あちゃー。現実逃避で備忘録を更新してしまった。
不眠不休なのに、なんでちっとも進んでいないんだろう。すみません、仮眠を取ります。
それではみなさん、よいお年を。
なんだかんだいっても実機の実装状況などが気になってしまう方には、多分たまらないサイト。「まったり日記」には携帯電話関連の話題がたくさん入っています。
記事を http://deztec.jp/lecture/cl/mobile.html へ移動しました。
金がないないといって騒ぐ連中は、一体何にそんなに金をかけているんだ?
と、よく考える。もちろん、車と旅行とファッションと家電にお金をつぎ込めば、月に15万円で足りないことはわかる。わかるのだけれど、頭が疲れてくると、他人の愚痴がだんだん許せなくなってきて、思考がループする。書籍なんてのは、それしかお金の遣い途がないなら、ホントに安いものだ。古書なら1冊50円で、読むのに1日かかる。仮に月に30冊買っても1500円で足りる。新刊を買っても、1冊700円だ。仮に月に30冊買っても21000円でしかない。
とにかく、ペーペーが中堅社員やベテラン社員をバカにして、俺らはもっと給料をもらってもいいはずだとか、給料が安い、生活できないとかいっているのは聞くに堪えない。
「自分は不幸だ」といいたい気持ちはわかる。暑いときに「暑い、暑い!」といって被害者ぶると、不思議と気分が紛れるが、まあそれと似たようなものだろう。私も、そういうしょうもない愚痴をいう。ただ、理屈はよくわからないけれども、とにかく私は、貧乏じゃない人が「俺は貧乏だ〜」という愚痴は大嫌いで、どうにもこうにも許せない。「暑い、暑い!」には寛容なのだが。
たまに他人の PC を触る場面があって、このときにフォントがアンチエイリアスのかかった表示になっていると、どうもやりにくい。ビットマップフォントの方がずっと見やすい、と私は思う。だからといって勝手に設定を変更すると、元に戻すのをついつい忘れて叱られるのだ。いらいらしながら作業をする。当然、仕事がはかどらない。
そのアンチエイリアスのかかった設定を気に入っている人たちが、なぜか PDF の文字は画面上では読みにくい、なんていいだすことがある。これだから官公庁は云々、というお決まりのアレ。うちの会社だって、カタログデータは PDF で提供しているじゃないか。イライラ。仕事はますますはかどらない。
MacOS9 はビットマップフォントの完成形 Osaka が標準フォントで、大学の研究室時代は「さすが Mac はきれいでいいね」なんて思っていたのだけれど、OS X 以降はアンチエイリアスのかかったヒラギノが標準になってしまって、残念だ。Windows も将来はデフォルト設定がアンチエイリアスのかかった表示になってしまうのだろうか。嫌だなあ。
携帯電話キャリアの違いで解説した通り、iモードやボーダフォン在来機・LモードではCSSが使えません。
このため、これらの端末ではスタイルを当てていないプレーンな表示にするか、本来なら排除されるべき物理要素でデザインしなければなりません。
(中略)
但し、あくまでも携帯電話ではCSSが使えない為、やむを得ず使われるものですので、PCでは使わないようにしましょう。
「装飾したいから装飾するのだ、それはいいことなんだ」という発想が根底にある解説なので、私は推奨しない。「お客様は神様です」というプロならともかく、素人の趣味でやむを得ず
など、ありえない話だ。私なら、非推奨属性など解説しない。「シンナーは身体によくありません」といいつつ「どうしてもシンナーがほしい人は、**街の裏道にたむろっているイラン人に声をかけなさい」と解説するなんて、おかしいではないか。どうしてもというなら……その気持ちは理解するけれども、解説しないのが正解だと私は思う。装飾できないものはできないのであって、「だから諦めなさい」というべきだ。
スタイルは文書のオマケに過ぎないのに、HTML を文書の表示スタイルの記述言語と勘違いするから、おかしなことになる。HTML 文書のスタイルは「指定できない」というのが基本線である。CSS を使おうとどうしようと、それは同じことなのだ。
あなたの好きなHTMLタグアンケートの一番の見所はオリジナルタグを考えてみよう。
の項で、読むといろいろ考えさせられる。とんだ素人まるだしの格好の悪いページが出来上がると思うけど、はじめはそれでいいと思う。ホームページを作り続けていく必要があなたにあるのならきっともっとうまいサイトや正しいサイトを作りたいと思うし作り方も勝手に憶えていくもんだと思います。
というのだけれど、この発想には罠がある。
きれいなサイトを作ろうと思って HTML を勉強していくと、結局、HTML はそういうことができない言語だということがわかる。CSS だって同じで、製作者がどんなに意を尽くしても、閲覧者はそれを無碍にできる仕組みになっていることがわかる。なぜそういう仕組みになっているのか? その理由は、わかるときがくればわかるものなのだけれど、多くの人は最後まで理解できない。
私も、疲れてくると「HTML はスタイル指定言語でもよかったんじゃないか」と思う。ブラウザの歴史がテキストブラウザから始まっている以上、それはありえない話なのだけれども……。ほとんどの人にとって、「スタイル指定に使えないなら HTML なんて意味ないじゃん」であるわけで、結局どうにもこうにもこのバカの壁を突破できない。一瞬は理解してもらえるのだけれど、持続しない。困った話である。
業界団体というのは、なぜこうも多いのか。社団法人情報通信技術委員会が作成したフォーラム一覧には100を超える団体が紹介されている。
なかなか、やるべきことが片付かない。年内に何とかしたいが……。
電話連絡の諸注意を改訂した。
私は電話を持ち歩かないし、睡眠を妨害されるのが嫌で就寝時にも電源を切っていたので、結局、一日のほとんどの時間、電源がオフになっていた。しかも留守録メッセージすら「聞かない」と宣言していたのだから、事実上、電話連絡は不可能に近かった。
じつは私自身、帰宅するたびに電源を入れる手間をバカバカしいと思っていた。そこでこのたび、留守番電話状態を常態化することにした。設定上は着信0秒でメッセージ録音の案内が出ることになっている。着信の音量も最小にしたから、睡眠の邪魔にもなるまい。
なお、滅多に充電しないので電池切れになっている場合があることをお断りしておく。
MT は本質的には「一様な入力と多様な出力を両立させたツール」である。そこから、従来の手動更新では面倒くさくて個人では運営できなかった新聞社のWebサイトのような形態を、簡便に実現できるようになった。
「MT は記事を最小単位として設計されたツールなので、一つ一つの記事が主役となるように使うべきだ」というテーゼを抱いている人は、実際、少なくありません。そうした自縄自縛の源泉のひとつが、(別の使い方が可能なのに)みなが同じ特定の使い方をしている事実なのです。
デフォルト設定には設計思想が表現されています。先に述べた通り、設計思想を聖域視して、自ら枠を設定してしまう人がかなりいるわけです。単に面倒でカスタマイズしない人は、まだいいのです。設計思想の根幹を揺るがすカスタマイズに、罪悪感を感じるという構図、これは私は以前から、この記事のアイデアを温めていました。
以前、加野瀬さんが興味深いリファラを TrackBack に追加し、追加された記事の筆者である jouno さんが「そういう使い方ってアリなの?」と疑問を呈したことがありました。私はその際 TrackBack 発明者の本来の意図はどうあれ、策定された仕様と実際のツールは新しい用途を許容するものだったし、その用途に需要があるのだから、新しい使い方はもちろんアリだ、ということを書いた(つもり)。MT の設計思想として、生成ログの最小単位を記事としたことは、重要な意味を持っているでしょう。しかしその一方で、MT は1日、1週間、1月、1年、カテゴリを最小単位とすることもできます。そう設計されているわけです。
私は作者の設計意図よりも、結果として誕生したシステムに注目します。設計意図の範囲外であっても、需要があり、システムがそれを可能とするならば、システムは便利に使われるべきだ、と考えます。設計意図はデフォルト設定に表現されます。それに引きずられ、やりたいことを、それが可能であるのに抑制する必要があるでしょうか?
