以下、リンク先の記事とは、まるで関係がない。最初は関係ある話をしているつもりだったが、読み返してみたら無関係だった。
私は、母体保護法を「書かれている通り」に運用することに、賛成の立場だ。
第十四条 都道府県の区域を単位として設立された公益社団法人たる医師会の指定する医師(以下「指定医師」という。)は、次の各号の一に該当する者に対して、本人及び配偶者の同意を得て、人工妊娠中絶を行うことができる。
一 妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
二 暴行若しくは脅迫によつて又は抵抗若しくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの
2 前項の同意は、配偶者が知れないとき若しくはその意思を表示することができないとき又は妊娠後に配偶者がなくなつたときには本人の同意だけで足りる。
現状はどうかといえば、「死んだ方がマシな人生はある」といった発想で、「子どものためを思って」という人工妊娠中絶が少なからず行われている。私も「死んだ方がマシ」はあると思うが、当人の判断をできる限り尊重したい。
あるいは、「死んだ方がマシな人生はある」という点に同意されるなら、自殺や安楽死を積極的に認めてもよいはずだ。出生前の命を周囲の人々の判断で殺すのはよくて、生まれてから本人の意志に基づいて死ぬ(のを手助けする)のはダメだなんて、私には奇妙な価値判断に思える。
私の感覚では、日本の社会は人工妊娠中絶に対して緩く、自殺や安楽死に対して厳しい。人の生死が、当人の意志より社会の空気を優先して判断されているかのようだ。
妊娠の継続又は分娩が身体的又は経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれのあるもの
という規定をよく見ると、育児について記載がないことに気付く。その理由は、生まれた子どもは里子や養子に出すことができるからだ。
しかし実際問題、妊娠の継続と分娩の負担だけを考えて人工妊娠中絶が選択されるケースばかりではない。出産より育児の困難を真の理由とする人工妊娠中絶も、かなり多い。
私は育児の困難を理由とする人工妊娠中絶には賛成しない。実親ではなく里親や養親に育てられることが、死ぬよりひどいことだとは思えないからだ。もちろん、人によって判断は異なるだろう。だが、実親に養育されなかった人の大多数は、「生まれる前に殺してほしかった」とは思っていないはずだ。
あるいは、親の視点から考えてみても、子どもの命を絶つことが、子育てを他人に任せることより本当にマシなのか、私は疑問なしとしない。
半ば空想論にはなるが、私は「子どもを自分で育てるかどうかの判断を自由にできる社会」を待望している。「自分の手で子どもを育てたい人」だけが「自分で子どもを育てる」選択をする、そうでない親の子は、社会が育てる、というような。
ひとつの理想に多様な人格を押し込めるから、無理が生じる。育てたくないなら、育てなくてよい。そのことを誰も責めない。また「自分で育てる」ことが偉いわけでもない。それは単に選択である。自由である。そういった社会の方が、より多くの人が幸福になれるのではないか。
私の楽観の原点にあるのは、母方の祖父が養子に出されて幸福に育ったことだ。祖父の実母は子沢山だったので、子のない家へどんどん養子を出した。「余っているところから、足りないところへ」という曾祖母の言葉が、現代に伝わっている。祖父の養家と実家は近所にあり、祖父は養家を「自分の家」としつつも、実の兄弟姉妹たちとも仲良く遊んで育ち、とくに長兄には晩年まで何かと世話になり続けた。
祖父の話から私が感得したのは、「親子とはこうあらねばならぬ」といったことの多くは、「思い込み」に過ぎないということだ。また、かつての日本社会は、現代よりもっと人生の諸事情に対して柔軟だった。(少なくともある面においては)ひとつの理想を、多様な事情を抱えた個人に押し付けることがなかった。
