今年は3回、NHKから問い合わせを受けました。NHKの方の目に留まった記事は「家族とゲーム」「ハーバード白熱教室」「節約のコツ」の3つ。これらの記事には、その時々の番組制作のテーマに関連する部分があって、お話を伺いたいというようなことでした。
が、全てお断りしました。NHKの方のご苦労はわかるので、申し訳ないと思う。
私が書いているのは、現実を単純化・理想化した寓話です。取材を受けると、寓話と「事実」のズレに目を向けなければなりません。それは避けたい、と思いました。私が自分のブログに書いているのは、心の中の「ほんとう」であって、客観的事実ではありません。私が写真をほとんど用いないのは、事実と距離を置くための用心でもあるのです。
今年、問い合わせのあった記事は、偶然なのかどうか、「ほんとう」と「事実」に乖離があるものばかりでした。
まず、これら記事には、様々な脚色が入っています。後日談の記事に戦歴や地図の写真を載せたのは、どんどん空想の世界に没入していく筆を、事実の制約によって押さえるためでした。そうした努力にもかかわらず、少なくとも3割引で読んでいただかねば困る記事となっています。
また、ウェブ日記を書いていることを、私は家族に話していません。だから好き勝手に書けたという部分が、相当にあります。こんな記事をもとに取材のカメラが入ることを許せば、無用のリスクを負うことになります。個人的な損得の問題として考える限り、取材を受けることにメリットはありません。
ただ、ひとつ誤解されては困るのは、記事に書いた内容は、私にとっては「ほんとう」の話だったということです。私はこういう世界に生きている。そういう意思表示なんです。「うちのパパは世界一!」みたいなもので、客観的事実は重要ではない。
この記事で、私の母は「無理せず節約できた人」として登場します。が、それはおそらく、客観的事実ではありません。
総体的に状況を観察すれば、母の言葉は「強がり」あるいは「願望を現実に重ねて語った」と解釈するのが妥当でしょう。取材を受けて同じ言葉を口にすれば、多くの人には白々しく聞こえると思う。あのとき、あの場で、他ならぬ私が聞いたからこそ、母の言葉は(私の中で)「ほんとう」になりえたのです。
「ほんとう」の気持ちも、言葉にすれば嘘になる。
私がふだん、無口であろうとする、大きな理由のひとつです。現実から距離を置いて、文章という形で遠い誰かに伝えるのでなければ、私の抱えている「ほんとう」を他者に伝えることはできないのではないか。キリストも、故郷では奇跡を起こせなかったといいます。さもありなん、と私は思う。
どう書いたところで、全員に伝わるとは思っていない。ただ、カメラが捉えるのは、私の「ほんとう」より、よほど客観的事実に近い何かでしょう。それでは、私が記事に込めた思いは、うまく伝わらない。
サイトを見て感服しました。ところでサンデル教授の東大講演にはお出でになられますか? との問い合わせがありました。
「いいえ、私は考えるのに時間がかかるので、生の講義に参加しても、とてもついていけそうにありません。席は限られているので、私が応募するのは不適切だと思いました。後日、放送される番組を楽しみにしています」というような回答したら、「残念です」とのこと。
意地悪な見方をすれば、私は「テスト」から逃げたのではないか。莫大な時間の投入によって(ある程度は)リカバーできる世界に閉じこもっている方が、自分には有利だと考えたのかもしれない。
別解をいくつか。物事には様々な側面があります。「ほんとう」と客観的事実のズレだけが、取材を断った理由ではありません。これもまた単純化のひとつ。