備忘録

平成20年3月24日

いくら中国側が、「チベットは発展し、チベット人は幸せになった」と述べ立てたところで、今回の事件は、中国の統治下におかれたチベット人は、まったく幸福ではない、というチベット人の明確なメッセージなのです。

多くの日本人の共感を得ている意見、らしい。「日本は朝鮮(or 満州)によいこともした」論が、それを口にするだけで批判されることと、整合が取れている。日本も独立運動を武力で鎮圧し、多くの死者を出しているんだよね……。「よいこともした」にせよ、それをいっても仕方ないというか、逆効果なんだろう。

義務教育の歴史の教科書に「よいこともした」を書いてもいいんだけど、教える先生はたいへんだろうな。「じゃあどうして日本人は憎まれたのか」を説明するのがね。まあ、素朴に、ということになるのだろうけれど。

平成20年3月24日

私の両親は愛知出身だが、同和問題はピンとこない、という。遠戚に同和地区出身者がいて、別にその人(明治生まれの世代です)が結婚して嫁入りする際、反対されるということは全くなく、子どもが差別されることもなかったという。

その人は「出自なんか、どうでもいいこと」で「このさき1/2、1/4でしかなくなる」のだから、被差別部落の子孫で(も)あることは、とくに子どもに伝えていくつもりはない、と考えた。なので、私と同世代の遠戚たちは「何も知らない」のだそうだ。

北へ移住してアイヌ系の人と結婚した遠戚もいる。ハーフでもクオーターでもなく1/16だったとか。それでも自称アイヌ系。それが半世紀前の話で、私の同世代となると、やっぱりもう「何も知らない」。

私は4代遡っても愛知人しかいない、生粋の愛知DNAの持ち主だが、千葉で育ったからか、愛知のニュースは他人事だ。名古屋嫁入り大騒動みたいなバラエティー番組を見ても、「ばっかじゃねーの」と第3者視点でゲラゲラ笑っていた。祖父母の家へ行くと、場違いな感じがする。魂の故郷! とか微塵も感じない。

親子の血のつながり、というのも、滅多に感じない。ときどき「やっぱり親子」と思うこともないではないが、よーく考えてみると、それは「血」の問題ではなく、長く一緒に暮らしたが故の「文化」の問題でしかないことがほとんどだ。それで説明できないものは「偶然」の範疇なんじゃないか。

とくに主張はありません。

平成20年3月21日

テレビ離れ(テレビばなれ)とはテレビの視聴習慣が無くなることを言う。以下、日本におけるテレビ離れについて扱う。

概要

総務省の統計[1]によると日本のテレビ平均視聴時間は1990年代以降も増加傾向にある。ニールセンの調査[2]によればアメリカでも増加傾向にある。しかし近年、若い世代を中心にテレビ放送への関心が低下し、テレビの視聴習慣が失われつつあると言われるようになった。現在、(若年層、特に男性の)テレビ離れは自明の事実として語られることが多い。

テレビ離れの実相

主観的な興味・関心の低下にもかかわらず視聴時間は減少しておらず、テレビ離れを裏付ける客観的資料は乏しいのが実情である。

高視聴率番組の減少

1960〜80年代には視聴率50%以上を記録する番組が多数存在した。例えば63年のNHK紅白は視聴率81%、83年のおしんは62%、70年代の8時だョ!全員集合は50.5%を記録している。価値観の多様化が進む中で国民的人気番組は次第に姿を消し、2000年代にはバラエティ番組やドラマなどレギュラー番組による視聴率30%突破は稀となり、年間高視聴率番組リストの上位はW杯サッカーの予選・本大会などスポーツ中継特別番組で占められるようになった。

ただし関東主要局の全日平均視聴率の合計は1960年代以降概ね安定しており、お化け番組の減少は総視聴率に明確な影響を与えていないことが分かる。[1]

視聴時間の増大

フランス・カンヌのテレビ番組の国際見本市「MIPTV」で発表された統計では日本人の平均視聴時間は5時間1分で世界最長であり、世界平均の3時間を大きく上回る。

NHKの調査[3]によれば、1970年代から国民全体のテレビ視聴時間に大きな変化は見られない。また1995年以降、学生と賃金労働者の視聴時間が短く、無職と主婦の視聴時間が長い傾向も一貫している。年齢が上がるにつれテレビ視聴時間は増大し、70歳以上の視聴時間は10・20代の2倍にもなる。少子化・高齢化の進展に伴い日本のテレビ平均視聴時間は微増傾向が続いている。

最近10年間の平日のテレビ視聴時間は各世代とも概ね安定しているが、土曜日は10代男性と70歳以上男女で増加、日曜日は10〜30代男性と20代女性で減少し70歳以上男性が大幅増となった。週末の番組編成に異変があったことが推察される。なお3曜日とも国民全体の平均視聴時間は増大しており、とくに土曜日の伸びは顕著である。

広告媒体としての圧倒的な地位

電通の調査[4]によれば、テレビ広告費は総広告費の約3分の1で依然安定しており、広告媒体としての圧倒的な地位は揺らいでいない。

録画機普及の影響

1980年代に20代男性を中心に利用が進んだ録画機は、同世代の加齢にしたがって利用層を増やしてきた。しかし現在に至るも1日平均の録画機利用者率は9%に過ぎず、大半の視聴者はテレビ番組を放送と同時に視聴している[5]。

インターネット普及の影響

総務省の調査[6]によれば、インターネットをよく利用する者の約6割が「インターネットを利用するようになって、以前に比べてテレビを見る時間が減った」と答えている。しかしインタースコープの調査[7]とNHKの調査[8]では、インターネット利用時間の長い者ほどテレビ視聴時間も長く、競合関係は認められない。

