備忘録

平成20年5月28日

動物を殺して捌く様子を見せるのは、なかなか難しい。個人的には、教育効果の観点からは、題材はむしろ植物の方がいいと思っています。

その理由は、まず、「気持ち悪い」といったレベルの思考停止が生じにくい。次に、スレた子どもでも「そこにも命があった」ことを忘れていることが多く、興味を持ちやすい。そして、みんなが参加できる。野菜の収穫なら、幼稚園児から参加できる。「ゆとり世代」の若いお母さんたちでも問題ないでしょう。

以下、具体的な指導案。

まず、種まきを行う。種が芽を出し、大きく育って、花が咲き、実がなって、熟し、種が落ちるまでを観察したい。が、時間がないなら、まず種まきだけを行って、その先は口頭で説明してもいい。本当は野菜の種がいいのだが、種をまくだけなら朝顔でも不都合ない。野菜なら、ししとうを勧めます。

野菜は人が品種改良して作り出した生き物だけれど、野菜は別に人間のために生きているわけではない。ただひたすらに、大きく育とうと奮闘し、陽の光を求めて葉を広げ、水を求めて根を張る。

ビニール袋をかぶせて口を縛っておくと、1日で袋の内側に水滴がつく。人がハーッと袋に息を吹き込んでも、同様になる。野菜も生きていて、私たちと同じように(まあ実際には違うのだが)呼吸をしていることがわかるだろう。野菜の息遣いはとてもゆっくりで静かだから、私たちは、その生命の熱さに気付かない。

育った野菜は、地味で控えめな、そう、まるであなたのような花を咲かせ、小さな命を宿す。未来へ命のたすきをつなぐため、自らの命を削って奮闘する野菜。実が熟しきった頃、葉は枯れ、萎びて、あとは朽ちるのを待つばかりというような姿となる。**ヶ月の短い一生だった。合掌。

時間差をつけて植えたもう一鉢は、どんどん収穫。「おいしそうですね。収穫して食べましょう」

野菜は、人に食べられるために実をつけているわけではない。生命のサイクルを回すべく、愚直な努力を続けているだけなのです。

白く柔らかい種のひとつひとつに、もっと違った未来がありえた。一度や二度くらい、可能性を閉ざされた幼きししとうの子らのために、我が子の成長を見守ることすら許されないししとうの親のために、泣いたっていいじゃないか。(ちなみにししとうはふつう自家受粉します)

植物を擬人化してもしょうがないが、野菜を食べる私たちには生命を愛でる心がある。植物を生き物と認識する視座を持つならば、自ずと動物への見方も変わると思う。

補足

いまどきのおいしい野菜はたいてい交配種なので、2世代育成はうまくいかないことが多いです。第1世代で種どりし、第2世代を食べつくすと物語が盛り上がるのですが。

追記:

記事の公開を8月まで延期したため、ししとうの季節は過ぎてしまいました。秋まき野菜(9〜10月にまく)なら、えんどう豆を勧めます。

平成20年5月27日

どうして盗用されて怒るような人の記事をパクるのか。盗用されて喜ぶ人間もいるというのに……。盗用した人は停職になったそうだ。こんな悲劇をもう起こさないため、今後も努力していきたい。

まあ私の文章なんか盗用する価値を感じない人が多いのだろうけれど、ブログタイトルを「備忘録」から「盗用大歓迎blog」に変更。常連読者だけでなく検索エンジン経由の人にもアピールできるようにしてみた。思い切ってわかりやすい表現を選択。下品なのは我慢。しばらく様子を見る。

私の文章については、商業利用でも何でもご自由にどうぞ。事前連絡も事後連絡も不要。大儲けしても私には1円だって還元する必要なし。

ただし、ご利用先で生じたトラブルについて私は一切責任を負いません。例えば、私が何か間違いを書いていて、そのために不幸が生じたとする。deztec.jp 以下の記事を見て不幸になったなら私が謝るけど、盗用先の記事を読んでそうなったんなら謝らない。同様の不幸を招かないよう、私は黙って記事を書き換えるだけ。

責任も賞賛も批判もセットで持っていってください。嫌なことだけ私に押し付けるのは禁止。だから盗用する際には、「原典の筆者は徳保隆夫さんです」とか書かないでほしい。自分が書いた記事だよー、というフリをしてくれるとありがたいです。当然、リンクも無用。

私がもっと、盗用したがりの人がビビッとくるような記事を山ほど書ければいいのだろうが、なかなかね……。だけど、もし私がサボらずに毎日バリバリ書いていたら、ひょっとしたら福島中央テレビの人は停職処分を受けずに済んだかもしれない。

ブログを書きたい、書かなきゃいけない、だけど自分で文章を考えたくない、って需要は確実にあるわけで、盗用大歓迎の人と盗用したい人の需給が一致するような社会を目指したい。もう何年も、私はそういうことをいっている。賛同者が少しずつでも増えるといいな、と思ってる。

「これってまさに俺がいいたかったことだよ!」という文章があるなら、いちいち自分の下手な言葉で書き直す必要のない世界がいい。今日の気分を iPod に入れる曲目で表現するように、あるいは服装をコーディネートするように、日記だって心に響く言葉の取り合わせで十分なんじゃないか。

補足

ブログをやりたいけど記事は盗用でいいや、なんて需要は「ない」という意見もありますが、現にあるからパクり問題が起きるわけですよ。で、多くの人はそういう欲望を責めるのだけれど、人に我慢を強いるばかりで問題が解決するのか、と。

私のように、パクり大歓迎という人間がいるのだから、無理な我慢をせずとも、私のような人の記事をパクれば誰も悲しまずに済むのです。しかし残念なことに私のブログにはろくな記事がない。だから私の記事にパクり屋さんは見向きもしない。そうしてパクり屋さんたちは罪を犯し、人生を棒に振る。

私がもっといい記事を書いていれば、このブログがもっと有名で、パクり屋さんの目に留まるものだったなら、多くの不幸は未然に防ぐことができたかもしれない。

ブログ名の変更は、私の意志表明です。相変わらず私はろくな記事を書けないでしょう。毎日バリバリ更新するのも不可能です。だけど、こんなブログでも、この先、誰か一人くらい、不幸から救えるんじゃないか。福島中央テレビの人の悲劇を見て、そう思ったんですよ。

追記

ミラーサイトを作りたい人はどうぞ。私の名前つきで転載してもいいです。転載した記事が何か問題の種になったとき、転載した人が文責を背負ってくれるなら、私の名前がくっついていても構いません。

これは、私が野嵜さんの記事を転載しつつ、文責は私が負う、と宣言している事例です。サイト全体をミラーするような場合、記事の一つ一つに注記するのは現実的でないので、トップページあたりに注記していただければ十分でしょう。

