備忘録

平成23年11月30日

1.

「そういう意味ではない」のはわかっているが、「私が書いたら、fujiponさんの記事とはかなり趣きの異なるものになるはずだ」と思って、カチーンときた。それで、岩崎夏海さんの質問に回答します(約1.3万字)(2011-10-23)を書いた。もともと書きたい内容はあったけど、長い記事になるのは目に見えていた。「面倒くさいしパスしようか……」と思っていたときにFTTHさんのコメントが目に入り、重い腰を上げたわけだ。

2.

前項のFTTHさんのコメントからの派生で、加野瀬さんが私の名前を出している。

既に何度も書いてきたことだが、加野瀬さんは納得されていないようなので、以下、再論する。

3.

私が書くのは、次のような記事だ。

  1. 自分が関心を持っている分野の記事
  2. 自分が書きやすいジャンルの記事(補記:書くことへの障害・コストが少ない)
  3. 自分の視界の中で主流となっていない意見を述べる記事(注:その多くは「枝葉」の部分に少し特徴があるだけで「幹」の部分は主流派と同根)

私の主張を「無理なロジック」と思うのは加野瀬さんの解釈であって、私は「自分が正しいと思うことを素直に書いている」だけだ。正しい意見が目立たない現状への不満が、基本的な執筆の動機となっている。自分が100%賛同できる意見が既に存在するなら、わざわざ書かない。文章を書くのは、とても面倒なこと。だから、読んで満足したら、それでおしまい。

私は、自分が関心を持っていて、小さな労力で文章を書けて、「正論」がないがしろにされている(or大切なことがいくつか抜けている)テーマについてだけ、書く。とくに付け加えたい意見がなければ、私は何も書かないので、ブログの読者が私を「天邪鬼=多数意見に必ず反発する性格の人」と感じても無理はない。

私は(経験的に、そういった方が話を聞いてもらいやすいから)「天邪鬼のいうことだと思って聞いてください」と最初に断ったり、少数派体質を自称したりしているが、本心では自分が天邪鬼だとは思っていない。たいていの話題について、私は多数意見に賛成しているからだ。「みんな」と意見が同じときは黙っていて、意見が違うときだけ口を開くから、ブロガーとしては天邪鬼に見えるだけ。私が特異だとすれば、その1点。

具体例をいくつか

著作権法違反を指摘するにしても、私はマジコン需要の背景にあるゲームソフトの違法なアップロードへの批判などは書かない。既に優れた記事が多数あり、屋上屋を架す意欲はない。だが、壁紙スレまとめ記事など、何百人もはてブをしていながら、誰一人「著作者への名誉の分配」と「対価の支払い」の欠如を批判しない事例については、「おかしいじゃないか」と書く。私が書くしかないからだ。

tumblrについても、当初は無断転載への批判が多かったので、しばらくスルーしていた。だが、次第にtumblrで横行する無断転載を受容する空気が広まり、無断転載に怒る側が「神経質」などと反発される時代が到来したので、私はtumblrユーザーの安直な著作権無視を強く批判するようになった。「みんなやってる」なんて理由で安直に無断転載をする人々は許せない。「このコンテンツは、どうしても無断転載しなければならぬ」という確信、信念があるときに限って法を踏み越えるべきだ。

転載許可の出ている記事をスクラップするYahoo!ブログの機能を叩いたネット世論が、どうして転載許可のない記事を勝手に転載するtumblrに優しいのか、私にはサッパリわからない。Yahoo!ブログのときは「多くの人にスクラップされたくて他人の記事を盗む人が必ず登場する」「実際に登場している」ということが、批判の理由となっていた。だったらなおさらtumblrはヤバイ。無断転載をせず、オリジナルのコンテンツだけで大人気になっているtumblrなんて、滅多にない。それなのに、Yahoo!ブログ批判と比べて、tumblr批判は私の視界の中で存在感がない。私が書いても注目されるかどうかはわからないが、とにかく私もtumblr批判を書かねばならぬと思って、いくつか書いた。

Togetterも、Twitter APIの利用規約に違反していて、本当はAPIを利用できず、したがってツイートの転載が許されないはずのサービスなのに、大人気になっている。利用規約を守ることがツイートを権利者に断りなく再利用できるための条件なのに、利用規約を踏みにじる人やサービスが多すぎる。私はそうした状況に深く憤り、かなりの手間をかけて、大勢に読まれそうな形で批判記事を書いた。

4.

私はそもそも、加野瀬さんらが、岩崎夏海さんを「ハックルさん」と呼ぶことを、きわめて不愉快に思っていた。私の認識では、「ハックルさん」はウォッチャー視点で岩崎さんを「観察」している人々の間で流通している呼称。私を「トクボン」だの「トクヤス」だのいう人と一緒。公の場で「ハックルさん」などと書くのは、礼を失した態度であり、倫理的に間違っている。

見解の相違と、ある「場」における常識と異端の差異に過ぎないのに、少数派に対して多数派が侮蔑の感情を露わにして少しも恥じるところがない状況こそが問題。自信家は悪じゃないが、自信家を公然と侮蔑するのは悪。「その自信には根拠がない」という指摘は、相手に敬意を払うことと両立するはずです。

こう考えている私は、加野瀬さんの気にくわないのなら、あいつ気にくわない!とだけ言えばいいのに、正論を持ってくるのが格好悪いという発言に、首を傾げた。「ムカつく相手を罵倒していい雰囲気」を作るために「正しい本旨」を持ち出しているのは岩崎さんを叩いている側の人々ではないか、と思ったのだ。

それとも、加野瀬さんは、はてブとかで、ただただ空気に乗っかって何ら理由を述べず岩崎さんへの侮蔑感情を開陳するだけの人々を「カッコいい」と思い、あれこれ理由を述べた上で岩崎さんをキチガイと呼ぶ人々を「格好悪い」と認識しているのだろうか。私には、そうは思えないのだが。

あえて「わかりやすさ」優先で踏み込んだ表現をしてみる

以下は、「私には、そうは思えない」という推察が当たっていることを前提とした話なので、注意していただきたいが、加野瀬さんの主張を私なりに整理すると、次のようになる。

加野瀬さんは自分の都合でダブルスタンダードを押し付けている。正論に反論できないから、イメージ操作で対抗しているわけだ。意識的にズルをしているとは思わない。加野瀬さんの中で、整理がついていない部分なのだと思う。

5.

加野瀬さんがコメントしていた記事の本題についても、少しだけ。

批判が集中すること自体は、問題視しない。だが、その批判の中に暴言や侮蔑感情の発露などが含まれていることが問題だ。

かつて私は、暴言を吐く人は、多数派の地位に安住してリミッターを解除しているのだと思っていたが、よくよく観察してみると、そうではなかった。暴言を吐く人の多くは、自分が多数派でも少数派でも関係なく、賛成できない主張に対して暴言で返しているのだった。

「総つっこみ」の状態になると、暴言がたくさんまとまる。私個人の受け手としての感覚を書けば、暴言を吐いている人が明らかに少数派なら「許せる」が、たくさんあると、とてもつらく感じる。数の暴力をひしひしと感じる。「少数派なら暴言を吐いてもよい」という主張には反対だが、体験的に、「自分たちが多数派であるときは、いっそう言葉に気をつけるべき」と私は考えている。

外野から徒党を組んでいるように見えるのに、当の言及者が徒党を組んでいる意図がない、徒党を組んでいるように見えることを意識していない、というのは不自然だとは思いますが。被言及者側からは「いじめ」に見える可能性があったとしてもそれを考慮しない、というのは酷い話です。

私はK2Daさんの、この感覚に共感します。批判をするのはよいのですが、「総つっこみ」の状況を把握したならば、ふだん以上に言葉を慎み、数の暴力に加担しないよう気を付けるべき。賛成できない意見には「私は賛成しません」とだけ書いて、嘲笑などすべきでない。いつだって嘲笑などすべきでないが、自分が多数派であるときには、多数の嘲笑が生み出す暴力に対して、とくに自覚的であってほしい。

平成23年11月29日

1.

2.

追加:

hirax.netの巨大迷路、私は匙を投げたんだけど、塗り潰し法に頼ったら、たくさんある正解ルートのうち2つを知ることができたので、個人的には大満足。

3.

平成23年11月28日

同じことを何度でも書く試み。大阪府知事・大阪市長ダブル選挙で橋下徹さん率いる大阪維新の会が勝利したことに関連して、昨日の記事に続いて、今回は「善意で民意を無視する政治家たち」についての雑感。

1.

昨日の大阪市長選挙、大阪府知事選挙で、「大阪維新の会」代表の橋下徹さんが市長に、幹事長の松井一郎さんが府知事に当選した。

今後数年のスパンにおいては、橋下さんが支持を失うとすれば、それは、橋下さんが「現実的」になって、有権者の多数が支持する政策の矛先を目に見えて鈍らせた場合だろう。市民が「やってほしい」といっていることは、長い目で見て破滅的な政策であろうとも、やり抜く方が支持は堅くなる。

選挙民は無責任なので、橋下さんが持論を貫いた結果が悲惨であれば、躊躇せず次の選挙で落とす。過去に縛られず、コロッと判断を覆すことができるのが、民主主義の強靭さである。ひとつの人格に縛られる独裁者には、真似し難い美点だ。

2.

2009年に国政で政権交代を実現した民主党が支持を減らしたのは何故か。私は、民主党が「改革バカをやめてしまった」からだと思う。

国の施策の多くは、大多数の国民にとって直接的な利益がない。だから総論としては「もっと支出を減らせ」の声が勝つ。80年代からずっと、国民は支出の削減に総論賛成してきた。増税には抵抗を続けてきた。ならば政治家は、大多数の国民が痛みを感じて「支出の削減より増税の方がマシだ」というまで、支出の抑制に邁進すべきなのではないだろうか。

だから政治家は、自分の共感する弱者に影響が及ぶと、支出の抑制に強く抵抗する。そこをアッサリ譲ってしまったのでは政治家になった意味がないからだ。

が、そうして、政治家が善意で民意を無視し続けた先に、明るい未来が描けるか。私はNoだと思う。

言葉は既に尽くされているだろう。聞く耳を持つ人には、もう届いている。大衆を説得できないなら、政治家は民意に従うべきだ。十中八九、民意に逆らってきた政治家の判断は正しく、民意に寄り添う政治は、予想通りに残念な結果を招くだろう。だが、どこかでその調整を経ずして、民主主義は機能しない。

平成23年11月27日

大阪府知事・大阪市長ダブル選挙で橋下徹さん率いる大阪維新の会が勝利したことに関連して、2つ雑感をメモしておく。今日は「公務員の待遇とパフォーマンス」について。

1.

人々の声に沿って公務員の給与を削減しても、客観指標においては、ロクな結果にはなりそうにない。が、真に人々が求めているのは、役所のパフォーマンスよりも、「公務員が羨ましくない世界」なのかもしれない。主観が重要なのだとすれば、客観指標で劣る状況が支持される可能性はある。

政治家の著書を読んだ印象では、顔の見えない有権者に対しては、客観的な成果を上げることが支持につながると、政治家は思い込んでいる。それが責任だと思っている。これが、民意を無視する理屈である。公務員の給与をザクザク削減してもロクなことにはならないと思うから、政治家は全くの善意で民意をスルーし、大衆に憎まれている。

例えば、学校の先生の給料を削減したら、学校のパフォーマンスは間違いなく落ちる。政治家にはそれがわかっている。過去に通った道だからだ。都市と地方の教員の給与格差を解消することで、ようやく都市と地方の学力格差を消し去った歴史を、人々は忘れ去ったが、政治家は知っている。給料を上げただけで学校教育が改善されたわけではないが、給料を上げる必要も、あったのだ。

だが、人々は「給料を維持する必要がある」という意見には納得しない。言葉も資料も無力である。現実の体験なしに、大衆が納得することはない。実際に教員の給料を大きく下げてみて、「他のあれこれを頑張れば、給金は安くても大丈夫なはずだ」という確信に沿っていろいろ試し、叩きのめされるまでには、何年にもわたる痛み、どうしようもない、もがき、あがきの日々を経る必要がある。

2.