テレビ離れの原因

様々な原因が取り沙汰されているが、事実に反する主張、客観的な裏付けを欠く主張、憶測に基づく主張が少なくない。またテレビ番組への不満の多くは、1960年代より連綿と言われ続けてきたことである。また指摘の多くは新聞など他のメディアにも当てはまる内容である。

参考文献

  1. 分野別データ:放送:視聴時間量
  2. Nielsen Reports Americans Watch TV at Record Levels
  3. 2005年国民生活時間調査報告書
  4. 2005年の日本の広告費は5兆9,625億円前年比1.8%増-2年連続増、インターネット広告が高い伸び-
  5. 生活時間調査からみたメディア利用の変遷と現在 2005年国民生活時間調査より
  6. インターネット利用とテレビ視聴の関係〜テレビの視聴スタイルの変化と方向〜
  7. インタースコープ、インターネットユーザーのテレビ視聴時間等に関する自主調査を実施〜インターネット、テレビ、新聞、本などへの接触時間を比較〜
  8. インターネット利用者の生活時間〜2005年国民生活時間調査より〜

余談

この記事は、2006年12月に Wikipedia へ投稿したもの。どうしても若い男女のテレビ離れが近年急激に進んでいることにしたい人がいるらしくて、土曜日に10代の視聴率が急増しているのを無視して日曜の急減だけを取り上げたり(ようするに番組改編で土曜シフトが生じただけなのでは?)、多忙な20代は昔からずっと視聴率が低いのに、若い世代に偏った調査を参考に「最近、テレビを見なくなった」ことにしたり。

総世帯視聴率(HUT)はたしかに緩やかに低下しているのだけれど、視聴形態の変化に調査方法が追いついていない事情があって、調査手法の問題でバイアスが生じている問題は無視し難い。なので国民生活時間調査の方が信頼できる、と私は思うのだが、NHKが調べている=信用できないみたいな人も多いみたい。

無論、多くの人が主観的にどう思っているか、というのは、それはそれで意味のあること。だけど、じゃあ客観的事実としてテレビ離れがあるのかないのか、という話。そこをごっちゃにした百科事典でいいのか。いろいろ議論のあるものを私がバッサリ編集して、その後ゆるゆると旧状に復していった(いきつつある)記事を読み返すと、やっぱり「修正したい!」と思うけど、どうせ長くは残らないし、つまらない。

かといってブログで書く気にもなかなかならないのはなんでだろう。やっぱり自分は所詮、権威を騙って大勢に自説を吹聴したかった、だけなのかも。人気記事の編集をやめて、まあ正解なんだろうね、私の場合。

平成20年3月12日

1.

政府提案の日本銀行新執行部人事案、3人セットではなく各候補毎に採決となり、武藤敏郎総裁候補(日銀副総裁, 元財務省事務次官)NG、伊藤隆敏副総裁候補(学者)NG、白川方明副総裁候補(学者, 元日銀理事)OKとなった。

金融政策について現在の民主党の見解は次のようなものであるらしい。

で、将来のインフレ懸念を理由に利上げを目指していく(と解釈される)所信を表明した白川さんのみ同意。所信は白川さんと同様だった武藤さんは、しかし財政に配慮して低金利を継続する懸念があるので不同意。デフレ脱却を目指しインフレ目標政策の導入に意欲を見せた伊藤さんは不同意。

5年前の民主党はまともな主張をしていたのだが、ちょっとデフレの吹雪が和らぐと(相変らず寒気団が居座っているにもかかわらず)庶民感覚の人の声が強くなるようだ。

2.

民主党の候補者はよく、「与党の政治は庶民の声を反映していない」と街頭で訴えている。

いま日銀総裁人事をめぐる議論の中で民主党が明らかにした、財金分理論とか、実質値を無視し名目値をみて金利正常化(=利上げ)を目指すとか、食品と燃料の価格動向が生活実感に及ぼす影響を重視してコアコアCPIやGDPデフレーターの動向は気にしないとか、そういった見解が、一部で批判を浴びている。

でも、民主党の支持者が求めているのが(自分たちの)気持ちに寄り添った政治なのだとすれば、経済学の造詣深い人々の意見に耳を貸すわけにはいかない。多分、そういうことを(なるべく)しないのが、民主党の存在意義のひとつなんじゃないか。

金利を上げろ、という人は私の周りにも多くて、いろいろ頑張って説得を試みたのだけれど、成果はゼロに近い。自分の無力さを痛感させられた。

これほど多くの人々が、ずーっと金融政策に強い不満を抱き続けてきた、その鬱屈としたエネルギーは大変なものだと思う。空気の読めるリーダーとやらが求められているらしい昨今、この社会はますます国民の多数意見を重視する方向へ進んでいる。

もういい、わかった、だったらもう利上げすればいい、自業自得で苦しめばいい、といいたくもなるのだけれど、きっとそうなったらそうなったで、誰かさんの小悪を盛大に叩いて「悪いのは利上げじゃなくてこういう悪党がいること」となるに違いない。他人任せにする他ない問題に関する自分の判断は、常に無謬なのだ。

ともかく、財金分理論にせよ利上げ志向にせよ、国民の間で無視するにはいささか大きな支持がある政策。二大政党の両方ともが無視してしまっていいのだろうか。民主党は淡々と使命を遂行しているだけのようにも見える。

物価安定目標の設定を訴えてきた伊藤隆敏さんが日銀総裁はもちろん副総裁にもなれなかったことは、本当に悔しく思う。この5年間、デフレを解消できなかった日銀副総裁:武藤敏郎さんの総裁昇格案が否定されたのは当然と思うが、民主党の反対理由は疑問。利上げ志向の白川方明さんをOKとする判断は同意できない。

総じてガックリ感でいっぱいなんだけど、そういう自分もまた身の回りのほとんど誰も説得できず、民主党を声高に批判する気持ちが消沈してしまった。為政者の現実主義に庶民の怒りをぶつけるのが野党の役割なんだろう。民主党が「改心」すれば、他の政党が人気を集めるだけの話だ。

3.

