているんじゃないかな。で、自分たちと同じようなことを、「読者の多いブログの書き手」や「ベストセラー作家」がやると、叩く。「立場が違うので、切り分けは正当」という発想なのだろう。

私程度ですら、Twitterで無根拠な非難をする人に抗議すると「一般人のつぶやきなんだからいいでしょ」という意味の対応をされることがあります。情報伝播力の大小によらず、無根拠な非難などやっていいはずがないのだけれど。(最近の例:私の抗議kimukou_26さんの対応/その後、kimukou_26さんは私をblock)

b)

ついでに書く。私が最近プッツンきたのは、elm200のツイート誤読の連鎖を生んでいるのを見てご説明申し上げたら、サクッとblockされたこと。脱力して日が開いてしまったが、今日になって誤解の連鎖の方にも抗議した

誰しも早とちりや誤解はするだろう。臆断を完全に避けたら何もいえなくなる。それはわかる。けれども、書き手に「それはこういうことですよ。本文中にあなたの質問への回答は全てありますよ」と説明されてblockという対応は何なのだろう。とくにelm200は、「個人の感想です」を盾に無体な非難をたくさん受けてきた人じゃないか。そういう人さえこういう対応をするのでは、カジュアルな誹謗中傷は永遠になくならぬ。

Q7

映画『ソーシャルネットワーク』が描くザッカーバーグさんは、「コミュニケーションに難があって、人格面で尊敬されない人」という人物設定になっていました。劇中のザッカーバークさんは、多くの観客が「おいおい」「それじゃダメだろ……」と突っ込みたくなる言動を繰り返し、観客の予想通り、人間関係で失敗していくわけです。その彼がSNSでビジネス的に成功していく逆説が面白い。

そこから転じて、ネットの一部において「ザッカーバーグさん」は「社会的には成功しているけれども人間的には言動に難がある人」の代名詞になっています。それゆえ、ネットの一部においては、とくに説明なく「ザッカーバーグみたいな人」というとき、ザッカーバーグさんのパーソナリティーの大部分が捨象され、コミュニケーション不全(だけ)が想起されるようです。

岩崎さんを「ザッカーバーグみたい」と評する人は、岩崎さんの言動を「おかしい」と思う自分が「常識」「ふつう」の側にいると、直感的に確信しているのでしょうね。

所詮、「常識」も「ふつう」も、「場」の設定次第です。はてなブックマークでコメントしたりタグをつけたりしている人たち(と、その周辺)だけを観察の対象とすれば、岩崎さんを「ザッカーバーグみたい」といってもおかしくないのは事実ですが、観察・調査の枠を広げていったならば、だんだんその前提が崩れていくと私は予想しています。

私は相当にズレた人間なので、いろいろ見誤っている可能性は大……と前置きした上で書きますが、ベストセラー作家に対してまず一定の敬意を払うということをせず、のっけから侮蔑の感情をむき出しにする人々は、日本人全体を母集団とすれば、十分に異端なように感じます。そして岩崎さんの個性は、とくにその点に注目するのでもなければ、世間ではスルーされる程度のものではないでしょうか。

つまり……日本人全体から無作為にサンプルを抽出して岩崎さんの言動と、はてブの反応を見せ、強いていえばどちらがより「ヘン」か、「おかしい」かを問うた場合、岩崎さんの言動をことさらに批判する人々の方を指さす側が過半数になるのではないか。仮にそうではないとしても、はてブのコメントほど片方に偏った結果にはならないだろうと思う。

Q8, Q9

岩崎さんが「Stay hungry, Stay foolish」の体現者であることについては、大方の賛同が得られると思う。その点を確認した上で問い直してもなお、多くの人は岩崎さんをジョブズさんのような人だとは思わないのではないかな。少なくとも、はてブでコメントしている人の多数派は……。

なぜかというと、ジョブズさんは「Stay hungry, Stay foolish」の代名詞ではないから。それはザッカーバーグさんが「癖毛」の代名詞でないのと同じ。

つまり、癖毛の人に「ザッカーバーグさんみたいだね」というのは決して間違いではないのだけれども、一般的には「ザッカーバーグみたいな人」と聞いて「んー、癖毛ってこと?」と思う人はほとんどいない。同様に、「Stay hungry, Stay foolish」の体現者を「ジョブズさんみたい」といっても間違いではないけれど、一般的には、とくに説明なく「ジョブズさんのような人」といったら、「革新的な製品を世に送り出して私たちの生活を変えた人」を想起するんじゃないかな。

そんなわけで私は、岩崎さんが「Stay hungry, Stay foolish」を体現していることを理由として自分をジョブズになぞらえることを「おかしい」とは思いません。でも、はてブでコメントしている人々が岩崎さんを「ジョブズみたい」と評さないことにも、疑問はありません。

Q10

いくつか理由があると思う。

a)

はてブや2ちゃんねるなどでは、何らかの「切断」をする手続きが行われることがよくあります。切断された相手は、自説を「常識」「ふつう」の側に位置付けることを拒否され、言論空間で主導権を取ることが難しくなります。

切断は必ず成功するわけではなく、その「場」に集う人々の中の相当数が同意せず、「それは言い過ぎ」「俺らも同じ」「じゃあどうして**は気にしないの?」となって鎮火することもあります。

ウェブのあちこちで行われている言い争いの少なからずは、双方とも相手の意見を聞く気がない。客観的にはロクな根拠がないとしても、自分にとっては相手の主張が間違っていることは自明なので……。本当は相手にも自分と同じ見解に至ってもらいたいのだけれども、それは無理ということになれば、味方を増やすことが現実的な目標になります。切断に使われる事柄は議論の内容とは関係ないことが珍しくないけれども、うまくはまれば相手方の言論を支持しにくい空気を作れる強力な手段です。

で、「ベストセラー作家」というのも、まあ、そのひとつという感じがしないでもない。

b)

弱い者を叩くのは気が引ける。この「場」においては自分が多数派に属している(はずだから自分が正しいことに確信を持っている)けれども、社会的に成功しているのは相手の方で、こっちは弱者、と規定するのは、よくある戦術。これも切断の一種。

「ベストセラー作家」が相手だから……なんて関係ないと私は思うのだけれど、そういう切断をすると、「強者が相手なら……」と心のストッパーを解放して、いいたい放題にいえるようようになるらしい。いや、そんな言い訳がなくてもいいたい放題じゃないか……という感じもしますが、切断すれば一片のやましさも感じずにすむということなんじゃないかな。

c)

どうせ叩くなら、より強い者を叩く方が気持ちいい。

d)

「ベストセラー作家」に何か期待があって、ベストセラー作家なのに(自分からみて)愚かな言動をする人がいるのは納得いかない、というパターンもあると思う。無名の誰かさんなら許せるけど、ベストセラー作家がこんな体たらくでは困る、と。私もこの考え方には親和的。

ただし今回の件についていえば、私自身は、岩崎さんにとくに何か問題があるようには思わない。見解の相違と、ある「場」における常識と異端の差異に過ぎないのに、少数派に対して多数派が侮蔑の感情を露わにして少しも恥じるところがない状況こそが問題。自信家は悪じゃないが、自信家を公然と侮蔑するのは悪。「その自信には根拠がない」という指摘は、相手に敬意を払うことと両立するはずです。

e)

『もしドラ』は、一時期のケータイ小説と同様、ある方面においては「嘲笑でつながるコミュニケーション」に使える「リスクのない題材」となっています。その方面では、読まずに批判しても、誰からも怒られない。大川隆法さんの霊言とかと同じ扱い。

霊言の場合、もし突っ込まれたら、歴史上の人物の霊を呼びだして云々という部分を批判することで、その内容に触れずに全否定できるわけです。最終的には勝てるという安心感からか、面白おかしく抽出された部分を目にしただけで、実際に本文にあたることもせず、気楽にくさす人がたくさんいます。

『もしドラ』も既に散々批判がなされていて、そっち側が「常識」と考える人々は、読まずにくさすことに何ら不安を感じていない。

転じて、あの『もしドラ』の作者、と岩崎さんを紹介すれば、ごちゃごちゃ説明することなしに「まともな人からは総スカンを食っている本の作者なので、この人のいうことには耳を傾けない方がいいですよ」という牽制になります。先入観なしに触れたら岩崎さんに同調する人の一部を、「こちら側」に引き止める効果が見込めます。(一部、です。全員、なんて期待は最初からない)

f)

岩崎夏海さんを知らない読者への配慮。「『もしドラ』の作者」と紹介すると、『もしドラ』という名前を聞いたことがある人は、たぶん興味を持ってくれる。『もしドラ』といわれても「???」な人に対しては、「ベストセラー作家」と補足すると、やっぱり興味を持ってくれる。まるで魔法のような紹介の言葉。

