「王千源事件」の詳報。他人事だと思って中国のネチズンを批判している人が目立つが、これは日本でも 2ch とかでしょっちゅう起きていることの相似形なんでね……。
チベット族擁護で攻撃を受けるのは不当だ、という怒り方に徹しているなら理解もできるが、こういうときばっかり攻撃手段を難詰したりする。個人攻撃がいけない、言論の自由を許さないのはイカン、とかいうなら、青山学院大学の瀬尾佳美准教授だって擁護すべきなんじゃないのか。
気違いだのかんだのと口汚く罵ったり、職場に抗議の電話を掛けて処分を迫ったり。「池田VS天羽」問題で天羽さんに与した人は、新聞沙汰にまでなってる大事件には何とも思わないのかね。池田さんの抗議を黙殺した山形大学なんかどうでもいい、既に処分の検討を始めた青学にこそ差し迫った問題があるのは明らかだ。
何が「言論の自由」だよ。自分の気に入らない言論なんかどうだっていいんだろうが。自分が「場」を支配する多数派となったら、手段を選ばず異論を叩き潰して恥じないような人々が言論の自由とかいって、許せないのは、そんなのがこの社会で大手を振って通用してしまうということだ。
児童ポルノ規制の強化に反対? 瀬尾さんを擁護しないでそんなの実現できるわけないだろ。そういうものが存在するだけでも嫌だ、という人の心を乗り越えようとしているのだから、相似形なんだよ。
……いやまあ、具体的に誰を批判しているというわけじゃないんだけど。意外と、っていうか、その多くは単に片方の問題についてはあまり関心をもてないから何も書かないといった方法ではあるけど、個々のブロガーさんたちは割と一貫してるっぽい。
だけど、ブクマのつき方にせよ、ブロガーの言及状況にせよ、なんでこう、形式に注目する限りにおいて「世間」は矛盾に満ちているのかな、と。私はやっぱり、池田さんをひどいといった人には、瀬尾さんを追い込んだ連中を批判してほしい。まとめサイトまで作ってバリバリやったりしてほしいよ。
わかりにくいんだよ。
一人一人に問い質していくと、私は矛盾していません、矛盾してるというなら証拠を出せとか何とか。ちぇっ、都合が悪くなると「何も書かない」ことで矛盾を回避しやがって。まあ、私もこの手で散々逃げているんだけどさあ。
しかし結局のところ、そうして風向きを気にして主張を出したり引っ込めたりしているのでは、ほとんど誰も説得できないんじゃないのか。つまり、その時々には大勢を味方につけたようでいて、実際には原理ではなく、個別具体的なテーマへの賛否が一致したので賛意を表してくれていただけ、という。
言論の自由とかいって天羽さんを擁護して「そうだそうだ」みたいなブクマを稼いでも、池田嫌いに池田さんを叩くネタとして消費されただけなんだろう。ホントの味方は以前から味方だった人だけで。
書きたいことを書く、ということ自体に意義を見出せないと、ブログなんて、虚しい。だんだん、だんだん、アホらしくなってくる。
中国人の知人と世間話。
徳保「オリンピックももうすぐですね〜、知人Aさんは観戦に行ったりするんですか?」
知人A「いや〜、難しいですね。でも、できれば両親に薄型テレビを買いたいです」
徳保「そういえば長野の聖火リレー、大きなトラブルがなくてよかったですね」
知人A「そうですね、でも本来とは違うところで注目されちゃって、残念でした。私は、もっと静かに、いつの間にか聖火がきて、去っていくのがいいと思います」
徳保「あー、じゃあ知人Aさんは長野に行ったりはしなかったんですか? 中国の方がたくさん沿道に集まっていたみたいですけど」
知人A「それほど、聖火を見たいとは思いません」
徳保「そりゃそうですよね」
知人A「徳保さんは聖火リレーを見に行ったことがありますか?」
徳保「ありませんね。テレビニュースで見れば十分です」
知人A「私もたぶん、そうです。最近は、休みの日は赤ちゃんの世話が私の担当なので、ずっと忙しいです」
徳保「じゃあ5月の連休も、たいへんなんですか」
知人A「そうですね、でも毎日やっていれば、きっとそれほどたいへんでもありません」
