3 : 24 資本主義、社会主義、ネット

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メモ: Mozilla 0.9.5/ほか

2001年10月16日
記事ID d11016

2001.10.16

新しいブラウザー間通信テクノロジーの萌芽~オランダのQ42社が開発:CSからP2Pへの過渡現象的。

2001.10.15

ジマーマン氏は、自身のウェブサイトの中で、NAI社を離れた理由の一端を紹介している。PGPのアップデート・バージョンをリリースする際に、NAI社がソースコードの一部を公開しないと決定したことを不満に思ったという。ジマーマン氏はさらに、NAI社がPGPセキュリティー部門を売ろうと決めたタイミングについても非難している。このままでは、ソフトウェアに必要なアップグレードや、より新しいオペレーティング・システム(OS)に対応するための設定変更などが施されない可能性があり、気がかりだというのだ。 from 求む、暗号ソフト部門『PGP』の買い手

2001.10.13 - Mozilla 0.9.5

新世代ブラウザ「Mozilla」の新しい「正式ベータ版」ver.0.9.5 がリリースされています。

サムネイル

原寸大の画像(79KB)

画像=Mozillaのタイトルバーではハングルが化ける

Mozilla 0.9.5: タブにはハングルが表示されるがタイトルバーのほうが依然ダメ

画像=IEはハングルなどのさまざまな文字をタイトルバーにふつうに表示可能

IE6: ハングルを完全にサポート。タイトルバーに注目。多言語対応では常に Mozilla に水をあけている。韓国語に限らず他の文字もほぼ同様。

参考――10月11日のビルドがすでに「0.9.5+」と表示されてました。

PNG=バージョン情報の画面

いつのまに 0.9.5?

ネットで見かけた珍プレイ好プレイ - どこかで見たようなレイアウト

サムネイル画像

原寸大の画像(22KB)

ある大学のIT系の先生。「情報倫理」を説いていわく、「ネット上のデータをみだりにコピー利用するのは違法」。――ところが、その先生のサイトをみると、妖精現実のCSSをそのままコピーしまくっている(微笑)

『情報処理D』インターネット犯罪と情報倫理」は、大東文化大学という学校の2001年度『情報処理CD』という科目の講義らしい。「情報倫理 インターネット上のデータ(文面、画像、音楽)はコピーが容易であるので、つい気軽にコピーしがちであるが、データの著作権に注意しよう。」と書いてある。

このかたのホームページや、そこからつながる若干のページは、どれもこれも「妖精現実 フェアリアル」の CSS をそのまま読み込んでいる。妖精現実のサイトの読者ならおなじみのデザイン。

ご承知のように妖精現実のコンテンツはパブリックドメインにあって著作権を放棄しているので盗用しても問題ないし、そもそもデザインには著作権が成り立たないという説もあるが、いずれにせよ、パブリックドメインのものを私物化して「Copyright c 2001 All rights reserved.」などと宣言するのは、おすすめできない。妖精現実のものは原則、何でも勝手に使っていいが、その部分については、使った結果についても同じように著作権を主張しないで誰でも自由に使えるようにしてほしいと思う。

<meta name="robots" content="noindex, nofollow">
なんて隠蔽工作をしているところが、ちょっとかわいい気もするが‥‥。(注:これはクレームじゃありません。そのままご使用になってけっこうです。なおh2の字が斜めになっているのがお見苦しいかもしれませんが、class="L" と書いてくださると、h2の字が斜体でなくなります)

*

やつあたりだけどね、アメリカがアフガン侵攻なんてするから、このサイトと本来ぜんぜん関係ない読者が大量に来て、うんざり。世界の国々のディレクトリなら、むしろ「ブルキナ・ファソ」が気に入っている。アフガニスタンも、ふつうの人はまず興味を持たないという前提で、あそびごころでとりあげたのに。

*

2001.10.12 冷蔵庫の中身をテレビに“コピペ”――家電インターフェースの未来はこうなる?