「余っている」子を養子に出した曾祖母は、誰に責められることもなく、むしろ多くの人に感謝され、尊敬された。婦人会などで要職に推され、地域の諸問題を解決するため走り回った。「特別な理由など何もないのに、産んだ子を自分で育てない」ことがハンデにならない社会だったのである。
祖父の養親は「我が家の宝」といって祖父を慈しみ深く育てた。不幸にして養親は早世したので、祖父は実家の長兄の支援によって学校を卒業した。祖父は陸軍で薬剤師の資格を得たが、養親の営んでいた薬局の再興は「きちんと学問を修めた薬剤師ではない」と最初から諦めて、保健所に勤めた(保健所ならいいのか?)。
祖父は養親の供養と実母の長寿祈願のため、庭先に小さな地蔵尊を興した。半畳の小さなお堂には、3体のお地蔵様が仲良く並んでいた。願いが通じたか、曾祖母はたいへん長生きし、私も会って話すことができた。
曾祖母が天寿を全うして数年後、祖父も亡くなった。実家の兄たち、養子に出された兄弟たちなど血縁者が多く集まり、故人を偲んだ。
人間には、可能なはずなのだ。
ある人にできたことだから、他の誰にでもできることだ、とはいわない。現代の多くの日本人には、難しいことなのかもしれない。だがしかし、「ありえない」「不可能だ」といった決め付けだけは、受け入れられない。無益な固定観念は打ち捨て、もっと自由に、柔軟に、人は幸福を追求していくべきだ。
曾祖母を非難する者が一人もいなかったか。そんなことはないであろう。だが祖父の周囲の人々は、不自由な思想を退けた。私もまた、そうありたいと願う。
ひとつの理想だけを「正しい」と思うから、その理想から外れた自分を不幸に感じる、という構造がある。「実親が子育てをしないのは悪いことではない」社会であれば、「親が自分を手放した」ことが深い心の傷となる可能性は低いだろう。
私たちの語る正義や愛情といった名の偏狭が、いらぬ不幸を生み大きく育ててはいないか。
個別の事例に焦点を当てて話を展開するなら、どんな結論だって導くことができるだろう。この批判は、もちろん私自身にも当てはまる。
ただ、命を奪うというのは、きわめて重大な判断だ。取り返しがつかない。無責任でも結論の先延ばしでもよい。何かしら疑問があるなら、殺さないでほしい。この子が不幸になるという判断は確実なものか。あるいは確実に不幸になるとしても、死ぬ方がマシというほどの不幸なのだろうか。どうしてもいま、判断しなければならないのか。当人が成長し、自ら判断を下すまで待つことはできないか。
「もう子どもは要らぬ」と曾祖母が人工妊娠中絶を選んでいたら(当時は法的に不可能だったので現実味を欠く話だが)、祖父の愉快な人生は存在しなかった。もちろん私だって生まれていない。たったひとつの事例であっても、私個人としてはこだわりたい所以である。
bewaadさんは、経済学者がほぼリフレで一枚岩になるほど一致して政府にリフレ政策を助言できるようにならないと、あるいは(同時に)世間にリフレ政策がひろく受け入れられるようにならないとリフレ政策は現実問題として相手されない、と何度も述べられていました。
しかし、経済学者はいまでもアベノミクス、あるいはその中の金融政策部分に限っても反対な人は多く昔と勢力図は変わりません。
そして、市井の反リフレ派の人たちも変わらず健在です。
しかし、上述したようにリフレ政策が現実にとられる寸前のところまで来ています。
bewaadさんが言うほどまでには、経済学者が一枚岩でリフレを推薦することや、リフレ派が世間から好かれるようになることは、重要ではなかったということだと思います。
bewaadさんが論じていたのは「誰が総理になっても当然の経済政策としてリフレ政策が採用される」ための要件だと理解している。今回のように「政権中枢の数人が、たまたまリフレ派と経済観を共有している」こと(だけ)を基盤としたリフレ政策の実現に必要な条件ではなかったと思う。