「教育は大切」といえば、みな賛同する。が、どんなに大切なものだって、そのためにかけられる費用には限度がある。限度を超えて費用をかけたら、特定分野の結果は改善されても、総合的な満足度は低下する。

1.では、いずれ教育成果の低下と、それを改善する策がないのを見て、給与水準が旧に復するというシナリオを採用した。だが、現実にはそうならない可能性もある。費用対効果を考慮すると、現在の教育は過剰品質かもしれない。その場合は、「たしかに教育の成果は低下したけど、教員の給料を元に戻すよりは、現状の方がマシ」が有権者の多数意見となって落ち着くことになる。

3.

行政のパフォーマンスを下げまいと奮闘する政治家たちは、それが人々のためと信じて憎まれ役を買って出ている。だが、それは徒労かもしれない。

1.のシナリオが妥当だとしても、有権者の理解を得られないまま公務員の待遇を維持し続けることは難しい。橋下徹さんは登場すべくして登場したタイプの政治家だ。他の地域にも、橋下さんが掲げたような政策を推進する政治家を待望する人々が、たくさん暮らしている。民意を反映する政治は、おそらく失敗する。だが、実際にやってみて失敗する他に人々を説得する方法がないのだとすれば、政治家の方々の頑張りは、問題の先送りにしかなっていない。

2.のシナリオが妥当ならば、そもそも既存の政治家の方々の頑張りは、究極的にも民意を無視した専横に過ぎなかったということになる。この場合、とっとと新しいタイプの政治家に駆逐された方が、世のため人のためである。

政治家の方々は、もちろん上記いずれの整理にも与しない。説得によって民意を変えるのだ、という。私は、「それは無理だろう」と。もはや、歴史の繰り返しを厭わず、再び失敗してみるしかないのだと思う。

平成23年11月26日

「運動が苦手」とは、こういうこと。

関係ないけど、「**が苦手」というのを、何でも「**音痴(おんち)」といって通用するのは面白いな。「運動音痴」とか、文字にしてみると意味不明な感じなんだけど、口語でこれが通じなかったことは、一度もない。ただ、「**音痴」はカラオケ世代の生んだ言葉のような気がするので、焼け跡世代や21世紀生まれには通じないのかもしれないな。

平成23年11月25日

私にとって「ネット」世間とは、はてなブックマークRinRin王国駄文にゅうすの3つ。そこに出てこない話題は、私の視界に入ってこない。

おかげさまで、『まどか☆マギカ』とか、アニメ作品についての面白い記事はたくさん視界に飛び込んできたのだけれど、『家政婦のミタ』について何か面白いことを書いてるブログは全然。『マルモのおきて』も、人気沸騰しているという事実と、そういう状況について2chでメタ的にワイガヤしてるのをまとめた記事しか読めなかった。

私はミタさんやマルモのファンが楽しんでいる様子(実況スレとか)をまとめた記事を読みたいのだが、私の「ネット」にはそれがない。2chを直接読むのは、面倒くさすぎて絶対に嫌。誰かが編集した記事を読みたい。しかも自分でそういう記事を探すのも手間だから、誰かが探してきて、はてブしてくれたのを、ホットエントリーから拾って読みたい。

私は「構図を探求して深読みする」とか、「セリフを分析して心情を掘り下げる」とか、そういった記事も大好き。自分で分析する気はないけど、分析が得意な人の解説を読むのは、すごく楽しい。でも、アニメを分析する記事ははてブのホットエントリーに上がってくるのに、実写ドラマを分析する記事は皆無。どうしてなの? ネットのどこかには、そういう記事があるんじゃないの? それとも、どこにもないの?

はてブのユーザーが増えて衆愚化を心配する人がいるけど、はてブのユーザーは、全然足りないと私は思う。もっともっとはてブのユーザーが増えたなら、きっと、実写テレビドラマ関連の記事を探してきてくれるユーザーが5人くらい登場して、ホットエントリーに実写ドラマ関連の「読むに値する記事」が登場するはず。

繰り返すけど、私はやらない。「誰かやって!」と書いたら、それで気が済む程度のことだもの。自分で頑張るのは割に合わない。ブログ検索などをすれば、感想はいくらでも読めるけど、その99%は、読んでも面白くない。2chのまとめブログが面白いのは、単体ではつまらないレスも、編集が入れば「1分で実況スレの空気がわかる」という情報コンテンツに化けるから。無編集でも面白い記事なんて例外なんだ。

そういえば、アニメの話題の2chまとめなら『やらおん』が大手だけど、実写ドラマの実況スレをまとめているブログはないのかな。はてブに出てこないから、そういうブログがあるのかないのかすらわからない。たしか『マルモのおきて』が人気沸騰という話題に対する2chの反応まとめではてブに上がってきたのは、『ニュー速VIPブログ』の単発記事で、いつも実写ドラマの実況スレをまとめているブログの記事ではなかった。

テレビ以外でも、例えば、私は阿刀田高さんの小説が大好きですが、はてブ方面ではスルー。ホットエントリーに出てくるのは、ライトノベルと、村上春樹さんと、あとはジョブズさんの伝記くらい? 読みもしないライトノベルの知識ばかり増えていく。電撃文庫の三木さんとか、編集者の名前まで覚えてしまった……。阿刀田さんの新刊情報とかに関心を持っている人が、もっとはてブに増えたらいいのにな。

結局、情報収集に毎日1時間を費やすなら新聞が最も効率よく、ネットは娯楽の範疇だよな……と。(この結論は前段までの話から飛躍しているが、間を埋める説明は、面倒なので書かない)

補記:

a)

九十九式』をはじめとする巡回先で出てくる話については、「ネットの話題」というより、自分が好きで読んでいる書き手自身の話題というイメージ。

b)

私のブログは総計20000ブクマを越えているので、はてブのコミュニティには、もう十分に貢献したと思う。みんな、自分の得意な分野で貢献すればいいんじゃないの? 私は、ブログ検索の海から玉を拾い出す作業には貢献しないけど、そのあたりは役割分担でいいと思う。

c)

mixiコミュ? twitterのハッシュタグ? そんなの、2chを直接見るのと同様、ダメに決まってるじゃないか……。玉と石をふるいにかけるのは、自分以外の誰かに任せたいの! 自分は、ふるいにかけられたものを、さらにふるいにかけるだけで手一杯。

平成23年11月24日

1.

私はライトノベルを読まないので、リンクした話題そのものは「どうでもいい」のだけれど、私が興味を持っている『このミステリーがすごい!』との比較で「面白いな」と思った。

『このミス』で西村京太郎さん、内田康夫さん、赤川次郎さん、木谷恭介さんあたりの作品が票を集めることはない。ベストセラー作品に冷たいというわけではなく、東野圭吾さんや宮部みゆきさんの大ヒット作は、1位にもなっている。『このラノ』でいうところの協力者票だけでランキングを作っているから、そういう偏りが生まれるわけだけれども、西村さんのファンから文句が出たという話は聞かないな。

まあ、その昔、木谷恭介さんは『このミス』に不快感を示したそうだし、笠井潔さんが本格推理よりエンタメ系の作品の方が目立っていることに不満を述べたということもあったと記憶しているけれど、少なくとも現在、私の視界の中で目立つ意見ではない。『このミス』権威化の流れが逆転したようには思えず、『このミス』から排除されているミステリーやエンターテインメントのファンが『このミス』に対して反発しないのは、ちょっと不思議な感じがする。

2.

ミステリー方面で、一般読者票、作家票、評論家票を合算してランキングを作っているといえば、『IN POCKET』の「文庫翻訳ミステリー・ベスト10」。

読者は何年にもわたってパトリシア・コーンウェルさんの新作を1位に推し続けたのだけれど、作家と評論家の同意を得ることができず、とうとう1位を取らせてもらえなかった。結局、コーンウェルさんの方が先に息切れしてしまい、かつての「読者票で圧倒的な1位」という状況が変化。そのため近年は、読者部門ではトップ3に入っても、総合ランキングではベスト10圏外へ……。

読者はマイクル・コナリーさんの作品も好きで、2010年には読者・作家・評論家がみな『エコー・パーク』を1位に推して幸せなランキングになったのだけれど、コナリーさんは例外的存在。一般読者票はたいてい、一番割を食っている(ベスト10に読者票20位圏外の作品が入る確率が高い)。

ライトノベルの「ファンの声」を見ると、協力者票への風当たりが、かなり強い。ライトノベルのファンが特殊なのか、それとも、彼らがネットでの発言に積極的なだけで、ミステリーファンも真の多数派の声は似たようなものなのか……。

私はというと、西村京太郎さんが年に20冊近く書き飛ばしている作品も、東野圭吾さんの作品も、どちらも面白いと思う。評論家が西村さんの作品に冷たい理由はわかるけど、「馬鹿馬鹿しい」「つまらない」という斬り捨て方をする一部の人に対しては、「そりゃ了見違いというもの」といいたくなる。

『このミス』が西村さんの作品を「別リーグ」扱いにしたのは理解するとしても、結果的に、毎月のように刊行される西村さんの作品のうち「とくにお勧めの1冊」を誰も選んでくれない状況になっていて、個人的には不便に思っている。どれを読んでも面白いのだから、適当に選んでも不都合ない。でも、自分が読み逃しているかもしれない傑作がきっとあるはずで、「1冊選ぶならコレ!」という紹介は、切実にほしい……。

3.

たぶん、『このラノ』は一般層にもリーチしているけれど、『このミス』は西村さんや内田さんや赤川さんあたりのファン層には、ほとんどリーチしていないのだろうな。理由はわからないけど。

いや、不思議なのはさ、小説誌では西村さん、内田さん、赤川さんって常連なんだよね。アンケートとかでも評判がいいから連載が途切れないわけでしょう。ああいう雑誌は書店でしか売っていなくて、同じ売り場に『このミス』も並んでいる。どうして両者の客層が全然違うということがあり得るのか。

西村さんのファンが、新幹線で出張する際の暇つぶしに新書版の小説を買う人だけだとするなら、小説誌から西村さんらは消えているはずでしょ。でも実際は、そうではないわけで。

個人的には、『このラノ』は『このミス』の系譜だと思っていたから、「一般票とか不要であって、協力者票だけでいいじゃん」と。でも、現状、一般読者にも『このラノ』のランキングが需要されていて、『このラノ』が一般票を斬り捨てた場合に、その需要を満たす代わりの存在がない(ランキング自体はいろいろあるみたいだけど、多くの注目を集めるものとなっていない)。とすると、折衷案を採用するのは、一強の存在としての責任かもしれない。

ところで、「総合ランキングをやめて、部門別ランキングだけにしたら揉め事にはならなかった」という意見もあったが、そのようにしたら『このラノ』の売れ行きは鈍ってしまったろう。総合ランキングには需要があるので、『このラノ』が蛮勇を奮ったのは商売として正しいと思う。

補記:

私の立場を補足説明したい。私は『このミス』が好き。今後、『このミス』の色が薄まってしまったら、それ自体は残念に思う。しかしながら、「ミステリのランキングといえば『このミス』」という状況には大いに不満がある。「別リーグ」の作家の作品も上位に登場する「今年の傑作小説リスト」が、切実にほしい。

もし今後も『このミス』が現在の地位を占め続けるのであれば、『このラノ』に対して噴出した「協力者票はオカシイだろ!」というのと同じ批判が、『このミス』に対しても向けられて当然。なぜか「別リーグ」作家のファンはネットでは非常に静かなので、実際にはそのような話題が盛り上がることはなさそうだが……。

「別リーグ」作家の初期の作品を推す意見なら、今だって、いくらでもある。でも私が求めているのは、今の、評論家に黙殺されるような内容の、しかし売れ続けている作品を、今も買い続けている読者の価値観に寄り添って分析し、評価し、「最近の作品ならこれがお勧めですよ」と紹介してくれるガイドなんです。

平成23年11月23日

1.