(註:私がHTMLを視覚デザインに用いるな、という理由→HTMLそのものは、視覚デザインに使えません。使えるように見えるのは、錯覚です。みなで幻想を共有しているに過ぎません。HTMLは文書構造の明示以外のことが不可能なのです)
ボーダフォン端末の UTF-8 対応状況を問い合わせたところ、Vodafone Developer Suport Siteに記載があるので、調べてくださいという返事だった。その後の手間暇をはしょると、技術資料のHTML編 1.2.0 2003-12-05に以下の記述を発見した。
ボーダフォンライブ!向けHTML で記述するドキュメントではShift_JIS,EUC-JP, ISO2022-JP の複数個の文字エンコーディングを利用できる。加えて、P4(2)型/W 型では、UTF-8 も利用できる。ボーダフォンライブ!向けMML ではShift_JIS のみ利用できる。即ち、ボーダフォンライブ!向けMML ではEUC-JP,ISO2022-JP は利用できない。
国内の3大携帯電話事業者の内、公開されている技術資料の詳細さではボーダフォンが随一だった。しかしサイト内検索がないこともあって、「UTF-8 対応端末の有無/存在するならその型番が知りたい」という具体的欲求への対応能力はボーダフォンが一番低いように思われた。
「その箇所が第1レベルの見出しだから h1 要素としてマークアップする」のです。「h1 要素としてマークアップした箇所が第1レベルの見出しになる」のではありません。
- タグ名:OMR
- 効果:どんなにつまらない文章でもおもしろくなる。 ただアクセス数とは繋がらないことに注意。
こういった HTML 拡張を期待すること自体が、間違いなんです。OMR 要素が実在するならば、その使い方は「面白い文章がある→ OMR 要素としてマークアップ」となります。つまり「OMR 要素としてマークアップ→面白くなる」というのでは順序が逆なんです。
結果的には、テレビのバラエティー番組のように、面白い箇所を強調することによって、面白さが倍加するというケースはあるでしょう。しかしそれはあくまでも結果であって、最初からそれを狙ってうまくいくはずがありません。
ネタじゃありません。調査なさった方も、回答された方も大真面目なのです。しかしながら、精神衛生上、ネタとして読むことをお勧めします。
3位がp要素、2位がbr要素、1位がa要素というあたりは、ある意味で順当。HTMLのいろはをご存知の方は、2位のbr要素にひっくり返るでしょうけれども、世間ではbr要素が大好きな方が多いのだから仕方がない。
HTMLを他人に教えたことがある人なら、みな経験するはずのことなのですけれども、正しく教えても、必ずといっていいほど生徒は誤解します。HTMLをいきなり素直に理解できる人は、ほとんどいません。マークアップという概念をガッチリ理解して、世の中にあふれるバカ解説のおかしさを自分で指摘できるレベルに到達するのはたいへん困難です。相当の素養がなければ、まず無理だといってもいい。
私が目を離した途端に、「先生はごちゃごちゃいっているけど、要するにH1タグを使うと文字が大きくなるわけよ」と隣の席の人に講釈を始める生徒が現れます。私の説明よりも、経験的実感に基づく自己流解釈が優先され、しかもそちらの方が素人には納得がいくという悪循環。「せんせーのいうことはわけわからんけど、**ちゃんの説明はちょーわかりやすい」なんていうのが聞こえると、薄っぺらい間仕切り壁の裏側で私は絶望的な気分になります。
素人さん相手にHTMLの講釈をする仕事を正業にするのだけは嫌だな、とつくづく思います。というか、ボランティアでも、もう二度とやりたくありません。基本的に、マークアップという概念を理解できる人はニュータイプ(旧人類とは何かが違う存在)みたいなものであって、覚醒の兆候が現れてもいない人に教え込もうとしても無駄ではないか。
ただし重要なことは、だからといって間違った解説をしていいという話ではない、ということ。正しい解説をしても8割方の生徒が誤解します。だから結果を求めても仕方ないのだけれど、間違った解説をしてニュータイプの才能を空費するのはいかがなものか。これはもう断言していいのだけれど、正しいやり方を理解できるなら、絶対にその方が幸せなんです。
とはいうものの、商売としては多数派の満足度を上げることが重要で、多数派の誤解にすりよった解説こそが求められる商品だというあたりが悲劇のはじまり。いつの時代もそうだとはいえ……。小難しい説明を理解できる人は幸せ、そうでない人は不幸なはずなのに、そうならない。日の出を見て、「お〜、まさに地球は自転している!」と考える必要はなく、「日が昇る」という解釈でかまわないわけです(一般的には)。地動説が庶民の常識となるまでの道程を想像するに、気が遠くなる思いがします。
MT 導入に伴い備忘録の文字コードを UTF-8 としたところ、「携帯電話から見れなくなった」というご意見をいただいた。調べてみると、最近の端末(の一部)は対応していることがわかった。あれこれ考えたが、結局「UTF-8 に未対応の環境は無視する」ことにした。(改訂 2003年12月22日)
内容の本筋とは関係ないのだけれど、全面ではなくて前面が正しいのではないか。読んでいる間中、そればっかり気になって仕方なかった。
大幅に改訂し http://deztec.jp/lecture/cl/mobile.html へ記事を移動しました。
「このミス」の倍以上の回答者数を誇る、歴史あるランキングが本日発表されました。
例によって例のごとく、乱歩賞受賞作がランクイン。今年は2作同時受賞だったので、片方が落ちましたけれども、とにかく1作はランクイン。もうこれは絶対の傾向といってよいくらいです。「ZOO」もランクインしましたね。横山秀夫が強いのも予想通り。これは一体何なのかというと、要するに評論家的(あるいは作家的)ランキングよりも読者ランキングに近いということです。IN☆POCKET の読者ならピンとくる、アレです。
ありていにいってしまえば、ある程度、売れた本が上位にきやすいわけです。評論家・作家が褒める本と、読者が支持する本の微妙なねじれがそこにはあります。とはいうものの、順位が違うだけで、ほとんど「このミス」でもベスト20に入った作品ですよね。
ううむ、これはひどい。いや、いい作品ばかりなのですが、全作品が「このミス」ベスト20位以内に顔を出しているんです。たぶん、海外編でいろいろ発掘したい方は、IN☆POCKET の11月号をチェックするべきではないかと。読者、作家、評論家それぞれのベストテンが発表されていて、しかも各々個性的な結果になっていますから。
文春ランキングのベスト4までは「このミス」でもほぼ同順位なので、世評の高いことでは折り紙つきということになります。未読の方はこの機会にどうぞ。1位と2位は私も読みました。正直、お勧めです。なるほど、この結果も納得できるなあ、という感じ。
ツールはスタイルを規定するのような反応を読むにつけ、私はやはり心配になるのですが
低機能で有名なさるさる日記にひとついいところがあるとすれば、コミュニティーはたしかに用意されているのだけれど、あえてそこから隔絶した、コミュニティーを無視した運営をすることもできるということではないか。
最初からコミュニティーが存在しないわけではないから、ジャンル別インデックスや新着リストなどから最小限の集客はできる。人気が出るような内容なのに埋もれてしまう、ということは何とか避けられる。そうでありながら、読者の顔の見えない、まるで一人でこっそり書いているような、孤独な雰囲気の日記を書くことができる。
しかし、ふつうはなかなかその寂しさに耐えられまい。エンピツなどもそうだけれども、孤独な日記を書けるサービスの利用者が、あくまでも日記を自分のサイトの中の1コンテンツと位置づけるケースが多いことは、決して故ないことではないのではないか。
海外のウェブログツールが大々的に紹介されはじめたとき、日本には tDiary がある! という反論が多くあった。なるほど、tDiary は素晴らしいツールだ。しかし、IT 企業は tDiary には反応しなかった(少なくとも IT 系のマスコミが tDiary で雑誌の特集を組むことはほとんどなかった)のに、MT には強烈な反応を示した。何か新しいものを MT には感じたが、tDiary には感じなかったということではないのだろうか。
日記(またはそれに類する)コンテンツ単独でサイトとして成立する(しうる)カタチ、私がウェブログを知ったときに最重要と感じたのはその特徴だった。「なるほど、いわゆる"ウェブ日記"よりも、狭義の"テキストサイト"に親和性が高いわけだ」と思ったことを覚えている。(註:実際には何らかのサイト内にウェブログが用意されているケースも少なくない。だが例えば、ウェブログの筆者は親サイトのカウンターが回らないことを気にしないだろう。親サイトではなくウェブログをブックマークされても不満に思わないだろう。そのあたり典型的なウェブ日記の管理人とは発想が違う)
MT で構築されたサイトをはじめてみたときに連想したのは、tDiary ではなく Diary Note と楽天広場だった。レンタル日記サービスをサイト自体として利用するのは、なかなか日本にはなじまない。寂しがりの日本人向けにカスタマイズして(日記だけでサイトとして成立することを目指して)いけば、こういう形になるだろうと思ったのだった。
