あなたは猫の正しい数(かぞ)え方を知っている? 日本語の助数詞では猫は「いっぴき」「にひき」と「ひき」で数え、象は「一頭」「二頭」と「頭」で数えるが、どこで数えたってかまやしない。しっぽで数えてみたらどうかしら。猫がこっちに3しっぽ、あっちに2しっぽ、あわせて5しっぽ――猫はしっぽで数えるのが正しいのかもしれないよ。実際、おさかなは「一尾、二尾」とも数えるのだから……。
あなたは猫の正しい数え方を知っている?
本当は全部うそ。本当のホントはね……(これは内緒だよ)……猫は数えられない。数えてはいけない。シャーリプトラよ、世界の猫は、「わたし」であり、ル・シャ(the cat)なのだ。猫とは、いきなり黒い山高のウィッチハットのような定冠詞をかぶって登場する魔法使い。
Kids, be hip cats!
Windows は「よろしいですか」と尋ねる。あなたは答える。Windows は男性だろうか、女性だろうか。リンゴの絵を思い浮かべなければ足し算も引き算もできないおさな子のように。
――ちいさいころ、絵本を読んでもらうより、ひとりで読むほうがおもしろかったのは、読んでもらうと、おとこのひとの声やおんなのひとの声が聞こえたけれど、ひとりで読むとほかの声が聞こえたからだ。いや、聞こえなかった。「人間の声は聞こえなかった」――それがわたしの最初にして最大のひみつなのだ。
話し手、書き手といった「人間」をまず思い浮かべなければ話を進められない者もいるかもしれない。かつて赤いリンゴやみどりのリンゴ、きんいろの星やふじ色の石ころからそれらの上方にある透明な「数」を抽出したように、やがてあれこれの人間を考えなくてもストリームだけを考えられるようになるだろう。
それまでのあいだ、法学のサイトに「著者」の趣味がマリンスポーツで愛読書が中山星香で本名がヌースカムイックネンでノルウェー在住だとかいった、りんごのへたの話がつきまとう。ましてや、伸び縮みするゴムのような、軟体動物の顔写真が……。この理論は明快で素晴らしい、と語るかわりに、この理論を考えた「だれだれ」は偉大だ、と語る。それをみて、見えないものを見ているのは、どっちかとふとふしぎな気分になるかもしれない。
「25という数は存在しない」だの、「マイナス6という数などない」といった言葉は、詩にすぎない。たとえあなたが、万、億、兆……より大きい数を呼べないからといって、そういう数が存在しないわけでは、ないのだ。ゼロさえも――。
妖精の現実とは、1+1が2だという話にすぎず、そのイントリンシックに入ってしまえば、現実とか非現実とかいうレベルの話でない。3つの星と3個のリンゴと3羽のひよどりが同じだという意味に気づくまでは、星とリンゴとひよどりの共通項など決して分からないだろうし(それは見る角度が違うからだ)、意味が分かってしまえば3は3に決まっていて見るべきものなど何もない。というより、3という概念は、初めから見えないものなのだ。
おとなも子どもも男も女も機械も人間も妖精もおまんじゅうもない。いや、アジタよ、あるのだが、見る角度が違う。見る、見ない、見える、見えないと思って穴のあくほどリンゴを見つめてみても、決して「3」には到達できないからだ。シャーリプトラよ。妖精の国に憧れるそのそなたの憧れこそが、そなたを妖精の国からへだてている。おむそわか、むすんで、ひらいて、そっとひらいた手のうえに、「何もない」。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
-- コリント前書
「異端」への迫害者もまた、認識の枠組みにとらわれた哀れな囚人(めしゅうど)だ。
