先週は全日が出張でした。営業の方は「俺らなんかいつもだよ」とおっしゃいますし、よく話を聞いてみると、昨日は**県へ行った、一昨日は**県だ、という感じで、続けざまに違う地方へ出張していたりして本当に凄い。私の出張なんて、ホントたいしたことないのですが、それでも私は慣れないことでたいへん疲れました。
で、本日発行予定のFolio向けの原稿が詰めの段階(たいていここで3〜4割の時間を食う)で足踏みとなり、しかも今回は他の方の原稿についてデザインを受け持っているのに、この作業も進捗状況が芳しくない。全部のしわ寄せが昨日に来て、土曜日だというのに珍しく午前中に起き出して、パソコンに向かいました。
頑張った甲斐あって(?)数時間後には完了まで後一歩のところまでこぎつけたのですが、昨日は人に会う約束があったので、しばし悩んだもののFolioの作業は一時棚上げにしました。今日、発行するといっても、「まあ、日の出に間に合えばよかろう」という発想。終電で帰ってきても、午前3時までには原稿を送ることが可能(残す作業はほんの少しで、しかも何をすればよいか完全に把握しているため)だと考えたわけです。
ところが、私は出先で突然「勧められた酒を一切断らない」決心をしてしまいました。今日は体調がいいという感じがした(前日まで目の下に隈を作っていた人間が具合いいはずがないのだけれど)ので調子に乗って人を喜ばせていたら、いつの間にか「お店に免許証を落とし、駅の階段で足を滑らせる」惨状に。足元ふらふら、思考力も低下、同じ方面の人がいないので、電車で駅を寝過ごしたらとんでもないことになりそうだったし、そもそも無事に帰宅できる算段もつかず……。
そんなわけで予定を変更して二次会に参加。酔いざましをして帰るつもりでいたのだけれど、終電の時刻になったら、猛烈に眠いことを自覚して不安にかられました。終電で寝過ごしたら洒落になりません。タクシーに乗るお金は持っていないので。結局、二次会に最後まで参加して徹夜。(アレ? 何で寝てないの?)
午前6時半過ぎに帰宅して、7時過ぎに原稿を送信しました。
以上が、原稿が遅れた理由です。理由になってないけど。まあその、結果的には、この文章を書いている午前9時の段階ではまだ、私が担当したあれこれ以外にも原稿の状態に問題のあるところがあるようですが、とりあえず今日中に発行はできそうですね。よかったよかった。
さて、途中かけになっていることといえばアドバイスもそうなんですよね。遅れます、ごめんなさいというメールは出したのですが、今日中に書き上げたいと思います。でも、ちょっと申し訳ないのですが、数時間ほど休ませてください。
と、ここに書いてみる。
多忙につき、次回更新は29日の予定。
なんてことを書きたかったわけではなくて、さっき、時計が止まっていることに気付いた。電池の余裕もない。
ふだん、どういうわけだか目覚まし時計が鳴る直前に目が覚めている。だからたぶん大丈夫なんだろうけれど、やっぱりあの拷問のような音に助けられたことも一度や二度ではない。ちょうど昨日あたりから目の下に隈ができていて、そろそろヤバイ感じがする。とても不安な気持ちになってきた。電池くらい、200m先のコンビニへ買いに行けばいいのだろうけれど、私は面倒くさがりなので、むしろ不安を選んでしまう。
というか、PHSの説明書を読めば何とかなりそうな気もしてきたんだけど……もう眠い、とても。
よい方向でWebサイトのリニューアルと勉強を進めていらっしゃる方が、リアルタイムで更新中の備忘録。リニューアルに区切りがついた段階でご紹介しようかと思っていたわけですが、むしろリアルタイムに経過を追うところに一番の醍醐味があるかなあ、と考え直しました。
この仮説を応用すれば、私が(アカウントを持っているにもかかわらず)はてなダイアリーを使わないのは、本サイトに何ら気兼ねなくどうでもいいことを書くから、と説明できる。なるほど、そうか、という感じもする。
このところ靴下が続々と退役時期を迎えていて、今朝、とうとう穴なしのは1足きりになってしまった。仕方ないので、買い足すことに。財布の中身が心配な時期でもあり、いくらくらいするものかと人に訊ねたら、「1足500円くらいだよ」というので安心して家を出た。
仕事帰りに買うつもりだったのに、ついつい度忘れして帰宅。参ったなあと思いつつ、ちょっと着替えて近所の西友へ。雨はたいしたことないけれど、風が強い。
西友で値札を見ると、2足500円だった。うわ、予定の半額だ。「いやー、安いですねぇ」と感嘆すると、「はいっ、毎日頑張らせていただいておりますっ!」とコテコテの敬語(?)が返ってきた。客商売は大変だなあ、と思った。(また帰ってから人に聞くと、2足500円は驚くような値段ではないらしかった。でも私は1000円の予算で4足買えたので満足)
つい先日、サイトバレで移転したいやしのつえに言及したばかりなので、運命というのは面白いものだなあ、と思いました。
私の場合、ばれた相手は某知人なのですが、ばれた経緯をある程度把握できる状況でした。はてなでの質問が検索にひっかかり、そこから「 *** =徳保」と気付いたんですね。そして、とても嬉しそうに、「 *** くんというのは、徳保くんだよね?」と。もともと当サイトの読者で、このたび悪意あってカミングアウトした、というわけではありません。
知らないうちに読まれているならそれでよくて、基本的に会社とかで罰を受けるようなこと(機密の漏洩とか)はやっていないし、その意味では、過去ログを公開し続けても決定的にまずいわけではありません。けれども、やはり気楽に書き続けるためには、書いたものを放置するためには、高校文芸部関連の知人以外が読んでいる可能性を無視できる状況がほしいんです。もちろん、それは幻想でしかありません。けれども、やはり自分を騙せるかどうかは、少なくとも私にとって無視できない問題なんです。
今年の1月30日に、私はこう書いています。
私は非常に怒りっぽい。備忘録を書くようになってからというもの、私はようやく、はっきりと自覚した。私は従来、怒らない人として知られていた。皆が怒りに燃えているとき、バカバカしいと思って冷めていることが多かったからだ。皆が怒っている対象よりも、つまらないことに怒っている皆の方が、むしろムカつくのだった。見るべきところが違うだろ、本当に怒るべき相手を間違ってるだろ、と。だが、備忘録を読み返してみてつくづく思う。何だ、自分も同じじゃないか。つまらないことに、見当違いのことに怒ってばかりだ。おかしな方角を向いてはいるが、毎日のように何かに怒っていて、その姿は実に馬鹿げている。(中略)
私は文章を書くのが嫌いである。面倒で面倒で仕方がない。そんな私が備忘録を書き残すようになった。私はなんでもすぐに忘れてしまう。私が思い出せるのは断片的な物語だけで、私がその日そのときその世界に生きていたという実感がまるでなくなってしまう。もう中学生の頃のことは物語としてしか思い出せない。だから、物語にならなかった部分は、もうすっかり失われてしまったといっていい。物語に欠落しているものはたくさんあるけれど、とくに残念でならないのは、ふと思ったこと、考えついたこと、妄想したこと、そういった行動を伴わない瑣末な思考活動がほとんど残っていないということだ。日記でもつけておくのだったと後悔するが、実際、私は何度も何度も日記を書こうと挑戦してきた。そして敗北を重ねてきた。中学、高校の頃は記憶の喪失が非常に早く、思い出せない世界はわずか3年前まで迫ってきていた。この調子では、二十歳になる頃には昨日のことも物語としてしか思い出せなくなるのではないか、と不安でならなかった。
自分の昔の考えを読み返すのはとても楽しい。記憶喪失の津波は緩やかになり、このところあまり不安を感じなくなってきた(ひょっとするともうすっかり物語に飲み込まれたのかもしれない)のだけれど、とにかく昨年、私はまた備忘録を書きはじめた。これもすぐに行き詰まった。文章を書くのが面倒で面倒でやってられなかったのだ。文章を書くのがつらくて、その気力がわいてこなかったのだ。このあたりの苦闘の経過は、掲示板のログに残っている(HTML文書を作成するのが面倒なので掲示板に自分だけが書き込みできるようにして備忘録代わりに使っていた)。そんな私がこうして連日のように長文を書けるようになったのは、日々ふつふつと湧き上がる怒りのエネルギーを素直にぶち込む感覚をつかんだからだと思う。
この項、続く。いや、続かないかもしれないけど、私の中でこの話題はまだ全然書き終えていない。でも今日はここで放り出す。
あえて、ありえない仮定を持ち込まなければ、この1年余りの備忘録は書くことができませんでした。そんなもの書くな、という意見もあっていいし、いや、実際に何度もあったんですけれども、ご安心ください。サイトバレしたから、もう書けません。
私がいったん備忘録のログを削除してホッとしたのは、バレてからわずか*時間後のことで、いわば緊急避難的措置でした。けれども、問題ないところだけ残してすぐにログを復活させるつもりだったのに、作業に取り掛かったら頭を抱えてしまいました。決定的にまずい内容は、ないといえばないんです。でも、これは嫌だな、というレベルで選ぶと、大半の記事が消えます。