設定(O)

Minotauromachia

ピカソ『ミノタウロマキア』より。単に野獣と子どものあいだの緊張という以上の機微。以前書いた説明みたいなの拡大した全体を見る

JPG

さんざし

Satyros 今夜も来るのね 鍵かけてたこの部屋まで Blue bell 摘んでた なんにも知らないで でももうすぐあなたに触れてしまうかも

Satyros 下手な隠れんぼ ちいさな角が見える 息をしてると見つかる その目がすべての邪悪

二度と帰れない 深い森 妖精のすみ家に

新居昭乃: 妖精の死より。イラスト by リーデさん

2001.10.11

Winamp 3.0 beta 1 "love" - 「ベータ版だよ。好きなだけ遊んでね。でも、こいつのせいで、きみのマシンが鉄クズになったり恋人が奪われても、文句を言わないでね」(インストーラより)

png 14kb

「すべての子どもは、思春期前に、性別選択の自由と選択しない権利について、充分な説明を受けるべきである」 from 性教育と靴泥棒 - 西暦2001年というのは、こんな当たり前のことを大まじめに(?)主張しなければならない時代だったんですね~

2001.10.06

魔法 - 錬金術: 「新しいおもしろさ」は、必ず「以前には、つまらないと思っていた」部分から生じる。以前からおもしろいものは、新しいおもしろさでは、ない。――みんなが「おもしろい」というものをいっしょになっておもしろがるのはサルでもできる。人が「つまらない」とけなすものを、いっしょになってけなすだけなら、サルにもできる。それも悪くは、ない。だが、真の魔法使いは、つまらないものに目を向け、魔法の杖のひとふりで、それをおもしろいものに変身させる。ひだの奥を見つめよ。

apogean:遠い恋人を想うように、月は、遠地点においてこそ、最も地球を見つめている。

肉体が利己的なゲノムたちの乗り合いバスにすぎないように、精神はゴーストであるミームを宿らせる「人形」なのかもしれない。だが、ゲノムは肉体によって初めて表現型を持ち、ミームは君の選んだ表現手段によって初めて現実に「見える」形となる。君がいてこそゲノムは「実存」し、君がいてこそミームは「生きる」。君がすべての鍵になっている。「人間は、妖精の世界と現実の世界を結びつける最初で最後の鍵である」

「脱出速度」:旅の終わりにホストファミリーの全員にていねいにあいさつし、みやげを買いあさるように、消えようとしている精神は、やたらと花粉をまき散らす。加速しすぎた惑星は、恒星系から飛び出すしかない。消える、そのとき、生まれる。

物語を読み終えて本を閉じる。と、君の「現実」が始まる。

from articles §2-05

2001.10.05

ひとびとは柵を作った。柵の内側のものをちょっとずつ出すことと引き替えに、なにがしかを得た。必需品は行き渡った。絶対必要というほどでもないものを柵で囲った、なかなか人気は出ない、柵の内側をおもしろいと錯覚させること自体にかえってコストがかかる。柵だらけでうっとうしい。――そこで、柵のなかに徐々に柵を壊す道具を置いた。これこそ多大なニーズ。もうかる売れ筋商品。――で?

W3Cの「特許規格」に抗議の嵐: 今まであまりおもてに出なかったおかねの話が表面化して、ようやくというか、一気に抗議がふきだしたらしい。W3C takes no position on the public policy questions surrounding software patents The draft policy does attempt to answer this question: In a world where patents exist and may be used to constrain conformance to standards, how should W3C best proceed in order to accomplish its mission? from Response to Public Comments on the W3C Patent Policy Framework Working Draft: 要するに世の中におかねや個人があった時代のしっぽを引きずっている。ソフトウェアや技術自体がオープンでフリーな、パブリックの共有物になってしまえば、そのどれを標準にし、どういう仕様を標準にすべきかの話しあいは純粋に知的なものとなり、必然的に営利企業が出席する余地は無くなる。問題は、yes or no ではなく when と until だ。現状においては、技術開発におかねを使う会社がぎゅうじる暫定標準も、好ましくないかもしれないけれど、まだおかねの世界で動いている以上、ひとつのリアリティとして――あるいは掉尾(とうび)のあがきとして――理解しなければならない。

りんりんりんく

> はなまほう れっすん2

おわび

2001.09.27 「今朝まで」とお知らせしていた、きのう26日22時すぎからのメンテですが、作業終了が大幅に遅れ、13:51頃、サービス再開となりました。たいへん申し訳ありません。メンテ中にトラブルが発生しました。現在、暫定的な仮運用となっています。

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資本主義、社会主義、インターネット

2001年10月 6日
記事ID d11006

東西冷戦(とうざい・れいせん)というコトバを聞いたことあるでしょ?