白川副総裁候補以外の人事提案を否決した民主党の対応について、大手各紙は一斉に批判の社説を掲載した。これでは現日銀執行部の任期が切れるまでに後任が決まらず、総裁職が空席となってしまい、日本の金融政策への国際的信任が凋落する、という。私はこの点については、民主党の肩を持ちたい。

民主党には、自らの意見を表明する権利があるはずだ(民主党の主張は馬鹿げていると私は思うが、しかしそれは各種世論調査を見る限り相当数の国民の支持がある意見なのだ)。とすると総裁が決まらない根本原因は、衆参で判断が異なる場合に、衆院の優越や再議決といったルールがないことにある。

ルールの不備を放置した責任は与野党の双方にあるが、現行制度には別の解釈もありうる。法案・予算案と異なり、人事は与野党が妥協して決めるべき事案、つまり衆院の多数派が理想を掲げて反対意見を突破することを許さない、という解釈だ。この解釈が国会の共通認識なら、現行制度は理屈が通っている。

この場合、与党の人事提案、野党の判断ともに妥協が必要だ、ということになる。私は、最初の与党提案に民主党の主張への配慮を見出せない。武藤NGは予想通りではなかったか。くだらない理由で伊藤さんまでいきなりNGとした民主党の対応に私は怒っているが、武藤さん不同意は誰でも予想できたはずだ。

野党は前々から武藤昇格案に難色を示していた。長期審議なら、最初の提案は理想主義でもいい。しかし理想的提案を余裕のないタイミングでぶつけ、時間がないから同意せよと迫る、これはおかしいと思う。武藤昇格案なら1月でも2月でも提案できたはず。なぜ3月なのか。ゴリ押しの意図は明白だ。

そういうことがしたいなら、ルールを変えて人事も再議決OKとすればいいではないか。(現実問題としては、ただでさえ与野党激突で強行採決を要する事案がいくつもある中、もうひとつ悩みの種を増やすわけには……なのだろうが、ならばつまり人事提案は優先順位が低いわけであり、妥協するのが筋だろう)

(追記 2008-03-21)

白川さんに続いて西村清彦さん(学者)が新副総裁に決まった。西村さんは審議委員からの昇格であり、政策委員(総裁+副総裁+審議委員)は定員9人のところ、総裁と審議委員が欠ける7人体制となった。

総裁の不在が金融政策に及ぼす影響は、ほぼないだろう。日銀の意思決定機関は政策委員会。総裁も副総裁も、そこでは1人1票で、ヒラの委員と平等。この半年余り、日銀は動かざること山の如し、だ。ここしばらく委員会は全会一致を続けている。そして7人の政策委員のうち、6人は従来からのメンバーだ。

デフレ下で利上げの道を模索し続けるような政策委員を推薦してきた自公政権。民主党との対決を辞さないなら新執行部人事案を3人ともハト派(金融緩和派)で揃えたら拍手喝采だったが、虚しい夢だった。

西村昇格で政策委員の学者枠が1つ空いたので、後任に注目したい。目立たないポストだからか、過去、いろいろな人が不思議とすんなり選ばれている。水野温審議委員のような突出したタカ派もいるのだ。メンバーの主張には多様性が必要、みたいな理屈で中原伸之元審議委員のような強烈なハト派の登場を期待したい。

無論、それで日銀の姿勢が変わるわけではない。しかし否決されても否決されても金融緩和を提案し続けた中原さんの孤軍奮闘の道程が、福井時代初期に不十分といえども日銀が金融緩和に大きく踏み出す地均しとなった。水野さんの「活躍」もまた同様の意味を持っている。ハト派枠1を堅守してほしい。切にそう願う。

いちばん心配なのは、ハト派の先生方が打診を受けるかどうか。過去、浜田宏一さんも岩田規久男さんも断った。そりゃ個人の自由だけど、厳しく日銀を批判してる先生方がまたもや、となれば、もう経済の本なんか読みたくない。

(追記 2008-05-28)

その後、白川さんは総裁代行から総裁へ昇格。穏当な発言に終始している。

一方、政策委員候補として池尾和人慶大教授の名が挙げられた。残念な人選だと私は思う。

平成20年3月12日

「政教分離の原則」が宗教的信念に優越しちゃっていいのだろうか。神様は怒らないのかな。

平成20年3月12日

左前とか右前とかにうるさい人がいるんだけど、その由来を調べるに、つくづくどうでもいいっていうか……。他人の間違いを見るだけでもイライラする、みたいな人は、もう少数派だと思う。逆に左右にこだわらない人は、どんどん増えていく。そろそろ「気にするのをやめる」ことを考えた方がいい。

「お客様、そちらのコートは女性用です」「男性用と何か違うんですか」「合わせの左右が違います」「では男性用はありますか」「申し訳ございません」

厚手のコートを男物だの女物だの、区別する意味がわからない。身体のラインが出ないことを前提としたストーンとしたデザインなのに。ボタン式でも男女兼用が当たり前になるといい。ジッパー式の防寒具は左右の問題がないからとっくにそうなっているんだけど、それで誰か困っているんだろうか。

平成20年3月12日

1.

