週刊東洋経済の2007年決定版「経済・経営書ベスト100」のメモ。
こういう記事はアリなのかナシなのか。書店や図書館で探しやすいように書影を使いたい、と。すると著作権処理のできてるアフィリエイトの仕組みを使うことになる。で、他人のふんどしで金儲けしやがって云々の人を呼び寄せることに。まあいいや、で記事を公開しましたが、さて……。
追記:Amazonの画像URLが変更されて書影が軒並みリンク切れに。こういうことがあるからAmazonも信用ならない。メンテナンスが面倒くさいので、以後リンクのみとします。(2008-12-21)
権利者の許可なきコンテンツダウンロードの違法化は、自由競争の基盤だと思う。権利者が禁止してもアップロードを制限しきれず、ダウンロードは全く自由……これでは様々なビジネススタイルを選択する余地がない。否応なく、勝手な二次利用、三次利用をされることを前提とするしかなくなる。
法的にも物理的にも、ルール構築の自由と、その自由を担保する基盤を権利者に与えるべきだ。その上で自由競争によって様々なビジネスモデルが見出されていくのが正しい、と私は考えている。
商品が売れなきゃくたばる、プロはそういうリスクを背負ってる。リスクを取った人間が、規制をしたいという。やらせてみればいいじゃないか。最終的には消費者が生殺与奪の権利を持っているんだよ。規制したい人は規制する、自由にしたい人は自由にする、そうでなきゃビジネスモデルは画一的になってしまう。
パッケージやオンデマンド配信が売れる映画やドラマはコピー制限すると利益が最大化されるかもしれない。天気予報は携帯機器にコピーを持ち出せると人気を博すのかもしれない。コンテンツの供給者が、そうした選択肢を持てることが重要なんだ。完全なDRMの浸透した未来が早く来ないか。
……こんなことを、ときどき考えてる。
違法アップロードの取り締まり強化で十分ではないか、という意見、よくわかります。でも、「違法じゃないから」といって悪神を召喚し煽ってバカやらせてる卑怯な連中が多過ぎる状況がありますからね。実際に罰を与えることはできなくとも、「それ違法だよ」といえる環境整備はあっていいと思う。
ていうか、消費者がルール無視上等みたいな行動パターンをとる世界で、ビジネスモデルの競争も何もあったもんじゃない。自由市場は万能じゃない、っていわれるけど、そりゃたしかに打ち出の小槌ではない。でも双方が自動で歩み寄って折り合いをつける仕組みとして、これ以上のアイデアがありますか?
消費者が一方的に「**は無料!」と価格設定してしまう。それでは市場の縮小は避け得ない。需要と供給の綱引きで価格を決定していくメカニズムを否定する戦略から、明るい未来は描けない。
BSデジタル放送で東京キー局の地上波番組がサイマル放送されたら、長年、地方人の恨み節となっていた「なんであの番組が見られないのか」が解消されるのでは……と私は期待していた。
しかし現実はどうだ。BS JAPAN(日本テレビ系)は頑張っているけど、他はなかなか。暇つぶしみたいな番組が並んでいる状況が動かない。何故なんだろう。
よくわからないのだけれど、最大の理由は権利処理だという。民放はBSデジタルと地上波を別法人にしなきゃいけない、というルールがあるのだそうだ。だからサイマル放送のためには、BSデジタルの放送会社が地上波の番組を買わなきゃいけない。で、視聴者が少ないから収入も少なく、難しい、と。
読んでてイライラ。覆水盆に返らず、というところがあるので慎重になるのはわかるけど、本当に地方放送局って必要なのか、全国ネット局の地方支局じゃイカンのか、といったあたり、思い切って消費者の判断にゆだねるような改革はありえないものか。
ていうか、消費者の判断に任せたら地方放送局は潰れる、というのが議論の前提になっているようなところがあって、「それが国民の判断なら、別にそれでいいんじゃないのか」と私などは思うのだが……。
Radiohead の挑戦も面白いけど、もうちょっと多くの人にとって現実的な革新の種のひとつが、チケットの公式なオークション形式販売だと思う。
人気歌手のコンサートや人気漫才師のライブなどのチケットは、いつも短時間で完売となる。これが人気のバロメーターのようにいわれることが多いのだけれども、中学校の公民の時間に習った需要・供給・価格の関係を素直に考えれば、ヘンな話ではないか。
完売するということは、すなわち供給不足。もっとチケットを増やしたら、売上が増えるはず。体力の問題や、あえて会場を小さくしてお客さんを絞り込みたい、といった都合があるなら、価格を高くするのが常道。いろいろ考えるところあっての戦略なのはわかるけど、結局、転売市場で価格吊り上げが発生している。
やはり人気チケットは、最初からヤフオクとかで販売すべきだと思う。サッカーのW杯とか、チケットの転売を規制するとかいって、現実にはノーチェック。転売した者勝ちだった。大方の予想通り。常識の殻を破って、経済学の初歩に忠実な商売の仕方はできないものか。
注:福岡ソフトバンクホークスのチケットの公式オークション販売などの様子から、もともと売り切れにならないようなチケットは、オークション方式では売りにくいことがわかる。定価で買えるなら、コンビニとかを利用するのが便利に決まってる。
といっても、ディズニーランドの入場予約権つきチケットはあまり普及していないようで、せっかく浦安まで行ったのに入場制限、なんて人が絶えない。チケット販売には、いろいろ進化の余地があるように思うが、ちょっと複雑な仕組みになると、消費者の大多数がついてこれなくなってしまうのかもしれない。
例えば、オークション方式でチケットを販売すると、「払い戻し」システムとの整合性が問題になる。規定額でしか払い戻されないシステムを受け入れてヤフオクとか金券ショップでチケットを買っている人がたくさんいるとはいっても、公式にオークション方式で売れる状況にはない、のかもしれない。
ていうか、オークションという仕組み自体、ふつうの人には結構つらいか……。ヤフオクの公式PRだから、簡単とか楽しいとかお得だとか書かれているけれど、体験記を素直に読めば、たかが買い物にどえらいエネルギーを要することがよくわかる。
一理あると思いますが、やってみてダメなら、それはそれでいいんですよ。ただ、今はまだホークスくらいしか、大規模な実践例がない。もうちょっと事例がほしいです。まずは「S席はオークション方式で販売」というあたりからテストしていくといいのではないか、と思います。
リンク先の4つの提言は、自分が気をつけるだけでなく、いろいろな人を相手にしたとき、逆に使うこともできそうですね。
うーん、逆に使うばかりだと、支配と服従の関係ではなく対等の関係を築くという当初の目的には反してしまう場面もありそう。アイデア倒れだったかな。
あと、私が以前に書いたことに、ちょっと通じるところがあるかも。
荻上チキさんの実名につながる情報をブログに記載した小谷野敦さんがはてブ方面を中心に批判を集める、という話題がありまして、小倉秀夫さんがいつも通りのコメントをした、と。
海風さんは小倉さんの主張について、誰もそんなことはいってないというのだけれど、私は「それはどうかな」と思う。そりゃ「いってない」のかもしれないけど、これって絶対、2chのブログ論壇スレで書かれてたら何の騒ぎにもなっていないはずだから。