はてなダイアリーに感心したのは、Diary Note のようなつながり方に気恥ずかしさを感じる、シャイでカッコつけの、もう少し「テキストサイト」をやっている人々に近い層にも手を出しやすい距離を表現していたことだった。しかし結局、あるサイト内の日記コーナという位置づけで使われていることが多い。はてなダイアリーでさえも、あまりにもレンタル日記風味が強すぎる、日記だけのサイトとしてやっていくには寂しい感じがするということだろうか。たしかに MT と比較して、デフォルトの表紙のデザインがサイトの表紙らしくないきらいがある。
2ちゃんブログの成功(註:ここで成功とは、そのサービス単独でひとつのサイトという形式をとる人が多いことを指す)を見て感じたことは、やっぱり「表紙が表紙らしいデザインであること」は無視できないポイントであるな、と。
つらつらと書いていてとりとめがないが、要旨をまとめるとこうなる。
楽天広場はウェブログサービスとしてもっと認知されていいと思うのだがどうか。Diary Note は抜け目なくブームに乗っかり、ウチは昔からウェブログサービスをやってます、といって宣伝している。楽天広場はそういうことをしないし、客層が MT 等に注目した層とズレているので盲点になっているけれども、じつは侮れないサービスだと思う。(2003-12-17 改稿)
「MTとはてなで書いてるんですけど、その二つで書く内容がずいぶん変わってくるんですよ。MTは一つの記事を書くのに気合いがいるので、簡単に追加できない。はてなは逆に、一行コメントでも簡単に書ける。内藤さんが「Yeah!参加者はトラックバックして」と言っていたが、ただそれだけのためにエントリーをMTに投稿するというのはつらい。しかし、はてななら「今から行ってきます」も可能。そんなふうに、ツールごとに特性、使い分けが出てくると面白い。DoBlogさんならこういうことを表現するのにいい、とか、ココログならこう使うのに便利、とかいった特色が出てきて、使い分けが可能になれば、いろいろなサービスが出てきても面白いことになると思います」
はてなと DoBlog とココログは例として適当だけれども、MT まで引き合いに出すのはどうか。MT はユーザがかなり自由にカスタマイズできる。当サイトではコメントも TrackBack も拒否しているし、続きを読むとかそういった機能も排している。例えば、こういった使い方もあるということ。MT ははてなのようにもできるし、DoBlog やココログのようにもカスタマイズできる。
ただ、現実問題として MT をデフォルト状態にほとんど手を加えずに使用している人が多いのは事実で、プラグインを導入しても、それは結局「デフォルト状態+プラグイン」といった感じであることが多い。見た目をどうこうするなんてのは、カスタマイズの内にも入らないような話なんだけれども、それで満足している人が多い。勿体無いというか、不思議な話だ。
私が MT を選んだのは冷麺が自分のスタイルを崩さず導入することに成功したのを見たからだった。ツールに振り回されないためには、カスタマイズの自由度が保証されている必要がある。とくに、余計な(うるさい)機能の排除を強く望む私にとって、MT はいいものに見えた。blosxom を選ばなかった理由は簡単。ほしい機能を追加するより、いらない機能を削る方が簡単だからだ。
さて、ごく簡単に書くと、MT をはてな風に使いたければ、個別記事のアーカイブを作らないことだ。最小単位は日毎にする。月毎のアーカイブにも記事を全文表示するようにする。ここまでが重要で、あとはこだわり次第でいろいろ。最近の記事一覧とか、最近のコメント一覧などは表示しない。はてなのヘッダーを模したテーブルを最上部に据える。……このようにすれば、MT をはてな風に使えるようになる。
現在はデフォルトの設定通りに個別記事のアーカイブを生成している人が多く、それだからつまらない更新ができないという自縄自縛に陥る。日毎のアーカイブを最小単位にすれば、つまらない更新をいくらでもできるようになる。自分のカスタマイズの問題なのに、「MT はこうだ」などと可能性を小さく小さく見積もるような意見をよく見かけるので、この機会にちょっと書いてみた。
より限定すれば、私はMTは一つの記事を書くのに気合いがいるので、簡単に追加できない。
この一言に対してコメントしました。記事全体への意見でなければ TrackBack お断りですか?
まず、私は「はてなスタイルで気軽に投稿したい」などと言っているわけではない。日付ごとの投稿スタイルだと気軽に追加しやすく、エントリーごとの独立スタイルだと一つの記事への追加に気合いがいる、ということを示すために、典型的な例を持ち出したに過ぎない。
松永さんが補注なしに「MT = 各記事が独立した形」として発言なさったことは間違いなく、その裏には、その手の共通認識が界隈に蔓延している事実があります。現状では、単に MT といったら、誰もが各記事の独立した形を連想します。
MT 自体はどうとでも使えるツールなのに、そのような認識が一般化したのはなぜか? 「MT = ウェブログ(専用ツール)」という、松永さんが過去に何度も批判した誤解が、消滅するどころかHTMLへの誤解と同様に規定路線へと突っ走りかねない状況となっているのはなぜか?
後段の問題提起には注釈が必要でしょう。HTMLと同様、濃い人々の間ではツールをウェブログと混同する愚は排除されました。しかし裾野が広がるにつれて、誤解している人数はどんどん増えています。松永さんの説明によればさるさる日記だってウェブログになりえます。勝谷誠彦の××な日々。などいかにもそれらしい。なのに、雑誌のウェブログ特集で「ウェブログツール」としてさるさる日記が紹介されることはない。わかっているはずの人たちが、誤解を拡大再生産しかねないことをやっています。
松永さんは「MT = ウェブログツール」という誤解が誤解だと知っています。しかし、その松永さんでさえ、単に MT といったとき「各記事が独立した形」をみなが想像するという MT の虚像に依拠した発言をなさる。結局、多くの人々はデフォルト設定に引きずられるのです。
自分はわかっている。身近な人も誤解から解放されている。わかりやすい説明も書いた。だから安心……でしょうか? W3Cがあれほどわかりやすい仕様書を書いても、ほとんどの人はそれを読みませんでした。視覚系ブラウザのデフォルトスタイルに引きずられて、大多数の人々はHTMLをレイアウトの記述に使う言語と誤解しました。そうして、HTMLは広まっていきました。MT もそうなります。現実にそうなっている。
MT はウェブログにも使えるツールです。しかしこのままいけば、バカ日本地図は「MT がいわゆるウェブログの専用ツールではないことを証明した例」ではなく、「ウェブログツールの可能性を広げた例」と解釈されるでしょう……。
以上、私の問題意識をご理解いただけましたでしょうか。
DoBlogの方とお話ししたときにすでに文脈(コンテキスト)として「私がMTを使って運営している“ウェブログ@ことのは”では」云々だった、ということであって、別にMT一般論を話していたわけではない、ということで徳保さんには理解していただければと思います。
なるほど。なぜ松永さんがデフォルト設定に引きずられている?このサイトが?というタイトルで反論をお書きになったか、そしてその内容が「私はデフォルト設定に引きずられていない」という説明を主としていたのか、理解しました。私は「MT = 各記事が独立した形」として話が通じる空気が、MT への偏見と誤解を象徴するものと考え、それ故に「デフォルト設定に引きずられる人々」と書きました。
ところで、松永さんは主に想定されている使用法を想定して語ることが、そのツールの可能性を狭めるというのであれば、ちょっと杞憂
とおっしゃいますが、私はそう思いません。この件については、後々また別の記事を書くかもしれません。
「MTがいわゆるウェブログの専用ツールではないことを証明した」ということと「ウェブログツールの可能性を広げた」ということはまったく矛盾しないと思います(ウェブログ≠ウェブログツール)。「ウェブログの可能性を広げた」という趣旨なら理解できるのですが。あと、「MTはウェブログにも使えるツール」と書いてありますが、「MTはウェブログ用ツールとして開発されたが、それ以外にも使えるツール」というのが正確だと思います。
ご指摘の2箇所について、私の記述の不備を認めます。
東京へ出てからしばらく、1足しか靴を持っていなかった。靴を洗うときはサンダルを履くのだ。
最初の靴は案外早くにヘタってしまったので、前の靴を買ったのは昨年のことだったと思う。その靴が、ろくに歩いてもいないのに、もう磨り減った。通勤の朝夕でせいぜい 4km に満たない程度を1年で、弱い靴はダメになってしまうということを知った。たぶん私はこういうことを繰り返していて、いつも前のときのことを忘れて驚いているのだ。今回は、こうして記録しておくことにする。
前回は西友で特売品を買ったので、今回は PARCO で買ってみようと考えた。私は迷子になりやすいので、ちゃんと1階のカウンターで靴屋の場所を訊ねた。受付嬢はいつも暇そうにしていて、仕事らしい仕事をしているのを見たことがない(単に PARCO は高いので私が滅多に近づかないということでもあるのだけれど)。まあ、つまらない質問でも邪魔にはならないだろう。
というわけで靴屋についたのだが、なんだか居心地が悪かった。まずは値段を気にせず、目に留まったものをいくつか記憶する。とくに考えやこだわりがあるわけではない。それでも、あまりにもたくさんの商品があるので、嫌でも選ばないわけにはいかないのだった。土台、こういうのは苦手である。どの靴も、誰かが一生懸命作ったものだろう。とくにこだわりもないのに、足のサイズやら用途やらといったまともな理由以外で選択しなければならないのは、どうにも苦痛である。
