ドラクエ4、FF1〜6、とリメイクされたゲームを立て続けにやっている最中なんだけれども、記憶そのままという感じのするGBA版FFは非常にいい感じ。ファミコンもスーパーファミコンも、もう持っていない。もう一回やりたいな、と思ったとき、こういう素直な移植作があって本当によかった。
ドラクエ4はPSでもリメイクされていたので、ほぼ同内容のDS版を無意味とする意見を見かけたけれど、そういうことじゃないと思うんですよね。パソコンでもOSが変わると使えなくなっちゃうソフトとかあってすごく悲しいんですけど、ゲームはコンテンツでしょ、不便とかそういうレベルじゃなくて、何というか……。
PSだって、もう持ってない人とか、多いと思うんですよ。古いハードを、いつまでも持っていられない。
中断
注:GBA版FFはメニュー画面なども含め昔のままに見えますが、実際には難易度を含め、いろいろ変更されてはいるそうです。基本的には簡単になっている。私はお話もほとんど忘れているくらいなので、気になりません。なおそれぞれ追加要素があって、一部作品では本編の全ダンジョンと同じくらい歩かされます。
余談:おまけといえばGBA版FF1とテイルズオブテンペストのおまけには苦笑。本編よりオマケをクリアする方が時間がかかる。クリア条件、の定義にもよりますが。
だけど、GBA版FFは、あまり売れなかった。現にそうだったので、GBAソフトも遊べるDSで
ただ、DS版ドラクエ4はいいですね。これなら納得できる、という保守的な進化を遂げていて。ふだんは2D感覚でプレーできる3D化、こういうことも可能なんだな、と。
フル3D化しちゃったDS版FF3は、何かというとロード時間が挿入されてイラッときます。光ディスクじゃないのに、と思ったんだけど、3D演出に必要なデータ量って、それだけ大きいんだろうな。
ただ、DSカードの容量はいまのところ最大256MBに過ぎないので、将来的には電源投入時にカードから全データを本体に取り込むことも可能なんじゃないか。そういうのが大掛かりすぎるなら、シンプルにインターフェースを刷新してほしいところ。SDHCとSDのようにスロットが後方互換性を持てるなら……。
中断
「オマエモナー」って、ここ数年、滅多に見かけない。お互い様の文化が薄れた2chやブロゴスフィアで、炎上騒ぎが頻発するのは自然な展開。
残念だな、と思ったので、最近の備忘録には、ちょっとしつこいくらい、そういう内容を入れている。
そういえば最近の人気は「常識的に考えて」のやらない夫あたり? んー、ひょっとすると、オマエモナーって自省や含羞じゃなくて、同調圧力だったのかも。昔から炎上騒ぎはあったし……。流行り廃りの波がきてキャラクターが変化したにすぎず、じつは何もかわってはいない、ただ私が幻滅しただけ、なのかな。
ふつうの人のふつうの文章は、多少の努力をしたって読者数は高が知れている。
それが楽しいことなら、いろいろ研究するのもいい。しかし書かれなかった文章は、誰にも読まれないわけであり、面倒が勝って本末転倒なことにならないようにしていただければ……。
私はものぐさなので、何も考えずに、書きたいように書いている。
これも同様で、気にしたい人はすればいいが、どうでもいいといえばどうでもいい。ただまあ、これらの記事を読んだ人の9割は、それまでと何ら変わらぬスタイルで書き続ける。
無意味といえば、この記事こそ無意味だな……。そんなこといったら、全部無意味なんだけど。
今日はここまで。書き過ぎ。
無駄に長く書く癖がついちゃったな。
この仕事を11年してきて知ったことは、読者の過半数はネタばれを望んでいて、内容を知った方がその本を読みたくなり、したがってネタばれをした方が本が売れる、という事実である。繰り返すが、良いか悪いかの意見ではない。
私もネタばれ歓迎派。もっとネタばれ書評がほしい。とくにミステリね。読む前にも情報がほしいけど、読んだ後にこそネタバレ書評が重宝する。あれってどういう話だったっけ? と思ったときに、ネットでちょっと調べるだけで済んだらいいのに。ミステリはネタバレを恐れて役に立たなくなってる書評が多すぎ。
