備忘録

平成20年6月30日

愛讀者の人々も、何うしてかうも喜んで大袈裟に「教へろ」「教へろ」と騷ぐのだらう。メールで聞けば良い事なのに。

俺は公開したくないんだよ。それがわからないでどうして言へ話せ教へろと要求するんだらう。俺の事なんか本當は何うでもいいんだらう。讀者は一般に勝手なものだ。

野嵜健秀さんが、とある出版物に少し関わったことを日記に書いたら、日記のファンが「詳細を教えてほしい」とコメント欄に書き込んだ。しかし野嵜さんは答えない。するとアンチが現れ、「出版物に関わったなんて嘘だろう」という。野嵜さんは不愉快になった。……といった状況。

「真に公開したくないなら片々の情報だって漏らさないはずだ」と決め付けて、「これはティザー広告のような戦略だな!」と早合点し、「ぜひ詳細が知りたい」「じゃあちょっとだけ」「もっと! もっと!」「しょうがないなあ」なんてウフフアハハな展開まで妄想して突っ走ってしまうこと、私もないではない。

逆に、「このレベルまでなら情報を公開したい。でもそれ以上は絶対にイヤだ」という経験もあります。ふだんはほとんど無反応の人から、そんなときに限って「もっとくわしく!」とリクエストがきたりして、「微妙な書き方から察してくれよ」とゲンナリしたり。

だから悪気なしに「教えてください」といっちゃう人の気持ちもわかるし、野嵜さんのイライラ感もわかるつもりです。

この質問への回答は他の人も知りたいはず、と思ったとき、私はコメント欄で質問します。「公開できる情報なら最初から公開してるはず」という見方もあるけど、実際「大勢が関心を持つような情報とは知らなかった」「面倒くさかった」「少し気恥ずかしくて」といった理由で公開されていない情報も少なくありません。

必ずしも「書きたくないから書いていない」とは限らないんですよね。

今回はたまたま野嵜さんの真意を見抜けなかった人が何人もいて、面白くない展開になったのですが、こうした事例を見てもなお、コメント欄での「教えてください!」を金輪際しないとは約束できません。もちろん、現にこうしたことがあったわけだから、これまでより、もう少し慎重になるつもりです。

「本当は」といわれたら、まあ仰る通り「どうでもいい」のかもしれませんが、ふつうの意味では、ファンは野嵜さんに迷惑をかけるようなことはしたくないと思っているはず。あまり悪い方、悪い方に解釈なさらず、ご寛容くださいませんか。

(……と、メールではなく日記に書く不思議。自分でもよくわからない)

平成20年6月30日

素朴な実感として。テレビ放送の録画をはじめたら、DVDのレンタルをしないようになりましたね、私の場合は。年間数百枚のDVDとCDをレンタルするヘビーユーザーだったので、数ヶ月は逡巡しましたけれども、結局のところ、録画したものを視聴するだけで時間切れになることがわかったのです。

オンラインDVDレンタルの発送希望リストに入れたものの、たいてい貸出中になっていた「相棒」シリーズは、テレビ朝日の再放送でほとんど視聴できました。名作映画はテレビ東京が昼間に放送してくれています。私はあまり興味ないけど「CSI」「プリズンブレイク」「24」「HEROS」みな地上波で放送してます。

だからもう、録画しまくって、時間の許す限り見ても見ても見切れない。

以前、Gyao@Showtime を紹介したけど、じつは半年以上、利用していない。

映像と音楽のコンテンツにDVDレンタルを中心として月平均2万円くらい浪費してたんだけど、チューナー2つとHDDで4万円くらいかけてW録画できるようにしたら、月平均2千円くらいに激減。これが半年続いてる。1.8万円×6ヶ月で10.8万円の節約になったから、1.7万円の除湿機を買った。貯金ばかり増やしても仕方ない。

しかしまあ節約といえば聞こえはいいが、ようするに金を払わぬフリーライダーになったというだけの話。録画ができなくなれば私はまたDVDのレンタルなどを再開するに違いなく、私的な録画に補償金が必要という意見に、私は説得力を感じる。

ただ個人的には、補償金よりDRMの方がいい、と思っています。計画経済より市場経済がいい。自在にDRMを設定し、いちばん儲かるような規制方針をコンテンツ毎に探求できる社会なら、市場が最適解を見つけてくれるでしょう。

テレビドラマなどレンタルDVDや映像配信の需要が見込める番組は1次コピーも禁止、バラエティ番組はタイムシフト視聴のみ許可、とかね。バラエティ番組もDVDで傑作選が出たら、DVD収録に収録された回は視聴不能になる(笑) 案外、それくらいの厳しい制限が、市場の答えかもしれないよ。

まあ、やってみなきゃわからない。わからないと思うから、計画経済ではなく市場経済を推すのです。

余談

タイムシフト視聴が嫌われる理由は、CMの効果が落ちるから。テレビ放送の「ガンダムOO」や「コードギアスR2」のCMには、Gyaoやbiglobe動画が登場する。もう自分で録画する必要ないんだよ、という宣伝。CMで成り立ってる無料の動画配信サイトがテレビCMを打つ、シュールな感じ。すごい。

オンラインの無料動画配信を利用してみると、CMを早送りできないことに気付く。なるほどな、と思う。確実に見せられるCMなら、高い広告費を取れるわけか。

1次コピーすら禁止した方が権利者の利益になる、と予想する根拠のひとつがこれ。動画配信がポピュラーになれば、1次コピーを禁止してもタイムシフト視聴の需要は満たせるし、しかも今より儲かる。私的録画禁止でも9割方の視聴者は歓迎すると思う。録画予約の面倒や録画ミスの悲しみから開放されるのは嬉しい。

例によって例のごとく「声の大きな少数派」の激烈な抵抗が予想されるが……。

明日から、半年後から、というのは時期尚早としても、10年、20年後には、一般家庭からテレビ放送の録画機が消え去ってもいいんじゃなかろうか。

平成20年6月27日

漫画家の雷句誠さんが小学館とトラブルになり、週刊新潮の取材を受けたが、雑誌の記事を読んでみると、雷句さんの主張通りの箇所も、そうでない箇所もあった、と。

雷句さんがインタビューで発言していない内容が雷句さんの言葉として掲載されたなら「ひどい」と思いますが、そうではない様子。漫画編集者と元アシスタントの証言と、雷句さんの証言が食い違った箇所について、主に漫画編集者と元アシスタントの証言を週刊新潮は採用しましたよ、という話に過ぎない。

で、雷句さんは「こんなものか」と達観した感じだけど、読者たちが雑誌記事を捏造だのかんだのと盛り上がっている。おかしな話だと思う。

週刊新潮の記者さんは、先に漫画編集者と元アシスタントに取材していた。で、雷句さんに質問して裏取りをしたところ、なるほど根も葉もない話ではないらしい。かなりの部分、ある程度、雷句さんにも思い当たるような出来事はあった様子。

記者さん的には、漫画編集者と元アシスタントの証言への信頼度は、かなり高まったと思うんですね。雷句さんが自分に不利なことは小さく小さくいうだろう、という読みもある。それで、多くの点において、漫画編集者と元アシスタントの証言を採用して記事を書いた、と。

最初っから漫画編集者を全然信用しないと決めている人々からすると、週刊新潮許せない、なのかもしれないけど、誰がどの程度に真実を語っているのかわからない、と仮定すべき。なんでそう、雷句先生の証言を全面的に採用しない週刊新潮はおかしい、なんて流れになるのか。

雷句さんが取材の様子を録音しているそうだけれど、その内容と記事とが食い違ったら何なのだ。「捏造」の証拠になどなりはしない。結果として事実に反する内容の記事となることを、法律は禁じていない。信じるに足る相当の理由があればよいのだ。安直に「捏造」などというべきではないと思う。

……とかいいつつ、問題の週刊新潮の記事は読んでない。雷句さんの記事を私はこう読みました、ということです。

平成20年6月27日

社会全体の利益を最大化するための制約のひとつが、道徳だと思う。この概念に当てはまらない道徳もあるだろうけれど、かなりの部分はこれで説明がつく。(とりあえず日本での話として読んでください)