現在楽天レシピには1日700件のレシピが集まるという。レシピの累計投稿数は4万件で、3月までに10万件を達成することが当面の目標だ。

これが1月の話。11月末現在、「レシピ」は約30万件集まっている。1日800件ペースだ。多少の波はあっても、傾向としては落ち込んでいない。着実に積み上げている。

「50ポイントは安いもの」とインフォシーク事業長の濱野斗百礼氏は語る。「クックパッドには現在約90万のレシピが投稿されているが、それらすべてに50ポイントを払って楽天に再投稿してもらってもわずか4500万円。ポイントはもっと高くしてもいいと思っている」とのことだ。

いま、クックパッドの「推薦レシピ」は約8万5千件、「つくれぽ」は220万件程度。1年足らずで倍増したわけだ。圧勝、ではある。1日あたりページビューも、1年で倍になった。クックパッドは、とっくに定番サイトの地位を固めているものと私は思い込んでいたから、まさか、2011年にもなってPVを倍増させるだけのポテンシャルを秘めていたとは夢にも思わなかった。

もし、月1回以上レシピサイトを利用する人々の総数が将来的に5000万人に達するとすれば、クックパッドはさらに利用者を3倍増させる可能性がある。同時に、後発サイトにもシェア奪取の可能性が残されている。現在の利用者を横取りするのは至難の業だが、新規利用者の獲得競争なら、どうなるかわからない。

2011年はクックパッドが圧勝した。楽天レシピの「年内にクックパッド抜く」は夢で終った。だが、果たして、この先はどうなるか……。

2.

何なのコレ? 楽天レシピは、失速するどころか、利用者の4倍増を達成している。だが2011年、クックパッドは利用者の倍増を実現した。ベースとなるユーザー規模が全く違うため、楽天レシピとクックパッドとの差の絶対値は開いてしまった……ということ。

400万回線のウィルコムがユーザーを4倍に増やしても、5000万回線のドコモがユーザーを倍増させたら、両者の絶対的な差は大きく開いてしまうでしょ。それを見て「ウィルコム失速」というのはおかしい。ユーザーが4倍にも増えたなら、会社の経営としては絶好調なんだ。

楽天レシピが不人気なわけじゃない。クックパッドの人気がもっとすごい、というのが現実なのに、はてブでは楽天レシピを貶す言葉が並ぶ。楽天レシピがクックパッドを抜き去ることはないかもしれないが、楽天レシピの利用者が増え続けていることを見落とす人は、他のことでも、いろいろ勘違いをしていそう。

平成23年11月22日

tonmanaanglerさんは歴史に興味があって、ブログに既存の学説への疑問や、独自の仮説などを書かれている。

俺はこれに関する解説を見たことがない。というか問題提起さえみたことがない。

この件に限らないけど、たぶん、ネットで疑問を書いていても、よほど運がよくなければ反応はないと思う。私が育った千葉県には自然と歴史をメインテーマとする中央博物館があって、そこの友の会に入会すると、定期開催されている自然観察や歴史散歩などのイベント案内がくる。これに参加すると専門家の人と知り合いになることができて、そうすると、イベントのテーマと無関係の話題でも、折に触れて相談できるようになる。

専門家の人は、その道のコミュニティに参加しているから、その人自身が質問に回答できなくても、急がず、しかし催促を続けることで、きわめて豊かな回答が得られることが多い。小学生の頃の私は植物や昆虫に興味があって、名前のわからない草についていろいろ調べてもらったり、家の中に入り込んでくる虫について知恵を借りたり、ずいぶん助けてもらった。子どもだから親切にしてくれたというのではなく、大人でも専門家を知恵袋として活用している人がたくさんいて、現地集合でないイベントなどの場合、移動中はずっとイベントと無関係の話でワイワイ盛り上がっていることが多かった。

専門家の人の詳しい分野と市民の関心分野がズレている場合、ドンピシャの専門家への紹介状を書いてくださることもある。私は「それほどのことでは……」と辞退した記憶があるが、当時のおじさんたちは前へ出る性格の人が多くて(というか、それくらいの意欲がなくては博物館の友の会に入ってイベントに参加したりはしないということだろう)、私が辞退するのを「もったいない」と口々にいった。

tonmanaanglerさんは歴史散歩みたいなイベントには興味がないかもしれないけど、人付き合いのコストだと思って、割り切って参加されてはいかが? 公立の博物館が主催するものなら、金銭的なコストは実費のみ。時間は丸1日吹っ飛ぶけれど、謎を抱えたままにしておくのと、どちらがよいか。もちろん、1回参加しただけで謎が全て解決するわけはない。いや、謎は解決しないかもしれない。でも、専門家の意見は聞ける。たぶん、「問題提起さえない」理由は「そんなこと、考えたこともなかった」ではないかと思うけど、それでも、実際にそういう言葉を聞くことで、ようやく「そういうものか」と納得できたりするもの。

いま私は博物館と縁遠くなってしまっているのだけれど、旧恩に報いるつもりで、社会人になってからはずっと、友の会の賛助会員として寄付を続けている。そうして友の会の活動が継続し、市民と専門家の間を取り持つ助けになればよいと思う。

平成23年11月21日

もともとトラックバックに懐疑的だった私としては、これまでサイト全体で一括して受け付けていたトラックバック機能も、これでいよいよ廃止できそうで嬉しい。かつてトラックバック機能を完全に潰した状態で言及していたら「ずるい」とか「卑怯」とかいわれて、内容以前のところでシャットアウトされたことがあり、仕方なく譲歩していたのだけれど、もういいよね。

昨年、テンプレートを変更した際、トラックバック受付ページへのリンク表記を「Trackback」から「TB」へ変更したけど、近日中に、これを完全に削除しようと思う。

なお今後もアクセス解析やYahooのブログ検索の結果はチェックし続けて、いくつかの言及元は「逆リンク」として、こちらからリンクします。また、トラックバック受付中の人は、たぶんトラバ歓迎ということなのだろうから、状況に応じて適当にトラバしていきます。

「ライフログ」であれば要りませんが、「つながり」を志向するなら、"引用しつつあれこれ言い合う"というかたちのコミュニケーションは有用であるはずです。

引用しつつあれこれ言い合うことと、トラックバックはまるで関係ないと思う。私はずっとトラックバックに冷淡であり続けましたけれども、引用+言及のスタイルを2003年からずっと続けています。トラックバックというコミュニケーション支援ツールをサポートしないくらいで終る文化なら、既に終っているといっても過言ではないと思う。

アクセス解析とかを見ていなさそうな人に言及通知がしたいなら、twitterやfacebookで話しかけたらいいんじゃないかな。そういう連絡先の記載が皆無のブログだと言及通知はできないけど、そういう人は、たとえトラックバックできても、返信とかする気がないんじゃないか。

結構いろいろ書いてきたものだな……。

平成23年11月20日

1.

もどきの部屋で紹介されていた論文についてのメモ。

大卒の価値が低下しても、高卒の価値がそれ以上に低下すれば、大卒の相対価値は上昇する。

矢野さんが「大学は過剰ではない」と考える根拠は、大卒が増えても高卒との賃金格差が縮まっていないこと。私は、そんなの、全く根拠にならないと思う。

以前も書いたけど、大学進学率が高まれば高まるほど、大卒か否かで足切りをする妥当性は高まる。「高卒の中にも優秀な人がいる」可能性が、どんどん低下していく。結果、高卒採用者のキャリアパスが狭まっていく。能力主義といっても、最初からチャンスも与えられず、そのことに当人も疑問を抱かない状況が固定されれば、有名無実だ。

2.

私の勤務先の場合、現在の70歳代の方には、中卒・高卒の取締役がいた。60歳代でも中卒・高卒部長が何人もいた。現在の50歳代では1人しかいない。管理職として、大学で学んだ経験が必要なわけではない。管理職に求められる能力に長けている順で序列化したら、大卒以上の学歴の人ばっかりが上位を占めるようになったに過ぎない。そして、現在の35歳以下の中から、中卒・高卒の部長が登場するかというと、これは非常に厳しい。全員を知っているわけではないが、私が顔を合わせた範囲内でいうと、まず当人のキャリア意識に壁がある。

高卒者は第二次産業中心の経済では高級を得られたが、第三次産業中心の経済では薄給に甘んじる他なかったとする海外の論文を引用して、矢野さんは教育投資は重要性を説いている。私にはこれも、勘違いのように思える。

私の狭い見聞からいうと、製造業においても、高卒と大卒の賃金格差は開いている。高卒の人の仕事が、少しずつ限定されてきているからだ。以前なら、社内教育で中卒・高卒入社の人にあれこれ教えたら、かなりの割合の人が、20代で電験3種を取っていた。ちなみに私は、30代になったけど、大卒のくせに取っていない。ところが、進学率が高まるにつれ、中卒・高卒採用の人向けの社内研修が、つらくなってきた。

具体的には、「誰も宿題をやってこない」「多忙を理由に何人も授業に出てこない」といった状況が頻発し、破綻した。クラスに1人でも「これは」という人がいれば、講師役の先輩社員は意欲を保てる。だが、全滅となると、心が折れる。「3年続けたら1人くらい見つかるかも」「……」「ですよね」

進学率が高止まりしている状況には、学歴による賃金格差を広げる要素があるのだと、私は思う。進学率が高くなればなるほど、早く就職することが挫折と結びつくようになる。せっかくの社内研修の機会を与えられても、「もう勉強はいいよ」「どうせ、自分にはわからないし」と敬遠するようになってしまう。

昔から、そういう人はいた。いたが、高卒入社組の中に優秀な人が一定以上の割合で存在していれば、電験3種を目指す社内研修制度そのものが消えてしまうことはなかった。電験3種は、雑用技術者からエース技術者への切符だった。自学自習の道はある。だが、研修制度があったらどれだけ楽か、挫折しにくいか。その研修制度が、講師の心が折れて、途絶した。高卒採用者の待遇の固定化は、こうして進んでいく。

3.