ただし、森さんがいっているのは広義のネタばれなので、トリック明かしとは違うことに注意。ただし私は、トリックまで載せておいてほしい派。クリックしたら読める、くらいでいいじゃないですか。「書かない」という隠し方は、とにかく残念。
映画は、ちょっと古い作品なら、goo映画であらすじが読める。ホントは新作もあらすじを載せてほしいんだけど。
ゲームは、21世紀になって謎を残さない攻略本が主流になってよかったな、と思ってる。いつの間にかドラクエの攻略本までそういうタイプになっていて、ビックリした。以前は、かなり頑固に終盤の展開を秘密にする主義で悲しかった。
天羽優子さんが池田信夫さんをウェブで批判。池田さんが抗議のメールを出したら、天羽さんがそれを公開。批判は取り下げず。業を煮やした池田さんは、天羽さんの使ってるサーバーの総責任者である山形大学の学長さんに抗議した……という話題が、ちょい前にあった。
私はどちらにも共感するところがある。
まず池田信夫さん擁護風に書くと、天羽さんは頑固なので、よほど確実な何かがないと、発言を引っ込めないだろうし、公開したメールを非公開にもしないだろう。
私は過去、いろいろ要請に応じて(明らかにこちらに全く法的な問題がないケースでも)記事の一部または全部を非公開にしてきた。やめてほしいという人の気持ちを踏みにじってまで公開する意義がない、と判断したからだ。天羽さんは、私とは拠って立つ価値観が異なり、公開の意義を重く見るだろう。
だいたいそういうことは、最初のリアクションの段階で、おおよそ分かる。分かるので、話の通じる相手と交渉しよう、と考えることに疑問はない。こんなとき、サーバー管理者に連絡するのは定石といっていい。たまたま今回は、サーバー管理の最終的な責任者が天羽さんの上司でもあったわけだけど。
池田さんは議論から逃げている、みたいな意見もあるが、他人事だからそういうんだ。経験上、削除してもらいたい記事のことで議論なんかしてトクをしたことはひとつもない。所詮、前提とする価値観が違えば、説得なんかできない。ややもすると「3回まわってワンといえ」と同等の屈辱的な対価を要求される。
私もかつては高飛車に応対していたものだが、自分が削除してほしいとお願いする側になって、愕然とした。何に傷つくかなんて、人それぞれだろう。しかし、明らかに違法なコンテンツでもなければ、相手がイヤだといえば、絶対に消えないといっていい。
……とはいうものの、今回、話題になっている件についていうと、池田さんの過剰反応じゃないか、という感想。しかもあの書き方! 石にかじりついてでも消してやらないぞ、と燃えたぎってしまう人がいてもおかしくはない(天羽さんは冷めた感じだが)。
まあ私なら「面倒くさいから」消しますけど、それは別に失うものがないから。天羽さんは逆にこうした場面で消さない自分が好きなので、こんなことで屈するのはむしろ精神的に高コスト。一方、池田さんの言動には暇潰し感が漂う。真剣じゃないなら、人の生活に影響するようなことまでしないでほしい。
まとめると、池田さんの行動は、大筋で理解できる。でもネット大道芸のつもりでやってるなら、勘弁してほしい。天羽さんの反応もわかるけど、自分が同じ立場だったら、素直に当該記事を消すことにしたい。池田擁護の記事が少ないので、親池田の部分を詳しく書きました。以上。
柳美里さんの怒りは分からないでもない。でも長塚圭史さんが編集部に相談するのは自由だと思う。柳さんとは交渉できない、と思う人は少なくないのではないか。だって瞬間湯沸かし器だもの。しかも意外なところにスイッチがあって、いくら気をつけても事故を防げない。
天羽さんは上長に抗議が行って(小さいとはいえ)生活リスクとなったことを実名公開のデメリットといっているけれども、それは違うと思う。経験上、日本の言論の自由はかなり強力。抗議する側は相当なハンデ戦を強いられる。だから長塚さんが柳さん本人ではなく編集部に相談できたのは、いいことだと思うのだ。