でも不思議だよね。『もしドラ』という名前だけ知っていて、その概要も評判も知らない人の場合、「『もしドラ』の作者」といわれたって、何のイメージもわかないはずでしょ。「ベストセラー作家」も無内容な言葉に思える。ところが実際には、こうした説明をするだけで、「へー、じゃあその岩崎夏海さんっていう人についての話、聞いてみようかな」という空気になる。「ベストセラー作家」に対して、漠然と関心を持っている人って、意外と多いみたいなんだな。もちろん、全員じゃないよ。徹底して「どうでもいい」という人も多い。

私は今回、記事の冒頭では、岩崎さんについて、とくに何も紹介していない。それは、この記事が、岩崎さんではなく私に関心を持って「約1.3万字を読み通してやろう」という人に向けて書かれているから。話が何度も余談に流れるのも、同じ理由。岩崎さんへの関心で読者を引っ張るつもりはないので、こんな構成にしている。

Q11

a)

そういうことをいう人の過半は、単純に、過去を知らず、また知ろうともせずに、「ベストセラー作家になったからこんなに偉そうなのだ」と早合点して、そういうことを書いているのではないか。

ところで、「何でも十全に調べてから書くべき」というのも無理があると、私は思います。しかし、とりあえずは憶測で書くとしても、そのことに後ろめたさは持ち続けるべきではないでしょうか。人を不愉快にさせておいて開き直る人にはなりたくない。抗議や指摘を受け、その内容に納得したなら、訂正の労を厭うのは無責任だと思う。膨大な過去ログを訂正しきれないことはあっても、それを全肯定するのは違う。

b)

あるいは、「ベストセラー作家」になったのに、以前と同様の態度なのがダメ、という発想もあるかな……。

ブログやTwitterでも読者が増えると、次第に「もっと自重しろ」という圧力が高まってきます。零細ブログなら許されたモノの言い方がいちいち咎められたりするようになる。社会的な成功者ほど、言動を慎まないと「偉そうにするな」という批判を受けやすい。

社会的な成功者は、存在自体が「偉そう」。なので、「偉そう」の土台が盛られている分、言動の方で調整しないと、周囲から見た「偉そう」の度合いが上昇してしまう。ゆえに、言動が以前と変わらないのでは、「ベストセラー作家になったと思って天狗になりやがって」という反応を招く。

もっと「偉そう」のレベルが上がると、言動にどれほど気をつけても言い掛かりがつくようになるのだけれど、岩崎さんはまだそこまではいっていないと思う。

Q12, Q13, Q14, Q15

Q16

はてブでコメントした人らであっても、岩崎さんがベストセラー作家になったことについては、「すごい」と思っている人が大多数ではないかな。でも、はてブとかには、「自分が逆立ちしてもかなわない強みのある人が相手でも、欠点(だと自分が思うことについて)は容赦なく叩いていい」という価値観の持ち主が集まっているわけで。

あと、肯定は、基本的に無言。もっといえば、肯定は無反応。自分自身の言動を振り返ってみて、強くそう思う。「いいな」を思った記事は、基本的にスルー。ブクマさえしないことが大半。いいねボタンも、Likeボタンも、私は滅多に押さない。無言ブクマや無反応(ページビューだけが増える)を肯定と解釈できないと、ネットはあまり楽しくならないと思う。

はてブのコメントや2ちゃんねるとかで「すごい」といわれるのは、難しい。そういう場所でリクエストをしても、「(ある意味)すごい」みたいな反応が主になるのは、残念ながら致し方ないところだとは思う。現状を素晴らしいとは思えないが、いいねボタンを押すことすら億劫な私が抱く、いろいろな記事に対する肯定の気持ちを計測する手段が、思いつかない。

Q17

「本物じゃない」という批判は、昔からいろいろな場面で見かけますね……。口の達者な人に受けない作品や、その作者は、大抵そういうことをいわれるんですよ。「こんなのは映画じゃない」とか、「こんなのは小説じゃない」とか。で、「本物の映画監督じゃない」「本物の作家とはいえない」と続いたりする。

ようは「私(たち)の趣味じゃない」ということ。自分(たち)のおめがねにかなうのが「本物」で、そうでないのが「偽物」。

Q18

コミュニティには分業の利益がある。誰かが読んで「この作品は読むに値しない」と判断し、その判断をみなで共有する。そういうのを「卑怯」と批判するのは的外れだと思う。

これは会社と同じ。個々の社員が全てを直接見聞きしているわけではない。報告書や、たくさんの報告書をまとめた資料を信頼して判断する。その判断を、組織全体で共有する。あるいは、JISのようなもの。中小企業は自社で検証して独自基準を作るのが非現実的だから、JISを信頼すると決める。

はてブでコメントする層においては、岩崎さんの著書は「ダメ」という結論が共有されている。全員が岩崎さんの著書を読んだわけではない。しかし、実際に岩崎さんの著書を読んで、いろいろな根拠を挙げて「ダメ」と判断した書評が、はてブのコミュニティで信認を得た。それで、「自分は読んでいないが、岩崎さんの著書を評価しない側に自分はコミットするぞ」と。

とはいえ、信頼できるレビュアーに判断を任せるまではよいとしても、伝聞情報だけでネガキャンまがいのことまでするのは、やり過ぎかもしれない。「ネガキャンまがい」の程度の問題が絡んでくるので、一概にはいえないが……。

それでも、はてブのコメント一覧を眺めてみれば、それに該当する可能性のあるコメントは、実際には少数派。それも、かなりの少数派。

Q5への回答に書いたことの繰り返しになるけれど、大勢からいろいろな攻撃を受けると、自分を否定する人々の人格をひとつに統合して認識してしまいがちなのです。50人がネガティブな反応をしており、うち3人が自分では読んでいない本のネガキャンをしているというのが客観的事実なのに、50人全員が読まずに著書を叩いていると錯覚してしまう。でも、その錯覚に基づいて50人に抗議しても、47人は困惑するだけです。

さらに厄介なのは、こういうとき、ネガティブな反応をしている人々にも次第に緩やかな連帯感が生じること。はてブで自然発生したアンチが、いつの間にかネガティブな話題で盛り上がるサブコミュニティを形成していく。

Q19

自分が卑怯とは思えないことで「卑怯だ」といわれても、悔しくはない。大勢にいわれたら悔しいが、それは「周囲からの疎外」や「わかってもらえない」ことが悔しいのであって、卑怯を自覚していることを指摘されたとき(あるいは指摘を受けて自分の卑怯さに気付いたとき)の悔しさとは全く別物。

そんなわけで、岩崎さんに卑怯といわれても、岩崎さんの本を読まずに否定している方々は「悔しい」とは思わないでしょう。

平成23年10月22日

ウェブだと対面では考えられないような態度をとる人が増えるのは、どうしたわけか。

ふと思い出したのが、10年ほど前、学生時代に体験したこと。ゼミで教授にナメた口をきく学生は珍しかったですが、私以外はみな、教授が席を外した途端に尊敬語が消えてしまうのでした。例えば、ゼミ中は「先生が示された仮説は……」といっていたのに、学生同士の会話になると「先生がいってた仮説ってさぁ……」になってしまう。

こうした学生たちにとって、先生に対する「尊敬」は、処世術や礼儀の領域にしか存在しない。自分自身は先生に対して尊敬の念を持っていないから、先生がその場にいなければ、もう尊敬語を使わない。

あるとき「徳保くん、さっきからずっと尊敬語を使ってるけど、もう先生いないよ(だから尊敬語は使わなくていいんだよ)」と素で忠告してくれた親切な人がいて、私はのけぞりました。後日、「先生を心の中では尊敬していない学生の集まりの中に、本当に先生を尊敬している学生が混じっていると不都合なので、排除される。だから話を合わせておいた方がいいよ」という解説(私の理解と要約なので注意)までいただき、感謝しました。私はしばらく考えて、ゼミ生同士でつるむことを避け、尊敬語の方を守る道を選びました。

話を戻すと、こうした人々は学校や組織の中での権力関係に着目してアドホックに尊敬語を使うかどうかの判断をしているので、利害関係のない相手には尊敬語を使わない。ブログのコメント欄などにやたら高飛車な態度で書き込む人がいるのだけれど、「デメリットがないor小さい」と思えば、感情を素直に発露してスッキリすることが最優先になるわけです。

でも対面の場合、いろいろ不都合もあったりしますのでね。殴られたりしたら痛いし。無用のリスクは取りたくない。それで、「会って話したら態度が全然違っていて驚いた」なんてことが起きます。でも、会って話しているときは相手を立てていても、もう二度と会わない(から殴られる心配もない)と思えば、別れた直後からネット上の態度は感情の垂れ流しに戻ってしまいます。

で、ウェブに飛び交う言葉を観察するに、まず政治家は尊敬されていない。作家先生も、尊敬しているのはファンだけ。いや、ファンですら、とくに尊敬していないように見える人が珍しくない。弁護士さんもお医者さんも(当人のいない場所であっても尊敬語が使われるほどには)尊敬されていない。スポーツ選手もそう。

しばらく興味を持って周囲を観察していましたが、結論としては、「ふつうの人」に尊敬されている人は存在しないようですね。皇室関連の話題ですら、庶民の日常会話においては、尊敬語が使われていない。私の周囲では、天皇陛下の東日本大震災へのメッセージについて語る人の大多数が「天皇がいってたこと」「テレビで話してた言葉」といった表現を選択し、「陛下が仰っていたこと」「陛下のお言葉」とはいいませんでした。

逆リンク!