長らく、民主党の金融政策が、よくわからなかった。しかし日銀執行部人事に関する国会審議の様子を見て、私の読んだ幾冊かの初級の経済学教本とは異なる見解が民主党内で有力であるらしいことはわかった。

で、将来のインフレ懸念を理由に利上げを目指していく(と解釈される)所信を表明した白川副総裁候補(元日銀理事)のみ同意。所信は白川さんと同様の武藤総裁候補(元財務省事務次官)は財政に配慮して低金利を継続すると予想して不同意。インフレ目標政策でデフレ脱却を目指す伊藤副総裁候補(学者)は不同意。

民主党の金融政策は、その方向性が明らかになったといっていいと思う。金利を上げ、国債の買い切りオペをやめる、即ち金融引き締めを行いデフレを継続するわけだ。格差解消と庶民の生活向上を目指して、そういうことをするんだ、と。

あと社民党や共産党の主張では、低金利は大企業優遇政策なのだそうで、やっぱり利上げ志向。そうすることで弱者が救われる社会になるらしい。多分、それが支持者の思いなんだろう。

バブル崩壊後、日銀の too little too late の政策対応のため卸売物価はずるずるとデフレ基調に陥り、ゼロ金利でも実質金利が大きなプラスとなった。その先の手である国債の大量買いオペは財政規律への影響を懸念する声に勝てず封印。超低金利と経済停滞が長く同時進行した。

もっと素朴なレベルで誤解されているケースもあって。景気が過熱すると金利が上がる。すると前年業績を背景とする賃上げ+インフレ抑制で生活向上実感が生じる。庶民目線では、利上げ→生活向上、となる。逆に景気悪化時も、数回の利下げが行われた頃に、解雇風が吹き荒れる。で、金利と景気の関係を逆認識。

バカだなー、といいたいのではなくて、いま私はたくさんの本を読んでアタマで納得したから、反論できるのだけれど、経験の積み重ねから帰納的に考えたら、同じように間違いかねないな、と。怖い。しかも私は、とうとうその人を説得できなかった。ますます怖い。(ていうか、今の私も大いに勘違いしている可能性はある)

そこまでいうなら利上げすればいい。マイナス成長でみんな路頭に迷えばいい。でもきっと、政治家が悪い、経営者が悪い、利上げは悪くない、なんだろう。他人任せにせざるを得ない問題に関する自分の判断は、いつだって無謬なのだ。

2.

新銀行東京が教科書通りに大赤字を出しても、「既存銀行の審査がバカだから、金融危機以降、本当は優良な中小企業が融資を受けられずに潰れていっている、何とかしなければならない」と主張した石原都知事は反省しない。「貸し渋り」に怒っていた人が、誰も反省していないのと同じことだ。

基準を安全側に振って審査すれば、優良企業が審査で落とされることを避けられない。もちろんそれは銀行にとって損失だから、銀行は切磋琢磨して審査の目を磨いている。自由競争の結果、審査能力に劣る銀行は淘汰されているはずだから、現状は不完全ながらも現時点で実現しうる最高水準であろう。

したがって既存銀行の審査に通らない優良企業を選別できるとの前提で新銀行を設立するなど、馬鹿げている……結果的に、懸念は現実のものとなったのに、「銀行は怠けている」という批判は相変らずだ。

平成20年3月11日

コメント欄の反応がピンと来ない。以下はメモ書き。

もともとは受益者負担の原則で云々。だから、期限切れとなるこの機会に、暫定税率に新しい意義を与えましょう、と。過去の経緯は関係ない。それはもうこの3月で終り。これからの話をしているんじゃないか。

環境税なら環境対策に使うべき? NOでしょ。ガソリンの使用量を抑制する、という目的のためには、単にガソリン価格を高くするだけで意味を成す。高くした分のお金を何に使うかは問題ではない。

そして、これは環境税で(も)ある、という性格を新たに付与することで、一般財源化の方便が立つ。即ち、今後、暫定税率分は受益者負担ではなく、環境負荷への配慮であり、全ての「被害」者の生活向上のために用いる、だから一般財源化して、道路以外のことに使う(=例えば淡々と国債を償還する)んだ、と。

なぜ暫定税率か? 国会の状況とタイムリミットを考えたら、現実問題として本則税率は上げられない。なので次善の手として、暫定税率維持とする。10年は長すぎるから、暫定期間延長を2〜3年として、本則税率の議論を始めましょう、という主張なら理解できるが。

道路特定財源を公務員の福利厚生に使うな? まともな会社なら、社員の福利厚生費をいくらか計上していると思う。こういうことに怒る人って、取引先が「もうこれ以上は値下げできません!」といった後で社員旅行に行ったりしたら、会社が費用の一部を補助しているのは許せない、とかいって怒るのだろうか。

ガソリンは生活必需品であり云々? より環境負荷の小さい代替手段の価格競争力を高めましょう、ということ。鉄鋼や船舶や火力発電所の燃料に高税率をかけないのは、代替手段がないのだから当たり前。

注:原発は安定供給専用。水力は既に立地限界。となると電力需要の時間帯変動対応用に火力発電は欠かせない。自動車は今こそ低環境負荷技術普及の過渡期。税制による後押しを考えるのは理解できる。物流の貨物列車利用も促進したい。

平成20年3月11日

寄付も拒否する作者さんが話題に。視界に入った範囲内では概ね賞賛する人が多く、嫌儲精神が蔓延してますなあ……という感じ。

だったんだけど、作者さんのコメントはBlenderも無料なのにMikuMikuでお金を取ろうなんて100年早いと思うというもので、ちょっとまた違うことを思った。

世の中、高々1000円や2000円のシェアウェア代金を支払っただけで、ミョーに高飛車になるユーザーさんが珍しくない。しっかりサポートしろ、無責任は許さない。ユーザー向けの掲示板にしばらく作者が現れないというだけで文句をいってる人も、あちこちで何度も見かけたことがある

寄付ならいいかというと、それが違うんだな。既に得たものについて感謝の意を示すはずが、いつの間にか新機能の催促になっていたりする。寄付をいっぱい貰っておいて開発中断はひどい、なんて掲示板に書かれたりする。そういう「批判」には、いつも一定の支持があるみたいなんだよね。

で、しばらく動きのなかった配布ページから、寄付歓迎みたいな文面やPayPalへのリンクが、ある日ひっそりと削除されたりする。

厳しい消費者が生産者を鍛える、それは理解できますが、方向性がどうもね。寄付くらい、気楽に受け取れる社会の方がいい、と思いません? 絶対にそう思わない、という人は今後もあちこちで「批判」を続ければいいけど、「う〜ん...」と考え込んだ人は、意識して「大目に見る」ことを実践されてはいかが?