前世紀の性的マイノリティのかたがたへの「迫害」を思い出してみよう。なぜ敵視したのかといえば、それは当時の人々を不穏にさせたからで、なぜ不穏にさせたのかといえば、それが当時の人々の基本的な世界観――つまり自己認識の前提――を揺るがす存在だったからだ。当時の人々は、ジェンダー文法と呼ばれる不自然なオペラント条件付けを押しつけられていた。女は股をひらいて椅子に座ってはいけない(男ならいい)だの、男はスカートをはいてはいけない(女ならいい)だの、合理的根拠に乏しい変てこな規則がごまんとあって、人々の行動を「べし/べからず」の形で制限していた。このような不合理な規則には利点もあった。当然と信じて従っておけば、とりあえず自分で考えなくてもすむので、自分と向きあわずに済む。むろん、その代償として、ある程度、個人的な趣味(個性)は犠牲になったかもしれない――例えば、何世代か前だと、料理に興味がある男のひとは、「男が料理などするべきでない」という規則があったりして、だれに迷惑をかけるわけでもないのに、やりたい趣味を楽しめなかったかもしれない。
もちろん、現代では、「男は料理などしてはいけない」だの「女は山登りなどすべきでない」だの「同性愛者のかたは間違っている」などと言い張れば、かえってそっちのほうが珍しい主義思想の持ち主だなぁと見られるだろう。これは我々がジェンダー文法から解放されたからだ。逆にいえば、初期から解放されていたのは当時のマイノリティのかたがたで、ジェンダー文法の潜在的圧迫に苦しんでいたのは、ほかならぬ「少数派を迫害した多数派」の側だった。
本質的には、迫害する多数派こそが、認識の枠組みに圧迫されていたグルーミー(ゆううつ)な被抑圧者であって、迫害されていた「異端者」のほうがむしろ自由でゲイ(陽気)な、自分の人生を生きる人々であった;これは通常の直観とも一致する。ただ、「全体主義」の時代においては、自分の人生を生きることは、半面、困難でもあり、自分をころして多数派に合わせておくほうがラクな面も多かったであろうから、どっちがトクかは簡単には割りきれない。一般に、しっかりした自分の考えを持っているか、または逆に、あまりにも自分という意識が稀薄であれば多様性に対し無頓着でいられるが、現在の社会の段階における中くらいの、平均的なアイデンティティのあり方だと、ある程度まで自分の外部にある規則に執着しないと不安なのだろう。
もっと素朴に、生物のレベルで考えても、異常な個体というのは、集団にとって「危険」だ。あまりに弱い個体は集団にとって重荷になりかねない。逆に、あまりに鮮烈な変異種も、集団にとって、いろいろな意味で脅威だろう。往々、二重の文脈が両立する。
「疑問の余地のない当然のこと=天下り的に神から与えられたもの(take it for granted)」という認識は、パブリックレイヤにおいては共通認識であるというたてまえだが、プライベートレイヤ(ひとりひとりの内心)においては、多かれ少なかれ疑問を感じる点もあっただろうし、また、そのような疑問にもとづくフィードバックによって、仮想的な共通認識は、より適切な、環境の変化に対応したものへと、つねに修正されてゆく。なんであれ、これは絶対不動の規則だと固定的にとらえようとすれば、ほとんど常に変てこな結果となるし、その執着(どの程度、昔にまでさかのぼって固定的にとらえるか)の程度があまりに大きいと、変てこを通り越えてナンセンスですらある。「最近の日本語の乱れはひどい。奈良時代の言葉を守りましょう。日本人なら中国文字(漢字)など使うべきでない」なんて言い張る人がもしいたら……。そして、奈良時代の上代語だって、先土器時代の日本語から見れば乱れまくっているに決まっている。
いずれにせよ、天下り的な「疑問の余地のない当然なこと」(と個人が信仰している規則)は、充分に強くない個人にとって、自己の実存の一部(自分が持っている内部固有のコードでなく、必要に応じてダイナミックリンクされる外部のコード)なので、このような「神聖な」コードに対する違反は実存的な不安につながる。上にあげた前世紀の例でいえば、「自分はおしゃれなかわいい服なんて興味ない。衣服は実用性がいちばん。でもそれは自分自身の考え方であって、人の趣味をとやかく言うつもりはない」なんて割り切れている人なら、男装の麗人を見ようがお化粧している若い男性を見ようが「いろんな人がいるものですな」で済むが、自分も実は興味あるけれど抑えている割りきれない願望などがあると、女装者のかたをみて敵意にかられたりもしたであろう。