平成20年6月27日

コメント欄に登場しているでんすけさんの意見に概ね賛成。

日経Tech-On!というサイトがあって、本文に会員登録を促すダイアログ(?)を重ねて表示している。会員になってログインすると、これが消えて本文がスッキリ読めるようになるわけです。でもじつはCSSで隠しているだけなので、Operaなどで製作者スタイルシートを無効化すれば、未登録でも本文を読める、と。

でんすけさんは、「会員登録せずに本文を読む方法」を吹聴する人に不快感を覚えるようなんですね。私はこの意見には共感します。

私はTrackback の可能性について(2004-02-25)で「トラックバックは第三者でも送信可能なので、それが有用ならば、AさんがBさんの記事をCさんの記事に勝手にトラックバックしてもいいだろう」と主張しましたが、あまり理解されず、ほとんど賛同は得られませんでした。

技術的に可能である、法的な問題はない、それでも……という領域は、常にあります。道徳の問題もそうでしょうし、ある技術が登場した背景とか、多くの人の認識に親和的かどうか、とか、いろいろ。

つまり、無断リンク禁止の人には、無断でリンクしない、素通り厳禁の人には、必ずコメ欄に書き込む、ファンポチお願いしますの人には、ポチしてやる、善意で転載してくださいの人には、転載してやる、ファン解除禁止の人には、解除しない、言及禁止の人には、言及しない、死ねばいいのにの人には、なるべく期待に応じる、逮捕されたくない人には、手錠をかけない、あやしい科学で出資を募り金儲けを企む人には、喜んでお金を出せということですね、わかります。

ひとつの論理で白黒つけようとすると、そうなってしまう。それぞれの問題に固有の事情があって、そこまで単純に話を広げるつもりはない。

私は、「会員登録のお願い」をなるべく聞きたい。「俺は無視したぜ」と吹聴する人はどうかと思う。

会員登録がものすごく億劫で仕方ない、という人もいるでしょう。一方、Opera使いなら製作者スタイルシートの無効化は簡単です。どうしても、より多くの人に日経Tech-On!の記事を読んでもらいたい場合、私も「こうすれば会員登録せずに読める」と書くかもしれない。

そのとき、文章にきちんと表現されるかどうかはわからないけれど、私の心の中には、人の願いを無視する心の痛みというものがあります。誰かに咎められたら、「いや、俺のやってることは正しい」と抗弁するかもしれない。優先順位の問題、として。それでも、胸の痛みは、消えていない。

「素通り厳禁」といわれても、なかなかコメントできない。逡巡するも「すみません」と心中で呟いて立ち去ることが大半。著者からしてみれば、私なんか、その他大勢と全く変わりない。ただそれでもね、「コメントしないことに何の問題もない」と胸を張る人には、違和感があります。

シクシク痛む、この感覚が、私の言動を緩やかに制約していく。一時的には暴走しても、そのままプツンと糸が切れて飛んでいってしまうことを防ぐのです。

平成20年6月27日

多様性を排除するのだって自由だろう? それはそうだが、多様性を守るための規制がない世界は、自滅すると思う。矛盾? そうですね、と認めてもいいよ。自由な市場を守るために独占禁止法があるようなもの。

平成20年6月27日

1.

「体験イベントの参加者をボランティアと呼ぶ」ことが、一部の人の反応にせよ、こんな問題になるようなことだとは知らなかった。農作業の手伝いとか、寺社での小坊主体験とか、いろいろなお仕事が、ボランティアとか奉仕活動といった名目で人を集めて行われているのだが。

一度でも、こうしたイベントに参加したことがあれば、それなりに楽しいものだということはわかると思う。いや、違うか。楽しいと思えるような人しか参加していないのか。だから、生涯こういうのに喜んで参加するようなことのない人々の反応は、「進んで奴隷になりたがる人なんているの?」でおかしくないのかも。

ともかく、言葉遣いに違和感がある、という程度のことで非難の集中砲火を浴びせるのを「正しい」と考える人がたくさんいるわけだ。なぜ世界の多様性を許容できないのか。

2.

ところで、「ボランティアという言葉をこのようなケースで用いるのは、不適切だと思います」というような異見の表明なら、賛同するかどうかは別として理解はできる。しかし上記のリンク先に並ぶ言葉はどうだろう。

こちらは高樹擁護の記事だけど、同様の疑問を持つ。なぜこのように書くのか。

この界隈には、藁積みを楽しいと感じる人が集まっている。だから個人の住宅や営利目的の施設の建設作業を無償で手伝う「ボランティア」は珍しくない。だから高樹沙耶さんのブログ記事は、その道の人には注釈なしで通じる書き方だった。……そう説明すれば十分ではないだろうか。

ひとつの記事だけを見れば言葉足らずかもしれないが、言葉は文脈を背負っている。

「誤解するのが当然」といい、嘲笑と罵倒をぶつけたことを反省しない人々がいる。自らの不分明に甘く、言葉に何の責任も持たず、ひとを傷つけて恥じない。なぜだ。関連:無責任くらべ(2006-03-11)

3.

私自身が「藁積みをぜひやってみたい!」と思うかといえば、それはノー。強制的に参加させられたら、「労賃をくれ」という。でも、喜んで藁積みに参加する人の気持ちはわかるつもり。本当にはわかっていないにせよ、少なくとも自分自身を納得させることはできる。

共感できることしか理解できない、納得しない、という人が世間にどれくらいいるのか知らないが、リンクした2chのスレッドくらいの割合だとしたら、気が滅入る。

平成20年6月26日

1.

今月は Napster 経由で聴いた音楽がアルバム単位で100枚超。久々に1日1冊ペースで本を読んだ結果でしょうね。テレビ視聴と読書は両立困難だけど、音楽と読書は相性がいい。

Napster のカタログは発展途上なので、特定のアーティストの曲が聴きたい、最近話題の曲が聴きたい、といった需要には、なかなか応えてくれない。とくに邦楽ファンには厳しいものがあると思う。だから、発想を切り替える。聴き放題という特徴を活かして、ちょっと気になる曲を、どんどん聴いてみるといい。

ふだんは聴かない宗教音楽、名前も聞いたことのないアーティストの曲、教養として勧められたけど「いつか機会があれば」と保留していた曲、などなど。

パソコンで聴くだけなら、月額1280円。CDシングル1.5枚くらいでしょうか。携帯電話に転送して1日中、音楽を楽しみたい、という場合でも月額1980円。安い、と思う。

CDは値段が高すぎる、という「言い訳」は、Napster の登場によって苦しくなったはず。Mac 非対応だから、とか何とか、「言い訳」の種は尽きない。それでもやっぱり、(満足ではないにせよ)アーティストたちが納得している正当なサービスが月額1280円、この事実には力があります。

Gyao かわいそう(2007-10-29)では、アニメDVDの値段が高すぎるという「言い訳」が、もはや世間的には説得力がないのではないか、と書いた。安価な定額制音楽配信サービスや、1話100円程度の安価な動画配信サービスを、私は応援したい。

*Gyao@Showtimeで「涼宮ハルヒの憂鬱」全14話が772円で視聴可能。これまで違法コピーばかり見ていた人は、この機会にお布施してみてはどうか。

たしかに現状、特定の作品(だけ)を鑑賞したい、という希望を満たせるカタログは実現されていない。それでも洋楽を中心に550万曲聴けます(2008年6月時点)。「人気が出る→カタログが充実する→もっと人気が出る→(以下略)」のサイクルが実現してほしい。ボールはいま、消費者の手の中にある、と思う。

音楽との新しい付き合い方、はじめませんか?

2.