日本なんかの金持ちの国は「西側」だった。これは栄えてる側の論理――「金持ちな国は、ある意味ずるがしこく、貧しい国の安い人件費を利用して汚い仕事や下請けをやらせ、ますます栄える」、くだいていうと「おれらだって苦労してリッチな生活を手に入れたんだ。おまえら貧乏人もリッチになりたかったら、びしばし働け。世の中、競争なんだよ」と。これは、理解できると思う。

「東側」ってのは貧しい側からみた夢とでもいうか、「地球上にこうも貧富の差があるのは、よろしくない。ひとにぎりの金持ちの横暴がまかり通り、おれらは働けど働けど、みんな吸い取られちまう。地球全体がひとつの国みたくなって、地球全体での総生産の果実を全地球人で平等に配分したほうが良い」――これも理想論としては理解できると思うが、現実的に考えると、もし東側の言い分を通せば、我々金持ち先進国は、ある時期をさかいに、せっかくこれまで稼ぎまくったアイテムを全部のプレーヤーに平等に分けてやらなければならなくなるので物質的に「損をする」、貧しくなる。

まぁ競争がなくなるので精神的にはラクになる部分もあるかもしれないが、貧富の差がなくなるということは、金持ちのためこんだものが貧乏人どもに広く平等に配布されてしまうことだから、金持ちからみると、損をする話だ。ほかにも、競争がないと、人間は怠けるという問題がある。いずれにせよ、金持ちな西側が上のようなことをもくろむ東側貧乏国どもを、ぶっつぶそうとしたのは当然と言えよう。

貴族の論理

ただし、「東側」の理想論というのは、決して貧乏人が自分につごうよく考えたことではなく、古代ギリシャの貴族やら、西側ドイツの偉い思想家とかが思い描いた理想の未来図だったりする。

――たぶん貧富の差やあまりひどい競争がないような、ほのぼのとした世界というのは、貧しい側が金よこせと言って金持ちからうばうことでは実現困難で(それじゃ問題が逆転するだけ)、物質的に豊かな側が、衣食住に充分に余裕ができ、その次に精神的なものの価値を理解するようになって、そして自発的に動かないと、たぶんダメだろう。――また、実際、方向としては、そういうふうに動く大きな流れもあって、「修正」資本主義というふうに言われている。構図としては、強者が弱者に手をさしのべるわけだが、必ずしも優しい精神とは限らず、計算ずくのことも多い。

自由競争原理をあまりにナマで実践すると、あるところから貧富の差がでかくなりすぎて、競争にならなくなってしまう。チェスや将棋でいうと、強いプレーヤーは、相手のコマをどんどん取る。そしてますます強くなる。で、例えば、飛車角金銀ぜんぶあなたがゲットして、相手が裸の王さまに歩(ポーン)とかだけになったらね、あなたが「正々堂々と正面から勝負しましょう」なんて言ったって、それは勝負にならない。

将棋だったら、相手の王を詰めて(殺して)勝負終了すればいいけど、現実世界では、事実上のどれいである国をホントに滅ぼすわけには行かない。優しい気持ちからじゃなく、どれいを皆殺しにしたら、こっちが困るからだ。安い人件費で下請けやらせるどれいがいなくなったら、我々は自分で食事のしたくや後かたづけをしなきゃいけなくなって、優雅に生きられないから。

であるから、貴族のホンネとしては、平民どもは飼い殺し、生殺しにしたいところだが、あんまり追いつめると、暴動を起こしかねないから、ほどほどに優しくしておくことが肝心だ。つまり、貧富の差があまり極端にならないように、お菓子は全部こっちがいただくけど、パンに困ってるヤツにパンは恵んでやる。でないと、平民どもも食ってけなくなり、生命がかかってるから、命がけの死にものぐるいで特攻してきて、こっちがやばい。