徳保「じゃあ、お仕事も赤ちゃんのお世話も頑張ってください。お邪魔しました」
知人A「はい」
官製動員とか何とかいわれているけど、当事者のブログとか、ないのかなあ。
新聞記事なんかを見ても、全部が全部、官製動員ということはないようだし、なーんの話も来ていない中国人もいる。自主的に聖火を見に行った中国人も多いと思う。そういう人が、何か日本語で情報発信していないかなあ。ブログ検索初心者の私には、うまく探せずにいる。
学生時代、研究室には中国人留学生が3人もいたけど、みんなノンポリだったし、反日運動とか「さあ? 私たちには関係ないです」だった。となると、一体どういう人が動員されているのだろう。
ホワイトカラーエグゼンプションが話題になる昨今(2007-01-09)にも書いたことだけど、サービス残業をさせている会社がボロ儲けしているかというと、たいていそんなことはない。
日本電産の永守重信社長がハードワーク礼賛のコメントをして大勢に批判されている件だけれども、夢物語みたいなことをいっても仕方ないわけでね。日本電産の平均給与と社員数の積を計算して売上と比較するに、人件費率の高い会社なのは間違いない。
能力以上の給料がほしければ、基本給が割といい代わりにサービス残業しないと同僚の眼が厳しい会社か、基本給がペラペラな代わりに残業代のきちんと出る会社、このどちらかを選ぶしかない。どっちにしたって残業するのは一緒。このときサービス残業の非合法を承知で高い基本給を望む人は少なくないはず。
*生産性が高く、短い勤務時間と高い給与が両立している会社は、優秀な人しか入れないから、あなたにはおそらく関係がない。
労働時間が延びれば生産力が上がる、なんて経営者失格! とかいう人もいる。無意味な批判だね。自分で生産性向上の方策を思いつかないなら、所詮は「就職先は慎重に選びましょう」で終り。しかしながら、こっちが選べるような会社が、そんないい労働環境なわけがないだろう、よほど幸運でもない限り。
残業したくないなら、能力通りの給料で我慢するしかない。それでいいんだ、と割り切れば、いろいろな職場があると思う。私の勤務先とか。上場してる民間企業でも、大勢が定時帰社してるところ、あるんですよ現実に。ちゃんとそういう会社を探せばいい。
まあ、こういうのは、自分ひとり奮闘してもしょうがないんで、最初から自分と近い考えの人の集まっているところを探すこと。能力以上の給料がほしい人も、分相応でいい人も、それは同じ。
私の勤務先では、残業が「許されない」。能力のない人が労働時間の長さでリカバリーする道を封じられている。そんなのイヤだ、ボクは能力以上の給料がほしいんだい、という人も世の中には多いはずで、日本電産みたいな会社にも需要はあるんでしょう。いろいろな会社があっていいと思いますよ。転職は自由なんだし。
日本電産の社員満足度(平均値)は、おそらく広報さんのいう通り本当に高いのだと思う。しかしこういうご時世なので、給料を削って労働時間を短縮し人を増やす方向を目指すのかも。合法化、ってやつ。現在の社風を愛しているであろう社員たちはご愁傷様。
……個人的に気になるのは、規制派の主張って、人は就職先を選ぶことができる、という前提に同意してないんだよね。だから、どこに就職しても、大丈夫なようにしろ、と。だけどサービス残業の多くは労働者の心の問題だと私は思っていて、労働者が自ら望んでやってる面が強いと思うわけ。
ようするに、能力以上に給料がほしい、基本給の高さで報いてほしい、と。ブラック企業をぶっ潰せ、不買運動をしろ、なんて人も散見されるのだけれど、それで社員が喜ぶのか、っていう。
あと、日本電産は残業代を払っていないという前提でみんな攻撃してるけど、そもそも社長はそんなこといってない。弊社では残業がデフォです、といってるだけで。だから、きちんと残業代は支払われているのかもよ。あんまりそういうこと、気にしてる人がいないみたいだけど*。
「お前がいうな」が散見される。擁護派も、「たしかに矛盾してるけど」の但し書きつき。