筒井康隆の短編小説の朗読とか、お笑いライブの録音とか、「何度も聞き返す可能性が低いので買うのはちょっと……」という作品との出会いが、私が「Napsterっていいな」と思うようになったきっかけ。

これでCDを買わずに済む、みたいなサービスではないんですよね。私も例えば宇多田ヒカルの「HEART STATION」はCDで買ってます。だけど時間は有限なので、「ちょっと興味はあるけど手が出なかった作品」をどんどん Napster で聴くようになると、結果として音楽趣味のコストは下がるかもしれない。

ケーブルテレビやスカパーみたいな感じかな。結果的にDVDを買う量が減るにせよ、それを目的としてしまうと、「俺の見たい作品を必ず放送しろ」って無茶をいうことになってしまう。手ごろな価格で豊富なコンテンツを楽しめるところに価値を見出して利用すべきサービスなのです。

Napster は「HEART STATION」を配信しろ、というと「解なし」になってしまう。COLDPLAYの新譜とかは、いわば目玉商品として特別配信しているのであって。将来、発売から時間が経ってCDがあまり売れなくなった作品は大半が Napster で聴ける、みたいな状況になったら嬉しい。

世の中「違法コピー or Amazon」じゃないよ、ということが常識になったら、いろいろなサイクルがうまく回り始めるような気がします。楽観的すぎるかな。

備忘録2008年6月に関連記事があります。

平成20年6月26日

Napster はNTTドコモと組んでいます。とすると、既にユーザーはものすごくたくさんいるんだよね。うーん、とすると、現在の価格では、邦楽のカタログの充実は今後も望み薄なのかなあ。そうだとしたら残念。3割くらい値上げしても、カタログが充実することの方が大切な気がするのけど、それもきつい賭けですよね。

サービスイン当時の解説記事。その後、とくにニュースのないから、取り上げづらいところとは思うけれど、海外事情などと合わせて、現況をリポートしていただけると嬉しいです。

平成20年6月26日

ネットラジオ、みたいな感じかな。月額945円。あまり評判を聞かない。

平成20年6月26日

私はPHSユーザーなので携帯電話と連携させた場合の使い勝手はよくわからないのだけど、もし可能なら、Napster はストリーミングを中心に利用した方がいいように思います。自分のライブラリをオンラインに持っているような感じで操作すると、まずDLの面倒が一つ減るし、気分的にもスッキリ。

ブログ検索してみると、Napster で曲を「ダウンロード」している人が多いみたい。私は全然、ダウンロードしなくなったので、どうしてかな、と。

平成20年6月26日

レコードからCDにかわって、レンタル料の中に私的複製の補償料は含まれなくなったのだとか。

というか、そういう風にレンタル屋さんの作ってる協会の見解が「訂正」された。

そっか、そうなんだ……。自分のライブラリ、どうしようかな。しばらく(半年くらい)逡巡していたが、結局、大幅な整理を断行。購入したCDからリッピングしたデータ以外、全部消したらHDDがスッカスカになった。ちょっと悲しいような。でも実際、繰り返し聞いていた曲は僅か。CDを買い集めるのは無理だった。

私はもともと音楽に興味がなかったので、なんだかんだで使うお金が増えている人。でもCDをたくさん買っていた層の場合、ここ数年でかなり出費が減った人も少なくないと思う。

平成20年6月24日

もうちょっと他にいいたいことがあったような気がするのだが。

平成20年6月24日

世の中、ヘンな人はいっぱいいるが、「ま、まあ、俺よりはフツーなんだろう。目くじら立ててもしょうがないなっ(自分もいちいち他人にどうこういわれたくないしなっ)」と思うようにしてる。

してるはずなんだけど、どうにも意志が弱いんだろうね。世間の窮屈さに、私も大いに貢献しているなあ、とガックリすることがしばしばある。

平成20年6月24日

固有名詞がすぐに出てこないのは痴呆の始まりと言われていますが、その意味では私もかなり進んでいます。以前何かを間違えて言ったエピソードをついでに書こうと思いましたが、思い出せませんでした。

「昔は賢かった」であろう大野さんが書くからいいけど、私がこういうことを書くと、「昔からやんけ」と突っ込まれるだろう。固有名詞がサクサク出てきたという経験があまりない。Aみたいなことがあって、Bとか思ったような気がするんだけど、えーと。後で人に訊ねてみると、似てはいるけど、全然違う話だったり。

平成20年6月24日

数年前までは、「公平」を目指すあまり(?)、好きなブログに「ヘンなこといってるな」と感じる記事があると、積極的に批判を書いたりしていたような気がする。……と思って過去ログを読み返してみたんだけど、記憶と実態にはけっこう大きなズレがある様子。

ま、それはいいとして、近年は、好きなブロガーさんは自分の中でしぶとく擁護するようになってる。心の中で擁護してるだけで、ひとには何もいわないんだけど。

*続きは備忘録2008年6月を参照。

takoponsさんとかね、いい人だと思うのに、ちょくちょく相当キツイ言葉をぶつけられたりしてるじゃないですか。えー、takoponsさんは話のわかる人だよー、そんな警戒心ビカビカしなくたっていいのになあ。で、その石を投げてる側の人も、割と好きな人が多かったりするので、私は困る。

古くは加納さんとtragedyさんの激突のときも、私は困った。もったいないというか、何というか。何もこんなぶつかり方をしなくたっていい方同士なのに。いや、私が勝手にそう思ってるだけなんですがね。あんなヤツと同列に語るな、って両方から怒られそう。

最近だとaozora21さんと大野左紀子さん。なーんで、敬愛するお姉さま方が、こんなギスギスしちゃってるのか。いやまったく、私なんかが口出しするようなことじゃないのですが、悲しいです。幻想なんか押し付けてもしょうもないってことだよな→俺、とか、あらためて思ったり。

うはは、やっぱりこんな記事は、書かない方がよかったね。不気味というかキモイというか。

あの、お互いに納得できないことについて、意見交換するのはいいのです。takoponsさん、加納さん、tragedyさん、aozora21さんとは、私も多少のやり取りをしたことがあって、そのとき、みなさん、礼儀知らずの私にていねいに対応してくださったんですね。それで「いい人だー」と。

だから、ほんとにもう、言葉の問題だけなんです。ガツンガツンやりあってる内容自体は、そんなにどうっていうこともなくて。

ま、いいや。所詮は自分の思い入れの問題でしかない。一人でクスンクスン泣いていればいいんだ。

平成20年6月19日

じゃあ「レポートの書き方」みたいな授業をやればいいんじゃね?

教育への幻想は、かくも強い。なぜだ。数学の授業を受けて、あなた、数学ができるようになったんですか。ならなかったでしょ。

だからね、自分以外の誰かが、予めレポートの書き方を指導していてくれればなあ、なんて、お笑い種なんですよ。あなたがやるしかないの。たとえ「レポートの書き方」講座が実現したとしてもね。

で、お説教なんかしたって意味ない。罰則だけ厳しくしたって、今ひとつ成果は出ない。現実をよく見て、素朴な手を打っていくしかない。私はそう思う。

平成20年6月19日

凡人が考えても仕方ない。

大学の先生方は、自分で大真面目に考えて、「デジタル・コンテンツ・ビジネス」などというレポート課題を出しているのだ。

コピペレポート問題について多くの大学教職員が自分で考えて意見を述べているが、大同小異だ。初歩的な教育技術の知見を欠いた意見が目立つ。あるいはせめて、もう少していねいな観察があればよいものを。

「自分で考える」の虚しさを、自ら暴露しているのである。自分の知らぬことは、とりあえず調べる、とりあえず半信半疑でよいから真似してみる。「考える」なんて、それからでいい。講義が仕事なのに、講義の仕方を勉強しない、そういう給料泥棒みたいな人が多過ぎる。

「コピペレポート対策」でググると私の記事が2番目に出てくる。1件くらい「やってみました」という報告があってもよさそうなものだ。

教師の自省を必要としない「コピペを見破る方法」「コピペを発見した場合の注意の仕方」などにばかり関心を持つ教師が多いようで、残念だ。

罰則を強化して恐怖で押さえつける……それもひとつのやり方だが、下策だと思う。

備忘録2008年6月に関連記事があります。「『調べて書く』系のレポート課題の出し方」ほか

平成20年6月19日

私が例えば研修で「デジタル・コンテンツ・ビジネス」のようなレポート課題を出すことはありえる。「えっ!?」と驚かれるかもしれないが、ちゃんと「やり方」があるのだ。

この手のレポートは、ふつう講義の予習をさせるために課す。入門レベルの知識や、多少の関心・問題意識を持った状態で話を聞いてもらいたい場合、「***について調べてA4一枚にまとめなさい」といった宿題を出すことになる。

コピペで知識が身につくことは滅多にないから、手書きを命じるのが定石。とくにこの種のレポートは、形式的なチェックだけでよいので、本文が読めなくても問題ない。安心して手書きを命じてよい。

もうひとつ大切なのが、レポートの冒頭部(末尾でもいいが、できれば冒頭)に参照文献の情報を書かせること。「3つ以上の文献を調べなさい」「書名だけでなく参照したページまで記載しなさい」などと指示する。