あの人もこの人も読んでいる、と仮定して書いても、ひょっとすると同じ文章になったかもしれない記事はたくさんあります。けれども、それを書いた自分は、そういう事態を想定していなかった。だから、やっぱり嫌なんです。これからの備忘録は、前提条件を変えて書いていくわけですが、読者には何が変わったんだかあまりわからないかもしれません。私はナチュラルメイクを心がけますので。けれども、私自身の気構えが違うのです。他人にはすっぴんに見えても、私がそうでないと知っていれば。(と、化粧しない人間が書いてみる/聞いた話を転用)
私が備忘録をこの場所で再開した理由は、だからじっぽさんの理由とはちょっと違っているように思う。私の場合は、書いてきた内容自体ではなく、執筆時の自分の心のありようだけが問題なのだから。そして備忘録以外は、読まれても問題ない記事でした。だから、ばれた直後にも、サイト自体の閉鎖は考えませんでした。公開継続が苦痛に直結する文書だけを消せばよかったのです。そして今後も、読まれてもいい記事だけ書けばいい。
……ここまで書いてきて、今回の私の対応は、じっぽさんのそれと比較して、なんというか「深みがないな」なんて思いました。
私は WindowsXP を使っているので、ご紹介するレジストリの Tips は WindowsXP のものだけです。
XP には regedit というレジストリ編集ツールが標準で付属していますが、これが実に全く使えない。というのは、間違えた値を書き込んでしまったときに、元に戻せないんです。誤削除の場合も同様。再度、正しい値を入力すればいいのですが、Ctrl+Z のショートカットですぐに訂正できればいいのに、と思う。元の値を忘れてしまいがちな私などは、痛切にそう思います。
そこで私が使っているのが FacsyS Registry Editor です。Windows95 以降のすべての Windows に対応しています。シェアウェア1000円。窓の手などが無料で使えるというのに、ど素人が何でシェアウェアを使うのか、と思われるかもしれませんけれども、趣味にお金がかかるのは当然だと思っています、私は。
もし、何か具体的な成果のほうに興味があってレジストリをいじりたいという方には、迷わず窓の手と窓使いの友をお使いになることをお勧めします。いずれも定評ある素晴らしいソフトで、私もお世話になっています。レジストリに興味関心を持つきっかけこそ、これらのソフトでした。
じつはしばらく前から、レジストリの Tips に興味を持っています。雑誌などには無数に Tips が載っていて、Web 上にももちろんたくさんの記事があるんですけど、今更ながらに、私も時々、メモ代わりにあれこれ書いていこうかな、と。レベルとしては、初心者向けによく紹介される程度のものばかり……と思います。
「レジストリをいじると天変地異が起きるぞ、と脅される」……と書いたのは Web 系日記の小林さんだったかと思いますが、私も小林さんと同じで、いちいちレジストリをいじる前にバックアップを取っていません。だって面倒くさいんです。でも、読者の方にはバックアップを取りましょう、と申し上げておきます。あと、私はよく書き間違いをやらかすので、信用しない方がいいです。私は、読者の方が私の記事の通りにして不幸になっても、一切責任を取りません。
と、いつものように逃げを打っておくことにいたします。
ところで、Web 系日記は更新を再開しませんかね? とても楽しく読んでいたので、11月の更新がわーわーわー。
だけというのは残念。とはいえ、サイトが残っているだけでも、ありがたいとおもうべきなのかなあ。
そういえば、備忘録に対してはこれまで、個別の記事にリンクしにくいという意見が繰り返し出されていたのですが、今回のMT利用で、図らずも対応できました。私は「リンクじゃなくて転載すればいいでしょう」と回答してきたわけなんですが、これからはリンクもしやすいと思う。これまで、(結果的に)転載する人はほとんどいなくて、ぶつぶついいつつリンクする人ばかりでした。
「閲覧者のため」というのはお題目で、実際には転載の面倒よりは閲覧者に苦労をかけることを選ぶ人が多かったということを意味するわけですが、それはまあ追求しないことにしましょうか。私も閲覧者の苦労を気にかけない一人ですから。
そんな中、転載を基本としていた例外的存在が theoria さん。最近の更新ははてな一本で、読者としてはそれもちょっとありがたいですね。
過去ログを消してしまったので、せっかくだから何か新しいことをしようかな、と。そこで思いついたのが Movable Type の利用。これまで、備忘録ではサイトの表紙と過去ログの同時更新を面倒に思っていました。それなら過去ログの方だけ更新すればよいのだけれど、もともと備忘録で客寄せして他のコンテンツを読んでもらおうという魂胆だったので、それではダメなのです。……たぶん、今でも。
私はサイト内検索に興味がないし、RSSも興味ない。コメントもTrackBackも無用。読者がそれを求めても、私は積極的にそれらを拒否します、という勢い。でも、冷麺という先例ができたことでもあるし、XSLTの勉強もあんまりやる気がなかったことでもあり、はてなではサイトと組み合わせられないし、とかまあそういったあれこれを考えた結果、明らかにオーバースペックなMTで遊んでみることにした、という次第。(補記:冷麺はRSSを出していて、過去ログもちゃんと登録していて、検索もできるようになっているから、うちよりはよほどMTを活用していると思います)
でまあ、私のMT利用法。
じつをいうと、更新の手間はこれまでと全然変わってないといってもいいと思います。オンライン更新しようと思ったら、入力フォームが使い慣れたエディタと比較してあまりにも貧弱なことに気付きました。こんなのやってられるかと思って、結局はローカルで書いた文章を貼り付けているんです。そして、せっかくローカルで書いているのだから、ローカルにも過去ログを作成しています。ただし月毎のだけ。
だから、表紙と月毎の過去ログを同時に更新する手間がなくなっただけは素晴らしいのですが、AirH"32KはISDNより細い回線なので、オンライン更新はたるいですね。再構築にもそれなりに時間がかかりますし、結局、作業時間とか手間暇はあんまり変わっていないような気がします。それじゃあつまらないなあ、と思って、オンラインの方では記事を個別にHTML文書化させることにしました。これは手作業でやったら面倒くさくて気が狂うので、ようやく意味のあることをした、という感じ。
デフォルトの状態でMTを使えば、RSSも出るし、いろいろ高機能なんではありますが、それが逆に嫌なところでもあります。今回、私が考えたことの大半は、いかに機能を削るか、ということだったのでした。結果としてはこんな感じになって、要するに過去ログを細かく整理するというだけなんですけれども、とにかくこれでローカルにログも残るし、それでいてサーバには細かく整理されたログも生成されるし、将来、RSSを出そうと思えば簡単に出せるし、検索も同様であって、私は満足。
備忘録を再開します。過去ログの整理と再公開は、気が向いたらやりますので、あまり期待せずにお待ちください。
以前から、**バレしたら閉鎖を考えると申し上げてきましたが、とうとうそのときがやってきてしまいました。
私はこれまで何度も日記を書くことに挫折してきていて、その一方で「かつて自分が何を思い、何を考えていたかをどんどん忘れていってしまうこと」をたいへん悲しく思っていました。私はどうしても、自分しか読まない文章を書き続けられなかったのです。しかし、誰に読まれても構わない文章を書くのもまた、つらいのでした。そのためか、かつて文芸部に所属していた私は、ついにほとんど何も書かないまま卒業を迎えてしまったのでした。
備忘録では、この1年余り、私の知らない誰か+特定の知人(具体的には高校文芸部関連の知己)だけを読者として想定し、それ以外の人には絶対にいわないようなことも、思うままにたくさん書いてきました。この設定がうまくはまり、私は初めて、これほど長期間にわたり、あれこれ思うことをたくさん文章にすることができました。知らない誰かが読者だから、かえって気楽に書けることというのがあるのです。
もちろん、実際には高校文芸部関連以外の知人、例えば会社の同僚や、大学、高校、中学、小学校の友人・知人、家族らが読んでいる可能性は忘れていませんでした。しかし、可能性が事実に変化しない限りは、努めて「その可能性がない場合」に準じたふるまいをしようと決めていました。その代わりに、「いざというとき」のシミュレーションを繰り返し、そして読者向けに予告もしてきたつもりです。さらに保険をかける意味で、「もし備忘録の継続を望むのなら、私の知人は決してカミングアウトしないでほしい」とも書きました。