平成23年10月21日

1.

20年ほど前、小学校を卒業するにあたり、友人らと一緒に、クラスメートのランドセルの様子や、6年間のランドセル関係の思い出などを観察・整理した。その際の結論を、以下に記す。

  1. 天然皮革よりクラリーノなどの人造皮革の方がよい。
  2. 男の子用なら、角を金具で補強してあるものがいい。
  3. 容量やポケットの数より、軽さを優先すべき。

子どもの身体が大きくても小さくても関係なく、軽いランドセルを選んでほしい。

2.

ランドセルを買うのは大人だから……。「A4の書類を二つ折りにしないでファイルに入れて持ち運びできる」なんてのはくだらない機能なんだけど、大人にはそれがアピールするわけだ。

いや、待てよ……。私自身、かばんを買う際に、持ち歩いて疲れないかどうかをきちんと確認した記憶がない。そういうのは、「手持ちのかばんの中で自然と利用頻度が高まっていくのはどれか」というような、購入後に差が出る部分のような気がする。だから、「ショルダーバッグ」か「手提げかばん」か、といった大雑把な選択にしか反映されない。

自分のかばんでさえ、結構どうでもいいことを基準に選んでいるのが私だけでないとすれば、子どもが使うランドセルについて、合理的な選択基準を持てない人が多くても、当然かもしれないな。

やっぱり、この手の話題でいつも連想するのが、一時期のコンパクトデジタルカメラの画素数競争。あれほど馬鹿馬鹿しいスペック争いはなかった。あのときは、多くの技術者が虚しい気持ちを味わった。いや、携帯電話などでは未だに「1000万画素」を売りにしていたりするか……。

コンデジの案内ページでありながら、「画素数を抑えて画質を上げた」と明瞭に書かれている、ちょっと珍しい例。いまどきコンデジに3万円払う客なら「わかるよね」という信頼かな、これは。

3.

ところで、私と同世代の小学生男子って、どうして「ランドセルを潰す」のがカッコいいだなんて思っていたのだろう。わざわざランドセルを踏みつけたり重石を乗せたりして、ペチャンコにしようと頑張っている子が何人もいた。私には彼らの感性が理解できず、6年経っても私のランドセルはピカピカのままだった。

平成23年10月20日

1.

本の維持管理費が足りないので、利用頻度の低い本が大量に捨てられているという話。ざっと読んだ感じ、市民向けに雑多な本を買って棚に並べている街中の図書館ではなく、大学図書館とかの話のようだ。

a)

はてブで「本を売れない理由がわからない」という声が上がっていた。私も同感だった。が、じっくり読み直してみると、本を売れない理由がわかった気がした。

ようするに、必要な作業を粛々とこなすことが最優先になっているんだな。

図書館のやり方に文句をつける側は、たったひとつ「廃棄すべきでない本が廃棄されている」例を発見すればいい。だが、対処する側は、10万冊を相手にしなければならない。とにかく予算が足りないのだから、本を処分する必要がある。記事の後半にある通り、それをしなかったら、買うべき資料を買えなくなる。

ところが、「この資料なら手放していい」の基準が、人によって違う。金を出さずに「本を捨てるな」とばかりいう人が、やたら多い。だから、本の廃棄はこっそりやるしかない。痕跡を残してはいけない。

これが、本をシュレッダーにかけてしまう理由だ。廃棄された本の実物があると、それを見て「これを捨てるなんてとんでもない」と思う人が、必ず出てくる。しかし、シュレッダー済みの紙資源なら、誰も文句をいわない。「ある」ものが捨てられるのには抵抗する人も、「リストに本が見当たらない」ことは気にしない。全ての本を揃えている図書館は存在しないので、「最初からなかったのかな?」と思うだけ。

b)

  1. 現状以上には金を払わない
  2. 新しい資料を買ってほしい
  3. 古い資料を捨てないでほしい

これら3つの要望は矛盾しているが、優先順位は上に並べた通りだろう。利用頻度の低い古い資料は、基本的に捨てるのが妥当なのだ。新しい資料は大勢が利用するから、1冊しかないのでは困る。だが黙っていれば捨てられたことに誰も気付かないような資料は、観念的には貴重であっても、「世界のどこかにあればいい」。

さらに踏み込むなら、たとえ世界に1冊しか残存していない本だとしても、同種の本が他にあって、それで調査・研究の用は9割方足りるなら、100年に1回の利用に備えて保管し続けるのはメリットよりコストの方が大きいだろう。ごく稀に、そこで失われた1割が極めて大きな社会的損失を招くことがないとも言い切れないが、そんなことを恐れて継続的なコスト負担をしてくれる人はいない。

c)

というわけで、だいたい私は納得したのだ。でも、グーグルブックスで電子化されている本の廃棄すら反発しながらやっぱり金は出さない人の存在と、アメリカでボーダーズという大きな書店が閉店したとき商品をゴミ箱に捨てた話には首を傾げる。とくにボーダーズの話が謎。アメリカにはブックオフのような巨大な古書チェーンは存在しないのだろうか……。(調べるのは面倒なのでパス)

2.

私が好んで利用する市町村や区が運営している市民向けの図書館では、古い本や雑誌の無料配布を、しょっちゅうやっている。高額な資料や郷土史などを例外として、「この本を廃棄するなんてとんでもない」という声が上がるような本を最初から蔵書していないので、予算の都合で自由に放出できるわけだ。

中央図書館と分館でダブっている本は、分館の棚から消えるとき、市民に無料で配布される。廃棄印を押して「ご自由にお持ちください」の札が下がっている「廃棄図書コーナー」に並べられる。1ヶ月置いておいても誰も引き取らなかった図書は、新聞などと一緒に廃品回収に出される。

本館の棚から書庫へ移動した本は、利用頻度のチェックと、県内の他の図書館にどれだけ蔵書があるかのチェックが、年1回行われている。利用頻度が低く、県内にたくさん蔵書がある本は、予算の都合で手放さざるを得ない分だけ、無料配布の対象となる。新聞は保管したりしなかったり。判断が分かれるところらしい。

私が知人に聞いた話では、ざっとそんな感じ。「その資料は近隣図書館からの取り寄せになります」といわれて怒る市民はいないそうだ。たぶんゼロではないと思うけど、「増税します」といったときとは比較にならないだろう。

3.

私の出身大学の図書館では、私が在籍していた頃は、書庫を閉架にするか開架のまま頑張るかが議論されていた。理念的には開架式の方が資料へのアクセス性の観点で優れているのだが、ほとんど利用されない資料のために机や椅子を減らし、通路を狭くしてまで開架を維持するだけの価値はあるのか、みたいな話。

もともと「書庫」は半開架で、薄暗くて天井も低く、学部生が近付くことは稀だった。が、この「書庫」の満杯が近付いており、一般書架から「書庫」への移動が滞っていたわけだ。そこで「書庫」を閉架にして密度を上げ、一般書架を現状維持とするか、「書庫」への移動を凍結して一般書架の密度を上げていくのか、という話だったと記憶している。

本を捨てるとかいう話を思えば、呑気な議論だったな。それに雑誌とか、電子化しても誰も文句をいわなさそうな図書が大量にあったし、たぶん今でも資料を捨ててはいないと思う。あ、縮刷版のない新聞は、当時から捨てていたっけか。まあ、捨てるよな……。邪魔だもの。

平成23年10月19日

1.

2.

中には当人が「批判」と勘違いしている単なる罵倒や、本論とは無関係の人格攻撃などの害悪があるけれども、それをフィルタリングするのも発言者の能力じゃないかなぁ。

私はやっぱり「叩く」という行為は支持できない。私も荒い言葉で批判することを常に抑制できているわけではないけれど、「言葉を選ぶべき」という命題は支持しています。

3.

私は自動車を運転する際の「流れで法定速度超過」に批判的です。現実問題として「流れに乗る方が安全」で、自分も「流れに乗る」としても、「流れで速度超過する方が正しい」という主張には与しない。公然と速度超過を正当化する人は、前後に車がなくても法定速度を超過していることが多い。「本当は法定速度で走るべきなんだけど……」と苦渋の選択として速度超過をするのでなければ、交通安全は遠い夢です。

誰かが法定速度を超過するから、おかしな「流れ」ができるのです。大多数の人が法定速度を守るなら、速度超過がこれほど常態化するわけがない。この手の話題で「流れに乗るのが当然」という立場ばかり強調する人には、私は警戒心を持つようにしています。私の狭い経験からいうと、自制心の欠落を他者に責任転嫁する性格って、他のいろいろな場面でも顔を出すことが多いからです。

4.

