趣味Web 小説 2007-03-04

インド人の神様 そのようには生きられない・2

そのようには生きられない(2007-03-02)の続き。

1.

被害者が抗議しても、抗議自体が「女性は感情的だからな」「AB型は二重人格だからそういう抗議をする」などという話に解消されてしまって、まともに受けとめてもらえない(こういうのはフェミニズムや人種差別の分野なんかでよくある議論)

という部分は読まれたのだろうかと疑問に思いました。

もし女性は感情的で、AB型は二重人格で、感情的な人や二重人格の人の主張は無価値と立証されているなら、その対応は別に間違っていないと私は考えます。どんな努力をしても絶対に覆せない事柄を根拠にするな。「差別」という外道に堕ちる。と主張する人には、甘んじて外道と呼ばれます、と私は答えます。

けれども、女性の発言が全て感情的であるはずがなく、AB型の人が100%二重人格のわけはなく、感情的な人や二重人格の人の主張が常に全く無価値とはいえないのが現実でしょう。素直に世界を見つめるなら、精緻に検証するまでもなくそんなことはわかる。したがって引用部で批判されている人々は、「不当な基準≒論理的に破綻している判断基準」という条件に抵触しています。

ただですね、体験的事実に過ぎないとしても、仮に女性は感情的な主張をすることが多いという実感があるなら、「ちょっと気をつけて話を聞こう」と考えていい。

例えば部品を購入する際の受け入れ検査、私は担当じゃないので正確な数字は忘れましたが、一定の実績が積み上がると受け入れ検査が免除となります。もちろん弊社製品の出荷前検査は決して省略しません。お互いに出荷前検査を信頼しあうことでコストダウンを追求するわけです。

部品によっては不良率0.01%とかそういったレベルの話になっていて、それを超えると「要注意だから全数検査」となったりします。過半数なんていう基準じゃない。こういうのを見ているから、私は「一部の人間のせいでみんなが色眼鏡で見られる」のが悪いことだとは思わない。危ないと思ったら全数検査でいいのです。

部品の信頼性と人格を同列に扱うな、というご意見はわかりますが、私は同列に扱います。それが許せないなら、見解の相違ですね、ということでおしまいです。

2.

当然、九州出身でもいろいろな人がいることはみな知っています。だから事実によって反証されたらすぐに主張を撤回する用意はある。

それは「断定」とは言わないと思いますよ。たとえば、「明日は雨です」というのが断定。

反証されても撤回しないケースだけを「断定」と呼ぶなら、ほとんどの人は滅多に「断定」なんかしていない。「今日の天気予報、見た?」「雨だそうですよ」「ありがとう」という会話で、話す方も聞く方も降水確率100%だなんて思っていない。「雨が降りそうだな」くらいの認識なのです。

というか、「女は感情でモノをいうからな」といって話を聞かない人の本心は、多くの場合「頭を冷やして出直せ」です。差別心が全くないとはいわない。けれども私の観察するところ、場を改め静かに話を持ちかけてもなお門前払いするのは、よほどバカな人だけです。

だから「女性が常に感情的な発言しかしないという主張は誤りだ」と反証したって、「そんなことは分かってるよ」と怪訝な顔をされるでしょう。感情的な発言の頻度に男女差がないというデータを見せられたところで、部長室に怒鳴り込んでも相手にされない状況は変わらない。

AB型云々だってたいてい同じこと。ヘンなことをいう奴がいる、何故だ? AB型だから、ということにしておく、と。本気でそう信じ込んでいるケースがどれだけありますか。「当座の仮説」という認識のある人が大半でしょう。

首尾一貫したことをいうAB型の人に対して、「いやこいつはAB型だからきっと裏で逆のことをいってるんだ」なんて、血液型だけを理由に確信するような人は例外ですよ。態度や表情にうまく言葉にできないもやもやした疑念を抱いたときに、「AB型だから」というラベルを貼り、それを理由として口にすることはあっても、実際の思考がその言葉通りの人は珍しいのでは。

そうはいっても、「女は」「AB型は」という言葉に傷ついている人がいるじゃないか、「**っていうだけで決め付けないでほしい」という感情は多くの小説やドラマのテーマになっているじゃないか……それは認めます。でも、人はこれから逃れられないのではないですかね。

人の言語コミュニケーションは、「当座の仮説」を必要とするのだと思います。確度の低い仮説は言葉にしないという理想を掲げるのはいいけど、現実には無理だというのが私の観察です。AB型は云々なんて信じているわけじゃないけど、そういう言葉があると便利、それが断定表現の内実ではないでしょうか。

明らかに無関係なものを結びつける占いも、関係が立証されたものを結びつける知識も社会には必要とされています。ではその中間にあるものは? やはり必要なのだと思う。極端な悪用を潰しながら、付き合っていくしかない。

3.

私の知人が仕事でインドへ派遣されているのですが、事前に「神や信仰を冒涜するようなことを冗談でも口にしてはいけない」と戒められたとか。向こうの人は物事を神秘的な解釈によって納得することが多い。安直にそれを否定し、機械的な発想を押し付けてはならない、というのです。

最初は戸惑います。インド人とまともな話はできないと思う。けれども、次第にインド人が科学的思考に長けていることに気付かされます。ポイントは、彼らが物理現象の背景に神の存在を感じていること。日本の技術者が「ただ単に世界はそのようにできている」と透明に考えている部分、「偶然でしょ」と決め付けがちな部分に、インド人の信じる神々は宿っています。

インドにはいろいろな宗教がありますが、その多くは多神教です。そして善神と悪神がいる。寝坊の言い訳に神を持ち出す人に「ふざけるな」といえば角が立つ。だから「善神に化けてあなたを惑わそうとする悪神の企みに負けてはいけない」と答えるのだという。

もしそのインド人が無神論者なら、怒るかもしれない。こんなアホな言い訳を唯々諾々を受け入れるのは日本人がインド人をバカにしているからに違いない、とかね。でもそれは仕方のないことだと思う。インド人だということしかわかっていない段階では、信仰厚い人だと仮定して話をするしかない。

最初に訊ねればいい? 無理だと思いますよ。上記では話を単純化したから、たったひとつ質問すればいいかのように見えますけど、現実はもっと複雑。そもそも彼は本当に寝坊したの? あるいは遅刻したのかどうかも怪しい。タイムカードに記録がない? いじめの可能性は? どこかでエイヤッとやるしかないんですよ。

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