結果的には、備忘録以外のところ(はてなの質問がGoogle検索に引っかかった)から足がついてしまいました。IDが***で、質問内容がアレだったら、なるほどバレバレなんです。***が誰だかわかったなら、それに続けて「***」で検索してみるのは人間の興味の展開として自然なことです。ああいう質問をするのなら、はっきりと本名でやっておけばよかった。ひとつしかとれないはてなのIDを徳保というキャラクターと共有したこと、はてなとhotmailのアカウントを***という本名由来のものにしていたこと、全部、私の馬鹿さ加減を如実に表しています。というか、徳保というハンドルネーム自体が本名に由来していますし。
そんなこんなで、備忘録のログはサーバから消しました。どの知人に読まれても平気な文章だけ残して、追々復活させたいとは思いますが、当分、それは無理です。何度もシミュレーションしてきたはずだったのですが、いささか予測が甘かった。ダメージ大なんであります。
さて、今後の更新ですが、非常にやりにくいと感じておりまして、でもきっと続くと思いますけれども、えーと、何にしても裏表の激しい人間はこういうときにダメですよね。死にたい。
備忘録のログなどを転載しても構いませんが、転載条件は守ってください。詳細は必ずInfoを参照のこと。
私はadramineさんとのやりとりを念頭におきつつ、以降の展開に取り組んできました。だから、最低基準が云々という点を確認したかったのです。また、私は自分の立場を説明してきただけで、そふぃあさんの主張に反論するつもりはありません。
これまでの発言、あるいは、なかなかうまく書けずに来たことなどのまとめ。(このまとめも、あまりうまくない気がしますが)
より良いscreenメディア向けスタイルシートの定義を、ひとつの基準としては理解できるし、その基準を満たすためには文字サイズを相対指定しなければならないことにも同意できます。
順調にサイト評価を再開、第1回の結果をアップ。さすが、速いなあ。私も今週はFolioの原稿と平行してアドバイスを数件頑張る予定。
聴くと耳が腐ります
がキャッチフレーズの……。
リンクを見て吃驚。音楽サイトばかり並んでいる中に、なぜ当サイトが……。あと、当サイトはそんなに有名じゃないです。勘弁してくださいよ。
たぶん、追々何か感想というか、思いついたことを書くと思います。
最近、断続的にリファラが残るのでよく読むわけですが、ふとYahooディレクトリを探索したら、親サイトが見事登録されていた。嬉しい。まともな解説をしているサイトが登録されるのはよいこと。
最近ではサイト作成における問題の登録にも喜んだ。内容はともかく、サイトの組み方、記事の展開のさせ方がユニークなので、それだけでも一見の価値あり。意外と、個人サイトで仕様書のような長大な(そして一貫した)目次を用意する人は珍しいのではないか。
回文。(タイトルのみ/内容は無関係)
仮に全ユーザが不足のないユーザCSSの適用を常態化すれば、大半の製作者は製作者CSSを作らなくなるのではないかと思う。そして、ユーザCSSがちゃんと機能するように、マークアップだけはちゃんとするようになるのではないか。もともと、音声系ブラウザで閲覧している人にとってCSSなど遠い世界の話だった。つい最近まで、携帯電話もそんな感じだった。PCで視覚系ブラウザを使用していた人も、夢から覚めたらいいと思う。
……夢物語ですが。
なぜかここ数日、上記サイト経由で大量にアクセスが……。
なんとなく古畑任三郎の話題。三谷幸喜が自ら手がけた小説版の古畑任三郎には、今泉は登場しない。後書きに、その理由などが述べられているので、興味のある方はどうぞ。
なんとなく選挙の話題。民主党は比例第1党なのになぜ小選挙区で勝てなかったか? 産経新聞は、民主党の政策が政権党に足るだけの国民の信頼を得ていないからだと書いたけれど、私の意見は違う。自民党は小選挙区では公明党票をかなり取り込んだ。だから、民主党の追撃をかわして勝った。自民対民主ではなく、与党対民主というのが、先般の選挙の構図。自民対民主対公明だったら、民主が過半数を取っていた。そして当然、公明も共産・社民の後を追っていたろう(選挙区ほぼ全滅)。
私は小選挙区制を好きになれない。比例代表の方が、民意をよく反映するのは間違いないと思う。比例代表では小党乱立が懸念されるけれども、ようするに日本はそういう国なんだから、しょうがないのではないか。小選挙区制に基づく2大政党制は調整の苦労を避ける知恵としては認めるけれど、それが民意を反映しない制度だということは、ちょっと頭の片隅においておきたい。
IEの累積何とか更新を適用したら、スクロールバーの挙動が変になってしまった。これまではスライダーの上下をクリックすると0.8画面くらいスクロールしたのに、1.2〜1.5画面くらいスクロールしてくれる。これでは文書を続けて読めないではないか。イライラ。まあ、IEはアドバイス以外ではあまり使うこともないのだけれど。
お仕事頑張ってください。(と、ここに書いてみる)
出鱈目なスタイルシートを書くことを否定しているのであって、ユーザースタイルシートを知らない人も、等しく私は考慮に入れません。即ち
後者の無知にも「対応」しません。誤読、曲解甚だしい。
私とそふぃあさんとは否定のレベルに認識の差異があり、そのため行き違いになったのだと思います。
仕様に従った製作者CSSならばユーザCSSで必ず上書きできるので、製作者CSSは仕様通りであれば決定的な問題を生じないと私は考えています。恐れ入りますが、ユーザースタイルシートを適用してから閲覧して下さい。のような遊びもアリです。私の考える「出鱈目」とは、究極的には、独自拡張への追随など、VaridなユーザCSSで対処不可能なものに限られます。
VaridなHTML文書であっても、文書構造を適切にマークアップしていない文書、装飾のためのマークアップを織り込んだ文書は、閲覧者に対処不可能な問題を多々引き起こします。これに対し、VaridなCSSは(根本的には)閲覧者に対処可能な問題しか起こしません。ユーザCSSをよく知っていれば、あるいはOperaのようによくできたユーザCSS利用ツールが組み込まれたブラウザを利用していれば、Varidな製作者CSSは深刻な問題となりえません。
もちろん私だって、どんなCSSも「良い」とはいいません。そふぃあさんが、より良いscreenメディア向けのスタイルシートに接近する方法は、解像度に依存せず、そのメディア特有の閲覧方法を邪魔しないようにすることである。
という基準を掲げることには反対しません。ただ、それは少なくとも「絶対やってはいけないことは何か、根本的基準は何か」という観点においては、無茶な基準です。
もともと私は、adramineさんがadramineさんの基準において文字サイズ固定を批判することに異を唱えてはいませんでした。そふぃあさんがそふぃあさんの基準において文字サイズ固定を批判することにも、反論してきませんでした。私は、文字サイズの絶対指定はCSSデザインの正当な手法のひとつだ、と主張してきたつもりです。
良し悪しの問題は、実行可能な最大範囲が確定した後の問題です。
文字サイズは固定してよい、幅固定もしてよい、しかし、その結果が素晴らしいものとは限りません。
人間に、まず基本的人権のひとつとして自由を与える。と同時に、絶対にやってはいけないこととして、幾つかのルールを(例えば法という形で)与える。ではこのとき、禁止されていない行動は全て「良い行い」か? そんなことはありません。相当数の人々が、「そんなことはすべきでない」と判断する行動があります。
それでも、「絶対に禁止すべきだ」というコンセンサスがない、だから決定的な制限がない。ある観点から、「そんなことをするな」「俺は許さない」というのは結構なことなのですが、ルールがそれを許しているという事実認識は、それとは別に必要なのではないでしょうか。
ルールが定められる過程には良し悪しの議論が絡みます。ルールは無からポンと生まれてくるものではない、それは当然です。しかし逆に、そうであればこそ、「なぜルールで制限されていないのか」というアプローチも可能でしょう。
しばらく更新しないでいると、せっかく何か書いても、それをアップロードするのが面倒に思えてきて……。
続き。
仮に、(大半の)読者に努力を強いないことを是とするならば、文字サイズを小さくすることにも理があるわけです。
当サイトは、運営開始後しばらくはアドバイスしかしていませんでした。他人にアドバイスするばかりで、自分のところはどう見られているんだろう? という疑問はいつもあって、2002年の上期には、結構たくさんのサイトに意見を伺いました。
当時、私の主戦場は各所のサイト批評掲示板でした(途中からログをとり始めましたが、初期のログはほとんど残っていません)。あらためて自分の発言を見直してみると、だいたいサイト批評掲示板で批評依頼を出すのは女子中高生が多かったので、逆にその系統のサイトを運営されている方に、とくに多くの意見を伺うことにしました。現在、サイト批評サイトリンク集で「女の子向け」と分類しているようなサイト群に批評依頼を出したわけです。
その結果は、概ね好意的、しかし幾つかの苦言あり、というものでした。以下、多かった注文を順に並べます。
幅固定の是非とリッチなナビゲーションの問題は、とりあえず措いておきましょう。ここでは文字サイズの件に注目します。
女子中高生のサイトには、文字のやたらと小さなサイトが多くあります。それはなぜでしょうか?