将棋で言えば、相手を生殺しにしてるうちに、いつのまにか「と金」の非正規軍がひそかに組織され、居飛車アナグマでぬくぬくなごんでいると、知らないうちにことのほか事態が切迫してたりする。「と金」をなめちゃいかん。「ポーンをそんなふうに使うのは卑怯だぞ、文句があるなら正々堂々とルークやビショップで正面から来なさい。そうすれば話し合う。お前らは汚い」などと抜かしても、むこうはルークもビショップも持ってないんだから、非正規戦で来るしかないに決まってる。

深慮遠謀

そうならないように、もし貧富の差を肯定するなら、較差をほどほどに。貧しい国に半分わけてやれとは言わないが、最低限の衣食住だけは確実に保証して、むこうがかえってこっちに感謝するように持っていくのが賢い。開発援助なんかがそうだ。だが、あまり援助して、むこうも軌道に乗ると手ごわい。この手加減が難しい。かつては貧しい弱小国だったが、最近、強敵になりつつある地域がアジアにもいくつかある。

油田や天然資源の死活問題がかかっているからといって、あまりに強者のおごりでひどいことをやると、自分で自分の首をしめることになる。――例えば、自分が支配したい地域の国の、国民全体を極悪非道ときめつけ、金持ち国で一致団結して叩き自分たちにつごうよく改造しよう、などと考えると、そのときは勝てても、あとあととんでもない禍根(かこん: わざわいのタネ)を自分で作ることになる。

東西冷戦では、ちょっとそれをやってしまった。東側、社会主義とか共産主義とかいうのは、とにかくものすごく悪いものなのだ、と宣伝し、自国民を洗脳するために「これこれの国では、こんな悪いことがある」という個別の事例を並べてみた。実際、批判された国とて理想の国ではなく、むしろ政治には汚い部分が多いので、個別の事例についての批判は、おおむね当たっていただろう。が、個々の政治家の人間的なあれこれというのは、じつは「全地球でほのぼのと行きたい」という理想論自体を攻撃する材料には、なり得ないし、よく観察すると、「あの国では、ひとにぎりの政府上層部だけがいい思いをして、国民は貧しい。みなさんもああなりたいのですか?」というかつての西側的宣伝は、「不公平や不平等はよろしくない」という「東側」的理念そのものだった。おかしなことに、自分たちが否定しようとしている相手を否定するために、そのまさに否定したい論理を使う。

ほかにも、経済競争第一の資本主義社会には、公害、農薬、商品宣伝のための巨額のムダ、それにともなうくだらないテレビ番組やおまけがますます低きについてゆく、といった、ネガティブな側面も多いが、さりとて、現実がこうなっているのを、ある日とつぜん「地球市民革命」で「平等公平」にする、なんていうのも非現実きわまる。貧乏人どもが我々にも富を分配せよ、公平で平等な福祉社会にせよ、と息巻いているときの「平等」とか「公平」というのは、単にカネを公平に分けろという物質的な話で、資本主義側の勝者の論理と本質は同じだからだ。

多数決

精神的なものの価値を本当に実感できるのは、経済的には何もかも満ち足りて、それでもこころが満たされないことを切実に感じている我々貴族なのであって、貧乏人どもの精神論は、要するにパンをもっとよこせという話。物質的に貧しい国にも(豊かな国にも)少数のスピリチュアル志向はあるとしても、多くの人々は、そうでない。我々がばかげた戦争をやめさせようとする場合でも、多数決の原理のため、多くの人々に訴えざるを得ないのであって、そこで、ちゃちながきの写真とかを見せて「これを殺したいのか」などと、動物の本能レベルにまでおりて話を合わせてやらねばならない。「敵」もさるもの、これこれは、か弱い女性や子どもをいじめているので罰を与えましょう!と同じレベルで戦うし、根が物質主義の連中のほうが、ぜったい宣伝がうまい。宣伝したい相手と同じ感覚を共有しているから。

