備忘録

平成20年1月28日

ちょっと特異なコメントポリシーで更新されていたはてなブックマークが、運営から「スパム」と判断された、という話題。ブクマページから、いろいろな人の感想が読めます。

民間企業のすることなので、これはこれでいいと私は思う。少なからぬ人が問題視していたことは事実ですし。ちなみにスパム扱いとなっても、合計ブックマーク数などに加算されない、という以上のペナルティはないらしい。個人的なクリップツールとしては、変わらず使い続けられる模様。非公開にもならない様子。

私なら、自分のポリシーを貫くことを優先するかもしれない。ともかく、それほど深刻な話ではないなあ、と感じました。言論の自由は運営側にもあるから、お願いをするのは自由だと思うし。

平成20年1月28日

1.

録画したテレビ番組は、再生速度を増減できる。当初は1倍で再生していたのだが、次第に1.1倍、1.2倍と速くなっていき、最近では基本が1.7倍。

当然、入り乱れた会話やささやき声など、もともと聞き取りにくい部分は、聞こえない。でも、別にかまわない。というか、「見たい」といっても、大半の番組は、それほど真剣に「見たい」わけじゃない。

人生はあまりにも短すぎる、と思っているような人は、「どうしても見たい」「真剣に見たい」ものしか見ないのだろうから、「1.7倍で再生して満足できるような番組を見るなんて、時間の無駄」というに違いない。でも私はそうじゃない。

誤解を恐れずに書けば、少なくともここ数年、私は「くだらないものを(そこそこのレベルで)たくさん楽しみたい」と思ってる。実際に私が読んでいる本、見ているテレビ番組や映画、聴いている音楽がくだらないものがどうかは別問題。ただ、私の姿勢として、量の追求に重点を置いている。

2.

「ちょっとだけ読みたい本」「ちょっとだけ見たいテレビ番組」「ちょっとだけ聴きたい音楽」を、限られた時間の中でいかにして享受するか、というあたりに私は興味を持っている。

しかし「ちょっとだけ」の欲求だから、努力するまでには至らない。速読の解説を読む気になれず、もちろん練習もしない。その点、テレビの高速再生は、ピピッと操作すればいいだけなので、努力が不要。まずはここから、となったことに不思議はない。

1.7倍は極端。でも、ふつうの人でも1.2〜1.4倍くらいまでなら、さして違和感がないと思う。興味のある人は、ちょっと試してみてください。

で、いったんこれに慣れてしまうと、「たくさん録画しすぎて、見る方が追いつかない」人はもう、リアルタイム視聴に耐えられなくなるんじゃないかな。私の場合はそうだった。

朝食時の天気予報はリアルタイム視聴しているけど、他はもう、ニュースだろうとなんだろうと、全部、録画したのを見てる。逆にいって、録画してないものは見ない。再生速度を上げたり(報道やバラエティーであれば)興味の薄いコーナーを飛ばしたりできないのはかったるい。

こうなってみると、リアルタイム視聴の不便さを理由に「テレビ番組を見ない」と言い出すのは飛躍ではないか、と思う。リアルタイム視聴が不便なら、録画視聴だけすればいい。

3.

テレビ番組を高速視聴するようになってからというもの、本を速く読めるようになってきた。もちろん、速く読めばそれだけ脳に残る情報は落ちてしまう。それでもいい、という本が私にはある。

従来は、どうでもいい(けど読みたい)本を読むのにも、1頁1〜3分かかった。だから、時間の貴重さを鑑みて、読みたいのに諦める本がたくさんあった。いま、そうした制約から解放されつつあるのは、とても嬉しい。

高速再生を繰り返すだけで、どうして速読(といっても私の速読は、ちょっとした読書家のふつうの読書スピードよりも遅い)が可能になったか。おそらくそれは、全部が頭に入らなくても「気にしない」感覚に慣れた、からではないか。罪悪感みたいな……わかりますよね? それが、適当に麻痺してきた。

斜め読みと違うのは、一応、全部の文字を目で追っていること。だから空では思い出せなくても、読み返してみれば、「あー、これは見覚えがあるな」ということになる。

平成20年1月28日

数年前、ソニーが発売して失笑を買ったアナログ7chの1週間全番組を録画できる VAIO Type X ですが、いま私は素朴に「ほしい」と感じる。値段ほどの価値は見出せないけど……。

パソコン録画なら数百の番組を予約録画でき、録画番組の一覧性も高いので、実家の専用HDDレコーダーよりずっと便利だと思う。けれども、やはり「録画した番組しか見られない」ことに不満がないではない。

だいたいテレビ番組の感想は、放送後に書かれる。それを読んでから「見たいなあ」と思っても遅い。全チャンネルの全番組を録画してあれば、そういう悩みがなくなるわけだ。24時間録画なら、中継延長で放送時間が変更されてしまうことも(さして重大な)問題ではなくなる。

将来的には、ソニーの Type Xのような機器が一般家庭に普及していくのではないか、というような感じがする。でも、地デジでHDDの必要量が激増、チューナーも高額化。急に実現性が遠のいてしまって残念。Type X も VAIO のラインナップから消えてしまった。

もっとも、録画した番組の9割超を「見ない」なんて仕組みは、放送の省エネ特性を全く損なうもの、とはいえそう。2台(1台買い足した)のTVキャプチャで見る気のある番組だけ録画している現状を維持するのが一番いいのかな。概ね満足しているわけだし……。

私の場合は、一度見た番組は、これまでのところ100%録画データを削除しているので、つまりその程度のことなので、たしかに野嵜さんの悩みは他人事かも。当初はいろいろ慣れず録画失敗も多く、そのたびに悔しく感じもしたものだけれど、ここ2ヶ月あまりで失敗したのは1件のみ。99%超の成功率なので、私は満足。

Panasonicの製品は、使っていないのでわからないが、ソニー製のVHS+DVD+HDDレコーダーを買って実家にあげたのだけれど、これで作成したDVDがパソコンでも伯母の家のDVDプレーヤーでも再生できず閉口したことを思い出した。1日かけても問題を解決できず、諦めてパソコンでキャプチャしてDVDにしたら一発で成功。

慣れの問題かもしれないけど、家電の方が難しくていいのだろうか。

結局、問題を解決できずに3in1レコーダーのDVD作成機能は封印。両親はレンタルDVDに関心ないし、HDD録画が気に入ったので、VHSも使ってない。どうせ中古でタダみたいな値段だったとはいえ、それならシンプルなHDDレコーダーの方が良かったような……。

平成20年1月28日

1.