平成20年5月27日

「決め付けるな!」を読み解く2STEP

タイトルはホッテントリメーカーを参考に。

よくわからない話。

「経験上、Aの人はBであることが多い」と書くと「決め付けるな!」と怒る人がいる。

決め付けてなどいない。よく文章を読んでほしい。AだけどBじゃなかった人がたくさんいることは知っている。「Aだから絶対にBに違いない」なんて私が思うわけがない。

「だったら結局、人それぞれってことじゃないか。紛らわしいことを書くな!」

なんでそうなるの。

降水確率30%と50%は、あなたにとって同じなんですか。可能性が低い事柄は、当たったら不運だったと思うことにして事前の対策をしないが、一定以上の確率ならきちんと準備をする、そういうことって、あるでしょう。降水確率が0%の日にしか洗濯物を干して仕事に出かけない人なんですか、あなたは。

降水確率が30%なのに、庭に洗濯物を干しっ放しにする。それは、雨が降らないと決め付けているのとは違うわけだよ。降るかもしれない、と思っている、それでも干すんだ、と。

50%なら部屋の中に干す。

「可能性は半々じゃないか、何で雨が降るって決め付けるんだ」

いや、決め付けてないってば。これくらいのことは理解してほしい。

もうひとつだけ。

これは難しい話なので、理解されなくても仕方ないのかも、とは思うのだけれど。

言葉は「文脈」を背負う。何度も何度も何度も何度も同じことを繰り返し書くのは、書く方も読む方も嫌だから、ちょっとした長さの文章になると、文脈に依存してだんだん言葉を省略していくことが多い。

「経験上、Aの人はBであることが多い」「Aの人はCであることも多い」という話を、いくつもの例を挙げて帰納的に書いていく。で、「Aの人はBだが、CであるのもまたAの人である」などと書いてしめくくる。

すると、「AだからBだとか、CだからAだとか、決め付けるな!」と怒られる。今度は「そんなこといってない」と説明しても、「だって、そう書いてるじゃないか」。

……。

というわけで。

勘弁してください。

平成20年5月27日

限られた授業時間内に限られた事柄を伝えようとしているときに、話の枠組みの外から素朴な感想をポツンと漏らされても、教師としては如何ともし難いもの。講師準備室へ遊びに来てくれたなら、雑談の相手をする用意はあるのだけれど。

大学の講義では、毎回最後に100〜400字程度の感想文を、出席票代わりに提出させることが多い。その扱いは人それぞれで、アシスタントの学生に出欠チェックさせてゴミ箱へポイ、という話も聞いたことがある。そうかと思えば、感想文を講義の理解度チェック票として、ていねいに読む先生もいる。

感想文を書く学生もまたいろいろ。何も考えず「眠い」「つまらない」「板書の字が汚い」などと書く学生もいる。じつはこれ、私のこと。多くの先生は無反応だったけど、とうとう某先生が「感想文に、飽き飽きした、などと書く信じられない学生がいるので、これからは小レポートと呼び名を変えます」と仰られた。

「声が小さくて教室の後ろの方にいるとよく聞こえない」とか「プリントの字が一部つぶれていて読めない」といった指摘も、それなりに有用ではあるでしょう。そういった意見がほしい先生もいるはずです。「寝不足でつらかった」なんて感想も、学生の息遣いを知りたい先生には興味深い情報ではないでしょうか。

そのように考えていくと、一般的に妥当とされる感想文の書き方があることは私も認めますけれども、単に感想文といったとき、そこに多様性があっていいはずだ、とも思います。ですから、「常識的に考えればわかるだろう」といった方向性は好みません。

場の雰囲気、メンバーの偏りなどのため、自然と同種の感想文がスススーッと集まって、それがバッチリ教師の希望と一致することは、決して珍しくない。しかしやはり、特定のタイプの感想文を確実に集めたいならば、教師は毎回ていねいに要件を示すべきだ、と私は思います。

福耳さんは、感想文を、まず理解度チェックに使いたい。その上で、個人的な体験や価値観に基づくプラスアルファにも大いに期待しています。

私なら、このようにいいます。

授業の最後に、いま配布した小さなレポート用紙に、感想文を書いて提出してもらいます。この感想文は、成績評価の重要な参考資料となります。まず、感想文を提出すると、出席点がつきます。次に、講義の理解度から、理解点がつきます。さらに、興味深い感想文には、ボーナス点がつきます。感想文には、ここが講義のポイントだな、と思ったことを書いてください。そして、自分の経験、身の回りのこと、あるいは関心のある社会問題などについて、今日聞いた話を応用すると、あれはこう考えることができそうだな、ということを書いてください。その他、さまざまな質問、異論、反論、感想文に書きにくい素朴な感想、板書の字が読みにくいといった苦情などは、裏面に自由に書いてください。興味深い意見にはボーナス点をつけます。全て加点法です。減点は絶対にしないので安心してください。

もう少し意図を明確化するために、「今日の話に賛成できない方もいるでしょう。しかしこれは理解度チェックのための感想文ですから、表面には、私が提示した考え方を前提とすると……という話を書いてください。異論、反論は裏面にお願いします」と言い足してもよいと思います。

補足

私がこんなことを書いたのは、福耳さんが「あれれ?」と感じた反応をした学生が、例えば経営学入門の期末試験でも「かわいそう」論を展開するのかな、と疑問を感じたから。

福耳さんは、講義の内容を理解できてさえいるなら、経営学の知見より「かわいそう」を優先するのは個人の自由、という意味のことを(コメント欄で)仰っています。現実的な目標設定です。ただ、理解はすれども賛同せず、という学生の理解度を確認する際には、工夫が必要です。自由記述の感想文ではいけません。

ようは「で、結局あなたはどう思うの」という問いの答えを書くのか、「授業の枠組みの中で高得点を狙った答え」を書くのか、という話で、自由記述の感想文は前者として理解されることが多い。だから、理解度チェックをしたいなら、ちゃんと指示しないといけない。

こういうことをきちんきちんとしていくと、限られた時間内で限られたことを教え、限定的な理解を得て良しとする他ない、教師の限界をしみじみと実感させられます。でも、それでいい。

平成20年5月26日

少なくとも今、私はこうした意見に与しない。

失言(とされた文章)を(納得していてもいなくても)削除することの何がいけないのか。批判者の指摘が宙に浮いてしまう? それが何だっていうの。

他人の文章を批判する人は、それが世のため人のためにならない文章だと思うから批判しているのではありませんか? 悪(と自分が認識したもの)が消えたなら、あーこれで世界は救われた、新たな犠牲者はもう現れないぞ、と喜んでいいはずです。

敵が退散してガッカリするような人は、自分の嗜虐志向を満たしたくて批判を書いているのではないか、と私は疑う。相手がその先、どんないいことをいっても、「ふん、3年前には、こんなことを書いてたくせに」とリンクして、ネチネチいじめたい、とかね。

仮に「そんなこといいましたっけ?」と相手が空とぼけていてさえ、「ふーん、そうですか」で問題ない。だってそうでしょう? いったい誰が、その悪のために不幸になっているというのか。人は弱いもの。多少のことは赦していいはず。(無論、怒りを抑え切れないのもまた人間の弱さではあります)

