6 : 02 「無断コピー以外」を禁止するライセンス

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Winny事件 雑感

2004年 5月15日
記事ID d40515

ここでいうWinny(ウィニー)事件とは、 日本時間2004年5月10日に、日本で、Winnyというソフトウェアを開発した技術者(通称47氏)が逮捕された事件を指す。 Winnyというソフトウェアは、Freenetのアイデアをもとに、 日本語圏ユーザ・Windowsプラットフォームという非常に限定的なユーザを対象に開発された、脱中心系通信クライアントのひとつらしい。 機能は基本的にはFreenetと同じようだが、ユーザの平均帯域が広い日本での運用に最適化して、 大量のファイルの高速転送ができるようだ。

ユーザは日本語圏以外にもおり、自分が知っているヨーロッパの人も使っている。 しかし、インターフェイスやドキュメントは日本語のみで、 ほとんどのユーザは日本語圏のようだ。 (上記のヨーロッパ人は来日経験もある日本語学習者で、 Windows のロケールを「日本」に設定している。)

もくじ
概要
プログラムの著作物により自己の感情や思想を創作的に表現したにすぎない開発者の表現の自由など。
火の使用を発見した原始人の...
このような逮捕劇が起こり、賛否両論が出ることは自然だが、法律があまりに恣意的に運用され、法律への信頼が揺らぐとしたら残念だ。
3つのフェイズ
iTunesのDRMを回避するツールをめぐる法的な争いのなかで、インドのfsfが法律的支援とともに、このツールの配布を引き受けた。 そのドキュメント等に対する感想などから、連想的にWinny事件について書いたメモ。
ソリバダほか
同じように作者の責任が刑事裁判で問われた韓国のソリバダなど。
ヒコーキ野郎たち
2004年5月20日追加。
注意

以下の内容は、この事件に関連して、ふと思いついたことなどを、いろんな日付に、 あちこちに書き留めておいたものです。 緻密な考察というより、「こういう点はどう判断したらいいのだろう」といった考察前の荒削りな(時には極論的な)話も多いですが、 何かの参考になる面もあるかもしれないので、まとめておきました。 自由な意見交換や、いろいろな見方があったほうが良いと思ったからです。

使ったことのないソフトなので、それ自体として「どのくらい守る価値があるか」という現場のユーザとしての実感がつかめず、 その点が歯がゆいですが、全体としては結局「技術革新と既存の制度の間で起きるいろいろな摩擦」という問題があるように思います。

概要 (2004年5月15日)

このP2Pネットでの大量のファイルの自由な流通は、音楽産業などの既存の産業の権益と衝突した。 また、児童ポルノの流通のような、現行法上違法な行為にも寄与したようだ。 警察官自身も愛用するほど普及したが、副作用として各種機密情報の漏洩も起こった。 Freenetの一般的特性(このソフトにもあてはまるようだ)として「人間主権より情報主権」ということがあり、 いったんこの分散系にキャッシュされた情報は、たとえ内容に不適切な点や誤りがあっても、原則として消去できない。 Freenetでは、消滅するのは情報自体が参照されなくなる「情報自身の死」の場合だけだ。 Winnyでもほぼ同様だろう。 したがって、このP2Pネットそのものを破壊しようというのが、Winnyの開発者が逮捕された真の理由だったと思われる。 逮捕の形式的理由としては、このネットを使って公共送信権を侵害した少数のユーザを正犯とみなし、 開発者にその「ほう助」の疑いをかけた、と伝えられた。

一般論として言うならば、ソフトウェアが悪用されることがある(悪用されることが多い)からというだけで、 ソフトウェアの開発者にまで罪を着せることは、まったく好ましくない。さらに、ソフトウェアの開発者が悪用される可能性を認識していたり、 悪用されても構わないという未必の故意を持っていたとしても、なお、それを罪とするのは、明らかに問題が多い。 「このソフトを使ってこういう悪いことをしたい、という正犯の意をくんで、もっぱらその目的だけに開発した」というのであれば、 一般常識に照らして、それを問題視することも可能であろう。しかし、このWinnyというソフトウェアは、 Freenet同様、匿名掲示板機能を持っていたそうだ。匿名掲示板での情報交換は何ら違法ではないのだから、 このソフトの開発があらゆる側面でもっぱら違法行為のほう助であったは言えないであろう。 さらに問題の作者は、このソフトの開発によって、お金を儲けていたわけでもないようだ。

恐らく、真の開発動機は単に「技術的探求心」であっただろう。 実際には単純に技術的なことが中心であったものを、裁判などで、形式的にどこまで「違法目的とする故意」があったか決めつけようとし、 あるいは判断するのか、というのが、ポイントかもしれない。 その真の答は、開発者の内面にしか存在していない。 「こういう思想で作ったのなら許せるが、こういう思想で作ったのなら犯罪だ」というように、同じ外形的行為が、単なる脳内の思想の種類によって、罪とされ、 あるいはされないという構造から実質上「思想犯的」な観点もあり、 突き詰めると、プログラムの著作物により自己の感情や思想を創作的に表現したにすぎない開発者の表現の自由、 思想の自由ともからんで、軽視できない問題をはらんでいる。

各方面から疑問視の声もあがり、10人から成る弁護団が結成され、 たくさんの寄付金が集まっているという。

参考クリップ

京都府警は29日、ひったくり事件の被害者ら11人分の個人情報を含む捜査関係記録がインターネットに流出したと発表した。 (中略) 流出したのは交番に勤務する下鴨署地域課の巡査が、個人用パソコンに保存していた指名手配書や捜査報告書、鑑定嘱託書など計19枚の記録。 (中略)巡査は「Winny」などファイル共有ソフトを使ったことがあるとみられ、パソコンを自宅でインターネット接続した際ウイルスに感染、ハードディスクにあった記録が流出した可能性があるという。(共同通信)

Yahoo!ニュース 2004年3月29日付け「捜査記録がネット流出 京都府警巡査のPCから」より抜粋

火の使用を発見した原始人の...

