趣味Web 小説 2007-12-06

レポート課題の設計法

1.

過去ログ〔レポート課題の出し方(2005-09-10)〕にリンクしても読む人があまりいないから、何度でも同じことを書こうかと思う。

コピペレポート対策の3ステップ

とても簡単です。

  1. 教官のロゴ入りなど「特殊なレポート用紙」を配布する
  2. 「手書き」を必須とする
  3. レポートの「行数を指定」する

学生が楽して何も身につかないことを恐れているわけだから、「特殊なレポート用紙」でフォーマットを指定、「手書き」の手間をかけさせ、「行数を指定」し要約や水増しを不可避とすればよい。

「紙をなくした」場合は研究室へ取りにくるよう指示。「プリンタ出力」は零点にする、障害ゆえに手書きが困難な学生は必ず事前に申し出なさい、と言明。「指定行数違反」は1行につき20点ずつ減点する、と説明。ちゃんと下書きして、文字数・行数を確認してから清書するように、とアドバイス。

書籍を参照させたい場合の付加ルール3条

どうしても「本を探す→読む→まとめる→意見・感想を付加する」という手順を踏ませたい場合……。

心の問題に制度設計で立ち向かう

剽窃・盗用を防ぐには、参考文献ゼロのレポートは零点にする。ネットじゃなくて図書館で調べてほしいなら、図書館を使わざるをえない課題設定にすればよい。

既存の文献に当たらず、思いつきを書いてほしいなら、授業の最初にレポート課題を示し、授業の最後に10分程度の時間をとってレポートを書かせればいい。授業時間外に、たかがレポートのために学生が80分以上頭を使うわけがないのだから、これでいいのだ。レポート用紙を最初に配り、遅刻者には決して渡さないことにすれば、遅刻も防げる。

身近な**に取材してほしいなら、レポート提出者と**が一緒にフレームに収まった写真の添付を義務付ける。プリンターがない学生には「研究室に来なさい」と指示すればよい。取材対象が人なら、その連絡先も添付させる。いいレポートがあったら、学生の取材対象に先生も連絡してみて、そのときのやり取りを授業で紹介する。ズルは不可能だな、と学生は震撼する。

ポイントは「学生に何をしてほしいのか、ちゃんと分かるようにレポートの出し方を工夫する」こと。心の問題に制度設計で立ち向かう。シンプルに考えたらいいと思う。

2.

そもそも教師がレポートを課す理由って何なのだろう、と思う。

どれだけ教える側が頑張ろうが、結局は、学生が「自らが自らを差別化する」意図がなければ、どんなに工夫した設問を出そうが、学生は「自ら考え悩んだ結果としてのコンテンツ」を提出することは絶対にない。

多くの先生が、なぜ「学生自身の考え」なんてものを欲しがるのかわからない。オリジナリティ幻想っていうのかな。そこがホントに不思議。私も機会があってレポートを読んだことがありますが、学生の思いつくことにオリジナリティはない。ブログと一緒。過去に誰かが書いたことのバリエーション。

学説とか理論というのは、他の人と対話できるようになる共通語彙、コミュニケーションのツールという側面が大きいわけですから、そこで余りオリジナリティばかりを主張していてはいかんと思うわけですよ。

役に立つ学卒というのは、たくさんの考え方の枠組みを持っていて、様々な問題に迅速・柔軟・確実にそれらの枠組みを適用して解を見出し、その比較検討から最適解を選択していく、そういう能力のある人。ふつう、100人いても出てくる考え方は4つか5つ。1人で7つ8つの考え方を示せるなら、すごい優秀。

だから、講義で考え方の枠組みを示す、演習で様々な課題を学んだ枠組みにしたがって読み解いてみる、大学の授業はこの繰り返しでいい。社会が大学に求めているのも、学生が大学の講義に期待しているのも、こういうことではないのか。オリジナルなつもりの平凡な意見をレポートに書かせて何になるのだろう。

本来、授業中に演習を行うのが一番いいのだけれど、その時間が取れない場合にレポートを課すのは理解できる。当然、テーマは最後のペーパー試験の練習問題にする。算数と同じ。概念を理解する、計算に習熟する、個別具体的な課題(文章問題)を解く。この流れ。

掛け算の演習なら掛け算で解かせる。足し算を頑張れば、初歩的な掛け算の文章問題は簡単に解けるけど、そういう解答はバツにする。レポート課題というのは、本来、そういう風に出すべき。採点基準は明快で、出題意図が学生にもハッキリわかる、模範解答に納得がいく、そんな出題が望ましい。