私は長らく、速読ができなかった。だいたい文庫1頁1分ペース、2段組の単行本だと1頁3分くらい。漫画だって180頁読むのに1時間が目安、文字が多いエッセイ漫画などは2時間以上かかっていた。「そんなにゆっくりで、よく年間200冊超も読めるね」と不思議がられることしばしば。

まあ、読書に多大な時間を割いてきたわけだ。そんな状況が、今頃になって、変化し始めた。いや、ホントに速くは読めない。読めないが、以前の2倍、3倍くらいのペースで読み流せるようにはなってきた。

斜め読みと違うのは、全ての文字を目で追っていること。無論、それが頭に入っているかは別問題。でも、一応は全部読んでいる。すると、見出しなどになっていない、強調されていない部分からも、スススッと頭に入ってくる言葉が結構あったりする。かかる時間が同じなら、速読の方がお得なように思う。

速く読むと、ページをどんどんめくるから、近くで見ている人がいると、ときどき驚かれる。テレビで超人をたくさん見ていても、目の前の、ほんの少しだけふつうよりすごい人のことも気になるらしい。私の速読なんて、速い人の精読とスピードが変わらないのだけれど、上には上がいるように、下には下がいるものだ。

2.

「そんなに速く読んで、内容は頭に入るの?」答えはYesでもありNoでもある。リンク先にある通り、速読は割り切りの技術だと思う。

私が速読をできるようになったのは、テレビを見始めたことがきっかけだ。だんだん録画がたまってきて、どう考えても全部見るには時間が足りないだろう、と。

最初に試したのは、ながら視聴。WXGAの狭い画面で映像とエディタや表計算ソフトを並べたり、ウェブを閲覧したり。あるいは本を読みながら再生したり。だけど、どうもしっくりこない。いずれも私の処理能力を超えている感じだった。とくに「ゲームしながら」は完全に不可能だった。ゲームの音を消してもダメ。

それほど見る気がないわけでもなかったのだ。ときに分単位でスコーンと抜けてしまうことがあって、「あれれ?」と思って巻き戻したりして。そこまでするならさあ……という感じがした。

このときようやく存在に気付いたのが、プレーヤー(私の場合はIO-DATAのmAgicTV付属のやつ)の再生速度変更機能。最近のは便利で、速度を上げても音程を維持するから聞きやすい。最初は1.1倍から始めて、今では(私が使っているプレーヤーでは)上限の2倍速も番組次第では使っている。

やってみればわかる、と思うのだけれど、2倍速にすると、全部のせりふは聞き取れない。何をいっているのかわからないまま、話が進んでしまう箇所が結構あるにはある。でも、それはバラエティー番組では致命的なのかもしれないけれど、映画やドラマなら案外、不都合ないことが多い。

というか、不都合あるかどうかは心の問題だとわかった。例えば映画を見るのに、パンフレットやガイドブックなどを買って、いろいろな情報を補完しつつ、2度も3度も見て、ようやく満足する、みたいな鑑賞の仕方が一方にある。もはや映像をしっかり見るだけじゃ飽き足らないんだね。その逆、といえばわかりやすいか。

怪盗ルバンや名探偵ホームズを子ども向けにリライトされた短縮版しか読んでおらず、しかし満足している人は少なくないと思う。じつは私がそうで、ルパンもホームズも大好きだったのに、完訳版は長すぎて、いまだ読破できずにいる。スティーブン・キングの小説も抄訳で読みたいのだが……。

2倍速再生すると一部聞き取れないのだけれど、それが大切な部分だったなら、話が進んでから「ああ、そういっていたのか」と合点することになる。補足情報があれば、断片から言葉を復元できるわけ。だから物語を見失うことは、まず、ない。補足情報がないなら、別に聞こえなくても困らない部分だったんじゃないか。

実家では、テレビ番組の途中でも、風呂が沸いたら風呂に入る、食事が終ったら歯を磨く、といったルールが設定されていた。だから、テレビってのは最初から最後まできちんと見なくてもどうにかなるもの、という感覚がある。テレビを見るときにコンプリート志向が出てきちゃう人に2倍速再生が厳しいのは間違いない。

3.

速読のコツは、2倍速再生を受け入れる姿勢と似ているのではないか。全部の文字に目を通しはするのだけれど、頭にはあんまり入ってこない。そこで読み返さずに、どんどん先へ進んでしまう。それで案外、困らないものだし、意外と「そういえばさっき」と思い出すものがあったりなんかする。

逆にいって、それだけ、なのかも。「ふつうの人でもすぐにできる速読」が、それほど素晴らしいものであるはずがない。

平成20年1月23日

1.

狂乱物価以前から、もっといえば(少なくとも私が読んだ範囲内では)戦後ずーっと一貫して、庶民はインフレ嫌い。自分の所得がどれだけ増えたって、物価の上昇は「悪」と認識するようです。

「墓場鬼太郎」のOPでも食品の値上げに「政治は何をやっておるのか!」って科白が出てくるでしょ。あれは原作通り。水木先生の見事な現実のスケッチなんです。近年は深刻なデフレ不況が続き、値上げアレルギーも活躍の場がありませんでしたが、2007年、ビョーキが少しも治ってないことが証明されましたね。

実質所得が倍増した時代の一般向け経済本は、物価の高騰が生活を破壊する! みたいな内容で埋められています。その一方で、「選挙対策」のため政治家は金融緩和を求め、好景気を維持しようとした。表面的な非難の大合唱とは裏腹に、好景気を維持すれば選挙に勝てた、ことも伺えます。

ちょっと不思議な感じ。道路財源は一般財源化すべき、あるいは揮発油税の暫定税率を廃止すべき、みたいな意見が(世論調査でもマスコミ報道でもブロゴスフィアでも)人気あるようでいて、当の議員さんたちは「選挙に悪影響」と見ていることにも似ているような。

とはいうものの、世論はいつだって「地方分権を推進しろ、そして地域格差をなくせ」みたいなことを平気でいってきたわけで。本当に票になるのは、どっち(に重点を置いた政策)なんだろう? というあたり、今後も政治家さんの悩みは尽きそうにない。ま、政治家は何をしても憎まれる。

2.