要約

「このような逮捕劇が起こり、賛否両論が出ることそれ自体はむしろ自然だが、 以降の展開で、法律があまりに恣意的に運用され、法律への信頼が揺らぐことが起きてくるとしたら残念だ。 Winnyの作者側にも、不用心な点があったと思う」という内容のメモ。

メモ

2004年5月13日 [Winny] 火の使用を発見した原始人の誰かをその原始社会でやっつけても、 長期的に火の使用とかエネルギーの人為的活用ということがやむわけがない、という思考実験をすることはできる。 未来からみれば、火を使用・制御する技術の開発が良いものであることも確かだ。

「火の使用は悪魔のわざだから、やめなさい」と宣伝する人がたくさん出るのは、 それだけそれが大きなポテンシャルのある技術であることを示しているだけで、 重要な技術であればあるほど、それについてさまざまな意見が出るのは当然だから、 それはそれで良い。

ただ、その過程で、法律なんてあてにならない、守っても守らなくても、どうせでたらめだ、という風潮が広まってしまうとしたら、 とても残念だ。残念だし、法律やら裁判やら何だか火の使用は悪いとか言ってるけど、どうせでたらめだし、あてにならないし、 しらねーよ。いいじゃん、あったかいし。まる。で終わってしまう。でたらめなやめさせ方でやめさせようとしても、 逆効果ということだ。

本当にそれをやめさせたほうが全体にとってメリットがある事案なら、必ず納得のいくやめさせ方というものがあるはずだ。 納得のいくやめさせ方ができないのだとしたら、結局、それをやめたほうがいいという合理的な根拠は何もない、ということを、 間接証明していることになってしまう。

おおよ、著作権法をもっともっと死ぬほど強化してくれよ。 プログラムは著作物なんだろ、保護したいんだろ、死後75年だか何だか。 じゃあプログラマーを妨害するやつらは全員著作権法妨害罪で射殺したらいいだろーよ。 「こういう社会制度はこう変わるべきだ。実際、こういう制度ではこうするとだめだめだから」という思想感情を創作的に表しちゃいけないんですかい。 「こうするとだめだめじゃん」とよーく納得のいく形で指摘することがだめなんですかい。 「ホントだ、こうするとだめだめだ」という真実を納得させてしまったことがいかんのかい。

とはいえ、これはありうべきことだから、不用意な面もあったと思う。 オープンソースにして、sfで公開していたら……。 開発者が20人くらいいたら……。 そして……Freenetのソースに対する改変という形にしていたら……。 「解き放とう」としていたわりには、縛って閉じ込めていたという事実によって、 Winny は、二重の意味で、縛って閉じ込める方法は弱い、ということを示したような気がする。 二重の意味の二番目はとても皮肉なことだが。 そしてまさにその理由で、Winny は普及しなかった(一部地域ローカルで終わった)のかもしれない。 秘密にすることで保たれる安全・暗号は、まったくあてにならない、という常識的直感があるからだ。 実際、自分自身、Freenet 0.4からWinnyに乗り換えるということは、ほとんど考えさえしなかった。 「暗号というのは公開しても破られないやつだけしか信じられない」という感覚のせいだったのかもしれない。 またそれが今のWASTEに対するのほほんとした居心地の良さなのかもしれない。 軍隊とかNSAとかならともかく、日本の警察が逆立ちしても1536ビットのRSAを破れるわけない、 というのはほぼ数学的な事実なので……。

そうはいっても、Winny は Winny で無念である。 どんなに敗訴しても、こんな日本ローカルのその他大勢的ソフトをつぶしても趨勢は変わらないのだが、やっぱりがんばってほしいとおもう。 全体で見ればその他大勢的でも、日本では重要な役割を果たしたことに変わりないのだし(ファイルローグが、 当時そうだったように)。

3つのフェイズ

要約

iTunesのDRMを回避するツールをめぐる法的な争いのなかで、インドのfsfが法律的支援とともに、このツールの配布を引き受けた。 そのドキュメント等に対する感想などから、連想的にWinny事件について書いたメモ。

メモ

2004年5月12日 DeDRMS かぐわしい響き…w

http://firestuff.org/playfair/DeDRMS.cs

長期の裁判を戦い抜いた後のDeCSS作者を見ていると、少し心強い可能性が思い浮かぶ。 47氏をいじめることは「裁判なんて怖くない」「もう分かったから、今度はそうはいかないぞ」といういっそう筋金入りの技術屋を育てるための、 試金石なのではないか、と。まして無罪になったらね。なんかじつに不愉快だから、自分もWinnyユーザになって、 アフガニスタンの写真でも配布しようかな…。導入記事なんてどんなに削除させたって、どっかにあるに決まってるしなあ。