以前、どこぞの大学の「国際経済論」のレジュメで「各国にはそれぞれの国の通貨がある。日本の通貨は(円)、アメリカの通貨は(ドル)、韓国の通貨は(ウォン)である。」なんていうのを配っていて、覚えさせていて、テストの前にも確認で配って、資料持ち込み可にして写しても良くなっているというのを聞いて愕然としましたが、そのときはなんやねんと思ったが、でもですね、仮に有名大学の学部の講義で内容はもっと高度であったとしても、つまりカッコの中に入るのが(ブレトン・ウッズ体制)とか(短期資本移動規制)であったとしても、カッコ穴埋めをさせて測れる学生の学習成果というのは、前後の語彙から判断して過去に暗記した模範的例文を想起しそこからカッコ内を補完する用語を想起して書き込める能力を持ち合わせている場合と、学説を論理的に理解して咀嚼して自分なりに考えて解答を推測して書き込んだ場合を、論理的に識別する術は、穴埋めをさせているだけでは存在しないのではないだろうか。

よくできた算数や数学の練習帳は、まず穴埋め問題からはじまる。記号や語義の記憶をチェックするわけ。

5つのりんごが乗ったお皿が2つあります。このときりんごの総数を求める式は 5□2 です。□の中に正しい記号を書き入れなさい。

とかね。デキの悪い練習帳はいきなり計算問題から始めるので、算数の苦手な子が置いてけぼりになる。穴埋めは最初の一歩。次に計算問題があって、最後は文章問題になる。社会科学の試験だって同じこと。ステップバイステップ。ひとつの問題で全てのレベルの能力を計測しようとするのは無茶というもの。

ちなみに、学説を論理的に理解して咀嚼する能力を測る最も簡便な方法は、センター試験の社会科に見ることができます。「正しい(or 間違った)記述を選びなさい」という問題。さらに自分なりに考えて解答を推測する能力を見るのが、短文(or 長文)記述問題。

いずれにしても「正解がある」のがポイント。

項頭に戻るけど、レポートを課す理由をきちんと考えている先生が、いったいどれだけいるのか。「考えてほしい」って、いったい何を? どういう風に? なんとなーくイメージでもって「考えれば賢くなる、考えれば賢くなる、考えれば賢くなるのじゃーッ! ケェェ~ッ!」みたいな感じになっていないか。

難しいことはいわない。教師がきちんと「講義+演習」という構造を意識すること、まずはそれだけでいい。ただそれだけで、レポート課題は大きく変わる。ずいぶんまともになる、はず。

3.

学生にレポートを出すときは、もう当たり前のこととして「各自が面白いと思った商品について具体的かつ詳細に分析せよ」みたいに課題を設定しますが、これが「二重構造について」とかでは、おそらくウェブでいろんなコンテンツが検索されて、切り貼りしたらもうわかんないだろうな。「まあ妥当な定説」がピックアップされて提出されたら、文句のつけようがない。しかし学生はコピペどころかダウンロードして氏名記入しかしていない可能性があるわけか。どうするかな。

私なら、「各自が面白いと思った商品について、今回講義した***という考え方を適用して、具体的かつ詳細に分析せよ」と出題します。

算数の例でいえば、「自分で割り算の文章問題を作って解いてみなさい」という課題。割り算という「縛り」が今回のトレーニングのテーマを示している。バラエティーにとんだレポートが集まるだろうけど、講義で学んだ考え方の演習を行う、という背骨がしっかりしているから、学生にも訓練の目的がよくわかる。

コピペ・レポートを避けたければ、設定する問題から「他の教員が絶対出しそうにないコンセプトを混ぜなければならなさそうなもの」でなければ、いまの時代、無理じゃないかしら。

そもそもどうして抽象的なテーマなんかでレポートを課すのだろう。そんなもの、学生が偉大な先人よりすごいことを思いつく可能性はほぼゼロじゃないか。抽象的なことは、講義で教師が教えるべき。学生が自分で重力を発見できるなら、教育機関としての大学なんて必要ないだろう。

この手のレポートは全て「講義時間が足りないから自習してね」の亜種といっていい、と思う。学生がコピペ・レポートに流れるのは当然なんだ。だいたい、コピペでなけりゃ素人の思い付きを書くしかない。だったらコピペするほうがまだマシだろう。

ただ、コピペじゃ内容が身につかないのは明らか。コピペじゃダメだ、という説得的な理由は、これしかないと私は思う。だったら、本を読ませる、自分で要約させる、手書きで清書させる、こうした作業をさせたらいい。その手段は、1.に書いた。

たかが1単位のために、学生を丸1日拘束するような課題を出すなら、教師だって横着せずに、私がいろいろ書いたくらいのことをしてほしい。本を1冊読むのに3時間も4時間もかかる実態を知らないはずもないだろう。2冊読んだらそれだけで1日終ってしまう。学生が強烈に「やってられっか」と思うのは当たり前の話だ。

倫理の崩壊を憂えても仕方ない。素直な発想で対抗手段を考えていくべきだ。

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