食料品価格が上がってきた昨今、2006年2月にご紹介(補足あり)した石油価格高騰と空理空論の真実(原田泰さん)が改めて挑戦を受けています。その結果はというと、世論の動向もマスコミの主な論調も、オイルショック当時からちっとも進歩していない風で、予想通りだけどガッカリ。

econ-econome さんの記事はリンクしたもの以外も素晴らしいので、マクロ経済に興味のある方はRSSリーダーやアンテナに登録されるといいと思います。

追記

まあ、結局、人のそういうイレギュラーな経済・経済学理解はやがて日常的な局面で個々が恥じかくだけなので市場原理にまかせてスルーでいいんじゃないかと。所詮、人様の信条や頑迷思想を個々打破するには限界があるでしょうから

私の狭い狭い体験からいうと、むしろ「イレギュラーな理解」をしていた頃の方が、恥をかく(?)ことが少なかったような気がします。私はリフレ派の主張に「そうだそうだ」と思うのだけれど、自分で代わりに説明できるほどの実力はない。だから「それはおかしいと思う」といってはみても、相手を説得できない。

多勢に無勢、「頑固なバカ」扱いされてオシマイ。とっても悲しい。

私が郵政民営化に絡めて書いた記事も、いい加減な内容にもかかわらず、人気を得た。スーッと多くの人の脳に入り込み「そうだそうだ」と思わせた。矛盾があろうといい加減だろうと、人気の出る主張、というのがあるようなんですね。もちろんそれは、正しい意見、卓見だ、ということで歓迎されるわけ。

人間の脳の仕組みか何かに欠陥があるのかもしれない。だから、市場原理に任せると、変な意見が勝つ。書店へ行けばわかる。新聞や雑誌でもいい。まあジャンルにもよると思うけど。

平成20年1月23日

読書感想文にも通じる話。というか、義務教育段階の作文全般について同じことがいえそう。

与えられたテーマについて、何か高尚なこととか、みんなが感心するようなすごい意見などをいってほしい、なんて期待している人は珍しい。多少、強引でもいいから、連想ゲーム的に自分の物語を引っ張り出して、書いてほしい、と。

私なんかは、そういう個人史さえ類型化されたパターンを繰り返しているようにしか見えず(長さの制約も大きい)、だったらプロの小説を読む方がいいという感じ。まあ、そういう人が多いからこそ、何とか作文コンクールの入賞作品集より、小説の方がよく売れているのでしょう。

しかしそれはそれとして、少ないとはいえ喜んで作文を読んでいる人がいて、その需要はプロの小説では満たされないのだから、作文が書かれる意味はある(教育効果を抜きにしても)。こうしてみると、ブログと作文には似たところがある。

平成20年1月20日

とりあえず記事タイトルには同感。はてな匿名ダイアリーに書かれる、私小説風の作品というのか記事というのか、その多くも似たようなもの、と感じてます。だからケータイ小説叩きは、どうも理解できない。

ケータイ小説は、実際に読んでみると、案外、文字量が多い。本好き界隈にはやたら読むのが速い人が多いので、20分で読み終ったとか何とか、ひどいと10分とか5分とかいうのだけれど、私は1分2頁より速くは読めませんでした。

あらすじ小説とかいわれてるけど、ファミコン時代のRPGのストーリー描写などを思い起こせば、これくらい詳細なら、物語を楽しむのに支障は全くないでしょう。

補習塾で学力底辺層の子どもを教えた感覚からいうと、ケータイ小説くらい長い文章を読めるのは、それなりに基礎体力のある子。生徒がケータイ小説をスイスイ読んでいたら、私はホッとすると思う。嘆かわしいとか何とか、贅沢な悩みではなかろうか。

平成20年1月16日

父は株価の上昇局面でさえ大赤字だったので、最近の状況は、もう目も当てられない。しばらく前に母が資金供給をストップしたので、リスクは限定的なのだけれども。

とはいえ、年金2年分を投入するのに、ろくに勉強をする気もなかったのは、私には理解し難い。本人いわく「俺はずーっと経済に関心を持って情報を集め、株式投資のシミュレーションをやってきたんだ」とのこと。その自信がどこから湧いて出てくるのか。

それでも父は、証券会社のセミナーには行った。講師の先生は短期投資を勧めたという。笑ってしまった。そりゃ証券会社主催のセミナーだもの、短期投資で何回も何回も売買してほしいに決まっている。父は毎週のように証券会社に電話をかけて、どんどん手数料を取られた。セミナーが無料である理由。

母は「ほんとバカなんだから」といってネット証券の口座を開設し、父はようやく悪徳(?)証券と縁が切れた。その後、母は、月1万円ずつインデックス型の投資信託を開始。今はさすがに赤字だけど、しばらくは黒字を維持していた。そして例によって例のごとく「あなたはダメねぇ」と。

あまりに楽しそうなので、損をするとわかりきっていて父の株趣味を止めなかった理由はこれか、と私は思った。

毎日真剣に新聞とにらめっこして、独自のデータ分析をして頑張っている父の努力って、一体何なのか。他人は関係ない、自分の信じる道を進むのだ。やらずに後悔するより、やって後悔する方がいい。努力は裏切らない。成功者は、そういうけれども。

母は、私の貸した本を3時間かけて読み、その日の内に自動積み立ての手続きを完了(父の口座を作ったときに自分の口座も用意していた)。それっきり、何もしていない。株価が下がっても、「安く買えるのはいいこと」と動じない。それで父よりうまくいく。

話の方向性は違うけど、通じているところがあると思う。

夢を諦めたら人生はおしまい、みたいな意見がたくさん出ていて、反論する人がいない。そういう人は、たとえば植物状態になってしまった人の生は無意味と思うのだろう。惚けが進んで家族のこともよくわからなくなってしまったら人生オシマイだ、というのだろう。私とは、相容れない立場だ。

まあいい、そういう人は、生涯、夢を持って頑張り続ければいいさ。その邪魔はしない。

平成20年1月16日

「明らかに」という言葉、たいてい明らかならざる場面で使われているように感じる。恋愛もののドラマや映画が、これだけ人気があって、みんながみていて、それでどうして、「明らかに」がはびこるのだろう。言動の背景にある人の気持ちを読み取ることが如何に難しいか、繰り返し描かれているのに。