ものの3分で店内を一周した。客はまばらで、店員の方が多い。こんなことで大丈夫なのだろうか。そう思って棚を見ると、違和感の原因と対峙することになった。
だいたい私は、ガラス製の棚に1足ずつ丁寧に見栄えよく飾られた靴には、とても似合わない人間である。人がどう思うにせよ、私自身は、そう思う。気後れがするのだ。金持ちの真似事などしても、子供の背伸びでしかないように感じる。実際、そうではないのか。息が詰まるような思いがする。足早になった。ふと気付くと、これを求めようかと思った靴の前にいた。値段は……
0が一つ多いんじゃないのかなあ。
しばしポカンとして、ふらふらと店を出た。
駅前広場を挟んで向側が西友だ。とことこ歩く寒空の下、だんだん元気が沸いてきた。西友にはたくさんの買い物客がいて、今日も紳士靴の特売をやっていた。特売台の上に靴が山積み。こんなに売れるのだろうか? 色と足のサイズと用途だけで選ぶ。1足しか持たないのだから、通勤と日常用のどちらにも使える中途半端なデザインがいい。というと、特売棚にはたいてい1種類しかない。こういう選び方が、私には向いている。
1900円也……悪くない、と思った。
先日、出張のついでに実家へ帰ったときに、母が「犬を飼いたい」といっていた。
私が大学を卒業して社会人になり、浪人生だった弟が大学生になり、同時に子どもが二人とも家からいなくなってしまったので、手持ち無沙汰になったらしい。この2年、庭いじりにたいそう精を出したと見えて、冬でも花が咲いているのだった。
父は秋に定年を迎えたのに、相変わらず毎日のように会社へ出勤している。ただでさえ少なかった給料が、もっと減ってしまったけれども、働かないよりはましだという考えらしい。さすがに、私の仕送りを弟の学費にするのはプライドが許さないのだろう。……なんて偉そうに書いてみたけれど、月に6〜8万円では何にも足りていない。実直な父が青二才に稼ぎを任せるはずがなかった。
さて。
犬は、ていねいに飼えば主人に忠実に育つ。いつも温かく、たいへんかわいい。家にいても何一つ役に立たなかったぐうたら息子より、よほど親孝行するだろう。そう思ったので、私は母の考えに賛成した。早速、飼う犬を探しにいこうかというと、それはできないのだという。父が反対していたのだった。
父は子どもがそのまま歳を取ったような人だ。せっかく子離れしたのに、今度は犬を飼うというのではやりきれないだろう。しかし、犬を飼わなかったからといって、何が変わるわけではない。それは父もわかっている。大切なのは、母がいったんは我慢するということだ。そういう、「形」が重要なのである。
母は、しばらく我慢するという。子どものいう「しばらく」は2、3日だったりするけれど、両親の老後の生活は20年以上続く(つもりでいるらしい)。来年の母の日にでも、私が犬をプレゼントしようかとも思ったのだけれど、考えを改めた。これは私が思い上がったことをしてはいけない問題だ。
おそらく、そう遠くない日に、父が母に犬を贈るだろう。家族はみな、じっとその日を待つのみだ。
意見の対立には、いくつかの段階がある。
お互いに理解不能の場合、双方が相手の意見を全否定することになりがちだ。これではどちらも納得できず、折り合いがつかない。そこで、双方が相手の意見の納得できないポイントを主張し、また回答しあうことで、疑問をひとつひとつ解消していく作業が行われる。
何割かの意見交換はある程度の成果を上げ、一方、または双方が相手の意見を理解するに至る。ただし、ひとつの結論にたどり着くことは稀だ。最終的に、譲れない価値観の差異が(端的な形で)明らかになることが多い。
結局、意見対立自体は解消されないので、無意味な議論だったという人もいるだろう。しかし私は、そう考えない。
しばしば、一方が他方の主張を理解しただけで意見交換は終わってしまう。そうであっても、そこに理解が生じたことは無意味ではない。
わけがわからないことを、丸ごと受け止める、という荒業もときには有効らしい。私の父は宇宙人で、他人の発想がよくわかっていない。けれども、家族は父が宇宙人であることを知っている。父が奇矯な行動に出ると、家族はふわふわと動く。いつの間にやら、火は消えている。そうして、一家の平穏はつつがなく保たれる。
フセイン大統領が米軍に拘束されたそうだが、よりによって今日は新聞休刊日だ。
ところで、アフガニスタンで拘束され、グアンタナモで2年間も勾留されているアルカイダのメンバーはいつになったら裁判を受けられるのだろう。フセインの今後も、どうなるかわかったものではない。
最近、楽天広場を利用しているサイトにアドバイスをしました。半自動であれこれできますというサービスの使い勝手や機能は、実際に自分でもやってみないとよくわからない。そこで、アドバイスのための情報集めの過程で、たくさんのサービスに加入してみたんです。それら全てに短評を付す気力はないけれども、楽天広場がコミュニティ形成能力において他を圧する優位点を持っていることはわかりました。これは大きな収穫。
はてな的な発想の一面を突き詰めると、楽天広場になるのだと思う。
楽天広場で自分のサイトを開設したら、何も書かないうちから10人も訪問者があって吃驚。宣伝を一切していないのにどうして10人もの方が訪問されているのですか? ……と不思議に思って調べてみると、プロフィールなどを登録するだけで、あちこちに私の日記にリンクが張られることが判明(しかも新着は目立つ位置で紹介されるのです)。それで、職業つながり、誕生日つながり、そういった関係で何人もの方がいらっしゃっていたんです。私自身は同属性の人の日記を読みたい! という興味があまりないので、意外な気がしました。
ちょっと申し訳ないなと思って、楽天広場の「テーマ」に沿って日記を更新。するとテーマ毎の新着情報から何人もの方がいらしたので、また吃驚。ReadMe!JAPAN の新着情報は全然宣伝効果がないことで有名なのだけれど、楽天広場では数百もあるテーマから好きなテーマを選んで日記を書くことによって、そのテーマに興味のある人をたくさん呼び寄せることができるというわけです。はてなのキーワード機能を、日記の新着告知という面でよりわかりやすく整理した形だといえそう。
そして、楽天ははてなと同様にみなログイン状態で(楽天に行動を把握されている状態で)あちこち見て回りますので、楽天会員のアクセスは全部個人を特定できるんです。だから、訪問してくれた方のサイトを絨毯爆撃式に読んで回れるという次第。はてなは、コメントを残さなければ訪問を気取られないのだけれど、それがふつうだと思う。楽天広場の設計思想の尖がり具合は物凄い。
というわけで、ちょっと書いただけの日記にあれよあれよという間に感想のコメントがつき、掲示板に「はじめまして〜☆」の書込みがいくつも舞い込み、なんだか嬉しくなってしまいました。楽天広場は麻薬です。はてな程度で閉鎖空間がどうとか、なれあいが云々とかいっている人は、一度、楽天広場を体験してみるといいと思う。衝撃を受けること、請け合いです。
もし今後しばらく備忘録の更新頻度が落ちるとしたら、楽天広場にはまっている可能性が高いです。
註:私は楽天広場の機能を一通り調べ、初手の段階ではツボを押さえた活用を心がけました。プロフィールを詳しく設定し、テーマに沿った日記を書きました。訪問者のサイトへ行き簡単な感想も(これは打算抜きで)書きました。楽天広場は、仕組みを理解して使えば、通常では考えられない高確率で「見返り」のあるシステムです。しかし、何もせずに「見返り」があるはずもありません。最初の10人でお終いです。
私が純文学を好かない理由はハッキリしないのだけれど、とりあえず、(私にとって)どうでもいい描写の中に物語を回転させる描写が埋もれてしまっているようなのは困る。私のように読むのが遅い人は、じっくり読んでいるわけではなくて嫌でも時間がかかってしまうのであって、3ページ前に何が書かれていたかを十分に覚えていられない。目先の数行だけで脳の処理能力が限界になってしまうので、だから読むのが遅いのだということもできる。
そういうわけで、物語の展開を馬鹿にもわかるように繰り返し描写してくれるエンターテインメント小説の方が好きだというか、そういうのしか読めないというか。純文学は、読み終わってから「で、どういう話だったっけ?」と頭カラッポになってしまうことが多くて困る。
ひとつの対応策として、純文学に限っては、私はなるべく先に粗筋を読むことにしている(註:実際問題としては、よほど有名な作品以外は粗筋を見つけらない)。でないと、物語の転回点を読み落として、何度も読み返すことになっていらつくことになる。
純文学をそうやって読んでいるせいかもしれないけれど、私はミステリを読むときにもネタバレに頓着しない。むしろ、いったん放り出したのに、最後まで筋を聞いてはじめて読了できた本も少なくない。「今はつまらないけれど、この先面白くなる」という保障があると読めるという理屈。犯人がわかったくらいでつまらなくなってしまうような作品は所詮凡作だ、とも思う。
そんなわけだから、犯人が結局わからない作品には不満を感じる。桐野夏生の「柔らかな頬」は、初稿では犯人を明示していたのだという。編集者が犯人を隠すよう助言して、作品は直木賞を受賞した。文学作品としてはそれでよかったのかもしれないけれど、俗な読者としては、やっぱり犯人を明示してほしかった。私は、犯人が明示されるような世界が好きなんだと思う。
新潮社は数十年前より不定期に純文学書下ろし特別作品を刊行している。箱入りの上製本で、本体が布で装丁されているのが印象的。いかにも高級な感じなのだ。私は純文学にあまり興味がないので、筒井康隆「敵」くらいしか読んだことがない。ひょっとすると、文庫化された作品のどれかが特別作品の出身だったかもしれないけれど、文庫になってしまったらもうわからない。