ともあれ、恥じ入って逃げ隠れた悪を引きずり出して、公開処刑しないと気が済まないような正義の味方には、違和感を覚えます。

ワイルドアームズ ザ フォースデトネイター PlayStation 2 the Best

あまり関係ないけど、なんとなく連想。

補記:

単なる処世術として、こうすべき、みたいなことをいいたいなら、それなりの書き方がありますよ。

平成20年5月26日

いつものことだけど、何かをしてほしいとお願いされると、「それは義務じゃありません」なんて反応をする人が現れる。義務だなんて誰もいっていないだろう。

少数派体質の私などは、自分が正しいと思ってやっていることに不快感を表明されることは珍しくない。もう慣れっこ。一方、多数派体質の人って、「イヤだからやめて!」といわれるだけで大ショックらしい。「何でそんなこというの!?」「だってイヤなんだもん」「ひどいよ……わたし何も悪いことしてないのに」

それでどうなるかというと、「他人を怒らせたくない」と思うあまり、自分の(現行法下で)合法な活動に対して「他人が怒ることを許さない」。これって本末転倒ではなかろうか。なぜか、ウェブにはこういう人がたくさんいる。

「トラックバックなしの言及を私は陰口とみなす」と相手が主張しているからといって、「トラックバックしなければならない」とはいえない。

「そうですか、あなたの考えは、わかりました。でも私は陰口だとは思いません」「陰口だと思いたければ、どうぞご自由に」「陰口ですよ、ええ」いずれにせよ、相手がどう思おうと、トラックバックせずに言及する自由は少しも制限されない。

トラックバックせずに言及する自由があるように、それに対して不快感を表明する自由だってある。無断リンクする自由とともに、無断リンクされて怒る自由があるのと同じことだ。少数派の「イヤだからやめて!」という声は、過剰に叩き潰されがち。多数派だけが表現の自由を行使できるような社会は怖い。

なお、(現時点では)合法な行為を「禁止しろ!」と主張する自由は誰にもある。逆もまた然り。そうでなかったら社会は何も変化しない。それでいい、といえるほど、世界の完成度は高くないと私は思う。

平成20年5月23日

「議論に一石を投じた」という段階だそうだが、財務省が歳出削減の一環として、国立大学の学費を私立大学と同等にし、基準を超過した教員数を是正することで財源を捻出し、卓越した研究拠点への重点支援、高度人材育成、奨学金の拡充に回すことを、財政制度等審議会で提案したのだという。

これは2008年5月19日に開催された財政制度分科会財政構造改革部会での話。議事要旨が出るのは6月後半になりそうですが、会議の資料は今でも読めます。

教育関連の資料は全133ページの大作。スライド式ながら文字量は相当に多く、読み応えがあります。面白いので全部読むことを勧めますが、国立大学の学費に関する部分だけ読みたい人は、資料(4)〜(7)を参照してください。

でもやっぱり最初から読んでほしいですね。というのは、資料を通して読むと、「投入量」重視の予算を改め、「成果」を軸に予算配分を見直したい、という大きな主張があって、その一環として高等教育の予算配分や、奨学金制度の見直しをしたい、と各論を述べていることがよくわかるのです。

例えば、人口1000人あたりの大学教員数を見ると、日本はドイツと並んで主要先進国トップクラス。アメリカの1.37倍、フランスの3.25倍もいる。教員一人当たり学生数も日本は11人、アメリカは15.7人、フランスは17.3人という具合。

政府・民間を合わせた研究開発費のGDP比は主要先進国の中でダントツ。政府支出のみを見ても高水準。国防研究費を含めればアメリカに負けるが、ドイツ、フランス、イギリスを上回る。人口一万人あたりの研究者数の推移を見ると、これも主要先進国随一。日本政府の科学技術振興費は20年で3倍増。

つまり「投入量」は多い。

では「成果」はどうか。ノーベル賞受賞者は少なく、世界大学ランキングなどでも日本は存在感がない。

そこで、中央教育審議会が2005年1月28日に出した「我が国の高等教育の将来像(答申)」に基づき大学を機能別に分化し、合理化、予算配分の重点化を行うべきではないか、と話をつなげている。

具体的には、国立大学法人評価委員会の機能を改善・強化し、予算編成プロセスに反映できるようにしていく。さらに政策・戦略における科学技術の位置付けを明確化し、科学技術振興と各府省所管分野の政策推進を一体的に行うことを目指す。

問題は、何を無駄とみなし、予算を削減して、「重点配分」の財源を捻出すればよいのか。

この点について、資料は多くを語らない。趣旨を逸脱した奨学金の利用実態があること(受給者家庭の44%に平均収入(700万円程度)以上の所得がある/奨学金受給者は非奨学生よりも海外旅行・電話代・食費・運転免許の支出が多く、勉学費・書籍購入費への支出が少ない)、大学教員の多さ、などを指摘するくらい。

まあ学費云々は「試論、未定稿」とされたページに記載されているもので、まず議論をしませんか、ということ。財務省の言い分を知るくらいの余裕はもっていいはずだと思う。

個人的に興味深かったのは、財務省の本領発揮という感じの資料(2)(3)(7)です。予算をもっとほしいという文部科学省への反論。「昔は良かった」論は教育分野にも蔓延っているわけですが、数字を挙げてビシバシ反撃している。そういうのが好きな人は、「そうだ! もっとやれ!」と楽しめるのではないか。

平成20年5月23日

1.

国立大学の授業料を私立大学並みとし、教育の機会平等は奨学金制度の拡充で対応する、という財務省の試案が多くの批判を浴びている件について。

お金がないので国公立大学しか受験しなかった、という人が、どれだけいるのかな。国公立大学受験者の大半は、滑り止めの私大だって受験してたはずだ。そういう人は、国公立の学費が私大同等になっても、「進学できない」わけがない。

だいたい、研究内容とか、どうしても学びたい先生がいるとかで、私大へ通いたいということだってあるだろう。国公立大学の学費を下げるより、奨学金制度を拡充する方がいいのは当たり前じゃないか。平均年収以上の家庭の子が、国公立大学へ進学したので低学費で済む、なんてのは公費の無駄遣いだろう。

2.

私の弟が東京の国公立大学に進学し、さらに奨学金を借りたが、結局、お金は8万円の家賃に化けた。何年も働いてる兄より贅沢な家に住みやがって何なんだ、と親族の間で話題になった。私は「いかにも弟らしい」と思い、笑ってしまった。出身家庭の年収が400万円ちょいでも、こんな感じ。注:父は車の買い替えを諦めた

その後、アルバイトやらスロットやらで弟は300万円くらいの貯金を作り、修士1年までで奨学金をやめた。東京で一人暮らしをしつつ、留年もせず卒論・修論をきちんと仕上げ、学会発表を行いながら、ジャカジャカ稼いで貯金300万円。レジャー系のテニスサークルに入って旅行だの合コンだの、私が何もしなかった分までまとめていろいろ……。

弟は私よりずっと有能なので、私なら「そんなの無理に決まってる」と挑戦もしないことをひょいひょいやってのける。弟にできたからあなたにもできる、というつもりはない。ただ、何というか、国が進学を支援すべきなのって、これくらい優秀な人間だけで十分なんじゃないか、と思うことがある。

弟はそこそこ給与の高い会社に就職したので、ボーナスを貯めて2〜3年で奨学金を完済するという。保証人は私なので、弟が不慮の事故に遭ったりしたら私が返すことになる。私の年収よりだいぶ大きな金額だったものの、私の貯金はもっと多いので大丈夫だろう。2〜3年後まで封印しておけば問題ない。

3.

