趣味Web 小説 2008-02-13

米兵排斥に思うこと

沖縄で米兵がまたしても。

在日米軍は3万7千人もいるので、犯罪がゼロになることは考えられない。殺人だって何だって起きるだろう。ただ、人数の割りに件数が多く、相変らず捜査などに障害があることから、地域住民のフラストレーションがたまっている、ということらしい。(関連:極東ブログ: 日米地位協定は改定すべきなのだが

ここまでの話はわかるが、報道されているあれこれは、こうした枠組みを突き抜けていて、私には何が何だか。

2006年に強姦で検挙されたのは1058人いる(例年これくらいの人数)。そのうち、勤務先のトップが記者会見をして謝罪した事例がどれだけあるのだろうか。しかし米軍から犯罪者が出たら、司令官が謝罪会見をするのが当たり前で、おとなしく反省の弁を述べても、揚げ足取りみたいな批判に晒される。

アメリカ人観光客がどんな事件を起こしたって、アメリカ政府が何の補償をしてくれるわけでもないが、在日米軍所属なら「補償を求めていく」(NHKラジオ)ことになるらしい。主語がよく聞き取れなかったが、たぶん遺族だろう。業務として犯罪を行ったのではなく、個人が勝手にやったことなのだが。

朝の番組で大谷昭宏さんが「野獣とは一緒に暮らせない。ゲートから外に出るな」が住民の認識だろう、という趣旨の発言をされていたが、そのまま何の訂正も入らなかった。4万人近い中に幾人かの悪いやつがいて、それで全員を野獣扱い。鬼畜米英といってた頃と、あまり変わらないな、という印象。

自分の勤務先から、例えば立て続けに殺人犯が出たとする。それで世間から批判を浴びて、管理体制がなっとらん、とかいわれても困る。社員のプライベートなんて「知ったことか」だろう。まして「あの会社の社員」だからといって「社会から隔離せよ」「ゲートから出てくるな」といわれたら怒りに震えないか。

結局のところ、米軍差別なんだと思う。

こういうとをいうと、これは差別じゃありません、区別です、みたいな反論がくるのかもしれない。全然違うものを一緒くたにしているぞ、とか何とか。

しかし社会のルールを守ってきちんと生活しているであろう3万人くらいの気持ちは、私が過去に経験したいろいろな悲しい気持ちと共通だと思う。これこれの理由があるから区別されて当然なんだ、という人は、ようするにそれくらいのことで人を「区別」していいんだ、といっているのと同じ。

米軍は出て行け、という人々が、ペッパーランチ追放運動もやっているなら、賛同はしないが理解はできる。でも、違う。「従業員が事件を起こす→勤務先の事務所はこの街から出て行け」の矢印は、恣意的に成立する。ようするに結論が先にあって、人々は適当な理由を(無意識に)求めていた。

この構図は差別やイジメと共通しているところがある。だから直感的に「イヤだな」と私は思う。平等な社会、なんてのは理想に過ぎない。それはわかる。しかし米軍への人々の反応は、突出している。何せ「米軍は柵から出るな」だ。街頭インタビューでも、堂々と顔出しで、一人二人ではなく幾人もが、そういっていた。

所属や属性ゆえに「色眼鏡で見られる」だけでも不愉快に感じる私たちが、他人の移動の自由(これは基本的人権の一部であるはずだ)を制限しようとしている。彼らは「野獣だから」人権など認めない。形式的には内規改訂という自発的行動でも、実態としては集会やデモや世論の圧力によって「そうさせる」のだ。

仮に同じ条件を満たせば、自分も同じ扱いを受けてよい、と認識しつつこの問題を考えている人が、どれだけいるのか。自分は何も悪いことをしていなくても、人権を抑圧されることに納得できるのか。

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