同じ年齢の高卒と大卒の社員の能力の平均を比較すると、実際、何らかの差はあると思う。問題は、それが「大学で学んだこと」による差なのか否か。

私は、高卒段階までに既に現れている能力差でほとんど説明がつくと思う。それに加えて、足切りラインを越えた自信とか、それによって保てた希望とか、そういった要素の影響も、いくらかあるだろう。

現時点における学歴無用論や大学過剰論は、若者の進路を誤らせる罪深い無責任なメッセージである。

これには半分賛成。進学率が高まって、「大卒足切り」の有効性が確実になっていく中、自分だけ「降りる」道を選んで得をすることはない。「高卒だけど、私は並みの大卒より優秀です」と主張しても、聞く耳を持たれない。他人の能力を見極めるのだってコストがかかるから、形式的な判断が可能なら、そうしたいのだ。

だから、個人が学歴無用といって進学を放棄するのを、安直に後押しするのは無責任。しかし、社会全体で進学率を下げて、「大卒だけでは、現在、大卒がやっている仕事を賄いきれない」状況にすれば、世界は変わるはず。したがって、個人の生き方としては進学を勧めつつ、社会の向かうべき方向としては、進学率を大胆に引き下げる(or過半の大学を放送大学に置き換える)べきである。

大卒が足りなくなれば、企業は、優秀な高卒を見出さねばならなくなる。だが、優秀な高卒と、そうでもない高卒を明確な線で区切ることは不可能だ。それゆえ、全ての高卒の社員に門戸を開いて、研修を再開するだろう。その結果、高卒者全体の価値が上がっていく。

たとえ少数でも、「中学・高校では落ちこぼれだったけど、数年頑張ったら電験3種を取れた」という実例が毎年のように出てくると、空気が変わる。学習意欲が変わってくる。高卒の採用枠が増えることで、研修を受ける高卒の社員の母数が増え、確率の低い事象が毎年起きるようになる。昔話ではなく、目の前でスターが誕生することの効果は大きい。

余談:ペーパー試験

高卒予定者向けの入社試験では、10数年前から、理数のペーパー試験を課していない。

なぜペーパー試験をできないのか。それは、分数の掛け算、割り算も全然できない事実を目にすると、採用意欲が殺がれてしまうからだ。「こんなの、採用したくない」「でも、採用するしかない」「技術者枠だぞ。いくら何でも」「じゃあ採用ゼロでいいのか!」この板挟みで苦しい。それで、ペーパー試験をなくした。

私の頃は、漢字テストと慣用句、ことわざのテストをしていたが、それも次第に結果が悲惨になってきて、今はやめてしまったそうだ。社内文書に頻出する漢字や言葉がわからないのでは困る。困るのだが、採用しないといけない。採用を決めてから、漢字の勉強をしてもらう方針に切り替えた。

「頭のデキ」の分布は今も昔も変わらないと思う。だが、成績下位層の家庭学習の時間は、70年代との比較で大きく減少している(様々な調査が同じ結果を示している)。それでペーパー試験がなくなってしまったのだろう。

で、ペーパー試験を課さない会社、課すけど悲惨な点数でも採用する会社が増えていくと、高校生はますます勉強しなくなる。ドラマを見ていてもそう。就職を目指す人は頭を下げるばかりで、勉強をしない。昔の映画だと、就職試験のために勉強する描写があったりするのだが……。

余談:大学院進学率

工学部とかだと、院へ進学する人が増えすぎて、高卒と大卒の間で起きたことが、再現されているような感じだ。これをまた教育の再分配が云々といって、みんな院へ進学させる方向へ進んで、何かいいことがあるかというと、何もないだろう。

過去の大卒と現在の院卒に能力の差はない。が、過去の「優秀な大卒」と同等の人を採用しようと思ったら、院卒から選ぶのが無難。完璧な入社試験など存在しない。期待外れはいつだってある。院卒がみな優秀なわけはない。だが、より確実なのは院卒。不景気で人余りだから、「研究・開発系の技術者は院卒しか採用しない」という方針でも、人手不足にならない。

しかも、2年間の学費も、就業年数の短縮も、企業側は全く負担しない。ここに企業のタダ乗りの構造が生まれ、局所的な合理化の積み重ねによって学歴インフレという壮大な無駄が、再び起きているわけだ。

平成23年11月19日

はてブでもDoblogの最後を連想した人がたくさんいたみたい。それで少し調べてみたら、Doblogって最終的にはトラブル発生前日までのログは復旧して、それから終了していたんだな……。知らなかった。

オンラインゲームの場合、もともといずれは客足が減ってデータが消える世界なので、頑張ってデータを復旧しても意味がないという判断になったのはわかる。東京で震度7の大地震が起きたりしたら、結構たくさんのサービスが終了しそう。

私はオンラインゲームはやっていないけど、あらためて自分が利用しているあれこれのサービスの利用規約を読んでみたら、いくつかのサービスで、「サービスを終了することもあるよ」という趣旨の記述があった。ま、別に地震を想定してのことではないだろうけど。

利用規約って、きちんと読んでみると「私はこういう規約に同意していたのか……」と気付くことがいろいろあって、暇なときには面白い。いや、本当はね、最初に精読すべきなのだけれども。

平成23年11月18日

これがNGだとして、『VOW』とか、どうなんだろう。私の巡回先だとプチ日記の存続が心配。「人の直接撮影はNGだが、人が何かをした結果としてのモノを撮影するのはOK」という理屈は脆弱。2011年現在は、おそらく問題視する側が少数派。でも、10年後の世論はどうか。

ベースにあるのは、撮影と写真の公開によって傷付く人への同情、共感。だとすれば、看板の書き間違いなどを「面白いもの見つけた」とウェブで公開するのは、善か悪かといったら、悪である。となると、「程度の問題」の領域で争うしかない。「悪は悪だけど、そこまでキツく批判するほどの悪じゃない」みたいな。

プチ日記の場合、11月8日に縁切り神社で見つけた面白い絵馬を写真で紹介しており、名前はモザイクが入っていたけど、かなり危ない橋を渡っている感じがした。

余談:

そういえば、絵日記が「街で見かけたヘンな人」を紹介して炎上したという話は記憶にないな。いや、嘲笑した側の「勘違い」「心得違い」が叩かれたケースはあるけど、無断で描くのはひどい云々という話にはなっていなかったと思う。絵ならいいけど写真だとダメ、というのは何故かな。当人を特定できる可能性の問題?

平成23年11月17日

1.

私的『ドラクエ』4条件(2011-09-19)の余談。

私的『ドラクエ』4条件
  1. 全滅のペナルティーが皆無に近い(所持金が半分になるだけ)
  2. ルーラ(=街の中でも外でも自由に使える移動手段)
  3. リレミト(=ダンジョンからサクッと脱出/ゲーム開始後数時間以内に習得)
  4. 時間さえ投入すればプレーヤー自身はほとんど成長しなくても本編をクリア可能

私がプレイした80以上のコンソールゲームのRPGの中では、私的『ドラクエ』4条件を全て満たす作品は『ドラクエ』シリーズ以外では皆無。私が最も重視する第1項で、ほぼ全ての作品が落ちてしまう。

リンク先の「データ」はジョークだと思う。さすがに、8割もの人が「全滅=リセット」にウンザリしているなら、そういうゲームは圧倒的な少数派になっているはず。

例えば『幻想水滸伝』シリーズの場合、『幻想水滸伝』『幻想水滸伝II』『幻想水滸伝III』では、全滅時に「あきらめない」を選択すると、レベルとアイテムを引き継いで最終セーブポイントへ戻ります。「全滅=時間の無駄」ではない。でもイベントは巻き戻ります。

ところが、『幻想水滸伝III』の制作途中でシリーズ創始者の村山吉隆ディレクターがコナミを退社したためか、『幻想水滸伝IV』の「あきらめない」は戦闘開始時点へ戻る仕組みとなり、『幻想水滸伝V』は「全滅=リセット」になってしまったらしい(未プレイ)。

私は新作を中心にプレイしてきたから、「全滅=リセット」が現代のコンソールゲーム向けRPGの標準なんだな、と感じてます。携帯電話向けとかだとまた違うのではないかと思いますが……。

補記:

FFは「全滅=リセット」の代表選手だと思っていたので、まさか『FF6』に全滅時にレベルと経験値だけ残る仕組みがあったとは知らなかった……。

追記:

twitterでの指摘もあって、バーチャルコンソールで遊べる作品をいくつか試したら、『ドラゴンスレイヤー英雄伝説』『同II』『弁慶外伝』『メタルマックス』『同2』『同リターンズ』は「全滅=リセット」ではありませんでした。とくに英雄伝説は全滅のペナルティが皆無で、時間を戦闘の直前まで巻き戻すことも可能なのがすごい。

ともあれ、10数年前までの作品には、「全滅=リセット」じゃないものがたくさんあったのだろうな、と。バーチャルコンソールにあるソフトに特段の偏りがあるとは考えにくいので……。

『ミスティッククエスト』は基本的には「全滅=リセット」だけど、戦闘開始時点まで巻き戻すことが可能なので、「不運」や「情報不足」で負けた場合には救済されます。こういう仕組みは『聖剣伝説LOM』にもありましたね。

2.

話は変わりますが。

村山さん降板後の後の『幻想水滸伝』シリーズでは、ザコ敵とのエンカウント率が上昇。第1作に関するインタビューで、村山さんは「自分の好みに合わせて意図的にエンカウント率を低めに設定している」という趣旨の話をされていました。私は村山後の『幻想水滸伝』に触れてみて「最終的なゲームデザインの責任者が交代すると、こうまで変わるのか……」と、折に触れて感じました。

そういえば『WILD ARMS』シリーズも、金子彰史さんがトータルゲームデザイナーを後進に譲った途端に「まさか」の変更が多々ありました。ゲームの制作規模が大きくなっても、強い個人の存在感は、案外すごい。

堀井雄二さんが降板したら、『ドラクエ』シリーズも「そこを変えちゃうの?」という部分が変わってしまうのでしょうね。いや、堀井さんがいても、毎回あれこれ変わってはいるのですよ。でも、全滅のペナルティを軽くするとか、ルーラの使い勝手をよくするとか、リレミトの便利さみたいなところには、一貫した意志を感じるわけです。(例えば『DQ8』では、全滅すると全員が体力全快で復活するため、低レベル攻略や短時間攻略において「デスルーラ」の使い勝手が大幅に向上しています)

「手触り」や「心地よさ」というか……うまく言葉にできない部分、「ゲームシステム」といったときに説明を端折られるような部分にこそ、変わらぬ個人の感性が見て取れるのです。

3.

4日続けてバラバラとコンソールゲームについて書いてきた内容は、後日、整理してdez:Gに移すつもり。(と、書いておかないと、面倒くさくなってサボってしまうから、完全に個人的なメモだけどここに書いておく)

平成23年11月16日

やまなしさんのゲーム関連の記事を読んで思ったことをいくつか。

1.

