ごく狭い範囲に限定して反応します。
いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。(1)(2)(3)それぞれに問題がある。
私はいずれも程度の問題だと思っています。とくに(2)と(3)については柔軟に考えたいと思っています。だから日常生活において、血液型性格判断への批判は(1)に限定しています。
(2)については、例えば「日本人にはアルコールの分解能力がなかったり、劣っていたりする人が多い」という情報があって、日本通の外国人ならこのことを知っています。だから私がカリフォルニアのロータリークラブの昼食会に招かれたとき(注:クラブ主催の短期交換留学プログラムに参加した)、「これとこれにはアルコールが含まれているので日本人のあなたは気をつけるように」と親切な案内がありました。こうした配慮はあっていいと思う。
(3)については、ある程度の材料があるなら断定してよいということにしないと、裁判なんかいつまで経っても終わらない。判断を迫られる場面はあるということです。
結局、問題は(1)なのです。人格にかかわるあれこれは、その根拠をきちんと詰めていくなら、「**の人はそうでない人と比較して**であることが多い」としかいえないことが大半です。だったら人格を断定的に語るのはほとんどのケースで間違いだといえるよね? 違うと思う。天気予報の降水確率のように、「30%」なら「30%」として断定的に語ることはできるし、これを否定したら人間関係は崩壊してしまう。
100%信頼できる人以外は「信じてよい」と断定できない? それでは仕事にならない。「万が一ということもあるよなあ」と考え、その備えも進めつつ、「わかりました、よろしくお願いします」と契約する。納期とかですね、3割の信頼でも契約することがないではない。
私の勤務先では血液型と星座は(本当は)性格に関係ないというコンセンサスがありますが、出身地域についてはそうでもありません。
「**さんの家は客の前では亭主関白だそうだ」「九州男児だからなあ。奥さんも九州出身でしょ」「とすると……」「家の中はカカア天下だろうね」これは決め付けではない。当然、九州出身でもいろいろな人がいることはみな知っています。だから事実によって反証されたらすぐに主張を撤回する用意はある。
それなら最初から不用意なことをいわなければいいじゃないか、と。もしそれが可能なら、そうですよね。でも世の中のほとんどのことについて、私たちは手探りで進むしかない。わからないものを経験と知識から推測して、仮定を立てて対処していかねばならない。
じゃあ何か、よその夫婦の関係を云々しなかったらあんたは死ぬのか、どうなんだ、全く無意味な仮定であり、決め付けじゃないか。それがどうしても必要なことなら我慢もできるが、こんな事例に納得できるわけがない。許せん!
……ちょ、ちょっと待ってくださいよ、おっしゃることはわかります、お怒りも理解できる。でも、一人でも悲しむ人、怒る人がいるならダメだ、なんて世界は息苦しくて、私には生きていけません。
といいつつ実際には案外、生きていけるような気がしますが、ともあれ私は、先鋭的な意見にはちょっとついていけない。極端な事例に対し NO というだけでいいと思うのです。例えば、星座のために就職の面接で不採用となるのはおかしいが、占星術まで社会から排斥しなくていいのではないか。
好きな芸能人と自分の相性を星占いで判断する女の子も、恋人を親に紹介したとき「みずがめ座の男なんか絶対に許さん!」と反対されたら怒るでしょう。そりゃないよ、と思うはず。そういう感覚があればいいんだと思うわけです、私は。