先日、福島中央テレビのアナウンサーが公式サイトで第三者のブログを盗用して処分されたが、他人の意見を紹介する、というスタイルで書いていれば何の問題もなかった。個性的な見解など持っていない凡人に「自分の意見」なんか求めるから、悲劇が起きる。

レポートだって同じだ。「自分で考える」ことが大切だ、とか何とか。100通のレポートが集まったって、独創的なのは数通。基本的には個性さえ類型化されてしまうもの。なぜ気付かない? 無意味なことをさせられるから、学生はつらい。

どうせ何かを調べなきゃ1行だって書けないような課題を出すなら、きちんと「参照した情報を明記しなさい」と指示しなければならない。「これを忘れたら0点」と念押ししてもいい。他の先生がロクに指導していないことなので、あなたは何度でもこれを言い続けねばならない。

平成20年6月19日

「調べて書く」系のレポート課題の出し方を徹底していくと、「集めた情報を全てコピーして添付せよ」となる。実際、そういうレポートの出し方をした先生がいた。レポート自体は「A4一枚、必ず片面で収めよ」なんだけど、参照情報は多ければ多いほど評価が高い、と。

もちろん、無駄に資料を水増ししないよう、「レポート本文に対応箇所のない添付資料は厳禁。必要最小限を添付せよ」の付則付き。それでも最高で50枚超の資料を添付した学生がいた。私は40枚近く添付して安心していたが、上には上がいるものだ、と思った。

大教室の授業だったので、集まったレポートはリュックサックに一杯の分量となった。「泥棒はいけません」なんて説教をしても効果はない。レポートを書く際に参照した情報について、自然と付記するようになるまで、何度もこうした指導を繰り返す必要がある。参照資料全添付はさておき。

大切なことは、こうした指導が十分に成果を上げるまで、「オリジナルな考え」などレポートに求めないことだ。ろくに蓄積のない相手に無理を強いれば、剽窃が生じる。貧すれば鈍す。食うに困れば盗みくらいするさ。お説教なんか通じるかよ。

平成20年6月19日

コピペレポート対策について、これまで数回、書いてきた。

人が低きに流れるのは当然だ。「バカの考え、休むに似たり」ともいう。世の中、アタマのいい人間はたくさんいるので、凡人が頭を使う必要はない。賢者の知恵を活用する技術こそ、人生に必要なものだ。

コピペ禁止で学生の自分の意見とやらを引き出したいなら、講義を1回潰して、その場で小論文を書かせてみればよい。つまらない意見ばっかりだろう。そもそも「考える」なんて、記憶と知識の再構成でしかないことが如実にわかる。本質的にはコピペ切り貼りと変わりない。そういうことを教師は認識すべきだ。

そもそも、なぜレポートを書かせるのか。いったい何を期待して、課題を出しているのか。その期待に根拠はあるか、実質的な意義があるか。

コピペレポート問題(レポート丸写し問題)の根本的な原因は、学生ではなく、教師にある。教師が、惰性で、自らの思い込みを少しも疑うことなく、十年一日のごとく「自分で考える」ことを学生に求め続けている、その無理・無茶が「現実」のしっぺ返しを食らっているのだ。

近年、報道される学生管理の新案には、「ICチップ入りの学生証で代返事防止」とか「丸写しレポートを自動検出するソフトウェア」など、「現実」に対し「夢」の超兵器で立ち向かうものが多い。

学生の代返事も、コピペレポートも、教師が夢から醒める絶好の機会を提供してくれていた。それなのに、「最近の学生はけしからん」が趨勢だ。そんな中、自省的な教師たちの支持を集めるのが「ネットに回答のない、オリジナルな出題をする」という「対策」。残念ながら、根本の考え方がズレている。

講義で、考え方の枠組みを示す。例題として、その枠組みに従って、具体的な問題を読み解いてみる。演習で、似た問題を学生に解かせてみる。だいたい演習の時間がないので、そこをレポートにする。半期15回、きちんとこのパターンを守って授業を進めていく。

講義で示した「考え方の枠組み」に基づいて個別具体的な課題について考えさせるレポート課題を出せば、「ググってコピペ」は、まず通用しない。「概念提示→例題→練習問題」これは講座設計の基本中の基本。コピペレポート問題は、教師たちの初歩的な教育技術の欠如を告発している。

ある大学の授業で「デジタル・コンテンツ・ビジネス」というテーマで小論文を宿題として書かせたところ、同じような内容の小論文ばかりが集まったという。その原因を調べたところ、「デジタル コンテンツ ビジネス」のキーワードでググると上位に来る私の過去のエントリーの内容がほぼ丸写しにされていたという。

典型的な、教師の自業自得。どんな「考え方の枠組み」を教えたかったのか、教師自身がわかっていないから、「デジタル・コンテンツ・ビジネス」などというテーマでレポートを課すのだ。レポートは教師の通信簿である。どれだけ学生が「考え方の枠組み」を理解したのか、その様子を見て、自省するための資料だ。

無意味なレポートで学生を採点すれば、教師は傷つかない。自分が何を教え、それがどれだけ学生の身についたのか、全く問われずに済むからだ。低レベルな内容をバカにし、コピペに怒っていればいい。危機的な状況だ。コピペレポート問題は、学生ではなく教師のレベルの低さに警鐘を鳴らしているのである。

平成20年6月18日

方針転換して、下書きファイルを表に出そうかな。(現在はGoogleロボットも読みに来ないウェブの孤島である)

RSSリーダーで読みたいとか、アンテナで更新チェックしたい、という人は、利便性と引換に記事を読むのが遅れる……ていうか、従来通りなので、たいして文句もないだろう。

とにかく最近の記事を読みたい人は、いろいろ面倒を覚悟する。でも、とにかくこれまで読めなかったものが読めるのだから、いいじゃないか。

で、私は、いずれブログに投稿するという前提が崩れるので、小ネタをチャラチャラ書けて満足。

平成20年6月18日

「ブログ」だと記事の順番弄るとか書いた事改竄するとか面倒だと云ふのが「ブログ」挫折者である俺の本音。

この「闇黒日記」は、書き毆つた文章を適當に並べてゐる訣だけれども、書いた後に文章を書直したり記事を並べ直したり、よくやつてゐる。書いて公開してから校正するんで、たまにへんな文章が平然と現れてゐる事がある。

さう云ふ事が、投稿順に時系列で記事が並ぶ「ブログ」では不便で。秀丸でコピー&ペーストして弄れるのは俺にとつては重要な事。

ばらばらの記事のやうに見えるかも知れないけど、話の流れを作つてゐる積り。適當に書いて鯖に上げたあと、讀み返してゐると、途中でここには最う一つネタが必要とか思ふ事が結構ある。

これは私もよく思うこと。私なりに苦心して編み出したのが、小ネタをいくつかまとめて1.2.3.とか無個性な小見出しをつけ、ひとつの記事として公開するスタイル。ときどき公開後に2.と3.が入れ替わったり、改訂して1.を分割したり、いろいろやってる。

ただ、そういうことをやってると、シンプルな日記からはどんどん離れていく。もう少しネタがたまってから公開しよう、とかいって、起点となる一文を書いてから数ヵ月後にようやく公開、みたいな。といって、全然大した内容じゃないから、誰もそんなことに気付かない。

もっと気楽にやればいいのだろう。でも、そうはいってもね。MTでは見出しやら記事のIDやらを入力して、ボタンを押さなきゃ投稿できない。それだけの手間を乗り越えるだけの公開意欲が湧いてくるような文章は、そうそう書けない。

このところ、数ヶ月前の記事をまとめてドカドカ公開していたりするのは、たまに気分のいい日があって、「ま、つまんない文章だけど、お蔵出しでもしておこうか!」と気分が乗ったときに、ワッセワッセと下書きファイルからウェブフォームにコピー&ペーストしてタイトルをつけてIDを決めて云々とやってるわけ。

ではどうして、余勢をかって直近の記事まで全部公開しないのか。

うーん、これは自分の中でも葛藤のある部分なんだけど、経験的に、盛り上がってる話題に嘴を挟むとあまり楽しいことがない。ひとつの妥協点として、局所的ブームが去ってから記事を出すようにした。

ちなみに、私は下書きファイルも公開してます。URI は /***/YY/noteMM.html です。2009年12月までのファイルが既に用意されていて、ローカルで何か変更すると「ばっちり同期」が自動検出(1日4回)してFTPでサーバーへコピーする仕組み。