2004年5月12日 http://hymn-project.org/ Please spread the word about project "hymn"! 日本では、 「DRMによるコピー禁止」どころか、「DRM回避禁止」どころか、さらにさかのぼって輸入権とやらで「iTunesそれ自体」が非合法化されてしまいそうなところがむなしい。ドキュメントでは、 「凶器に使われる可能性があるから野球のバットの製造を禁止しなければいけないのか」と、 ここでもシンクロして、同じような議論をしている。「わたしは、これこれの目的でこれを作ったのだ」ということを明確にすることが、 まず第一である。それでも「未必の」と言われると困るが、「未必の」だと、それこそ野球のバット製造者も凶器に使われる可能性があることは認識しているので、かなり微妙な話になる。技術には3つのフェイズがある、という分析がおもしろい。

  1. 法律でそれを禁止しようとするフェイズがあり、
  2. 対抗技術でそれを禁止しようとするフェイズがあり、
  3. それらが失敗した後で、その技術を使ってお金を稼ごうとするフェイズになる。

新しいものを排斥し、悪口を言い、とりあえず既得権にしがみつこうとし、排斥できないと分かると、その技術を受け入れ、 (これまでは金儲けの妨げだと言い張っていたのに)一転してそれを金儲けに使い出す。 そうなってみて「何だこっちのほうがいいじゃん。もっと早くからこうしてれば良かったね」となる。 セマンティックWebの話と似ている。 「HTMLも注目され始めた当初は『ひどい言語だ』『なんでこんなものを使わなくてはいけないんだ』と言われた。そのうち『わかったよ。どうやらこれを使えばうまくいくみたいだから使ってみよう』と言われるようになり、最後には『なんてことだ!なぜこんなすばらしいものを今まで使わなかったんだろう!』となって、これがいかにエキサイティングなものであるかを説明する必要もなくなった。セマンティックWebも今、同じ道を途中まで来ている」

ビデオデッキを非合法化しようとした世代があり、RIAAがMP3プレーヤーを非合法化しようとしたことは、つい最近だ。 結局、ビデオデッキのおかげで映画は新しい販路を見出し、携帯プレーヤーのおかげで音楽は新しい販路を見出すのだが。 その過渡期のつかの間の混乱のなかで、バランスが崩れると「ビデオデッキを開発した疑いで逮捕」されたりする、 とても悲しいことだ。たとえとして「ビデオデッキ」を発明した技術屋のイマジネーション、新しい技術への挑戦、創造性、天才性、先見性、 そういうものををつぶしていって、 何が残るのだろうと思うと、とても悲しいことだ。

つまり、まずテレビを録画することを違法にしておいて、「ビデオデッキはテレビを録画する以外の使い道がないから違法」とするのである。 Winnyはわざアリにも使われており、 合法的なビジネスチャンスの萌芽に結びついていたことは周知である、とか主張してほしい。まあWinnyユーザじゃない自分が数分で思いつけるくらいのロジックだから、コミュニティでは激しく外出だろうけど・・・・

ソリバダほか

内容

Winny事件(2004年5月10日)の第一報を間接的に知ったときの最初のメモ。 同じように作者の責任が刑事裁判で問われた韓国のソリバダを連想した。 「MADニュース」はもちろんジョークで、光ファイバーが善用できることは周知なので、実際にはこんなことはあり得ないが、 「ほう助の概念をいたずらに広げると、無制限に逮捕できてしまう」という感覚が裏にある。 「メモ2」は京都新聞の初期報道についてのもの。

メモ

MADニュース「著作権法違反幇助!の疑いでNTT西日本社長宅から光ファイバー押収――違法行為に使われていることを認識しながら、違法行為を容易にした疑い!」

もうすぐ俺たちの目の前で起きる現実がその答えだ (あいさつ)

Winnyの開発者が摘発されたそうで、こういうケースは初めてだ、とか幇助?とか書いてありますが。 幇助とすると正犯は誰なのだろう。。。Freenetの作者も幇助の幇助で摘発すかね。そのほうがおもしろいけど。。 「ソフトの開発者を著作権を侵害させた幇助とみなして逮捕した例は恐らく世界でも極めて珍しい」と ネットと著作権法に詳しいとかいう弁護士がコメントしているそうですが、 韓国に音海(Soribada)というソフトがありまして、同じ話なので、 そのときどうだったか、というと、やっぱり刑事的には無罪。 しかし、日本はせんしんこくなのでわかりませんよねーーーーーー。それと、関係ないけど、こういうときでも、 もっとセンセーショナルな事件のときでも、めったにフルネームで実名報道しない韓国のマスコミ、その一点に関しては、 何となく好感。ときどきものすごくひねった深読みしないと分からない辛辣なことが書いてあるのは、逆に、それだけ、 書けることの幅が狭いのだろうなというきもするが。。

余談はともかく、ひとつだけ確かなのは、仮に罪になっても、「どうして有罪になったか」のロジックが公開されること自体が、 次につながる「公共の福祉」である、というのが、これまでの流れではないでしょうか。へりくつは二度は使えないから。

メモ2

包丁は野菜を刻むこともできるし、人を傷つけることもできる。罪に問われるのは、人を殺傷した実行行為者だけだ。拳銃は、人を殺傷する以外に目的を持たず、日本では所持も製造も禁止されている。京都府警が今回、ウィニーという通信ソフトの開発者を著作権法違反の「ほう助」で立件に踏み切るのは、同ソフトをネット社会における「拳銃」の開発に等しい、と判断したといえるだろう。