「すれ違い」の物語は「ドラマの登場人物って、バカばっかり。俺ならこんな愚かなことはしないのに」という消費のされ方をしているのだろうか……。ブログ検索で感想を拾っていくと、まさにそのような内容の記事が相当に多く、何だか悲しくなってくる。

ともあれ、私はなるべく(とくに人の心情を決め付けて)「明らかに」という言葉を使わないようにしよう、と思っている。「きっと」「絶対」も同じく。無論、ついつい、ということはある。また、推測まで放棄するわけでもない。確率分布を考えることは、むしろ人生のトラブルを避けるうえで重要だと思う。

平成20年1月16日

意外と計画は実現していく、らしい。

うん、たしかに私の場合は(今のところ)当てはまる。私は大学を卒業するときに、今後の10年間について「一人で暮らす」「昇進しない」「勤務先を変えない」と計画した。もうすぐ6年目が終るけど、その通りに進んでいると思う。予定では、65歳までずーっと計画を変更しないことになっている。その先は白紙。

私が65歳になるまでには両親とも寿命を迎えている、両親とも生前に(私の)介護が必要な期間はゼロ、という想定。怪しいのは、ココかな。両親が生きている間は死ねないし、介護を他人任せにできないなら一人暮らしは強制終了、転職だって必要になるかもしれない。

しかしおそらくは先の話。給料も生活水準もこれ以上は必要ないので、当面、現状維持に汲々とする人生を過ごすことになると思う。その「当面」てのが、私の計画だと、これまで生きてきた時間より長い。あははははー。

自分が考えたこと、望んだことは早く訪れます。何事も計画通りに行くことはないということを重々承知ですが、計画の前倒しに対して、私が対応し得ていたかというと、これもまた、対応できたこともあれば、対応できなかったこともあります。

何も変化がないこと、を望む場合、どうなるのだろう。あーそうか、私の場合、両親の最期が早くに来て、私の寿命もそれから間もなく尽きる、ということか。65歳というのは、単に定年という以上の意味はない。両親が亡くなれば、「死ぬのが怖い」という消極的な生存理由くらいしか残らないもんなあ。

せっかくだから、ピンピンコロリで死ぬ、てのも計画に付け加えておこうと思う。期日は、両親の死後ならいつでもいい、ということにしておく。

ふと気付いた。真っ白けの人生計画からわかること……私には社会に恩返しする意志がない。

余談

こういう性分でしょ、苦労知らずの人生とはいえ、就職活動はつらかった。希望だか野望だか、いずれにせよ望みのない人間は要りません、ていうんだもんね。それなりの仕事はします、ってバカ正直にアピールしてた頃は、箸にも棒にも掛からない、門前払いという感じだった。アルバイトだと重宝がられるのに。

ま、私も「フリーターの収入じゃあ嫌だ」と思っていたわけで、だったら頑固になってちゃイカンわなあ、膝を屈しなきゃならんなあ、と。フフフン、という態度でも採用されるほど自分は優秀じゃないな、とは思い知らされましたね。わかりきってたことではありましたが。

で、あっちでもこっちでも意欲の叩き売りをやって、仕事の内容も、誰にでもできる「つまらない」仕事希望というのを引っ込めて、お勉強の成果を発揮できる仕事をやります、やります、といったら内定がポンポンときた。時間かけたおかげで今の勤務先に辿り着いたのは、運命に感謝というところ。

逆リンク!

平成20年1月16日

大勢が自分語りしていて、バトンの回答集みたいな感じで面白い。まるで大人になって少しずつ子供時代に我慢していた空白を埋める作業をしているように感じますという意見に、ちょっと共感するところがある。ただ、私は「親に禁止されていた」わけじゃないから、だいぶ話が違うのだけれど。

ちょっと気になるのは、親が***したから自分はこうなったんだ、親を恨む、みたいな意見が目立つこと。私と弟の対照的な性格・生活・能力といったものを考えるに、「親の影響って意外と小さいかも」と体験的には思うのだけれど。親の説得で意見を変えた、世界観が変わった、とか、ほとんど記憶にないし……。

だいたい書き込みしているのは大人でしょ。二十歳を過ぎた子が人を殺しても、法的には親の責任は問われない(民事訴訟で大人の犯罪者の親からお金を取るのは困難、ですよね? 違いましたっけ)。お菓子やゲームを禁止されて人格が歪んだんだ、みたいなことをいつまでも恨むのって、あまり感心しない。

「無茶いうな」を承知で書くけれど、今の自分が嫌なら、自分の力で変わればいいんじゃないの。それとも「娯楽の制限は自力では回復不能なほどのトラウマになる」のだろうか。いや、なるんでしょう。なるんでしょうが、それほどじゃない人が大半なんじゃないのか。これほどの割合で……というあたり。

平成20年1月15日

1.

一部の期待に応え、Tumblr について少々。

■C. ニュースサイト問題

ニュースサイトがTumblrをネタ元として参照している、という点について

C-1. あり得ない
死ねばいいと思うよ

※これ以外の意見は見当たらないので全員が潜在的にC-1の可能性

既に言い尽くされてる感があるので、いまさら何を書こうかという感じだったんだけど、引用した部分に天邪鬼の血が騒いだ。大きなニュースサイトが、あえて原典ではなく Tumblr にリンクしたい理由はいろいろ考えられ、私はひとつの判断として理解できるからだ。

Tumblr のデータサーバに上げられたコンテンツは、誰かが Reblog してる限り、最初にアップロードした人が記事を削除しても消えない。そして Tumblr のデータサーバーは大アクセスの集中によく耐える。また二次創作系のコンテンツは、大手サイトから(ディープ)リンクされるとパッと消されることがままある。

今回の発火源となったニュースサイトは「にゅーあきば」というところなんだけど、怒ったのは Tumblr やってた人であって、画像の作者さんじゃない。ヘンな話でしょ。俺のトコじゃなくて元ネタにリンクしろ、といって怒った。そしたらにゅーあきばは別の Tumblr にリンクし直したという。

まあ、「ヘンな話」と書きはしたけれど、Reblog はこっそり系の文化という認識があったから、大手にリンクされて「うわー」て感じだったんじゃないかと個人的には思ってる。