基本的には下書きのバックアップ目的でやっていることなので、読み物としてどうとかこうとかは考えていません。書きかけの文章、断片、メモなど。マニアックな読者向け。毎月、更新されるファイルも変わるし、RSSとかも出してないし、目次もない。苦労してまで読む価値はないと思う。

平成20年6月18日

質問とズレた回答が多いように見え、なんのこっちゃ? と首を傾げたが、粘って最後まで読むと、これはこれで質問に正対した回答が出ているのかな、と。結局、みんな「無理です」といっている。そのうえで、次善の策を紹介してくれているようだ。

平成20年6月18日

他人は変わらない。文句があるなら自分を変えろ。「それは難しい」なら、他人を変えるなんて、なおさら。

こうすればいいのでは? とか、私もよくいう。だけど、どうにもならないだろうな、というのが本音。だからホントは「諦めろ」とだけいいたいが、ふつう、いわれて諦められるものでもないだろう。あがいてあがいて、どうにもならず、そうして諦めの境地に達するしかない。

あれもこれも、どうでもいい、知るか、という感じだ。みんな死ぬまで悩んで悩んで悩み続ければいい。私はそういう人々を見て、やっぱり同じようにイライラ、イライラし続けるのだろうね。

平成20年6月17日

記憶の風化は世界の平和を守る自動装置。

80年代以前は凶悪犯罪をどんどん忘れ去っていたのに、90年代以降は事件をいちいち覚えているから、雁字搦めの方向へ社会が変化しようとしているのだろう。「実効性のある対策」がまとまる前に事件は風化していく世の中の方がいい。記憶が生々しいから、副作用を恐れず対策の実効性を重視することができてしまう。

中高生が教師を殴って病院送りにしたり窓ガラスを割ったりバイクで暴走したりして楽しんでいた時代を忘却して、みんな不幸になったのか。最近の学校が(当時と比較して)平和なのは、悲惨な過去を覚えているからではないと思うのだが、どうか。

備忘録2008年6月に関連記事があります。「Whydunitには興味ない」ほか

平成20年6月17日

私は犯罪の動機みたいなものに関心が薄く、だから森博嗣さんの犀川&萌絵シリーズが出てきたとき、ピコンピコンと反応しました(例えば「詩的私的ジャック」)。

だいたい、同じような状況にある人の99%は殺人なんかしないわけで、ミステリー系ドラマの犯人の告白シーンにはたいてい不満があります。ミステリー自体は大好きなのですが、犯罪の理由なんか聞いても仕方ない、と思うわけです。なので、誰が、どうやって、なら食いつくけど、なぜ? をテーマにされるとつらい。

……という書き出しも、リンク先の記事も、あまり関係ないような気もするけど、とりあえず私の中でもやもやと、つながっているような、いないようなことを書くんだけど。

切断操作」という言葉があるんだけど、はてなダイアリーで使用例を追っていくと、どうやら「悪いこと」であるらしい。どうして? これがわからない。たいへん多くの人の心の平安が、切断操作とやらによって回復できるなら、総合的に見て、そう悪くもないように思える。

えーと、他にもいろいろ書きたいことがあったような気がしたんだけど、んー、打ち切り。

意外とはてダで「切断操作」と書いてる人、少ないんですね。調べてみて、とても意外な感じがしました。いままで自分はどこのはてダを見ていたんだろう、という。ちょくちょく、こういうことがある。

で、上ではシレッと「使用例を追っていくと」なんて書いてるけど、実際に追ってみたら、案外そうでもなかった、という。なんか話の前提自体が成立していないような気がしてきた。「いつものことだろう、それは」なんていわれるかもしれませんが。ともかく、そんなこんなで、打ち切り。

平成20年6月17日

なんとなく、逆張りで「誰も不謹慎だとかいわない世の中の方がヤバくない?」とか書きたくなった。だけど私が何をいうまでもなく、基本、世間は不謹慎狩りの空気に覆われつつ、一部に異論があって、インテリ(?)も僅かに心の平安を保てる、みたいな状況になってる。そう悪くないか、と。

ただ、個人的にはもう少しだけ、醒めた感じのメタ視点っぽいことをいう人が増えてほしいかな、と思ったので、この記事を書いて公開してみました。期待だけしてても何も起きないので、自分でひとつ記事を増やそうという試み。

通り魔事件の犯人の卒業アルバムにリオンというゲームキャラクターのイラストがあったのだそうだ。犯人は25歳なのに、なぜ今頃? と思ったら、昨年、ゲームがリメイクされたのだという。リオンは暗黒系の剣技の使い手で突き技も割と得意、というあたりが問題なのかな。いやしかしすごいね。

平成20年6月17日

目的のためなら手段を選ばない人々は私の敵である。物心ついてから20年を、「深夜、学校に侵入して台座を設置し、警察署に向けてロケット砲を撃つ」「気に入らない議員の玄関先を放火して回る」「行政の手先とやらを集団で襲い手足を叩き折る」そんな連中が集まる街で暮らして、つくづく実感した。警察頑張れ。

少数派の意見が通らないのは当然である。言論の自由は、自説が世間に通用することを保障しない。大衆の説得に失敗したから暴力で意見を通そうとする、そういう人々に私は与しない。

平成20年6月16日

ていうか、誰でも参加できる場所だからこそ、言葉を慎むべきなんじゃないのか。

俺様のように感情的な言葉を投げつける人間もいるのがインターネットなんだ、という認識を広めるべき……といった主張には与しない。

何でも自由にしておいたら多様性が確保できるわけじゃなくて、むしろ多数派やら常識やらに手かせ足かせをつけておかねば、言論は豊かにならない。

端的には、意見の表明は制限しないが、表現の仕方には節度を求めたい。

平成20年6月16日

秋葉原で通り魔事件があって、ほんの少しオタクバッシングにかするような文言を記事に添えたマスコミが(ネットの一部で)ボロカスのように叩かれる一方、人材派遣やらの労働問題を糾弾する声が(やはりネットの一部で)ワーッと上がる。なんのこっちゃ、だ。

同じような環境にあっても、通り魔事件を起こすのは例外中の例外。所詮は特異例である。

そういうことにかこつけて、自分の気に入らないものを叩き潰そうとする人々を、逆にそれを好きな人々は嫌悪してきたはずだ。ところが、逆の立場になれば、全く同じことをするわけだ。格差社会が許せない、派遣社員の悲惨な現実をどうにかしたい、それはまあいい。で、通り魔事件を持ち出す。

これもまた、一人一人に問い質していけば、何の矛盾もないのだろう。「俺? 俺は事件を引き合いに出して格差社会を批判するなんて、おかしいと思っていますよ」ってね。だけど、そう思ってはいても、この話題に関して、わざわざそういった発言はする気になれないわけだ。

だから結果的に、凶悪事件に絡めてオタク文化規制などを推進せんとする主張には「これはひどい」「あたまがわるい」といったネガティブな反応が集まるのに、事件を引き合いに格差社会批判をする人は放置。

オタク文化は悪くないが、格差社会は良くないからだ、なんて説明がつくのだろう。

だったら、悪くないものを悪いようにいうな、と主張してくれたらわかりやすいのに。特異例でもって全体を否定するな、なんて、割とどうでもいい論点を持ち出すのではなくて。

面白い。ただ、警察の人は素朴に、もっと自分たちに力があれば世界をもう少しよくできるのに、と思っているのだろうし、政治家だってマスコミだってブロガーだって、みんなそう。規制した方がいいと思うから規制したい、批判が世のため人のためと思うから批判したい。不謹慎狩りをやってる人々も、同じだろう。

隠された利己心みたいなものの批判にも多少の意味はあるのだろうけど……。

平成20年6月16日

このニュース、新聞が写真付きで報じてた。まあ小さな記事だったけど、それでも、こういうことが起きてますよ、とは伝えていた。

自分が気になるニュースをテレビが大々的に報じてくれないことへの不満、というのはネットでよく見かけるのだけれど、ようは客商売なんでね。視聴率が取れるなら、カメラマンが急行して大特集を組むよ。

……あれれ、夕方のニュース番組でも報じてる。他局のことは知らないけど、とりあえずフジテレビ。これで視聴率が反応さえすれば、明日には大特集だよ。間違いない。

だけど実際のとこ、iza でも反応薄いみたいだしね。あまり盛り上がりそうにないね。読者、視聴者が関心を持たないニュースのために人員を割く会社は無いでしょ。慈善事業じゃあるまいし。

good2ndさんの煽りは、はてなブックマークユーザーには響いたようですが。で、このブクマしてる人たちというのが、私にはよくわからない。だってさ、新聞に写真付きで記事が載ってるわけですよ。1日早く。なんでgood2ndさんの記事を読むまで、事件を知らないの?