世論が手段に口出しするのは「現状に不満がある」とき。「成果が出ている」なら手段は追認される。先の野田政権が、国家戦略会議で今後の経済政策を決めることとし、リフレ政策について議論・検討をした場合、その過程で「多くの専門家の批判」「世論のインフレ恐怖」「リフレ派への嫌悪感」などによってリフレ政策は採用を見送られたかもしれない。しかし安部さんは、野党の身軽さから議論抜きでリフレ政策を打ち出し、円安・株高という「結果」を世論に強くアピールできた。
様々な偶然や幸運が作用した結果にせよ、「やればそれなりに結果は出るが、やるためには世論の反発を乗り越えて意思決定する必要がある」という壁を、見事に突破したことになる。
ただ、問題はこの先だ。もとよりリフレ派が「救うべき弱者」としてフォーカスしていたのは失業者だった。少数の者に激烈な痛みを与えるデフレ経済から、全員で痛みを分担するインフレ経済への転換は、いずれ多数派の反発を招くだろう。
今後の安部政権は「名目賃金の上昇と実質賃金の低下をセットで実現し、貨幣錯覚により多数派を懐柔する」という綱渡りの経済運営を目指すことになる。当然ながら名目賃金の上昇を隠れ蓑にした実質賃金の低下は「欺瞞」として攻撃されるし、社会保障分野もインフレ恐怖から増額の突き上げが激しくなる。実質賃金問題は既に国会で取り上げられており、いずれは世論にも火がつくだろう。
いずれは失業率を抑制したまま実質賃金の上昇を実現していくことになる。だが、実質賃金が上向く時期と、その上昇幅が、人々の満足いく水準になるかどうかについては、楽観視しない。「デフレを脱却して景気がよくなったというが、自分の生活はむしろ苦しくなっているじゃないか」と、2〜3年後の世論は燃えているかもしれない。
実質賃金が年率+1%程度では、「生活が苦しくなった」と認識するのが人間の欠点である。客観的には生活が改善されているのに、主観的には生活水準が低下するという状況では、好ましい政策が棄却されて魔術的な政策に支持が集まる恐れがある。bewaadさんの挙げた諸条件の実現を目指す意義は、今も失われていない。
……と書いてはみたが、ともかくいま、名だたる経済学博士たちの少なからずがリフレ政策に反対しているのは、悪いことではない。リフレが唯一無二の正しい政策だとしたら、それが失敗した後には絶望しか残らない。だが、実際は違う。
いま私としては、ようやく「自分がいちばん説得力を感じた先生」に実行力が与えられようとしていることに大いに期待しつつ、不安も感じている。例えば、日本経済のデフレギャップが本当に60兆円もあるのか、疑問無しとしない。思う存分やっていただいて、それでも結果が悪ければ、一人の支持者として責任を感じる。これはイラク戦争に賛成して、とても後悔したときと同じだ。
ともあれ大多数の有権者は、結果だけ見てジャッジを下せばよい。幸い、経済政策のメニューは多く、リフレ派が倒れても次の弾は存在する。また「前はやり方に問題があった」などといってゾンビのように蘇ってくる主張もあるだろう。銀の弾丸が見つかるまで、チェンジを繰り返せばよい。
その節操のなさこそが、民主主義の強みだ。
「リフレが仮に理論的に正しくてもリフレ派が世間一般に嫌われている(胡散臭がられている)からリフレ政策は採用されない」という感じの主張をしていた連中に聞いた方がよくね?リフレ派は本当は別に世間一般に嫌われていなかったか、あるいは別にリフレ派が世間一般に嫌われていたとしてもリフレ政策が採用されるのは十分に可能だったか、どちらにせよ彼らの言説は現実とは適合していなかったわけだから
そういうレベルの話をするなら、日銀陰謀論の方も同時に批判しないと、アンバランスだと思う。まあ、どちらの側も持論と整合する理由付けは可能なので不毛だが。
ともあれ現状は、世論形成の機先を制して市場が動いたことで、反リフレ側が力を失っている。この状況を生み出したのは選挙なのだが、それも自民党総裁選で党員票2番手の安倍さんが国会議員票で石破さんを逆転したところまで遡ってみると、もう「たまたまこうなった」としかいいようがない。