じつは昨秋、2ch で Reblog してるのを咎められた Tumblr が、過去ログを全削除する「事件」があった。最初は「著作権法違反は親告罪だから」みたいな対応だったんだけど、「ふざけんな」の声が勝った。2ちゃんねらーがどの口でそういうことを、という感じもするけど、まあそういう空気があるわけ。

にゅーあきばにリンクされて怒った某氏は、にゅーあきばへの抗議みたいな形で Tumblr のの更新を休止した。これを不思議がる意見をいくつか目にしたのだが、「プロならちゃんと一次情報を取材しろ」てな話は表向きで、「大手にリンクされたら気軽に Reblog できないだろ、迷惑なんだよ」なのかもね。

結局、というか、私が思うには、Tumblr の Reblog 文化が最近まであまりギャーピーいわれずにきたのは、単に日本のネット社会においてマイナーだったから。そういうことなんじゃないか

2.

私が Tumblr の Reblog 文化を知ったのは、はてブのコメントだったと思う。それ以前からときどき、記事中の数行分を転載してコメントなし、という「つまらないリンク元」が多いサービスという認識はあったのだけれど、開発者自身がスクラップ用途を企図していたことは、そのときに少し調べてみて、わかったこと。

注:ただですね、Tumblr には記事毎に公開・非公開を選ぶ機能があるし、そもそも転載しかできないサービスなんかじゃない。ふつうに日記を書いたっていいわけ。なので、コピーを公開してる人てのは、ひとつそーゆー選択をしたんだ、と。便利なオンラインメモツールてだけなら、非公開にしとけばいいわけで。

私がYahoo!ブログとかを擁護したのは、大勢に批判されていたから。静かに Reblog 文化が浸透していくなら、それが一番いいと思っていた。けれども、いずれこれは問題になるだろう、という印象はあった。

なぜか公開型として設計されたオンラインスクラップ帳、将来きっと、日本でも米国同様に人気 Tumblr が登場するだろう。そのとき、プロの作品のコピーはきっと問題にならないだろうが、素人の作品のコピーが必ず問題視されるに違いない。そう思っていたら、実際、その通りになった。

ただ……ちょっと予想と違うのは、テキストのコピーについては、なぜかあまり話題になっていないということ。リンクがあればいい、らしい。そのあたりがコンセンサスなのか、たまたま、いま Tumblr 問題に関心を持っている人がそういうタイプなのか。

あと、Tumblr 問題を語ってる記事をざっと眺めた感じ、「どうして転載するの? リンクでいいじゃない」みたいな意見がそれほど多くない。オンラインにコピーを持つことの便利さ、てのは、意外と理解されているわけか。そのコピーを公開することの便利さ、まではともかくとして。

Tumblr の Reblog 文化は、イラストや写真のコピーで障害にぶち当たったわけだけれども、テキストのコピーは、世間に認めさせつつあるのかもしれない。これは Yahoo や Naver になしえなかったことだ。とはいえ「これがフツー」になる未来、というのも当面は考えにくい。

現状、コンテンツを利用する側は(テキスト情報しか保存できない制限はあるけれど)Yahoo!ブックマークを使うくらいが穏当でいいのではないか。非公開型のスクラップ帳なら、みんな文句ないだろう。

3.

12月ににゅーあきば問題の原典作者の方と Tumblr ユーザーが意見交換したそうだ。にゅーあきば問題にそういう派生展開(ハナシとしてはこっちの方が本質的な感じがするが)があったとは知らなかった。

面白いんだけど、分量がすごいね。まあともかく、Reblog していいよ、という前提で作られたコンテンツが増えないことには、Tumblr が広く世間に受け入れられる未来というのは描けない。作者さんの発言には法の後押しがあるし、世間の常識も作者さんに味方しそうだし、Reblog 側は立場が弱い。

だからやっぱり、自分自身が転載歓迎のコンテンツを量産していくのが王道。とりあえず、Tumblr で Reblog してる人は、メインのブログを Tumblr で書いてほしいな。まずは Tumblr コミュニティの中でコピー文化を育ててほしいと思う。他所のコンテンツをああしたい、こうしたい、じゃなくて。

4.

JASRAC が「ルールを守れないならニコ動なんかやめたら」というと、「時代遅れ、バーカバーカ」みたいな反応がメインである。ところが今回、原典作者ののしさんの作品が無断転載されていたことについて、ひどいとか何とかいう。でもその作品、無断で作られた二次創作なんだよね。そこのところ、どうなのか。

のしさんが著作権とかいわないのは、ようするにそれをいえない事情があるということ。ネタが初音ミクなので、実際にのしさんの二次創作が問題になることはないだろうが、「多分」「おそらく」で権利処理を手抜きしていることに変わりはない。なあなあで甘い見通しでやってきているのは、のしさんも同じだったのだ。

実害はない、世界全体の幸福の総量は Reblog によって増大している(大意)、云々。これらをあっさり却下する意見が予想外に多く見受けられるが、創作者の気持ちを大切にするためなら、前述のような主張を却下してよいとするならば、ニコニコ動画なんかさっさと潰すべきなんじゃないのか。

あるいは、2ch でテーマに沿った画像を集めるスレッドみたいなのがしょっちゅう立っていて、あっちゃこっちゃのアップローダーに画像が上げられている。まとめサイトでは、ていねいに画像を収集して、一覧できるようにしてくれたりしている。そうした画像の9割超が無断転載で、出典表記もない。

Tumblr はダメだが、2ch ならいいのか。相手が匿名だから叩きにくい? せめて不快感を表明したらいい。はてなブックマークの反応を見ても、無断転載許せない、出典表記がないのはひどい、とか、皆無に近いじゃないか。しかも 2ch まとめサイトの管理人は顕名。なぜ見逃されているのだろう?