finalventさんがヒントじゃなくてまんま実名(とされるもの)を書かれたとき、一体誰がブログで2ちゃんねらを批判しましたっけ? 無論、少しは批判の声も上がったのだろうけど、少なくとも今回のような騒ぎにはなってない。あんなのただの嫌がらせでしょ。擁護すべき理由なんかひとつもないはず。
そりゃ何でもかんでも批判して回ることはできない。でもさ、だからといって、という話。ヒントを出したくらいで、こうも口を極めて罵るような、ヒステリックな反応をする人がたくさん出てくるのは、やっぱり小谷野さんが著名人だから。
で、これは以前から小倉さんが皮肉ってることだけど、こういうことがいちいち、「誰がいったかではなく、何をいったか、が大切なんだ」という主張が、現実には全く無力であることを示しているわけですよ。
mixi で犯罪告白、みたいな話題もそう。2chでは折に触れてルール違反告白スレが立ってるけど、サッパリ話題にならないでしょ。少なくとも「2ch運営は社会正義に反する発言者の情報を開示すべきだ」みたいな祭りにはならない。おかしいじゃないですか。
誰がいってるか、明らかだったり、調べればわかる、わかった、みたいなケースでばっかり、批判が沸き起こるわけですよ。この非対称性はなんなのか。
小谷野さんを批判している人は、2chとかの実名晒しだってよしとしていないのかもしれない。テラ豚丼で電凸した人は、匿名の犯罪告白にだって怒っているのかもしれない。でも、小谷野さんだけを公に批判し、犯人を追い詰められそうなテラ豚丼でだけ電凸する、そういう人が多いわけでしょ。
実際の行動には明らかに温度差があって、そのことが否応なく意味を持ってくる。反フェミ運動のおかしさを批判し続ける荻上さんが、フェミニズムへの支持表明をしていなくたって、フェミニストと目されるように。
私はそれを非論理的だなんて思わない。直接的な言質が取れなくたって、状況から推し量るのはアリ、という前提を受け入れるかどうか、そういう話だと思う。
そもそもこの件は晒した人間が実名か匿名かに関わらず、オフラインで入手した個人情報を「気に入らないから」という理由で晒す行為の是非の問題、いわゆる「ネットいじめ」が許されるか、という点にあります。
だから説得力がないんですよ、そこを強調されても。小谷野叩きと同じくらいの熱意を持って、匿名の人々による「ネットいじめ」を一体どれだけ批判してきたのか。これは海風さん一人が公平でも仕方ないのであって、小倉さんがいうのは、全体の傾向としてどうなんだ、ということだと思う。
私は、小倉さんの感覚の方が実情に近いと認識しています。
私の本名は、調べようと思えば調べられます。オンラインで調査可能。だけど、検索エンジンに引っかかるような状況にはない。そういう風にしてるわけ。これを、どうせ簡単なオンライン調査でわかるんだから、検索エンジンで徳保隆夫=***と一発でわかるようにしたって同じだろう、とかいわれたくはない。
ていうか、同じじゃないから嫌がらせとして通用する。攻撃者はその効果をよく知っているからこそ、わざわざ検索エンジンに引っかかるように書く。はてなダイアリーキーワードの「***」を削除してほしい理由も同じ。編集履歴ページのコメント欄……。はてなって、こういうの削除してくれないんだよね……。
オンラインで誰でも簡単に調べられることだからプライバシーじゃない、と。ようするに、犯罪にならない嫌がらせの範疇なら言論の自由を優先する、という立場。泣きたいが、そういうサービスも、世の中に一つか二つは必要なんだろうと思う。
キーワードが削除されればコメント欄も消える。それが頼みの綱。幸い、攻撃者がキーワード削除を申請してくれた。そしたらなぜか、加野瀬さんがキーワードを存続させちゃった。ううっ。自分で消すとまた攻撃者に目を付けられそうで、2年間、じーっと待ってきた。この先もずーっと、このままなのだろうか。
年賀状、切手を貼ってから気付く「平成十九年」。毎年、何かミスしてるけど、今回は全部だからひどい。はがきも切手ももったいないので、二本線で修正。年初の挨拶から修正付きかよ、って感じだけど、一箇所くらい手書きの部分があってもいいかも。こういうことに目くじら立てるような人には、年賀状出さないし。
そういえば、お歳暮とか贈ったこともいただいたこともないなあ。遠からず廃れる習慣か。年賀状も、私が死ぬまでには廃れそうだな……なんて思いつつ投函。あーあ、もう一日早く出せばきちんと届いたろうに。
昨日は今年最後の給料日。総支給額が初めて400万円を超えた。(名目はともかく実質の)給料はもう上がらなくていいので、ずーっと働き続けられるといいな。あと、忙しくなるのは嫌。定時帰社当たり前、みんなほどほどに頑張る、という職場の雰囲気が続くといい。
入社6年目にして父の年収を超えた。寂しい感じ。最大値は少し遠いけれども、それも遠い数字ではない(ただし20数年前の話なので実質の給料という意味では、まだまだか)。来年9月には父の延長雇用も終了。弟は入社初年から父の年収を超えるだろう。頭のデキが違うのだから当然と、弟はいつものように嘯くか。
自分が苦労知らずの人生を歩むことができるのは、まったく両親のおかげと思う。つらいこと、悲しいことのなるべく少ない人生を送ってほしい、というのが両親の願いだったわけであり、両親が寿命を全うするまで大過なく生き続けることが親孝行になるのではないか。
……とかいうと、「自分の人生」を生きないことこそ親に申し訳ないとは思わないのか、みたいな反応があったりするんだけど、そんな高望みをされたって困る。両親が死ぬまで生き続けるだけだって、そう簡単じゃない。私なんか、ちょっと気を抜くと酒が入っていなくたって階段で足を踏み外すのだから。
父はあと40年くらい生きるつもりだそうで、先は長い。
夏の終わりにちょっと書いた件ですが、秋の半ばに異動しました。仕事と一緒に移ったので、当面、前の部署にいたときとほとんどやることが同じなんだけど、少しずつ「誰でもできる」系の作業が増えつつあります。
「フランダースの犬」といわれてアニメしか頭に浮かばない人が多いのは、はてブユーザーが若いから? ちょっと古い漫画だと、フランダースの犬は本(童話)として登場してるわけで。F先生の「ドラえもん」でも、絵本の「フランダースの犬」を読んでるシーンしか出てこないでしょ。
日本人は、書籍版の「フランダースの犬」を戦前からずーっと愛読してきたんですよ。私の祖父母も両親も読んでる。多くの人が一度は読んだことのある童話だったのではないかな。むしろアニメ化後、あまり読まれなくなってしまった。なのでアニメ版を前提にあれこれいってる人は、的外れだと思う。
ちなみに菊池寛の訳が青空文庫にありますが、私が読んだのは、こんなにカタイのではないです。
私は「フランダースの犬」を「タイトル+アニメ版のラストシーン」しか知らない世代なんで、「ホントに読んだことがある」というのが自慢になったことが何度かあります……。ま、最近の若い人は、リンク先記事にある欧米人のセンスに共感するところ大なんじゃなかろうか。読まれないのも当然、というか。
やなせたかしさんの「やさしいライオン」は傑作悲劇なんだけど、2003年にようやくDVDとして再販された映画版、なんとラストが曖昧オチに変更されてる。原作の絵本(1982年)は昔のままなので、ぜひ比較していただきたいのだけれども、20数年で若い世代の価値観が変わった、ということなんだろうね。
時代の変化といえば、1978年の「チリンの鈴」と21世紀の「あらしのよるに」の対比もすごい。私は断然、チリン派なんだけど、いまどきの人には受け入れられないのかもしれないな。