私は家から通える地元の国立大学へ進んだが、そこに、学費以外は全て自分で稼ぐこと、という親の条件をのんで入学してきた学友がいた。最初の頃は、パンの耳に砂糖をかけて食べ、学内の水道でのどを潤す生活をし、工事現場の作業服のまま授業を受けていたが、夏頃には生活が安定し、学食で食べられるようになった。

千葉県なので、大学へ自転車で通学できる位置でも、家賃3万円台で台所とユニットバスが付く(築30年超の木造建築で日当たり無しだったりするのは仕方ない)。それでいてアルバイトの時給はコンビニで850円くらいだったから、相対的に東京よりはラクだろう。でも、奨学金なしでも案外いけるものだな、と。

彼もまた、ランナーズサークルに参加して、市民レースなどによく参加していた。「走るのはタダだからね」といって、空きコマがあると学内を走り回っていたことを思い出す。注:敷地の広い大学で、複数の出入り口をつなぐため、柵の内側をぐるッと回れる道路があった。一周1.5kmくらいだったかな。

4.

ちなみに私も、「お金がないから」国公立大学へ進学してほしい、と両親にいわれてはいたけれど、12月になると、「でもまあ何とかならないこともないだろうから」私大も受験しなさい、と。それで、家から通えないような大学もいくつか受験している。

年収400万円ちょいでも、「だから(私大+下宿では)進学できない」なんてことは全くなかった。ここをこうすれば可能、と家計簿を見せてもらったが、たしかに不可能ではなかった。注:借金がないという前提があっての話ではある。また当然、奨学金やら教育ローンやらで私も4年で200万円程度の借金をする前提。

国公立大学の授業料を上げると庶民が進学できなくなる! という意見をお持ちの方がたくさんいらっしゃるようだけれども、全く「不可能」な人はそれほど多くない。奨学金制度のターゲットを絞って1人あたりの給付を厚くすれば対応できる。

5.

でもまあ、親が高等教育に無関心な場合、親の年収に関わらず、つらいということはあるだろう。奨学金制度のターゲットを絞ったら、そういう人がこぼれ落ちてしまうじゃないか、と。

ある知人は、親戚の知人の家に下宿させてもらうことで家賃などを浮かせ、実家から通えない私大へ、奨学金とアルバイトのみで進学できた。

少し違う事例だが、私の通っていた高校にはオーストラリアやアメリカからの留学生が来ていたのだけれども、彼女らは、学校近隣の一般住民にボランティアで養育されていた。留学生は1年間、ボランティアの家で家族同然に過ごし、お礼の言葉だけを残して帰っていく。一応、ボランティアの選定にはロータリークラブが一枚噛み、それが「保証」となっていた。

祖父の時代には、県内に「中学」が1校しかなかったりしたので、小学校の教師が知り合いの伝(つて)をたどって中学付近の家庭に下宿できるよう手配してくれたりしたものだ、という。今でもスポーツ特待で遠くから生徒を取る場合、当該部の顧問教師が自宅に生徒を下宿させることは珍しくない。

貧困家庭の子女の就学を支援する下宿ボランティアのネットワークがあれば、本当に全然お金がなくて、授業料が上がったら奨学金だけじゃ進学できないという問題の多くは、解決可能だろう。

ちなみに私の借りている部屋も、定員は2人なので、一人受け入れる用意がある。親戚や付き合いの長い知人の紹介を前提として、困っている人がいたら遠慮なく、と公言してきた。授業をサボるような学生ならすぐ追い出すが、家賃も食費も無料で提供するつもりだ。私のような人と、真に貧乏な学生とを結ぶ組織があるといい。

国家が私たちに何をしてくれるかを考えるよりも、私たちが隣人に何をできるのかと考えるべきだ。

平成20年5月23日

学級崩壊している大学、なんてのもあって、こんな連中まで大学に来ちゃうので、まじめな高卒就職組が損をするんだよなあ、とか。財務省がバッサリ予算をカットして大学を減らしてくれたらいいのにな。あるいは大検を必須にするとかね。

大学を卒業したはずなのに、高卒程度の学力もないという人が多いわけでしょう。かくいう私も怪しい。私が大学で学ぶために、いくらの税金が投入されたのだろうか。それだけの価値があったのか、という。まじめにお勉強したつもりだが、差し引きマイナスなんじゃないか。私程度なら高校までで十分だったろう。

県下トップの大学へ4年通って、私は(多くの)学生の堕落ぶりに呆れた。それでも他のあちこちよりずっとマシだったことは、狭い知見からも確信できる。教育予算が足りないなら、まず大学を減らせばいい、というのが正直なところ。私の出身校もなくなっていいよ。

これは勤務先での経験から、強くそう思うようになった。月額22500円の資格給(4大卒)以外、高卒と大卒の待遇格差がない会社。研究開発部門にも高卒の人がいて、私よりずっと活躍していた。私自身、高卒で入社しても、今と大差ないレベルで仕事できたと思うよ。

注:(年収300万円×4年)÷(資格給2.25万円×12ヶ月)=44.4年>38年=(定年60歳−入社年齢22歳) というわけで、私の勤務先ではキャリアパスが同等なら生涯収入が高卒>大卒になる。ただし出世する人は大卒に多く、平均的には大卒の方が生涯収入は高い。

大学でお勉強したことなんか大して役に立たない。というか、役に立てようとしたら、卒業後にむしろお勉強を頑張る必要がある。所詮、大学なんて4年間のことでしかない。若いときの4年間は特別だ、なんて、今の自分が勉強したくなくて現実から眼を背(そむ)けているだけだろう。自らを省みて、そう思う。

若い頃はアタマが柔軟だった? 物覚えが良かった? ウソをつくな! たった50個、100個の英単語を覚えられずに小テストで泣きが入っていたのは誰なのか。つまらないことに固執して依怙地になってたのは誰なのか。経時劣化など初期値の差と比較すれば微々たるもの。今できないものは昔に戻ってもできやしないんだ。

大卒が多すぎるので、いま、多くの職種で「高卒は足切り」となっている。本当に大卒にしかできない仕事が、どれだけあるんだろう。もったいない。大勢が4年もグダグダ過ごすのも、そのために税金をガバガバ使うのも、高卒を足切りしちゃうのも。