2ch まとめサイトの画像メインの記事は、さまざまな(個人)ニュースサイトからリンクされている。それに対して、元ネタではなく無断転載先を紹介するなんてひどい、と誰かいっているのか? なんで 2ch まとめサイトはよくて、Tumblr だとダメなのか。

平成20年1月14日

たとえば著作権延長問題で、松本零士さんを馬鹿にし、三田誠広さんを嘲笑してきた人はとくに、もう一度、考え直してほしい。

そんなにルールを厳しくしたら、俺たちもう買わないぞ。コンテンツ市場が縮小しちゃうぞ。そんな脅し、通用するわけがない。「Reblog 文化は人の悲しみに依拠しているので、潰れてよい」と考えるなら、「創作者に最大限の配慮をするためならコンテンツ産業が縮小するのも本望だ」といってもいいだろう。

営利企業さえ、売上にいい影響がなかろうとも CCCD を推進してみせた(avex は社長が交代してフツーに利益追求体質に戻ったけれども)。信念に生きるとは、こういうこと。損得で通じる話ではない。

ただ、人間、そうそう信念のために飢えて死ぬところまではいかない。米国 Amazon がどうして「わざわざ」DRMなしで音楽データを販売するのか? 答えは簡単、儲かりそうだから、だ。補償金がいいか、DRMがいいか、しばらく考えていたのだけれど、私の中では結論が出た。DRMがいい。

補償金制度だと、利益追求のためにビジネスモデルを競うことができない。DRMなら、各社の判断で、付けたり外したりできる。金儲けバンザイの人が社長を務めている限り、神の見えざる手が最適解を導くはずだ。

地デジのコピー制限も同じ。コピーフリーにしたら視聴率が1.5倍になる、パッケージが3倍売れる、というなら、民放のコンテンツは全てコピーフリーになる。狂信的な人が「抜け駆けは許さない!」とかいって競争を阻害しているなら批判に値するが、そうでもなければコピー制限したい会社は勝手にそうすればいい。

JASRAC だって同じ。JASRAC 未登録で、何でも自由に使い放題だよ、といったら何億円も投げ銭が貰える、というなら、みな率先して JASRAC にサヨナラする。逆に JASRAC に登録するのが(総合的に見て)一番トクなのであれば、まともな感覚で商売してる人は JASRAC に楽曲を登録するに決まってる。

平成20年1月8日

10数年ぶりにビデオゲーム(死語?)をやってみようかな、と。昨秋以降、やたらテレビ番組を見るようになった。その中で繰り返しCMを見るうちにDS版「ドラゴンクエストIV」をやりたくなった。

その昔、1日30分という時間制限があって、ファミコン版の初代「ドラゴンクエスト」をとうとうマトモにクリアできなかったことを思い出す。

弟が怒って泣いてわめいてドタバタの挙句にようやく買ってもらったファミリーコンピュータ(ファミコン)だけど、どうも私にアクションゲームは向いていなくて、ワープ技を使わずに「スーパーマリオブラザーズ」の3面から先へ進むことはどうしても不可能だった。

弟に無限1upで失敗箇所からのやり直し回数(当時これを「キ」と呼んでいた。なぜ「キ」なのか、私にはわからなかった。戦闘機を操って敵機を打ち落とすシューティングゲームの用語が援用されたものだろう、と今は思う)をすごく増やしてもらった状態で引き継いだが、大ジャンプも水中で敵を避けるのもダメ。

30分間、ひたすら失敗し続け、なんだかすごくゲーム嫌いになってしまった感じがする。

同じ理由で「忍者ハットリくん」もダメだった。マリオはそれでも2-4までは自力でも何とか3キ維持で進むことができたけれど、ハットリくんは最初から難しかった。上達の実感があったのは最初のうちだけ。すぐ頭打ち。やる気をなくした。こちらは弟も散々苦戦し、3年経っても30分制限のもとではクリアできなかった。

兄弟に買ってあげたゲーム機が、事実上、弟の専用機になってしまったのが可愛そうになったか、誕生日に両親が買ってくれたのが「ドラゴンクエスト」(以降「DQ1」)だった。既に第3作が発売されているのに、よりによって、という感じはする。たしかに反射神経は必要ないのだが、別の問題がいろいろあった。

あまり知らない人が多いと思うけど、DQ1では現実に似て洞窟の様子は主人公の周囲しか見えず、しかも明かり(たいまつの火)が消えると暗闇になってしまう。右には壁がある、左にはない、といったことを一歩進むごとに自分でマッピングしていかないと、あっという間に迷子になってしまうのだ。

歩行者視点で展開する3D型(と私の周囲では呼ばれていた)のRPGなら当たり前のことなんだけど、これにはひとつ難点がある。それは、洞窟を進むのに時間がかかりまくること。

DQ1のセーブポイントは出発地点の城のみ。そこでしか復活の呪文を聞けず、ゲームを中断するためには、必ず出発地点まで戻らねばならない。30分以内に世界の端まで歩いて移動し、キメラの翼でとんぼ返り。ゲーム開始後しばらくは、キメラの翼を買うお金を稼ぐのがかなりキツかった。

で、私と弟がバトンタッチでプレーすることになった。おかげでDQ1のエンディングを見ることには何とか成功したんだけど、じつはどんなお話だったのか、よくわからない。だいたい私はダンジョンマップの作成だのレベル上げだの武器を買うためのお金稼ぎだの、そんなことばかりしていたような気がする。

ファミコン版「ドラゴンクエストIII」や「同IV」は、私がまともに最初から最後まで遊ぶことができた数少ないタイトルであり、とても印象深い。もっとも、どうしても30分ではゲームを中断可能な状態に至らず、弟に後を任せた場面は多々ある。まあそれでも、面白かったなあ、という記憶はあるのだった。

ファミコン版「ファイナルファンタジーIII」(以降「FF3」)は、弟がどんなに苦心惨憺してもとうとうクリアできなかったのみならず、そもそもバトンタッチプレーの必要な状況が多すぎて、何が何だかわからなかった。隠し通路がどうとかも含めて理不尽なゲームという印象が強く、あまりいい思い出がない。

私は学校では基本的に「ゲームやらない人」というキャラを通していた。あの会話に参加しても、その道のカーストの底辺に組み込まれるだけで、ちっとも面白くないよな……今の言葉で書けば、そういう感覚だった。で、FF3を進めるには、図書館で借りたゲーム雑誌の攻略情報を読まないと、どうにもならなかった。

弟はその後、さらに母との戦いを続けてスーパーファミコンをゲットし、そしてプレイステーションへ進み、いつの間にか「ゲームは1日2時間まで」になっていた。何だかんだで年に2〜4本ずつゲーム体験を増やしていったのではないか。

