倫理的な主張には利己的な動機が隠れている(ことが少なくない)。
ごく簡単にいうと、これは大学が「結果だけでなく学習態度も加味して評価されるべき場」なのか、それとも「結果だけが評価されるべき場」なのか、という問題。
大学の成績が全てなのか? 評価基準が自分の中にないのか? といった批判は妥当ではない。おそらく本人は「学習態度に優れる自分」を高く評価している。その自負がむしろ、社会的評価は「結果だけでなく学習態度を加味して評価されるべき」という価値観を強化する。
これは学生を観察してみればわかる。要領よくサボりつつテストで高得点を取る学生ほど、「結果だけが評価されるべき」と考えている傾向がある。努力していて成績の悪い学生は「授業がヘタなのが悪い」という。サボっていてなおかつ成績も悪い学生は「土下座しても単位をくれない教授は許せない!」などと考える。
結局みんな、自分を肯定するための材料探しをしているわけだ。
日本では、多くの教師が病院送りになった悲惨な校内暴力の時代を経て、公立高校入試において中学時代の学習態度を重視する制度が確立した。千葉県の例だが、私の弟はほとんどの科目でクラス1位を争う学力水準だったが、成績は5段階評価の3が定位置だった。授業中の居眠りと提出課題の無視が理由である。
中学校の成績評価制度改革は、多くの大人たちの支持によって実現した。テストの結果のみで成績が決まる制度を嫌ったのは、子どもたちだけではない。
大人たちの形成する会社組織においても、成果主義はなかなか成功していない。そこで課題となっているのは成果主義そのものというよりも、適切な成果の評価が困難なことだが、さてその「成果」に、努力(など)を全く加味すべきでない、という立場の人がどれだけいるだろうか。
実際、社会に出てみれば、意外と努力が評価されることに気付く。とくに結果が悲惨な場合、努力の有無は決定的な評価の差となって現れる。たまに「社会は厳しい、成果だけが求められている」などという人がいるが、後で卒業生に「騙された!」といわれないか。
もともと大学の成果主義は、庶民の価値観から「浮いて」いたのではないか。大卒がエリート社員だった時代はそれでもよかったのだろうが、今はむしろ大学流の成果主義に共感するタイプの大卒社員は、就職してから人間関係に苦労するだろう。
いま大学で「学習態度も成績評価に加味すべき」と考える学生が増えているとすれば、それは進学率上昇の当然の帰結かもしれない。さして賢くない一般人は、「頭の良さ」だけで成績を決められては勝ち目がない。自分でも勝負できる「学習態度」を評価基準に入れるべき、と主張することに不思議はない。
無論、それは戦略的発言ではなく、「無意識にそのような価値観に共感してしまう」のだ。こうしたアイデンティティと結合した価値観を覆すのは現実的でなく、またおそらくこの価値観を覆したところで双方とも具体的な利益はない。状況の変化に合わせて大学の方が変化するのが妥当と考える。
昔の大学ではエリートがエリートを教えていたので、エリートの価値観を疑う者がいなかった。現在の大学ではエリートが庶民を教えているので、価値観の衝突がある。そしてコモディティ化した学卒に「エリートっぽさ」は求められていないのだから、変わるべきは指導者の方だろう。
だから逆に、高校卒業試験制度を創設したり、大学入試に大検を必須にするなどして、一定以上の学力がなければ絶対に大学に入学できないようにしてしまう、という改革案を唱えるなら、「大学はエリートの価値観を維持すべき」という意見にも同意できる。あまり現実的な話ではないが……。
もしくは、「いま社会では大量のエリートが求められているはずだ」と主張されるなら、それはそれで話の辻褄は合う。私は首を傾げるが。
出欠を取らない先生の本音って、単に出欠のチェックが面倒くさいということだったりする。が、単に不精なことをいうだけでは格好がつかないので、倫理的な主張に変換してしまうのだ。もちろんこれも無意識の働き。先生ご自身は、心の底からその大学倫理に同調しているわけ。
「出席するたび新しい能力の獲得を実感でき、自学自習より効率が良い、と学生が思える講義」を大学の先生方が行っていれば、そもそもこんな問題は生じない。