そのようには生きられない(2007-03-02)とインド人の神様 そのようには生きられない・2(2007-03-04)の続き。
いちばん問題なのは、(1)不当な基準≒論理的に破綻している判断基準に基づいて、(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことだと思っています。
これは私の記事へのブクマコメントで紹介された血液型という断面で切る危険と、論理的破綻の指摘の有効性(左近さん)という記事の一節ですが、私にはピンとこなかったのです。そこで、いろいろ思いついた話を未整理のままどんどん書いていって、違和感のディテールを明らかにしていこうとしたのが前回・前々回の記事です。
私は左近さんの文章の一部にインスパイアされて頭の中に湧き出てきた文章を書きとめただけなので、対話は成立していない。でも形式的には左近さんに話しかけるスタイルを採ったので、左近さんが気になってしまうのは当然。ご迷惑かけてすみません。
以下も「応答」にはなっていないと思います。読書しているときの頭の中を公開しているようなものです。別に左近さんを説得したいわけではない。自分の中で問いと答えをグルグルやっている、その過程の記録なのです。
あらためて左近さんの挙げた3条件を検討したい。
これは事実に反する仮定という意味かな。人はたいていのことについて事実を確認できないので、結果的に間違っていた、というのは仕方ないだろうな。せめて、ほんの少し謙虚に世界を見つめるだけで間違いとわかる仮定を排除すること。それは大切だと思う。
ただ、どんな場合にもこれはダメだといってしまうと、占いなんか全滅してしまう。占いの類はむしろ、無根拠であることに存在意義があるという側面があるわけだから。そういう文化領域もあって、私はそれも大切なものだと思ってる。だから(1)の否定は(3)との組み合わせの中で考えないといけない。
これは星座や動物占いの動物(生年月日で決まるらしい)のことですかね。身長などもこの範疇かな。多少の努力はできることだけど。
企業経営者の平均身長は、一般人の平均身長より高い。標準体重より太った女性は給料が安い。これは外見が人事担当者の判断に影響しているためだ……というのだけれど、本当かなあ、と思う。身長や体重と仕事の能力の間には一定の傾向が見られるのかもしれない。仮にそうだとした場合、生まれつき頭のいい人と悪い人の待遇を同じにすべきなのか? という話と相似形になりますよね。
大阪人は怒りっぽいという意見がある。経験上はピンとこないのだけれど、とりあえず関西出身の人を相手にすると、少し慎重になる自分がいる。データもないのに行動を変えているのだから偏見そのもの。いや待てよ、怒りんぼ指数を比較すると大阪は東京の3倍とかいうデータがあっても、これは偏見になるのだろうか。
これも(3)との組み合わせの問題かな、と思う。
左近さんが書かれた「人格/思考様式/言動」を読んでも、「人格」とは何か、よくわかりません。とりあえずその点は保留して「断定的な評価」を考えるに、「人格の断定」なんて滅多にお目にかからないのではないか、と思うわけです。
「**だからって決め付けないでほしい」みたいな意見をぶつければ、みんな「仰るとおり」と返します。「Aならば100%B」といえることは少ないと、誰もが知っているといってよいでしょう。けれども表面的な言葉を見れば、これまた誰もが100%の断定表現から逃れられない。
これは矛盾ではなく、複雑な世界を複雑なまま語ることの困難さ、「当座の仮定」の必要性によるもの。だから100%の断定表現を用いていても、真意は異なると読み解くべきではなかろうか、と私は思う。
血液型を人事の参考にする企業を批判するいんちき心理学研究所の記事は煽り過ぎ。社員の適性を無視して血液型だけで人事する企業は市場に淘汰されます。その企業が儲かっているなら、穏当にやっている証拠。
占いは人が信じることを前提に存在しているもの。私は(左近さんと違って?)占いを全否定しない。だから「信じる」の程度が問題であろう、と考える。ただし表面的な言葉のレベルでは断定表現が使われることもあってよいと思う。「天王星人はいま大殺界なんだって」という人は、天王星人の可能性を全否定しているか?