私のサイトは、当時も今も、デフォルトで適用される製作者CSSにおいては、基本の文字サイズを100%としています。標準のサイズで表示する、ということです。私は小さな文字が好きなので、IEの文字サイズ指定は「最小」を常としていますが、ちょうどそれで(ユーザCSSなしでも私の環境では)お気に入りの12pxとなります。
2002年上期には、私はユーザCSSを用いておらず、IEのユーザ補助さえ、常用してはいませんでした。そのため、女子中高生のサイトに意見するとき、まず文字サイズの小さいことに閉口させられました。文字サイズ「最小」では、読めない字が珍しくなかったからです。
ちなみに、最近ではそういうことも減ってきました。文字サイズを固定しているサイトが増えてきたからです。文字サイズ固定なら、ユーザ補助を用いない場合、文字サイズ「最小」としても(少なくとも私にとって)読めないほど小さな文字にはなりません。17インチの画面で1600×1200程度の解像度なら、ドットがつぶれない10px程度までの文字は読めます。私の場合、画面上実寸の文字サイズよりもpx(というかドット数)が重要です。ただしアンチエイリアスなしの場合に限る。
私はそうした事情から、文字サイズを-2としたり、文字サイズ1などと指定することには批判的でした。小さい文字が好きな人は、IEの表示設定で「小」「最小」を選べばよく、作者が小さな文字を好きだからといって、文字サイズ「中」で文字が小さく見える必要はないのではないか、と。しかし、私の言葉は説得力を持っていませんでした。自分が意見される立場になって、初めて、そのことを実感したのでした。
(多くの)女子中高生は、小さな字を好みます。そして、意識して、字の小さなサイトを選び、ひいきにします。つまり、こういうことだったのです。自分は小さな字が好きだから、どのサイトも小さな字で読もう、とは考えないのです。最初から、字の小さなサイトを選ぶのでした。印象的な言葉があります。「字の大きなサイトに、共感できたことがないんです。センスも、生き方も違うんですよ、大きな字でも平気でいられる人とは。だから、私は字の小さなサイトを選ぶし、自分もそうするんです」メールで出した質問への、ていねいな回答の一部です。
つまり、彼女らにとっては、「標準より小さな文字サイズ」が意味を持っていたのです。表示設定で「小」「最小」を選べばいい、とか、そういった問題ではなかった。そして彼女らは、明らかに自分とセンスの近い客層を期待していました。小さな文字は、世界観を共有できない、望まない客をふるい落とすフィルターでもあったのでした。実際、彼女らのサイトの読者の9割以上は想定通りの読者であり、文字サイズ「中」で小さく表示される文字を好ましく思う人々だったに違いありません。
もちろん閲覧者が無知であることを助長するようなことになったら問題だとは思いますが、しかし「ページを見ていただく」という立場から考えるなら「様々なブラウズ環境にある閲覧者に対して、できるかぎりこちらの意図がストレートに伝わり、しかも相手にとって見やすい/閲覧可能であるページ作成を心がけるべきである」という点ははずせないと思います。もちろん100%対応などはハナから無理ですが(当サイトもunicode未対応ならつらいでしょうし、Netscape4.xは切り捨てています)、できるだけ多くの方に自分のサイトを「読んでいただく」というのであれば(少なくとも主張サイトはそうあるべきでしょう)「読者に努力を強いない」というのは一つの条件と思われます。
なぜなら、読者が最初から努力を強いられるなら、そのサイトはそもそも読まれません。となると、自分の啓蒙したいことすら伝えられないのです。
現実問題にこだわっていきましょう。彼女らが思いを伝えたい相手は、自分とセンスの近い読者です。そして彼女らはこう思っているのです、「文字が小さいサイトしか、読む気になれない」と。様々なブラウズ環境にある閲覧者
に対応するために、主な読者層を逃してはバカバカしい限りでありましょう。2002年といえば、既にIEがシェア9割を誇っていました。そして、彼女らのサイトを訪問する人の大半は、女子中高生です。
現実問題として、彼女らは、わざわざ、文字を大きくする理由がありません。読んでほしい人に読まれるために、彼女らは文字を小さくする以外の選択肢を持ちません。そうして、弱者が切り捨てられていく。例えば、目が悪くて、どうしても小さな文字では読めない人が。
女子中高生のサイトにおいて文字サイズを固定する利点のひとつは、文字サイズ「中」で文字が小さいことを期待する読者層と、文字サイズ「小」「最小」を利用する読者層の両方にアピールできることです。
CSSコミュニティのサイトが文字サイズを固定したら喧々囂々の非難を浴びましょうが、じつはテキストサイト界隈では文字サイズ固定サイトが増えていて、それは多くの場合、好評です。だから、文字サイズを固定するサイトは増える一方です。ごく一部の人への配慮を切り捨てれば、大半の怠惰な閲覧者により多くの利益を与えることができる、というわけです。
テキストサイト界隈の読者は、文字サイズの調整を面倒くさがる代わりに、ある程度、文字サイズに寛容なのでしょう。私は、本文が16px固定など我慢できませんが、12pxでも16pxでも14pxでも(あるいは10〜14pt程度)かまわない、という人なら、文字サイズの多少の個性はなんら不都合ありません。
レイアウトの崩れを避けるための文字サイズ固定は、文字の画像化という手法が発明されてからというもの、ポピュラーなものであり続けています。マルチカラムレイアウトなどという、HTML文書の性質(=線形性)に逆らう邪法が大半の閲覧者に大いに歓迎されてからというもの、多くの製作者は、レイアウトの崩れという究極的には解決不能の問題から逃れられなくなりました。
文字サイズを固定せずとも、かなりのところまで耐えうるレイアウトは存在します。しかし、必ずしもそのようなレイアウトを採用することが、全閲覧者の幸福の最大量を増加しうるとはいえません。要は、何に重きを置くかという問題ではないかと思います。
現実に大半の閲覧者がユーザCSSの使用を常態化することは、ありえないでしょう。しかし、それ以外に、すべての問題をすっきり解決する手はありません。
あらゆるサイトの見た目は閲覧者が決める、それが基本とならない限り、製作者の用意するデザインが主な読者層におもねって少数派を切り捨てる構図は決してなくなりません。現に切り捨てられている少数派は、現在でもユーザCSSで問題に対処する他ないのです。しかし、少数派が少数派であるがゆえに、マークアップのおかしな文書が世の中にあふれかえっています。HTML文書に視覚デザインを背負わせる、無謀な試みに心奪われた(そして何故それが無謀なのか気付かない)製作者、閲覧者が多過ぎます。
大半の閲覧者がユーザCSSを使用するならば、製作者は自ずとマークアップをちゃんとやらざるを得なくなります。テーブルレイアウトなど、もってのほかだということになるでしょう。そして、虚飾を排し本文を尊重する文書が、誰からも称揚されるようになるでしょう。閲覧者の大半が、現在いわれるところの「アクセシビリティの配慮」を必要とする存在となれば、製作者は当然、対応せざるを得なくなるわけです。アクセシビリティの問題が、一挙に解決します。
これが夢物語に過ぎないこと、その決定的な理由がリッチな視覚系ブラウザを問題なく使用できる多数派の閲覧者の怠惰と欲(=HTML文書に文書構造以外の何か、例えば視覚デザインを期待すること)にあることが、非常に残念です。
うちの会社は戦時中に疎開した際の木造の建物を未だに使っているような古ぼけた味があり、いまだに労働組合が春闘・秋闘に燃える時代錯誤が温存されているのだけれども、これで案外、上品な方なのだった。こんな状態なのに? そろそろ、そのあたりがわかってきたつもりでいたのだけれど、今回はまた愕然とさせられた。
会社に私宛でカレンダーが届いた。贈り主は、とある取引先。たしかに、今年度はいろいろ買った。こういう古いことをする会社が、まだまだ日本にはたくさんあるらしい。しかし、私は単なる上司の命令で動いている人間であって、書類上は発注依頼者だけれども、自分では何も決められない。そんな下っ端に物を贈ってもしょうがないではないか。いや、もっといえば、そもそも特定の誰かに物を贈っても意味がない。仕事は組織でやっているのだから。
たかがカレンダーとはいえ、個人宛の贈答品があったときは、基本的に上司に報告することになっている。
「困るんだよなあ。でも、たかがカレンダーだから、送り返すようなことはしないでいい。実験室にでも、はっておいたらどうかな」
「わかりました」と答えて、その場でカレンダーを広げた。そして私は絶句。上司も絶句。
いまどき、社名入りのヌードカレンダーを送ってくる会社があるとは。そういうカレンダーを作る神経もよくわからないが、親切のつもりで送ってくる神経もわからない。昭和40年代頃のエッセイなり小説なりを読むと、新人の女性事務員がオフィスのヌードカレンダーに怒る、という展開が定番のように出てくるのだけれど、もうその時代から30年が経っている。80年代、90年代に散々攻撃され、撲滅されたんじゃなかったのか。たぶん、女性社員の非常に少ない会社なんだろうな、と思った。
先日、大阪の建設会社が社員旅行で中国へ行って大変な騒動を引き起こしたけれども、あれも私の会社では考えられない話だった。宴席にその筋の人をたくさん呼んでいたというのだけれど、まずそれがありえない。だから、その先の問題も起こりえない。遠い世界にある会社だなあ、なんてノンキに思っていたものだけれど、案外、身近な取引先にも似たような会社があることを教えられた。
ここしばらく、公私ともに多忙でありまして。
ついでに病気の具合がまたもや悪化。冬場はたいていダメなんだけれども、一度持ち直していただけに、がっかり。
私はJavaScriptを禁止していることもあり、自分の書いた製作者CSSを自分では使っていません。
10月27日に私は、製作者がどれほどいいデザインを用意したところで、全員が素晴らしいというものにはなりようがないと考えていて、だからこそ、閲覧者の側で表示設定をパーソナライズするべきだと思います。だからあえて刺激的に書くならば、CSSなんてのは、閲覧者だけが使えるようにしたらいいのです。製作者はただ正確にマークアップすればよい。
なんて書きましたが、ホントにそれをやると、がっかりされます。(経験済み)
当サイトのあれこれの実情が、私の考える現実的な妥協点を体現しています。
だいぶ時間があいてしまいましたが。
ウィンドウ幅を最大にすることしか知らない