違うと思うんだよね。だって北野武さんは、いろいろなインタビューや著書の中で、自分はもうお笑い芸人としてはダメだ、っていってるんだもの。
この「余生」という自伝がいちばんわかりやすいと思うんだけど、北野さんは「おれたちひょうきん族」の時点で、既にお笑い芸人として半分降りている。そんなことは番組を見てればわかっただろう、といっている。それでいて「テレビ特捜部」とかで脈略のないかぶりものをしちゃう現状を自嘲気味に語ってもいる。
ビートたけしがつまらないことは百も承知で、だから別の方向性を探って頑張って生き残りを図っていて、しかし嫌なことはするつもりがなく、好きなことを我慢もしない。ようするに身勝手なんだけど、それもまた自覚はありますよ、という。
北野さんにとって「お前がいうな」は折込済み。本で何を書いても、読まれない。何万人かは読むのだろうけど、1億人が読むことはない。だから、説明済みのことを何回でも批判される。「余生」は、そんな諦観も伺える本だった。ていうか、北野さんの映画や本には、いつも「伝わらなさ」への諦めがある。
……と、私は思う。
いやね、説明を聞いてもやっぱり「お前がいうな」かもしれない。だけど、こうした文脈を踏まえているかどうかで、違ってくるものがあるはず。
もっとも、逆に萩本欽一さんにだって言い分はあるに違いない。しかし私は何も知らない。
北野武、萩本欽一ほどの有名人であっても、自分が「お笑い芸人」であることを生き方の優先順位リストのどのあたりに置いているのか、という程度のことさえ周知徹底できない、という事実は重い。みんな自分のことなんか何も知らないのにイメージで好き勝手に批判する。そういうものなんだ。
こうして萩本さんの著書を並べてみると、北野さんとはお笑い観がかなり違うみたい。他にも「欽ちゃんの愛の世界45―一日一語で幸せづくり」なんて著書もあります。
萩本さん的には、お笑いは愛と幸せを実現する手段だから、マラソンや野球監督でも代替できる、ということかな。人を笑顔にするものは何でも「お笑い」と定義するなら、欽ちゃんのタレント活動は全て「お笑い」の範疇、インチキではない。
レベルの低い話をすると、会議がないと現状をまとめることすらサボる、必要な報告もしない、といった状況があって、私のような無能社員が3割くらい混じっている職場では、バカみたいな会議でも、しないわけにはいかない、と。
以前の所属部署では会議がほとんどなかったんだけど、その結果、私なんかは1週間何の成果もなくても、割と平気な顔をしてた。月に1度の現状報告会が迫ると、無理やりにでも成果を出したりなんかして。後から思うと、結局、切羽詰ってなりふりかまわず頑張ったときにしか、まともな進展はなかった。
今の部署では毎週、報告会があって、そうしたらちゃんと毎週末、切羽詰って何かが(多少なりとも)進むように。
いや、レベルの低い話ですよ、こんなのは。それはわかってます。わかってますけど、これまでの人生の歩みから考えるに、自分より優秀な人が世間の過半ということはないな、と。我が無能を呪いつつも、世間を見渡せば、下には下がいるよなあ、という。無論、上には上がいるわけですけれども。
ウェブには優秀な人が多いようで、みんなが自分と同じくらい優秀であることを前提にかっこいいことをいう人が目立つけど、世の中、本当にそれでうまくいくならみんなそうしてるよね、って感じることが多い。有能な人から見ればバカらしい会議でも、やらないよりマシだったりするんですよね……。
ダラダラ会議への批判、よくわかる。いい加減にしろ、この野郎、グダグダとしょーもない呟きを披露してるんじゃないよ、とか私も思うことがある。だけど、自分で小さな会議をチャキチャキ仕切ってみると、どうもみんな合点の行かない顔で散会することになりがち。
私が学んだのは、人がグダグダ話すのは、「もう少し考える時間をください」のサインだということ。そこで「他に建設的なご意見はありますか? ないようなので、決を採って散会します」とやると、次の会議でひっくり返される。平凡な人間が情報を租借し、痛みを引き受け、決断を下すには時間がかかるのだ。