罵倒や人格攻撃、敬意の欠落したコメントは、私もやっています。ゼロにはならない。ならないけど、少なくとも現在、私はそのことについて、開き直るつもりはありません。自発的に過去ログを全てチェックして、文言を修正するほどの手間はかけられない。でも、「いいじゃないか」とはいわない。考えない。本来すべきことをできない自分を、恥ずかしく思う。

私は、中島さんの記事は批判されるべき内容だったと思う。思考途中だから云々という主張には賛成しない。それに、ekkenさんのいうように、あれを「思考途中」のメモと解釈する根拠が私には見出せない。でも、批判の内容自体は正しくとも、相手への敬意を欠いたコメントをするのは、間違っています。

今後も、ウェブから罵倒コメントがなくなることはないでしょう。しかし、重要なのは、大多数の人々が「この程度の罵倒はOK」と思っているのか、「こんな罵倒をするのはよくない」と思っているのか、ではないでしょうか。いじめと一緒。いじめはゼロにはならないけど、いじめを「憎むべき悪」と認識する側が圧倒的に多数派となれば、発生率は相当に下がるのです。

いじめがゼロにならない以上、強くなった方がいいのは間違いない。そういう指摘をすること自体を禁止するのは行き過ぎだと思う。でも、まず強調すべきは、いじめの悪です。最初は建前と本音に乖離があってもいいのです。まず「ムカつく相手にこれくらいのことはしていい」と公言できるような環境を叩き潰さなければならない。それさえ実現できれば、本音はいずれ建前に近づいていきます。

5.

飲酒運転が絶対悪になったように、いずれ「流れで速度超過」も絶対悪になると思う。私が生きているうちには無理かもしれませんが、建前をきちんと守り続けるならば、いずれ「スピード違反を軽く考えているドライバーは猛省すべき」が世論になっていくでしょう。

ウェブに横行する罵倒も、「罵倒をゼロにはできないのだから……」という話をするのがいけないわけではないけれど、まず強調すべきは「こんな罵倒をするのは間違っている」ということです。罵倒に負けないメンタル強化の話ばかり目立って、罵倒をしている人への風当たりが弱い社会では、罵倒が減るわけがない。

ただ、罵倒批判のネックは、「誰のことも罵倒しない人は滅多にいない」ということです。悪党はそこを突いて、「そういうお前はどうなんだ」といって正しい批判を潰そうとする。これに負けてはいけない。

平成23年10月18日

1.

1年前の話題。

記事の中で、ウェブの一部で著名な方々が立て続けにFacebookを賞賛する記事を書いたのを見てステルスマーケティング臭がプンプンと放言した人の事例が紹介されている。

この話題に限らないが、内心の自由と発言の自由をゴッチャにしている人がずいぶん多いように感じる。あと、企業や政治家や有名人やTwitterでフォロワーが多い人が相手だと、簡単にリミッターを緩めてしまうという人。……他人事のように書いたが、もちろん私にもそういう面はあって、恥ずかしく思っている。

とはいえ、よくないことであっても、「全面的に禁止」「法的に規制」となると、それもあまりに息苦しい。硬直的な規制は弊害も大きい。だから、倫理・道徳による自制が望ましいと思う。

道徳を持ち出すと「全員の口をふさぐことはできないので意味がない」みたいな反論をする人が出てくる。そんな理屈が成り立つなら、殺人罪があって警察が頑張っても殺人事件はゼロにならないから無意味という話にならないか。私は、「0でなければ0.1でも0.01でも同じ」という五十歩百歩思想には与しない。

補記:

この1年、Facebookは日本でも急伸した。実名主義のFacebookが人気を集めるのは難しいと思っていたので、驚いたな。ちなみに私は2008年5月に登録したのだけれど、今も全く活用していない。mixiもそうなんだけど、投稿したコンテンツの再利用が難しそうなサービスは使う気になれない。

2.

Twitterでの烏賀陽さんの発言と態度はよくないと思う。思うけど、Togetterのコメント欄などに見られる、その烏賀陽さんを批判する多く人々の言葉の選び方にも、私は全く同じ不快感を覚えます。そして、彼らの批判している話題の内容が内容だけに、烏賀陽さんよりむしろ批判者の方に疑問を感じます。

「烏賀陽さんが相手なら、これくらいの言い方をしていいのだ」という考え方に、私は賛成しない。

この記事および、記事中に転載されている文章は、烏賀陽さんの態度ではなく、主張の部分に反駁するもの。だから自己矛盾には陥っていないが、やはり私は「言葉はもっと選んでほしい」と思う。

他人の文章を見ると、そういうことが気になる。自分の文章だと気にならない。だから、意識して取り組まなければ、こうした状況は改善できない。自制の難しさは理解しているつもり。「お互い、頑張っていきましょう」といいたい。

平成23年10月17日

昨日に引き続き……。

今日は、逮捕の前後で視聴者のコメントがコロッと変わる残酷さについて。

たぶん、そのからくりは簡単なんだ。

もともと、違法にアップロードされた動画を歓迎している人の数%未満しか、感謝コメントを書いていない。しかも紹介されている例は、毎週放送されている番組の無断転載だから、それを歓迎する人々の大半は、転載後の数日間に1回だけ視聴してそれっきりだろう。逮捕後に舞い戻って、あらためて歓迎のコメントを書いたりはしない。既に動画は削除されているのだろうし……。

「逮捕ざまぁw」とか書いている側も少数派で、同様に思っている人の数%未満しか、コメントを残さない。また当然ながら、「逮捕ざまぁw」のコメントは逮捕の報道が出てから付く。その段階では違法Up動画の需要層は消費を終えているので、新しく付くコメントが逮捕歓迎一色になるのは自然なことだ。

違法Up動画を歓迎している人と、犯罪者の逮捕を喜んでいる人は、基本的には別人なのだ。しかし際立った個性のない大量のコメントを眺めるとき、それを個人に還元して捉えることは難しく、「集団」として捉えることになる。すると、擬似人格としてのコメント集団が、逮捕の前後でコロッと態度を変えたかのように見える。無意識や直感に頼ると、どうしても、そういう把握の仕方になってしまう。

私もこうした錯覚に振り回されがちなので、よく注意しなければならないと思う。

平成23年10月16日

やっていることは市場競争と変わらない。

テレビ番組の違法アップロードなんて誰でもできる……と思いきや、今では、画質や編集がしっかりしていて、なおかつ投稿が早くないと全く人気が出ないのだそうだ。人気が出なければ、無断転載の動機となっている賞賛のコメントが得られないだけでなく、「検索の邪魔」「くそ画質www」などと罵倒されるという。

なので、結果的に自然淘汰が起きる。最速放映地域に暮らし、編集がていねいで、画質がよく、投稿が早い人だけが、賞賛コメントを追い風に動画を上げ続け、他の人は労力に見合った賞賛コメント(もしくは再生数)が得られないので、自然に脱落していく。

しかし、動画の編集もエンコードも手間のかかる作業だから、その道で一流の人が全てのテレビ番組を違法アップロードできるわけではない。二流以下の人には居場所がないが、一流半くらいの人なら、マイナーなテレビ番組を「担当」することで、そこそこの量の賞賛コメントを獲得することができる。

同じくらいの能力の人が、ひとつの番組の違法アップロード競争をしても潰し合いになるだけでメリットがないから、「この番組をこんな画質で何時頃にアップロードする」と犯罪予告で牽制しあって、結果的に棲み分けが起きる。

あまりの出世ぶりに老害が嫉妬して担当を奪い取ったパターンがあったな。

棲み分けがいつも実力通りならいいが、そうでない場合には、当然、賞賛コメントをめぐる競争になる。リンク先にある『まどか☆マギカ』の例の場合、放送が始まってから番組がブレイクしたので、事前予告の段階ではパスした実力者が、後からやってきて「違法アップロード需要」を掻っ攫っていったわけだ。

「棲み分け」は、人々の意識においては「慣習・しきたり」かもしれないが、その実態は「競争の結果」だ。したがって、実力のない者が大きな賞賛を受け続けることは、できない。「新人潰し」は起こるべくして起きた。新人かベテランかは、関係ない。実力のある者が大きな果実を得る。それだけのこと。

『まどか☆マギカ』の例でも、実力者の挑戦を受けた新人が実力者を上回るパフォーマンスを見せたなら、視聴者を奪われる結果にはならなかった。むしろ下克上のいい切っ掛けになったろう。

補足:

著作権法違反で逮捕されるリスクを背負ってまで違法アップロードをするには、やはり一定以上の賞賛が必要なのだろう。それゆえ、二流以下の人には居場所がない。

「違法Up動画需要という観点からみてマイナー」なテレビ番組を選べば、ライバルがいない。だが、たった数人しか感謝のメッセージを書いてくれないのでは、リスクに見合わない。不人気番組でも、逮捕されときの刑事罰は同じだからだ。