数ある占いの中でも、もっとも信頼度が低いものとみなされているのが御神籤だろう。たまたま選んだ札に書かれていたことに、何の意味があるのか。いや、意味はある。この全くの偶然の中に「縁」を見出すのが日本の文化です。ただ、これを深く信じる人はまずいないといっていい。タロット占いも同様。
生誕時期と性格の関係はどうだろう。少しは何かあるかもしれない、と人は思う。動物占いや星占いは、御神籤よりは信頼されていて、その分、危険度も高いものと見積もられているのではないか。でもだからといって動物占いが示す今日のラッキーカラーは、生誕時期との関係にしては話が具体的過ぎるとみな思っている。
血液型は科学的検証によって性格との関連が既に否定されていますが、一般人にとっては出身地域と性格の関係くらいに(あるいはもっと?)信じられている。
さて、実際にはA型だからといってまじめな人が多いわけでも少ないわけでもないのだけど、「多い」と思っていて何か不都合があるのだろうか。A型にだって不真面目な人はいる、とわかってさえいれば、別に問題はないと私は思うのです。つまり安直に100%の断定をしなければいいのではないか。
では、100%の断定はどうしたら避けられる? 現実をよく見たらいいんですよね。血液型性格判断が間違っているということまでは、素人には判断できないでしょうが、「O型は大雑把でのんびり屋」といった評価が「当たったり外れたりする」ことにはすぐ気付きます。(1)’
結局、(3)から転じて(1)’がポイントなのではないか、と思うのです。ここで再び(3)に戻って、現実をよく見ている限りにおいて、「当座の仮定」に基づき断定的な表現を使うことも私は妨げない。それは言語コミュニケーションに事実上、必要不可欠な省略だと思うからです。(3)’
私は現状について、さして問題があると思ってない。啓蒙活動は極端な事例のモグラ叩きで十分。血液型は性格に影響するとか、星座と運不運に多少の関係はあると思っている一般人は放置でよい。人は「当座の仮定」を必要とするものだから、怪しげな仮説も(ある程度)存在を許されていないと困るのです。
左近さんと私の意見の相違はどこにあるのか。
私は(1)が満たされているなら(2)も(3)もOKだと思っていますから、(1)も(2)も(3)も問題だと考える左近さんとは意見が合わない。これが、最初に私の書いた話。
ところが、前回の記事や今回の2.で長々と書いたことは、これとはまた別の議論なんですね。
「(2)「生まれつきの」、自分ではどうにもならない属性を材料として判断し、(3)相手の「人格」について断定的な評価を下すことは問題だ」ということと、「人の言語コミュニケーションは、「当座の仮説」を必要とする*」ということは、お互いに対立する考え方ではありません。言い換えれば、後者は前者に対するアンチテーゼにはなりません。だから、前者に対する批判として、後者のようなことを述べても意味がありません。
さらに、後者については、既に書いたとおり、私は同意していることを示しています。同意していることを私が示している以上その意味でも、何度書かれても私の記事に対する批判にはなりません。
これは私の書き方が悪かったと思う。原理的な対立の他に、私が納得いかないことがもうひとつあった。「血液型性格判断のアウト判定基準」がそれです。これは最初の話とはかなり違う問題だったのに、私は延長上の議論だと勘違いしたのです。しかもその間違いに気付かなかった。
「左近さんの3条件に同意しない」と話を始めたのに、その先で延々と書いたことは、「左近さんの3条件を(ある程度)受け入れるとしても」一般人の血液型性格判断信仰は社会が許容できるレベルでしょ、という話。今回あらためて書いた2.も同じです。
当初の対立点については、私の主張はきわめて簡潔です。
科学的事実を倫理によって封殺することに賛成しない。
(2)や(3)は(1)が成立した時点で無効化されるので、「それは事実か?」だけを考えればよい。
質問させてくださいね。
- 人間の人格の
検査は、例えばどのような方法で行うのですか? 検査の結果は誰がどのように判定するのですか?- それは「断定」といえますか?
- その判定を行う人の人格については、誰が
検査するのですか?- その評価の対象は、果たして「人格」なのですか?
左近さんの質問でも、「それは事実か?」がメインテーマになっていますよね。結局、そこが崩されたら(2)も(3)も吹き飛ぶ。だから重要なのは圧倒的に(1)であって、他はどうでもいいのです。
左近さんの質問に正対した回答はしません。
仮にある人が、新人が上司にウソの報告をあげているのを見つけたとする。するとその人は、「最近の若い子は嘘つきね」と予断を持つ。以降、他の新人たちの報告書まで、精査するようになる。横から見ていても、その人が新人を信用していないことはバレバレ。いちいち書類の数字を関係各所に問い合わせたりする。
私はこの人に「予断を持つな」とはいわない。「もう少しうまくやれ」という。書類のミスは見逃さないというアピールも、行き過ぎれば萎縮の弊害が強くなる。
……つまり私は、倫理的な観点から批判しようとは思わない。たった一人の嘘のために他のみなまで偏見を持たれるのは理不尽だけど、これで職場全体の規律のゆるみが発覚することもしばしばあるのです。その可能性がある以上、仕方がない。疑われた方は、淡々と正確な書類を出し続けることで反証するしかない。
部長室に怒鳴り込んだ女性社員の例え話も同じ。ギャーギャーわめく人の意見にろくなものはないという経験則が部長の中にあるなら、頭を冷やしてからもう一度訪問するしかない。
部長が女性社員を部屋から追い出すとき「女はやっぱり感情の動物だな。これだから困るんだ」とかいったとする。これは批判すべき暴言です。でもそれはそれとして、部長の言葉を「怒鳴りこまれても話は聞かないよ」と読み替える判断力はあっていいはずです。日頃から「女性社員は面会謝絶」なら話は別ですが。
ふたつの例え話をしましたが、これって左近さんの基準で「不当な基準で当人の努力ではひっくり返せない属性を理由に人格を断定」に該当するのでしょうか。それがよくわからない。キーワードの定義が謎なので、質問には答えられません。