「M-1グランプリ」という結成10年以内の漫才師グループの日本一決定戦があって、毎年クリスマスの頃にテレビ朝日系で決勝戦が生放送されています。私はずーっと見たことがなかったんだけど、俺パパのアニさんが毎年リアルタイムで感想をアップされていて、少し興味は持っていました。
今年の夏、実家のビデオテープを処分する際、どうしても捨てられないもの(ホームビデオの類)を捨てるため、TVキャプチャを買いました。秋にこれを持ち帰って以降、時間に縛られなければテレビは面白いな、と思うようになって、いろいろ見ています。
そんなわけで、12月22日に2006年の決勝を再編集した番組、23日に2007年の決勝が放送されたので、これを録画して視聴しました。
感想:とっても面白かった。でも、疲れた。
4分の時間制限があるのだそうで、とにかく早口なんだよね。私はどうも集中して画面を見ていられないし、話を聞けない。気を張っていないと、どんどん言葉を聞き逃してしまう。だからキングコングさんとか、とてもついていけなかった。チュートリアルさんも聞こえた範囲内ではすごく面白かったけど、つらかった。
2006年の決勝には変ホ長調という素人コンビさんが進出していました。2年分を見て、いちばん「いいな」と思った。ふつうの人のおしゃべりのスピードで話してくれたのは、この人たちだけだったと思う。
お笑いマニア(?)みたいな人にはあまり評判のよくない「エンタの神様」だけど、私は大好き。だいたひかるさんも世界の梅沢さんも、ちゃんとわたしがついていけるペースで話してくれるのがいい。あと、30秒とか1分という細切れでも面白げな芸を揃えているでしょう。ながら視聴で楽しめるのがいいと思う。
ところで、2007年の優勝者、サンドウィッチマンさんは半ば無名みたいな扱いだったけど、私は「笑点」で拝見したことがあります。だからてっきり「最近はあまりテレビに出ないけど、あ笑いファンならみんな知ってる大ベテラン」なのかと思っていました。ブロゴスフィアの反応を眺めて、あれれ、という感じ。
今、いくつかお笑い番組を見ていますが、私は「笑点」の演芸コーナーがいちばん好きです。23日の「笑点」に出演された堺すすむさん、ゆったりしてて面白くて、よかったなあ。
それにしても、「笑点」って視聴率はすごくいいのに、ブロガーの感想は少ないね。30代以下の人があまり見てないのかな。残念。老年ブロガー、もっと増えてほしいなあ。
テレビのお笑い番組を「つまらない」という人って、ふだん全然笑わない人なのかな。テレビ局は、私たちの日常会話よりは、少なくとも平均的にはずっと面白い内容をたくさん放送していると思う。テレビドラマでも映画でも、しょーもないことで登場人物が笑顔になる。あれをふつうと感じるのは私だけじゃないと思う。
「堺すすむ」で検索してみつけたブログ。私の「面白い」の感覚と近いかな。どうなんでしょ、みなさん、これくらいのことじゃあ笑えないですか?
お笑いに厳しい人を見てて思うのは、舌の肥えた人に思うことと一緒かな。そういう人にしかわからない至福の境地というのがあるのだろう、とは思うけど、何だかかわいそう。そこらのファミレスとか牛丼屋さんで食事しても「おいしいなあ」と喜べる方が、人生楽しいんじゃないか。
人を大切にすることができない
って、具体的にどういうこと? どうせ何を書いたって検証不能の一方的な言い捨てにしかならない(から書かない)、のかもしれないけど、肝心な部分が伏せられているのが残念。情報不足で、私には何とも判断できなかった……。
あと、私は必ずしも対案なしに批判をしてはいけないとは考えていないけれども、加藤さんには何か対案というか、もっとこうしてほしいというものがあったように読めます。だったらせめて、そのあたりのことは書いてほしかった。
「誰のための会社なのか」「誰がいるから会社は成り立つのか」
そこをきちんと理解しなければならないはずです。
こういうのが、ホントわからない。たぶん加藤さんはきちんと理解
されてるわけでしょ。それを書いてほしいのね。で、きちんと理解
してると、具体的にどんな場面でどんな言動ができるようになるのか、教えてほしい。
はてブの方には、加藤さんの書き方でビビビッとわかっちゃう人がたくさんいるみたい。まー、そりゃそっか。飲み会で盛り上がる(?)愚痴や陰口の言い合いって、こんな感じだけど、ついていけずにポツンとなっちゃうのは私一人。そこに愛があるとかないとか、わっかりませーん、なのです……。
でも後で「ねねね、さっきの、愛があるって、具体的にはどういうこと?」とか訊ねてみると、「知らないよ、そんなの」とか返されて唖然。わかんないものをわかるふりしてまで、人の悪口で盛り上がりたいの? ……とかいいつつ、私も無意識にやってたりするんで、偉そーなことはいえません。
アンケートの回答者層を見ると、中間管理職が多いみたい。コメント欄とかもすごいことになってるんだけど、とにかくもう他人を攻撃する言葉ばっかり並んでる。自分の無力さにゲンナリ、部下に申し訳ない、みたいな発言がない。不思議。
この記事を書いた意図はいろいろあるんだけど、中でも大きいのは、いじめの「加害者体験」を書く人が、もっともっと増えてほしいということ。他人事のように「いじめよくない」「許せない」という人であふれてるでしょ。被害者の体験談もたくさんある。明らかに足りないのが、加害者の言葉。
絶対、加害者の方が多いんですよ。私も一応、両方の体験があるけど、冷たい傍観者の立場、ようするに加害者に与する立場であることが多かった。そのことを当時も今もずーっと悲しく思っていて、そのキリキリくる感じだけが、自分の歯止めなんだと思う。そのあたり、何とか伝わったらいいな、と思って書いた。
記憶の中の「小学生の自分」が、「ばあか、そんなの、キレイゴトだろ」って嗤うような、そんな言葉に力があるのだろうか。「ひどい」とかいってエラソーに断罪するんじゃなくて、加害者の立場を自覚しながら、いじめはよくないって、自分の心に響く言葉で、みんな、もっと書いていこうよ。
サイトの表紙以外にリンクをされたくない方に朗報です。洛西一周さんの KamiWiki をご紹介します。
KamiWiki は Wiki と呼ばれるオンライン型の簡単なウェブサイト製作支援ツールの一種です。基本的な使い方は、下記リンク先の記事をご覧ください。
KamiWiki は Ajax という技術を利用しており、KamiWiki 内でページを移動してもアドレスが変化しないのが特徴です。
個別のページへリンクしたい場合は、記事の上へカーソルを持っていくと各記事のタイトルの隣に出現する「アドレス表示」というリンクをクリックしてください。アドレスが変化しますので、これをコピーしましょう。
表紙以外にリンクされたくない方は、「アドレス表示」というリンクが出現しないように KamiWiki を改造しましょう。
あとは通常の KamiWiki 設置手順の通り、サーバーへアップロードすればOKです。
個別のページのアドレスを隠すことで、ソーシャルブックマークされる可能性も大幅に低減することが可能です。どうぞご利用ください。
「ディープリンクされたくない」という需要があるのにどうして、それをウリにしたサービスが登場しないのだろう? 動的生成のブログサービスなら、ちょっと工夫したら、ディープリンク禁止モードとか、SBM禁止モードとか、実装できるんじゃないの? FC2ブログあたり、やってみてほしいなあ。
こんな記事を読ませたって、「難しくてわかんない」で却下されちゃう。「FC2ブログ行け」で説明が足りるようになったらいいのに。