違法アップロードはキリがないので規制は不可能という声もあるが、テレビ番組丸上げで膨大な賞賛コメントを集めているのは、ひと握りの人々だ。自由競争の世界なので、実力のある者が圧勝し、自然と棲み分けが起きるほど狭い世界になっているわけだ。警察は、目立つ連中をさっさと全員逮捕してほしい。当然、誰かが代役を務めるのだが、3ヵ月後には、それも全員逮捕してほしい。

トップクラスに君臨して違法Up動画需要の大半をまかなっている人々は、競争が落ち着いた段階では、高々数十人でしかない。(違法アップロード)ときどき単発で人気を集める違法Up動画までは取り締まれなくても仕方ないが、日本犯罪大会の動画アップロード部門入賞者たちくらいは、全員逮捕してほしい。わざわざ悪党の側で「逮捕の見せしめ効果が高い犯罪者ランキング」を可視化してくれているのだから。

平成23年10月15日

リンク先の記事とはまるで関係ない話をします。

このところ、はてブで人気のブロガーの何人かが、ulog.ccというサービスの利用を始めて、そこで人気記事をバリバリ書いています。で、はてブのコメントには「ulog.cc内の記事がiPhoneから読めないのは不具合」という発想に基づくコメントが、いくつか投稿されている。これが個人的にはウザくて仕方ない。「iPhoneユーザは、どうしてブラウザの性能不足の方を疑わないんだ?」と。

ところが、その実数を調べてみると、せいぜい総ブクマ数の1%程度なのだった。「え? それだけ?」そう、それだけ。特定の記事では3%に達しているけれど、いくつかの記事で均せば1%くらいになる。

たぶん、もうすぐulog側で対応されるのだろうし、はてブの非表示ユーザー設定をするのが面倒くさい(から何もしない)という程度のイラ立ちではある。それでも、少数意見の尊重だの、多様性が大切だのといってきた私にして、たった1%のコメントに、これほどイライラしている……。

とりあえず、「1%」という事実に向き合ったことで、少し落ち着いてきた。

余談:

ulog.ccのマークアップは典型的なdiv病。また本文の前に並ぶ要素が多い。ulog.ccがiPhoneからだと読めないという話を目にして、私が最初に思ったことは「製作者スタイルさえ無視できればiPhoneでだって……」だったけど、これではあまり現実的じゃないかも。

ところで、iPhoneに製作者スタイルを無視する方法は用意されているのな?

ブラウザがユーザースタイルシートに対応していないので、スクリプトで特定のスタイルシートへのリンクを組み込むという方法。

平成23年10月14日

1.

私はこれ、「ヒグマ保護の価値と費用の線引き」と「費用見積もりの妥当性」の問題だと理解している。

例えば、ひとつの考え方としては、「ヒグマ保護のために北海道を無人化すべき」という主張だってありえる。人間は暮らす土地を選べるが、ヒグマは選べない。ならば人間の方が移動すべき、というのは、ひとつの論理的帰結だ。選択肢のある者がない者の命を奪って自己の利益を貫徹することを「野蛮」というのも、話としては理解できる。

これに対して「怒っていい」というのは、当たり前。怒って人を殴ったり物を壊したりしたらいけないけど、怒る自由はあるよ、それは。でも、私が怒ることを勧めるかといったら、勧めない。少なくとも、現時点で怒っていない人は、そのまま「怒らない方がいい」と思う。

ヒグマ保護の話題を価値観対立の図式で捉えると、答えは出ない。熊森協会が「野蛮」といい、道民が「怒り」を表明した先に、何かいいことがあるか。たぶん、何もない。強いていえば、感情をあらわにしたことでお互いに少しだけスッキリして、しかし何も伝わらないことにもっとイライラする、それくらいだろう。

まあ、何をどうやっても、双方のコアな人同士がわかりあうことはないだろうから、あとは外野のサイレントマジョリティの共感獲得合戦になる。熊森協会の主張は前提事実に誤りが多いのだから、価値観対立を強調するよりもっと確実なことに注力した方が……いや、共感獲得合戦と割り切るなら、むしろ感情を煽る方が有効なんだろうな……。

いや、Assayさんが意図的にやっているとは思わない。結果的に、はてブとかで話題になるのは、淡々と書かれた記事ではなく、事実の指摘とともに感情も見える記事(の書き手)だということ。

2.

こちらが正しくて、向こうが間違っているとしても、どれだけ言葉を重ねたって、人を黙らせることはできない。あるいは、もし黙らせることができたら一時的には気分がスッキリするかもしれないが、そんな社会は、より大きな不幸を抱えているだろう。

嘘は正す。それでも聞く耳を持たず事実無根の話を広める人は尽きない。たゆまず理を説き続ける。しかし「クマを殺さないで!」という声は止むまい。究極的には、嘘や愚かさと共存していくしかない。

平成23年10月13日

私の出身高校の放送部は、顧問の先生が付属中学校の教頭に就任して若い教員にバトンタッチするまではずっと、NHK杯で活躍を続けていた。その作品が在校生に公開される機会はついに一度もなかったが……。

昨年、全国大会の準々決勝で起きた採点ミスのため準決勝進出を逃した兵庫県立伊川谷北高校は、「準決勝進出」の表彰状では納得せず、再審査を求めたが、却下された。そこで、この問題に関し50人に取材した作品を制作し、今年の地区予選を突破したという。ところが。

その後、兵庫県内高校の放送部顧問教諭らでつくり、地区予選を審査する「県高校視聴覚部会」が緊急理事会で失格を決めた上、県大会進出の取り下げを求めた。同校には「今後の運営に問題が出かねない」「(ミスは)解決済みの問題」と伝えたという。

神戸新聞社の取材に対し、翌年のコンテストで同部会が再審査を働きかけた経緯などを踏まえ「周囲の努力を理解していない」と判断したという。規定では作品に誹謗(ひぼう)中傷や差別的意図を含む場合に失格にするが、別の判断という。

同部会放送文化部長の島耕一・神戸国際大付属高校教諭は「放送ジャーナリズムの役割は理解しているが、教育的な側面を重視した」と説明。一方、主催者の一つNHK広報局は「コンテストの運営は全国の先生らで組織する運営委員会に委ねており、その判断に対し見解を述べる立場ではない」としている。

そんな理屈で失格にしていいのか……。もし「両論併記風にまとめているが、実際には取材に偏りがあり、内容に重大な不備がある」とか、「内容が建設的でない」といったことであれば、ふつうに採点して低評価をつければよいと思う。

それでもあえて失格にしたい理由があるとすれば、採点基準の問題だろうか。ふつう、この手のコンテストでは、ひとつ致命的な欠点があっても、「それだけで落ちる」ということはない。10の評価項目があって、その合計点で決める、とか。この場合、ひとつの項目が0点でも、他で高得点なら総合トップもありえる。問題の作品が地区予選1位となったのは、そういうわけなのかも。

プロなら各評価項目に足切り基準を設けてもいいかもしれないが、これはアマ対象のコンテスト。ふつうは、粗があっても面白い作品の方を評価したい。が、それゆえに、「特定の作品をどうしても低評価としたい場合には、失格とするしか手がない状態だった」という可能性。

今後の対策としては、「技術的な不備は項目別の最低点を0点のまま維持するが、内容面の不備は最低点をマイナス50点とする」といった手がある。特定の作品を落とすために採点基準を変えるのはおかしい。今回の失格には大いに疑問がある。が、再発防止策として採点基準を見直すのは、悪いことではない。

あるいは

NHK杯の審査員にとって、「NHK杯の審査」をテーマにした作品は興味深いだろう。その意味で、「題材の選択がフェアではない」かもしれない。一般人にとっては重要ではないが、審査員にとっては避けて通れない問題を扱った作品が増えるのは困る。だから、失格とする……。

まあ、何人も先生が集まって失格と決めたわけだから、それぞれにいろいろなことを考えていたろう。神戸新聞の取材を受けた島さんが語ったことが全てだと仮定して、あれこれ論駁を考えても、あまり実りはなさそうではある。

余談:

2ちゃんねるの反応を見ると、「このニュースをそんな風に消費するのか……」と。NHK叩きに帰着させたり、「どうせ2ch脳でNHK批判したんだろ」と早合点したり……。

平成23年10月12日

「現実を再認識して夢が閉じてしまうこと、それが一番キツかった」

夢なしで生きられない人は、夢依存症。リンク先の記事の書き手のような方に、「新しい目標を持つ」ことを勧めるのは、私は反対。反対だが、ときに対症療法も必要になることは認めるから、消極的には認めてもよい。だが、目指すべきは「目標なしに楽しく生きていける」状態。夢依存症の克服こそ、真の対策だ。

私は昔から「**でなければ生きている意味がない」という類の言説が嫌いだった。それでは寝たきりでうつらうつらしているだけの曽祖母は「生きている意味がない」ことになる。寝たきり老人の「生きている意味」を家族の気持ちに求めるのも、とても賛成できる考え方ではない。それでは「家族のいない人の命は、家族のいる人の命より価値が小さい」という結論が導かれてしまうではないか。