それはどうだろう……。メーカー側が「隠しエンディング」を「真のエンディング」と謳っていることって、あまりないと思うし。とはいえ、やまなしさんが例に挙げている『セパスチャンネル』と『428』は、メーカー側が黙っていても、実質的に仰る通りの作品なのだろうとは思う(私は未プレイなので予想です)。

だいたい「真のエンディング」って、ハッピーエンドなんだけど、ご都合主義のようにも思えることが少なくない。だから、私には「真のエンディング」がピンとこないことが多い。『幻想水滸伝II』でも、街の人のセリフをよく読めば、通常のエンディングでも**の生存は推察できるし、個人的にはそれで十分で。『幻想水滸伝I』で**が復活するのも、それが「真の展開」なのかというとね……。まあでも、ハッピーな展開を望む人が多いということなのだろうな。

RPGのマルチエンディングで一番いいのは『クロノ・トリガー』じゃないかと思う。1周目で真のエンディングを見せて、2周目以降に「こんな可能性もありました」を見せていく、という。それではプレーヤーの動機付けが弱いと思って、簡単に中古に売られないようにあれこれ工夫するようになっていったのがゲームの歴史なのでしょうが……。

近年の作品だと『ラジアントヒストリア』がよかったです。何をどうしても根本の悲劇は変わらないのだけれど、じつは、小さなサブイベントをこなすと、未来に希望の種が撒かれます。この作品には「いくつかの時点間の行き来を何度でもできる」というシステムがあって、2周目に挑戦することなく、「やり残したことを拾っていく」ことで状況を変えられるのがいい。もちろん取り返しのつかないこともありますが、エンディングに希望を持たせるイベントは取り返しがつく。ふつう、そういう部分こそ「2周目を頑張ってください」にしたくなりそうだけど、そうはしていないことに私は感心しました。

2.

2008年1月、10数年ぶりにコンソールゲーム(DS版『DQ4』)を遊んでみて、これは面白いな、と。GBA版『FF2』に初挑戦したのは、その直後。盾とテレポを鍛えて歩き回っていたら、いきなり世界一周できたので驚愕したことを覚えています。「えっ、自由すぎる!」と。『DQ4』でいえば、「1章のライアンがいきなりリバーサイドへ行って鉄仮面とドラゴンキラーを購入できた」みたいな……。

『FF2』の物語の展開は一本道でしたが、いきなり世界一周をできるようにはなっていて(テレポと盾を鍛えることで、案外簡単に実現できます)、こういう見せ方って素晴らしいな、と。世界一周できても、それで物語の本筋がわからなくなるということは全くありませんでしたし。

最近プレイした作品だと『ドラゴンスレイヤー英雄伝説II』の地下世界ですかね。前作の『英雄伝説I』は、海と山と川で分断されたマップをひとつずつ踏破していき、全世界を巡り歩いたらもうエンディング目前というRPGだったので、『II』の地下世界の自由さには驚きました。いきなり全部を歩けたからです。ただし『II』は前作に続き武器・防具がきわめて重要なゲーム。ストーリーを進めないと強い武器・防具が売りに出ないから、物語を無視して地下を全て踏破したプレーヤーは、実際には滅多にいないと思う。

あとは、少し違うけど、『幻想水滸伝』『幻想水滸伝II』かな。PSで容量に余裕があることを利用して、やたらめったら広いマップを用意していました。あんまり広いので、次の街がどこにあるかという情報を得ないと街が見つからないという仕組み。持てるアイテム数の制限が厳しいこともあって、レベルが低いうちはあまり長い距離を歩けないわけです。『幻想水滸伝』も大きなくくりでは移動制限があるのだけれど、個々のエリアが広くて、そこにいくつも街があるので、物語を放り出して歩き回るのが、個人的には楽しかったですね。『DQ2』くらいのエリア制限なら許せるということであれば、十分に面白いと思う。

『DQ2』『FF2』『幻想水滸伝』『幻想水滸伝II』『ドラゴンスレイヤー英雄伝説II』のいずれも古い作品。やっぱり市場でウケが悪くて、コンソールゲームのRPGでは、歩き回る自由度は「無駄」ってことになっていってしまったのだと思う。(注:私にはオンラインゲームの話はわからない)

うーん、でも、『DQ8』とか、形は違うけど、現代風にアレンジして「歩き回る楽しみ」を提供してくれていたように思う。製作者の中でも、いろいろせめぎあいがあるのだろうな。

3.

あるある。『DQ8』とか、「2周目をプレイしたらドルマゲスに追いつくことができる」という仕組みだったらどんなにかよかったろう、なんて思ったことがある。

平成23年11月15日

2011年は、私とコンソールゲームとの付き合いの中で、ふたつ画期的な出来事があった。

マリオの話は昨日書いた。今日はゼルダの伝説について。

1.

コメント欄に私が書いた内容を転記。

私はマリオもハットリくんもクリアできなくて、しかもただクリアできないのではなく、3年経ってもほとんど腕が上達しなかったんですよ。弟がどんどん上手になっていったのとは好対照でした。

そんな私が、ただ時間を費やすだけでステータスを上げることができて、ちゃんとエンディングにたどりついた初めての作品がドラクエでした。頭を使わず、ただ機械のように苦労をするだけでも、キャラクターが成長したら嬉しかったんです。アクションとか、頭を使うシミュレーションとか、得意な人は、頑張ったら結果がついてくるじゃないですか。でも私のような人間は、年単位で時間を投入してもサッパリだった。

それで、イライラしながら、全然面白くないのに、弟にバカにされるのが悔しいというだけでゲームをやってた。不幸でした。だから本当にドラクエには感動しましたね。そういう個人的な体験から、コマンド式RPGの経験値・レベル制度は、アクションや頭脳戦が苦手なプレーヤーでもゲームを楽しめるようにした工夫だ、という説に納得しています。

ちなみにスターオーシャンやテイルズなどでも、レベルさえ思い切り上げれば、本編のラスボスはプレーヤーが操作するキャラは攻撃ボタンを連打するだけで勝てるようになってます。バカでもエンディングは見れます、みたいな。

ともかく、ゼルダのようなアクションRPGだと、そういうのは無理じゃないですか。真正面から特攻して斬り付けるだけだと絶対にクリアできない(私はクリアできなかった)。だから、テイルズとかは折衷案としてよくできていると思うんです。アクションが苦手なら十分にレベルを上げればドラクエ的にもなるよ、という。逆に、ゼノギアスやワイルドアームズのダンジョンでは頻繁にアクション操作が求められるのですが、あれが本当につらくてつらくて……。そういうのが苦手だからコマンド式戦闘のRPGをやってるのにな、とか。天外魔境3はその点よくできていて、何度か失敗すると仕掛けが自動で解ける。そのかわりクリアの報酬が減る、という仕組み。

ところでレベル上げの不可能なRPGといえば『暴れん坊プリンセス』が個人的には印象的。雑魚戦が皆無で、ボス戦しかないという。

このコメント(の一部)に対し、やまなしさんがこんな記事を書いてくださった。

2.

今年、私が初めてクリアしたゼルダの伝説は『ゼルダの伝説 夢幻の砂時計』(DS)であり、続いて『ゼルダの伝説 大地の汽笛』(DS)も、どうにかこうにかエンディングを見れた。

で、私の場合、やっぱりボス戦が最大の課題なのだった……。ダンジョンの謎解きはいい。ゆっくり考えて、試行錯誤する余裕もあるから。でも戦闘では、タイミングが要求される。ぼやぼやしていると、ダメージが溜まってゲームオーバーになってしまう。

私の場合、ボスの攻略方法がわかっても、「思った通りには行動できない」というフラストレーションがある。『テイルズ』で物理攻撃連打しかしないのは、結局、「それしかできない」から。何をどうしたらコンボがつながるのかという理屈はわかっても、実際にはコンボがつながらないから、考えても仕方ない。防御も回避もうまくできないなら、レベルを上げて、回復アイテムをたくさん持って、力押しで勝てばいい。

ゼルダの伝説には、そういう逃げ道がない。ボスの攻略法がわかったら、わかった通りに倒すしかない。ハートの欠片(主人公の体力の上限を上げるアイテム)をたくさん集めてみても、体力勝負の殴り合いをしたら、絶対に負けてしまう。

ともあれ、『砂時計』も『汽笛』も、私はボス戦で非常に苦労したので、ハートの欠片の場所は攻略サイトに頼った。その上で、何をどうしたらボスを倒せるかわかって、それなのに操作が下手で詰んでしまった場合に限り(判定基準:攻略法がわかってから10連敗)、諦めてズルをして先へ進むことにした。

ゼルダの伝説で『スーパーマリオ3Dランド』の「パタパタの羽」に対応するものがもしあるとすれば、「ダンジョンの仕掛けが勝手に解けてしまう」とか「30秒逃げ回ればボスが自爆する」といったものだろう。では「無敵このは」に対応するのは? 私は「ハートが減らない」ではないかと思う。ハートが減らなければゲームオーバーにはならないが、仕掛けを解いて、ボスに有効打を与えなければ、先へは進めない。

で、私はどうしても勝てないボスはズルをして突破した。しかし、イベントの都合により、その手が通用しない相手もいる。『汽笛』のラスト近くで、飛んでくる火の玉から姫を守る場面は、とても厳しかった。通常のボス戦なら、こちらが絶対に死なないとすれば、何回かに1回は理想通りのアクションを実行できて、そのダメージの蓄積で勝てる。だが姫防衛イベントでは、姫を連続で2分間くらい守らねばならない。このたった2分のために、1時間くらいかかった……。突破した頃にはもう手が痛くて痛くて、うまくなったどころか最初より下手になった感じ。ほとんど確率的幸運によるゴリ押しで突破したようなものだった。

注:ときどきDSをパタッと閉じて中断し、腕を曲げ伸ばししたりした。いくらなんでも連続1時間ボス戦は無理。

補記:

近年のゼルダは謎解きのヒントやボス戦のヒントが充実しているそうで、私もそれは感じた。でも、アクションが苦手な人への救済策は、不十分だと思う。マリオで「無敵このは」を出せるなら、ゼルダでも思い切った救済策があってもいいのではないか。「ハートが減らない」は極端だとしても、ボス戦で3連敗したら、「ボスの体力半減」を選択できるとか……。

「ボスにダメージを与えるための一連の手順」を一定回数こなす間、自分のハートが尽きないよう回避や防御で身を守る……というのがゼルダのボス戦の基本構造。この「一連の手順」の成功率が低いと長期戦になり、いずれ回復アイテム切れで負ける。「一連の手順」を5〜6回こなすと勝てるのが基本だから、成功率2/3として「一連の手順」に7〜10回挑戦できるだけの回避・防御技能とハートがあれば、ボス戦を突破できる。

アクションが下手な人は「一連の手順」の成功率が1/2とか1/3だし、ボスの攻撃の回避や防御も苦手。だから、ふつうのプレーヤーが「一連の手順」に20〜30回挑戦するのと同じくらいのハートがないと、ゲームオーバーになってしまう。これが「アクションが苦手な人がゼルダのボス戦で詰む」基本構造。

やまなしさんは『ゼルダ』は、『ドラクエ』よりも『マリオ』っぽい作品と仰っている。私もこれは同感。いうなれば、クッパを倒すのに5手か6手必要で、そうなるとクッパの攻撃を全て回避するのは無理だから、回復アイテムを考慮に入れて10〜20回くらいクッパの攻撃が当たってもいいよ、というのがゼルダのボス戦。

ゼルダの場合、どこでもセーブができるから、その場で何度でもボスに再挑戦できるのだけれど、「こうすれば勝てる」とわかってからの10連敗はキツい。「自分のウデがもうこれ以上は上達しそうにない」感が濃厚に漂ってくるので、これ以上やっても無駄なんじゃないかな……と。実際、私が『スーパーマリオブラザーズ』に挑戦し続けた3年間のうち、後ろの2年半は全くといっていいほど技能が上達しなかったわけで……。

やっぱり、1回そういう、「何年も頑張ったけどやっぱりダメでした」という体験があると、「あの時と同じ雰囲気だな……」という感覚に襲われたときに、抗うのは難しい。「10連敗したといっても、たったの2日じゃん、まだいけるよ」と思う一方、「ふつうの人は、ゼルダでゲームオーバーになるのは、クリアするまでの全部でも、たった数回だって聞くよ。スーパーマリオの10連続ミスとは話が違う。頑張れとか、やればできるとか、いわれてもさ、届かないよ、胸に響かないよ」とも思う。

3.