いつものことながら、どうでもいいところにピコーンとなりました。
私がSBM上に異論をあまり書かない理由は以下の通りだ。
- 字数制限その他の制約により、SBM上では自分の意図を完全に説明しにくい(相手に異論を述べる場合には、特に十分な説明が必要だと私は考える)
- 機能上の特性から、SBM上では双方向の議論がしにくい
- 議論とは、相手の反論権が担保された状態でやるものだと私は考えている(でなきゃおもしろくない)
- 上記1〜3の理由により、SBM上では私の考えるスタイルの議論が成立しない
私なら、こうまとめる。
私がSBM上に異論をあまり書かない理由は以下の通りだ。
松岡さんのいう「理由」は、私などからみると「松岡的世界観を受け入れた上での話」であって、もう少し手前から話をはじめてほしい、と思う。
注:私は松岡さんの主張を理解したつもりですが、共感はしません。私は議論の意思なく異論を表明したいし、ネタ振りに十分な説明は不要だと思うし、SBMのコメントと同ページ上で反論する必要はないし、SBMのコメント=反論しにくいとも認識していないからです。
批判する場は他にいくらでもある。朝日新聞の批判を朝日の紙面でやりたい人は大勢いるだろうが、それが認められなくても言論弾圧ではない。「正しい」主張は、無条件で最高の発表場所が与えられるべきだと考えるのはナイーブだろう。
SBMのコメントに反論したい人には、メタブクマ、ブログ、雑誌に寄稿、チラシ配布、街頭演説、抗議デモ、他にも様々な方法が用意されています。反論権は十分に担保されていると思う。
SBMのコメントには同ページ内で反論したいと思うのは、同じギャラリーの前で反論したいから? でもSBMのコメント一覧ページに並んでいるのは、過去のブクマ記録。今その場にいるギャラリーの顔じゃない。
それに、SBMのコメントに同ページ上で反論したって、大して読まれない。ブロガーなら、記事本文に追記するべき。字数制限もないし、より大勢に言葉を伝えられる方法だからです。これは零細ブログでも同じ。コメント欄が炎上しても、コメントより本文の方が読まれるのと同じ。このあたり、錯覚してる人が多いと思う。
ブロガーの特権に気付く人が、もっと増えるといい。新聞記事やテレビ報道、あるいはメディアの向こう側の事象、身の回りのこと、ブロガーたちは何でもブログに書いてる。批判対象が決して読まないことを知っていてさえ書いてるよね。それでいいんだ。SBMのネガコメだって、ブログで反論すればいい。
私の行動原理は「それがエキサイティングかどうか」である。モラルや平等がうんぬんの話ではない。一方的な放言は、議論にならないからエキサイティングじゃない。だから私はやらない。ただそれだけの話である。
「反論するな」とまでいう人は珍しい、と私は認識しています。仮にそうでないとしても、松岡さんがSBMでネガコメするかどうかは、松岡さん自身の問題でしょう。ネガコメにブログで反論されることを「大歓迎!」といえるなら、松岡さんがネガコメを自粛する必要は全然ない。
100字以内のコメントでは十分な説明ができない……議論の起点としてはそうだろうけど、ネタ振りには十分だと思う。長文で異論を書いても大抵はスルーされちゃう。だったらSBMのコメントで各地に議論の種を撒き、芽が出てから記事を書く方が効率がいい。SBMは議論のきっかけ作りに向いているかもしれない。
松岡さんはどうして、そういう方向に頭を働かせないのだろう。何というか、「ネガコメしない」という記事から「ネガコメされたくない」というメッセージが透けて見えるんですよね……。誤読かなあ。
SBMのコメントへの反論には気付きにくい、といった話なら、私も共感できるのですが。
実験レポートの返却で授業を1回つぶしてしまった中学校の先生。
それに対して、こちらの大学の先生は、とりあえず「事実と意見をわけさせる」「意見は、事実を元にしたものを書かせる」「引用を意識させる」「友だちが理解できるように書く」の4項目を教えればいい、そんなに難しいことでもないかも、とのこと。
こういうことは割り切りが必要で、あれもこれも指導しようとすると、破綻します。1つずつ教えていくのが定石。説明抜きの指導を心がけると、うまくいきやすいです。
「事実」と「意見」は、きちんと区別して書きましょう。練習問題を配ります。(1)から(10)まで、それぞれAとB、ふたつの文章が並んでいます。事実と意見を正しく区別して書いている文章を選び、解答欄にAまたはBの記号を書きなさい。制限時間は5分です。はい、はじめ。
以下、生徒を指名、AとBを朗読させ、正解を訊ねる。説明無用。生徒が間違った場合には、「Aの***という文章は、意見を事実のように書いています。よってAは間違い。正解はBです」とだけ話す。答え合わせは10分程度で済むはず。仕上げは小テスト。次回の授業で採点して返却。
このように4回の授業で20分ずつ時間を取って事前指導を行い、例題と小テストの合計20問×4回で都合80の例文集をファイルさせ、レポートを書く際によく参照するように、と指示する。
レポートチェックでは、4つの採点基準を4色ボールペンの各色に対応させ、問題箇所に下線を引き丸数字を付して返却。再提出を要求する。全文書き直しは酷なので、下線の引かれた文章のみ書き直し、元レポートに添付して再提出させる。参照用に書き直し版に丸数字を付すことを求める。
実験のレポートを読んでいると、おまえ実験の目的を全然わかってないだろう、とかそういったことの方が気になるものです。しかしレポートの書き方を指導したいときには、他のあれこれは考えないことが大切です。だから、書き方指導メインの実験では、できる限り簡単なテーマを選択してください。
数年前、ふと気になって、夏休みの宿題について WWW にどのような情報があるのか、調べてみました。出てくるのはたいてい、宿題に取り組む人のための情報でした。
たまに親視点の情報もありましたが、基本的に「宿題に取り組むのは子どもであって私じゃない」というスタンス。子どもが宿題をサボるのは自分が至らないからだ、と考える親はほとんどいないらしい。なるほど、「勉強しなさい」と他人事のようにいうばっかりなわけです。
私が「夏休みの宿題」という小文集を書いたのは、こうした状況への抗議でもありました。宿題は家族で取り組むもの、子どもだけに「やらせる」ものじゃない。だから、保護者は子ども以上に、宿題にきちんと取り組まねばならない。そんな主張が、検索上位にひとつくらい顔を出してもいいはず……。
今日、「夏休みの宿題」と検索してみると、宿題の指導がたいへんというお母さんの質問が上位に出ていました。私の解説など貧弱なものです。もっとこうした保護者の需要を満たす情報があるといい。もうひとつ、教師はいかにして夏休みの宿題を出題・指導・評価すべきか、を説くサイトもほしい。
それにしても、日本人が1億人以上もいて、私が書いたような情報を提供するサイトを作る人が他に一人もいないのだから、なるほど「個性」というのはバカになりません。
レポートのコピペ問題が話題になって以降、100を超える文章に目を通しましたが、不思議と「教師のためのレポート出題法講座」のような記事がない。学生の意識改革のための提言が大半。なぜ自分のやり方を反省しないのでしょう。
そもそも何を目的にレポートを課しているのか、よくわからないケースが多い。というか、講義自体、何をどう教えたいと思って組み立てているのか理解に苦しむ事例が多過ぎるように思う。そりゃ賢い人たちだから、訊けば立て板に水の回答は得られます。コピレポ問題にも言及している武田徹さんの日記からひとつ紹介。