(または最大表示を常態化し、その習慣を頑固に守る)のとユーザースタイルシートを知らない、使えない
のとは程度の差で、本質的な違いはありません。後者が当たり前なら、前者も当たり前です。後者の啓蒙が困難なように、前者の啓蒙も困難です。前者の無知には対応せず、後者の無知には対応するのが、よりよいスタイルを考える場合の原則だ、というそふぃあさんの基準は、私には納得し難いものです。
誤ったマークアップは、閲覧者側の努力では修正不可能な問題をもたらします。テーブルレイアウトや文字の画像化も同様です。それらHTMLレベルで生じる問題と比較して、仕様に従って記述されたCSSが生じるいくつかの問題は、いささか罪が軽いというべきです。
現在ではOperaという便利なブラウザ(最近は簡単に落ちないから、一般にお勧めできると思う)があり、ほとんど勉強も手間もなしに、製作者CSSを無効化し、自分好みのスタイルで全サイトを閲覧できます。ですから、私の提案は技術的には非現実な話とはいえないでしょう。(ただし、予め用意されているいくつかのスタイルの中に好みのものがない場合には、ユーザCSSの配布サイトを探すか、CSSを勉強して自分でCSSを書く必要があります)
障壁はむしろ利用者自身の中にあります。逸失利益を気にしてユーザCSSを利用しない
わけです。私も、ユーザCSS使用の常態化に踏み切るまでには長い時間がかかりました。以前、そふぃあさんのスタイル(の配色)に意見したことがありましたが、当時は大半のサイトをユーザCSSをかぶせて読みつつ、いくつかのサイトは製作者CSSを適用して読んでいたものでした。しかし今では、とくに理由がない限り、ユーザCSSを外すことはありません。
なければないで困らない利益の逸失と、現に間違いなく存在する不利益の排除とを天秤にかけるなら、ユーザスタイルは適用を常態化すべきという結論が導かれる、と私は考え
るようになりました。サイト毎にユーザスタイルの適用如何に頭を悩ませるのをやめ、その代わり逸失利益は割り切ったのです。
もちろん、日常のWWW利用によほど不満のある人でなければ、なかなかそうはいかないでしょう。だから、たいていの人はユーザCSSの適用を常態化などしないし、それ故に、自分にとって気に入らないデザインを押し付ける製作者CSSを「わざわざユーザCSSで無効化する」のは面倒くさい、と考えます。でも、それならそれで、IEに文字サイズの指定を無視する設定があり、Mozillaに最小文字サイズの設定があります。それらは常態化に概ね耐えうる機能でしょう。
画像化された文字はOperaでもなければ大きくならないし、テーブルレイアウトはホントどうしようもありません(注)。CSSで固定された文字サイズなど、たいていはたいした問題ではない、という所以です。だから逆に、それくらいはどうでもいいじゃないか、と思う。(注:表として用いられているテーブルとテーブルレイアウトを区別できないため、Operaの機能は実用に耐えない)
これに対して、ユーザCSSの適用を常態化する人は非常に少ないし、IEの設定もMozillaの設定も知らない人が多い、といった現実論を仮に持ち出すのなら、「なぜ文字が画像化されるのか」「なぜ文字サイズを小さくするのか」という理由も考えるべきではないでしょうか。それらは決して故なきことではないのです。想定される客層を考えた場合、現実問題としてそれが「よいデザイン」につながっているから、それらの表現が求められているのです。
なお、ここで「よいデザイン」とは、「利用者の満足度が高いデザイン」と定義します。そして、加点制で考えていくことにします。1人が0点をつけても、100人が70点をつければ、合計7000点です。
基本的に、初期状態ではブラウザは最大化されません。にもかかわらずブラウザを最大化し、そのままの状態で閲覧したがる人が多い。あるいは、表示領域を幅800px以上にしている人が多い。そして、いったん決めた大きさを変更したがらない人が多い。そのような使い方を、便利で自然だと思う人が多い。また、マルチカラムレイアウトには閲覧者の強い支持があり、雄弁な批判者の存在にもかかわらず、ますます増加傾向です。
アクセシビリティを高めても、利用者の多くにそっぽを向かれるデザインでは商売になりません。だから、富士通は文字を画像化したり、固定幅のレイアウトを採用(3段組レイアウトだが左右のカラムは固定幅)したりしています。ある観点から見ればとんでもないデザインだし、実現手法もひどいけれども、富士通は出鱈目にそうしているわけではありません。そして、こんな富士通のサイトが、世評高い。
続きはまた後日。たぶん週末。
まずはメモ。
ありみかさんのネタは、例え相対指定であってもユーザCSSなしではウザイので、ちょっと反則だと思った。いや、私もそういう手を使うことはありますけど。もうちょっといろいろ書きたいけれど、それは明日以降に。
とりあえず2点。
まず、ユーザCSSを適用すれば、製作者CSSによる文字サイズの絶対指定は無視できる。これが原則。だから、原則としては、製作者CSSによる文字サイズの絶対指定は、CSS適合ブラウザなら無視できる。
ユーザCSSを使えない人が多い、というのは現実論であって、それは原則ではない。MozillaやOperaならたいていの人が絶対指定された文字サイズを変更できるが、IEではそれができない人が多い、というのも現実論。どちらも現実論であって、原則論ではない。
次に、私はたまたまユーザスタイルで文字サイズの絶対指定を実際に使用しているという例を挙げたが、それは私が他に使っていなかったから、というだけの理由。一般に、(ある程度わかっている)製作者が文字サイズ(あるいはレイアウト)をpx単位で指定したいと考えるのは、画像との兼ね合いのため。写真はSVGに変換し難いし、また1px線問題を考えれば、これはかなり根深い問題だといっていい。
続きは明日以降。
私はscreenメディアにおいても、文字サイズの相対指定がよいスタイルシートの条件だとはどうしても思えません。実際、私は自分のユーザスタイルでは文字サイズを12pxに固定しています。私にとって一番読みやすい文字サイズは12pxで、1pxでもサイズが上下すると(ほんの少し)読みにくいのです。だから固定します。仕様書ではpxは相対指定に区分されていますけれども、一連の話題においては絶対指定のひとつとみなしてよいでしょう。
私がよいスタイルシートを追求していっても、文字サイズについては相対指定でも絶対指定でもどちらでもよい、という結論にしかならないのです。現実論として、相対指定の方がよい、という理由ならあります。現に、IE利用者の多くは絶対指定された文字サイズを変更できませんから。でも、それ以外に、納得できる理由がないんです。だから閲覧者が賢ければ、文字サイズの指定方法はどちらでもよいのです。
そふぃあさんにとっては絶対指定の否定とよりよいスタイルシートの追求は不可分なようですが、私はそう考えません。よいスタイルシートの追求を邪魔すべきでないという意見には同意しますが、よりよいスタイルシートについてのそふぃあさんの結論には同意しない、ということです。
2日に書いたように、文字サイズは相対指定しましょう、といっている方々の多くは、本当は「絶対指定もできたらいいな」と思っています。IEの文字サイズ調整機構がMozilla風になったなら、その方々はみな文字サイズを平気で絶対指定するようになるはずで、全然そふぃあさんとは立場が違います。私は基本的に、その手の方々を批判しているのです。絶対指定したいなら、閲覧者を賢くする努力をすればいいじゃないか、と。
だから、私はそふぃあさんの邪魔はしていないはずです。そふぃあさんの意見に同意している方は、そもそも絶対指定したいと思わないはずなので、「製作者は自分の望み通りにスタイルを指定すればいい」という私の意見に従っても、文字サイズを絶対指定するわけがありませんから。私の意見に感化されて文字サイズを絶対指定し始める人は、そふぃあさんの意見に賛同していない人だけです。
よりよいスタイルシートの追求の結果ではなく、単なる我慢、自粛の結果であっても、そふぃあさんにとって相対指定の推奨は好ましい、ということなのでしょうか。
野嵜さんの日記の記述に驚いて、調べてみました。今は栞紐の挿入機械があるそうです。
珍走団が社会に対して与える良い影響は2つある。
- 一般市民に優越感を与えてくれる
- 規範や道徳を明確にしてくれる
1は多くの人が感じることだろう。掲示板をのぞいてみれば、そこには珍走団への罵倒や悪態の数々がある。それを読めば、「ああ、私は珍走団のメンバーような激安人間にならなくて良かった。私はたしかに会社ではこき使われる平凡なサラリーマンだけど、彼らに比べればまだマシだ」と思える。
2は、簡単に言えば反面教師。ダメな人間の見本ということである。珍走行為をTVなどで見ることで、「ああいう人に迷惑をかける行為はやってはいけない」という規範や道徳を知ることができる。子供を持つ親ならば、テレビで珍走団の様子が放送されたとき、子供に「あんな風に他人に迷惑をかけちゃいけないよ」と教えるだろう。珍走団がいることで、何が規範から逸脱していているのかが明確になるのである。
Yasさんは、珍走団の存在していい理由として2項目を挙げている。そして、以下の結論を導く。
少なくとも、珍走団のメンバーは、産業廃棄物以上ではある。
奇妙な展開・結論である。以下、そう判断する理由を述べる。
Yasさんのエッセイでは、結論を出すのが早過ぎる。
珍走団の悪影響はいまさら繰り返すまでもないから省略してもよい、としても、産廃についての検討がなぜないのか。いささか不当に省略されていないだろうか。
- (定義)
- 第二条
- この法律において「廃棄物」とは、ごみ、粗大ごみ、燃え殻、汚泥、ふん尿、廃油、廃酸、廃アルカリ、動物の死体その他の汚物又は不要物であつて、固形状又は液状のもの(放射性物質及びこれによつて汚染された物を除く。)をいう。
- この法律において「一般廃棄物」とは、産業廃棄物以外の廃棄物をいう。
- この法律において「特別管理一般廃棄物」とは、一般廃棄物のうち、爆発性、毒性、感染性その他の人の健康又は生活環境に係る被害を生ずるおそれがある性状を有するものとして政令で定めるものをいう。
- この法律において「産業廃棄物」とは、次に掲げる廃棄物をいう。
- 事業活動に伴つて生じた廃棄物のうち、燃え殻、汚泥、廃油、廃酸、廃アルカリ、廃プラスチック類その他政令で定める廃棄物
- 輸入された廃棄物(前号に掲げる廃棄物、船舶及び航空機の航行に伴い生ずる廃棄物(政令で定めるものに限る。第十五条の四の三第一項において「航行廃棄物」という。)並びに本邦に入国する者が携帯する廃棄物(政令で定めるものに限る。同項において「携帯廃棄物」という。)を除く。)