世論は「リフレ政策」を求めたわけではない。国民が望むのは「好景気」という結果だけだ。希望が現実の苦しさで上書きされていけば、反リフレの言説は当然に勢いづく。そしてまたぞろ日銀・財務省陰謀論が賑やかになり、リフレ派が支持されない理由とやらの解説も増えるのだろう。
ふと思い立って、6年前の話題を再論する。
関連記事はいろいろあるが、簡単のため、上記リンク先の記事への反論という形式を採る。関連記事からも引用は行うが、あくまで情報の参照にとどめ、関連記事に対する反論は行わない。
なお、私の記述スタイルにおいて、素のテキストにおけるカッコ書きは引用を意味しない。私は強調、独自定義、フレーズ化、文中文などの表現として、カッコ書きを用いている。引用はq要素またはblockquote要素としてマークアップしている。どの部分が引用なのかは、最終的にはソースを見て判断してほしい。
まず左近さんの記事タイトル後半部の指摘について。
考えが変わったならその時点で「考えが変わった」と書けばいいので、相手から反応があった後に書き換えるのは、ファクトを隠蔽する行為です。
私はこれからも事後的に記事を改変し続けます。私の記事に反論したい人が、そういうことを気にするなら、今後は「私」を相手にしない方がいいのでは。「記事」を転載して、文章自体を相手にすればいいと思う。
私が記事を改訂する目的は、1) 誤記の修正、2) 記述の整理、3)主張の変更などである。大半は1)2)に類し、左近さんとのやり取りでも1)2)の改訂のみ行ったと私は認識している。
改訂の主な目的は「文章を読みやすくすること」「本意がより正確に伝わるようにすること」「誤解の種を取り除くこと」だ。書き方がまずくて真意が伝わらない文章は、改訂すべきだ。悪意なき読み手が知りたいのは、書き手の真意だろう。筆のすべりや諸般のミスにより出現した亡霊など、消えて惜しいものではない。
つまり「それは誤解だよ」「でもこう書いてある」「だったら文章が間違いだ」というのが私の認識なのだからして、「まずい文章が改訂されて、本来主張したかったことをより正確に表現したものに変わる」のは、読み手にとっても喜ばしいことのはずだと私はいいたい。
しかし左近さんがあくまでも「こう書いてあるのだから、これが書き手の考えだ」というなら、どうぞ私など無視して、私の文章とだけ格闘してほしい。転載すれば、記事が改訂されることもない。
6年前の議論を、私の視点から簡単に整理する。
いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。(1)(2)(3)それぞれに問題がある。
私はいずれも程度の問題だと思っています。とくに(2)と(3)については柔軟に考えたいと思っています。だから日常生活において、血液型性格判断への批判は(1)に限定しています。
(2)については、例えば「日本人にはアルコールの分解能力がなかったり、劣っていたりする人が多い」という情報があって、日本通の外国人ならこのことを知っています。だから私がカリフォルニアのロータリークラブの昼食会に招かれたとき(注:クラブ主催の短期交換留学プログラムに参加した)、「これとこれにはアルコールが含まれているので日本人のあなたは気をつけるように」と親切な案内がありました。こうした配慮はあっていいと思う。
(3)については、ある程度の材料があるなら断定してよいということにしないと、裁判なんかいつまで経っても終わらない。判断を迫られる場面はあるということです。
結局、問題は(1)なのです。
徳保さんのおっしゃる主旨はわかるように思います。他人の将来の言動については、経験から推測によって一定の予断を積み重ねていかないと、およそ対処不可能となり、日常生活を送ることは困難でしょう。その過程で、どうしても偏見と言われかねないような一定のバイアスはほとんど必然的にかかるといってもいいかもしれません(良い悪いは別として)。
また、個人的な心情の吐露や、日常的な会話のレベルでは、もっともらしさや確度の高さについて厳密な表現を常に行うことはほぼ不可能でしょうし、常に行うことが適切だとはまったく思いません。