私はというと、高々1週間で最初から最後まで物語を堪能できる小説を好むようになっていき、フェードアウトしていった。

ときどき弟は母との戦いで不利になるらしくて、セーブデータやメモリーカードの「枠」が余っているから、お兄ちゃんもやったらどうか、と勧めてくれたりした。「お兄ちゃんもゲームしたいといっている」ことにしたいらしいんだよね。

でもなかなかねえ……。アクション、レース、格闘は相変らず苦手で続かない。RPGも戦闘が面倒に思えてくるといけないね。ダンジョンに迷うのも飽きて、攻略本を読みつつ進めたんだけど、「FF5」「FF6」はラストまで見たが、PSのゲームは全部途中で投げている。

シミュレーションゲームというのもやってみた。「スーパーロボット大戦」とか。だけど、私はこれも苦手。私は囲碁がサッパリわからず、麻雀もルールが頭に入らない。将棋、オセロ、5目並べ、みな弱い。過去に一度でも本気で戦略を考えたことがあるような人には、手も足も出ない。だから戦略ゲームもダメ。

スパロボを投げたときのことは、よく覚えている。あるとき、何となく気分でセーブしてゲームを中断した。状況劣勢で、こりゃいかんわ、とか思ってたんだけど、深く考えず。で、再開するたび、そこからはじめるわけでしょ。何回やっても、負けてしまう。無情にもゲームオーバー。

そこまで進むのに20時間くらいかかっていた。当時は1日1時間制限だったから、1ヶ月くらい、チマチマ進めてたんじゃないか。で、妙に怒りがこみ上げてきた。わざわざこんな思いをしてまでゲームをやることはない、とハッキリ思った。

なんかこうして書いてみると、いったい何が面白くてゲームをやっていたのかわからない。わからないが、またCMごときで心が揺れるのだから、「それでも好きだった」のだろう。なんなんだろうね、これ。

追記:DS版「DQ4」をやってみて、さらにわからなくなる

面白かった。……けど、何が面白かったんだか、説明不可能。

正直なところ、戦闘の類は、なんとなーく面倒くさい。可能な限りAI任せにしてるんだけど。ザコ敵との戦闘なんか、しないで済めばそれが一番いいような気もする。ボス戦も、何も考えずに戦っても、多少の危険がありつつも結局は勝てる、くらいがいい。負けると相当、イラッとくる。

でも面倒くさいところをみな落としてしまったとすると、簡単なお話をひたすら長い時間をかけて読んでいくだけ、になってしまうわけであり、テレビドラマも1.1〜1.7倍速で再生しているせっかちが、どうしてゲームに満足しているのか、ちっともわからないということになる。

じつは「DQ4」が面白かったので、立て続けに「FF1」「FF2」「FF4」「青の天外」「TOT」もやってみた(やり過ぎ)。ちなみに「DQ4」以外は全て未経験の作品。ただし前述の通り昔は図書館でゲーム雑誌を読んでいたので、FFシリーズは耳年増というか目年増みたいな状態。だから最初の感想は「懐かしい!」でした。

それにしても、定時帰宅の会社員って小学生より暇なのかも。「DQ4」と「FF2」は2周してるし、「FF4」や「TOT」もやたら長大なオマケの迷宮を全部歩いてる。1ヵ月半でこのペースは、いくらなんでも。(2008-02-19)

平成20年1月8日

CMを見てたら、10数年ぶりに「ゲームをやってみたいな」と。それで DS lite を買ってきました。携帯するつもりはないんだけど、仮にゲーム熱が冷めても置き場に困らないように。

ゲームソフトって今でも6000円くらいするんでしたっけ。あれって高いなあと思っていたけど、映画が2時間で1800円と考えると、安い。新刊の単行本よりもずっと安い。「ひぐらしのなく頃に」もオリジナルのゲーム版は3巻合計で3000円くらい。講談社から出てる書籍版は全部で1万円を余裕で超える勢い。

ただ、ひぐらしはプレー動画を見る限りでは、私なら書籍版を選びたいな、という印象。ゲーム版の「かったるさ」が、気になって、気になって。文章に音楽や視覚効果も加わって何の不満が? あるんだよね、それが。そのあたりの感覚の違いが、私がゲームから離れていった理由ということになるのだと思う。

とはいうものの、それでも数年間にわたって、ぶつくさいいつつもゲームをやめなかった、ともいえる。面白くなかったわけはない。

んで、やってみた感想。うん、楽しい。DS lite の画面、ひどく小さい感じがしたけれど、やり始めれば気にならない。テレビで映画を見ていても、知らず知らず引き込まれて自分がその世界に入り込んだような気分になるのと同じ感覚。

母は、映画館で映画を見ていてさえ、そういう感覚がないらしい。なるほどね、それでは、ゲームのような記号的世界、お約束でいっぱいの世界には、気分がまず乗らないよなあ。

ま、2008年の始まりは、そんな感じです。

平成20年1月7日

メールフォームを廃止。メールと電話のルールを簡素化。はてなブックマークへの誘導を付記。

著作権などに関する記述を改訂。管理人紹介を少しだけ充実。

トラックバックの受付はこの機会に終了したかったが、「トラックバックを受け付けていないわけじゃないですよ」というイイワケとしての有用さは揺るぎない。悩んだが、もうしばらく残すことにした。だってうるさいんだもの、卑怯だとか何とか。言葉の定義の問題なので、説得も難しいし。批判を無視するのだって、精神的コストがかかるわけで。

平成20年1月7日

昨年は異動もあったんだけど、いちばんの変化はサービス残業禁止令だったと思う。

もしそれが許されるならマイペースでダラダラ仕事をするのが好きな私は、もたもたと職場に残っていることが多かった。ひどい時期には、毎日のように3時間とか4時間とか。社員寮では食事が出て、自分の部屋以外は掃除の必要もないし、みたいな環境だから可能だったことではあるのだけれど。

そんな状況が一変したのが、昨年のサービス残業禁止令だった。

無許可残業する者には上司が退社を命ずる規則。翌日以降、なぜ時間内に仕事が終らないのか、上司と面談することになる。スキル不足なら訓練を行う。仕事量が多過ぎるなら、調整する。能力と仕事にミスマッチがあるなら、異動させる。ここまでやっても残業をゼロにできない場合、人を増やすことを検討する。