「当然」と信じる根拠が、絶対無謬(むびゅう)の超越的なもの、いわゆる神さまであると信じられている場合――つまり二重に信じている場合(規則を信じて、かつ規則の根拠を信じている場合)――、生じうる対立は、いっそう複雑だ。全体主義的な教団宗教と、教団側からみた宗教的「異端」の摩擦として、この構図は、長く繰り返されてきた。多数派の側でも、比較的に寛容な見方をする者は「異端者」のことを、もう少し穏やかに「神秘主義者」と呼ぶが、その「神秘主義者」の側は往々、挑発的な自称を用いる。魔法使いを意味する通性形「ウィッカ」――ウィッチ(女性形)、ウィザード(男性形)に対応する――は、そのような自称の代表例のひとつだろう。
そもそもウイッカとはウィクティム(Victim=神に捧げる神聖ないけにえ)のことで、これを火あぶりにして「神にささげる」のが多数派の側の「正しさ」であったという歴史的経緯をふまえ、現代の魔法使いは、ある種の批判と公憤をこめて、ウィッカと自称するのだろう。妖精圏でも本質は同じだ――ご承知のように、妖精信仰はキリスト教より前のもので、キリスト教によってエルフは矮小化(わいしょうか)されたのだから。(もっとも、フェアリーの概念はキリスト教とある程度、両立しているので、「ウィッカ」ほどには挑発的でない。)
あなたがたがマイノリティのかたがたをいじめたり、あなたがたの標準と異なるものを排斥したりするのも、中世の魔女の火刑と似て、一方においては《狂信的教団》である「みんな」の結束を高めるのに役立っているが、他方においては「ほかに誇れるものも持たず、おまけに精神的にもろい存在」である人々が、みずからのコンプレックスや弱さをごまかすために、「自分より劣る自分より哀れな存在」を仮想してみるのだろう――なんにせよ、異端者は個性的で、良いか悪いかはともかく、鮮烈な意思を持っている。あるいは持たざるを得ない。多くの人々が、そうしようと思えば手に入れられるのに、手に入れる勇気を持てないでいる輝きだ。
2001年2月20日の朝、ミシガン州に住む12歳の少女テンペスト・スミスさんは、砂糖味のコーンフレークをひとさら食べ、テレビを見て、二段ベッドから首をつって自殺した。ウィッカの世界に興味を持っていたという理由で、学校でいじめにあっていたのが原因だったという。長い中世だ。
Tempest Smith さん――自殺を図る三日前、祖母の家で
[Image quoted from Tempest's Page, © Goddess Moon Circles]
The Detroit News は、Teasing and taunting led girl to end her life として、彼女の日記などを紹介している。
「この世でわたしは本当に孤独だ。本当にひとりぼっちだ。なぜ誰も分かってくれないのだろう。今すぐ誰か助けてほしい……」内容的には赤裸々(せきらら)な日記帳の走り書きだが、行頭をたどるとHELPというアクロスティックで、例えば alone と gone も脚韻を踏んでいる。悲鳴をあげるときですら魔法を使うほどの強い感覚がなければ、ここまで追い込まれなかったかもしれない。
[Image: Tempest's journal, quoted from Teasing and taunting led girl to end her life, © John T. Greilick / The Detroit News]
葬儀に際して彼女をいじめた側の生徒たち――「みんな」と名乗る人物――が書き記した「おわびの手紙」は、むしろ皮肉にさえ思われるが、本質的には、逆の意味でいたましくもある。
「こんな事になってしまってごめんなさい。何もかも、あってはならない事でした。分かってあげられさえしたら、あなたは死なずに済んだのに……。ごめんなさい。みんなより」
[Image: message from "Everyone", quoted from Teasing and taunting led girl to end her life, © John T. Greilick / The Detroit News]