ただ、そのことと、今回の件は別の話題です。
私が「左近さんの主張を認めると現実の生活や社会の維持に支障が生じる」と主張したのに対し、左近さんは「今回の件は別の話題
なので心配無用」と返した。しかし左近さんが提示するアウト判定の事例を見ると、どうにも納得がいかない。
知り合いが「あんたは天王星人だから人の話を聞かないで、話し下手なくせに自分の事ばかり話す」と言われて激怒していました。「自分の事ばかり話すのはあいつなのに。しかも天王星人だからとか言われたら、自分ではどうにもできないだろ!」と。
首尾一貫したことをいうAB型の人に対して、「いやこいつはAB型だからきっと裏で逆のことをいってるんだ」なんて、血液型だけを理由に確信するような人は例外ですよ。態度や表情にうまく言葉にできないもやもやした疑念を抱いたときに、「AB型だから」というラベルを貼り、それを理由として口にすることはあっても、実際の思考がその言葉通りの人は珍しいのでは。
六星占術のファンをAさん、左近さんの知り合いをBさんとする。「1)AさんとBさんは、お互いに相手を自分の事ばかり話す
人物だと認識している。2)Aさんは、Bさんが自分の事ばかり話す
のは天王星人だから
だと理由付けした。3)Bさんは激怒した。」という話を、左近さんはBさんから聞いた。
私の解釈では、AさんとBさんには多少の付き合いがあって、その経験からお互いに相手を自分の事ばかり話す
人物だと認識するに至った。「天王星人」はAさんのBさんに対する印象に理由を与えるものとして持ち出されたに過ぎず、Aさんが全ての「天王星人」に対し自分の事ばかり話す
という人格の断定をしているとはいえない。
こう考える私は、Aさんの事例は社会からの完全な排除は非現実的だと左近さんも認める事例と地続きだと主張した。これに対し、左近さんは「徳保の挙げた例はどれもAさんの事例と区分できる」「極端
の基準を示せ」と主張し続けた。
「天王星人だから」という口吻が衝突の原因です。だから「他の天王星人とは、当たり前のように話をしているに違いない」となる根拠はありません。他の「天王星人」に対しても(表向きは当たり前に話をしていても)、表面化すれば相手は怒るでしょう。
Aさんが現実を少しも見ない人物で、全ての「天王星人」に対して話し下手なくせに自分の事ばかり話す
と最初から断定している可能性は低いと思う。おそらくAさんの認識は「天王星人には話し下手なくせに自分の事ばかり話す
人が多い」程度だろう。
私が接してきた血液型性格判断の支持者たちも、せいぜい「O型の人はマイペース」といった予断を持っていたに過ぎない。私が期限を破ると「これだからO型は……」と偏見を強化するが、それでもなお「O型でも仕事が速い人はいる」ことは理解していた。究極的には血液型ではなく個人を観察しなければならない、との共通理解は形成できた。
それでもAさんに限っては「天王星人という情報だけで人格を断定できるのだ」といって譲らない強固な偏見の持ち主かもしれない。もしそうなら、私もAさんを批判する側に回る。だがAさんが、私の周囲に実在した血液型性格判断の支持者と同程度の偏見を持っているだけなら、ことさらに問題視しない。
ともかく、Bさんから話を聞いたとき、Aさんの人柄をどのように想像するか、だ。左近さんは最悪を想定するタイプで、私は自分の体験の枠内で想像するタイプ、といった違いだろうか。
ナチス党員だったら、強制収容所の職員だったら、当時やはり似たようなことを言ったと思います。KKKも同様の主張をするでしょう。それとの違いを考えてみてください。
ひどい出来事が起こったとき、その要因を全て潰そうとする考え方に、私は与しない。(1)(2)(3)のうち、(1)だけで、ホロコーストは否定できる。仮に(1)が突破されても(2)(3)が機能していれば止められた。しかし、ストッパーたりうるのは(2)(3)だけではない。