平成20年3月11日

SBMギョーカイは相変らず、ブックマークされる側の利便性については興味がない様子。

個人的に、及第点といえるのははてなブックマークfc2ブックマークなど。これらのサービスは、サイトの管理人が、自分とこのコンテンツに付いたブックマークコメントを一覧できるようにしてくれてる。

どんな人が、どんな感想を持っているのか、ブックマークされる側が漏れなく逆観測可能。この仕組みが用意されているから、私は「ご意見・ご感想ははてなブックマークで!」と宣伝しているのです。

ちょっと残念なのがlivedoorクリップです。新着ブックマーク一覧は記事単位のみ。古い記事にブックマークが増えても、気付かない。開発者の方はこういうの、自分で気にならないのかなあ。現状で満足してる理由がわからない。

それでも、被ブックマーク側が、自分とこのコンテンツに付いたブックマークを一覧表示できるサービスは、及第点。そういうことのできないサービスが、じつは大半。いつになったら改善されるのか、と思っていたんだけど、永遠に「改善」されそうにない。

世界最大手のdel.icio.usとか、かなり嫌い。個別ページのURLが謎文字列で、「ウェブサイト」という単位でWWWを徘徊する発想を否定してるっぽい。読者にとってはそれでいいんだろうけど、ブクマされる側としては、複数の記事を横断する「作者」という軸を無視されてる感じがして面白くない。

でも、日本ではともかく世界ではdel.icio.usが強い。だから私の嫌いなタイプのSBMはみんな、del.icio.usを参考にしてるんだろう。ウェブサイト(≒作者)単位で情報を整理したいと思うのは、自分かわいい作者だけ。SBMは読者を相手にするサービス、作者のことなんか知らないよ、という。作者と読者の分断。

ではそれが悪いことかというと、そうでもなさそう。はてブをめぐる、相も変らぬネガコメ論議なんかを見るにつけ、「なまじっか被ブックマーク側から情報を参照しやすくしてもトラブルが増えるだけ」という判断が妥当なようにも思えてきました。ネガコメ云々って「知らぬが仏」タイプの問題かもしれないな、と。

実際、はてブのネガコメ問題とか論じてるのって、たいていはてダの人でしょ。ブックマークされてるページの大半ははてダ以外なのに。リンク元とかあまり見てない人が多いみたいだし、はてダだからはてブに気付き、ネガコメに怒る、みたいな構造があるような。

読者は読者だけで、作者の目の届かないところで好き勝手にブックマークする、みたいなのの方が、世の中平和でいいのかもしれない。まあ、選択肢があるのはいいことなんで、はてブははてブであり続けてほしいと願っているのだけれども。

平成20年3月11日

はてブがどう素晴らしいか、ふつうのブログのコメント欄の何がよくないか、って話は何度も書いてきたんだけど、また改めて。

1.

はてなブックマーク(はてブ)に関心ある方々のブログでは、はてブコメントの100字制限への不満をたびたび見かけますが、はてブは絶対にこの制限を緩和しないでほしいと思う。

字数・投稿回数に制限のないコメント欄が何をもたらすか。それはブログを見れば分かる。数千人が読むブログでも、コメント欄に書き込むのは数人。その僅かな人数の発言が、見える読者の声の全て。ノイジーマイノリティによる「読者からの反響」の乗っ取りが起きています。

一方、はてブのコメントは上限100字。少ない。しかも1回しかコメントできない。しかし、そうだからこそ、ノイジーマイノリティを埋没させることができるのです。ときにDIS系のコメントばかり並んでいるように見えても、よーく数えてみれば、無言の応援の方が多かったりする。

だいたい、コメント欄の長文投稿の類を見ればわかるように、字数制限がなくたってコミュニケーションの促進など(滅多に)起きない。ようするにあなたと私は価値観レベルで相容れないんですね、偏見に凝り固まって私の話なんか端っから聞く気がないんですね、と確認しておしまい。面倒くさいだけ。

2.

100字制限さえなければいいたいことをきちんと伝えられる、みたいな幻想が、どうして尽きないのか。まあ、尽きてないからブログを書いているのかもしれませんが、私はそれ、勘違いだと思ってます。

ブログは、筆者が不特定多数に向けて発言し、興味を持った読者が集まってくる場。だから、事実認識の前提が共有されている人、価値観の近い人同士が出会いやすい。その状況で、大多数の読者に理解されれば、「言葉が伝わった」ことになるのだから、勝敗ラインはかなり低いのです。

しかしコメント欄はどうですか。たいてい言葉を伝えたい相手は一人。前提事実と価値観の大部分が共有されていてさえ、特定個人の説得は不確実です。勝率6割のゲームを1000戦して負け越したら「あれっ!?」となりますが、1戦限定なら、負けても何ら不思議はない。

ブログで大勢を相手にしているときは、ほぼ100%の確率で賞賛が勝って達成感を得られるような猛者でも、コメント欄で1対1の対話にチャレンジすれば、時間と労力を浪費するだけの結果となることが少なくない。

これはブログオーナーも、コメンターも同じです。コメンターがオーナーの考えを変えようと奮闘するのも、オーナーが批判的なコメンターに反論するのも、どっちも成功率は高くない。お互い、不特定多数を相手に発言していれば、自分の周囲では味方が優勢となって、満足できるはずなのですが。

そういうわけですから、自分と現状認識や価値観の違う人間が相手ならなおさら、説得は難しい。

3.