意見を求められても、何もいえない。しかしそれは、意見がないということを意味しない。なのに、何もないなら時間がもったいないので、ここまで、となると、非常にストレスを感じる。「それがあなた方の仕事でしょ」「プロなんだから当然」と突き放すと、そういう素朴な気持ちが見えなくなりがち。
無能を責めても、人は変わらない。変わる人もいないわけじゃないけど、幸運な例外というべき。基本、バカはバカ。「会社の仕組みは、自分みたいな無能社員を管理することに最適化されている」という視点を持つと、なるほどと思うところがいろいろある。
こういう出典不記載の無断転載バンザイ記事に一片の批判もない人々が、自分が「仲間」と感じる人の著作権が侵害されたときばっかり怒りの声を上げる欺瞞は、何度見ても不愉快だ。150人以上もブクマして、一人も無断転載! しかも出典不記載! おかしい! と、いわない。
何度も何度も書いてきたことだが、私はこうした、著作権の枠を超えたコンテンツの流通を否定しない。否定しないが、こういう状況を喜ぶなら、まず自分のブログ記事やブクマコメントの無断流用を認めるべきだ。勝手に転載したヤツが賞賛されることに文句をいわないことだ。
ところで、まとめブログの管理者が画像の作者でないことは明らかだから、リンク先記事は盗用にはあたらないらしい。だから怒りは湧いてこない、とか何とか。著作者に敬意を表することや、著作者が望む対価を支払うことには全く関心がないが、盗用だけは許さない。
そういう立場に私は与しない(というか明確に批判的だ)が、それならそれで一貫してくれてるなら理解はできる。だけど先般、tumblr騒動があったでしょ。tumblrでリブログやってる人らがいつ、他人の著作物を自分のものと偽ったというのだろう。
はてブでもtumblr問題では「これはひどい」タグが乱舞したわけだ。それならリンク先記事のはてブだって同様であるべきところ、著作権問題に関して批判的なブクマも言及も一切ない。
プロ級の作品だったら無断転載でも平気なのかよ。すごい画像であればあるほど、無断転載の反倫理性が問われなくなっていく。ホントのプロの作品になると、逆に無断転載にケチをつけた側が批判されたりなんかして。みんなどうかしてる。
思想によって行動を制限されるのは、しばしばあること。
高校野球の応援に行くのはいいけど、相手側のスタンドで母校の団扇をパタパタしつつ、チームカラーのメガホンを叩いていたら係員に移動を指示されたことがある。父兄・一般席で、周囲がおとなしかったので、鈍感な私が勘違いに気付かなかったというだけの話なんで、「や、どうもすみません」と場所を移った。
サッカーの試合なんかでも、そういうことあるよね。
あと、主張の正しさは手段を(ごくごく抑制されたレベルまでしか)正当化しない、リスクの所在を批判の相手に転化し得ない、と思う。長野聖火リレーの例でいえば、世間が注視する場を絶好のアピール機会と捉えたチベット応援側に聖火リレー妨害のリスクが偏在していたので、彼らを遠ざけたのは自然な判断。
以前も書いたことだが、朝日新聞の批判を朝日の紙面上でやりたいと思っても、まず許可されない。それを言論の自由が侵害されたと難詰するのは偏狭というべきで、WWWとかチラシとか街頭演説とか、他のいろいろな手段が制限されていないのだから、いいじゃないか、と。
中国バンザイも Free Tibet! も、警察の誘導の結果、それぞれの場所で好きなだけ声を張り上げることができた。民主国家日本の面目躍如だったと思うのだが、どうか。
この記事に示されているような状況認識に(かなり)共感。「正しい」主張は無条件で最高の発表場所が与えられるべきだ、といった主張には与しない*。
ふと気付くと、今年に入ってから1回も Twitter を見てなかった。
ちょくちょく**さんがフォローしましたみたいなメールが来ていて、ウザいと思ってたんで、メールを届かないようにする設定はないかと思い、久々に行ってみた。へー、いつの間にか日本語化されてる。