- この法律において「特別管理産業廃棄物」とは、産業廃棄物のうち、爆発性、毒性、感染性その他の人の健康又は生活環境に係る被害を生ずるおそれがある性状を有するものとして政令で定めるものをいう。
- この法律において「電子情報処理組織」とは、第十三条の二第一項に規定する情報処理センターの使用に係る電子計算機(入出力装置を含む。以下同じ。)と、第十二条の三第一項に規定する事業者、同条第二項に規定する運搬受託者及び同条第三項に規定する処分受託者の使用に係る入出力装置とを電気通信回線で接続した電子情報処理組織をいう。
近年、ゴミゼロ達成企業がちらほら出てきて、話題になっている。といっても、産業廃棄物自体がなくなったわけではない。金属部品を削りだし加工すれば、必ず削りカスが出る。プレス加工しても、バリを取らねばならない。事務所では消耗品が出るし、産業がある限り、産廃はなくならない。ゴミゼロとは再資源化率100%のことをいう。(その実態調査結果の一例)
産廃は文明社会の必然的要求から生み出されている。しかも、必ずしも無価値なものではなく、相当量が再資源化可能だ。不法投棄された産業廃棄物だけが産廃なのではない。
非現実的手段を持ってすれば、珍走団を物理的に排除する方法はある。すべての車両にGPSをつけ、監視すると同時に、違法な走行車両はすべて厳罰に処せばよい。一方、産廃を0にするには、一切の事業活動を停止すればよい。同じ非現実でも、スケールが違う。珍走団のいない社会は想像できるが、産廃のない社会は想像を絶している。したがって、産廃の方がより根本的な存在理由をもっている、といえる。(もちろん、珍走団になるような人々、という区分なら話は異なる。人類が絶滅するまで、そのような人々はいなくならないだろう)
悲観的な人間観をもってすれば、現代のように若者が気軽にバイクを買える社会から珍走団を消し去ることは不可能かもしれない。しかし、その存在の必然性は、産業ほど明確なものとはいえない。その出自、社会にもたらす利益、不利益を勘案するに、私は珍走団より産廃の方が存在意義がはっきりしており、世の中に欠かせないものだと考える。
日本の通信行政を担当する総務省は、もう少しHTMLのことをわかっている業者に発注すべきだと思いました。検索結果のURIの異常な長さにも驚いたのですが、表示結果にもまた吃驚。そのマークアップの仕方を見てまたもや驚愕。
たしか移転の計画が発表されたのは春先だったような気がするのだけれども、大変な苦心惨憺を経て、ついに移転完了とのこと。お疲れ様でした。管理人のえどさんによるサイト評価はまだ再開していないようですが、サイト評価掲示板が再稼動していますので、興味のある方はどうぞ。
管理人のばんばんさんが倒れられてより3ヶ月余り。久しぶりに再訪してみると、一時の危険な状態を脱し、無事に退院し更新を再開されているご様子。リハビリ中とのことですが、順調に回復されているようで何よりです。
ここで取り上げられたことがきっかけとなって、あちこちで改ページのプロパティが参照されている。とくにただのにっきで紹介されたのが大きかった。合計で何百人かいらしたわけですけれども。
結論からいうと、対応ブラウザが少ないので、過大な期待は禁物。
ところで、ZSPCのCSS2対応状況ガイド、更新されませんかね? 人気のプロライターになってしまったから、無料で情報提供するのはもうバカバカしい(あるいは忙しくて手が回らない)という感じなのかもしれませんけれども。NN7、Opera7、Safariあたり、無理なのかなあ。でまあ、今はいい本が出ているので、お金を出せば近況も押さえられます。
まあ、最近のブラウザで大丈夫でも、古いものが対応していなければ使えない、というのが実際のところだと思うので、ZSPCの記事でも実用には足るのですけれども。
このサイトのリンクページからは連日のようにリファラが残るので、よく読んでいるのですが……。知人バレで閉鎖したサイトなのに、いいのかなあ、とか思ったりして。リンクページがほとんど以前と変わりないんですよね。もし私が知人バレで閉鎖したなら、文章とか考え方まで変えることはできないにせよ、以前の人間関係との連続性は隠蔽しようとすると思う。たぶん、それほど切実にバレたくないと考えているわけじゃないということなんだろうけれども。
現実論にこだわるなら、WinIEにはユーザ補助機能があるので、そこで「Webページで指定された文字サイズを使用しない」にチェックしておけば、絶対指定された文字サイズも「表示→文字サイズ」で変更できるようになります。現在は、その事実を知っている人があまりに少ないばかりでなく、知っている人がそれを他人に教えないという状況なんです。雑誌に書いているようなライターさんは当然、これくらいのことは知っているはずなのに、平気で「IEでは絶対指定された文字サイズを変更できない」と嘘を書くんですね。
電話サポートで質問すれば、ある程度デキル人を揃えている会社なら、IEでも絶対指定された文字サイズを変更する比較的簡単な方法があることを教えてくれます。だから、老人は身近な(じつは知識の足りない)「パソコンに詳しい人」だけに頼らずに、電話サポートを使い倒した方が幸せになれると思います。「できない」ことのいくつかがじつは可能だとわかるので。今、電話サポートの類はけっこう安いんですけれども、それは使わない人が多いからです。使った者勝ちです、これは。
そんなお年寄りに向かって、「文字サイズを大きくするためにはCSSを勉強しろ。無知は罪だ」なんて言えません。私はHTMLにしろCSSにしろ情報を相手に伝える為の仕組みであって閲覧する側がその仕組みを知らなきゃいけないというのは現実を無視した原則に思えるのです。
利用者が、一方的に利用者であるならば、そうかもしれませんね。Operaはアクセシビリティへの配慮ではかなり先進的なブラウザですけれども、これはいいですよ。最初から目立つところに文字サイズ変更メニューが用意されていますから。ユーザスタイルの適用も非常にカンタンで、最初からよくできたサンプルがたくさん用意されており、ユーザスタイル適用ボタンもデフォルトで表紙(?)に用意されています。
ユーザCSSという発想自体がダメだ、無理だ、とは思いません。ボタンひとつでブラウザの用意したユーザCSSが適用される、というOpera流のアプローチをもってすれば、現実的にもかなりいけるのではないでしょうか。
ただ、何も勉強せずに使える、というのは多くの場合、勘違いです。
例えば、何も知らない子どもは、ハサミを与えられても紙を切れません。なぜ紙が切れるのかを理解し、練習しないといけません。
例えば、テレビが電波を受信して信号を変換して映像を出していることを知らない人は、テレビを買ってきても使えるようになりません。コンセントにつなぐだけでテレビが見えるようになると勘違いしている人は、未だに生き残っているわけなんですが……。ホント勘弁してほしいです。
例えば、同じFAXが何枚も実家から送られてくるので驚いて電話してみたら、「何度送っても紙が戻ってきてしまって困るよ」と愚痴られた、という笑い話がありますけれども、これは某親戚の実話です。
全然わかっていない人は、幸せになれません。何を利用するにしても、一定の知識は必要です。そもそもテレビ感覚でWWWを利用する人は、文字サイズを変更できることさえ知りません。ブックマークという機能を知りません。ブラウザを開いたときに最初に表示されるページの変え方も知らない。私が出会った最強の例では、アドレスバーさえ理解していませんでした。その方、新聞や雑誌に載っているURIを、いつもYahooの検索窓に打ち込んでいたんです。彼いわく、「でね、見つからないって時は、適当に短くしていけばいいんだよ」……あー、そうですか。
そういえば、i-mode感覚でPCからWWWを利用し始めたある人は、Yahooディレクトリを辿ることしか知りませんでした。案外、この手の人は少なくないらしい。(じつは私も最初の1年はそうだったのでした)
辞書を引くために一定の勉強が必要なように、WWWを利用するのにも勉強が必要です。知識が増えていかないことには、有用な情報を効率よく利用できません。
たかが文字サイズくらい……たしかに、それはそうです。ただ、よく考えてみると、文字サイズを利用者が自由に変えられるのは、パソコンの世界に限られます。過去の経験がない、新しい世界のルールなのです。これまで私たちが、「何も勉強せずに使える」と勘違いしてこれたのは、それまでの人生経験が前提知識として利用できたからでした。
「文字サイズを変えられる」というのは新体験ですから、何も勉強せずに理解できるはずがない、と思います。
本なら、誰でも教えられないでも読み方がわかるでしょ、という人がいるのだけれど、実際にはそうでもない。日経エレクトロニクスという雑誌があるのだけれど、文中に参考文献一覧に対応する番号がよく登場するのだが、これがなんだか理解できないという同僚がいてひっくり返った。「ヘンな番号があるんだけど、何だろうね、これ?」……お前の頭のほうが心配だよ、俺は。たしかに文中に出てくる番号には、註の番号、図の番号、参考文献の番号と3種もあるから、とっさに理解できないということはあるだろうけれども。
ちなみに、小学生の何割かは目次と索引の使い方を知りません。本も、ちょっと機能が増えると、その使い方を知らない人が出てくるというわけでありまして……。
新潮文庫には栞紐がついているのですが、これの使い方を知らない人がいたことを思い出しました。「読書を中断するときに、紐をはさんでおくと便利でしょ」と教えてあげたら、とても感謝されたのですが、中学時代の話ですよ、これ。で、その人いわく「なんで他の文庫も栞紐を用意しないんでしょうね?」
私の回答はもちろん、「だって、せっかく用意しても使い方を知らない人が多いわけで……」
続き。
あと、文字サイトを運営してる人には理解され難いのですが、イラストサイト等を作っている人間にはサイトのデザインも伝えたい情報の一つなのです。意味や文章ではないからHTMLではマーキング出来ないのですが、意味は無くても感性に訴えかける情報を送信しているのです。デフォルトでユーザーCSSを使われてしまうと頭からこちらが伝えたい情報の一部をシャットダウンされてしまいます。それでは伝えたいメッセージは不完全にしか伝わらないのです。なので、なるべくユーザーCSSはデフォルトではオフにして、どうしても読み難い場合だけユーザーCSSを使うようにして欲しいと思ってしまいます。
でも、その感性に訴えかける情報
って、最大限見積もっても、視覚系ブラウザの利用者だけにしか伝わらないんですよね?
