備忘録

平成25年1月31日

平成25年1月30日

平成25年1月29日

0.

私だって、子供がいないなら北海道日帰り弾丸ツアーやるぐらいの行動力はある。
でも、子供がいたら、その身軽さはないんだよ。

リンク先は妻の夫に対する愚痴を綴った記事。これを読んで思ったことを書き綴ったはずなのに、なぜか私は夫婦の意思統一はできている前提で話を進めている。あれれ? というわけで、リンク先とはほとんど無関係になってしまった記事ですが、とりあえず「引用した2行に限定したレス」ということで、どうぞ。

1.

私のいとこ夫婦は、義父母・実父母に子どもを預けて(あるいは家に呼びつけて)、ほぼ毎月あちこち出かけている。夫婦そろって出かけるのは稀で、バラバラに行きたいところへ行く(あるいは、したいことをする)のが基本だ。

子どもがゼロ歳のときから、いとこ夫婦はそうしていた。そのうえ「孫の面倒を見させてあげるのも親孝行」と恩着せがましい。ちなみにいとこ夫婦は共働きではない。

それで問題があるのかというと、何もない。伯母夫婦は「とんでもない子どもたちだ」と愚痴るが、ニコニコしている。息子夫婦と一緒だと、孫と自由に遊べない。細かい教育方針のズレで衝突してしまう。だから、息子夫婦抜きで孫と祖父母とだけで数日間を過ごせるのが、いいみたい。

伯母夫婦は「ひどい息子夫婦」の話を方々に吹聴して回っているので、いとこ夫婦は肩身が狭い。伯母夫婦の知人と顔を合わせるたび「これが噂のひどい息子と嫁か」と好奇の目で見られる。だが、伯母夫婦の表情をよく見れば、よほど察しの悪い人でもなければ、いとこ夫婦の親孝行を理解する。

2.

伯母夫婦も、最初は呆気に取られたという。久々の赤ん坊の世話は、3日でグッタリするほどたいへんでもあった。が、何度か繰り返すうち、だんだん観念と現実のズレが見えてきた。そして、「親にストレスのたまらない子育ての実現こそ家庭円満の秘訣」と考えるようになった。

サラッと書いたが、「そうなるまで」がたいへんだったろう。いとこは「いや、とくに波乱もなく、ただわがままを言い続けて、ズルズルとこんな感じに……」というが、偉大な鈍感力である。

これが「どこの家でもできること」だとはいわない。

伯母夫婦は「孫の面倒を見させてくれてありがとう」だなんて、決していわない。口にするのは「私だって暇じゃない」「老人を過労死させる気か」といった文句や憎まれ口ばかりだ。

いとこ夫婦がひるまなかったのは、親子の信頼関係が頑健だったからだ。「孫の世話を頼むことが親孝行になると、必ずわかってもらえる日がくる」といとこ夫婦は信じたし、伯母夫婦もまた「息子夫婦が相手なら思いっきり愚痴っても大丈夫だ」と安心してストレスを発散し、楽しい思い出だけを蓄積していった。

3.

「老幼水入らず」の体験は子どものためにこそ必要、「老父母はいつ亡くなるかわからないからこそ、子どもが乳児のうちから老幼水入らずの時間を積極的に作らないといけない」、といとこはいう。その信念の上に、「ま、月イチくらいで、子どもと関係なく好きなこともしたいし」と重ねる。

どちらも本音だろう。親子の信頼関係と、信念と、素朴な本音があって、それで意志を貫徹できた。

子どもの人生は子どものものであって、親の心労を軽減するために子どもの自由を奪うのは本末転倒である。親は子どもにできる限りの教育を行うが、子どもが自由を謳歌して痛い目に遭う、最悪の場合は死に至ることさえも、親は甘受しなければならない。……子どもの頃、両親が繰り返し語ったことを再構成すると、こうした思想が浮かび上がってくる。

私も弟も、玄関の扉を自分で開けられるようになったその日から、一人で屋外で遊ぶことを許された。当然、死の危険は大である。私の両親は、「子どもの自由を奪わないことを大前提とした上で、いかに死の危険を減らしていくか」を考え、実行した。

運よく私たちは、木から落ちて気絶したり、すべり台から飛び降りて骨折する程度ですんだ。どれも、親が子を「管理」すれば防げたことだろうが、私の両親は信念を貫いた。誰からどんなに責められようとも、「家庭を子どもの監獄にしてはならない」という信念は曲げなかった。

ブラック企業もよくないが、親が子どもから目を離さないことを当然視するのもよくない。それでは育児ノイローゼも必然だろう。私は功利主義に与するところ大なので、低い確率で起きる悲劇を防ぐために、全員を育児ノイローゼにするのは間違っていると考える。

これは私の言葉だが、私の両親の信念の裏には、いとこ夫婦と同様の気持ちもあっただろう。「子どもから目を離しちゃいけないだなんて、息がつまる。そんなことでは楽しく子育てなんか続けられるわけがない」というような。

私も弟も、警察の迷子保護のお世話になった。私は本当に迷子になって泣いており、学校帰りの高校生が警察へ連れていってくれたのだが、弟は公園で一人で遊んでいたら保護された。母はだいぶ叱られたそうだが、何をいわれたのかは「忘れた」。「世間的には正しくない」ことをやるには、鈍感力が欠かせない。

誰からどんなに責められても「自分の正しさは、自分が決める」。それは難しいことだが、必ずしも不可能ではないのだと思う。

4.