と、このくらい、「拳銃」を使ったことがない自分ですらすぐ思いつくのだから、「拳銃」のユーザの世界ではもっといろいろあるだろう。 P2Pを知らない人が「一般人が知っているような使い方以外に使い道はない」と思い込むのは仕方ないかもしれないが、 知っている側からみると、フェアな議論ではない。「暗号は犯罪以外使い道がない。暗号=犯罪」としてPGPがつぶされそうになったことを連想する。 暗号がなければ、ネット上の商取引などできず、今のオンラインビジネスはまったく成り立っていなかったのだが、 PGPができた時代の人に2000年をすぎるとネットはこうなっているんですよ、と教えてあげる方法はないので仕方ない。

ヒコーキ野郎たち

2004年5月20日 Winny開発者・支援サイト開設 支援金1000万円に

ある研究者は書いている。 「P2P掲示板については匿名性等を高くしたり、掲示板の内容を広範囲に広めるためにいろいろなプロジェクトが進んでいますが、多くの課題がありWinnyを超えるソフトは未だ完成していません。」(P2P掲示板の考察【前編】

世界最先端の実装のひとつだった、ということだろう。

トップレベルの研究者を、2ちゃんねるで場所柄悪ぶった語調の書き込みをしたといった妙な因縁をつけて、逮捕したのだとしたら、ひどい話だ。

どこが問題なのか。 技術の研究、ましてや紹介が、いちいち問題視されていたのでは、 誰もが不安を感じる。技術者や技術を紹介するサイトでは「明日は我が身」と思う。 (それ以外のかたにはあまり実感がないかもしれないが)

上の文章は、日本語っぽいロジック、という点から観察すると、別の意味でおもしろい。 一方では開発者の群を抜いた才能を高く評価しているが、 他方では「逮捕は話題性を求めた警察のスタンドプレー」として警察の「勝手に自分だけ飛び出した行動」を批判している。 日本語のロジックでは「うむうむ、まったくだ」と納得がいくが、翻訳者はちょっと考え込むかもしれない。 「こうした人材を逮捕し、ソフトウェアの研究開発を萎縮させることは、日本の国益にかなうことでしょうか?」も、 翻訳したら原文ほど訴える力がなくなるだろう(日本の利益にならない、といわれても、日本の外では共感できない、という当たり前のことだが)。 それが良いとか悪いとかでなくて、そういうロジックの基礎になっている考え方に思いをはせるとおもしろい、というだけだが。

ヒコーキ野郎たち

航空の草創期、ヒコーキに対する法律がまだちゃんと決まっていなかったので、 どこかヨーロッパの片隅の田舎の国では「複葉機に乗って空を飛んだ」という間抜けな理由で逮捕されたヒコーキ野郎がいたかもしれない。 空を飛ぶ行為の実行と動機が総合的に悪いのだ、などと変な理屈をこねられて。

そのヒコーキ野郎をめぐって、船舶や馬車に関する法律の条文をあれこれ引き合いに出して、 やれスピード違反だ、交通法規違反だ、あーでもない、こーでもないと議論する法律家もいたかもしれない。 (馬車産業の保護のためとか)

あるいは、大けがをしたり、死んだりして、「身から出たサビだ。空を飛ぶなど不条理なくわだてを」とあざ笑われたやつもいるだろう。

あるいはまた、夜に空を飛んだという理由で、「安全なんとか違反」で捕まったやつも、いるかもしれない。 実際、夜間飛行で死んだやつもいるだろう。最初にやるやつは、少しばかで、無謀で、自分の直感だけを信じている。 人はそれを批判して「そんなばかなことはぜす、こういう風にやればもっと安全だったのに」「こうするべきだった」 「こうするべきでなかった」としたり顔で、ぞろぞろついてくる。「ばかだな、あんな大きな石につまずいて」先頭の者がやぶを開いたらから丸見えになった足下の石を指して笑う。でも、誰かが最初にやらなければならない。

歴史にはそういう面があると思う。

2004年5月19日 Winny - 勾留理由開示請求公判

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「無断コピー以外」を禁止するライセンス

2005年 1月 6日
記事ID d50106

人を引きつけるだけでは情報は生きない。 「ぬるさ」とは何か、なぜそれが自滅を招くのかを明確にする。

人気がある情報ほど滅びやすい現実

公開した人がコストを払うというWebの仕組みに問題がある。公開しない方がコストが安い、さらに、人気が無い方が有利というのは、本質的におかしいだろう。

脱中心ウェブAsagumoWeb の開発者はそう書いている。

参照の多い情報はサーバ負荷により危機に陥る。

トラフィックが増えることの問題はそれだけではない。 つまらない一言が「名誉毀損」「営業妨害」とされたり、 たった一枚の写真をめぐってアカウントごと削除されたり、 まったく同じ情報を送信していても、辺境のページでやればまるで問題にならないことが、 トラフィックの多いページでは致命的な問題になりやすい。

「ぬるさ」とは何か なぜそれが自滅を招くのか

吸うだけのリーチャ。 BTの普及で、クリックすれば何でも落とせると思うリーチャがわらわらと増えた。 リーチャは受益者だが、大部分のリスクを負うのはリーチャではない。 ウェブ全体のトラフィックの何十パーセントとかいうのは普及しすぎで、 「迷惑」でさえある。システム全体が滅べばリーチャ自身も存在できないのに、 そこがリーチャの浅はかさ、宿主を病死させて自分も連鎖死亡する寄生虫のようだ。