「権威ある教会」が「神秘主義者」を異端として迫害する傾向については、明快な構造を指摘できる。「神秘主義」というと、なにやら水晶玉でもとりだしてミステリアスな儀式をしたり妙な呪文をとなえたりというイメージがあるかもしれないが、教団宗教がおそれる「神秘主義者」とは、例えば聖カタリナのような「個人主義者」のことで、その意味は、教会という組織を通さずに直接、神とコンタクトをとろうとする(自分の魂を通じて神をみいだそうとする。イスラムならスーフィズム)、ひらたくいえば「自分の直感に照らして自分で判断する」ということ。これを認めると、教団の存在意義がなくなってしまうので、あらゆる教団宗教で「神秘主義者」または、その傾向のある流派は異端(間違い)とされ、否定される傾向がある――。これは《教団社会》と個人主義的な知性のあいだの関係ともパラレルだ。
ウィッカの「神秘主義」というのも、いろいろあって一概には言えないけれど、基本は「自然崇拝」――ひらたくいえば早起きをして朝のすがすがしさや小鳥のさえずりを楽しむといった無邪気で素朴なスタンスのようだ。多少なりとも自分で判断できる者なら、高度に儀礼化された宗教体系(洗礼にせよ割礼にせよ)について相対的な見方をするのは当然だし、疑問を感じる者も多いだろう。柏手(かしわで)を何度うつのが正しいかといったたぐいの話だ。――実際に教祖自身が伝えたことばは、(とくに仏教は、そうだが、ほかの宗教でも)後世の教団宗教に比べて「小乗的」で素朴で単純であるように思われる。
鋭敏な感受性をもったティーンだからこそ疑問を感じることのできる「常識」。その「批判精神」は自己の真実の追求という意味で正当だが、それを押し殺そうとするあなたがたも、あなたがたの保身という意味で正当だ。ひとり旅は怖いと思っている人々に、無理にひとり旅をすすめるのは驕慢(きょうまん)というものだろう。学歴社会のせいで外国語を教科としてしか見れずコンプレックスを感じている相手に、「これを読めばすぐ分かりますよ」などと外国語のドキュメントを送りつけるのは失礼ですらある。
このサイトそのものがそうだが。
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1992年5月22日に書きとめたものです。その日、図書館に行って絵本を選んでいたら、小学2年生くらいの子どもが、たまたまいあわせた4歳くらいの子どもたちに、紙しばいを読んであげる場面に、出くわしました。小2くらいの子は、「じゃあ、ここ、幼稚園にする?」と言い、ほかの子は「うん」と言いました。ですから、図書館の、そのテーブルは幼稚園になったのです。紙しばいのあと、ひとりの子が「いいこと考えちゃった、お姫さまごっこしない? わたし、お姫さまになりたい」と言いました。ほかの子は「いいよ」と言いました。ですから、その子はお姫さまになったのです。――このメモはエコラリアに満ちています。――
弱々しい声で《翼をください》と歌っている諸君! 諸君に問う、「君には翼がないのか」。
天国を語る者よ! 諸君は地をはずかしめる。本当に心を開いて、1本の花を眺めたことがないのか? 1本の花からすべてが学べる;観よ、真実はかくも単純で、かくも美しく、かくも深い。そして諸君よ! 諸君もまた神の創らせたまいし作品ではないか。いずくんぞ心に翼なからんや。
公園で走り回っている子どもたちを観察すると、次の2つのことに気がつく:(イ)子どもたちの足が地面に触れている時間はいかに短いか! 子どもたちはより多くの時間を空中で過ごしているのだ;(ロ)君には子どもたちが見えているのに、子どもたちには君が見えていない――つまり、子どもたちは別の世界を観ている!
そしてまた、ひとひらの雪の中に驚異の宇宙があるということ。君は虫めがねの中に初めて雪の結晶を見た人の気持ちを想像してみたことがあるか?
この世は不思議なしるしでいっぱいだ! 感じよ、本当によく感じよ、考えるのでなしに;目に見えるものしか信じないのでは、何も識り得ない。盲人にとって世界は存在していないとは何の理ぞや。
「君のしっぱに黄金(きん)のリボンあれ!