アカウントを削除してしまうと、将来、再び関心を持ったときに deztec というアカウント名を使えなくなってしまいそうなんで、フォローを全部切ったり、過去の投稿を非公開にして、それからまたちょっと考えて全部削除したりはしたけど、アカウントは残すことにした。
2つわからないことがあって、フォローを全部切って、フォローリストは空になったのに、Home へ戻ると「あなたがフォロー 4」となっている。何なんだろう、これ。「あなたをフォロー 3」もわからない。詳細を表示させると、やっぱり空っぽなのだ。
バグかなあ、と思ってメールフォームから質問してみた。
回答なし。
同じようなバグ(フォローが実際の数(詳細)より1〜2多い)が私にも見受けられましたので、メールフォームから送信したら、2008/05/03に返信が来ました。
メールは引用できないので要約すると、「Twitterはそのバグを承知していて、現在修復に努めている」そうです。早く修復されるといいけど…。
なるほど、開発者も認識している問題だったんですね。もやもやが晴れました。(問題は全く解決していなくとも周辺情報が充実するだけで気分がスッキリする、という人の心の不思議)
言い方の問題、なら、所詮はそれだけのことであり、一部に見られた(しかし絶対数としてはかなりの多人数による)激烈な罵言の数々はアンバランスと私は考える。
……が、それはともかくとして、だったら、どういえばよかったのか。
穏当に、過去にない判断が示されたことで、今後、他の裁判にも影響が出てくる可能性について、どのように考えていらっしゃいますか、といったところか。
記者が私見をぶつけてはいけない、といった意見も、2ch まとめサイトなどで拾われたレスにはいくつもあった。これはさすがにタメにする批判と思う。だって、なーんも私見を入れちゃいけないなら、今回の裁判が何に影響しそうか、ということ自体、判断しちゃいけないわけで、「今のお気持ちは」くらいしか訊けない。
記者は何かを考えて、そうして質問を組み立てていくわけであり、記者の私見を会見でぶつけるなというのは、取材活動の否定だろう。と、批判しても、被害者遺族への「取材」など要らない、遺族のいいたいことをそのまま伝えてくれるだけで十分だ、みたいな感じなのかもしれないな。
元記事の意見には、大筋で賛成。
ただ、結果について責任みたいなものを問いたいなら、相手は裁判長なんじゃないか、と思う。でも裁判官は答えてくれないから、関係者に意見を聞いて回るしかないという事情はわかる。
個人的な動機から社会に何かを要求する、それはいい。しかし意見が通って社会が変われば、大勢に影響するわけだから、動機は個人的でもいいが、社会を納得させる説明が必要になるだろう。
人の視野は狭いから、自分ではよく考えたつもりでも、いわれるまで気付かない、いわれても気付かないことがたくさんある。だから、説明をして(聞いて)おしまいではなくて、いろいろ感想なり意見なりを募り(投じて)、さらに応答していく方が、行き届いた議論になりやすい。
司法の判断基準を動かしたい、と主張する人に、もしあなたの主張が現実のものとなると、こんな影響があると思われますが、そのことを認識されていますか? と質問をすることに不思議はない。
もっとも、今回、裁判という場で従来の司法判断を覆すことを要求していたのは検察なのだから、やはり質問する相手は検察官が妥当だろう。でも検察官は答えてくれないから、関係者に意見を聞いて回るしかないという事情はわかる。
あれれ、またそういう話に。
どうして記者会見して大衆に訴えるのは弁護士だけなのだろう。というか、弁護士がそういうことをしていいなら、検察も裁判所も同じようにしていいのではないか。だって新聞には、関係者の談話が載っている。匿名でコソコソ記者の質問に答えて主張を世に広めるのはオッケーで、会見はダメという理屈があるか。
それとも、会見しているのかなあ。警察なら、しょっちゅう会見しているイメージがあるんだけど。