バイオテクノロジーに対して二人の講師がそれぞれ自分の意見をぶつけあう。それぞれに自分の考えを披露し、報道関係者に切実に伝えようとする。13時30分からはじめて19時までそれが緊張感を途切れさせずに延々と続く。講師二人はいろいろと不満も残ったかもしれないが、そんな光景を間近で目撃したジャーナリストは、少なくとも今までと同じレベルでバイオ関係の記事を書こうとは思わなくなるだろう。そこにいまだ結論の出ていない問題があることを目の当たりする経験の衝撃は大きいはずだ。生きているように動く「脳死」体の映像はショックだったろうが、それを含めてもセミナーの時間内で手に入れられる事実は実はそう多くない。しかし身構えが変わればジャーナリストとしてのいつかは姿勢が変わって行く。
bioethics とは生命倫理(学)のこと。上記の説明に「なるほどー」とか感心する人が、たぶん多いのでしょうが、私の判断では典型的なダメ講座です。
「身構えが変わる」って、具体的にどう変わるの? そりゃ何か変わったような気にはなるかもしれないけど、客観的に、どうなの。1年も経たずに、主観的にも勉強の成果は謎になってしまうに違いない。当然ですよ、従来の取材の組み立てに何をプラスすべきか、全然教えていないんだから。
武田さん、この講座に関して、いったいどんなレポートを課したのだろう。「興味関心のある生命倫理的課題をひとつ発見し、自由に論じなさい」みたいな感じか。断片的知識を与えるタイプの講座である以上、せいぜい講座の感想か、思い付きを書かせる他ない。
私なら、武田さんがサラッと流した前説の部分を中心に、「現状把握→講義→練習→試験→評価→復習」というパターンを素直に踏襲します。
現状把握:課題「脳死移植について自由に論じなさい」(2000字)
生命倫理の問題は、「人道」「効率」「私権」「公益」という4つの観点で掘り下げ、「人道VS効率」「私権VS公益」という2つの対立構造で整理することで、特定の倫理的立場に偏った記事や結論先行の取材など独りよがりを脱却できる。健全なジャーナリズムには幅広い立場への取材とバランス感覚が必要だ。
取材の演習:受講者には「ダッシュボード」「人道」「効率」「私権」「公益」「人道VS効率」「私権VS公益」合計7枚の取材メモを書いてもらう。
記事執筆の演習:課題「脳死移植について自由に論じなさい」(2000字)
最後に2つの小論文と7枚のメモを提出してもらう。採点後、全員の全提出物をスキャナで取り込みPDF化、会員制ウェブサイトなどでダウンロード配布。
武田さんは講座設計のイロハを学んだ方がいい。武田さんには、受講者に習得させたい具体的なものが何もない。何もないから、現状把握も演習も評価もしない。終了後、受講者の少なからずが「で、この講座が明日からの仕事にどう役に立つんだ?」と本音では疑問に思ってたはず。
講座の様子を撮影してDVD化すれば、コタツでみかんを食べながら追体験できちゃう程度のことを、未来を変革出来るポテンシャルをもったセミナー
だなんて武田さんはいう。2年経って、日本の報道の何がどう変わったのか教えてほしい。
生徒にとっては「このことについて自分の考えをまとめなさい」系の課題は苦手のようです.新聞・雑誌,図書,Webページなどいろいろ調べさせても,テーマを理解することまでしかできず,自分なりの課題設定ができない.結局,どこかのWebページにある記事をそのまま写しておしまいにしてしまう.
それはどれほどつまらないことかというと,「自分にとって”勝ち組”の条件とは?言いなさい」と問われて雑誌に載ってたことをそのまま言っちゃうくらいつまらない.痛い.自分がない.魅力がない.価値がない.
真にくだらないのは「自分の考えをまとめなさい」という課題の出し方です。学生が苦し紛れに思いつくのは、過去に身につけた数少ない思考パターンの焼き直し。足し算しか知らない小学生が、自力で掛け算を思いつくか? ありえない。そんなレポートを書かせて何が楽しいのだろう。
小学生は382回の授業を経て、ようやく掛け算、割り算を「使える」ようになる。考え方のパターンを学ぶ、パターンに従って問題を解いてみる、何度も練習する、そうしてようやく、新しい思考パターンの初歩的な活用力が身につく。
授業に出ていなくてもテーマだけ聞けば書けちゃうようなレポート課題を出してる教師は、みんな反省してほしい。ようするに何も教えていないんだよ。きっかけを与えた、などといって無内容な講義に満足している人々には、いい加減、目を覚ましてほしい。
講義で、考え方の枠組みを示す。例題として、その枠組みに従って、具体的な問題を読み解いてみる。演習で、似た問題を学生に解かせてみる。だいたい演習の時間がないので、そこをレポートにする。半期15回、きちんとこのパターンを守って授業を進めていく。
こういう基本的な技術すら知らず、知ろうともせず、くっだらないレポート課題を出して、コピペレポートに愚痴る。自分でおかしいとは思わないのか。
と、書いてはみたものの、武田さんの授業法は、市場経済的に正しいのでしょう。以前、大学改革案をいろいろ書いたときに、「ホントに需要があるならビジネスチャンスでは?」みたいな意見をいただきました。その通りで、おそらくは需要がない。
私は現に存在する消費者の不満の声の一端を紹介したけれども、いま、私が改善すべきといったようなことを頑張ったところで、それが売りになって受験生が殺到するとは考えられない。所詮は優先順位の極めて低い要望に過ぎないのです。
武田さんの講座に参加して、「これが何の役に立つんだ?」と思った人も、私が示した構成だったら、多分、そもそも参加しようと思わないでしょう。どうせ使う気のない(面倒な)メソッドを習得することには関心がなく、手軽に何かの「きっかけ」がほしいというのが本音。武田さんは、その需要に誠実に応えただけ……。
ゆえに武田さんは、私の批判など歯牙にもかけないだろうし、それはそれで「正しい」判断だと思う。「自分の考えをまとめなさい」というレポート課題も、いまの「常識」を背景にしたもの。そう簡単に倒れるわけがない。しかし、私の批判も、僅かに引っかかりを感じる人が、いるはず。地道な挑戦は続く。
「いっていいこと」をいってるだけなのに、ユーザーが反発する。ヘンな話。
別にメーカーが認めようと認めなかろうと、攻略情報を掲載する自由はあるだろう。まあ、パブリシティ権や商標など、搦め手から規制することは可能なんだけど、それは正当な権利の行使。責められるいわれはないよね。攻略サイトの方が、今までのことを謝ります、というべき。
どんな遊び方も自由だ、というなら、メーカーがどんな文句をいうのも自由だろう。言論の自由。
1988年、朝日新聞「明るい悩み相談室」は2度の騒動を起こした。「中島らものもっと明るい悩み相談室」(朝日新聞社, 1988年)には、こう記されている。
この2冊目を出すまでに、「明るい悩み相談室」のせいで二回ほど人騒がせをしてしまった。一度目は「ミソ・ジャガ事件」である。「お祖母ちゃんに昔、“焼いたジャガイモにミソをつけて食べると死ぬ”と言われました。迷信だと思うのですがこわくて試せません。ほんとうでしょうか」という質問に対して「ほんとうです」と答えた。人間、いつかは必ず死ぬからである。お祖母さんは、「食べたらすぐ死ぬ」とは言っていないのだ。この回答が出たその日のうちに、朝日新聞社には何十件という電話がかかり、次の週には山のような問い合わせの手紙がきた。中には、「私は焼きジャガイモにミソをつけたのが米の飯より好きで、何十年来これを食べている。私は死ぬのでしょうか?」という、全然死んでない人からの手紙や、「こんな大事なことは一新聞だけでなく、国会で国民に知らせるべきだ」というのもあった。