リンク先の記事は、現状を前提とした、役に立つ意見。今日、私がごちゃごちゃとたくさん書いているのは、その前提を変えたいという意見。これは何の役にも立たない。絵空事って、書いてるときは楽しいけど、読み返すと虚しく感じることが多い。

平成20年5月23日

勉強なんかしたくないけど就職のために進学する若者、大学で学んだことには全く期待していないが便利な足切り基準として大卒を条件にする企業。やる気のない学生が4年間のんべんだらりと過ごすために投入される膨大な税金。徹頭徹尾くだらない。

バカに奨学金を出しても社会的に損失の方が大きい。だが金持ちならバカでも進学でき、進学したことによって得をする。そのお金を利殖に回した方が、親が死亡した時点の財産総額は大きくなる(つまり教育投資は損)わけだが、「どうせ相続税で消えてしまう」と考えると、子に多くを残すのが目的なら結論は逆転する。

こういう不公平があるから、底辺大学の学生でも奨学金制度を利用できるようになっている。だけどこんなの、そもそもバカが大学に進学できなければいい。そうすれば、企業も大卒だけでは絶対に人手不足になるので、高卒を雇うはずだ。そしていまは大卒ばかりを採用している職場にどんどん高卒が入っていくだろう。

進学率が高くなればなるほど、「高卒にも優秀な人はたくさんいる」という主張は虚しくなっていく。確率論的に「人事の予算も面接の時間も限りがあるんだし、やっぱり足切りしようよ」となってしまう。そうしてますます、同じ能力なら大卒の方が有利、の度合いが増していく。悪循環だ。

ほとんどの人が高校へ進むようになって、日本の知的レベルは底上げされたんですか? 勉強する気のない子を高校へ行かせて、何の意味があったというのか。それでも高卒というだけで得をするから……という悪循環。教育、教育って、どれだけお金を無駄にすれば気が済むのだろう。

まず大学進学率を下げる。次は高校進学率も下げたらいい。高校受験の直後が生涯の学力のピークという子どもたちを、私は何人も見てきた。高校に入ったときの方が賢いのだ。彼らが3年間遊び呆けるために、いったいどれだけのお金が無駄になっているのか。

人手不足社会を作ることが、まず重要。その上で、予算の制約が厳しくなっているという方向から大鉈を振るいたい、と私は妄想する。ま、環境に恵まれてさえいれば俺はもっと賢くなれたはずだ、と思いたい日本の庶民は、そんなことを許さないでしょうけど。

入試すら否定してきたんだもんな。教育から効率を排除して、万人に最高の教育環境を、って、誰がそのお金を負担するわけよ? U-CANのペン習字のテキストを放り出すような人々には、鏡を見ろといいたいよ。8割白紙のテキストを見て、無駄だったなあ、と思わないのか。

平成20年5月23日

昨年あたりまでは業績が堅調に推移した一方、新人の採用に苦労するようになったので、私の勤務先では中途採用が増えている。へー、そうなんだ、と思ったのが、就職浪人の人は中途入社扱いだということ。もう学校は卒業しちゃっているわけだから、すぐに働き始めてもらうことになる。面接の次の週から、だったかな。

浪人中途が5月頃に即入社すると、新卒採用はまだ研修中だったりする。どちらも年齢とか学年とか同じなんだよ? だけど、この浪人中途の新人が、いきなり現場に投入され、そつなく仕事をこなす。あまりのそつのなさに笑ってしまった。無論、アシスタント的な仕事ではあるけど、でもさあ。研修の意義って……?

平成20年5月23日

祖母の葬儀で数年ぶりに弟に会ったが、B型人間は協調性がないとか何とか力説していて、ゲンナリした。(ちなみに私の家族は全員O型。そういう「場」を前提とした話ではあった)

理系で院卒で一流企業の技術職となって、それでもこれだもんな。小学生の頃から何も進歩がない。弟は自分よりずっと優秀なのに、なぜだ。

30分くらい頑張ったが、「人それぞれだから、最初に決め付けたりすることはもちろんないよ。だけど後で血液型を聞いて、やっぱり! と思うことが多い。科学的な根拠がないのは認めるけど、経験的には間違いなくあるんだってば」を突破できなかった。

もう、どうでもいい。(逃避)

いや、でも、よくよく考えてみると、私も別に論文や参考書を弟に見せたわけでもないし、バカ兄貴が誰かからの受け売りを諄々と説くのを聞いて、安直に「なるほどー」という方が問題かもしれないよな。素朴な実感を大切にするのは、自分より口のうまい詐欺師に引っかけられないためには有効だし。

それに、「人それぞれ」を踏まえたうえで、「経験的な実感」以外の根拠なく「傾向」を語ることは、私もしょっちゅうだ。「日本人は内向的」だとか「日本人は自分に自信がない」とか、明確な根拠なく、そういうことを口にしたことのない人が世の中にいるんですかね。

それどころか、ろくな科学的根拠もなしに「AならBに決まってる!」と言い放つことだって、多くに人にとってそう珍しいことではないのではないか。「金利所得を奪われて庶民は苦しんでいる。金利を上げれば日本の景気は回復する! 絶対そうだよ!」とか。

「科学的な根拠がないのは認める」というので、それ以上を求めても仕方ないだろう、とは思う。

平成20年5月19日

秋葉原に行ったことは数えるほどしかなく、ここ5年の間には1回だけ。なんだけど、巡回先(加野瀬さんとことか)で話題になってる本で気楽に読めそうなもの、ということで読んでみました西村京太郎「十津川警部 アキバ戦争」。あ、ちなみにこれ、西村京太郎先生の2008年10冊目の新刊です(文庫化などの再刊は除いて10冊!)。

十津川警部 アキバ戦争

誘拐された人気メイドの行方を、ファンのオタク3人が探索する物語。いつも通り、リアリティーのないキャラクター+筋立てなんですけど、じゃあ「ミッション・インポッシブル」や「007」にもそういうことをいうのか、と。ヘンな人を出さないと、そうそう都合よく事件は起きないし、お話にもならない。

オタク1、ガンマニア。標的に当たると熱で溶けるプラスチックの中に硫酸が入った弾丸とやらを発射できる自作エアガンを安アパートの一室で開発・製作。

オタク2、実在メイドのリアルフィギュア(高さ1m程度)が「50万円ならお買い得」といわれポンポン売れる人形師。

オタク3、GPSと発信機をネックレスに仕込むことができるスーパーエンジニア。この発信機、半月もの間独立で動作可能で、数km先まで電波を飛ばせる。超小型で磁界の影響も受けないため、8mm経のBB弾の中に仕込んで対象物に打ち込み、磁石でくっつけるという離れ業まで実現可能。

揃いも揃って、超人的な能力の持ち主の彼らが、誘拐されたメイドさんのために一致団結し、会社を辞めてまで時間を作って犯行グループに挑戦するというファンタスティックストーリーが「十津川警部 アキバ戦争」なんです!