別の言葉で言うとヌルさの増加で、実は結果的に多くの受け手(それはライト層自身も含めて)にとってデメリットが生じ始めている「今、そこにあるオタクの危機」 第6回)。 コミケにおいてもこの「パロディ同人誌」と「版権」の問題は幾度と無く取り上げられているわけで、「黙認はされているが、オールグリーンな訳ではない」。常に危険と背中合わせな状態が続いているだけなんですが、この辺に対する認識がものすごく低い。

ぬるいうちはまだ良い。冷え切ってはいないから。 けれど何もしないリーチャが多いなかで、全体のぬるさを保つために、どこかが極めて高温度になる。 かつてのスーパーノバが象徴的な一例だ。 そのどこかが崩壊すると、全体が無に帰する。

ぬるさを許容するということは、すべての卵をひとつのバスケットに入れるようなものだ。 そのバスケットを地面に落とすと、すべての卵が一瞬で崩壊する。 ぬるさの本質も「一極集中の弊害」であり、問題は全体の平均的ぬるさそのものではない。

リーチャの多くは、たぶん創造的なことはあまりせず、受信者に徹しているのだろう。 しかし受信に徹するばかりで、中から技術がある後継者が出ないと、そもそも送信するものがなくなってしまう。 商業化に成功しても「受信させて金をとれればいい」というだけだと、その産業そのものの存続にもかかわる。

権利吸い上げ型産業は、吸い上げる場所の後継者を育てなければならない。 さもないと権利吸い上げ型産業も、自分の首を絞めるリーチャになりかねない。

高層ビルを建てる場合、優秀な技術者や現場監督――ここまでは手を抜いても何とかなるなどと判断できる者――が中間にいて、 安い賃金で働く労働者が下層にいて、成り立つわけだが、 ビルを建てるぞと決定して建つ前から賃貸権がいくらで売れるかなど計算している上層のほうは、謎のベールに包まれている。 漫画やアニメでは誰が中間で、誰が下層で、誰が上層だろうか。必ずしも企業批判ではない。 企業を営利的に動機づけて製作を行わせる「視聴者」こそ最上層かもしれない。

注意: 「ぬるさ」というと「冷たい」から「熱い」に至る一次元量のイメージがあるが、 実際には「ぬるさ」は二次元量でモデル化するべきだ。この問題は末尾の「付録」で扱う。

人を引きつけるだけでは情報は生きない

情報それ自身の力が吸引的に働くと「中心」を発生させ、バランスの偏りを招く。 優れた情報が、
人間を引きつけ間接参照させる「求心力」で終わらず、
その人間を触媒として、実体をコピーさせる「拡散力」を持つような、

実装が望ましい。
「優れた情報」ほど冗長的に保持されるべきだ。 そのサーバが消えるだけでウェブ全体から情報が失われるような脆弱特異点に貴重な情報を置く実装は好ましくない。

素晴らしい情報は往々新しい知見を含んでおり、 新しい知見は従来の常識を否定するがゆえに、 予期せぬ各方面からの攻撃にさらされやすい。

現在でも感染力の高いミームは拡散するが、
ウェブページが単にポイントされるのでなく実体がコピーされるなら、
ミームの動き方が作者中心から作品中心に変わる、

という違いがある。

どこにアップしてもたった3年後の安心感も持てないのが現状だろう。 自前のサーバだって地震や津波ですぐ潰れる。

実体のコピーを行う方がミームの保存に有利であることが明らかでありながら、 参照にとどまる理由は何か。 権利が作品にではなく人間に従属していた古い制度が、制度的障害になっている。 リンクによってポイントはできるが、 作者に許可をとらないと実体をコピーできない、という古い信仰の下では、 情報を評価し肯定することから、リンクが生じて、情報の生存が脅かされる。 高く評価することが相手に迷惑なのだ。

このような実装は不自然で、直観的にも不合理だ。

だが、優れた情報は無視したほうがその情報のためになる、参照すると失われる、などという変なことが本当にあるのか。

この現象は多くのかたが一度や二度は経験しているはずだ。 巨大なトラフィックの原因となる場所から直接リンクしたせいで、せっかくの情報が消滅してしまうことが実際によくある。

「無断コピー以外」を禁止するライセンス

そうなるのは「リンクが本質的に悪い」のではなく、もっとさかのぼって、人間がコピーに対して心理的抵抗を感じるシステムに問題がある。 けれども、それに対してアナーキーな破壊的行動をとるのではなく、従来のシステムの中では、作者側から次の3ステップを踏むのが望ましい。

  1. まず転載を明示的に「許可」する。 実際には、作者が「許可」「不許可」を論じるような、 作品に対する作者の上位性自体を認めるべきではないが、まずは人間のロジックで「許可」する。
  2. 次に「このページは都合でもうすぐ閉鎖させていただきます」などと宣言して、実体をコピーしない限り失われることを強調する。
  3. さらに、意識して、わざと、リンクが張りにくい予測不可能で、めちゃくちゃなメモの書き方をして、ポイント自体を難しくする。 (これは実験的に行う。)