だいたい書いた本人を説得するのは難しいだろう。もう少し低いハードルがあって、初めて対等といえるのではないか。まあこのあたり、自分が削除を求める側に回るとは思っていない人とは意見の合わない部分だとは思う。
長塚さんはその後、「en-taxi」で特集を組まれた。なるほど。そして、柳さんは同誌の編集から外れた。やっぱり、我慢ならなかったらしい。短気は損気だが、柳さんはその人柄で私小説風の作品を売っている。これも仕方がない。
「自分の物は皆の物」って考えの人はtumblrには賛成だけど
「自分の物は自分の物」って考えの人はtumblrは嫌いだってわけ
どちらの考え方が正しいとか正しくないとかは無くて
「自分の物は皆の物」って考えの人と
「自分の物は自分の物」って考えの人との価値観の違いがtumblrの問題になってる気がします
同じ考えの人同士でリブログしてりゃ問題にならないんですよ。現に価値観の違いがあって、しかもtumblr嫌いの方が人数が多くて、法律を作る力を持っている。正面衝突したら勝ち目がない。まずは慎重に、仲間同士で楽しんでいればいいはずで、どうしてそういうことができないのか。
tumblrをやってる人は、かなり高い確率でリブログ文化にも親和的なんだろうから、tumblrオリジンのコンテンツをtumblrの中でリブログしまくる、という閉鎖的コミュニティ作りをするのが正しい。で、一時期のYahoo!ブログは、一部にそういう雰囲気も出ていて、いいなあと思っていたのだけれど。
NAVERでもYahoo!でも、よそからコンテンツを盗んできて転載の起点になろうとした人がたくさんいて、それでアウトになってしまった。それでも大半はオリジナルのコンテンツを「転載してね」とやっていたものだった。ところがtumblrでは端っから外部からのコピーありき(の人が大半)で、何じゃこりゃ、という感じ。
そういう使い方をする限り、tumblrコミュニティに未来はない。叩き潰されても仕方ないよ。
ただ、怪我の功名、もある。
自作じゃないのが当たり前なので、いちいち既製品ですよといわなくても盗用騒ぎにならないものとして、例えば服飾がある。「センスいい!」とユーザーがほめられるのは、選別眼と取り合わせの妙だけ。服飾デザイナーもそれを見て「俺を褒めろよ」とはいわない。tumblrコミュニティは、これに近い状態を実現してる。
ただ、このアナロジーでいうと、デザイナーが自分専用に作った服を勝手にコピーして着ているので、デザイナーが怒るのは当然。しかしtumblrコミュニティ内の賞賛が「センスいい!」という方向性だということは、もう少し理解されてもいいかと思う。
写真を無断転載するだけのブログ。はてブの反応に、ひとつも批判がない。こんな出典表記ゼロのブログさえ社会的に許容されるなら、案外tumblrだってジワジワと市民権を得ていったりして……と思ってたら、消えた。
沖縄で米兵がまたしても。
在日米軍は3万7千人もいるので、犯罪がゼロになることは考えられない。殺人だって何だって起きるだろう。ただ、人数の割りに件数が多く、相変らず捜査などに障害があることから、地域住民のフラストレーションがたまっている、ということらしい。(関連:極東ブログ: 日米地位協定は改定すべきなのだが)
ここまでの話はわかるが、報道されているあれこれは、こうした枠組みを突き抜けていて、私には何が何だか。
2006年に強姦で検挙されたのは1058人いる(例年これくらいの人数)。そのうち、勤務先のトップが記者会見をして謝罪した事例がどれだけあるのだろうか。しかし米軍から犯罪者が出たら、司令官が謝罪会見をするのが当たり前で、おとなしく反省の弁を述べても、揚げ足取りみたいな批判に晒される。
アメリカ人観光客がどんな事件を起こしたって、アメリカ政府が何の補償をしてくれるわけでもないが、在日米軍所属なら「補償を求めていく」(NHKラジオ)ことになるらしい。主語がよく聞き取れなかったが、たぶん遺族だろう。業務として犯罪を行ったのではなく、個人が勝手にやったことなのだが。