西村京太郎先生といえば時刻表トリック、と思い込んでいる人が多いでしょう。でもね、違うんですよ。もう、ここ10年くらい、そういう作品は絶無ではないけれど、まあ少数派です。一応、今回も電車は登場しますし、発車時刻がどうとかこうとかいうわけですが、ブラフです。

時刻表トリックなんて、リアリティーがないですしね。単純な犯罪だって、証拠をつかまえられなきゃ摘発できない。なので、十津川警部は地道に平凡な捜査を続けます。だんだん面倒になってくると、善良な市民を脅したり。今回、十津川警部は活躍しませんが、これはそれほど珍しいことではありません。

結局のところ***によって犯人のアジトが判明するという展開なので、謎解きも何もあったものではない。平成の西村作品に謎解きを期待してはいけません。それっぽいのがあったとしても、たいていは憶測と事実の境界が曖昧な西村ワールドなんで、「本格ミステリー」だと思ってはいけない。

本作の読みどころはいろいろありますが、人命最優先だとか、***の高い人間の家を礼状なしで強引に捜索することはできないとか、十津川警部には制約がたくさんあって、それゆえ犯人に辿り着くことができない。そのあたりに注目するのがお勧めかな。話のバカバカしさを嘲笑するのは時間の無駄でしょう。

血縁もないメイドさんを助けるために、亡くした娘に似ているという理由で1億円もの身代金を払う日本画家、というのは、まあ筋立てに必要だから登場する人物。あまり気にしてはいけない。

身代金が数千万円ではどうもなかなか組織的な誘拐を企てるには不足なんで、これは仕方ないのです。あと実の娘の誘拐だと、話が深刻になりすぎて、やっぱり画家が空気化する後半の展開に差し支える。全般に浮世離れした話なんで、身代金を払う側も地に足の着いてない感じのキャラクターがちょうどいい。

ところで、作中の犯罪には1箇所、確率がかなり低い偶然に頼っている箇所があるのですが、西村先生が「かなり偶然だが、あり得ないことではない」と書いているので、そういうものだと思ってください。何度もいうようですが、そういうことを気にしてると西村先生の作品は楽しめません!

好意的な憶測を書けば、今回の犯人はけっこう賢い。警察予算に限りがあり、法や人道の見地からも手かせ足かせがつけられているという前提において、成功可能性がありそうな犯罪をやっているわけです。一方、犯人を突き止める側は非現実的なオタク3人。これはよくないな、ということなんじゃないですかね。

だから犯人の側にも、非現実的な偶然が必要なようにしてある。考えすぎかな。

えーと、秋葉原の描写なんですが、これは私にはよくわからない。抱き枕は持ち帰るものではなく、送ってもらうものなんじゃないか、とは思ったんですが。抱き枕片手に隠密捜査を命じられる刑事さんたち ( ´・ω・)カワイソス 缶入りラーメンを手に持っていれば刑事とはバレない! てのも楽しい。いやいやいや。

とはいえ全般にはそれほど違和感なかったんだけど、どうなんだろ。街並みの描写とか、たしかに取材したんだろうな、と。

Amazonだと319ページとなってますが、著作リストが50ページ、西村京太郎年譜が16ページあるので、本編は253ページまで。サクッと読める、平成西村京太郎入門ということで、興味のある方は読んでみてはいかがでしょうか。

最後に、この作品が映像化されるのかどうかなんですが、私はされない方に一票。西村作品の多くは、じつは映像化されていません。つばさ110号で仙台へ行く以外に大きな移動がなく(しかもトンボ帰り)、アクションシーンもほとんどないこの作品は、2時間ドラマには向いてないと思う。

補記

平成の西村京太郎作品はたいてい本作のような感じだと思います。まあ雰囲気はもっと暗いのが多いですが(死屍累々で明るい作品になる方がヘン、ともいう)。

読点が多いのは、口述筆記だから、といわれています。西村先生が息継ぎしたところに読点がある。これはちょうど、老人が聞き取りやすい喋り方とも対応しています。老人介護ボランティアなどをやっている方は、西村作品を音読して、老人に優しい話し方をマスターされるとよいのではないでしょうか。

「アキバ戦争」は面白かったが、ちょっと軽すぎて喰い足りない、という方には、「闇を引き継ぐ者」をお勧めします。1998年のベストセラーで、新聞書評などでも話題になりました。例によって十津川警部は犯人に翻弄され、守ろうとした人は傷つき倒れる。そして……。

あるいは、同じく1998年の「桜の下殺人事件」、やっぱり十津川警部は大苦戦、ついに**が狙われるに至り、ブチ切れる。このラスト、十津川警部ものをたくさん読んでいるファンにはちょっと衝撃的。

あと、そうそう、十津川警部ものの場合にとくに顕著だと思いますけれども、西村先生は、全ての謎は解き明かしてくれません。まあ犯人が逮捕されたんだからいいじゃないか、的な終幕が多いです。

実際問題、ふつうに絞殺したって、腐乱死体になっちゃったら殺害方法なんかわかりゃしない。しばしば連続殺人犯が逮捕されても、そのうちの1〜2件でしか起訴できなかったりするでしょう。警察は裏付け捜査を頑張るけど、わからないものはわからない。よって省略。これは西村京太郎的なリアリティー追求の美学。

そういうもの、と理解してください。

関連リンク

PURE GOLD(5月20日) さん経由。

平成20年5月15日

例によってリンク先とはあまり関係ないことを書くんだけど。

最初から枯れた夫婦みたいなスタイルで恋人と付き合えたらいいんだけど、そういう相手を見つけるのはなかなか難しいね、という話かな。

記事の筆者は男性で、淡い人付き合いなら「したい」と思っている様子。友人・知人という関わり方なら、それが可能で、その方面には(さして)不満がないのだろう。それで全て満足なら、何もいうことはないのだろうけれど、ときどきそうではなくなるようで、「女の子」と限定をつけてゴチャゴチャ書いた、と。

自然な欲求は抑制できない! という意見、まあそうかな、と思わないでもないが、ある程度は自分で自分をマインドコントロールしていくことも可能だと思う。そもそもどのような恋人もほしいと思わなければ、悩みはない。

「彼女」がほしくてほしくてのた打ち回るような人ではないみたいなので、必要な変化は大きくない。他人につまらない期待をするよりも、問題を自己解決することを考えた方が建設的ではないか。

デートしない、手をつながない、ろくに会話もない、生活時間帯がずれている、家庭内別居中、だけど仲は悪くない、という夫婦は、現在も世の中にたくさんいる。だから自分のような人間がここにいることに不思議はない。と同時に、自分と似た異性もたくさんいるはずだ。なのにどうして二人は出会わないのか?