私はこの問題について「人の命は平等」という結論を決め打ちしているので、その結論を否定する主張は却下する。私が「人の命は平等」を実践できているわけではないが、そこに理想があればこそ、現状に満足していないのであって。

ともかく、「生きている意味」など考える必要はない。「生きていること」は、それ自体が価値。他の何かで説明するのは、全部アウト。ただ……「生きている」の定義が問題かな。人体の単位では死んでも、細胞の単位では生き続けられるしね……。この方面から攻められた場合の反論は「検討中」の状態が続いている。

平成23年10月11日

芸能人なんかでもそうなんだけど、人々の記憶に新しい状況で亡くなると、扱いは大きくなる。ビル・ゲイツさんが2000年頃に亡くなったら、これくらいの扱いになったのかもな……と思った。

あと、すごい会社のすごい経営者の中でも、一般にまで顔と名前が知られるようになる人と、「知る人ぞ知る」の枠を出られない人がいる。その違いって何なのだろう、と思った。このところソフトバンクモバイルは好調が続いているけど、往時のNTTドコモほどじゃない。でも、ソフトバンクの孫社長は著名だけど、NTTドコモの圧勝を実現した社長は、一般には知名度がない。具体名を挙げれば大星公二さんなんだけど……。

ドコモ急成長の経営―企業価値創造と社会貢献の理念 経営は知的挑戦だ―iモード4千万利用者を需要創出した起業家精神!

ちゃんとこんな著書もある。中身もけっこう面白い。なのにどうして。

ヒューレット・パッカードでCEOを務めたカーリー・フィオリーナさんも不思議な人だったな。着任した途端に世界的有名人になった。単純に考えたらDELL創業者のマイケル・デルさんとかの方がすごそうなんだけど、こちらは名前も顔も一般にはあまり知られていない。IT系つながりでGoogle創業者のセルゲイ・ブリンさんやラリー・ペイジさんも、名前は見覚えがあっても、顔まで思い浮かぶ人は多くないと思う。逆にウシオ電機牛尾治朗さんのように、企業と経営者の知名度が逆転している例もある。

だから何? っていわれると、言葉に窮するのだけれど。

平成23年10月10日

「リーダーの経験がある人は、チームの一員として求められることを理解できるから」という内容。

1.

まず、割とどうでもいい疑問から。

「リーダーの経験」を求める考え方は理解できたが、それを「リーダーシップを求める」というのは、違和感がある。ちきりんさんは「リーダーシップ体験」とも書いているけれど、英語としてどうなのかは知らないが、日本語としては「リーダーシップ体験」と「リーダーの経験」とでは意味合いが違うように思う。

「リーダーシップ体験」といったら、私は「自分はリーダーとしてこんなに活躍した」という話をイメージする。でも「リーダーの経験」なら、「こんなことで苦労して、自分はリーダーには向いていないとは思ったけど、今後はチームの一員としてこんなことに気を配りたいと思い、具体的にあれこれのことをしました」みたいな話でもおかしくない。

組織は幹部候補ばかり採りたいわけじゃないので、「リーダーシップはないけどリーダーの苦労は知っていて、チームの一員として求められることを理解している人」は大歓迎のはず。

2.

本題。リーダーの経験があれば、チームの一員として求められることを理解できるのか?

私が小学生の頃、学級委員を選挙ではなく、くじ引きで決めていた時期があった。児童は反発したが、教師は「指導の一環」として押し切った。あと掃除の班長は担任が代わっても常にくじ引きだったので、学校の方針だったのかも。

ちきりんさんは優秀な人を前提としているから、リーダーの経験があればリーダーを困らせるようなことはしなくなるという。でも、学級委員や、図書委員会の委員長や、掃除の班長や、部活動の部長などを務めてきた私はこんなだし、他のクラスメートも、リーダー体験の前後でとくに成長はしていなかったような……。自分が苦しめられたことを、他人に対しては平気でやるような人ばっかり。

前任の学級委員長が退任した途端に学級会で無体な言動をしたとき、「どうして辞めた途端にそういうことをするんですか!」と新任の委員長がプッツンきた。すると前任者は「俺だけ苦労したんじゃ割に合わない」と放言し、罵りあいの大喧嘩になった。当然、教師は介入したのだが、「俺のときは助けてくれなかった!」と叫ぶ前任者に共感するクラスメートが続出し、収拾がつかなくなった。

いや、あんたらだって前任者を苦しめた当事者じゃないか……。なんで先生を責めているわけ? いい加減にしろよ、アホらしい。そう思った私は何をしたのかといえば、クラスの大騒ぎを無視して、窓辺の水槽を眺めていた。タニシが藻を食べていて、その動きが面白かったわけ。つまり私には、自分もクラスの一員だという責任感なんて、まるでなかった。

その後、何度か開かれた学級会を通じてだんだんわかってきたのは、クラスにはびこる復讐の論理。教師の誘導で、ていねいに過去へ、過去へと遡っていくと、当初の対立構造が明らかになった。それは、2年ほど前に、病欠した委員長に代わって議長を務めていた副委員長のAさんと、クラスメートBさんの対立だった。

Aさんは議論が膠着したので多数決で話を進めようとしたが、Bさんは「納得できない!」と食い下がり、紛糾した。このときAさんの友人たちが、「Aさんの議事進行を妨害したBは許せない」と恨みに思い、その後、どんな話題でも関係なくBさんの発言を潰そうとした。すると、たまたまある話題でBさんと意見が一致したCさんが、Bさんと一緒に集中攻撃にあって怒り心頭に発し、ここにAさんもBさんも置いてけぼりの乱戦の連鎖が始まったのだった。

結局、クラス内で共有されたのは、「リーダーなんてやるものじゃないな」「人間、どこで恨みを買うかわからない」「とばっちりってあるよね」「議論とか、空しい。全部、先生が決めてくれたらいいのに」みたいなことだった。

えっと、要するに何がいいたいのかというと、「リーダーとして苦労した体験から、ちきりんさんがいうような教訓を引き出す人なんて珍しいんじゃないか」という……。むしろ、「リーダーは苦労するのが仕事」と規定して、いっそう我侭放題にする人が少なくない感じ。

平成23年10月9日

1.

4年前にニコニコ動画の荒らし対策:私案(2007-11-20)を書きましたが、実際に実装された「NG共有機能」とは雲泥の差。さすがに素人の思い付きとはレベルが違った。

それでも、本音をいえば、「もっと単純な仕組みでいいから、4年も待たされたくなかった」みたいな気分が大きい。しかし安直な実装が長く足を引っ張り続けるのはハードもソフトも同じで、ちょうどこの2年くらい、仕事の方で苦しんでいるのがそういう問題。拙速を避けてじっくり考えたのは正しい判断だったろう、とは思う。過ぎてしまった時間のことを云々しても意味がない。

2.

人それぞれ嫌なものって違う。だから、完全なNG共有機能というのは存在しない。各自のNGワード登録は今後も重要だと思う。

私は数年前に100個くらいNGワードを列挙しているブログ記事に出会い、それを一部カスタマイズして踏襲しました。でも、その記事をメモってなくて、もう見つからない……。なのでその代わりに、今日、検索して出てきた記事を、ひとつだけリンクしておきます。

ゆとり|時報|下手|脳|つま|黙|批判|くだら|糞|キモ|きも|カス|飽きた|クズ|叩|文句|いらね|厨|頭悪|NG

無料ユーザーはこれで20個使い切るのですが、有料ユーザーの場合、あと180個設定できます。

死ね|殺す|コロス|パク|パク|馬鹿|バカ|バカ|ずこ|ズコ|ズコ|嫌|韓|鮮|創|層

NG設定を増やすほど、消えなくていいコメントまで消えてしまうのだけれど、まあそこは快・不快のバランスで判断するしかない。

「ずこ|ズコ|ズコ」は「ズコー」を消すための設定。「ズコー」は、私の視界の中では、「歌が下手」という意味で使われることが多い。ニコニコ動画では声量と伸びのある歌声が評価されやすいようで、囁き声のような歌声は貶されやすいみたい。私は、エレキギターも、マイクの使用を前提とした歌も、科学が実現した新しい音楽のあり方として積極的に評価したいので、「ズコー」が気に食わない。

上で紹介したNG設定以外では、私は「流行りもの」があまり好きじゃない。一時期のキュゥべぇコメントとか。流行は移っていくものなので、折々にNGワードを追加・削除しています。

他はあまりにも下品な言葉や差別語とか。あとは毎週視聴するチャンネルのOPやEDで好みに合わない弾幕が定着すると、NG設定で消すことも。

平成23年10月8日

Skypeで話せば30分ですむ程度のことに8時間もかけて……。

Twitterのせいで無駄になっている時間というのは、ものすごいな。菊池さんと春日さんの時間ももったいないし、これほどの長文を読んだ大勢の人の時間も無駄。

でも、これってやっぱり趣味の領域だから、そんなことをいっても仕方ないのかな。雑誌の編集者みたいな人が走り回れば解決しそうな話だけど、そのコストを負担する人がどこにもいない(私も負担しない)。