朝の番組で大谷昭宏さんが「野獣とは一緒に暮らせない。ゲートから外に出るな」が住民の認識だろう、という趣旨の発言をされていたが、そのまま何の訂正も入らなかった。4万人近い中に幾人かの悪いやつがいて、それで全員を野獣扱い。鬼畜米英といってた頃と、あまり変わらないな、という印象。
自分の勤務先から、例えば立て続けに殺人犯が出たとする。それで世間から批判を浴びて、管理体制がなっとらん、とかいわれても困る。社員のプライベートなんて「知ったことか」だろう。まして「あの会社の社員」だからといって「社会から隔離せよ」「ゲートから出てくるな」といわれたら怒りに震えないか。
結局のところ、米軍差別なんだと思う。
こういうとをいうと、これは差別じゃありません、区別です、みたいな反論がくるのかもしれない。全然違うものを一緒くたにしているぞ、とか何とか。
しかし社会のルールを守ってきちんと生活しているであろう3万人くらいの気持ちは、私が過去に経験したいろいろな悲しい気持ちと共通だと思う。これこれの理由があるから区別されて当然なんだ、という人は、ようするにそれくらいのことで人を「区別」していいんだ、といっているのと同じ。
米軍は出て行け、という人々が、ペッパーランチ追放運動もやっているなら、賛同はしないが理解はできる。でも、違う。「従業員が事件を起こす→勤務先の事務所はこの街から出て行け」の矢印は、恣意的に成立する。ようするに結論が先にあって、人々は適当な理由を(無意識に)求めていた。
この構図は差別やイジメと共通しているところがある。だから直感的に「イヤだな」と私は思う。平等な社会、なんてのは理想に過ぎない。それはわかる。しかし米軍への人々の反応は、突出している。何せ「米軍は柵から出るな」だ。街頭インタビューでも、堂々と顔出しで、一人二人ではなく幾人もが、そういっていた。
所属や属性ゆえに「色眼鏡で見られる」だけでも不愉快に感じる私たちが、他人の移動の自由(これは基本的人権の一部であるはずだ)を制限しようとしている。彼らは「野獣だから」人権など認めない。形式的には内規改訂という自発的行動でも、実態としては集会やデモや世論の圧力によって「そうさせる」のだ。
仮に同じ条件を満たせば、自分も同じ扱いを受けてよい、と認識しつつこの問題を考えている人が、どれだけいるのか。自分は何も悪いことをしていなくても、人権を抑圧されることに納得できるのか。
冷凍食品、買うことないなあ……。4割引でも高価だから。月に2回はほぼ全品が半額セール、いつでも特定の商品が2〜4割引、それでも安くはない。
でも冷凍庫はよく使ってる。ご飯を3合炊くと5食分になるので、4食分を冷凍する。肉類も買ってすぐに小分けして冷凍。あとは油揚げを刻んだのとか、ボイル野菜の類とか。
中国の冷凍食品製造工場で犯罪が起きて、日本の食糧自給率を上げようという話になる理由、というか、そういう展開に違和感のない人が多い理由がわからない。マスコミが自給率の話をするのは、そういう意見が人気があるからで、それはもう分かりきっていることで不思議はない。問題は、なぜ人気があるのか、だ。
国内で犯罪的な偽装行為があったことを忘れているわけじゃあるまいに。毒物混入事件だって、幾度も起きている。自給率を上げたって問題が解決しないことは明らかなのだが。
というか、コストを消費者が負担するなら、自給率なんてすぐに上がる。儲かるなら、みなこぞって国内で食糧を生産するに決まっているのだ。だから消費者の選択の問題にすぎないのだが……。
製造業者のことを忘れて放言すると、BSE程度のリスクでギャーギャーいってきた実績があるので、中国産の食品を全部ストップするのも、現実的な線でリスクと向き合うことを考えるいい機会かもしれない。
今の日本で手っ取り早い景気対策は、公正取引委員会が不公正取引をもっと厳格に審査して、廉価販売などの流通を規制することだ。
廉価販売を規制すれば、ものの値段は上がる。(中略)デフレスパイラルに陥ったままにしないためにも、政府が適切な価格を導く政策を上手にしないといけない。