この現象を冷徹に記述すると、ひとにぎりのスピリチュアル主義者が――決して「統治」する(いわゆる哲人国家)のでなく――「ほぼ物理レイヤだけで生きる大多数」の「反抗」の前になすすべもない、という状態が長くつづいていた。プラトンふうに言えば「このことに同意する者は少ないし、未来においても少ないだろうということなら、分かっているさ」といったところだが、しかし最近になって、物質的繁栄のひとつの果実のインターネットが、いろいろな意味で物理的世界から離れた実存になり始め、少し流れが変わりつつあることを、感じているかたも多いと思う。

インターネット

ネット空間はある意味、利権のなれの果てでありながら、従来の利権のかこいこみを自己解体させるポテンシャルを持っている。典型例として、ミュージシャンと聴衆のあいだに入り込み、音楽に寄生して中間搾取していたレコード会社やプロデューサーの自己正当化としての「著作権」理論。これはデジタル化と高速常時接続によるファイル交換の前に、ますます形骸化してゆく。この世界の生活必需品、例えば、ソフトならソフトは、ユーザ自身のなかの頭のいいやつが自分たちで作ってパブリックドメインに置いてしまうので、既得権者側からみたら、たまらない。物理レイヤの大衆操作に必要だった情報コントロールも、ますます難しくなる。情報それ自体がそれ自体の深い迫力の強弱によって広まり、長期的には、扇情的だというだけでは弱く、まして政治的意図からある情報だけを広めようとしても、ネット空間は、そもそも政治的中央に完全には支配されない自律社会なので、まず無理だろうし、今後、ますます無理になるだろう。

ひとことで言うならば、西側的発想の到達地点である電子技術が実現したのは、なんと、かつての東側的理想の世界だった――共産共有、平等対等、分散自由、自発自律。けれども、それが依拠している物理的インフラは、本質的には「物理的に貧しい国から奪った」ものだし、この新しい世界を生み出したのも西側的な原理による激しい競争だった。

二分法的に図式化すれば、とりあえずそんな感じだろう。

要するに、「本当に良い理念」というのは、革命など起こして押しつけなくても(押しつけるのが悪いとは言わないが、そうしなくても)、長期的には、いつかは自然と実現される。なぜなら、だれだって、本当は、かげで足をひっぱりあうような、ストレスだらけの競争社会じゃなく、ほのぼの、またーり暮らしたいと思っているわけで、けれども現実がそうでないので、のほほんとしてると不利になってしまうから、やむなく自分も「戦闘」に加わる。競争が悪いわけでは、ない。無駄で無意味でばかげた競争がイヤなのだ。競うなら、純粋な実質で。ソフトをつぶしたいなら、ソフトの内容で勝負しろ。そう言いたい。そういう世界になってほしい。良いもの、使いやすいもの、セキュアなものが自然とそれ自体のちからで広まり、見てくれはキレイだが、ずるがしこい粗悪製品は自滅してほしいのである。――これは、極めて単純なことでありながら、非常に難しい。なぜなら、過半数の消費者は、情報不足という意味でまだ「愚か」だから。

具体例をあげると、スーパーマーケットで「たらこ」(日本の食品)を買うとする。人工着色で真っ赤っかなのと、そうでないのとが同じねだんで並べておいてあれば、常識的には、着色なんてしてないのを選ぶに決まっている、とだれでも思う――と思うのだが、現実は、そうでなく、けっこう真っ赤っかのほうを選ぶ消費者も多いので、そうすると、それがニーズである限りにおいて、生産側もそーゆーものを作らざるを得ない。これは、ひとつのたとえだが、フリーで(あるいは同じねだんで)もっと良いものが手に入るのに、表面的なとっつきやすさが優先される結果、それがスケールメリットになってしまい、結果としてフリーで良いものが栄えにくい。

これを打開するのは、「何がどの点でなぜ良く、何がどの点でなぜ悪いか」という情報の集積と、「これこれは初めは、とっつきにくいですが、こうすれば簡単に使えるので、チャレンジしてみてください」という解説の集積で、それらがあらゆるレベルで自由にアクセス可能なら、長期的には必ず良い「とみなが判断するもの」が栄えるだろう。