それほどまでに人間は転載に対してひどい罪悪感をすりこまれており、かれらは明示的に許されている行為をするのにさえ意識的努力を必要としている。

この罪悪感は一部既得権者の権益保全には役立つが、 ウェブページを含む情報一般においてはネガティブに作用する。 既に見たように、実体をコピーせずに参照で済ませる結果を招き、潜在的に参照先にリスクを集中させる。

結局、心理という不安定要因を持ち動作が一定しない人間など初めから信頼せず、 情報を利用すると自動的・機械的に実体がキャッシュされ拡散するように、システム全体をそういう設計にすることが望ましい。 もっとも、そのような新しいシステムはそれ特有の新しい問題を生じるだろう。

人間の心理的困難があまりに大きいようなので、 それに対抗するために、次のような新しいライセンス形態を思いつくほどだ。 いわく、「この作品は、無断でのみ、コピーを許可します。許可を求めた場合には常に不許可にします。したがって、 この作品をコピーする唯一の合法的手段は、無断コピーです。それ以外の仕方でコピーすることはライセンスの侵害になります」

付録

付録A: ぬるさというより薄灰色

情報を消費して楽しむのもいいが、たまには一次的な源になるのも大切だ。 「fooという技術はどうですか」と何で第三者に聞くのだろう。 疑問に思ったなら自分で試してfooテストレポートを公開すればいいではないか。

そして、そのとき重要なのは最初にやるヤツは間違っていてもいいということだ。 間違っているかどうか判断できるだけの知識があれば、最初から訂正している。 「目」は「これは見間違いだろう」などと自分で考えなくていい。 見えたイメージを視神経に流しておけばたくさんだ。 あとは「脳」にまかせればいい。 頭のいい人は「判断作業」に忙しいので、いろいろ新しいものを見て回る暇がないのだから、 われわれバカが適当に仮説を書いておけばうまく役割が分散される。 バカはバカに徹し、知識屋はバカの書いた情報の二次的批判や補足に徹すればいい。

バカはバカなことしかできないし、知識屋はバカなことができない。 それでいい。

「ぬるい」というより、「薄い灰色」だ。 「すべてが熱くなれ」という趣旨ではないから。 「もっと赤は赤っぽく、緑は緑っぽく、青は青っぽく、とことん徹しろ」という趣旨だから。 「あるひとつの色だけが正しく、それ以外は間違っている」という一次元の尺度をこのミームの生態系に持ち込むな、 ということだから。

付録B: 均質化としての「ぬるさ」

利用者ではなく情報の発信側ばかりに責任が偏ると、ひいては法務部を持つような大企業しか情報を発信できなくなり、 インターネット以前の大味のつまらない時代に(トポロジーを変えただけで)逆戻りしてしまう。

Winny技術の研究開発と実装を行った東京大学の先生にすぐたくさんの支援カンパが集まったのも、バランスが崩れていることを無意識にせよ感じてではないか。 「自分たちだけ楽しんで、苦労してその場を作ってくれた開発者がリスクを負うのでは申し訳ない」 という感覚があったからではないか。

ある意味、自分が Winny を使わなかった理由もそうなのかもしれない。 情報を作るのに急がしすぎ、ダウンロードできても、ゲームをやったり映画を見る時間がない。 情報を出せば出すほど、知らず知らずのうちに、吸い取られる下層の立場になってしまう。 例えば「作る」研究をしているのに、「受け手」側の、初心者の、ぬるい質問が来る。 情報は情報があるところに集まるので、その処理に追われ、 最終的には「その技術を詳しく紹介していながら、実際には、その技術を実用的に活用している暇がない」という変な状態になる。

ぬるい読者はブックマークを開けば、いつでもそこに新しい情報が書いてあると、それを当然のことだと思っている。 「あ、まだ更新されてない。速く更新しろよ」などと勝手なことさえ思う。 けれどこんなものはいつ終わっても不思議ではない。 ひとつを消費しつくしたら、また別のものを見つければいい、というのもあるだろうが、 もしそういうことが続くと、最終的には、クレイジーなサイトが減って、ウェブ全体がなまぬるい均質の倦怠に陥る。

実際には変わり者は常に一定割合で新規出現するのでそうならないが、均質化傾向は感じられる。 毎日、巡回先からピックアップした「今日のリンク集」を作って短い感想を書いてるだけの、 ミーム的に参照による「中継だけ」のページの割合が増えている。そういうページにも価値があるし、 この欄にもしばしば「中継だけ」のリンクを張るが、 「それだけ」のページばかりになったらつまらない。

「ぬるさ」の本質について、 「中心的存在の発生とそこへのポテンシャルの過度の集中だ」と指摘した。 しかし、単なる均質化も「ぬるさ」に通じる。

演習: ある種の分布の偏りが「ぬるさ」の本質である、という指摘と、分布の偏りをなくす「均質化」も「ぬるさ」である、という主張は、 外形的に不整合である。「色モデル」を使って、この問題はどう説明できるか。 「ぬるさ」を一次元量でなく「色相」と「色の濃さ」の二次元でモデル化せよ。

付録C: 日本の不戦敗

NECも脱中心のプラットフォーム開発に本腰を入れるようだ。 2005年は日本もP2Pで巻き返しを図る年になるのかもしれない。

上記NECのプレスリリースでも、一部のヘビーユーザが実験的にやってきたことが技術を切り開いてきたと指摘しているが、 しかし、
①Winny事件が終わる、
②判決の中で幇助の構成要件をあいまいさのない表現で示す、
の二つが満たされない限り、あまり実験的なこともできず、自己防衛・自粛ムードが続くだろう。 ITの世界で1年の足踏みはかなり大きい。 数年となると、世界市場ばかりか日本国内市場も事実上放棄することになる。