「気楽に旅行に出かけられる環境を作る」のは、容易でない。ベビーシッターを雇えば外部手続きは簡単になるが、せいぜい問題の3割を省略できるだけだ。いずれにしても、「子どもを誰かに預けて旅行に出かける」ことを許さない人々の言葉や視線には耐えなければならぬ。

それでも、「あなたのためにいろいろ我慢してきた」という親より、「あなたが生まれてからもやりたいことをしてきたよ」という親の方が、たぶん、子どもの側からすれば気楽でいい。だから。子どものためにも、やりたいことはできる限り、壁を乗り越えて実現していってほしい。そう願う。

そしてまた、妻の希望を叩き潰す一番手が夫なのは残念だ。当然、逆も同じである。自由とか、夢とかが重視される時代は、当面続くだろう。家族のあり方もまた、それに見合ったカタチがふつうになっていくといい。

5.

以下はこの記事の本題とすら全く関係ない話題。

GEGE
しかし男も女も関係なく、『察してもらおうとすることが卑怯なことだという自覚がない』『察することを義務か何かと勘違いしている』奴とは分かり合える気がしない。 2013/01/29

私も『察してもらおうとするのは卑怯』『察するのは義務ではない』は同意。ただし、自戒の言葉として。私自身、「察してほしい」と思ってしまうし、多くの他人も同様だと思う。これを批判するのは、お互い酷な話になると思う。とはいうものの、「卑怯」っていいたくなる気持ち、すごくわかる。

個人的には、せめて「察してもらえないことに恨み節はいうまい」と思ってはいるが、それすら貫徹するのは難しい。

平成25年1月28日

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平成25年1月5日

なつかしい話題で復帰してみる。

1.

リンク先ではいろいろな論点を扱っているが、その一部に反応する。なお、私の考えは2004年に書いた記事からほとんど変わっていない。

  1. img要素でよその画像を直接指定する行為は、ひとつの技術的側面からいえば、「転載」でも「引用」でもなく、「参照」である。
  2. この見地からいえば、「引用」ではないのだから「引用の要件」には縛られない。
  3. といいたいところだが、実際に法律がどう適用されるかはわからない。
  4. 真に問題視すべきは、「よそから参照して埋め込み表示されたファイル」をわかりやすく表示する機能を持たない現行のウェブブラウザの設計だ。
  5. 現状を鑑みるに、lastlineさんの主張に従っておくのが穏当ではある。

img要素でよその画像を参照した場合、原本が書き換えられたら参照している側の文書でも画像が書き換わる。これは原本の一部(または全部)をコピーして利用する「引用」や「転載」なら起こり得ない事態だ。「引用」と「参照」の技術的な区別には、一定の意味があると私は考える。

現行のブラウザの仕様を前提とすれば、見た目では両者を区別できない。「実質的に引用しているではないか」という意見にも、大いに理があると思う。だから、裁判でどうなるかはわからない。だが私は、「引用」と「参照」を区別して法律が適用されることを望む。あるいは、現行法ではその区別がなされないのであれば、法律が変わることを望む。

ブラウザが進化すれば根本的に解決される(かもしれない)問題なのだから、人間の自由を奪うのではなくて、道具の進化を促すようなルールにしてほしいのだ。

2.もう少し噛み砕いてみる

参照してほしい記事や資料をリンクしても、大多数の読者はそれを読まない。だから、埋め込んでしまえるなら、そうしたい。そういうことはある。

もちろん、許可を取れば確実だろう。だから、許可を取ればいい。それは正論である。が、その正論が壁になるのも現実だろう。

これが私の疑問である。リンクの自由はどこにいったのだ。原本を参照しているのである。ページ内にどこでもドアがあり、その扉が開いている。そして、扉の向こうにあるものが、見えている。見えているだけだ。これを「盗んだ」といえるのかどうか。コピーをしていないので、原本に変化があれば、同時に反映される。

いま、このどこでもドアは透明である。表示された画像にマウスオーバーなどしてみても、それがどこでもドアの向こうのものだとは明示されない。

私は「問題は、どこでもドアの使用ではなく、どこでもドアが透明なことだ」といいたいわけだ。ドア枠を表示し、表札のように「現在ご覧の画像は外部のものです」と自動的に表示してくれたらいいではないか。常時表示ではうるさいだろうから、例えばマウスオーバーしたときだけでもよいと思う。(iOSが普及しWindows8も登場したいま、どう書くべきか悩んだのだが、「マウスオーバー」という表現から私が意図するところを汲んでご理解いただきたい)

画像が外部のものだということは、ソースを見ればわかる。HTML文書のソースはテキストデータなので、まあ、いちおうはふつうに読める。読めるので、「外部から参照したものだと秘密にしていたわけではない」ともいえるし、「いや、実質的に秘密にしていたのと同じ」ともいえる。後者に賛同する人が、多いだろう。

現在のウェブブラウザの貧弱な機能を前提とするから、そういう議論になってしまう。それはそれで大切な議論だろうとおもう。しかし、そんな議論に終始していていいのだろうか。当座の処世術とは切り離した話を、私はしたい。

3.

「リンク」として「別ページ」を読者に能動的に参照させるのではなく、同一ページ内に外部の情報を自動で取り込みつつ、しかしそれが「外部から参照された情報だとわかる」、そんな表現ができないだろうか。ブラウザがimg要素やobject要素を注意深く扱えば、そういうことは可能なはずだと、私は考えていた。

ひとつのアイデアは、上述のように、埋め込まれた要素に(マウスオーバー時だけでもいいので)枠線とドメイン情報などをつけて表示し、外部参照であることを明確にするというものだった。あるいは、(マウスオーバー時などに)自動でプロパティ情報がポップアップ表示されるといった仕組みでもよい。夢のような技術でなければ実現できない機能ではないと思う。

けれども、2004年から数えても9年が経った。状況は、全く進展していない。むしろ退化している。私の望む未来は、いつまで待ってもきそうにない。ガッカリだ。

平成25年1月4日

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平成25年1月1日