HTML文書に、過大な期待をしてはいけません。できないことをしようとするから、無理が始まるのです。たまたま視覚系ブラウザ(のいくつか)では、ある種の情報を付加できるかもしれません。しかし、それはあくまでも、オマケでしかありません。それを確実に伝える方法はありません。ありません、というところから議論をスタートしていただきたいのです。
0地点は、HTML文書そのものです。視覚系のデザイン情報は、一部の利用者に伝われば儲けモノ、伝わらなくてもOK、とは考えられませんか。
以下、昨日の備忘録より再掲。
ユーザスタイルの適用で失われる利益とは、すなわちHTMLで表現されていない何らかの情報なのですけれども、それはもともとごく一部の閲覧者層だけにしか享受できないものです。あってもなくてもいい情報だから、HTML文書自体に組み込まれていない(=あらゆる環境でその情報を得られるようにはしていない)わけであって、ユーザスタイルの適用による逸失利益は無視できます(できるようなものであるべき)。
ユーザスタイルの適用が面倒くさいといわれるのは、サイト毎に適用したりしなかったりするからで、常態化してしまえば面倒ではなくなります。そして、文字サイズ、配色、行間隔などの問題から、すべて解放されます。どのサイトも自分好みの文字サイズ、配色、行間隔などで表示されるようになるからです。
中略
なければないで困らない利益の逸失と、現に間違いなく存在する不利益の排除とを天秤にかけるなら、ユーザスタイルは適用を常態化すべきという結論が導かれる、と私は考えます。
製作者だけが手を加えられるのは、HTML文書自体のみ。それ以上の部分(スタイルもそのひとつ)には利用者が積極的に関与できます。利用者が利用者にとって最も望ましい利用形態を目指してあれこれするのを疎ましく思うのは、製作者の傲慢です。利用者にとってユーザCSSの適用が利益になるのなら、それをとがめだてするのはおかしいでしょう。(現実問題としては、逸失利益を気にしてユーザCSSを利用しない人が多いので、実際には心配無用です)
私もそう思います。しかし私が問題にしているのは、「不勉強な閲覧者は批判されるべき」「無知は罪」という命題と、「文字サイズ固定批判を叩く」という態度に、一体どういう関係があるのかということです。もう結論とその理由は書きましたが(Hatena::agenda 2003-10-29参照)、どうやら文字サイズ固定議論だと勘違いしている人もいるようですので、私の主張したかった事柄をもう少し一般的に書いておくことにします。
- 「閲覧者の無知を放置すべきではない」あるいは「閲覧者を啓蒙すべきだ」という信念でもって、「良いスタイルシートを追求する」という態度を否定すべきではない。両者は完全に無関係であるべきである。
例えば、閲覧者を啓蒙したかったとします。この時、「文字サイズを変更するには?」などといったタイトルの文書を用意したり既存の文書にリンクする。これは分かります。しかしながら、良いスタイルシートを追求する態度を批判する理由にしてはならないのです。たとえ、良いスタイルシートが閲覧者の怠惰を放置するものであったとしてもです。
よくよく考えてみると、この結論には同意できるのでした。
私が許せないのは、本来やっていいものを、やってはダメだという理由として、閲覧者の無知を持ち出すことです。
そふぃあさんは、仮に誰もが絶対指定された文字サイズを簡単に変更できるとしても、絶対指定には批判的な立場を継続されるでしょう(これは私とは違う立場ですが、今回それは中心議題ではありませんので、おいておきます)。しかし多くの相対指定推進者は、そうではありません。閲覧者が無知だから、仕方なく、相対指定を推奨しているのです。
そふぃあさんはIEで絶対指定を解除する方法を説明されています。そのうえで、相対指定を推奨されています。たいへん良心的な態度だと思います。(私はそふぃあさんが相対指定を推奨する理由に納得しませんが、それは今回の話題と離れますのでおいておきます)
しかし多くの相対指定推進者は、閲覧者を賢くしようとしません。閲覧者が賢くなれば、絶対指定を我慢する必要がなくなるのに、です。IEでの絶対指定解除手順は、閲覧者の積極的なデザインへの関与を求めます。敷居は低くありません。しかしこの一歩は、何より閲覧者にとって利益があります。「IEでは絶対指定を解除できない」と嘘をつく人々は、なぜ閲覧者の背中を押そうとしないのでしょうか。
私の仮説は、製作者は閲覧者に馬鹿でいてほしいのだ、というものです。積極的に閲覧者がデザインに関与することを、製作者は望んでいない。表示メニューから文字サイズを選ぶ以上のことはしないでほしいと思っている。デザインの主導権を閲覧者に渡さないために、文字サイズの絶対指定は自粛する。大きな既得権益を守るため、目先の利益は捨てる、そういうことではないか。
相対指定の推進者の多くは、相対指定がよいスタイルの条件だとは考えていません。仕方なく、相対指定を推奨しているだけなのです。本当は絶対指定をどんどんやりたいのです。IEがMozillaのような文字サイズ制御機構をもっていればなあ、という嘆き節の記事が世の中に氾濫していることを見れば、それは明らかです。もしそふぃあさんのように、よいスタイルを追求して「相対指定がいい」という結論に達したのなら、IEでは絶対指定を解除できない、なんて愚痴は無用です。IEの実装がどうあれ、絶対指定などするはずがないのですから。
じつはIEでも絶対指定は解除できるのだから、嘆き節は滑稽です。なぜ滑稽なふるまいを続けるかといえば、閲覧者を啓蒙する気がないからです。本当は絶対指定をしたいのに、それを我慢してまで閲覧者の啓蒙をしようとしない……それが相対指定推進者の実情です。閲覧者に説教していたら、商売はできません。だから、商用サイトならバカな客も神様扱いするのは仕方ないと思う。しかし、趣味の個人サイトにおいてさえ、本当は絶対指定したいけれど、あえてしない、というのは馬鹿げていやしませんか。
adramineさんへの意見にも書きましたが、私は「良いスタイルシートを追求する」ことを批判したいわけではありません。できるものをできないといい、やりたいことを自粛してまで、閲覧者の無知を全肯定し、放置しようとすることを批判しているのです。
これは別の話題。
以前、そふぃあさんはなるべくユーザースタイルシートなど使わせずに、自分の作ったスタイルで見てもらいたいと考えるのは、極自然なことではないですか?
とお書きになりましたが、私はそれがどれほど自然なことではあっても、間違った考え方だと考えています。自然(=大勢がそう思っている)だから正しい、とはいえません。
私がよいスタイルを追求しても「文字サイズは相対指定すべき」という結論に到達しないのは、閲覧者はユーザスタイルの適用を常態化すべきだと考えているからです。
先頭辺りに一つ条件節を補えば、私も同意です。その条件節とは:
- 閲覧者が自分にとって望ましいと思うスタイルで閲覧しなければならないならば
この条件節を考慮に入れない場合、(閲覧者は)
自分好みのデザインで閲覧を常態化すべきとは言えません。即ちここが論理的飛躍です。閲覧者は、自分にとって望ましいと思うスタイルにする必要はありません。以下理由。
- 最終的に読めればそれで問題ありません。
- 気に入らないデザインであっても、それを受け入れるという選択肢が、閲覧者にはあります。例えば、各ウェブページが提供する固有のスタイルの、その固有性はしばしばウェブの閲覧に関して有益であり、その利益と、気に入らないスタイルによる不利益とを天秤にかけることができます。
ユーザスタイルの適用で失われる利益とは、すなわちHTMLで表現されていない何らかの情報なのですけれども、それはもともとごく一部の閲覧者層だけにしか享受できないものです。あってもなくてもいい情報だから、HTML文書自体に組み込まれていない(=あらゆる環境でその情報を得られるようにはしていない)わけであって、ユーザスタイルの適用による逸失利益は無視できます(できるようなものであるべき)。
ユーザスタイルの適用が面倒くさいといわれるのは、サイト毎に適用したりしなかったりするからで、常態化してしまえば面倒ではなくなります。そして、文字サイズ、配色、行間隔などの問題から、すべて解放されます。どのサイトも自分好みの文字サイズ、配色、行間隔などで表示されるようになるからです。
実際には、きちんとマークアップされていないHTML文書を閲覧する場合に、どこが見出しで、どこが強調されているのだかわからなくなってしまう、という問題があります。しかしそのようなHTML文書はもともとそういう文書なのであって、まやかしが暴かれ正体が明らかになったに過ぎません。そう考えるならば、虚飾を排したという意味で、むしろ文書の本質を捉えやすくなったといえるでしょう。
なければないで困らない利益の逸失と、現に間違いなく存在する不利益の排除とを天秤にかけるなら、ユーザスタイルは適用を常態化すべきという結論が導かれる、と私は考えます。常態化すれば逸失利益に気づくこともなく、適用をそのつど選択する場合に比べて精神的負担も激減します。ユーザスタイルの適用は、常態化まで突き進むことで、多くの人にとって現実的な選択肢となってくると思います。
SHiiNA's Home Pageさんから、「オペラだと見づら過ぎる」との指摘を受け、単純な僕は「そうか、ならばオペラでも見やすいシンプルバージョンを作って選べるようにしよう。よくcssを切り替え機能があるサイト見るし」と思い、頑張ったり、結局サンプルを借りてきたりしながら、何とかCss切り替え機能を付けたのです。
無理。
もう無理です、これ以上は。なんでオペラだと切り替えができませんか。IEなら成功するのに。もしかして、オペラはcss切り替えに対応してませんか。もしかするともしかしますか。オペラのために付けた切り替えがIEでしか作動しないってのはどうなの。
しかも、解析用バナーの読み込みのせいか、indexページはなんか一瞬元のcssが表示されると言う不具合のオマケ付き。ああぁー。
とりあえず今日は力尽きたのでこのまま放置。最終手段としては、オペラを無視する……!