幸い、ゼルダの伝説の謎解きは、私にも「できる」のだった。

逆に全くダメなのがシミュレーションゲーム。私は昔から、ゼルダなら友人がプレイしているのを後ろから見ていて「こうしたらいいんじゃない?」と口出しできたけど、『信長の野望』とかはサッパリ。説明を聞いても、まるで理解を拒絶する透明な壁が目の前に立ちはだかっているような感じだった。タワーディフェンスとか、リアルタイムストラテジーとか、そのあたりも全滅。

テトリスやぷよぷよなど、時間に追われる系のパズルゲームもアウト。頭がついていかない。「お勉強は得意なのに、どうしてぷよぷよはこんなに弱いの? 2連鎖すらロクに組み立てられないのはヤバイ」「もしかして手を抜いてるの?」とクラスメートに不思議がられたけれど、「本気で無理」なのだった。

そして、時間をたっぷりとっても全くできないのが囲碁。入門書を何度も読んだが、最初の一歩から躓いて転び、そのまま起き上がれない感じ。将棋やオセロはもう少しだけマシだけど、やっぱり弱い。

私がある程度まで解けるのは、迷路やタングラムなど、最初にお題が全て見えていて、自分(だけ)のペースでじっくり取り組めるパズル。『レイトン教授』シリーズの本編のパズルくらいなら、何とかなる。

逆に、他人のペースでどんどん状況が変わってしまうゲームは、とても苦手。なお、RPGのボス攻略は、敗北・再戦を前提とすれば「見えているパズル」に該当すると思う。

平成23年11月14日

2011年は、私とコンソールゲームとの付き合いの中で、ふたつ画期的な出来事があった。

ゼルダの話は明日書く。

1.

スーパーマリオは、Wii版の『スーパーマリオコレクション』の中の『スーパーマリオブラザース』(SFCリメイク版のWii移植)を、ほぼ幸運のおかげで8-4まで突破した。もう二度とクリアできる気がしない。小学生の頃、3年間を費やしてとうとうクリアできなかったゲームなので、ひとつ肩の荷が下りた感じ。

でも、やっぱり私には難しすぎたな……。四半世紀かけてようやくクリアしたわけで、達成感は大きい。でも……これは私の性格なんだけど、苦労した分だけ達成したときの喜びが増えるとは限らない。苦労し過ぎると、苦痛が達成感を上回ってしまう。

嬉しさとつらさの差分

私の場合、「嬉しい」と「つらい」の差分が最大になるポイントが、かなり低い。だから、基本的に苦痛の多いゲームはダメ。あまり楽しくない。ただ、私はある種の作業に耐性があって、例えばドラクエのレベル上げとかは、あまり苦痛が溜まらない。逆にアクションゲームの失敗には、平均的な人より大きな苦痛を感じる方なのではないかと思っている。

2.

Bダッシュを使わないのは縛りプレイだというのだけれど、私の場合、Bダッシュから滑らかにジャンプすることができない。例えば「踏み切りの手前でダッシュをやめてしまう」ことがしょっちゅうある。そうならない方法を何度も教えてもらったけど、結局、不確実なままだ。

その他、Bダッシュをすると「ジャンプが遅くてそのまま落ちる」「踏み切り位置のはるか手前で跳び上がってしまう」確率が跳ね上がる。通常の移動速度ですら「ジャンプが遅くてそのまま落ちる」ことがあるくらいなので、Bダッシュならなおさらだ。これはゲームの中だけではなく、体育の授業での走り幅跳びでも全く同じ。踏み切り位置を越えたり、30センチも手前で踏み切ってしまったり。だから先生が「歩き幅跳び」から始めてくれたけど、「歩き幅跳び」ですら踏み切りミスはゼロにならなかった。マリオでも同じで。Bダッシュなしでも、ジャンプが遅れて落下とか、私にとっては珍しいことではない。

私は「タイミングよく何かをする」のが非常に苦手。頭で考えているタイミングでは身体が動いてくれない。早かったり、遅かったり、ブレがある。

『スーパーマリオブラザーズ』を1回だけクリアできたときは、「ブレ」がことごとく障害を突破できる範囲内におさまるという、たいへんな幸運に恵まれた。そういう運に頼ってのクリアだから、もう二度とできないと思う。運次第なのだから不可能ではないだろうが、もう根気が続かない。

ゲームオーバーになっても理由が分からないから理不尽さしか感じられず、  クリアになっても理由が分からないから達成感を得られない――――これが、自分が「3Dアクションゲームの何が楽しいか分からない」理由だったんです。

私の場合は、「何をすればいいかは理解したけど、自分には実行不可能、という理不尽さ」が壁になっている。やまなしさんは、Bダッシュを「使えない」人のことがわかってない。Bダッシュの使い方を説明されて、理解したら、Bダッシュができるようになるはずだと思っている。違うんだよ。そうじゃないの。

『New スーパーマリオブラザーズ Wii』のお手本プレイとかね。やり方がわかればできるよね、という発想の救済措置。でも、やり方がわかっても、やっぱりできないんだよね……。

3.

初代のスーパーマリオをクリアしたら、次は最新作に挑戦してみたい。

スーパーマリオ3Dランド

というわけで『スーパーマリオ3Dランド』に挑戦してみた。「無敵このは」には感動したな……。初代のスターと違い、時間無制限で無敵状態が続く。「そんなのつまらないだろ」といわれそうだけど、私にとっては、そうではない。

自転車が難しいのは、ハンドル操作とペダル操作の2つのことを同時にやらねばならないから。より重要なのはハンドルなので、まずはペダルを外して、地面を足で蹴って前へ進み、右や左へカーブして……という練習を積むのが、自転車指導の定石である。

スーパーマリオも、敵と動く炎が障害にならないならば、穴や谷に落ちないようピョンピョン跳んでいくシンプルなジャンプゲームになる。私にとっては、「それだけのゲーム」が、いちばん達成感と苦痛の差分が大きいらしい。敵が消えて、無人のステージを進むのでは寂しいわけで、にぎやかな画面を無敵状態で進んでいくのがいいんだ。

「無敵このは」は5回ミスしないと出てこないので、たまに「無敵このは」なしでゴールポストへ到達できることがある。これはもうとびっきり嬉しい。でも、頑張って練習する気はない。たぶん頑張ったなりに達成感は増すだろうが、過去の苦い経験に照らせば、達成感を苦痛が上回るのは確実である。それはつまり、私にとって「割に合わない」ということだ。

ともあれ、まだピーチ姫救出には至っていないけど、どこかに大きな難易度の段差がない限りは、まだまだ先へ進めそう。いったんクリアした後は、コイン探しでもしようか。コインが集まるまでの間に自然と技能が向上していた……ということがもしあれば(私の場合、経験的には、そういうことはまずない)、そのときはじめて「無敵このは」なしでの各ステージクリアを目指すことにしたい。

補記:

「無敵このは」が初心者へのやさしさになるなら(私は大歓迎)、PARなどを排除する意味って何だろう。やたら難易度を下げてプレイする人が増えると、それゆえにゲームがつまらなくなって、勝手にゲーム離れをしてしまう……ということを恐れているのかもしれないけど、プレイヤー側で思い切った難易度調整ができないがゆえにゲームから離れていった人は圧倒的に多くて、比較にならないと思う。

私自身、『スーパーマリオブラザーズ』がトラウマになって、ずーっとアクションゲームと距離を置いてきたわけですし。あと『アイスクライマー』と『コンボイの謎』が私の3大トラウマ作品。これらの作品に「無敵このは」くらい大胆な救済策があったら、アクションもシューティングも、「私と関係ないもの」にはならなかったはずだよ。

人によっては、RPGだってそうでしょ。よくある改造コードに「**ボタンを押している間はエンカウントなし」「経験値**倍」「どこでもセーブ」なんてのがあって。そういうところで躓いてRPG離れをしている人がたくさんいることの証左ではなかろうか。たしかに、「そこまでやったらまるでゲームにならない」という事柄も多々あるのだけれど、前述のような要求が出てくるのは、私も実感としてよくわかるんだ。

個人的には、1周目から、そういうのは使いたくない。製作者の意図通りの形で1回は遊んでみたい。でも、壁にぶつかって投げ出すくらいなら、攻略サイトでもPARでも何でも使う方がマシだと思う。一番いいのは、壁を乗り越えることなんだけど、良くも悪くも所詮は娯楽なのであって……。

余談:

『FF10-2』など周回プレイ前提のRPGには、私好みの作品が多い。ふつうにプレイしていてもエンカウント回避のアイテムが手に入り、2周目以降は「他のこと」に注力できたりして。全員がバトル狂になるほど戦闘が面白い作品なんて、たぶんない。いつも誰かは戦闘を回避したいと思っているはず。

本筋だけ追いかけたら1周が適度に短くて、だから2周目をやる気にもなって、そこでは自分のやりたいことばっかりできる(全部やりたければそれも可能)というのは、とてもいいと思う。

平成23年11月13日

今秋の防災運動に際して職場回覧となった資料から要点をメモするシリーズ。

地震が起きときの対応

自宅
原則として机などの下に隠れ、最低でも頭部を守る。
職場
原則として机などの下に隠れ、最低でも頭部を守る。
書棚やロッカーなどに囲まれた場所からは脱出する。
キャスター付きの什器類から離れる。
揺れがおさまった後は職場の災害対策ルールに従う。
スーパーなど買い物中
商品の落下に備えて手荷物やカゴで頭部を守る。
地下街
照明などの落下に備えて手荷物で頭部を守る。
エレベーター内
全ての行先階ボタンを押し、最寄りの階で降りる。
電車内
停車時の衝撃に備えて吊り革などをしっかりつかむ。
自動車内
徐々にスピードを落とし、左側に停車する。
路上
落下物に備え、手荷物などで頭部を守る。
住宅地
ブロック塀と看板などの落下物に注意する。

地震が収まった後の対応

  1. 落下物に備え、手荷物などで頭部を守る。
  2. 火の始末と逃げ道の確保をする。
  3. 建物倒壊などの危険を感じたら屋外へ退避する。
  4. 照明器具、エアコン、通排気口などの下を避けて移動する。
  5. 窓際、ガラス類から距離をとって移動する。
  6. エレベーターは避難に使用しない。
  7. 電車からは原則として勝手に降車しない。ただし火や煙が出たら脱出する
  8. 車を離れる際はキーを付けたままにし、扉をロックしない。

平成23年11月12日

今秋の防災運動に際して職場回覧となった資料から要点をメモするシリーズ。

はじめに

以下を読むのが面倒くさい人は、非常用持出袋17点セットに飴(100g)と水(500ml)を追加し、他に用途のないリュックサックかショルダーバッグに詰め替えて、下駄箱の上あたりに置いてください。

基本

  1. 非常持出袋は、半日程度の避難生活に役立つものとし、十分に軽く小さくする。
  2. 1日以上の避難生活に必要なもの(3日分の水[6L]と食料など)は非常持出袋には入れずに備蓄し、避難生活が必要になったら、改めて家から持ち出す。
  3. 非常持出袋の中身は、ふだんの生活では使用せず、常時入れたままにしておく。非常持出袋の中身を日常生活やレジャーに流用しない。
  4. 非常持出袋は、下駄箱の上など、持ち出しやすい場所に置く。押入れの奥などしまい込むのは厳禁。

入れるもの

なるべく入れておきたいもの
余裕があれば入れておくもの

補足

  1. 伝統的な巾着型の非常持出袋は長距離の持ち運びに向かない。疲れにくいリュックサックやショルダーバッグを非常持出袋とすること。
  2. ライト、ラジオ、携帯電話充電器などの電池は一種類に統一するとよい。

オマケ:備蓄するもの

東日本大震災をはじめとする震災の経験から、自宅避難の重要性が再認識されるようになってきた。とくに、建物の耐震性が高く、海嘯や土砂崩れなどの恐れがない土地の場合、自宅避難の備えは有効。

  1. LEDランタン
  2. カセットコンロ
  3. 備蓄食品3日分以上(水、食料、調味料、缶詰、菓子類……)
  4. マッチ・ライターなどの着火器具(避難所での使用は厳禁)
  5. 紙ナプキン・紙食器
  6. ラップ
  7. 防犯用品
  8. ビニール袋各種
  9. 電池
  10. 消毒薬
  11. 非常用トイレ

100円ショップとホームセンターに1回ずつ行けば、だいたい揃う。

平成23年11月11日

1.