余談:

お互い定量的な話をする気がないようなので、泥仕合になるのは当然じゃないかな。議論の前提となる世界認識について検証をしないなら、どちらの話がより真実味があるように聞こえるかという水準でやりあうことになる。ネットの一部では菊池さんに賛同する声が大きいようだけど、それこそ「科学は多数決じゃない」ということ。

平成23年10月7日

以前も書いたことだけど、道路は自動車を持っていない人からとった税金も投入して安全性と利便性の向上に努めている。自動車と鉄道の競争は不公平だ。社会的圧力によって鉄道の安全性を高めるならば、ホームドアも税金で設置するのが筋だろう。

鉄道会社の立場で考えてみると、ホームドアを設置したことで利用客が増えるかといったら、増えない。ホームドアがなかったからといって、賠償請求されるような状況にあるかといったら、そうでもない。人命は大切だといっても、まじめな会社ほど市場で損をする状況なので、インセンティブの設計に難がある。

曖昧な社会的要請に頼るより、バリアフリーのように、法律で義務付ける方がマシ。自動車との比較ではいっそうコスト面で不利にはなるが、せめて鉄道事業者間では競争の条件が公平になる。ただ……既に赤字か、収支トントンの鉄道会社にとって、死刑宣告になってしまうのが問題か。

やっぱり、鉄道のホームドアには費用以上の価値があると人々が信じるなら、公金で設置すべきなのではないか。これまで市町村税を中心に道路特定財源以外から注ぎ込んできた道路予算と比べれば、断然小さな出費なのだし。

補記:

自動車との比較の問題を抜きにすれば、駅の利用者から費用を徴収するのが一番いいと私は思う。入退場のたびに10円、20円とか。で、積み立て金がたまったらホームドアを設置するわけ。でも、いろいろな理由で、この提案は非現実的なのだそうだ。残念……。個人的には納得していない。

追記:

ROYGBさんにご紹介をいただいた特定都市鉄道整備促進特別措置法は、ホームドアを設置する駅の利用者だけから費用を徴収する方式ではなく、少し私の理想とは違います。

個人的にはそもそも鉄道料金の認可制に反対で、鉄道会社どころか「駅」の単位で自由に料金設定できる方がよいと思っています。ホームドア設置のため一時的に駅の利用料を値上げしてみて、とくに客足が減らないようなら「早期設置のため」として値上げ幅を拡大する……みたいな自由度がほしいです。

金持ちの多い街では駅がリッチになり、そうでない街では駅舎は古いけど駅の利用料がゼロで運賃負担のみだとか……。あとは、乗車率の低い昼間や、日曜・祭日の運賃を下げたり、逆に混雑時間帯の運賃を上げたり……。料金が自由になったら、鉄道事業車間の競争やサービスにもっと多様性が生まれると思う。

平成23年10月6日

若い業界ではベテランが足りないので、30代くらいで多くの人にマネージャーへ転向してもらう必要がある。「プログラマ35歳定年説」は、いわば後付の理屈。IT業界は、もはや平均年齢が若い業界ではなくなってきている。「プログラマ35歳定年説」は、多くの会社では、もはや本来の存在意義を失っていると思う。

製造業にはかつて、「技術者40代定年説」があった。本来「技術者40代定年説」とは、会社が発展して若い従業員が増えていく中で、心ならずも技術者として一線を退いて管理職になることを受け入れるための、自分自身を納得させるための方便だった。それがいつしか、「40代になったらもう技術者としては終わってる。その先、進歩はない。退化するだけ」という偏見の温床になってしまった。

1990年代、「技術者40代定年説」の悪は極大化した。日本の労働人口の増加が止まり、横這いから減少へと転ずる時代、50代の一般社員が珍しくなくなっていった。ところが、「技術者40代定年説」は健在だった。その結果、エース級の技術者を例外として、多くを占める「若手を少し上回る程度の実力」のベテラン技術者たちは、実力に見合った尊敬を得られなかった。多くの技術者が、失意の内にサラリーマン生活を終えていった。

ちょうどいま、「プログラマ35歳定年説」は、こうした状況にあるように見える。実際には35歳を過ぎてもプログラマであり続ける人が増えており、その実力は若いプログラマより少し上だ。にもかかわらず、35歳を過ぎたプログラマは、偏見ゆえに、一部のエース以外は(とくに若い世代から)不当に低く評価されている。

たぶん、いま35歳のプログラマの大半は、65歳までプログラマであり続けると思う。そして、プログラマとしての実力は、総合的には僅かずつ上がっていく。

「中高年のプログラマはたいてい無能」などと無邪気に発言する人々の口をふさぐことはできない。でも、プログラマ自身が「プログラマ35歳定年説」を内面化することだけはしないでほしい。「35歳を過ぎたらもうプログラマとしての成長はない」と思ってしまったら、本当に成長は止まる。誇りと自信を持ってプログラマを続けてほしい。

いま60代後半の私の先輩技術者の方々は、自分が50代に差し掛かると「技術者40代定年説」に対して「ふざけるな!」と奮起した。90年代の前半には苦戦が続いたが、次第に戦況は好転していった。そして21世紀になる頃には、「技術者40代定年説」はついに「愚論」「謬論」とされるようになった。偏見に屈せず、愚直に結果を出し続けた成果だった。

私は先達方が偏見を振り払った道を歩むので楽だが、同世代のプログラマは、これから苦難の道を行くことになる。どうか、実力で偏見を吹き飛ばし、「プログラマ35歳定年説」を過去のものにしてほしいと願う。

追記:

残念ながら今のままの業界では一生プログラマでいれるのは、特別な能力のあるほんの一握りの人しかいないと思います。

そうではないことが、最大の問題。35歳定年説は、そもそも三角形の人口ピラミッドから生まれたもの。だから、人口ピラミッドが少子高齢化を反映して逆三角形へと変貌していけば、ふつうの人が65歳までプログラマを続ける社会になっていく。つまり、35歳定年説という偏見に苦しめられる人が、どんどん増えていく。

35歳定年説で最悪なのは、35歳を過ぎると「能力が落ちる」と思われていることだ。これは事実に反するだろう。私の勤務先は製造業だが、平均するとベテラン技術者の方が少し生産性が高かった。この事実はかつて、労働者の自己評価とは合致していたが、同僚へのイメージとは乖離していた。個人としての先輩は尊敬しても、世代論になると「ベテランは無能」と決め付ける、そんな矛盾があった。

総合的には能力が落ちていないのに、他者からの評価がどんどん落ちていくのは理不尽だ。許せない。この怒りが諦めに変わったら、偏見は自己成就してしまう。そうなる前に、35歳定年説なんてバカな偏見はぶっとばさなければならない。

平成23年10月5日

「事実だとすれば問題」という言い方ですら批判する人がいて、それはそれで健全なことだと思うのだけれど、現実には、「事実であろうとなかろうと問題」というのが一大勢力になっている。

彼らは薄弱な根拠で他者を罵倒し、それを全く反省せずに、「文句があるなら俺を納得させてみろ」と開き直る。が、端っから納得するつもりなんかないのである。何の留保もなしに人を公然と非難するなら、非難する側が根拠を挙げるべきなのに、相手が何をいっても「信じられない」と斬り捨てる。

「架空の罵倒面接」問題では、最後まで「架空ではなかったはず」と決め付けて過剰に名誉を毀損する発言を繰り返す人が何人もいた。自分が「これは本物だ」と感じたことが、その唯一の根拠である。

「架空の罵倒面接」そのものを批判するのはいい。心の中で「架空ではなかったのでは?」疑い続けるのもいい。追跡調査を行うジャーナリストを支援・応援するのも、何ら問題ない。だが、憶測で名誉を毀損する発言をすべきでない。とはいえ、そうした発言をゼロにするのは無理がある。私だって無理だ。また、今すぐ法的に取り締まるべき水準でもないだろう。それでも、社会的な抑制は必要だと思う。

「明確な根拠なく名誉を傷つけておきながら、自分は何も悪くないと開き直るのはひどい」という声がもっとたくさん出てくる社会、行動の徹底はできないまでも「それはその通りなので、発言を抑制しないといけないな」と多くの人が思う社会になれば、悲しみの総量は現在より小さくなると思う。

平成23年10月4日

カリブ海諸国のバナナプランテーションでは、バナナ会社は儲けても、バナナ農園で働く労働者はバナナを食えない。バナナ会社と、労働者の利害関係は一致してないわけだ。

それは再分配の問題。バナナ会社の利益がみんなの利益になるようにすることは、本来、可能なことのはず。投資を回収し、収穫期に入ったプランテーションの場合、再分配の強化で外資が逃げても、基本的には問題ない。既に現地資本化されているなら、再分配を強化したって、経営者らは他に行くところがないだろう。