簡単な話で、人数は多くても、割合は少ない。積極的に交友関係を広げないと、出会うことはなさそう。でも、そういうことをするような性格じゃないんでしょ。だったら諦めなさい。

とはいうものの。「暑い!」と怒っても何にもならないが、じっと黙って我慢するのは精神衛生に悪い。耐え難い状況は、しばしば「耐え難い」という心情を吐露することで、耐えられるようになる。死ぬような暑さじゃないのだし、スッパリ諦めて超然とすればいい、と私にいわれても「はぁ?」となるのは、よくわかる。

……でもやっぱり、「暑い!」といったら涼しくなるのかよ、と私がいいたくなる気持ちも理解してほしい。「これがデフォ」と思えるなら、被害意識のようなものが消えて、イライラせずに済むのです。

……。

平成20年5月14日

伯父は祖母と同居、伯母は近所に暮らしており、祖母の看病は主に伯父・伯母が受け持っていた。だから10日夜の亡骸の守り役は、遠く千葉に暮らす末娘の母が買って出た。蝋燭と線香を絶やさなければよいだけなのだが、一睡もできなかったとかで、11日の通夜の間、母はずっと眠そうだった。

11日の夜は私が不寝番を務めた。12日の告別式はずっと眠く、ウツラウツラ。やはり不寝番というのは徹夜してもピンピンしてるような人がやるべきものなのかなあ、と思った。あるいは、スパッと眠れる人。最近の蝋燭や線香は長持ちするので、ケチをせず22時頃に新品を出せば、実際は眠ってもよいわけだが……。

昨年7月に最小限の除去手術しかできない場所に最初の腫瘍ができたときに半日ほど泣きに泣いたためか、葬儀では涙が出てこない。

いまどきの葬儀はきれいな花がいっぱいだ。結婚式より花が多い。花と縁の少ない人は、葬儀で一生分の花に囲まれるわけか。葬儀は業者任せだからラクチン。祖父のときとは大違い。伯母と母は嫁いだので、**家は喪主の伯父ひとり。人手がない。が、人手があろうとなかろうと、お金があるなら業者任せがいい。

弔問客のための宿泊施設まで併設されている斎場には驚かされた。遺体の扱いも丁寧だ。身内だと、かえっていい加減になってしまうあれこれが、さすがプロ、いちいちていねいでそつがない。

年金積立金運用益還元事業とやらで作られた火葬場の立派さにクラクラ。火葬場の告別室、待合室、収骨室(*)、ガイドサービスの充実ぶりに、これなら「葬式しない派」も安心だと思った。母は葬式をしないことを希望している。父が「やりたい」といっても「お前たちが止めなさい」と私と弟にいう。

*「拾骨」という表記もあるようだが、祖母の火葬に利用した施設では「収骨」を採用していた。骨壷に骨を収めることに主眼を置くわけだ。

墓も無用というが、骨はどうすればいいのか。母は「火葬場で灰になるまで燃やしてもらえばいい」といっていたのだが、祖母の遺体を焼いてくれた火葬場では、そうしたサービスはやっていないのだという。ただ「職員が勝手に骨壷に遺骨を入れることはできない」と含みのある回答を得た。

ところで、両親が亡くなった場合、誰に連絡すればよいのか。私は両親の友人や世話になった人を知らない。母は「兄姉にだけ報せればよい」という。父は「心配無用」という。そんなものか。

平成20年5月10日

今朝、母方の祖母が亡くなった。84歳だった。

平成20年5月7日

「本編」をニコニコ動画で見たことは1回しかないので、他の人がどう感じているかはわからないけれども。あと私は平谷さんの定義するオタクではないので、その意味でも見当違いのコメントになっているかもしれない。

さて、本編を見るとき、コメントがあると楽しいというのは、コミュニケーション志向ではなくて、自分ひとりでは気付かない「笑いどころ」「面白いモノの味方」がベストタイミングで表示されるのは便利だ、ということなんじゃないか。

また、多くの人が同じようなことを書いていたり、賛同のレスが多くついているなら、その意見には多少の普遍性がある。みんながスルーしていたり、邪魔だ、黙ってろ、とかレスがつくなら、そういうことなんだろう。というように、情報の妥当性もそこそこ読み取れる。

狭い経験からいうと、コメントに気を取られて本編を楽しんでいない、との心配は当たっていないのではないか。

ニコ動のコメントが単独で面白いということはまずなくて、そのほとんどは、本編をより楽しむための参考情報だと思う。従来は、録画を見てからブログに書かれた面白い感想を読んで「そういう風に見れば面白いのか」と感心することしかできなかったけど、ニコ動なら、この時間差をなくすことができる。

2回も3回も見直す作品なら、雑誌の評論とか謎本みたいなのでもいいんだけど、9割超の作品は1回しか見ないわけであり、その1回で100%楽しみ尽くしたい。そう考えたとき、ニコ動で見たいなあ、と誘惑されるのは当然かと思う。

私は「ドラゴノーツ」がどう面白いのかよくわからなかったが、ニコ動で1回見てからというもの、CM後の「メガネスーパー」だけで心が和んでいろいろ許せるようになった。自分一人で「メガネスーパー」を思いついたはずもなく、最終回まで見続けられたのはニコ動のおかげ(無論、そうまでして見る必要はない)。

2ch の実況板のログを動画に重ねて表示してくれるソフトでも同じようなことはできるんだけど、いちいちログを探さなきゃならないのがまず問題。実況板ってすぐdat落ちするでしょ。でもってdat落ちするとスレ検索不能になる。私の場合、録画してから視聴するまで1週間以上タイムラグがあるのは当たり前なんで。

あと実況板は必ず何かが起きてからしか反応がない。ネタバレがないのは美点かもしれないけど、先に知っておくと楽しいことも多いわけで、もともとネタバレを全然気にしない私のような人は、ニコ動の方がいいと思うのではないか。

そもそも、ニコ動利用者の大半はROMじゃないですか。コミュニケーションというほどのコミュニケーションがあるのかどうか。その程度のことで、コンテンツがないがしろにされるかな。心配のし過ぎでは?

そりゃ世の中広いから、いろいろな人がいる。でも、ヘンな人はヘンな人で別にいいじゃないの。

とかいいつつ

ドラクエって、本当にゲーム自体が(記憶にあるほど)面白かったのかなあ、と思ったり。いや、私だけかもしれないけど、友だちとワイワイ話してるときがいちばん楽しくて、その楽しさがプレイの記憶に密輸入されてるような気も。

孤独ゲーマーと化した人々が近年の作品に辛口評価をつけまくるの図、が透けて見えるような感じ。友達同士でワイワイやってる人は、最近の作品だって、ちゃんと楽しめているような……。

「テイルズ オブ ザ テンペスト」というRPGがあって、なんか叩かれまくったんだけど、私の記憶するFC版「ドラゴンクエスト」(第1作)よりは楽しい作品だと思う。正直、ゲームも進歩したなあ、と感心した。短い短いっていうけど、10数時間はかかる。ドラクエと変わらないじゃないですか。十分長いよね。

カニ歩きして、はなす+東西南北とかやってた面倒くささを私は忘れていない。復活の呪文を間違えたため、序盤から「虹のしずく」を所持しており、ストーリーがわけわかんなくなったのもいい思い出。だけど、今プレイして、そんなに面白いかなあ? 携帯電話で遊べるらしいですが。