1973年に石原慎太郎が世に問うた「化石の森」は、純文学書下ろし特別作品だった。現在、新刊書店では買えないのだが、新潮社オン・デマンド書籍の販売で購入することができる。上下刊で6300円はさすがに高いと思って、近所の古書店へいって100円で買ってきた。多少、箱に疵はあるけれど、本文を読むのに支障はない。特別付録の江藤淳と石原の対談(話題はもちろん「化石の森」)もついていたので大満足。
しかし気になるのは、高級な造本だというのに、箱につまらない宣伝文句が印刷されていることだ。芸術選奨受賞なんて書いてある。調べてみると、1973年の芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞していて、石原のあまり多くない受賞歴の中でもひときわ重要なものであるらしかった。しかし「化石の森」は平気で人を殺す人間を主人公とし、その人間性を肯定的に描く作品である。文部大臣の名を冠する賞を授賞したのはブラックユーモアの香りがするけれど、じつは反道徳的な文部大臣賞受賞作は世の中にごまんとあって珍しくもないらしい。
石原は1968年に参議院議員選挙の全国区で史上最高得票当選を果たした。その後、初期の作品に目立った政治青年的主張が抜け、文学作品としての質が向上したといわれる。「化石の森」の執筆には5年を費やしたというから、まさに政治家・石原慎太郎の最初の5年間と表裏をなす重要な作品なのだ。
もうひとつ、「篠田正浩監督・東宝映画化!」なんて文字も刷り込まれている。ご丁寧にもゴシックの赤字だ。今時なら、帯で済ませるだろうに。30年前には勿体無いことをしたものだ。(ふと、今年はじまったミステリーランドの箱にも宣伝文句を印刷したシールが貼られていて愕然としたことを思い出した。たぶん、そういうことをする人とは「何に潔癖になるか」という感覚がずれているのだと思う)
「映画化!」で気付いたのだが、この箱、全面が映画の広告になっている。表も裏も、画質を落としてパターンに擬態しているが、素材は扇情的なスチールなのだった。ううむ、と唸った。香月泰男という装丁家の名前を覚えておこうと思う。この人の装丁には要注意。
主演男優はショーケンで、主演女優は二宮さよ子。ショーケンって、30年前には***な役ばかりやっていたんですね。←語彙の不足が露呈
2ちゃんブラウザは、2ちゃんねるビューアへのログインに失敗すると、dat落ちしたスレッド以外も読めなくなる。昨日まで知らなかった。平日は OpenJane を起動しないからなあ……。(12月11日に発生した2ちゃんねるビューアの障害は、昨晩復旧したそうですよ)
違法コピーしていることは間違いない。
少々の危険なら手を出したい商品があるのだけれど、そういう商品に限って仕事関連だから、いざというときのリスクが大きすぎる。趣味で勉強のために、とかいってみても、絶対にその自己規制は守られないに決まっているから。Pro/Engineer の最新版が25000円とは驚いたし、頭がくらくらするけれど、手を出さないのが正解。
全くの私用なら、才能のある方が趣味で作成されているソフトを Vector で探せば事足りてしまう。シェアウェアといってもせいぜい2000円で、とくに悩むような金額ではない。
それにしても、マイクロソフトは毎年1千億円以上の人件費をかけてソフトウェアの開発を進めているのだそうだけれども、だったらどうしてメモ帳が秀丸エディタに進化しないのだろうか。Explorer が 2xExplorer や ViX にならず、クイック起動がぷちらんちゃにならず、Internet Explorer が Sleipnir にならず、WindowsMediaPlayer が MediaPlayerClassic にならない。何をやっているんだ、あの会社は。
次のクライアント向けOSは2005年以降まで出ない。約5年も間が空くわけだが、次回作の Longhorn は WinFS という新しいファイルシステムを用意する。Office の進化でも何でもそうなんだけれど、マイクロソフト社は夢のような機能の実現(結果的には狙いの半分も達成できていないように見えるがそれはともかく)のためには頑張るけれど、実際に今すぐ役立つ機能の提供には冷淡だ。技術的障壁の低い目標を掲げたら、研究開発の企画書が通らないのだろうか。
同じようなことは他社の製品についてもいえる。IBM のホームページ・ビルダーもそのひとつ。毎年バージョンアップするのだけれど、ここしばらくは新しい(夢のような謳い文句の)機能を追加するばかりで、既にある機能の改善はほとんどない。私は付録のお絵描きツール、ウェブアートデザイナーを愛用しているのだけれど、なぜこのツールが3年以上も改善なしなのか理解できない。商品意図から考えて、Fireworks や Abobe Photoshop Elements のような多機能で鈍重なソフトにしては本末転倒だ。しかし、明らかに使いにくい箇所をなぜ直さないのか? じつは改善点は明らかでないのかもしれない。しかし少なくとも、何も改善すべき点がないということはないだろう。
なんというか、巨大なソフトメーカの考えることはよくわからなくて、こんなバージョンアップに何万円も払えるか! という人の気持ちは(いつもとはいわないけれど)よくわかる。とりあえずマイクロソフト社は世界中の趣味のプログラマに連絡を取って、便利な機能や使いやすいツールをどんどん次期 Windows のパッケージに組み込んでほしいと思う。(全く考えられない展開なのが悔しい)
朝食でのどに魚の骨が刺さって酷い目にあった。通り過ぎれば刺さらない(刺さっても気付かないのか?)。もっと手前にも刺さらない(これはたぶん確実)。なぜ、喉なんていう微妙な位置に刺さるのか。
昼食を苦痛のうちに済ませ、保健室へ行く。いつも心配をかけているだけに、こんなつまらないことでまたお世話になるのも心苦しいのだけれど、こう喉が痛くては仕事に集中できない。実験室のピンセットを使って自分で抜こうとしたのだけれど、目薬もうまく差せない(半分こぼす)不器用な人間に、そんな器用な真似ができるはずもなかった。危うくとんでもない場所で嘔吐するところだった。
餅は餅屋といったらいいのだろうか。保健婦さんはあっという間に骨を抜いてくれた。抜けた約2cmの骨を見ると、血液と粘膜が5mm以上もついていて、「そんなに深く刺さっていたのか」と驚いた。痛いのも道理だ。
ところで、医者にかかるとこんなことでも1000円くらいかかったりするらしい。そういえば、ふだんは3割負担なのだった。ついつい、3割が全額だと勘違いしてしまっていけない。薬局で風邪薬を買うときにも、医薬品の値段の高さを思い知らされる。
海外編は新刊が文庫で出ることが多いのが嬉しい。ランキング上位の作品はハードカバーが多いのですが……。私の場合、海外編についてはIN☆POCKET11月号を参考にしています。毎年11月号の特集は文庫の翻訳新刊だけを対象にしたランキングの紹介なんです。財布の中身をあまり心配しないでいいので、安心して読めます。
私にとって「このミス」のランキングは、「将来の文庫化を待つリスト」に近い位置づけなんです。といっても、晶文社ミステリなどはいつまで待っても文庫にならないのだろう(早川の異色作家短編集など前例は多い)し、ちょっと悩ましい作品もちらほら。
未紹介の旧作の発掘がここ数年盛んだということもあって、新人作家のランクインが年々減っているのだそうだけれど、それでも海外編は国内編と異なる空気があります。「このミス」の国内編は以前から新人のランクインが多くありません(今年は0)。とくに乱歩賞受賞作が毎年のようにランクインする文春への対抗心からかどうか、新人賞の受賞作には非常に辛い。新聞や雑誌の書評に多く取り上げられた作品も、たいてい選外なのです。
その点、海外編は強烈なランキングになることがしばしばです。なんと今年の1位は新人の作品ですよ! ちなみに、2003年版1位「飛蝗の農場」のジェレミー・ドロンフィールドは新人。2002年版1位「神は銃弾」のボストン・テランも新人。2001年版2位「Mr.クイン」のシェイマス・スミスも新人。1999年版1位「フリッカー、あるいは映画の魔」のセオドア・ローザックも新人。さらに97年版1位「死の蔵書」のジョン・ダニング、95年版1位「シンプル・プラン」のスコット・スミス、同年2位「ストリート・キッズ」のドン・ウィンズロウ、1991年版1位「薔薇の名前」のウンベルト・エーコ、……。まあ、新人といってもデビュー作が紹介されているわけではないのだけれど、とにかく日本での紹介第1作がドカーンとくるのが「このミス」海外編のよき伝統なのです。今年の1位も、もちろんお勧め。
で、紹介第2作が無視されることもしばしばあるのが面白いところ。ボストン・テランの2作目「死者を侮るなかれ」は選外に。「氷の家」で注目されて「女彫刻家」で1位になり、その後も上位に顔を出したミネット・ウォルターズや、第2作の「わが名はレッド」が3位に入ったシェイマス・スミスのようなランキング常連への道は厳しいようですね。前評判が高いのにランキングで振るわない作家は、たいていその後も難しいんです。といっても、「このミス」だけが書評ではないので、本の売れ行きには影響ないと思いますけれども。
ところで、今年からついに裏表紙に掲載される過去のランキングが最近5年分になってしまいました。過去のベスト20に興味のある方は、既にAmazonでは在庫切れになっていますけれども、「このミステリーがすごい!傑作選」を入手されることをお勧めします。古書店を探すと見つかりますので。「このミス」を全部集めようとするよりは、だいぶ楽だと思います。