衝撃の発言、といいたいところだが、グレーゾーン金利撤廃の議論においても後藤田さんは反経済学的発言に終始されていたので、驚くには値しない。
……というほど、私が何かをわかっているわけではないが(こういう注記、いい加減、面倒くさいのでヤメにしたいが、いちいち突っ込む人が出てくるので今回も書いておきます)、私なりの理解をあらためてメモしておきます。
まず、デフレは貨幣現象なので、価格統制では解決できない。金融政策の領分である。
日本の名目金利は低いが、予想インフレ率がマイナスなら、実質金利は高くなり、銀行にお金があっても借りに来る人も企業もない。住宅ローンの金利が下がっても、土地や建物の価格がどんどん下がっていくと予想する人は、借金したくないな、と考える。
名目金利を下げ、日銀の当座預金残高を積み上げても、予想インフレ率は上がらなかった、金融政策は効果が小さい、という意見があるが、小さくても効果があったならいいじゃないかと思う。せっかく効果があったのに、デフレが解消されそうになったタイミングで性急に金利を上げたのはおかしいと思う。
デフレが続いているのは、効果的な政策をやめて、金利を上げてしまったから。
一気に書いたら疲れた。
自分の人生から陰口を排除する……幾度となく挫折していますが、数年前から私なりに繰り返し挑戦中です。マイルールは次の2項目。
無視は同意とみなす、という目標を掲げたこともありましたが、あまりに難題すぎて(少なくとも今の)私には実行不可能でした。
第1項、陰口の場ではしばしば、不鮮明な立場が排除されます。私はこれまでに何度も、ただ陰口に乗らないためだけに、全体としては気に入らない様々な人やものを弁護してきました。いつの間にか、逆陰口男みたいな評が一部で定着しつつあるという。不愉快だが仕方ありません。
第2項、これは超難題。***への批判は、どうオープンにしたらいいのか。まあ友人、知人間のことなら、困るのは自分だけなので、何とかなる。大切なのは、他人を巻き込まないこと。AさんやBさんも賛成してくれている、とかいってはいけない。必ずAさんBさんに復讐され、ルールを守るどころの話ではなくなります。
また、陰口に賛意を示してから、当人に言葉を伝えるまでの時間は、短ければ短いほどよい。手洗いに立った人への陰口は、当人が戻ってきたらすぐオープンにする。
だいたいこういうことを続けていくと、私の前で陰口をいう人が減っていきます。自分は陰口をせず、自分の知覚できる範囲内では陰口が消えていく。自分の人生から陰口を排除できる、わけです。
自分が賛同しない陰口は、オープンしない。賛同した陰口は、あくまでも自分ひとりの言葉として当人に伝える。この2点は、失敗体験から見えてきたポイント。
世の中のほとんどの人は、陰口はよくないという建前を掲げつつ、実際には陰口の自由を謳歌し、それを当然の権利とさえ認識しています。だから、秩序の破壊者に対し徹底抗戦する。なりふりかまわず潰しにかかる。
それほどのことだったか……というのが私の実感。個人的な信条もとい趣味のようなもののために、他人が日頃の品性をかなぐり捨ててまで守ろうとするほどの何かを踏みにじってはいけないな、と考えるようになった次第です。
大げさに考えると、続かないと思います。あくまでも趣味的に、取り組んでください。
人の性格をいいの悪いのといいだす人を見るたび、「あなたよりはいい人なんじゃないですか」といいたくなる。で、そのための材料を集めていく。いろいろ相手の反論を想定して、脳内シミュレーション。これが楽しい。そうして時間が過ぎていく。
「あのさ、聞いてる?」「すみません、考え事をしてました」
母は「高校に行きたいなら、行かせてやります」「大学に行きたいなら、行かせてやります」「お勉強したいなら、させてやります」万事、この調子だった。「行きたくないなら、行かなくてよろしい」「したくないなら、しなくてよろしい」とも、いっていた。