いま「ホロコーストを防ぐためだ」といって(2)(3)の規制を徹底すれば、生活も社会もすんなりとは回らなくなる。牛刀割鶏を避け、もっと直接的なストッパーを選択すべきだ。例えば「その程度の理由で人権を制限・侵害してはいけない」といった価値観の啓蒙・普及とか、人々の想定する功利主義の幸福計算における強制死の重み付けを大きくするなど……。
左近さんは人格の断定など不可能だという。だったらそれで満足すべきで、仮に可能であっても云々は過剰な規制です。過剰な規制は、過剰というだけで批判されていい。倫理の重視にもバランスがあって、私は左近さんのそれは行き過ぎと感じるのです
どの部分についてなぜ行き過ぎと感じたのか、示してくださらないのでわかりません
規制は少ない方がよい。自由は、それ自体が幸福を支える重大な要素だ。(1)の規制だけで足りるなら、(2)(3)の規制はない方がよい。
(1)のみで対処できる問題で、(2)(3)を持ち出すことで自由が小さくなるとしたら、「既に目的は達しているのに、なぜ自由をいっそう縛るのか」といいたい。逆に(2)(3)を持ち出しても実質的な規制の強化が全くないとすれば、(2)(3)という新しい規制を導入する意義を疑う。
「(1)(2)(3)のバランスを調整することで自由を最大化できる」というご提案ならば、私も傾聴したい。ただしホロコーストを例に挙げるなら、(2)(3)より筋のいい規制は他にも考えられることは前述の通り。
私は徳保さんと同じように一人の生身の人間であって、社会の道徳を体現している抽象的な存在ではありません。左近は世間ではありません(母音が違います)。私を社会とみなして勝手に敵視されても困ります。
私は何か個人として行政上または立法上の規制権限を持っているわけではありませんし、「仮に可能であっても云々」は、徳保さんと同じく個人としての考えの吐露に過ぎません。だから「規制」ではありません。
件の箇所は「仮に左近さんの価値観が隅々まで浸透した社会が形成できたとして」という仮定の話をしているものとして読み取ってほしい。いま左近さん一人の言論が規制として機能するとは考えていない。
血液型と性格の相関関係は既に否定されている(にもかかわらずいまだに信じている人が多い)ことからわかるように、「当座の仮定」というようなものではなく、もっと閉じた体系であって、オカルトとはまさにそういうものです(参照:オカルト - Wikipedia)。科学的手法に対して開かれていないので、「当座の仮定」、すなわち後の検証によって修正・改善されていくべき仮説としての意義は認められません。
私は「当座の仮定」を、そのような意味で用いていない。
首尾一貫したことをいうAB型の人に対して、「いやこいつはAB型だからきっと裏で逆のことをいってるんだ」なんて、血液型だけを理由に確信するような人は例外ですよ。態度や表情にうまく言葉にできないもやもやした疑念を抱いたときに、「AB型だから」というラベルを貼り、それを理由として口にすることはあっても、実際の思考がその言葉通りの人は珍しいのでは。
(中略)
人の言語コミュニケーションは、「当座の仮説」を必要とするのだと思います。確度の低い仮説は言葉にしないという理想を掲げるのはいいけど、現実には無理だというのが私の観察です。AB型は云々なんて信じているわけじゃないけど、そういう言葉があると便利、それが断定表現の内実ではないでしょうか。
上記では「当座の仮説」になっているが、いいたいことは同じ。実際には無相関の事象に緩やかな相関関係があるという印象を持っているとしても、「Aなら必ずB」とはいえないのは、ほとんどの人が理解している。それでも、「AだからBなんだ」という仮の説明をすると、安心する。落ち着く。所詮は仮説だと思っている。それでいい。だから人々は、検証など必要とせず、オカルトでも不都合ないと感じている。
そういうものをひっくるめて、私は「当座の仮定」「当座の仮説」といっている。
仮にある人が、新人が上司にウソの報告をあげているのを見つけたとする。するとその人は、「最近の若い子は嘘つきね」と予断を持つ。以降、他の新人たちの報告書まで、精査するようになる。横から見ていても、その人が新人を信用していないことはバレバレ。いちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする。