*リメイク版の「ドラゴンクエスト」はモンスター撃破時の取得経験値が大幅に増え、「レベル上げ」の単調作業が大幅に減らされているそうです。一般人がドラクエを8時間でクリアとか、無理だろ、と思ってたけど、そういうことだったんですね。

平成20年5月7日

批判でもいいから、話題になってほしい、と考えてブログに書いたが、見事に無反応でガッカリした、というお話。

そもそもトピックがマイナーで、興味のある人が少ない、というのが大きいと思う。(私には理由がわからないが何故か多くの人の関心を集めている)邪馬台国がどこにあったか、みたいな話題だったら、議論にはならないまでも、コメント欄で何人かが「面白いですね」「夢が広がりますね」などと書いてくれたかも。

歴史ファンの集う掲示板があるなら(2ch の歴史関係の板も選択肢かな)、そういうところで書いた方がいいんじゃないかな、と思う。

桓武天皇陵の場所について、ネットで検索してくる人より、たまたま掲示板を覗いてみて「桓武天皇陵の場所に新説? 面白そう」と思う人の方がきっと多いだろうし、掲示板の方が感想を書く心理的障壁が低い(→たくさん意見をもらえる)のではないか。

マイナージャンルのマイナーな話題についてマイナーなブログで書いても反応がない、というのは仕方のないところだと思う。

筆者の関心事と読者の関心事はあまり一致していない。何を書いているか、よりも、どう書いているか、誰が書いているか、が注目されていたりする。私も頓馬な鮟鱇さんのブログを楽しく読んでいるけれど、歴史ネタ自体には関心がない。頓馬な鮟鱇さんの記事だから読んでいる。

私は頓馬な鮟鱇さんの歴史記事を興味深く読んでいるけれど、しかしながら、何かコメントしたいとまでは思わない。あの頓馬な鮟鱇さんにコメントを読んでもらえたら嬉しいな! というほどのファンではないので、記事は面白くても、あまり関心のない歴史ネタ自体に反応する気にはなれない。

今回こうして記事を書いているのは、「反応がない。ただのしかばねのようだ。」以下の部分にピピーンとくるものがあったから。

著名人なら専門家でなくても意見に反応をもらえるはず……そういう側面はあると思う。だけど、なまじっかな著名人では、ブログで桓武天皇陵がどうこうと書いても流されるだけではないか。やっぱりそういう話に関心のある人の割合の高い媒体・場所を選択しないとダメなんじゃないか。

私がDS版ドラクエ4がどうのこうのと長文記事を書いても、完全にスルーされた。あの記事はあの記事で、それなりに楽しく読まれたんだろうとは思う。が、というあたり。

しかしまあ、かくいう私も、2000人以上が読んで無反応なのは面白くない。それでゲーム話は別サイトに持っていった。最初から読者がいなければ、反応期待値ゼロ。だから無反応でも不愉快にならずに済む。期待しても仕方ない、と頭でわかっていても、心はそう都合よく制御できないので、こうした。

今回の頓馬な鮟鱇さんのケースでは採用不可の方策だが、「無反応で悲しい」問題、と一般化すれば、こういう消極的な道もないではない。

頓馬な鮟鱇さんの説そのもの関する私の感想

簡潔に書いたのですぐに読めると思いますが、さらに要約すれば、桓武天皇陵がどこにあるのかは諸説があるんだけれど、有力な説に豊臣秀吉の伏見城築城の際に削平されてしまったというのがある。その桓武天皇陵があったと考えられる場所と、

@ 桓武天皇の祖父である春日宮天皇(志貴皇子)陵墓と、祖母の春日宮天皇妃陵の三点は一つの直線で結ぶことができる。

A 桓武天皇の曽祖父(春日宮天皇の父)である天智天皇陵と、桓武により国家鎮護の道場とされた比叡山延暦寺根本中堂の三点は一つの直線で結ぶことができる。

というものです。

私は歴史には詳しくない。ただ、この手の地図に線を引いて場所を特定する方法論には疑問を感じる。

建物の場所やお墓の場所を決める際に、地図に線を引いて決定するという風習が、日本にあるようには思えないからだ。

あるいはせめて「伏見城から先祖の墓を一望できる」なら心理的に納得もできる。しかし伏見城からは志貴皇子の墓は山の向こうで見えない。春日宮天皇妃陵はなおさらだ。そしてじつは、近所にある天智天皇陵も、見えない。となると、素人の直感レベルの話で申し訳ないけど、ピンとこない。

仮に伏見城建設時に破壊されたとする桃山説が「正解」だったとしても、「偶然」では? と思う。祖父母といっても母方、父方があるし、両親のお墓はどうでもいいのか、というのも疑問。

桓武天皇の墓だけが、こういう特別な場所にあるのか。他の人の墓についても、こうした説明が可能なのか。桓武天皇が何かを建設する際、精神的に関連する事跡との地理的な相対関係に意を払う人物だったという傍証があるのか。

頓馬な鮟鱇さんは「検証する価値がある」と仰る。私もそう思う。だが、何を検証すべきなのか。それは、伏見城を掘り返して埋葬品を探すようなことではなくて、地図に線を引いて建設予定地を決定するという発想が桓武天皇の時代にあったのかどうか、ではないか。

現在のように地図技術が発達した時代であっても、「レイライン」で場所を決めたりはしない。諸事情を鑑みて場所を決定してから、後付けで地図に線を引いてみたりするだけ。違うだろうか?

天皇の権力を持ってすれば多少のことは問題ではなくなるから、呪術的な建設地決定プロセスは十分に正当化されたはずである、とするなら、天皇の権力がそれほどまでに強かったことの証明が必要だろう。そもそも伏見城の近辺って、当時は誰の所有地で、どんな利用・管理がなされていたのか。

私はやっぱり、人々を納得させられない提案は天皇でも通せなかったと思うから、仮に「レイライン」云々も位置決定の一要因としてあったにせよ、所詮は二の次、三の次の条件でしかなかったろう、と考える。したがって、「レイライン」から所在不明の墓の位置を突き止めようとする試みには期待できない。

頓馬な鮟鱇さんの引いた線と、既存の桃山説とは、少しズレているそうだ。桃山説では、自然の丘陵を少し整えて墳墓とした、と推定しているらしい。とすると、ピッタリ線上にある山の形がイマイチだったので、桃山説の丘に決めた、のかもしれない。そんなものじゃないのか、と思うのだがどうか。

追記

今のところ、文書史料にレイラインがずばり登場し、A地点とB地点の延長上にCを建造した、と記されている事例はない、と。その上で、できる限り、議論に耐えうる形でレイライン存在の「確からしさ」を高めていきたい、というお話なんですね。

個人的にはやっぱり、直感的に「どうなんだろう」と思ってしまうのだけれど、かといって「ありえない」とも思ってはいません。今後も頓馬な鮟鱇さんの仮説を興味深く読ませていただきたいです。