もし、再分配の強化を嫌って経営者らが逃散した結果、販売ルートの確保や栽培技術の維持、肥料の仕入れなどで支障をきたし、事業の存続が不可能になって農園が閉鎖されてしまったとすれば、そのときこそ「よりマシな道を選ぶ」という基本に立ち返ることができるはず。「格差」を見るとすぐに「理不尽だ」となる人が多いのだけれど、本当のところは試してみないとわからないと思う。

もちろん、うまくいけば万々歳だけど、失敗すれば痛い。だからまずは「再分配強化特区」のようなものを作るのがいい。農園は土地に縛られており、移動できない。工場だって、特区の設置期間が3年以下なら慌てて逃げ出す方が高コストという予想が立つから、たいていの企業は、まずは様子見を選択すると思う。

平成23年10月3日

1.準備1

大久保さんの記事は、麻生政権の頃、政府紙幣の発行が少し話題になったときに読んだ記憶がある。

私の素朴な疑問は、デフレを脱却したとき、本当に貨幣の流通速度が再び速まるのか? ということ。貨幣の流通速度が際限なく低下する状況は終っても、過去に見られた水準まで流通速度が回復するわけでもない……という展開になるかもしれないじゃないか。

「貨幣の流通速度の下げ止まり=貨幣の供給が流通速度の低下で相殺されない」という形でデフレが止まり、流通速度の再上昇が起きない場合、「過剰なインフレを抑制するために、いったん供給した貨幣を吸収する」必要がない。大久保さんは、そうはならないと決め付けているのだけれど、歴史を眺めれば、発行した政府貨幣を全て吸収する結果となった事例ばかりではない。

2.準備2

例えばイギリスで失業率の高まりとインフレが同時に起きていて、需要ショックで不況になったはずなのに、生活必需品を中心にインフレが続く。いま生産の拡大が求められている商品の生産に資源が集まらないのは過渡的な問題なのか。過渡的だとして、その調整は何年も要するものなのか……。

失業者の大多数が直接、人手不足産業に入っていくという仮定は現実的でない。供給制約で商品の価格が上がると、ふつうは生産を増やそうとする。商品価格の上昇は人件費の上昇につながり、あちこちの産業から必要な能力のある者を引き抜いて雇用を増やして、生産の拡大を実現していく。そうした空いたポストに失業者が入っていく。拡大中の産業に直接雇用される失業者もいるが、全体としては少数派である。……と、こういう玉突き式の仕組みだから、調整には時間がかかる。何らかの過渡的な対策も必要だと思う。

商品の価格が上昇しても生産と雇用が増えない可能性、これも、もちろんある。生産者は、一時的な需要の高まりだと思えば、人員を増やさない。この場合、商品価格が上昇しても、生産は増えず、先行者が一時的な(or一時的なものと予想された)超過利潤を手にするだけに終る。

3.本論

「日本には60〜70歳代を中心として1000万人分の余剰労働力があるので、相当に巨額の政府貨幣を発行して国債残高の圧縮を進めてよい」というのが私の数年来の経済認識

松尾さんも、日本にはたくさん失業者がいるので、震災復興のために20兆円くらい無から財源を生み出しても問題ない、という見解のようだ。

この議論は、調整の時間とコストを軽視している。またデフレを脱却すれば貨幣の流通速度が云々という話も無視している。ただ、貨幣の流通速度の話はとりあえず脇へ置いて、以下では「震災復興で20兆円くらいドカンと政府貨幣を発行したとき、ひどいインフレになる可能性」に的を絞る。

松尾さんは上限4%のインフレターゲットを想定されているけれど、中期的には20兆円を浪費してもその範囲内に収まるとしても、数年程度のスパンでは全然ダメかもしれない。やってみてから、問題があれば政府の支出を削るということができたらいいが、「物価上昇率次第で復興の速度を柔軟に調整します」という方針で議会を通過できる予算は考えにくい。

「たぶん大丈夫」が外れて想定以上のインフレになったとき、政府支出を絞れないなら金利を上げて民間の消費を抑制することになる。

被災地にたくさんの失業者がいて、全国にはもっといて、だから……私もそう思いたいが、金融危機への積極的な対応の結果、けっこうキツいインフレになって、それはデフレよりかましだったとしても、しかし期待されるほどの失業率の改善はなくて……という実例がある中で、あまり楽観的にはなれない。

ブラジルの失業者は日本へ来るのに、北海道の失業者は、なぜ愛知に来ないのか。明治維新以降1960年代までの、人が自由に土地を移動する時代の再来を切に望みます。

今は愛知県も人余り。「知らない土地へ移動して、たった数年で失業者に逆戻りするなんて耐え難い。年金をもらえる年齢になるまで、ずっと働き続けられる確信がなければ、おいそれと移動なんてできないよ」という話だったとすれば、問題の構造は共通している。

平成23年10月2日

1.

  1. 「増税はずっとあとでいい」のウソ
  2. 「経済成長すれば増税は必要なし」のウソ
  3. 「永遠に借り換えできるから大幅な増税は不要」のウソ
  4. 「政府紙幣発行で財政再建可能」のウソ
  5. 「インフレ実現で財政再建可能」のウソ
  6. 「内国債は将来世代の負担ではないから積極財政を実施すべし」のウソ

國枝繁樹さんの財政再建論。よく読めば、國枝さんがデフレ脱却も経済成長の必要性も全く否定していないことがわかる。私はかなり説得された。

高齢者の増加を相殺できるほど福祉水準の切り下げをしていないのだから、いずれ増税は避けられない。ここしばらくは借金を増やして先延ばしにしているが、いつまでも続けられるものではない。デフレでは税収が下がってしまうので、まずインフレにしないと……という主張に私は賛同しているが、ようは税制を変えずインフレによる実質的な増税を実現しようという話だ。

デフレ下で力強い経済成長はきわめて困難だとしても、インフレになったらメキメキ経済成長するというものではない。デフレの脱却は「力強い経済成長」の必要条件だが十分条件ではない。インフレになっても不景気が続く可能性はある。この場合、生活実態はほぼ横這いなのに、インフレで税負担だけ増えることになる。税制を変えないことを「増税なし」と表現するのは、ウソに片足突っ込んでいると私は思う。

國枝さんは、インフレ頼みの実質増税では、税制が本来意図していた負担のバランスが崩れてしまうことを問題視されている。今から心配することではないと思うが、いずれ直面する課題ではある。そのとき、「インフレによる実質増税が既に起きていて、そのバランス調整をする」という構図を見落としてはならないはずだが、税制上の「増税」「減税」ばかりが話題になりそう。

2.

2005年にbewaadさんが提示してくださった「増税」回避シナリオを再読した。

このシナリオでは、利払いを除く支出がインフレ率と同じ比率で毎年度増加することになっている。高齢者が増えるのに実質支出が横這いということは、高齢者の増加を相殺できるレベルで、福祉の水準を切り下げるか、福祉の「効率化」を達成することを意味している。だが「効率化」は焼け石に水の水準だろう。

また、経済成長に応じた支出増がゼロなので、25年の長きにわたり、大幅な経済成長をよそ目に社会福祉などは全く充実しないことをも意味している。公共部門では、経済成長による税収増を全て借金の返済に充てるということだ。

さらに、税収弾性率が1.1で一定となっているので、経済成長すればするほど税負担が増す。それでいて、実質GDP成長率は一定と仮定している。四半世紀も実質負担増が続けば、安定した経済成長の継続は、実際には次第に難しくなっていくように思える。(とくにキャッチアップ効果シナリオにおける実質増税のスピードはかなり激しい)

まとめると、bewaadさんのシナリオは、おそらくは福祉の大胆な圧縮を含む非常に厳しい支出の抑制と、インフレによる実質増税を緩和しない(それでいて安定した経済成長が継続する)ことを前提としている。

つまり、財政再建は、どうしたってたいへんつらく厳しい。もちろん力強い経済成長は必要で、そのためにデフレ脱却が最優先の課題となる。だが、bewaadシナリオほどの支出抑制はきっと無理なので、そう遠くない未来に、インフレによる実質増税に加えて更なる増税が必要になると思う。

補足:

平成23年10月1日

私の周囲では「進出→撤退→再進出→移転」と転変したので、「忙しい会社」というイメージだった。利用したことは2回くらいしかない。記事を読んでみて、直感的には「いい話すぎる」と思ったが、私はケーズデンキのことをほとんど全く知らないし、何かしら疑う理由があるわけではない。

とくに裏などなく、書かれている通りに成功している会社だったらいいな、こんな感じで成功する会社が、もっと増えていったらいいのにな、と思った。「モーレツに頑張って好業績」なんて話には、いまいち夢を感じない。天才社長が大勢の凡人社員を幸せにし、社会的に成功していく話に、私は憧れる。

救世主願望みたいなものかな。ま、ふつうの人生に救世主は登場しないので、自分で自分を救うしかない。となると、客観的に成功するのは無理だから、それを解釈する主観の方をどうにかしようという話になって、すると、いつもの私の記事になるわけだ。