私はこの人に「予断を持つな」とはいわない。「もう少しうまくやれ」という。書類のミスは見逃さないというアピールも、行き過ぎれば萎縮の弊害が強くなる。
……つまり私は、倫理的な観点から批判しようとは思わない。たった一人の嘘のために他のみなまで偏見を持たれるのは理不尽だけど、これで職場全体の規律のゆるみが発覚することもしばしばあるのです。その可能性がある以上、仕方がない。疑われた方は、淡々と正確な書類を出し続けることで反証するしかない。
そもそも「ウソの報告」と「書類のミス」とは、テーマとの関係では、決定的に違う事柄です
「ウソの報告」も「書類のミス」も、ようは仕事に不正確な部分があるという話だ。それが意図的なウソなのか、不注意からくるミスなのか、判断はできない。人格を疑えばウソになり、能力を疑えばミスとなる。ある人
は、ひとつの報告の間違いを「ウソ」と断じた。私は神の視点から、その判断は正解だと保証したが、実際に何か証拠があったわけではない。
ともあれ、ある人
は、新人みんながウソをついていると疑った。実際には、嘘つきは一人だけで、その他大勢は仕事が雑でミスをしていたわけだ。ゆえにある人
の「ウソを許さない」ための厳しいチェックは、大勢に「書類のミスは見逃さないというアピール」と受け止められた。そもそも少なからぬウソはミスを隠れ蓑にする。ミスが多い職場はウソの培養器である。ミスを減らせばウソも減る。ある人
の行動は、仕事のやり方として基本的には正しい。しかしミスの発見に注力するあまり職場の空気を萎縮させてしまっては、やり過ぎである。(この付け足しは、例え話に盛り込む内容としては余計だったと思う)
ようするに私は、「一人のウソが大勢の信用を落とすのは理不尽にも思えるが、そうした判断は仕事の知恵として有効」という話をしたかったのだ。
質問させてくださいね。
* 人間の人格の検査は、例えばどのような方法で行うのですか?
* 検査の結果は誰がどのように判定するのですか?
* それは「断定」といえますか?
* その判定を行う人の人格については、誰が検査するのですか?
* その評価の対象は、果たして「人格」なのですか?私は、「人格」を「断定」するための検査など開発されないし、開発されたとしてもそのようなものを使うべきではないと思っています。
他人を人の話を聞かないで、話し下手なくせに自分の事ばかり話す
と評する程度のことが「人格の断定」であるならば、「人の話を聞かない」「話ベタ」「自分のことばかり話す」を要素分解し、客観的な定義と定量化を実施し、テスト課題を設定して行動分析を行うことで、テストは実現可能だ。
とくに面倒なのは定量化の部分だろうが、ある母集団を設定し、そこから標本抽出された人々に対して、要素分解した事柄について調査を行うことで、客観的に設定できる。
もちろん客観的だから妥当だとはいいきれない。要素分解したときに、大切な何かが抜け落ちてしまうこともあるだろう。しかしそういう揚げ足取りは生産的でないと思うし、何より実際、私たちは日常的に、人に対して「他人の話を聞かない」「話ベタ」「自分のことばかり話す」といった評価を下しているではないか。
さて、仮に属性Cの人物は全員が「他人の話を聞かない」「話ベタ」「自分のことばかり話す」の判定基準を超えるという事実が発見されたならば、属性Cをチェックするだけで前記3項目について「人格を断定」できることになる。100%ということではないが、「かなり高い確率」まで含めると、こうした知見は既に社会で活用されている場面があると思う。
どの程度リアルな話かはわからないが、ドラマ『Dr.HOUSE』では、患者の人格から病気を発見する話がしばしば登場する。ある種の病気は人格に影響を及ぼすという知見が話の前提になっていて、聖人君子のような人物や、異常に粗暴な人物などは、ドラマの中ではたいてい何らかの病気が発覚する。