さらに月2回、どんなに忙しくても残業禁止の「ノー残業デー」が設定された。定刻に帰社する感覚、1日の行動を、帰社時間から逆算して組み立てる体験を繰り返す意図があるという。

一部の職場では、なかなか増員が行われず、残業が常態化してはいる(労使契約で上限は厳しく制限されている)けれども、私の視界に入る範囲内では、サービス残業は相当に減った。

補記

サービス残業禁止の理由は、第一に社員の健康維持、人命・人権の尊重ということだった。だからサービス残業に限らず、残業自体をイレギュラー扱いとする方向なのだという。

次に会社の業績改善。サービス残業は非効率を放置し、通常の残業を見過ごす原因となる。残業を原則禁止とすることで、効率的な働き方の工夫を全員が共有する動機付けとなる他、無駄な残業代も出さずに済むようになる。

そして法令順守。長年コンプライアンス活動に取り組んできたが、サービス残業の蔓延こそ最大の法令違反。これを解消せずに、堂々と胸を張って営業することはできない。

平成20年1月7日

健康

既住症はまあ、例年通り。これをゼロ判定とすれば、健康に過ごせた1年だったかな。

有給休暇

有給休暇は7月16日に付与されるので、7月〜7月の数字と理解していただきたいのだけれど、消化した有給休暇は2002年に入社して以降、11日、11.5日、16日、12.5日、19.5日、16日となっています。その過半が、体調不良による、急な休み。小学生当時と同程度か。多分、高校生の頃がいちばん、健康だった気がする。

だいたい腹痛が多い。小中学校では、保健室で1時間くらい寝てると治ったのですが、会社の保健室で寝てると給料引かれちゃうでしょ。有給休暇にした方がいいんだよね……。すると半日が最低単位なので、合計で結構な日数になってくる。ちなみに2007-2008は私用で取った休暇が多く、過去最高を更新するかも。

有給休暇は3年で失効するのだけれども、失効するまでは古い分から使っていくことになるので、私はいまのところ、全部消化していることになってます。もらえる日数は入社後、次第に増えて、いまは上限の年間21日。これを使い切れずに一部無駄になるのは、現在のペースだと2013年付与分以降。

読書+視聴

勤務先でサービス残業禁止令が出て、ダラダラ仕事をすることができなくなったので、帰宅が早まりました。あと、用があって買ったTVキャプチャの有効利用を考え、テレビ番組を録画して見るように。その結果、やたらめったら映像と音楽の鑑賞量が増大しました。

DVD751枚(テレビ番組のDVD換算分を含む)、CD536枚を鑑賞、そのうえ302冊の本を読んだ、と。よくわからないけど、何か喪失感みたいなものを埋めてる気がします。実家を出るまで、本はよく読んでいたけど、テレビ番組をほとんど見ず、音楽も聴かず、でしたから。何もかも新鮮、というか。

読書については、カタイ本を読む意欲が(ますます)減退。1時間で1冊読み終わらないと、すごく億劫に感じるのです。10月までは2006年の数字は超えられないと諦めていましたが、11月に軽い本を中心にガンガン読めて状況が一変。12月には約1年ぶりにコミックを読み、これが面白くて月間60冊突破。年間300冊を達成。

個人的に目標としているのは、「自分の身長と同じ厚さの本を読む」こと。文庫中心だときついのだけれど、単行本メインなら割と簡単。1冊平均1cmとして、私の場合は165冊読めばいい。文庫でも300頁あれば1cm以上になるから、薄い本メインでない人なら、1冊平均1cmでいいと思います。

年間100冊」では目標として物足りない人にお勧め。

私は読み終わった本をすぐに手放してしまうから無理だけど、本を売らない&捨てない+図書館利用しない派の人は、読み終わった本をタワーのように積み上げて写真を1枚撮ると面白いのではないでしょうか。

余談

ところで、ボーナスを全然使わないのは日本経済に悪影響かと思い、夏にハウスクリーニングサービスを利用してみたら、かなり好印象。ちなみに私が利用したのはおそうじ専科です。2人で1日がかりで掃除してくれて、家中ピカピカ。

それでも私くらいの年収の人にとっては安くないのかもしれませんが、とりあえず年収の高い人が、ぶつくさいいながら年末の大掃除をするとか、もうやめた方がよさそう。いや、本人が趣味でやってるのはいいけど、ご家族は嫌々で付き合ってるだけじゃありませんかね?

平成20年1月7日

原稿量(HTMLファイル)

メモ

昨年の特徴は、記事を書いても、すぐには公開しなくなったこと。以前から時々そういうことはありましたが、昨年後半はそれがデフォルトになった感があります。

もともと記事を公開することに大した意味はない。読者がいなければ日記を書けないから、公開してきただけのことで、非公開でも日記を書けるなら、その方がリスクが少なくていい。あと、数年前からいっているように、自分で自分の日記に飽きてきた感がある。もう、書かなくていいか、と。

2008年は月1回程度のペースで記事を公開していくことになりそう。記事の日付は(基本的に)実際に記事を書いた日とするので、過去ログを眺める分には、ちょくちょく記事を書いていたように見えるでしょうが。

主要記事一覧。例年、正月になると、こういうのを作成してる。将来的なことを考えると、もう少し絞り込んだ方がいいような気もしますが、今のところは記事タイトルを見ただけで内容が概ねわかるので、自分としては当面これでいい。

アクセス推移

アクセス推移

これは deztec.jp 全体のアクセス状況です。夏場の閲覧者増は夏休みの宿題の集客力を反映したもの。8月の訪問者数は自己新。1回見てサヨナラのパターンだから、ページビューは伸びていませんが……。

更新頻度ガタ落ちの備忘録は、どんどん訪問者が減っています。更新してから数日間だけアクセスが集中、その他は検索エンジン経由がメイン。だからまとめて更新するより、毎日少しずつの方がアクセス稼ぎにはいい。

以前は記事を更新したからといって読者が急増することはなく、逆に更新しなかったからといってページビューが急落することもありませんでした。RSSリーダーやアンテナなど、更新チェック文化が順当に広まりつつあるのかもしれませんね。あるいは、更新頻度が低すぎて、「とりあえず巡回」の経路から外れたか。