ブログで100字制限緩和を訴えている人が、どういう場面で「100字では足りない」と思ったか。たいてい、(広義の)ネガコメをしたいとき。相手とは前提が共有されていない状況。相互理解の成功率が、かなり低いパターンです。制限が何もなくたって、だいたい失敗するんですよ、そういう場合。

(はてブははてブで偏っているが一応)多数派の気持ちが見えるというブログ主にとってのはてブ最大のメリット(と私は思っている……)を犠牲にしてまで、ガチャガチャと長文を書きたいノイジーマイノリティの意向を尊重する価値があるか。私は、ないと思う。現状維持を希望します。

どんなに声の大きな人・執念深い人・著名人などでも、はてブでは100字1回限りの枠に押し込められる。それでも、はてブを使わない、とはならないだけの魅力がはてブにはあるらしい。これが国内最強のSBMであるはてブの特異な点。1人1票の普通選挙。あの人も、うちの読者の中ではマイナーなんだな、と見えてくる。

他人が、自分のブログにコメント欄をつけてエネルギーを消耗しているのは勝手。だけど、字数・回数制限あり、しかも発言履歴検索機能付きという選択肢が、なくなってしまったら悲しい。

SBMは多々あれど、はてブ以上に「ブログ主にとって便利」なサービスは存在しません。唯一無二かつ重宝してるサービスなので、私は保守的にならざるをえない。

平成20年3月7日

「知りたいこと」だけを知りたい、という人には、紙の新聞なんてつまらないだろうと思う。

けれども、自分が興味を持っていないことについても折々に情報が得られることを、有意義に感じられる人なら、新聞は安価で便利、とてもありがたい存在。

まあ、フツーの人には、新聞なんて必要ないだろうな、と思う。だいたい、ニュースなんて知らなきゃ知らないで、まず問題ない。旅行中、ニュースとか気にしないでしょ(する人もいるのかな)。

平成20年3月6日

有給休暇は本採用された7月15日に17日分付与されるが、GWを9連休とするために強制的に取得させられる1日分があるので、実質的に入社初年度は16日分の付与ということになる。以降、本採用後満1年で17日、満2年で18日、以降、19、20、21日で上限に達する。

私に付与された有給休暇の権利は通算112日分で、残日数は34となっている。未消化分の繰越は2年度まで。つまり付与されてから丸3年の間に権利を行使しなければ、無駄になる。なお有給休暇の権利は自動的に古いものから行使されていく。今日、私が取得した有給休暇は、2006年に付与されたもの。

有給休暇を取得した日数を2002年から2007年まで年単位で並べると、11日、11.5日、16日、12.5日、19.5日、16日となっている。今後、年間16日ペースで有給を消化していくと、2016年以降、2012年付与分から、有給未消化がスタートすることになる。

平成20年3月6日

最近、この記事と同じことをいいたい事例をいくつも目にしていて、一言書きたい! と思ったんだけど、2年前に書いた以上の考えは微塵もなく、虚しいなあ、と。リンクしても読まれないから、同じ内容で再び書くことに意味はあるが、面倒くさい。で、面倒に思う程度の発言欲なら黙ってる方がよさげ。

というのも、原因の指摘を責任の追及とほぼ同義とする考え方が多くの人に共有されていて、勝ち目がない。ちょっとした勘違いが蔓延している、という状況なら、「ほらね」と示せば「あっ、そうですね」となるんだけど、そうじゃないわけ。

気軽に原因の排除に突き進む側には、「いや、あなたが悪いとはいっていない。悪いのは加害者。それはもうハッキリしてるって。異論ないってば。(って、これだけ繰り返し強調してるのになぜ分からんのだ)」みたいな苛立ちがあったりするんだけど、「原因を作った=悪い」という価値観の持ち主には全く通じない。

そう、価値観なんだよね。だから、どうにもならない。「原因と責任は別問題。原因を作ったからといって悪いわけじゃない」という説明をいくらしたって、まず理解されない。運良く理解されても、「私にはそう思えない。原因を指摘されたら、自分が悪かったのか、って思ってしまう。悲しくなる」で終了。

たしかにこう返されたらそれまで。それが少数派の価値観なら、踏み潰されてオシマイなんだけど、じつは原因と責任を分離して考えるのが少数派。現実的対処法をいうなら、こっちが自重するしかない。

なので、当事者に対する説得みたいなことは、できない。そりゃ、表現の自由といって、やってもいいけど、大勢を怒らせてまですることか、と考えると、まあ躊躇しますね。「面倒」ならやめといた方がいい。で、こうして抽象的に、特定の誰かを説得する形式ではなくて、辻説法スタイルで布教活動をしているわけです。

ちなみに私が少数派の立場にめげず持論を捨てないのは、「気軽に原因追求できる社会の方が、幸福の拡大と不幸の縮小に有利」と確信しているからです。人々が原因=責任という価値観から脱却できれば、ぐんぐん改善が進む分野は多いと思うのです。訴訟禍による医療崩壊とかですね。

平成20年3月5日

羨ましい、といってる人がたくさんいるんだけど、とりあえず就職・転職に際して、マイペースで働ける職場を探すことを隠れ条件の第1位にしたらいいと思う。ちゃんと景気回復が続けば、必ず売り手市場になる。そのときに、のんびりした労働環境が労働力確保に必要となるならば、必ず会社は変わる。

でも、可能性は低い。若いうちの苦労は買ってでもしたいという人が多過ぎる。そのまま定年まで苦労し続ける人が多過ぎる。もういいだろう、楽々お仕事ライフを送りたい、という人を、バカにする人が多過ぎる。そして、軽蔑されプライドを傷つけられるより、自分の身体を痛めつける方がマシ、と考える人が多過ぎる。

のんびり派は所詮、日本ではマイナー。夢みたいなことをいっても、どうしようもない。できることから、こつこつと。

まず、あくせく派の陰口には絶対に乗らないようにすること。のんびり派を積極的に擁護しなくてもいい。だけど、陰口に乗って敵に言質を与えてはいけない。仲間を裏切ってはいけない。