ユーザが勝手にやることで、何をやったら幇助と言われるのか。 メッセンジャーひとつあれば、どんなファイルでも(必要なら分割したりASCIIにエンコードして)どこへでも送れる。 そういう行為に使われていることを「認識しつつバージョンアップ」とか言われても、 そんなもの開発者がエンドユーザ以上に技術の可能性を多方面にわたって認識していることは当たり前。 絶対に変な使い方ができない道具を作れ、というほうが難しい。

そういう意味でも公開した人がコストを払うというWebの仕組みに問題があるというのは真理だ。 ソフトや情報を公開した人がリスクを負うのではなくて、使う人がそれぞれの使い方に対してリスクを負ってほしい。

事件の真相は謎だが、誰かがウィルスに感染して内部資料が漏れたという個人的な失敗を組織ぐるみでフォローするために、 日本の進歩にブレーキをかけたのだとしたら、偶発とはいえ国全体にとってアンラッキーだ。 脱中心・分散は現在のウェブのかかえる根本命題で、 今後、多品目の巨大ファイルを長期に渡って流通させる必要があるだろう。 この巨大な新市場、 音楽・映画配信の分野で日本は「手段」を開発できない。 まだテレビのないテレビというものを誰も知らない世界を考えてみる。 そこで日本は世界初のテレビ放送システムを作って、世界から尊敬・感謝されながら、経済的にもうるおう技術力があるのに、それができない。 「テレビ局が違法番組の放送に使う可能性があるから」という変な理由で。 土地も物理的資源も乏しいが技術力はある日本にとって、仮想空間の開拓で世界をリードできるなら、とてもいい話だ。

インターネットでは国境を越えて情報が流通するのが当たり前だ。 もし仮に日本語圏のみターゲットにしても、海外在住者が「金を払って買いたいのに買えない」としたら、 ビジネスの根本が間違っている。売るコストは同じなのに、買いたい人に買わせないのはおかしい。 つまりノードは世界に分散する。けれど、P2PクライアントやDRMを販売元ごとに何万種類も使い分けるのはあまりに不便だから、 少数の新技術が世界全体の標準になるはずだ。日本はこの巨大市場で大事な時期に不戦敗になろうとしている。

もっと高レベルの意志で、初心者にまでこんなものが普及するのは良くない、という判断で司法当局が動いたのなら、 まだ理解できる。放置すると、別の意味で、短期的に日本経済に悪影響を及ぼしかねないからだ。

何だか分からないベータがリークするととりあえず入手してみる、起動してみる、そういうある意味クレイジーなほど好奇心旺盛なヘビーユーザがいて、 やがて誰もが安心して歩ける広い道ができるのだろうが、実験的に始めたことがあまりに大衆化すると、その段階で、 また別の問題が出る。実験は実験、危険なもので、むやみに大勢参加すると意味も変わってしまう。

付録D: 外側に向かう力と、内側に向かう力

「無断コピー以外」を禁止する、ということは、究極的には「リンク禁止」「全文転載はかまわない」ということだ。 価値ある情報と思ったら、リンクしないでそちらでどこかにキャッシュしてくれ、ということ。 なぜその方がいいのかは既に述べた。 これは通常の常識と逆になる、という意味でもそれなりにおもしろいが(通常の常識ではリンクは自由にしていいが、 転載はいけないと教えられていた)、それよりもっと重要なのは「作者中心から情報中心への転回」という反転の構造だ。

それをベクトル的な言葉で言うと「一極集中・求心」から「分散・拡散」への転回でもある。 情報の発信とか芸術の創造が「エクスプレス」「外に絞り出す」ことであるという基本的な枠組みを見ても、 「分散・拡散」こそが自然な力の方向だ。ウェブで言えば、リンクよりコピー(キャッシュ)が正しい。

「一極集中・求心」は創造自体のベクトルではなく、創造に対する対価・報酬・お金・名誉などの流れのベクトルであり、 したがって、権益を保護する著作権システムと親和性が高い。著作権は独占権であり、独占は一極集中だ。 それはまた、作品が絶版になりやすい現実とも重なる。権利者、例えば出版社という脆弱特異点が発生するため、そこが出版をやめると、 たちまち品薄になり、数年後には入手困難になってしまう。独占は、純粋な意味での情報の生存に対しては、ネガティブに作用する。 ただし、独占は、もちろん経済的な原理によって正当化されるか、少なくとも、歴史的には正当な理由がある。

表現は本来外に向かうもので、外から作者に向かう逆方向の流れは、むしろ副次的なものと考えられる。 求心的な力は、最大でも外へ向かう力と「対等」の大きさであるべきで、脱中心系における匿名的発信の場合では作者に向かう力はゼロになりうる。 両方向の力の関係、という視点から、いろいろなシステムを見つめ直すこともおもしろいかもしれない。