二回目の人騒がせは「温水プール放尿事件」である。ある女子高生の「私は温水プールでおしっこをするのが趣味」という投書を紹介したところ、これも大量の非難の手紙をいただいた。不快を感じられた方々、並びに厚生省まで追跡取材に行って「おしっこ健康法」について講義された「週刊朝日」の記者氏にも紙面を借りてお詫びしておく。
当時、私は小学2年生。日本の社会は、私が物心ついて以降、ほとんど変化がない。常々実感していたことを、古い本を読んでまた再確認。
文藝春秋昭和3(西暦1928)年10月号には、前田河六一郎さんの「「圓本」の忌憚なき批判は「匿名批判」に限る」という小論が掲載されている。
私はホームレスはうらやましいとは思わんし
というコメントがあったんだけど、これは違うと思う。ふつうの人は「ホームレスにはなりたくない」から、自由を渇望しながらも、いろいろ我慢してる。この抑圧が、ホームレスに苛立ち、攻撃することにつながっている、そういう話でしょう。
この説明は応用範囲が広い。そもそも常野さんの怒り(?)だって、より自由な世界に憧れつつ、一時の感情に素直にしたがって管理社会に与する人々に対する苛立ち……と整理することが可能。
(根拠のない噂話だから、あくまで仮の話とするけれども)常野さんだって、リサイクル豚丼を出され「どうぞお召し上がりください」といわれたら不愉快に感じるだろう。素直にその不快感を表明したい、その気持ちは分かるはず。後先考えずに電凸する、職場でテラ豚丼を作ってネタにする、両者には通じるものがある。
……。
過去ログ〔レポート課題の出し方(2005-09-10)〕にリンクしても読む人があまりいないから、何度でも同じことを書こうかと思う。
とても簡単です。
学生が楽して何も身につかないことを恐れているわけだから、「特殊なレポート用紙」でフォーマットを指定、「手書き」の手間をかけさせ、「行数を指定」し要約や水増しを不可避とすればよい。
「紙をなくした」場合は研究室へ取りにくるよう指示。「プリンタ出力」は零点にする、障害ゆえに手書きが困難な学生は必ず事前に申し出なさい、と言明。「指定行数違反」は1行につき20点ずつ減点する、と説明。ちゃんと下書きして、文字数・行数を確認してから清書するように、とアドバイス。
どうしても「本を探す→読む→まとめる→意見・感想を付加する」という手順を踏ませたい場合……。
剽窃・盗用を防ぐには、参考文献ゼロのレポートは零点にする。ネットじゃなくて図書館で調べてほしいなら、図書館を使わざるをえない課題設定にすればよい。
既存の文献に当たらず、思いつきを書いてほしいなら、授業の最初にレポート課題を示し、授業の最後に10分程度の時間をとってレポートを書かせればいい。授業時間外に、たかがレポートのために学生が80分以上頭を使うわけがないのだから、これでいいのだ。レポート用紙を最初に配り、遅刻者には決して渡さないことにすれば、遅刻も防げる。
身近な**に取材してほしいなら、レポート提出者と**が一緒にフレームに収まった写真の添付を義務付ける。プリンターがない学生には「研究室に来なさい」と指示すればよい。取材対象が人なら、その連絡先も添付させる。いいレポートがあったら、学生の取材対象に先生も連絡してみて、そのときのやり取りを授業で紹介する。ズルは不可能だな、と学生は震撼する。
ポイントは「学生に何をしてほしいのか、ちゃんと分かるようにレポートの出し方を工夫する」こと。心の問題に制度設計で立ち向かう。シンプルに考えたらいいと思う。
そもそも教師がレポートを課す理由って何なのだろう、と思う。
どれだけ教える側が頑張ろうが、結局は、学生が「自らが自らを差別化する」意図がなければ、どんなに工夫した設問を出そうが、学生は「自ら考え悩んだ結果としてのコンテンツ」を提出することは絶対にない。
多くの先生が、なぜ「学生自身の考え」なんてものを欲しがるのかわからない。オリジナリティ幻想っていうのかな。そこがホントに不思議。私も機会があってレポートを読んだことがありますが、学生の思いつくことにオリジナリティはない。ブログと一緒。過去に誰かが書いたことのバリエーション。
学説とか理論というのは、他の人と対話できるようになる共通語彙、コミュニケーションのツールという側面が大きいわけですから、そこで余りオリジナリティばかりを主張していてはいかんと思うわけですよ。
役に立つ学卒というのは、たくさんの考え方の枠組みを持っていて、様々な問題に迅速・柔軟・確実にそれらの枠組みを適用して解を見出し、その比較検討から最適解を選択していく、そういう能力のある人。ふつう、100人いても出てくる考え方は4つか5つ。1人で7つ8つの考え方を示せるなら、すごい優秀。
だから、講義で考え方の枠組みを示す、演習で様々な課題を学んだ枠組みにしたがって読み解いてみる、大学の授業はこの繰り返しでいい。社会が大学に求めているのも、学生が大学の講義に期待しているのも、こういうことではないのか。オリジナルなつもりの平凡な意見をレポートに書かせて何になるのだろう。
本来、授業中に演習を行うのが一番いいのだけれど、その時間が取れない場合にレポートを課すのは理解できる。当然、テーマは最後のペーパー試験の練習問題にする。算数と同じ。概念を理解する、計算に習熟する、個別具体的な課題(文章問題)を解く。この流れ。
掛け算の演習なら掛け算で解かせる。足し算を頑張れば、初歩的な掛け算の文章問題は簡単に解けるけど、そういう解答はバツにする。レポート課題というのは、本来、そういう風に出すべき。採点基準は明快で、出題意図が学生にもハッキリわかる、模範解答に納得がいく、そんな出題が望ましい。
以前、どこぞの大学の「国際経済論」のレジュメで「各国にはそれぞれの国の通貨がある。日本の通貨は(円)、アメリカの通貨は(ドル)、韓国の通貨は(ウォン)である。」なんていうのを配っていて、覚えさせていて、テストの前にも確認で配って、資料持ち込み可にして写しても良くなっているというのを聞いて愕然としましたが、そのときはなんやねんと思ったが、でもですね、仮に有名大学の学部の講義で内容はもっと高度であったとしても、つまりカッコの中に入るのが(ブレトン・ウッズ体制)とか(短期資本移動規制)であったとしても、カッコ穴埋めをさせて測れる学生の学習成果というのは、前後の語彙から判断して過去に暗記した模範的例文を想起しそこからカッコ内を補完する用語を想起して書き込める能力を持ち合わせている場合と、学説を論理的に理解して咀嚼して自分なりに考えて解答を推測して書き込んだ場合を、論理的に識別する術は、穴埋めをさせているだけでは存在しないのではないだろうか。
よくできた算数や数学の練習帳は、まず穴埋め問題からはじまる。記号や語義の記憶をチェックするわけ。
5つのりんごが乗ったお皿が2つあります。このときりんごの総数を求める式は 5□2 です。□の中に正しい記号を書き入れなさい。
とかね。デキの悪い練習帳はいきなり計算問題から始めるので、算数の苦手な子が置いてけぼりになる。穴埋めは最初の一歩。次に計算問題があって、最後は文章問題になる。社会科学の試験だって同じこと。ステップバイステップ。ひとつの問題で全てのレベルの能力を計測しようとするのは無茶というもの。