裁判の主な論点と、その社会的なインパクトはズレている。裁判上の論点は、それはそれで大切なんだけど、その他大勢にとって重要なのは、結果としてどんな判断が下り、そのことによって私たちの生活にどのような影響があるのか、だ。
しかし裁判でそこは直接には扱われない。じゃあ世論は判決と無関係かというと、そうじゃない。それは判決を読めばわかる。いつも社会のことを気にかけている。なんかそのあたりに違和感がある。
だったら、世論喚起合戦と、法廷と、ちゃんと両方やればいいんじゃないか。
検察や裁判官が答えるべき質問が被害者に、あるいは弁護側にぶつけられる、それはおかしいと思う。
iMac 礼賛が並ぶ。そもそも iMac が今のような形になったのは2004年から。鏡餅+液晶のG4が登場したのだって2002年。一方、NEC の Simplem は1999年に発売されている。XPS one のときも似た感じの反応があったが、真の先駆者より、記憶に残る機種を開発した者勝ちということか。
Simplem も店頭で見て衝撃を受けた人は結構いると思うのだけれど。ただ、価格性能比で他のデスクトップと比較して明らかに劣り、安目のノートにも勝てないというあたりが敗因だったと思う。
環境対応、マウスとキーボードの無線接続など、iMac に遥かに先んじていた。裏面まできれいなデザインを実践してもいる。不幸な機種である。
ともかく富士通にApple対策の必要性があるとは私には思えない。
ナツさんは、ナツさんのブログの固定読者層(数千人)に対して説得力の大きな書き方を選択しているので、ナツさんのブログの読者という枠内でノイジーマイノリティーに類する人々に「そんな事は一言も言ってない」「そんな事は考えた事もない」
と返されるコストを見込んでも黒字なんだと思う。
つまり、別に自殺行為じゃない。真に共感してほしい相手は観客であり、相手が何といおうと、読者に「さもありなん」と思わせることができればオッケーなんじゃないですか。どうせ特定少数の説得なんて無理なんだし、ていうかそもそもブログに書くという時点で、「読者向け」の文章にするのは当たり前。
ていうか、「そんな事は一言も言ってない」「そんな事は考えた事もない」
とかいう反論は、「たしかにそうはいってませんけどね……」みたいなところがあって、集団の判断に対して無力なんですよね。こういうのって、再反論できるできないとは別次元なのです。
言葉が伝わるカラクリと同じで、人はどんな話も既知の類型に当てはめて理解する、ということなんだと思う。心外な批判に悔しく思うこともあるけど、1を聞いて10を知る仕組みのおかげで情報処理を効率化でき、人間は貧弱な脳みそで文明を築いてきたのだから、デメリットばかりいっても仕方ない。
何度でも同じことを書きますが……。
たとえ話は、共通点に着目して読み解くもの。AとBが違うのは当たり前であり、なぜAをBで例えたか、話者が何を共通項と捉え、両者に同様の判断を下しているのかを、素直に受け止めるべき。賛成でも反対でもいい。だけど、まず話を聞こうよ。
たとえ話Bの例であれば、話者に賛成。でも本題Aには反対。それはいい。だけど、「だから、そのたとえ話はおかしい」と続けるから、「おかしくないよっ!」ということになる。
AとBは違うもの。違うのだから、相違点をあげつらうことは簡単。でも、AとBは別物なので、BがこうだからといってAも同様とはいえない、という理屈を押し通すと、たとえ話はどんな場面でも使えないことになってしまう。
さらにいえば、AとかBといったグループ名自体、使えなくなってしまう。ひとつひとつ個別具体的な事情があるのに、まとめて扱うのはおかしいとか何とか。ちょくちょく見かけますよね、そういう意見。
これをいうとブーメランになるからアレなんだけど、「おかしい」というから無用の軋轢を生む。一方が正しく、他方が間違っている、という構図を描くから、望まぬ衝突を招く(いや、望んでいる人もいるのかもしれないが、多くの人は他者と意見がぶつかったときイライラ・不愉快な思いをするだろう)。