「無断コピー以外」を禁止する、ということは、転載について許可を求めたり報告することさえ否定する態度だ。 そのような極端な態度が正しいのだろうか。

これは倫理的・論理的・法的などに正しい・正しくない、という問題ではなく、 抽象的なモデルにすぎない。

しかし、もし報告義務があったり、許可を得る義務があるなら、有用な発信を行う者のところには「報告」「問い合わせ」が殺到する。 特に後者の場合、情報を広めるのにいちいち「承諾」の返信が必要になる。 リンクの場合同様、有益な発信をすればするほど、発信それ自体と無関係な事務に追われたり、負荷がかかって、不利になる。 「無断コピー以外」を禁止するという態度を、抽象的に言い換えると、 純粋に外への表現に徹し、その表現について、自分に向かってくる本質的に無意味なベクトルをすべて止めようという姿勢だ。

繰り返すが、これは単なる抽象モデルにすぎず、今ある大企業がこのように変化すべきだといった非現実な主張をしているわけではない。 ただ、このモデルを使うことによって、いくつかの複雑に見えた問題が透明に見渡せ、 思考の節約とより深い洞察が可能になるものと信じる。

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「無断コピー以外」を禁止するライセンス: 実例研究

2005年 1月20日
記事ID d50120

Celtic_Druid のサイトを便利に利用していたユーザは多いはずだ。 Media Player Classic (MPC) と ffdshow の他にも、実に多くのバイナリーを公開してきた。 先日紹介した Dirac も、Celtic_Druid がビルドしたエンコーダを使って作成したものだ。 もちろんオープンソースなのだから理論上は各自がビルドしてもいいのだが、 同じバイナリの方がバグだしなどの情報交換に都合がいいし、 そもそも全員がコンパイラを持っているわけでもないのだから、 Celtic_Druid や Koepi のようなかたの存在の大きさについては多言を要さないだろう。

今、Celtic_Druid のページでは、帯域の関係で、公開を制限しなければならなくなった。 ちょうど「「無断コピー以外」を禁止するライセンス」で触れた問題だ。 便利で有用なサイトであればあるほど、かえって公開中止になりやすい。

現在、配布元ページで公開が停止されても、依然これらのファイルが入手できるのは、 「「無断コピー以外」を禁止するライセンス」の理屈どおり、 リンクするのでなく実体をコピーしておいたからに他ならない。 別にそこまで予想してミラーを立てたわけではないだろうが、 結果的には上記記事のように今は「リンクはしない。実体のコピーだけを行う」状態になっている。

付録Dの「リンク禁止。無断コピーのみ許可」についての説明をみて「それはいくら何でも非現実な極論だ」と思ったかたは、 今のこの現実を直視してほしい。 Celtic_Druid 自身がそれを希望している。リンクされると帯域と負荷の点で迷惑なのだ。 再配布は構わないが、リンクはしないでほしいと。もちろん無断コピー以外あり得ない。 ビルドのたびにメール等でいちいち許可を求めて返信を強要するのは誰のトクにならないし、 GPLソフトなのだからそもそも本人にも「許可を与えたり不許可にしたりする権利」がない。

「無断コピー」というといかにも響きが悪いが、 「無断」というのは情報を広めるのに人間を介在させない、という意味であり、逆説的だが、情報自身を尊重する態度だ。 もちろん、この点をめぐって熾烈なイデオロギーの対立があり、微妙な多くの論点があることは事実だが、 少なくともいくつかケースでは「無断コピーのみが正しい」ということが現実的、倫理的にあり得る。 これはそういう事例なのだ。 この例ではGPLなので、ライセンス的、法的にもそれで正しい。

ミラーがあって良かった、ではなく、ミラーのリスクが高まった、という点にも注意してほしい。 もっと多くのミラー、ミラーのミラーがないと…。 ちなみに、ミラーのミラーの…と必要性に比例して自動的にキャッシュするしくみこそ、現在の脱中心型P2Pアーキテクチャの一つの目標であり、 まさに今のインターネットが最も切実に必要としている技術でもあるだろう。

オープンソースなのだから、ミラーが潰れようが何だろうが、最終的な入手可能性は同じだと思うかもしれないが、 それは「転送量オーバーでアカウントを削除されて金を損するばか者」に一方的にリスクを集中させる考え方だ。 コンパイラを持っていてボランティアでビルドしてくれる人、 良いものを広めたいという善意で技術を紹介したりミラーしたりする場所、そういうプラス方向のノードに、 リーチャのためのリスクを集中させる構造は、どう考えてもおかしい。 不労所得を得ているリーチャが潤い、その潤いの源泉が正直者に転嫁されるのでは本末転倒だし、 しまいには正直者がいなくなってリーチャ自身も自滅する。

ついでに言えば、「デジタルコピーは劣化に強く、一度ネットに出れば」などというのは超短期的なたわごとにすぎない。 HDは10年もたないだろう。市販のCDも国会図書館などでは20~30年を寿命の目安としている。定期的・システム的に実体を物理的メディアレベルでコピーしない限り、 われわれのデジタル文化は容易に失われてしまう。コピーをブロックするCCCDのような技術は、もしそれが本当に完璧に機能するなら、 わずか四半世紀で完了する文化的自殺を意味する。この建物は10年後に倒壊する、と分かっているのに、中のものを閉じこめて外に出さないようなものだからだ。

「iPod でしか再生できない」といったDRM保護もまた、 何らかの理由で iPod が存在しなくなった場合に、一瞬にしてすべてガラクタの山になってしまう危ういものだ。 本当の意味で文化を守るとはどういうことなのか。 デジタル時代は単なるアナログ時代の延長ではないいくつもの機微を秘めている。

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