「人間」の復権

言い換えれば、ある世界が悪いのは、その世界の構成員の多数意見が間違っているから、と言えるかもしれない。インターネットは、少し特殊な新しい世界で、意見というか考え方そものが「構成員」なので、好ましくない考え方が広まるとネット世界そのものが好ましくなくなってしまう――自分のトクになれば、他者の不利になって良い、という「自由競争=不平等肯定」原理だと、ネットの対等性のために自分に跳ね返ってくる――例えばファイル交換のときに、アップロード速度に制限をかけてダウンロード速度は無制限でやれば自分がトクをすると思うかもしれないが、みんながそう考えると、自分のダウンロードが遅くなる(相手も同じことを考えているから)、ということを、分かっているので、なるべく相手に優しくしようとする。全員ではないが大部分が相手に優しくしようとこころがける結果、だれにとっても気持ち良い場所になる。その逆だとその逆になることもよく分かっている。

なぜそうなるか。これまでとどこが違うか。というと、従来は「中央」のある企業(サーバ)が作ったものを、庶民というか大衆であるクライアントどもに売りさばいていた。一般に、生産側には消費者の個別的な「顔」など見えないし逆も見えない。

が、ファイル交換はピア・トゥー・ピアで、個別の知性と個別の知性の個別の接触だから。在来著作権がからむファイルについては、話が複雑だが、フリーのファイル、例えば偽春菜ねたな自主制作アニメとかの交換こは、従来でいえば「趣味の領域」なので競争原理と違う行き方がすんなり通る。なぜなら――相手がそれをほしがっていること自体が自分にとっても楽しい。いわば「あげる(アップする)こと自体が楽しい」。しかも与えても与えてもべつに減るわけでもない、という「愛のモデル」になっている。これはまだネットでも一部の特殊な領域かもしれないが、クライアント・サーバでも――例えば、従来の本なら大量に売れれば紙代、インク代のコストが問題になるけれど、それに対して――アクセスが増えても、サーバ負荷がOKの範囲にある限り、だれも損をしない。

びっくり箱

現状、世界の大多数の人間にとっては、ネットは現実生活の道具であり、あるいは、現実の生活の余暇に楽しむ遊びかもしれない。ネットばかりやっているなんて非現実だと思うだろう。たぶん、人類が「言語」というものを使い始めた当初、数千年か数万年の移行期にも、コトバにすると「一日中、コトバを使っているなんて非現実だ」という「考え」があっただろう(ホントはコトバがないので「考え」じゃないかも)。当時は、一日の活動時間のほとんどすべてを動物としての自分の生存を維持する活動に使っていたからかもしれない。コトバなどしゃべっている暇は無い。そう「思った」のかもしれない。コトバなど無形で無力で実生活の役に立たないと。

実際、言語的思考や知識が蓄積されることで、どんなステキなことになるかなんて、それが起きる前には一般には想像だにつかない。けれど「この植物は、こう調理するとおいしい。この動物は、こういうワナで簡単につかまえられる。この症状の病気は、こうすれば治る」といった知識の集積は人間を激変させ、知識そのものを実存とした。ここにおいて知識がオブジェクトとして措定(そてい)されたので、次には「こういう知識に対しては、こういうアプローチ、視点の取り方ができる」という知識を操作するメソッドについてのメタ知識に進むことができる。その基本理念のひとつとして、情報の無制限なアクセス可能、つまり情報論的社会主義(情報の貧富の差をなくすべきだという意味)というのがあって、ネットは、その文脈で語ることもできる。

けれど根本的な問題は、人間はコトバ=知性に目覚めてトクしたのか?という点だろう。知恵の実をくわずにエデンの園で寝そべっていたほうが良かったという意見もあるハズだ。もちろん、そう考えることができるのも、結果の果実を受け取ったからこそなのだが。ある人々は「あーーーなんで殻を壊すんだよぉ。生まれたくなかったのに、生まれちゃったじゃないか」という意味も分かるであろう。

インターネットの箱のふたは、まだあまりあいていない。

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