マスコミは仕事をしていない、っていうけどさ、そういうあなたは記者さんに適切な報酬を支払ってきたのか、という話でね。

テレビより新聞の方が扱うニュースの本数が多いので、とりあえず新聞を見出しだけでもいいから全部読んで、興味があるのに扱いの小さなニュースがあれば、電話をかけてみたり、メールを出したり、記者ブログがあればコメント欄で「記事を拝見しました! とても興味があるので、もっと詳しく知りたいです!」と書く。

経験的にはウケないので扱いが小さくなっている記事も、読者の反響がよければ「これが時代の流れか」と頭を切り替えて大きな扱いに変わる。

で、まあ、実際にやってみればね、「あー、俺の方がフツーじゃないんだな」と身に沁みてわかる。

ともかくね、一応、新聞記者さんは写真を撮って、記事を書いたわけ。それを気付きもしなかった人が、1日以上も経ってから「なんでこんな大事なことをちゃんと報道しないんだ」と噴き上がる。何いってるんだ、と私は思うよ。

補足:

good2ndさんの記事に反応した人たちは、ニュースには関心があるのでしょう。だからYahoo!ニュースあたりは読んでいるのかもしれない。問題は、なぜ自分が大切だと思うニュースに気付かないのか、ということ。

個人の嗜好に合わせて興味のありそうなニュースをピックアップする機能が未完成だから、というのもひとつの回答だろう。「関連記事」とか「同じジャンルの人気記事」なんかをどんどん読んでいくと、得られるニュースの幅が非常に限定されてしまう。「え? そんなことがあったの!」系のニュースに辿り着かない。

だけど当面、この状況は改善されないと思う。となれば、暫定的であれ、やっぱり一定の手間をかけるしかないんじゃないか。興味の有無によらず、編集者の選んだ記事全部の見出しをチェックしてみるといい。このとき、やっぱり便利なのは紙の新聞だと思う。

1日30分新聞を読むだけ、テレビニュースも見ない、という私の方が、毎日1時間も2時間もネットニュースを読んでる会社の同僚たちより物知り。「紙の新聞なんて、昨日のことしか載ってないじゃない」そういうお前は何日も前に新聞に載ったことも知らないじゃないか。

でも「すごーい、何でそんなことまで知ってるんですか?」「新聞を読んでるからです」何度、そう説明しても、「じゃあ私も読みます」という反応がない。紙の新聞の未来は暗い。

平成20年6月16日

母親がtaspoを中学生の息子に貸して摘発される事件があった。

この一事をもってtaspoの無効が証明された、とする向きがあったが、私の意見は逆だ。自販機が顔写真を認識する機能を持たない以上、taspoの貸借はありえる話だった。通勤定期券のようなものだ。記名式定期券を休日に家族が使えば規約違反、一種の詐欺である。しかし誰もチェックしないから、不正が横行している。が、逆にいえば、時々チェックが行われ、不正が発覚すれば摘発されるとなれば、話は違ってくる。

今回、taspoの不正利用がきちんと摘発され、息子に逆らえなかった母親は犯罪者として糾弾された。こうしたニュースが連日報じられ続ければ、不正利用はかなりの程度抑制され、taspo導入以前より「状況」は断然改善されるに違いない。

備忘録2008年6月に関連記事があります。「一箱1000円程度で闇タバコが横行するとは思えない」ほか

平成20年6月16日

日本が2004年にタバコ規制枠組条約を批准したから、という説明。あまり説得力を感じない。

なぜなら、条約を批准するにはしたが、あまり世論の理解が進まないので、実効性を高めるための施策を打てずにいるという事例がいくつもあるからだ。例えば、人権に関するいろいろ。あのネットの一部では非常に人気のない人権擁護法案なんかも、何年も宙に浮いたままになっているもののひとつ。

条約は憲法に比肩するくらい重要なもの、といわれてはいるものの、条約を結んだだけでは国民生活に直接の影響がないため、割と気楽に批准されている印象がある。総論賛成、各論反対、という話題は多い。だいたい条約には総論しか書かれていないから、国会で承認を得やすいのは理解できる。

平成20年6月16日

私はこれまでに一度も喫煙の経験がない。タバコがなくなっても、とくに困るまい。

ただ、そうであればなおさらのこと、タバコ増税の話題について考えるときには、愛煙家の意見に注意深く耳を傾け、感情的反発を乗り越えて彼らの主張を理解しようとする努力が必要になるだろう。

なんかネットの一部では、児童ポルノ規制強化とか青少年のネット利用規制とかに反対の人が多いらしいが、そういう人もまた共感できない他者の主張を嘲笑するだけだというなら、彼らに明るい未来はないね。

平成20年6月16日

一箱1000円程度で闇タバコが流通するのか? なんだかんだいって日本で麻薬やってる人なんか少数派だし、市場シェアの何割というレベルで闇タバコが流通することはないんじゃないの……と思っていたんだけど、欧州では3割程度のシェアを持つ、なんて書いてる人もいる。どこかにもう少し信頼できる情報がないか。

それにしても、一箱1000円程度で闇タバコがペイするのだろうか。日本のような豊かな国では、犯罪が露見したときの機会損失もまた大きい。わいせつ図画の類だって、結局のところ違法商品はマイナーでしょう。

しかも闇タバコは価格勝負の習慣性嗜好品だから、サッと売って逃走、というわけにはいかない。しかもタバコって意外と嵩張る。相当、売る側のハードルは高い。少なくとも、ポケットに小包を忍ばせて待ち合わせ場所で受け渡し、みたいな小説に描かれる麻薬流通のやり方では、とても採算が取れそうにない。

駅前の露天で電車の網棚などから集められた古雑誌(といっても最新号)が売られているが、あれくらい堂々と商売できるなら、闇タバコ屋も繁盛するだろう、とは思う。欧州で真に闇タバコが3割ものシェアを持っているとすれば、事実上のお目こぼし対象となっているのではないかと思う。

日本でもそうなる、とは思えないのだが。

平成20年6月16日

1.

人はいずれ死ぬわけであり、例えばタバコをやめたら肺癌にはなりにくくなるかもしれないが、代わりに他の病気にかかって死ぬだけのことだ。健康に気をつけていれば発症しにくい病気はあるが、やっぱり最後には、身体が弱ってきて、若い頃にはかからなかったはずの病気にかかって亡くなる。

また人は、生死に関わらない小さな病気にもかかり続ける。寿命が延びれば、そうした病気とずーっとつきあい続けることになるのだから、人生の総医療費も伸びていく。

英国と同等の水準までタバコを増税することに私は賛成だが、タバコ1箱1000円案に対し、一部の医療関係者やJT幹部が「医療費抑制にはつながらないだろう」と疑問の声を上げているのは、当然のことと思う。なぜなら、タバコ増税賛成派が「喫煙率抑制で医療費圧縮」と主張しているからだ。嘘を嘘といって何が悪い。

ところが、世間の反応はというと、「寿命が延びて医療費が増えることを問題視するとは!」と倫理的な批判ばっかりだ。モラリストならタバコ増税→喫煙率抑制→医療費圧縮という嘘だって批判すべきだ。

2.

タバコのため、働き盛りの年齢で健康を害してしまう人が、少なからずいる。私の父もそうだった。十二指腸潰瘍で、数年間、苦しみ続けた。禁煙したらすぐ回復。これは金銭的にも社会に損失が大きい。喫煙の害をいうなら、肺癌よりこうした病気の方が妥当ではないか、とも思う。

肺癌は60歳以上での発症が大半なので、従来は、社会への経済的な影響はそれほどでもなかったといってもいいのではないか。

ただ本来なら、平均寿命と健康年齢の延びに伴い、好景気が続いてさえいれば、多くの人が70歳くらいまで働き続ける社会が実現していたはずだ。高齢者医療費問題は、元気な高齢者が全員働き続ける社会となれば、解決する。大勢が60歳そこそこで仕事を辞めてしまうから、現役世代の負担が過大となるのだ。

60歳代に発症率が急上昇する病気は、これまで(社会の経済的な損得という視点からは)あまり重要ではなかったが、将来的には撲滅を目指していくべきである。

さりとて、生物学的限界もあり、80歳、90歳でバリバリ仕事ができるほどの元気が一般的になることは、まずありえない。当面、70歳代以上で発症率が急上昇する死病は、予防の優先順位を低く設定していい。

3.