ちなみに、学説を論理的に理解して咀嚼
する能力を測る最も簡便な方法は、センター試験の社会科に見ることができます。「正しい(or 間違った)記述を選びなさい」という問題。さらに自分なりに考えて解答を推測
する能力を見るのが、短文(or 長文)記述問題。
いずれにしても「正解がある」のがポイント。
項頭に戻るけど、レポートを課す理由をきちんと考えている先生が、いったいどれだけいるのか。「考えてほしい」って、いったい何を? どういう風に? なんとなーくイメージでもって「考えれば賢くなる、考えれば賢くなる、考えれば賢くなるのじゃーッ! ケェェ〜ッ!」みたいな感じになっていないか。
難しいことはいわない。教師がきちんと「講義+演習」という構造を意識すること、まずはそれだけでいい。ただそれだけで、レポート課題は大きく変わる。ずいぶんまともになる、はず。
学生にレポートを出すときは、もう当たり前のこととして「各自が面白いと思った商品について具体的かつ詳細に分析せよ」みたいに課題を設定しますが、これが「二重構造について」とかでは、おそらくウェブでいろんなコンテンツが検索されて、切り貼りしたらもうわかんないだろうな。「まあ妥当な定説」がピックアップされて提出されたら、文句のつけようがない。しかし学生はコピペどころかダウンロードして氏名記入しかしていない可能性があるわけか。どうするかな。
私なら、「各自が面白いと思った商品について、今回講義した***という考え方を適用して、具体的かつ詳細に分析せよ」と出題します。
算数の例でいえば、「自分で割り算の文章問題を作って解いてみなさい」という課題。割り算という「縛り」が今回のトレーニングのテーマを示している。バラエティーにとんだレポートが集まるだろうけど、講義で学んだ考え方の演習を行う、という背骨がしっかりしているから、学生にも訓練の目的がよくわかる。
コピペ・レポートを避けたければ、設定する問題から「他の教員が絶対出しそうにないコンセプトを混ぜなければならなさそうなもの」でなければ、いまの時代、無理じゃないかしら。
そもそもどうして抽象的なテーマなんかでレポートを課すのだろう。そんなもの、学生が偉大な先人よりすごいことを思いつく可能性はほぼゼロじゃないか。抽象的なことは、講義で教師が教えるべき。学生が自分で重力を発見できるなら、教育機関としての大学なんて必要ないだろう。
この手のレポートは全て「講義時間が足りないから自習してね」の亜種といっていい、と思う。学生がコピペ・レポートに流れるのは当然なんだ。だいたい、コピペでなけりゃ素人の思い付きを書くしかない。だったらコピペするほうがまだマシだろう。
ただ、コピペじゃ内容が身につかないのは明らか。コピペじゃダメだ、という説得的な理由は、これしかないと私は思う。だったら、本を読ませる、自分で要約させる、手書きで清書させる、こうした作業をさせたらいい。その手段は、1.に書いた。
たかが1単位のために、学生を丸1日拘束するような課題を出すなら、教師だって横着せずに、私がいろいろ書いたくらいのことをしてほしい。本を1冊読むのに3時間も4時間もかかる実態を知らないはずもないだろう。2冊読んだらそれだけで1日終ってしまう。学生が強烈に「やってられっか」と思うのは当たり前の話だ。
倫理の崩壊を憂えても仕方ない。素直な発想で対抗手段を考えていくべきだ。
デキの悪い生徒に宿題をたくさん出す先生がいる。バカじゃないか。無茶をいうな、ということだ。やる気でどうにかなるような話じゃない。
宿題なんてのは、お勉強のできるヤツがするもの。
個別指導塾で10人、20人の指導をしていても、こんな簡単なことに気付かない人が多い。いったい生徒の何を見ているんだろう、と思う。目が節穴なんだな。
企業収益が上がっているのに、なぜ平均給与は下がるのか、とかいう報道が繰り返されている昨今。これは不思議でもなんでもなくて、私のような素人にも分かる話。簡単に説明します。
長引く不況のため失業している人、就活の意欲も失って失業者ですらなくなってしまった人が、日本にはたくさんいます。従来、こうした人たちは収入がゼロだったんだけど、平均給与を算出する際に、給与総額を割り算する分母から除外されていたわけです。そもそも給与をもらう立場にないから。
いま景気が回復してきて、企業の仕事が増えています。当然、人手不足になる。正社員も少しずつ増やすけど、先行き不安があるので、可能な限り派遣・パート・アルバイトの増員で対応することに。その結果、正社員の増加率をパートさんたちの増加率が上回る。するとどうなりますか、平均給与は下がるわけです。
正社員のボーナスが増えている、都市部を中心にアルバイトの平均単価も上がっている。もっと上がっていいはずだ、という感覚は分からないではないけど、今のところ、現状程度のお金を出せば人が集まってくる。それくらい、働きたいけど働けない人がたくさんいた、ということ。
今後、もっともっと景気がよくなって、働きたい人が全員、仕事に就けるようになったら、給与は必ず上がる。人の取り合いになるから。大切なのは、そのとき必ず出てくる「外国人労働者受け入れ」提案に、庶民は断固反対しなきゃならない、ということ。
労働者を入れなくても、労働を輸入することはできる。様々な製品は技術と資本と労働で作られる。そして、労働をより多く含んだ製品とあまり含んでいない製品がある。労働をより多く含んだ製品を輸入すれば、それは労働を輸入しているのと同じことである。
もちろん、サービス産業など、輸入不可能な分野も多い。でも、それはそれでいいんですよ。日本経済が発展し、人手不足になって、日本の中流階級は女中や下男と無縁になった。今では上流家庭にだって家政婦さんは滅多にいない。億円単位の年収がある人ですら、(ふつうは)個人でコックを雇ったりしない。
そういう変化を、受け入れること。今はパソコンの設定サービスなんかはオマケ扱いだけど、将来はそういう人手のかかる部分が、パソコン本体より高価になるかもしれない。光ケーブルの工事費が通信料の1年分になったり、とか。そんなの嫌だ、というなら自分の給料も上がらない。
ネコの手も借りたいほど忙しいので、バカにも高い給料を出して人手を補充する、そういう社会にならなきゃ、自分の給料は増えないよ。たいていの人は、平凡なんだから。
次期日銀総裁には、失業率がもっと下がるような金融政策を目指してくれる人を望みたいです。
「変化」なくして成長なし、多くの経済学の入門書に書いてあること。
北海道の山奥に炭鉱が発見される。「そんな人里はなれた寂しいところに行くなんて嫌だよ、ぼくは生まれ育った街で就職したいんだ」みんながそう思ったら、日本は今頃、世界の最貧国だったかもしれない。
炭鉱が閉鎖されました。「でも、ここに暮らし続けたいんだ。資源もないし交通の便も最悪、山と谷ばかりで平地がない街だけど、ここで生まれ育ったんだもの」結果、失業者があふれ、財政破綻。
繊維を中心に軽工業が興ったぞ。「ぼくは先祖代々ずーっと従事してきた農業をやるんだい!」みんながそっぽを向いたら、そこまでだった。
流通革命が起きる。「商店街を潰す気か! 郊外への大型店舗進出だって絶対に認めない!」数年後、みんな隣町にできたショッピングセンターへ。隣町は栄え、こっちの街には駅前シャッター通りだけが残った。しかし人が住んでいるというので再開発もできず、駅の利用者は減り、いっそう寂れていく。