私は小説に関しては「このミス」と趣味があっているので、98年版以降、毎年買っている。それ以前は小遣いが月に500円程度だったから、本を買うことはなかった。図書館にはずいぶんお世話になった。全頁読んだ本(という縛りをかけると、ほとんど小説になってしまう)だけ数えても、あの頃は年に150冊くらい。1ページ読むのに1分かかる遅読派だったにしては、ずいぶん読んだものだ。今でも、本を読むにはけっこう時間がかかる。
さて、昔はペラペラの小冊子だった「このミス」も、97年版からはかなり内容も造本もしっかりしている。とくに2色刷りになってからは綺麗でいいですね。というわけで(?)2004年版のランキングを見る。海外編は明日にして、今日は国内編。
個人的に、アレッ? と思ったのが真保裕一の「誘拐の果実」が見当たらないこと。2002年11月の発売で、文春のベスト2位になったから、今更……ということなのかもしれないけれど、久々に上位に来るかなあと思っていただけに、真保裕一ファンとしては残念。ただ、その代わりといっては何だけれども、東野圭吾が2冊ランクイン。これは嬉しかった。
歌野晶午は初ランクインにしていきなり奪首という快挙。新本格の古参作家なんですけれども、ここ数年、きてます。下馬評は高かったけれども、「本ミス」に続いての1位ということで、さすがに意外との声もあり。私は「終戦のローレライ」が1位にくると予想していたのだけれど、「葉桜の季節に君を想うということ」にはたいへん楽しませていただいたので文句なし。過去に「ミステリーズ」や「奇術探偵曾我佳城全集」が1位をとってきた「このミス」らしい結果ではないかと思う。何だかんだいって、文春のベストテンとは一味違う。(追記:書店へ行ったら、12月20日付で「葉桜〜」が2刷に。とっくに増刷かかっていていいはずの傑作だと思うのに……)
といいつつ、私が本当に吃驚したのが「マルドゥック・スクランブル」のランクイン。うひゃー。全3巻、案外、読んでいるんですね。まあ、ふだんこの手の作品に手を出さない私が読んだくらいに、一部で話題になった作品ですけれども。書店で見つけられない人が多そうなので、Amazonにリンクしておきました。(他の作品は面倒なので省略→リンクしました)
あとは、伊坂幸太郎の受けがいいことに注目。「このミス」にランクインするのはハードカバーが多いんだけれども、「陽気なギャングが地球を回す」は新書版なので、値段も安いから小遣いの少ない方にもお勧め。今、読んでます。面白いです。
昨日、久々に加納さんとのやりとりを再開しました。
興味のある方はどうぞ。
参考文献をひとつご紹介します。面白いですよ。
私がこの話を始めて学んだのは大学1年の秋。あれからもう、丸5年経ったわけですか……。
WindowsXP について書きます。
Explorer がハングアップする(止まる)と、Windows が急に重くなります。これは理不尽な話で、Explorer が孤独に落ちてくれればいいのに……と思いますよね。Explorer をスレッド化する手順は次の通りです。
HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Explorer
を開くWindowsXP について書きます。
上記文書で紹介されている方法はIE6でも有効です。簡単にこちらでも紹介しておきましょう。
REGEDIT4
[HKEY_LOCAL_MACHINE\SOFTWARE\Microsoft\Internet Explorer\AdvancedOptions\BROWSE\Bakera]
"RegPath"="SOFTWARE\\Microsoft\\Internet Explorer\\Main"
"Text"="スタイルシートを使用する"
"Type"="checkbox"
"CheckedValue"="yes"
"UncheckedValue"="no"
"ValueName"="Use StyleSheets"
"DefaultValue"="yes"
で、このときに問題となるのがシェルと IE の統合ってやつです。WindowsXP ではフォルダウィンドウやアクティブデスクトップ、タスクツールバーなどに IE が使われています。それは別にいいのですが、問題なのはおかしな HTML と無茶な CSS で見た目を制御していることです。そのため、CSS を無効にすると、いずれも表示がひどいことになります。
もちろん、フォルダオプションやらカスタマイズやらを頑張れば、ある程度まで対処できます。しかし、レジストリをいじれば、一貫した操作によってシェルと IE の統合を無効化できるのです。
HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Policies\Explorer
を開くところで、Windows 標準のファイラー(Explorer)は使いにくいと思います。とくに縮小画像の表示機能は重過ぎてダメです。その上 IE との統合を無効化すると、いっそう使いにくいでしょう。レジストリをカスタマイズするついでに、ファイラーと画像ビューワを新しくすることをお勧めします。
ツリービュー付の2画面ファイラーです。2画面ファイラーは数あれど、ツリービュー付のものは他に知りません(世評の高い Servant Salamander にもツリービューがない)。ちなみに1画面ファイラーでツリービュー付のは腐るほどあります……。2画面ファイラーは、最低限の使い方をするだけでも明らかに便利です。これに慣れたら、もう Explorer には戻れません。
その他、私がよく使う機能としてはテキスト検索があります。検索専用ソフトと比較すれば貧弱ですが、大抵の用は足ります。Windows 標準の検索よりはずっと速いですし。逆に付属の画像ビューワは使っていません。
私は 2xExplorer を常用ファイラーとしつつ、ViX を適宜併用しているのですが、もしひとつだけソフトを導入したいということであれば、迷わずこちらをお勧めします。ViX があれば Explorer は不要です。そして Windows 標準の画像ビューワともおさらばです。何せ圧倒的に軽い、速い、そして機能が段違いに豊富なのです。ViX を使っていると、Microsoft は一体何をやっているのだろう? と思います、ホントに。
ViX を常用ファイラーとする場合には、プラグインだけ入手すればOKです。2xExplorer を常用するなら、標準の画像ビューワとして Susie 本体も導入しておいた方がよいと思います。Windows 標準の画像ビューワより高速で動作します。
複数の画像を同時に閲覧できますが、ファイラー的な操作はやりにくいのでご注意ください。用意されている機能は豊富ですが、それらは ViX に任せましょう。画像ファイルをダブルクリックした際に呼び出される、簡易ビューワの代替として使うと、ViX とうまく棲み分けできます。
対抗ソフトに IrfanView32 がありますが、私は Susie を推します。Susie プラグインは国産ソフトで広く用いられています。IrfanView32 もプラグインで対応ファイルが増えますが、この手の追加プラグインを複数管理するのは煩雑です。また ViX と併用するなら省機能(っぽい)設計のインターフェースを持つ Susie の方が役割分担が明確で、使用時に迷いが生じにくいでしょう。逆に IrfanView32 を使い倒すなら ViX と Susie は不要でしょう。
WindowsXP について書きます。
タスクバーなどから吹き出しのような形のメッセージを出すアプリケーションがあります。いつも勝手に立ち上がってくるのが嫌ですよね。これは基本的に各アプリケーションが独自に表示しているものではなく、WindowsXP の「バルーン」という機能を呼び出して実現しています。私のパソコンの初期設定ではメールが届くたびにバルーンが出たりして、ちょっと目障りだったので、消してしまうことにしました。
HKEY_CURRENT_USER\Software\Microsoft\Windows\CurrentVersion\Explorer\Advanced
を開くどうでもいいけど,blog方面は読みづらいデザインのサイトが多いなぁ,という印象。特に,字を必要以上に小さくしてるサイトが多い。どうか皆さん,字の大きさはデフォルトのままでお願いします。私からのお願い。いちいち[Ctrl]+[+]で字を大きくして,読み終わったら[Ctrl]+[-]で戻す,というのも結構な手間なんですよ……。
字が小さくて困る場合への対処は比較的簡単で、Opera と Mozilla には最小文字サイズの設定がありますし、IE には文字サイズの指定を無視する設定があります。問題は大きすぎる文字でありまして、IE なら簡単ですが、Opera と Mozilla ではユーザスタイルシートで頑張るしかないような……。
私は小さな文字より大きな文字にいらつくことが多くて、だから IE を使う場合には「Web ページで指定されたフォント サイズを使用しない」ことにしています。常用している Opera はいつでもユーザモード! Mozilla は基本的に使いません。昔は好きだったんですけど。
この記事を他人に教えると喜ばれそうだと気付きましたので、ご紹介しておきます。知らなかった人は驚くといいと思う。記事を読むと、何で今までこんなことに誰も気付かなかったのか、と思う人もいるのではないかな。それにしても、(一部の人にとっては)これほどの大ニュースであるのに、公開1ヶ月でカウンターの数字が5万に満たないのは意外な感じがします。
私はこの記事のことを異なるバージョンのIEを一つのWindowsにインストールで知りました。約1ヶ月前のことです。文中に天地開闢以来、人類の抱きつづけてきた夢がいまや現実のものに!