もう長いこと、日本の社会は、その時々に死因の多くを占める病気の発症率を下げることに執心している。肺・気管支炎→胃腸炎→結核→脳血管疾患→心疾患→悪性新生物という具合。でも医療費という面からいうと、肺・気管支炎で亡くなるのが、いちばん安上がりだ。長く苦しむことも少ない。

だんだん、人生の末期が悲惨になっていっているようにも思える。

昔、癌から生還したはいいが、寝たきりになってしまった母方の曾祖母が、細菌性肺炎にかかった。もういいんじゃないか、となったが、抗生物質で治るのに、放置したら殺人だ、と医者は拒否した。曾祖母も家族も疲弊したが、自分たちだって病院へ行かないという選択をできなかったのである。

しばらくして、曾祖母は癌を再発し、また抗がん剤やらで数ヶ月も苦しめられた挙句に亡くなった。「なんで、死ぬのがこんなにたいへんになっちゃったんだろうねえ?」と曾祖母はいっていたという。

積極的な安楽死や自殺はさておき、かつての死病にかかったとき、そのまま亡くなることくらい、許されてもいいのではないか。健康寿命70歳の次には、ピンピンコロリという人類の夢が取り戻されるといい。

4.

母方の祖父は散歩中に転倒して即死。遺品の日記を見ると、前の晩から急に字が乱れており、脳内出血があったことがわかった。母方の祖母はまぶたに発ガン。最小限の切除となり、当然のようにすぐ再発。今後は耳。本人が長年望んだ通り、ほとんど「闘病」することなく、足腰の元気なまま亡くなった。

私は、もし可能なら祖父のように死にたい。せめて祖母のように短く苦しまずに死にたい。

*祖母の死亡診断書に書かれていた死因は肝臓癌だったが、それ自体は治療可能だったらしい。しかし耳に癌がある以上、助からない。だから再発以降は、苦痛を取り除く処方だけが行われた。

平成20年6月13日

祝、更新再開!

5月27日に「備忘録」→「盗用大歓迎blog」 所信表明(2008-05-27)へ、6月12日に闇黒日記の更新にブログツールを利用するメリット(2005-11-29)へ、簡単なコメントをいただきました。

ところで、「盗用大歓迎blog」の文中に引用文が含まれてゐた場合、それは何うなるの? まづくね?

Info/趣味のWebデザインに記している通り、もともと私の著作物でないものについて、私の宣言は無効です。私が引用した文章を盗用すれば、著作者の不興を買うと思います。

私の「盗用大歓迎blog」というタイトルだけを見て、このあたりの問題を見落としてしまう方がいるとして、わかりにくい場所で説明していた私が悪いのか、「それくらい常識的にわかるだろう」と利用者の問題となるのか、はたまた両方とも責任を問われるのか……。

ていねいに全ての記事に転載・改変・盗用・商業利用の条件を付記するべきか、と考えてはいます。

やつぱ「ブログ」駄目ぢやん。。

Yahoo!ブログ - 闇黒日記2.0と復活した闇黒日記を見比べると、野嵜さんにとって必ずしもYahoo!ブログはひどいばかりではなかったのではないか、と思います。この件、記事を分けます。

平成20年6月13日

野嵜健秀さんの闇黒日記Yahoo!ブログ - 闇黒日記2.0を読んで、ウェブ日記とブログは、単なる形式の違いではあるけれど、意外とその差は大きい、とあらためて感じました。

「ブログ」は一行ネタを書き辛い。というのは私も感じていること。MTを使うようになって5年になりますが、今でも1行だけの記事をローカルでは書くものの、ウェブフォームにコピーして登録ボタンを押すには至らない。

*ミニブログが一部で流行ったのは、そういう感覚に照らして、よく理解できます。つぶやきだけを書く、というスタイルになじめず、私は続きませんでしたが……。

ともあれ、一行ネタを気楽に書けるようになって、復活闇黒日記は闇黒日記2.0より肩の力が抜けた自然な(?)雰囲気。読者としても「うん、これこれ!」という感じがします。

その一方で、やっぱり減ってしまったのが写真の投稿。

野嵜さんがこんなにたくさん、あちこちで写真を撮っていらしたこと、写真のいくつかを公開したいと思っていたことを、私は知りませんでした。本家の復活でYahoo!ブログが開店休業となると、写真投稿のためだけにあの重い編集画面を開く気になれない(?)のか、写真投稿がパタッと止まってしまいました。

その他、ウェブ日記版では長文の記事が減り、喜六郎さんの話題も消えました。

私がMTに移ったときも、記事のスタイルは、かなり変化しました。面倒の壁に阻まれて実現を諦めていたことができるようになった反面、逆に従来なら苦もなくできていたことができなくなってしまったり、たいしてやりたくもないことを、いつの間にかさせられていたり。

長文が増えるのって、記事の完結性を意識させられてしまうからかも。ウェブ日記版を見ると、ブログ版であんなに長文が多かったのって、ツールに書かされていた面もあるのではないか、と思いました。もちろん、これは人それぞれです。「ホームページ」では長文派だったのに、ブログでは短文派になった人もいます。

ただ、いずれにせよ、ツールが変わることで、文章の書き方も変わってしまうことがある、これはたしかだと思う。野嵜さんだって、ブログ版で短文記事を書けなかったわけじゃない。「やろう」と気張れば、できる。でも、気楽に書き綴っていくと、どういうわけか一定の傾向が出てくる、と。

これをいうとトンデモといわれるかもしれないけど、ブログ版で、喜六郎さんについて、あれほど何度も言及したのだって、ツールの影響なんじゃないか。

私の場合、某IDではてなダイアリーを書いていたときは、やたらはてな界隈への言及頻度が高かったです。「なんとなくココだと書きやすい話題」みたいなものがあって、私の場合、はてなダイアリーでははてな界隈のトピックがそれだったんです。はてダをやめたら、はてなへの言及頻度はかなり落ちました。

そういえば、mixi日記って、ブログ風にも日記風にも使われていますよね。話題毎に記事を分けるのがブログ風。1日1記事と決めて、その日、興味を持ったことが全部放り込むのが日記風。

人それぞれ、といっちゃったので、結論も何もあったもんじゃないのだけれど、個人的には1行ネタがポンポン出てくると、「あ、ウェブ日記っぽい!」と思っていたりします。

平成20年6月13日

ブログ化して5年。まず変わったのは、ひとつの記事の長さ。続き物の記事を書きにくくなり、各記事の完結性を高めたいと無意識に思ったか、知らず知らずのうちに長文に。ウェブ日記の頃は、長くなったら自在に記事を分割して調整したものだけど、ブログ化以降は文章を削って短くすることが多い。

特定個人とのやり取りがどんどん減っていったのも、MTに移ったため。返事を書くのに、いちいち独立した記事を立てるのが嫌。Wiki的な更新の仕方をすると、ズルいとかいわれちゃう。

世間的にはブログ化した途端に論争的になっていく人の方が多いらしい。おそらく記事という単位への思い入れの違い。私は項目を立てることに慎重で、Wikiのように更新していきたい。履歴にはあまり関心がない。これに対して、思考の断片をどんどん形にして残していきたい、という人もいる。

最初は間違ったことをいっていても、最終的にいい意見に辿り着いたなら、相手を説得できるんじゃないか、と思っていたのが以前の私。だけど実際には、いつまでも最初の間違いを指摘され続け、話を聞いてもらえない。記事を書き換えちゃう私のやり方は散々批判され、私のやる気は相当に削がれました。

Yahoo!ディレクトリに登録したりして、検索順位で勝つ方向へ舵を切ったのは、特定個人よりも不特定多数にアピールする方が自分に向いている、と思ったから。この変化は、ブログ化の影響か否か。