無論、親として期待するところは明確である。こちらが道なりに歩んでいるときは何もいわないが、違う方へ行くと質問攻めが待っている。結果的には、兄弟揃って期待に沿った道を歩んだことになる。私は大学に行きたいとは思っていなかったが、漠然とそう感じていただけなので、面倒を起こすだけの燃料がなかった。
質問攻め、といっても圧迫面接のようなものではない。ちゃんと言い分を聞いてくれるのだった。それでも、無目的に生きる人間を、親の希望するルートへ連れ戻すには十分な効果を発揮した。
会社が新入社員に年金制度が利用できると伝え、拠出金に釣り合った年金額を保証すると約束しても、かなりの人数が加入しないだろう。
だが、従業員を自動的に年金制度に加入させておいて、会社に申請するだけでいつでもやめられると伝えれば、大多数は黙って受け入れるだろう。
質問攻めには、それが「答えを求める疑問」なのか「否定的な意見の表明」なのかがわかりにくいという問題がある。
同じ親が育てても、私と弟の性格は対照的。同じ悪事を同じように叱っても、同じ善行を同じように褒めても、結果は大違い。親の努力なんて虚しいものだと感じる。私のように人を見下す者は、何があっても人を見下すんだと思うよ。せいぜい、ほんの少しだけ、場に応じた振る舞いを知るくらいでしょ。
ていうか、発言小町で「人を見下すなんてのは挫折を経験すれば直りますよ」とかいってる人って、自分がまさに今、人を見下す人を見下していることに気付いているのかいないのか。勘違いのお勉強自慢はいけないけど、勘違いの人格自慢ならオッケーなんですか。
心は変わらずとも、行動は変えられる。この原理一本で通せば話がわかりやすいのに、できもしない心の変化を要求する。いってる本人が他人を見下しているのだから出オチなのに、誰も指摘しない。なんかこういうことをいうと「バカ? バカなの?」て反応が返ってくるけど、世の中の方がおかしいんだっ! ;-P
民主主義を思いついて、しかも普通選挙にしましょう、と決断した人たちは本当にすごい。人を差別しない。いうのは簡単。するのは、ほとんど無理。その無理を現実にしたんだから(多少の例外はありますが)。
ちょっとスタイルを変えて、短いコメントを書いていくことにします。
私の備忘録を読んでいる方々は、徳保隆夫ってバカだなあ、と思っているかもしれない。
私はだいたい「優秀なほう」で通ってきました。小中高大学、多少の波はあれど、ずーっと上位2割以内をキープ。とくに国語の成績は良くて、(私の属する小さな世界では)常にトップクラスでした。代ゼミの模試で偏差値80台を出したときがピークかな。ようするに自慢すると恥をかくが謙遜すると嫌味になるレベル。
注:実際、古い知人のいる場で「自分がいかにバカか」という話をしていたら、「オマエよりずっとバカな俺はどうなるんだ? えぇ、オイ!?」とか怒り出してしまった。妬み嫉みを恐れることも大切だが、ある程度はそうしたものを背負っていくのも社会生活の必要経費かと思う。役割分担の責任を負う、といってもいい。
その私にして、「話し言葉でないと頭に入ってこない」は常々実感してきたことなのです。ふつうの参考書が嫌で、「実況中継」「実況放送」シリーズを愛用していたりして。
生育環境が悪いんだ、が正しいとして、何かうまいことをすれば抗うことが可能なのかどうか。私くらい、本が好きで、書き言葉をたくさん読んできた人間でさえ、少なくとも「お勉強」となると「書き言葉キラーイ」なのです。「うおお、アタマが受け付けないッ」自分でも意識できるくらいの拒絶感があります。
私は毎年、最低でも100冊くらいの本を読んできました。最近はやわらかい本中心だけど、それでも昨年だって「春秋」を読んでいたりする(少しも頭に残っていないが……)。
賢い人たちが私をバカ認定するのは、いいんです。その人にできることが、私にはできないわけだから。でも、これを一般人でも改善可能な問題と捉えているような一部の反応には、「そうかなぁ」と。
この制約を与件として対処しようとする福耳さんのスタンスに、私は賛同します。