そうじゃなくて、価値観・世界観の違いゆえに意見が異なっている、と。「間違い」や「悪」なら正すべきだが、「違い」なら理解して適切な距離の取り方を考えていけばいい。
繰り返しますけど、AとBは違うものだ、なんてことはお互いに分かりきっていること。AとBが同じものなら、たとえ話じゃなくて事例そのものでしょう。たとえ話だといっている相手にAとBの違いを滔々と講釈するのは「間違い」を正す行為ではなく、AとBの違いを俺は重視している、というあなたの主張に他ならない。
これは読む側だけじゃなくて書く側についてもいえること。「説得」を目指さない。自説への「理解を求める」のみ、とする。
とはいえ、やっぱり特定個人の理解を得ることは難しい。自分を説得しようと頑張ってる人に自説を理解してもらえることは、まずない。だからコメント欄などで消耗するのは非効率。不特定多数に向けてブログの記事を書く方がいい。
コメント欄より記事本文の方が読者数は多いので、どうしても応答したいならコメントを引用して本文で返事するのがいいと思う。同じ労力で、より多くの人に自分の意見を理解してもらいたいと考えるなら。(効率なんかどうでもいい、というなら、まあご自由に……)
このところ、具体例を何も示さずに意見を書くことが増えてます。これはこれで誤解を生むのだけれど、リンク先について何か書くと、リンク先の人を説得したいと企図している、と勘違いされる方がリスク×コストの値が大きいかな、と。
かつてはたしかに、かなり説得の意図があったりした。でも、思うようにはいかない。逆もまた然りで、私もまた、ほとんど説得されなかったんだよね。お互いに「何だアイツは」「わからず屋」「バカじゃないのか」くらいに思って不愉快にやり取りは終息(息切れ)する。
そんなこんなで、不特定多数に向けた情報発信という意図が、いつの間にか文章を書く理由の大きな割合になっていた。こうなってくると、誰かの意見に反論を書いて、当人からレスポンスがあっても「面倒くさい」だけ。無視するのだって精神的なコストがかかりますから。
こちらが誤解している、というなら話を聞きますよ。だけど、誤解がなければ私の意見に賛成するはずだ、というギラギラがオマケにくっついてることが多い。自分が反論を書くときを思い出してもそう。お互い様なんだけど、こういうのに取り込まれていっても、利益になることは少ない。
だけど、面倒くさい、面倒くさいと思っていても、いざ面と向かうと、抗いがたい誘惑を覚える。危ないから、そういうシチュエーションがなるべく生じにくい形で、しかし書きたいことは書いて……というあたりのせめぎあいがあるわけ。
いいや、もう書くのやめた。となると、更新が止まる。ずーっと止まってればいいのに、と思ってる人もいるでしょうね。
私とは異なる意見がたくさん聞けるので、天気予報を確認するついでにほぼ毎朝30分ほど見ているテレビ朝日の「やじうまプラス」ですが、ずーっと見続けていると、新聞と同様、意外とマスコミはまじめにやっている、と気付かされます。
消防庁のみならず、マスコミもガソリンをポリタンクに貯蔵する危険性を訴えて欲しい所。
他の番組と同様、やじプラにも視聴者代表みたいな感じで芸能人がコメンテーターとして曜日毎に顔ぶれを変えて登場するのですが、だいたいみなさん、買い溜め厳禁とコメントされています。4月1日からすぐにガソリン価格が下がるわけではない、という情報とともに、ほぼ毎日、繰り返し注意を呼びかけていました。
あれほど回収情報の周知徹底に務めた松下のヒーターで、回収開始後に死亡事故が起きた故事もあります。いろいろ伝えたいことがある中で、3月下旬以降ほぼ毎日ガソリン買い溜めの危険を訴え続けたのだから、やることはやったといっていいのではないか。1件でも事故が起きれば、また大々的に報道するでしょう。
報道に関心を持たない自由があるこの国で、これ以上は望めないと思う。
暫定税率復活で5月よりガソリン価格は跳ね上がったが、買い溜め事故のニュースは聞いていない。ひょっとすると数件くらい起きていたのかもしれないけど、全国で死者多数、とはなっていないわけで、よかったよかった。