「仕事ができる」というときの隠れコストの話として勝手読みした。一人で完結している仕事なんて、多くない。個人の枠内では効率よくテキパキと仕事をしていても、周囲に大きな負荷がかかっている場合、職場全体のパフォーマンスで考えると並程度……ということがあるから、気をつけようね、みたいな。「続」の方を読むと、そういう話じゃなかったみたいなんだけど……。

最初の勝手読みに沿ってもう少しだけ書き添えると、私も含め、多くの人は、自分の痛みには敏感だけど、自分が他人に負荷をかけていることには鈍感。あるいは、気付いてはいても、過小評価しがち。むしろ、周囲がダメだから、足を引っ張られていて困る、なんて思っていることさえある。危ない、危ない。

2.

自分の好きなものは、みんなも好きに違いない、という錯覚。自分が惚れ込むような商品は数少ないので、それが店頭から消えてしまうと「何でだ!」と思う。が、実際には、定番商品へ昇格させるだけの支持がなかったので、粛々と消えていっているだけ……。これ、私もよくやらかす勘違い。怖い。

単純に、量がすごい。よくこれだけ集めたものだと思う。内容はいろいろだけど、基調にあるのはバランス志向と、「無内容」を突く手法かな。個人的には共感する内容が多い。ただ、物量で説得される感には、警戒心を持ち続けたいところ。

3.

日本人の死因に占めるガンの割合が高まっているのは長寿命化の影響が大きいという話に納得したとき、どうしてこのことにも気付かなかったのだろう……と思った話題。自殺する理由の1位は病苦。長寿命化が進むほど、病と戦う理由・気力が乏しくなっていくのは自然。

年齢調整をしても自殺率は高いし、戦後最悪かどうかは重要な論点ではない。しかし例えば、経済政策批判の材料として自殺率を持ち出すなら、年齢調整をしないのはアンフェア。純粋に景気低迷の影響だけを取り出すことは難しいとしても、景気と無関係に自殺率を押し上げる最大要因を除外しないのはおかしい。

そういうズルをすると、将来、自分が推した政策が奏功したときに、「自殺率は横這いじゃないか」「10年経ってみたら再び自殺率が上昇し始めたじゃないか」と足元をすくわれることになる。

平成23年11月10日

ポメラの行方(2008-10-23)で予想していた通りの展開になったな……と個人的には思っている。

ポメラに関する意見をいろいろ読んだが、やっぱり大勢にウケようとすると、機能を増やしていくしかないんだろうな、と。(中略)

赤外線通信機能がほしい。はい、そうですか。すると次は Bluetooth にも対応しろ。さらに無線LAN対応じゃなきゃダメだ。ブラウザをつけろ。電子辞書をセットにしろ。かな漢字変換にSKKを使えるようにしろ。emacsが使えないか。viはどうか。

万人の様々な使い方にみんな応えようとしたら、機能を増やすしかない。

既存のポメラの中では、最上位機種のDM20が圧倒的なシェアを占めていた。実売価格次第とはいえ、おそらく今後はDM100が、ポメラシリーズの売れ行きNo.1をひた走るのではないかと思う。

DM20までの進化は、さして話題にならなかった。DM100で、賛否両論に。このあたりが、ポメラの到達点ということだろうか。それとも……。

追記:

たしかに、DM100はテキストを作成する電子文具というアイデンティティーを、きちんと守っていると思う。テキストデータをやり取りするのにbluetoothはあった方がいいし、きちんとした文章を書くなら電子辞書も便利だろうと思う。

大いに参考になった。もし買うとしたら、何を我慢しなければならないのかがわかった。

とくにソフトウェアの仕様に起因する使いにくさ(とくにメニュー周り)は、新バージョンを待っても、改善されないと思う。商品のジャンルは違うけど、メーカーの中から見ると、その理由はわかる。カタログに書いてアピールできないことのために人員を割くのは難しい。だから、何らかの機能を強化する過程で周辺を含めて手直しすることはできても、新機能ゼロの部分はそのまま残る。

カスタマーレビューでNECのLifeTouch NOTEを引き合いに出している方が複数いて、最初は「えっ!?」と思ったんだけど、「そうか、Android端末って消費者にとってはミニPCなんだよな……」と。それから1時間くらい経って、「PCは万能」という自分の認識に気付き、苦笑した。

それはともかく、LifeTouch NOTEって、メーカー直販サイトでクーポンを適用すると2000円を切るんだね。驚いた。もう完売の札が下がっているけど……。NEC Directって、店頭より完売が早い機種がけっこうある。直販なのに? 直販だから?

平成23年11月9日

1.

2008年の話題。この手の話って、私の視界の中ではだいたい「捨てろ」側が一方的に叩かれることが多い。ワンパターンなので、もう見飽きた。……が、このケースでは、具体的な作品名が出ていたためか、「捨てた方がいい」側にも一定の支持を集める記事が登場していて、目を引いた。

私はこれを「総論賛成、各論反対」のパターンだと認識しており、「こういうことって、けっこう多いんだよな……」という意味で面白いと感じた。

抽象的な議論をしているときと、具体的な事例が出てからとで、コロッと反応が変わること、私にもある。それは必ずしも矛盾ではなくて、優先順位の問題。抽象的な議論って、根本的なようで、そうでない。私たちにとって本当に重要なのは、もっと小さな、具体的な問題だったりする。

2.

こちらは1年半前の話題。「最近読んで、身につまされた」つながり。

平成23年11月8日

このページのソースを見て「旧CSSコミュの人々にinvalidなソースを見せ続けると死ぬ」というフレーズが浮かんだが、HTML5については無知なので、問題があるのかないのか、よくわからなかった。

The document is valid HTML5 + ARIA + SVG 1.1 + MathML 2.0 (subject to the utter previewness of this service).

文法的には問題ないらしい。そうなのか……。HTML5って、いろいろ自由なんだな……。

平成23年11月7日

1.

「いつの間に」ってことはないだろ、と思うけど。さて、この現状が問題だとして、「進学率を思いきり下げて給付型の奨学金で賄えるようにする」「増税する」「国公立大学の学費を私大並みにする代わりに貧しい人への支援を手厚くする」といった対策が考えられる。どこかで帳尻合わせは必要。

地方の国立大学に進学すれば、バイト代で学費と生活費の両方を賄うという道もあって、私の学友はそうしてた。あとは親戚や家族の友人・知人などの伝を辿って「書生として大学近辺に下宿する」という手も(というか、下宿できる親戚や知人の家から通える大学を探し、頑張ってそこに合格する)。学費だけなら長期休暇中のアルバイトだけで賄える。何せ4ヶ月近くも休みがあるので……。

2.

しかしこの奨学金、これから完済できる人がどのくらいいるのだろうか。俺も20年間安定収入がある自信なんて全くない。大学生のうち何割がこの大きな借金を「稼げるスキル」に変えて元を取るのだろうか。

逆にいうと、奨学金を返せない人が多いなら、大学教育にはコストに見合った収益がないということ。親が無駄金を使った場合は、その損失が見えにくくなっているだけ。一種の娯楽として消費されているから怒る人が少ないという……。実際、経験的にも「キャンパスライフ」なんてのは娯楽だと思う。

私は「お勉強の苦手な人向けの高等教育は、費用対効果を考えれば放送大学が最適」だと考えている。勉強が苦手で、大学4年になっても本来の高卒水準にすら達しない人までが、高い学費と公的支援で成り立つ昼間大学へ通う意義って何? 学校へ通う時間だって無駄だろう。でも、放送大学へ通うための支援くらいならするよ、と。

1998年からCSで無料放送をやっていたが、2011年10月からBSデジタル放送がはじまった。ほぼ全国のご家庭で、アンテナひとつで受信できる。今ある大学の下位半分への支援は一切やめて、そのあたりにしか合格できない「家が貧しいので……」という方々には、放送大学へ転入してもらってはどうかと思う。

3.

通信制にすると卒業率が下がるが、「肩書き大卒」の無意味さを考えれば、社会全体としてはその方がマシ。金持ちは勉強せずに大卒の肩書きを得られるのがズルイという批判もあろうが、おかしいのは一部の昼間大学がロクに勉強もせずに卒業できること。例えば、大学評価・学位授与機構の学位授与事業をベースに、共通の学位認定システムで足切りをするといったことも、考えていいのではないか……。

それに「大学生の1/4以上が放送大学の学生」といった状況になれば、学生同士の交流が容易になる。高校時代の友人と一緒に勉強を続ける人などが増え、放送大学の卒業率は、かなり上向くだろう。

平成23年11月6日

要約すると、こんな感じ。

  1. Google検索で不利。
  2. 企業からのアクセスが禁止されていることが多い。
  3. コンテンツとサービスが一蓮托生。

FC2ブログはサブドメイン型なのでGoogle検索の問題は当てはまりませんが、私の勤務先からでもアクセス禁止には引っ掛かります……。著者はブログをお店や会社のサーバの中へ移設することを推奨していますが、それでは大手レンタルブログを利用するメリットもなくなってしまう。

  1. 爆発的なアクセスがあっても落ちにくい。
  2. アクセス過多で追加料金が発生することがない。
  3. システム管理の手間がかからず、自動アップデート。

これらのメリットは小さくないと思う。私なら「ライブドアブログ+独自ドメイン」を検討したいかな……。無料ブログでも独自ドメインを使えるサービスはいくつかありますが、商用ブログで無料に固執する意味は乏しいと思う。

余談:

MT形式でコンテンツをダウンロードできるブログサービスもあるけど、画像のバックアップについては確実性がない。画像自体はバックアップできても、別のブログシステムに再投稿すると、画像のURIが変わるので、記事の方も修正が必要になるのがふつう。継続性を重視するなら、やっぱりレンタルブログでは危ない。

レンタルブログを使う場合、これが最後まで残る問題かな……。

平成23年11月5日

今回はスマートフォン向けのテンプレートを募集するそう。なるほどね、PC向けの方はコンテストがなくてもどんどん共有テンプレートが増えているけれど、スマートフォン向けの方はなかなか……。第2回のテンプレコンによって活性化を図りたいという狙いかな。盛り上がるとよいと思います。