コメント欄やはてブの反応を見てて思うのだけれど、世の中、賢い人ばっかりなのね。最近バカが多くて困る、みたいな話題になったとき、「ホント困ったもんですよね」みたいな反応が妙に多い。この比率は、あまり現実的ではない。
もっとも、それはこの備忘録も同じ。偉そうな言葉であふれてる。そんなにお前はすごいのか。いいえ、違います。ごめんなさい。わかっているならなぜ、と自問してみるに、「身につまされたときには黙ってるから」かな、と。それから、嫌な話は無意識にシャットアウトしている。あと、ホントに自分が見えていない。
……趣味のブログですし、書きたいことばかり書けばいいんですよ。だけど、自分で読み返して、ひとつひとつの記事はそう悪くないと思っても、全体として恥ずかしい。エラソーなことばっかりいってて、何なんだ、と。だけど、新しく書きあがるのは、またまたエラソーな文章。いやんなる。
「できてる記事があるなら、公開してくれると嬉しいです」みたいなメールをいただきました。「いやんなる? それがオマエだろう。現実から目を逸らすな。カッコつけてんじゃねぇよ」というイイワケは既に考案済み。いずれ何も問題が解決されないまま、更新ペースは元に戻るでしょう……。
何度も書いているように、実名を Google とかで検索して、「へぇ〜、***くんはネットで徳保隆夫って名乗ってるんだぁ」と分かってしまうのは嫌だ、と私は思っています。
とはいえ匿名に「逃げる」つもりはない。私の書いたことが原因で誰かに「被害」をもたらしたのであれば、その責任は(基本的には法の定める範囲内で)負うつもりです。また私は多くの場合、法的な責任がなくとも、ときには自らの信じるところを枉げてまで、相手の切実な要求を受け入れてきたつもりです。
しかしながら、私刑のような形で復讐されることは、御免こうむりたい。そのようなことまで「責任」の範囲内だとは考えない。かつても今も、私刑の駆逐は不可能だ、という諦観は述べてきたけれども、少なくともここ数年、積極的に私刑を称揚したことはない(記憶違いであればお詫びします)。
私はこれまで、トラブルの相手から信頼のできる連絡先の提示を求められて、拒否したことはありません。それは、相手が希望しているのはトラブルの解決であって、私を痛めつけて胸をスーッとさせるためではない、と信じることができたからです。
そのような私にとって真に怖いのは、企業ではなく個人です。訴訟を本当に起こす人ではなく、実際は全然その気のない人です。法の裁けぬ悪を討つ者がヒーロー視される世の中です。
小倉秀夫さんの提唱する共通ID制は、実名を常に名乗れという提案ではない。私の理解では、サーバーの管理者がユーザーの個人情報へのアクセス手段を確保し(必要なときに共通ID管理機構へ問い合わせる)、トラブル発生時に共通の基準に従って当事者間の交渉(裁判を含む)が行われる仕組みを作ろう、というもの。
この提案が「インターネット実名制」と呼ばれてしまうところに、日本のウェブの不幸があると思う。
裁判が公開で行われることと、(例えば)ネットで個人情報を公開することとは、形式的には同じでも現実問題としては、かなり違う。交渉のため、といって開示させた情報を悪用して個人的な制裁を行う……多くの人が心配しているのは、そうしたことではないか。
無責任なネットユーザーの根拠に欠ける悪口に怒って訴訟を起こす企業は、そういうことをしない。ふつうの人だって、そう。けれども世の中にはいろいろな人がいるから、共通ID制は情報の悪用に厳罰を科す仕組みとセットにしてほしいと思っています。
ドメイン管理者情報は、特定の用途のために、特定の手段によって検索できるようになっているのであって、管理者の実名や所属、住所などを明らかにして生活を破壊してやろう、などという目的のために利用していいものではない。この手の悪党が野放しの状況で、共通ID制が信頼されないのは致し方ない面はあると思う。
しかし同時に、100%信頼できる相手にしか個人情報は渡せない、といった意見にも与しない。100%は不可能なので、その主張は、無責任に言論の自由を行使し続けたい人々を厳重に保護することになるからです。