備忘録2008年6月に関連記事があります。「『闇黒日記』と『闇黒日記2.0』」ほか

平成20年6月9日

SNS略史から実名制 SNS になり損ねた「ゆびとま」(2005-08-16)がリンクされた。学生が何人くらいいるのかわからないが、アクセス解析によると、3人が読みにきたようである。

6月2日の講義の感想を書いているのが16人(かな?)なので、2割程度の学生がリンクをたどった、のだろうか。勉強熱心だな、と思う。

平成20年6月9日

中学校の頃に初めて新品のPC(XP)を買った。マウスの下部分がボールではなく工学式になったので、ちゃんとクリックできるかどうか買ってすぐに不安になった。

ボール式だろうと光学式だろうと「クリックできるかどうか」には関係ないと思う。

DS→初ドラクエ。

1985年生まれ。ドラクエ史上最も売れた第7作を、PSを持っていながら買ってない。若い世代をポケモンに喰われて20代後半以上の世代によく売れているという状況にスクウェア・エニックスの社長は危機感を抱いているというが……。ドラクエでズレを感じる一方で、テトリスは同じように流行っている。不思議。

たぶん、今ので十代目くらいです。

1985年生まれで、高校生になって初めて携帯電話を持つようになった人のコメント。8年で10台、つまり10ヶ月でどんどん機種変更?

高校の頃。家のパソコンが動かなくなる。(windows95)

この人は1988年生まれだから、15の春だとしても2003年の話。こちらのご家庭に限らず、ブラウン管テレビが相当に健闘していたりして、日本の庶民はなかなか物持ちがよい。

小5の時自分の部屋にテレビを買ってもらう。一人暮らしの今でもそれを使用中。

1987年生まれ。1998年製のブラウン管テレビだから、もう10年選手ですか。

就職活動に疲れてDSライトを中古で購入。

1985年生まれ。お疲れ様です。

平成20年6月9日

何度でもいうが、できないことをやろうとするからいけないのであり、努力するなら諦める努力をした方が無駄がなくていい。

Aしたいが、そのためにBすることはできない。10年、20年悩んでその状況が変わらないなら、もう諦めて、Aしたいという気持ちを破壊し、Bなんかしなくていいよ、自分、といえるようになる努力をすべき。ダメだとわかっている方向性に固執する意味がわからない。

20年もの間どうしても無理だったものが、40年頑張ればどうにかなるのか。ならないだろう。見込みのない努力をさらに20年も続けるよリ、これまで真剣に取り組んでこなかった方向の努力を始める方がいい。

幸福は、主観的なもの。現状で満足する努力というのを、20年くらい真剣にやれ。ほしいものを全て手に入れるよりは、簡単だと思うよ。「俺は多くを望んでなんかいない。せめて人並みの、ささやかな……」だーかーらー、20年かけて手に入らなかったんでしょ。高望みだったんだよ。

眼を覚ましなさい! 客観的に幸せになろうとするからいけない。主観的に幸せになれれば、それでいいの。

平成20年6月5日

他人事になると、コストを過小に評価しがち。そりゃ乗車賃をホイホイ上げていいなら、通勤電車だって静かで揺れないようにできるのでしょうがね。慈善事業で鉄道やってるわけじゃない。

現状、公共交通機関の運賃は届出制で、事実上の行政管理下にあるからわかりにくいのだけれど、一応、通勤電車の料金と乗り心地は、まずまず対応していると思う。特急券が売りたいからふつうの電車が揺れているのではなく、特急券を買う人が少ししかいないので、ふつうの電車は揺れ続ける他ないのだ。

空いてる昼間はクロスシートにすべき? 朝夕、その車両はどこで遊ばせておけ、と? お代をいただかずに付加価値をつけられるというなら、まず自分の勤務先で、そういうことをやってみせてほしいよ。

スマートな批判記事。お勧め。

平成20年6月5日

1.

私塾で新しい方法を試したい、とのことなので、ぜひやってみてほしい。

ただ、個人的には、経験上、成功の見込みは低いと予想してます。

だいたいこちらの記事に賛成なんだけど、端的にいって、60分、90分で凡人が学べることには限りがある。効率を上げると、すぐに限界を超えてしまう。講師が授業中に板書できる程度のことしか、生徒には伝わらない。言い過ぎました。正しくは、板書した程度のことすら、半分も伝わらない。それが現実なんですよ。

こつこつ板書する。ちまちまノートに書き写す。1回の授業で学んだことって、これだけ? そう。だけど、小テストをしてみてよ。100点を取れる生徒なんて、ほんの僅かしかいないんだから。

2.

自信満々で新しい試みに取り組むのはいいことですが、成果の評価は客観的に行ってください。

まず、その成績で授業の出来を判断する「テスト」を作成する。次に、事前のテストの成績から能力均等の2クラスを編成する。そして新旧両方式で授業を行う。最後の試験で勝敗を決する。

ともかく、新方式だけで授業を行い、何の客観性もない感想シートを見て「どんなもんだい」と鼻高々になるのだけは、どうか勘弁していただきたい。

なぜ大学でスライドショー方式の講義が行われていたりするのかといえば、授業中に聞いた話の9割超を忘れて構わない、という前提があるから。教科書なんて、各章末の「まとめ」だけ覚えておけば試験をパスできる。高校までのふつうの授業では、聞いた話を全部覚えなきゃならないので、前提が全く違う。

大学入試センター試験で地歴・公民を受験して80点以上を目指す場合、教科書の太字部分を全て覚えるのは当然ですよね。200〜400ページの教科書を3年間、授業中はもちろん家庭でも一生懸命勉強して、それでも努力虚しく70点程度だったりする。10を聞いて10を知るのが、いかに難しいか。

3.

マルチメディアを駆使した上手な授業の事例は、何といってもテレビ番組だろう。

「クローズアップ現代」でも「ためしてガッテン」でもニュース番組の特集コーナーでもいい。

きちんとメモを作ってみれば、いずれも視聴者に伝えようとしている情報はごく僅か。メモを読めば10秒〜5分程度で済む話を、3分〜40分もかけて、ていねいに説明していく。それだけの手間をかけても、きっと、視聴者に小テストを受けさせたなら、結果はボロボロに違いない。

これはテレビリテラシーの問題ではない、と私は思う。

補記:

板書中心の授業は、教える側にも利点がある。まともな教師なら、板書の内容は事前にノートにまとめておく。下書きはパソコンでやっても、清書は手で行う。すると自然に、詰め込み過ぎに気付く。1回の授業でこんなにたくさんのことは教えられないな、もっとポイントを絞らなくては、と意識するようになる。

こういうことは、頭の中だけで気をつけていても、なかなかうまくいかない。板書中心の授業を行うと決めて、淡々と作業を行っていく方法なら、嫌でも問題点に気付く。板書ノートの清書に50分かかったら、生徒がノートに写す時間も、自分が解説を行う時間もないのは明らか。高校の授業なら長くて20分が目安でしょう。

なお算数や数学、理科などは、教科書の一部分の筆写も駆使します。実際に自分で筆写して必要時間を計測し、練習問題などに取り組む時間を確保します。こういうことを手抜きすると、休み時間に入っても授業を続行し、生徒の信頼を失うことになります。

本文にある通り、マルチメディアを駆使した授業は、大学や、社会人向けの講座などではポピュラーです。これは到達目標が高校までとは全く異なっているからですが、理系学部の多くの科目は、高校までと同様に「1から10まで頭に入れる必要がある」ので、良心的な先生は板書中心の構成を採用しています。

追記:

なるほど、教授側の時間ロス削減よりも、対話の促進に力点があったのだ、と。

大学で討論型の授業を経験した人なら誰でも知ってることだと思うけど、「エキサイティングな知的体験」ってのは、知識の習得のためには、極めて時間効率が悪い。結局のところ、やることを増やすのだから、授業時数を増やすか、自学自習の範囲を拡大するか、最低でもどちらかが必要。いずれも現実的ではない。

教師の問いかけを生徒が無視するといった光景は、たしかに記憶がある。寂しい。だけど、実際にいちいち生徒が熱い反応を返すと、授業が止まる。一人で何度も授業を止めて他の生徒を怒らせた私が言うのだから、間違いない。やっぱり高校の授業の代替にはなりえず、私塾でやるしかないと思った。

私の饒舌ぶりは、この記事を読めばわかる。そりゃ授業も止まるわな。