この6年半、経済は横這いに近いのに、第1回と第2回とでは、コンテストの商品や賞金が段違い。FC2ブログの成長を物語っていますね。

そういえば、6年半前には、応募者の中にプロもいたことを後で知り、冷や汗をかきました。こっちは全くの素人ですから。今回は賞金もすごいので、プロやセミプロのデザイナーの応募も、相当に多そう。でも、予選はテンプレートダウンロード数の勝負になるから、前回と同様、素人の作品(のように見えるテンプレート)も相当に強いのではないか。

平成23年11月4日

そういえばギリシャが国民投票をやると言い出して、独仏が泡を吹いていたな。

私の理解では、ギリシャには表向き投票に棄権というのがないから、すごいことになるんだろうなとは思う。普通に文明国として考えれば、原案で推移するしかないけど、とんでもない結論が出るかもしれないし、まあ、世界史的に見れば、民主主義の終わりの象徴になるんだろう。これからは、リバタリアン・パターナリズムでないと無理かもしれないな。

いったん失政を招いたって、「民主主義の終わり」にはならない。政治家の首を挿げ替えることで、過去の判断をアッサリ捨てて政策を変更できるのが、民主主義のいいところ。

かつてのドイツや日本は、状況が悪化したときに民主主義を制約し、国民の自由な判断を奪った。ひどい状況を招いたのは民主主義だったが、民主主義が維持されてさえいれば、ああまで悲惨な結果になる前に、政策を変更できたはずだ。

いまのギリシャで、エリート様の知恵で危機を回避しても、ギリシャの国民は政治家に感謝しない。「あいつらのせいでこんなことになった」と怒り続けるだけ。私は、エリート様が国民の生活を慮って民意に反する政策を行うことの繰り返しに、ウンザリしている。それをよしとする考えが、民主主義の危機を招く。

政治が全面的に国民の意志と遊離していいはずがない。国民が判断を誤ったら、その痛みをフィードバックして、新しい判断を促すのが基本線であるべきだ。民主主義とは、失敗をしない制度ではない。失敗をしたら、過去の判断に囚われず、あっさり判断をひっくり返せる身軽さこそ民主主義の神髄だ。1度も失敗しないことを最優先として、民意を無視する政治がまかり通ることこそ、民主主義の死と呼ぶにふさわしい。

ギリシャが無秩序な財政破綻に陥り、ユーロ圏から排除されれば、名目GDPはどれだけ低下するかわからず、実質GDPも経済混乱で大幅に毀損するだろう。何万人も死ぬのかもしれない。つらくとも財政再建に取り組む方がよい。外からは、たしかにそう見える。だがギリシャの国民は、この見方に同意していない。

受動的に国民のいう通りにする政治を称揚しているのではない。政治家は国民を説得しなければならぬ。だが、言葉が届かないとき、最後は国民の声に従うべきだ。そうでなかったら、「国民主権」など名ばかりではないか。

日本国の原則―自由と民主主義を問い直す

大量の新人議員を国会に送り込んでも、ちっとも民意が政治に反映されないのが日本の現状である。政治家が国民の説得に失敗しているので、国民は無茶をいい続ける。無茶だとわかっているから政治家は国民の声をスルーするのだが、説得ができないなら、政治は民意に従って失敗すべきだ。このままでは、日本の民主主義は有名無実である。

私は直接民主主義を標榜しているのではない。そんなのは無理だ。世論というのは大雑把な判断しかしない。具体的に政治を回していくには、どうしたって間接民主主義が必要になる。しかし、間接民主主義が、民意を無視し続けるように作用してはいけない。

私が思うに、「増税は嫌だ、でも将来が不安だ」という民意は、「自分とは無縁に思える政府の事業はやめてしまえ」という主張とセットになってきた。現実には、政府の事業を絞り込んでも将来不安の解消に必要な金額には全く足りないのだが、「いいから、やれ」が国民の声だった。これに対し政治家は、国民を説得するどころか、選挙になると人々の誤解にすり寄り、選挙が終れば民意を無視することを繰り返した。こういうやり方こそ、私は「衆愚政治」と呼びたい。

追記:

ギリシャの国民投票は、話が流れた。

平成23年11月3日

1.

これは現状認識が間違っていて、給料なんてのは、需給で決まっているだけ。給与は、「必要な生産性」と「企業が許容できる平均離職率」を実現する最低限の水準になる。人余り社会では、多くの人が運よく獲得できた職にしがみつくから、生産性が上がって会社の業績がよくなっても、給料はなかなか増えない。

「好きなことをしてるんだから貧乏OKだよね!」という人、たしかにいる。「給料=がまん代」という人も、いる。その思想は表裏一体かもしれない。が、実際の給料は、そんなこととは全く無関係に決まっている。多くの人が、給料が決まる仕組みを理解しないで、勘違いしたまま言葉を発しているに過ぎない。

2.

同じような誤解として、会社全体の生産性が上がったとき、自分たちの給料は上がって当然、という考え方がある。関係ないよ、そんなの。給料を上げないと会社が持たないなら、赤字でも給料は上がる。黒字でも給料を下げられるなら下げるのが、自由経済における民間企業の行動だよ。

労働者の能力は同じでも、勤務先次第でアウトプットは増減するわけなので、生産性というのは従業員個人には還元できない部分がある。1960年代の日本では、人手不足で給与水準がどんどん上がり、生産性の低い企業は、仕事がたくさんあっても人件費が賄いきれずに倒産した。従業員たちは、さっさとライバル会社に再就職し、もっと給料が上がった。商品の価格が同じでも、設備や仕事の仕組みづくりがうまい会社は、給料をたくさん払ってもなお利益を出せる場合があるのだ。

他方、「銀行員の給料は不当に高い。不況なんだから、銀行員だってもっと安い給料で雇えるはずだ」と思う人も、世の中には多い。だが、社員の平均年収280万円の銀行が成り立つなら、自由経済なのだから、誰かがその条件で新規参入し、ボロ儲けしているよ。たまたまこれまで誰もやらなかっただけ、という可能性はゼロじゃない。でも、銀行の歴史は長いので、可能性はかなり低いと思う。

3.

GoITOさんが「そんな報酬では仕事をしない」といったとき、「じゃあ他の人にお願いすることにします」となるなら、GoITOさんの仕事は代替可能なもので、報酬は市場に制約されていることになる。もしそうではなく、独占市場だったなら、競争相手がいないので、交渉の問題になる。

社会に誤解が蔓延しているなら、それに乗っかって交渉を有利に進めようとするのはおかしなことではなく、交渉の現場で「好きなことをしてるんだから……」というクライアントがいるのは、私には理解できる。GoITOさんは「そんなことは関係ない。私はそんな安値では仕事を請けない」と突っぱねればよろしい。

結果、仕事を干されてしまったとすれば、やっぱりGoITOさんの報酬は市場に制約されていて、「GoITOさんと高値で契約するより、契約しない方がマシだった」という話に過ぎない。

平成23年11月2日

記事のタイトルと内容がズレているように思う。ウォール街占拠デモが国内の経済格差に焦点を当てており、国際的な経済格差を重視していないことは事実だとしても、彼ら別に国際的な経済格差の維持を求めてはいない。例えば、海外援助などに反対しているわけではない。

私がわからないのは、彼らの政治的要求がハッキリしないこと。彼らのうちの一部が掲げる「1%の人々が99%の富を独占している」という訴えは事実に反しているが、しかし彼らがそう思っていて、それが問題だというならば、税制改革による所得の再分配を求めたらいいのではないか。でも、そのような主張は主流にはなっていないらしい。

格差を問題視しつつ、政府による所得の再分配も否定する……というのは日本でも同じで、すると結局、誰に対して何を求めているのかが、皆目わからない。人余りの社会では経済成長の果実が偏るのは自然なことで、80年代までの日本のように人手不足社会を実現するか、さもなくば再分配を強化するしか手はない。

計画経済への移行は……机上検討だけにしておいてほしいかな。

補記:

所得税なんてゼロなのが一番いいかもだけど、取締役が全員、所得税がゼロの土地で1年の半分以上を過ごすようにしている大企業って、聞いたことがないな。所得税を取られても、消費者に近いところにいないと、会社の経営は難しいということじゃないか?

そりゃ所得是の累進を強化して、また様々な控除を廃止・縮減する方向で税制改正が進めば、一部の人は増税を嫌って外国へ逃げていくだろうけど、それで会社が傾いたら意味がないわけで。「出て行きたければ勝手にすれば? 損をするのはあなたの方だと思いますけどね」が基本姿勢でよいと思う。

平成23年11月1日

1.

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

重商主義か……。こうした主張に大きな支持が集まって、私の視界の中では、ネット世論はTPP反対が主流になった。が、TPPに賛成する側にも『経済政策形成の研究』で松尾匡さんが反経済学思考として整理した考え方に沿っているものが多い。世論調査ではTPPは賛成が反対を僅かに上回っているが、賛否が割れる場合、損をする側に寄り添う方が「票になる」ので、国会がTPPに慎重な空気なのは自然。

私は、TPPとは関係なく、関税は一方的に撤廃すべきだと思う(ただし激変緩和措置は支持する)。関税は誰が負担しているのかといったら、消費者が負担している。このところ、またまたバターが品薄になっている。関税がやたら高いから、天候不順で国内生産が落ちるたび品薄になる。食糧安保とかいうけど、経験的には、国産にこだわる方が、商品の供給は安定しない。また、世界的に食料価格が上がっているとき、「国産品だけは値上がりしない」と考えるのは幻想。これは2008年に世界中の農業国が経験したことだ。

2.

はてブの関心は非関税障壁に集中している様子。

これは、「貿易の障壁を下げる利益」と「自分たちの価値観を一部譲って、みんなで合意したルールを受け入れるつらさ」の比較の問題。比較の片方が主観的なものだから、強硬な反対論が出るのも理解はできる。TPPで「日本のルールは素晴らしいので、全参加国のルールを日本と同じにしましょう」という合意が得られればよいが、痛み分け以外の結果は考えにくい。

非関税障壁については、相互性が確保される限りは、一方的に損をするということはない。ルールを共通化することに、私は基本的には賛成。でも、非関税障壁は価値観や強固な思い込みに根ざしているものが少なからずあって、「そんな独自基準を守ることに客観的には価値がないよ」といっても通じないのはわかる。でも、価値観対立の溝は埋まらないので、客観的に語れるところでしか議論は成り立たないのだけれど。

「自国の不合理な制度を、国際的に合意が得られる合理的なものに置き換えたい」という論者はどの国にもたくさん存在している。日本人が絶対に譲りたくない箇所について、日本の制度が素晴らしくて、外国の制度がダメであることを客観的にも説明できるなら、光は見えてくるはず。

既に合意ができている部分については、参加の遅れた日本の意見は通るまい。だが、報道を見る限り、国内でTPP亡国論の根拠となっているような種類の非関税障壁については、現時点で交渉のテーブルに乗っていない。議論があるとしても、それは今後の話であって、ならば「もう遅い」論は成り立たないと思う。

3.

非関税障壁を下げることを前提とするならば、アメリカが怖いなら、FTAよりはTPPの方がいい。非関税障壁をそのまま残すなら、交渉は無用。でも、一方的に関税の段階的撤廃への歩みを進めるなどして、「全体として貿易の促進には前向きであり続ける方がいい」とは思う。