同時に、自尊心を鍛え上げていくこと。平凡なのんびり派は、こなせる仕事量で、平凡なあくせく派に敵わない。負けるのだから、給料は少なく、昇進は遅れ、日頃からあくせく派にバカにされることは受け入れざるを得ない。それは仕方ないんだ、と諦めて、受け入れるためには、精神的なタフさが必要になる。

そして、少しずつ、行動開始。

無理しなきゃ実現できないリクエストには、「(私一人では)難しいです」「申し訳ありません、どうしても私には、できる、とはいえません」「自信がありません」と誠実に応えていく。あくまでもこれは「誠実」なんだ、と。他人に「無責任」といわれようと、これこそが「誠実」なんだ、と考えると、心を保ちやすい。

有給休暇を消化していく。非難がましい視線への抵抗力と相談しながら、少しずつ少しずつ消化ペースを上げていく。これは修行なんだ、と考えるとよい。修行なんだから、負荷をかける必要がある。また、怒る人の心情も理解する。白眼視されるのは仕方ない、と諦める。グッとこらえて諦めて、休みを取っていく。

あと、戦いに敗れて再びあくせく派の仮面をつけるようになった同志を恨まないこと。逃走経路が確保されているのは、よいことだ。

いろいろ書いたけど、やっぱり、現実的に一番いいのは、最初からのんびりした会社を探すこと。定時で帰れる会社、あるんですよ。空想の世界の話じゃないです、これは。

平成20年3月4日

泡坂妻夫さんの奇作「生者と死者―酩探偵ヨギガンジーの透視術」は、全頁が袋とじになっている不思議な小説。そのまま読むと短編小説。袋とじを切り開くと長編小説に早変わり。これがすごいんだ。登場人物の立場や行動、果ては性別まで変化。状況も事件も、すっかり変わってしまう。

ぜひ2冊手に入れて、開封前後のお話を読み比べていただきたい! と、思ったのですが、特殊製本につき制作費が高いらしく、残念ながら在庫切れがずーっと続いています。

私には、こんなきれいなことはできないけれど、その真似事みたいなことは好きで、ちょくちょく備忘録の一部をコメントアウトしています。大半は単に無駄を削ってみたというだけで、面白くもなんともないわけですが、隠された部分を通して読むと、少し文意が変わることも……?

平成20年3月4日

repon さんの一方的な勝利宣言、私にはどうもピンとこない。所詮、言葉の解釈次第でどうとでも、の世界。弾さんのいうような、「正当化しえない攻撃の認識」が証明されているとは思えない。弾さんの文章から問題になってる箇所を抜き出すと、以下の通り。

彼らに思い切って聞いてみればいい。「なんで僕にこんなひどい仕打ちができるんですか」って。

君の年収分を賭けてもいい。彼らにはそんな自覚ないから。それどころか彼らは彼らで「俺たちがこんなに一生懸命やっているのに、なんであいつは足を引っ張るんだ」、と思っているから。

repon さんの解釈は、弾さんの文章における「自覚ない」の意味と異なっている。

この記事で私が描写した出来事を例に説明します。

対象の人物が傷ついたこと、精神的暴力による私的制裁である、という意味では「ひどい」。しかし攻撃者たちは「因果応報」「許容されうる人付き合い作法の範囲内」と自らの行為を正当化していた。したがって「ひどいよ!」「どこが? 当然の報いでしょ」となる。これが弾さんのいう「自覚ない」です。

注:私の挙げた事例では、教師の介入により内向きの言動は正当性を失い、攻撃者たちは、なるほど世間の建前に照らせば「悪い」ことをしました、ごめんなさい、と謝ることになる。

さて、repon さんの記述からは、攻撃者に「何」をしたかという認識はあれど、「ひどい」ことをしたとは思っていないように読める。悪行の「自覚ない」わけ。これくらい、大したことじゃない、許容範囲だ、そう思っている。つまり、賭けに勝ったのは弾さんだろう。

検証抜きで repon さんの文章を受け入れるとしても、受験国語的解説としては、私の読みが有力と思う。どうだろうか。

追記

この話題では谷島さんに軍配を上げたい。弾さんは谷島さんの文章を読み違えている。

それはそれとして。

トラブル無き完全稼働を求めていると誤解される書き方は避け,「バグを完全に無くすことなどできない。エンジニアの皆さん,少々のトラブルは起きて当たり前です。致命的な問題さえ起こさなければ成功と言えます,気楽に行きましょう」と書けば良かったのだろうか。

私の答えはYes。多分、弾さん周辺で望まれていたのはそういう書き方なんだと思う。

平成20年3月4日

ケータイ小説とかだと一人で作れたし,YouTubeもだいたい一人で作品を作ってる。それに対してニコニコ動画の場合,人が作ったものを勝手に変えるのもアリだよね,という文化圏なんですよ。ケータイ小説もYouTubeも,それはあんまりないんですけど。

例えば他人が作った動画で勝手に悪ノリしてみましたとか,絵を付けてみましたとか,音声つけてみましたとか。著作権法上あり得ないことなんですけど,ニコニコ動画内に,当然のことだよね,文句言うのがおかしいよね,という文化圏を作ってしまうと,割と予想外のものがどんどん出来上がるっていうのが,見ていて面白いです。

私の感じてるニコ動の空気は、ひろゆきさんの認識とは少し違います。基本、プロ作品の改変なら、かなりひどくても基本的に許容。ところが素人の二次創作を「劣化改変」すると、激烈なネガコメが並ぶ。プロが相手ならやり放題。素人が相手だと相当程度、倫理的に高潔な方へ針が振れる。