とありますが、なるほどこれは大ニュース。とくに仕事でWebサイトを作成されている方にとっては福音でしょう。NN7よりIE5.5の利用者の方がずっと多いわけで、古いバージョンのIEのバグを確認するためだけに、PCを余計の用意するという非効率は、Web製作の現場では常識でさえあったのでした。
ところで私は、スタンドアロンでインストールできる古いIEをGETしただけで、それっきりにしていました。古いIEでの表示結果に無頓着だから、コレクター魂が満たされただけで満足していたのです。けれども、1つのWindowsに複数バージョンのIEを共存を読みつつ、ふと思うことがありました。この話題があまり噂になっていないのは、みな興味がないからではなく、単に知らないからではないのか、と。
結果的に、大勢の方に喜んでいただけたようで、嬉しく思います。(03.12.7 追記)
ところで、こういうときに「IEをMicroSoftに断りなく配布するのは著作権の侵害だ!」とかいって怒り出す人はいませんね。著作権の侵害行為であっても、公共の福祉に大きく利するならば、社会的になんとなく許容されてしまう一例。でもMicroSoft社はそのうちに怒り出すかもしれない。それはそれで正当性のあることだから困る。(いや、別に困りはしないか……)
今回の発見のきっかけは、プラグインの特許に関する混乱でした。MicroSoft が開発者向けに公開したIE6の特許対応版が従来のIEと共存できる仕組みになっていることがヒントになったのです。FLASH 利用サイトにとっては悲劇的な展開となっている騒動ですが、これで少なくともひとつは、よい結果をもたらしたといえそうです。
じつは、1年前にも同様の記事が書かれていたのでした。しかも日本語。整備済みのIEを配布してはいませんが、解説に不足はありません。なぜこれほど需要の大きな情報が埋もれていたのかと、不思議に思うほどです。レアケースだとは思いますけれども、こういうことってあるんですね。
改善案の改善案を作ってみた。見た目についていうと、neroさんの改善案よりも先生の作例の方がよくできていたので……。また、先生は見た目しか気にしないから階層表現も楽勝。全角スペースで左インデントを表現すればいいだけ。それに対し、neroさんの改善案では、単純にリストをネストなどすると狙い通りの表現にならない。やっぱり、どうせ改善案を作るなら、見た目だけでも同等以上にしたいと思う。(註:先生の作例はホームページ裏ワザ大全HTML TIPS & TRICKSからの転載なのだそうです)
ところで、本題はここから。
私は昨日、dt要素とdd要素の関係は判断が難しいということを書いた。DTDを見ての通り、先に出てくるものがdt要素と判断するのはあまり根拠がない。目次の文字列と頁数の関係もそうで、neroさんは頁数をdd要素としているけれども、私は頁数をdt要素としてみた。それでも理屈には合う。
目次の場合、どちらがどちらの説明とも断言できない。「**ページ目にこれこれの内容があります」と考えれば、頁数がdt要素となるし、「これこれの内容があるのは**ページ目です」と考えれば、文字列がdt要素となる。相補的な関係にあるから、どちらもありうる。実際、いろいろな本を見ると、目次のレイアウトはパターンが豊富だ。数字が先に来るのは、雑誌などでは決して珍しくない。書籍の場合にも、頁数が目立つように版面が組まれているケースがときどきある。
うわ、リニューアルされてる!(今頃気付いた)
転載自由のサイトについては、しばらく前に頑張ってたくさん探して、それからダウンロードしまくったものです。あの膨大なファイル群は、一体どこへいってしまったんだろう? パソコンを変えるときに調べたら、あらかたなくなっていました。
リンクも好き勝手にできないなんて! という理由で、やる気をなくしてしまう人の方が重要だと思うのだけれど。
反論されて泣くのが反則であるように、アクセスが集中したのに耐えられなくて消してしまうというのも一種の反則だと思う。もちろん、それでも消すのは勝手だけれど、それをいうなら、消されて残念がるのも勝手ということになる。弱者の抵抗としてのサイト消しは、当人にとっては単なる逃避行動かもしれないけれど、この手のことはリンクした側の精神にボディーブローのように効いてくる。
だったらリンクしなければいいじゃないか、というのはまったく一方的な意見であって、リンクの自由に依拠した楽しいサイト、需要のあるサイト、面白いサイトはたくさんある……ということを忘れないでほしい。サイト全体を賭けた話に対して、たかがリンクひとつの配慮もできないのか、という見方もあるだろうけれど、この手のことは一事が万事だ。リンクひとつのことが、結局はサイトの寿命を縮めていく。
それはともかくとして。
「リンクしなくても大手サイトは存続しうるが、リンクされた結果、小さなサイトは死んでしまう……だから、リンクしない選択を」という論旨の展開は、弱いサイトに肩入れし過ぎて状況を見誤っていると思う。儀礼的無関心の推進もまた、多くのサイトを殺すだろう。
結果としては、誰も幸せになっていない
とは近視眼的に過ぎる。例えば、国民全員の行動を随時監視していれば犯罪はほとんど起きなくなるだろう。小悪を徹底的に排除しようとすれば、自由を制限するしかない。だが、それゆえに不都合も大いに生じることはいうまでもない。犯罪さえなくなればいい、というものではないだろう。マイナーなサイトが、大きなアクセスでつぶれてしまう……それは、WWWにおいてありうるリスクだ。それ自体は残念なことだといっていい。しかし、だからといって儀礼的無関心なるものが正解となりえるか? 目先の問題を解決できればいいのか。
ノーリスクの追求は、大きな利益の逸失につながる。私はそれを危惧する。基本的に、リンクの自由が「正論」とされている状況を、私は護持したい。
ううむ、出遅れたつもりでいたけれど、結果的にはむしろ早い方だったか。
ようやく、今朝早くに公開されました。興味のある方はぜひ。
私の連載もあります。
ところで今回これほど遅れたのは意外でした。公開してからいくらでも直せるわけなんですけれども、全然できていないものは公開しようがない、というわけだったのですが、まさかそれほど作業が遅れている**があるとは思っていませんでした。私が焦りつつ日曜日の朝に一応は公開できるものを仕上げたのは何だったのか。と、過ぎたことをいってもしょうがないので、次回はたぶん今回よりも積極的に関わっていくと思います。
前回までは、私は自分の原稿だけ書いていました。今回は、連載原稿のデザインもやってます。大半のページは、ししまるさんがデザインなさっていらっしゃいます。サイキさんは今回、基本的には編集に集中なさったということになっている。連載関連は注文がほとんどないので、執筆者もデザイン担当も事実上のフリーハンドであって、だから私は引き受けたのだけれども、次回はそこから一歩踏み出すことになります。
なります、なんて断定口調ですが、まだ未定です、実際は。
今回、ししまるさんが苦労し、私の作業が比較的軽かった理由は、例えばソースを見れば明らかだったりします。私の担当分のマークアップは簡単で、ししまるさん担当分は複雑。私はいただいたテキストを置換ツールを用いて半自動でマークアップしています。設計段階から、それが可能なシンプルなマークアップを目指したわけです。そのあたりのノウハウも含めて、もうちょっと事前に担当者同士で情報を融通しあったらよかったかな、というのが私の考える反省点。
次回こそ、予定通りに出るといいと思う。