軽工業から重化学工業へ、そして輸送機械・精密機械産業へのシフト。倒産、リストラ、街の勃興、没落。高度経済成長の時代、だいたい日本は人手不足で、みんな不平不満をいいつつも、居住地を変え、仕事を変え、生活スタイルを変えながら、平和と繁栄の国を築いてきた。
今後、景気の拡大が持続して人手不足が続き、本格的な人件費上昇がはじまったとき、今ある社会の形は大きく変わる。この変化を、恐れてはいけない。安価な労働力に頼る社会を守って外国人労働者を受け入れるなら、あなたの貧乏生活は一生続く。
平凡無才の私たちが携帯電話もパソコンもテレビもクーラーも持てるようになって、庶民の利用するお店から生演奏が消えた。未来のファミレスには、ウェイトレスもいないだろう。寂しい? そうかもしれない。しかしそれは、幸福のコストなのだ。
「安価な労働力を補充するため」の外国人労働者受け入れに賛成するのは、格差社会を肯定するのみならず、永遠に底辺層を必要とする社会構造の維持に加担すること。
サービスは輸入できないから、サービス産業の価格は、先進国の方がどうしても高くなる。労賃の魅力で雇用された外国人は、安い給料でサービス価格の高い社会で生きることを強いられる。ファミレスのウェイトレスと貧困の解消、どちらが重要か。私は、いろいろ考えてもなお、後者を取りたい。
高度成長による人手不足は人件費の大幅な上昇をもたらし、中流家庭から召使い(女中さんなど)を駆逐した。今では上流家庭にも住み込みの召使いはまずいない。召使いも自分の家を持てる国、それが日本だ。必要度の低いサービス産業は、貧困層の生活水準底上げによって消えていく。
人手不足と人件費の上昇は、農業や工業(生産部門)の海外転出をも促進する。私たちは、この変化も受け入れるべきだ。現地工場の工員は、当地では中流の経済水準を約束され、結婚や子育てもしやすく、一戸建ての家も買える。日本に工場を残し、人件費抑制のため外国人を連れてくるのは、お互いにとって不幸だ。
人手不足はいいことだ。人件費の上昇はいいことだ。値段に見合わなくなったサービスの享受をやめ、輸入できるものは輸入で済ませるようにしていく、それは楽しいことではないかもしれない。けれども、これは幸福のコストなのだ。貧困層を温存しなきゃ存続できないような世界には、サヨナラをいおう。
金融引締が続く日本。サブプライム危機で外需が弱まるや、にわかに視界不良。人余りと賃金下落の明日がちらつき始めた。ワーキングプアに依存する社会は、こうしてダラダラと存続していくのだろうか。
最近、メールへの書類添付は減ってきた。代わりに、共有スペース内の、当該書類が保存されているフォルダへのリンクが書かれている。上記リンク先記事にあるような施策が、徐々に進みつつあるのだと思う。
ただ、やっぱり紙の書類はそう簡単にはなくなりそうもない。打ち合わせや会議の資料としては、印刷物がいちばん手軽。いまのところ、電子ペーパー端末は全然普及していないし、仮に普及したところで、簡単・確実な配布手段という問題が残る。
会議室に人数分の電子ペーパー端末が用意されている。会議室のパソコンから、(直前ギリギリに書かれた)無線でササッと各端末に今必要な資料だけを配布できる(参加者以外に配布されては困る)。配布された資料に、メモなどをスタイラスで書き込める。資料+メモを、各自が後から参照できる形でサーバに保存する。
……う〜ん、まだまだ遠いなあ。
あはは。私の場合、今のところ、ということになるけど、ほとんどの資料はどんどん捨ててます。私しか持っていない重要資料は皆無だから。会議資料なんてのは、結局のところ、管理文書となった議事録以外、保存しておく意味がない(ような気がする)。
ペーパーレス化推進の過程で、個人持ちの文書をなくし個人用書類棚を全廃した会社が世の中には多々あるそうだけど、なるほど、それは不可能ではなさそうだな、と。取引先からもらった資料も ScanSnap でどんどん電子化してしまえばいいわけで。
gooブログの記事をコメントやトラックバックを含めてバックアップしてるサイトがあって、どんなツールを使ったのかな、と興味を持ちました。
転載リソース集ではブログも扱っているんだけど、自動ダウンロードツールを使うとしっちゃかめっちゃかになって管理できないので、仕方なく全部手動(?)でログ取りしてます。
Firefox に ScrapBook という拡張機能を導入して、月別表示の過去ログページをちまちま保存していく。ムキーッとなるのが「続きを読む」みたいな機能を使ってるケース。個別記事を表示、ソースを開いて追記部分をコピー、先に取得した月別ログに追加する。この作業のあまりの面倒くささに音をあげてログ取りを中止したことも。
最近はブログの保存に特化した、いいツールがあるのかな?
追記:いただいたコメントによると、地道な手作業だそうです。お疲れ様です。
*見るのが困難なほど早く消されるもの ガンダム00 権利者削除。権利者が張り付いてすぐに消す。 朝6時には消えないが、タイトル偽装も消えるので 運営も削除を行っているのかもしれない しおんの王 権利者削除。権利者が張り付いてすぐに消す。 タイトル偽装はなかなか消えないが、この前 「運営者が不適切な内容と判断したため」タイトル偽装が削除された。 獣神演武 権利者削除。タイトル偽装はなかなか消えない。 銀魂 朝6時には運営が消すし、権利者が見つければすぐに消える。 削除までの時間は上よりは遅い。 逮捕しちゃうぞ 権利者削除。 朝6時には消えないが、タイトル偽装も消えるので運営も削除を 行っているのかもしれない。 削除までの時間は上よりは遅い。 プリズムアーク 権利者削除。ペースはかなり頻繁だが、 タイミングによっては一日以上残ることもある。 スカイガールズ 権利者削除。同上。 ダ・カーポII 同上。 BLUE DROP 同上。 *見るのは困難ではないが早く消されるもの みなみけ 基本的には運営削除。朝6時にしか消えない。 放送翌日の月曜日には頻繁に消える。 権利者が運営に削除を一任しているのか、 タイトル偽装であってもなんであっても全滅する。 しかしすぐに再アップされ、削除のペースもそんなに早くはないので 見るのにそう不自由はしない。 *運営削除。朝六時ほか、不定期なタイミングで消える ef スケッチブック Myself;Yourself 逆境無頼カイジ 魔人探偵脳噛ネウロ 素敵探偵ラビリンス ドラゴノーツ もやしもん しゅごキャラ ハヤテのごとく ひぐらし解(朝六時に大部分が消えるが、 なぜか偽装もしてないものが一つ二つ残ることが多い) *権利者削除 タイミングの長いもの 電脳コイル 土曜の夜あがり月曜の朝に消える。 キミキス 消えるときは消えるが、消えないときはなかなか消えない。 平均的な削除ペースとしては一日より長い。 レンタルマギカ 同上。 げんしけん2 タイトル偽装しないと一日後くらいに消えるが メインで見られているのはタイトル偽装の方であり、 そっちはなかなか消えない こどものじかん 最新話のみ残る。削除ペースは1週間。 *現状、全話残っているもの CLANNAD 横長以外は残る バンブーブレード 全て残る シャナ2 全て残る バッカーノ 全て残る。 ナイトウィザード 全て残る。 二ノ宮 各話一つ二つ残る。他は消える。権利者が消しているのかは分からない。 もっけ 同上。 MOONLIGHT MILE 同上。 神霊狩 各話一つ二つ残る。残るもの以外は権利者が消しているらしい。<追記:11/30 一話を除いて全話削除。それまでは全話見られた(6話まで)。今はおそらく運営削除と思われる>