自分に近い立場の人間の痛み(だけ)に、ひどく敏感。どこかの誰かさんが怒っても泣いても、俺たちの楽しみを邪魔するヤツは頭が固い、で頓着しない。ムカムカする。

同人誌の全頁アップがやたら叩かれていたりすると、その熱意をどうしてテレビ番組のアップロードにも発揮できないのか、と思う。削除されたら怒ってDVDの不買運動を提唱する人まで出てきたりして。この落差はなんなのか。

仲間がされて嫌なことを、どうして赤の他人には押し付けたがるんだよ。完全に自分の都合だけじゃないか。私はコンテンツはどんどん再利用された方がいい派だけど、こっちへくる人、大歓迎、というやり方にしたいと思っている。だからまず自分のコンテンツを解放するところから始めよう、といってる。

Yahoo!ブログの転載許可機能は、多くの批判があってデフォルト不許可になってしまった。転載ボタンが表示されていても、それはデフォルト設定に気付いていないだけで、本当は許可する意志がないかもしれない、そこがはっきりしない、だからいけない、と。

著作権法違反は親告罪だから、無断複製不可とパッケージに表示されていても申し立てがない限りやり放題、と考えているような連中が野放しになっていることの方が、ずっとずっと大きな問題なんじゃないのか。プロの権利が侵害されても「独占から共有へ」とかいって許容しようとすることと、どう整合が取れるのか。

「被害」にあうのが素人だと、可能性のレベルで芽を潰そうとする。カジュアルにお互いのコンテンツを転載し、転載される、そういう世界を夢見ていた人間の邪魔をしやがって。自分に転載の楽しさが理解できないからって、現にそこにある需要を頭ごなしに否定してさぁ。

いや、ニコ動オッケーな人と、転載許せない派の人は別なんだろう。個々人の主張には整合性がある、と。だけど、炎上事例を眺めていくとね、日本のネットユーザーの集合知が見えてくる。その集合知が指し示す望ましい未来や正義みたいなものに、私はイライラしている。

平成20年3月2日

彼は残業代のチャンピオンでした。基本給与は最低レベルなのに、残業代を加えると給与全体ではトップクラス。にも関わらず結局仕事がきちんと上がらなかったので、エース級の人材が彼の尻拭いをする羽目になっていて、これでは出来る社員が二重に腐ってしまいます。

善人で仕事ができない先輩。正直引導を渡すのが最も鬱になる相手です。だからこそ、今まで辞めずにクビにならずに残っていた。だからこそけじめをつけなければならない。

以前にも書いた通り、私には、自らの望む世界を構築する力を得る気概がない。自分は既に満足できる生活基盤を手に入れたので、ぬくぬくと一人安住していこうとしている。だから、そんな私が何をいったところで無責任な、他人事風の言葉にしかならないわけだけれども……と改めて断った上で書く。

私なら、弾さんのようには、し(たく)ない。

弾さんの記事について、誰も「ひどい」といってなければ、私はきっと「ひどい」と書いたんだろうけど、はてブの反応を見ると、もやもやする。

あえていうと、そもそも弾さんに問い詰められて「辞めます」と追い込まれていくこと自体、それに同情すること自体、首切りを必然的に発生させる考え方を受け入れてしまっているが故のこと。

弾: あなたはこのプロジェクトとこのプロジェクトで納期を破っている。なぜですか。

彼: がんばったのですが....

徳保案A(可能性レベル):「納期遅れが続いていますね。今後、残業は認めません。当面、基本給を据え置きます。進捗状況を、毎日、報告してください。仕事が遅れている箇所を、必ず申告してください。定時帰社で実現できる水準まで、どんどんノルマを減らします。状況を見て、人を増やすことも検討しています」

徳保案B(非現実的):「納期遅れの理由は?」「ノルマが過大でした。今後は仕事の割り当てを減らしてください」「人手が足りない」「増やす必要があるのです」「お金が足りない」「私の残業代を全部足しても足りないなら法律の範囲内で基本給も削ってかまいません」「検討しましょう」

分相応に仕事をする、させる。それだけのことなのに。そして、みんながこのように考えたなら、日本人労働者の一人当たり給与はかなり減るだろうけれど、失業者もまた一掃されるはずなのに。どうして。

受注量を減らせず、平社員の基本給なら黒字だったのであれば、残業しない人を2人雇えばいい。

弾さんに、そういう道を選ぶ権能はなかった、あるいはリソース配分の優先順位を考えると自主退職を促すのが(弾さんにとって)ベストの選択肢だったのかもしれない。いや、辞めた人だって、給料もノルマも職場で最低クラス、という扱いを受けることこそ最大の屈辱、自主退職の方がずっとマシ、だったかもしれない。

仕方ない。私が弾さんの立場だったとして、きっと何もできなかったろう、とは思う。

平成20年3月2日

有能な人が残業するのは、よくないと思う。失業率が十分に下がり、フリーターが十分に減るまでは、有能な人ほど、勤務時間を短くしてほしい。

ふつうの人が残業するのも、よくないと思う。たまたま運悪く職を得られなかった同類たちの可能性を、潰してしまう。幸運をいいことに、一般人が有能な人間と同じだけ稼ごうとか、自分の損得のことばっかり考えるべきでない。いつ自分が職をなくすことになるかわからない。

残業をカットして、雇用を増やす社会を望む。どうやら、多くの人は自ら労働法規を破りたがるらしい。なんでだ。

念のため追記

「好きで残業してるわけじゃない」そりゃそうなんでしょうけど、私がいくつかのアルバイト先で見た光景は、仕事が途中かけでも、上司が残業指示書を出さない限り定時で帰る人への軽蔑、軽蔑、軽蔑。法律があるから、そんなことで解雇はできない。そのことがまた不愉快らしく、陰口で辞めろ辞めろの大合唱。

こういう人々はね、好きで残業してるのと同じなんだよ。給料を下げて、雇用を増やし、定時で帰る、という道を自らふさいでいるのだから。