ふつう、サイトは開始後3ヶ月で実力に見合ったアクセス数になります。人の出入りが平衡状態となるわけです。相互評価型Webランキング一字が登録サイト数100前後からほとんど変化しないのは、要するに現在の一字がその程度の実力であることを示しています。
さて、(その必要があるかどうかはともかく)現状を脱するためには、実力を増進しなければならないわけです。でまあ、一字の掲示板や、あるいは参加者有志のサイトではこれまでに様々な一字論が展開されてきました。私はそれらのほとんどに懐疑的で、「そんなこといっても、ないものねだりでしょ」もしくは「それは先人が失敗した悪手筋なんだけどなあ」と思うばかりでした。
掲示板を眺めていて面白いのは、自サイトが酷評されることについて不満を持つ人は、「ランキングで他者の足を引っ張ろうとしている人がいる」と考える傾向があるということ。私は一般のサイト批評掲示板の惨状をよく知っているから、一字の参加者はかなり紳士的という印象を持っています。けれども、そういうことを知らない人は、ランキングに目が向いて、理由付けを誤ってしまう。実際にはランキングなんかあってもなくても関係なく酷評されるはずです。でも、そうだとは認めたくないのでしょう。
今回ご紹介した意見も、現在は登録サイトがお互いに敵同士と認識しているからうまくいかないのだ、という前提で意見を進めているのだけれども、そうなんでしょうかね? 私は、そうは思いません。評価の下手な人は、自分でも申し訳ないと思っているだろうし、酷評する人だって、相手を凹ませてやろうと思って書いているわけではないでしょう。「ライバルを蹴落としてやる」と思っている人が皆無とは申しませんが、例外的存在には違いない。
よかれ悪しかれ一字は素人の互助会であり、基本的には評価の出来不出来にムラがあるのは当然で、そこに悪意を感じるのは筋違い。そういうものだ、と思って参加する……それでいいんじゃないのかな。何も改善しなくていい、というか、改善なんて出来やしないので、期待値を低くしておくといいよ、という解決策。それをいっちゃあお仕舞いよ、って感じではあるけれど。
仮に私が一字を改善するなら、一字を相互評価方式を中心とした総合的なサイト評価サイトにするかもしれない。一般的なサイト批評掲示板と、とくていの誰かがアドバイスする評価依頼コーナを併設するわけです。そうすれば、結局のところ相互評価がいかに優れているかが明らかになってくるのではないかな。
私は一字をたいへん素晴らしいと思っていて、それなのに参加者が満足しないので苦笑するというのが基本的な構図。よそがどれほどひどいかご存じないのではないかなあ、というのが根底にあるので、一字の中に「よそ様」を取り込んでしまえばどうか、と思ってみたりするわけです。まあそれも無茶な話ではあるので、現実的には、他のサイト批評サイトを表紙で紹介するような形になるのだろうか。いわゆるタグ屋はその手のことをよくやっています。逆リンク集つながりで大きなネットワークになっているんですね。あれはWebリングの発展的形態だと思う。
いや、ふつうに定義された用語とその説明の纏まりになっている箇条書きというものだったら、自然言語の文章としてもdt要素としてマークアップされるものが先に出てくるであろうということはわかるんです。しかし、話者と会話という対が連なる、たとえば対談のようなものをマークアップする場合にもdl/dt/dd要素は利用されうると、仕様書に書かれているのです。何というか定義語と定義内容というものからはややズレたというか、いわば応用編ともいえるような用法が、仕様書で紹介されてしまっているということで、となれば、dd要素のほうがdt要素よりも先に出てくるパターンがありえるのではないかと、思ってしまったりもするわけです。
まあ、とはいえ具体的には思いつきませんがというか、うーん、たとえば……、会話文を先に書いて、終わりに話者の名前が来るような順序で、対談とかを表現する習慣のある国とかって無いのかなぁ?
なぞなぞ……という回答はいかがでしょう? 問題文がdd要素で、回答がdt要素として不都合ないのではないか、と。
一般に、質問と回答をマークアップする場合、質問がdt要素であり、回答がdd要素だ、という解釈がなされます。しかしながら、これは実際のところ、質問の内容、回答の実質的な位置づけを考えたならば、ときに不合理ではないでしょうか。とくになぞなぞにおいては、そうだと思います。
回答と解説の関係ならば、明らかにdt要素とdd要素の関係で理解できます。しかし、質問と回答の関係は、単純にそうとはいえないでしょう。yuuさんが書いていらっしゃる通り、仕様書は定義リストの広範な利用を認め、そしてdt要素とdd要素の出現順にもこだわりません。質問と回答、先にあるのは質問で、だから質問はdt要素……という発想には根拠がありません。そうなると、俄然、質問がdt要素であるとする理由は曖昧になってくるわけです。
最近、Xezと蕭蕭亭が相次いでサーバから消え、お勧めのサイト批評サイトが立て続けに2つも失われてしまった。しかし、相互評価型Webランキングが残っている。最低限、ここさえ続けば私は安心できるというものだ。ところがここしばらく、ちょっと停滞気味といった感じで気になっていた。先月末に再び登録数が増えてきたのだけれど、何だかんだいってかつて見たサイトの再登録が目立つ。もうちょっと、どうにかして広まっていかないものだろうか?
最近の興味深い参加サイトをひとつご紹介したい。
実際には、HTML文書がひとつある。カウンターもある。しかし、いわゆるコンテンツは何もない。
今度「一字」さんで、ひとつの実験を初めてみましたので、ご連絡致します。
名づけて「何もないページはどう評価されるのか?」です。
ご存知の通り、相互評価というシステムでは、自分に評価をもらうのに、他人を評価しなくてはいけません。評価対象のサイトは常に5つほど提示されますが、いろいろな意味において「評価しやすいサイト」が選ばれているというのが現状だと思います。また、BS氏の指摘にもある通り、評価の基準がまだ定まっていないというのが現状です。
という実験なのだという。
私はあまり、うまい試みだとは思わない。もし私が一字で「評価されること」に興味を持っているのなら、これ幸いとばかりに「よくわかりませんでした」みたいな一言評価を書き捨てるのではないか。評価1回分を楽に消化できる、またとない機会だと考えるからだ。私のような不真面目なことを思いつく参加者は少ないだろうけれど、まじめにこのサイトの評価に頭を悩ますおめでたい人はそれほどいないような気がする。仮に、いたらいたで困るかもしれない。ネタにマジレスされても。
けれど、冗談を許せない人はけっこう多そうだから、「ふざけるのはおよしなさい」みたいな脊髄反射系の忠告が並ぶとみた。これが私の本命予想。「マジレス」が次点。押さえは、「体よく利用される」パターン。「誰も評価しない」が大穴。全部同じだけ賭けると、どれが勝っても総額で負け。
料理の「さしすせそ」って、具体的には何のことだろう。
というわけで、「せ」がわからない。数人に聞いたが、誰もが「あれっ!?」なんていって、「本来なら楽勝の問題なんだけどな〜。何で度忘れしちゃったのかな〜」みたいな風を装っている。まったく、もともと知らないくせにプライドばっかり高いんだからしょうがない。
というわけで調べてみた。
- せ
- しょうゆ
そんなアホな。
正解がわかってしまえば現金なもので、途端に講釈を始めるやつがいる。「醤油は早目に入れると香りがとんでしまうからね、注意が必要なんだよ」……言っていることは正しい。私もたしかに家庭科の時間にそう習った。炊き込みご飯と混ぜご飯の違いもその辺りにあるわけなんだけれど、それは措いておく。
とりあえず私が思ったのは、その伝でいくと、「そ」はソースでもいいような気がする、ということだ。