君の心にかく輝ける翼あれ!」
「ノ・ニーン、
さればさあ、さっそく歌い始めよう、
白い魔法を知らしめよう!」
こう言うと、言霊(ことだま)使いは、心をこめし言葉を凝(こ)らし、
翼ある、言葉を告げて、続けるよう、
「花びらの上に寝そべること、
銀河をそっと手にすくうこと、
猫語を話すこと、
小鳥の心話(こえ)を聞くこと、
ホットミルクの膜の上でお昼寝すること、
ミルククラウンを頭の上にかぶること、ニーン‥
しっぽをピンと立てること、
しっぽをぐるりと回すこと、
しっぽで疑問符(はてな)を作ること、
難しい考えごとをしながら、ついしっぽに結び目をこしらえてしまい、ほどくのに苦労すること、ニーン‥
水に映った三日月を、パキンと割って食べること、
(みいい味!)
星をカリカリかじること、
(ふみい味!)
彗星のしっぽの中をシャリシャリ歩くこと、ニーン‥
たんぽぽの綿毛につかまって空を飛ぶこと、
空の虹を細長く裂いて、いろいろな色のきれいなリボンを作ること、
それらをみつ編みにして、あやとりのひもにすること、
月の光を蒸留して、黄金(きん)の蜜酒(みつしゅ)を密造すること、
オーロラを空からはがしてきて、
ボートネックのフェアリードレスを縫うこと、
ホーキ星をつかまえて虫カゴで飼うこと、
(逃げられないように注意! ノ・ニーン!)
1秒の単位を伸び縮みさせること、
友達と180億年後の待ち合わせの約束をすること、
みんなが寝てる間(ま)に星をならびかえて、勝手な星座を作ること、
土星のわっかをかっぱらい、
冷蔵庫にしまっておくこと、ニーン‥
限りなく澄んだものを思い浮かべること、
うすべに色のパステルで、
青いガラスびんを写実的に描(えが)くこと、
《愛する》が、ついに自動詞であったと気づくこと、
(《眠る》のように‥!)
《愛しています》と告白すること、
《かぐわしき大地》(テ・ナヴェ・ナヴェ・フェヌア)と囁くこと、
《すばらしき緑の土地》(イハナ・ヴィヒレア・マー)と呟くこと、
《おれはトナカイだ!》(モン・リヤン・プワッソ)と叫ぶこと、
見えない物を観、聞こえない音を聴き、香らない香りを嗅ぐこと、ニーン、ティエテンキン‥
雪の中で立ち止まること、沈黙(しじま)のさまざまな音色(ねいろ)を味わうこと、
夕暮れの不思議な匂いを聞くこと、
心の目を凝らし、金色の西風を見ること、
風の中のシルフィードに呼びかけること、
心の耳を澄まし、森が夢みているのを聴くこと、
フェアリーリングの中で、世界一上手にダンスを踊ること、銀色の星の輪を腕にはめ、ニーン‥
春の野ずえのような灰緑色の瞳を持つこと、
日の光を浴びて、背中の羽を虹色にきらめかすこと、
夕星(ゆうづつ)の光を編みあげたような、淡い色に輝く髪を、
夢のように風になびかせていること、
見るために目をつぶり、聞くために耳をふさぐこと、
夜空を彩る15色の夜の虹、
そして、極地の空に舞う257色の極光(オーロラ)、
銀河のしぶきに耀(かがよ)う6万6049色の宇宙虹(オーリオラ)、ニーン‥!
花の中で眠ること、
(ばら色のそよ風‥)
つりがね草の花の音を聞くこと、
(フィ・リン‥)
世界はおまえのおもちゃだったと思い出すこと、
夢みること、常に、夢みること、
(悲しみは幸せの食前酒、
試練(くるしみ)は姿を変えた祝福だと知ること、)
自分自身を楽しむこと、
この嘘っこ歌を上回る嘘っこ歌を、歌い歌って歌い継(つ)ぎ、
この謡(うた)の続きを続けること、すなわち‥
0歳から999歳までの子どもたち!
しっぽにリボン、心に翼、
嘘っこ歌をいつまでも!」
と
言霊(ことだま)使いは自ら言葉を綴(つづ)って、
言の葉の杖(つえ)を自ら使って、
こう物語りました、
‥とさ。