私もOperaユーザですが、相馬さんのサイトはとっても見やすいですよ。(私はOperaでは常にユーザモードを使用しています)
見にくいというなら、椎名さんのサイトの方が見にくいです。相馬さんに修正していただきたいことがあるとすれば、見出しの階層整理くらいでしょうか。CSSの問題点について述べるなら、右側の目次の背景が黒、文字色も黒ですから、黄色の画像を非表示にしていると、字が読めません。私は基本的に画像を非表示にしていますので、ちょっとこれは困ると感じました。背景色は黄色にすべきです。(ユーザモードを利用しているいつもの私には問題ないのですが)
ところで、私はOperaにSofa Kingというスキンをかけています。Safari風の見た目になっているのはそのためです。それと、ステータスバーもホットリストも隠してありますが、じつはいつもそうしています。不便じゃないの? といわれることもありますが、私は困っていません。余計なものに目移りしないですむ、という感じです。
第一に、閲覧者が啓蒙されたかもしれないシチュエーションを奪ったところで、何も問題ありません。徳保さんも認めているように、結局のところ、閲覧者は啓蒙されません。また、啓蒙されるされないに拘わらず、そのアプローチは屑です。「大衆は、便利だと何も勉強しないから、だから、不便にする」というのは、血の通わぬ、道徳的に誤った態度です。
第二に、CSS1,2の仕様書を読んでも、適合ブラウザの条件に、絶対指定されたフォントサイズを無視してよい、という記述はありませんから、無視できるかどうかは、ブラウザの実装依存です。言い換えると、CSSの適合ブラウザが、ユーザースタイルシート以外の手段で、文字サイズの固定を解除できるとは限りません。徳保さんはこう書きました:
現在よくある議論では現実論と原則論がごっちゃになっているため、IEのユーザ補助が大々的に取り上げられることが少ない。逆に「IEでは文字サイズの固定を解除できない」という誤解を助長する記事が多い。
しかし、
現実論と原則論をごっちゃにして、Internet Explorerに捉われているのは、徳保さんです。原則的には、文字サイズの固定を解除するには、ユーザースタイルシートを書いて上書きするか、CSSを実装していないブラウザを使用するしかありません。例外的に便利なブラウザがあるというのが現実です。だから、私はユーザースタイルシートを積極的に公開しています。私は、CSSを知らなかったからといって、閲覧者を無知だの大衆だのと呼びたくありません。脱線しましたが、以上より、文字サイズ固定を禁止する行為と、閲覧者を啓蒙する行為に、関連性を見出す態度は正しくありません。別個の問題として扱うべきです。
というわけで、矢鱈と時間がかかりましたがこれが結論です。
まず第2の反論について。
野球に例えるなら、失投を痛打された、という感じ。(意見交換をテニスや卓球のラリーに例える人もいるのだけれど、コートに入った球を全部打ち返さないといけないテニスは、ちょっと例として不適当ではないかと思う。野球が適当かどうかはともかくとして)
CSS2完全対応を謳うブラウザはユーザCSSに対応しているはずだから、製作者CSSによる文字サイズの絶対指定を無効化できる。実際、IEはちゃんとユーザCSS対応している。OperaもMozillaも対応している。NN4.XはCSS未対応である代わりに、CSSを無効化できる。したがって、「製作者CSSによる文字サイズの絶対指定は致命的な問題ではない」という意見は、空理空論とはいえない。閲覧者が積極的なユーザCSS活用に目覚めたならば、双方が大いに自由を拡大できる環境が既に整っている。
……と、私は主張したかったのだから、IEのユーザ補助を補足なしに持ち出したのは私のミス。ユーザCSS対応に加え、IE、Opera、Mozillaいずれも、より簡便な対応策を用意していますが、これらはあくまでもオマケ。そのやり方だけ教えるのは、あまり意味がありません(ひとつのアプリケーションの操作を知るだけに過ぎず、CSSは相変わらずブラックボックスのままとなってしまうので、目先の問題を解決することしかできない)。
しかし、この分部を修正しても第1の反論を突破するのは困難だから、結局、私は従来の主張(の組み立て)を破棄し、もう一度主張を立て直すことを試みます。
といっても、すぐに新しい展開をまとめられるはずもなく、まずは適当に書き並べてみます。
本来なら、CSS対応ブラウザがユーザCSSに対応していないはずがない。よって閲覧者がCSSについて勉強していれば、製作者の用意するCSSはどんなものでもかまわない。ユーザCSSですべて上書きできるからだ。したがって、製作者は仕様に従えばそれでよい。これは決して、閲覧者にとって一方的に不利な話ではない。統一された自分にとって最適なスタイルですべてのHTML文書を閲覧できるようになるのだから、むしろ望ましいことなのだ。Strict HTML + CSS は製作者にとっても閲覧者にとっても福音となる。
しかし、現実には、そう簡単にはいかない。
WCAG1.0で文字サイズの相対指定が推奨されているのは、シェアの大きいIEにおいて絶対指定を解除する方法を知らない人が多いからだ。しかしIEはMozillaなどと比較して、かなり簡単にユーザCSSを適用できる。さらに、ユーザ補助としてより簡便な対処法まで用意されている。このように至れり尽くせりでありながら、「IEに文字サイズの絶対指定を無効化する方法はない」などとよくいわれる。そういう記事を書く人が単に不勉強だということもあるけれど、しばしばIEの機能に精通している人まで、誤解を招くような記事を書く。
一体、それはなぜなのか? この疑問は、長らく解けなかった。文字サイズの絶対指定を禁ずる理由として挙げられるのは、いつだって「IEでは文字サイズを変更できないから」ということだ。逆にいえば、事実上それ以外の理由はないわけで、閲覧者の不勉強を大肯定する論調には非常に嫌なものを感じずにはいられなかった。
似たような例としては、縦長の文書(つまり内容の多い文書)では、小項目の末尾毎に「文書の冒頭へ戻る」リンクを用意すべし、という御宣託がある。しかしそれは、あらゆる文書の閲覧において求められる類の機能だから、仮にそのような機能の必要性が高いのだとすれば、個々の文書ではなく、閲覧用のアプリケーションの方で何とかするのが筋だろう、と思う。で、実際、IEにはHomeキーで「文書の冒頭へ戻る」機能がある。(多くのソフトが同様の機能を持っているので、Homeキーのことはちょっと覚えておくといいかもしれない)
一度やり方を知ってしまえば、閲覧者はそれ以降ずっと、幸せになれる。とりあえずの対処法だけでも、知っておくのは悪いことではない。少なくとも現バージョンのIEを使い続ける数年間、あらゆるサイトで文字サイズなどの悩みから解放されるではないか。にもかかわらず、安易に閲覧者の不勉強を放置し、製作者の努力で問題を中途半端に解消しようとするのはいかがなものかと思う。
WWWでは閲覧者=製作者であることが多く、IEに文字サイズの絶対指定を解除する機能があることや、文書冒頭へHomeキーで戻れることを知らない製作者は少なくない。で、自分が知らないものだから、親切のつもりで文字サイズを相対指定したり、文書冒頭へ戻るリンクを用意したりする。けれども、全製作者が文字サイズを相対指定するわけがないし、文書冒頭へ戻るリンクを用意するはずもない。
自分で問題に対処する能力を身につけない限り、閲覧者は泣き続ける。呪詛の言葉を吐いていれば、身近なサイトは対応してくれるかもしれない。しかし、ちょっと所要で訪問しただけのサイトに文句をいってもしょうがない。今すぐに、問題を解決できなければ困るのだから。閲覧者自身が勉強しなければ、「いつも幸せ」なネットライフ(?)はやってこない。
第1の反論を突破できない、と書いたのは、私がその反論に納得したという意味ではありません。そふぃあさんのような道徳観をもっている方を説得できない、という意味です。
そもそも私は、文字サイズの固定を推奨してはいません。閲覧者に不便が生じるとしても、それは結果であって目的ではありません。文字サイズの絶対指定を否定する理由はいささか弱い(あるいは多くの場合、単なる無知と誤解に依拠している)ので、文字サイズ固定の批判は不要だ、といっているのです。例えば、線形化されていないテーブルは、そもそも不正なマークアップですし、閲覧者には対処できない重大な問題を引き起こしますから、製作者は批判されるべきです。しかし文字サイズの絶対指定は正当なCSSの用法ですし、それ故に閲覧者に対処法が用意されています。これを同列に論じる記事が世の中には多いから、私は不満なのです。(註:そふぃあさんは両者を区別されています)
製作者が文字サイズを絶対指定しても、不勉強な閲覧者以外は困りません。そして私は、不勉強な閲覧者は批判されるべきだと考えています。無知は罪です。その一例を、10月20日の備忘録などに書きました。あるいは、HPRがIEを利用するのは無知を放置する発想のためだ、と述べました。無知を追放することは不可能です。不可能ですがしかし、無知におもねる必要を、私は感じません。少なくとも、趣味の個人サイトにおいては。
仮に、「文字サイズを相対指定していただけませんか?」という質問・要望があったとします。
私がまず回答する内容は、「**すれば文字サイズを変更できますよ」という知識です。その上で、自分にこだわりがなければ文字サイズを相対指定にするかもしれませんし、絶対指定を続けたい理由(それは瑣末なものかもしれない)があるならば、それを説明するかもしれません。
基本的に文字サイズは閲覧者の操作で何とでもなるのですから、製作者が閲覧者の要望に一方的に従うべき項目ではない、と私は考えます。不勉強であり続けたい閲覧者、怠惰であり続けたい閲覧者は、せっかくいい話を聞いても何もしないわけですが、私はそのような閲覧者に同情しません。その不勉強と怠惰は、必ず他の誰かを不幸にします。今は被害者面していても、その人は容易に加害者へと転化します。