趣味Web 小説 2009-02-07

大野左紀子さんをコピペレポート問題から解放する(かもしれない)授業案

しかしいろいろ参照したとしても、最終的には「自分で考えて意見をまとめる」という基本的なことが教育できない、その重要性すら叩き込めないとしたら、単に教育者や教育システムの問題だけなのだろうか?という疑問は湧く。それは、「自分で考えて意見をまとめる」ことが本当に大切なことだとは、世間では思われていないということの現れではないか。

自分で考えることが大切なのではなく、そこはショートカットして自分で考えたかのように振る舞えることが(処世術として)大切、というふうになっているのではないか。それどころか、もしそれが他人の意見だとしても、少なくとも自分よりは頭が良さそうな人の意見に右に倣えで、何が悪いのかと。世の中そんなものではないかと。自分の意見なんかいったいどこで求められるんだ‥‥。

いやいや、堂々と「学生に『考えさせる』なんてくだらない」といっている(下記の記事など)私のような人間は少数派でしょう。

私が学生だったのは10年ほど前ですが、当時の記憶を掘り起こせば、「自分の頭で考えない奴はダメ」という価値観はきちんと刷り込まれていたと思います。いま会社の同僚と話していても、それは全く同じ。

コピペ・レポートを咎められて開き直るにしても「忙しい」「絶対単位はほしいけど、自力じゃ書けなくて……」などなど、何かしら言い訳をする学生ばかり。みんな学生同士の会話なのに言い訳三昧だったので、「コピペは正義」なんて学生はいなかったのだと思います。相当に不真面目な学生でも同様でした。

だから私は、コピペ・レポート問題というのは、本当にただ単に「人間は低きに流れる」という話でしかないと思っています。早寝早起きが健康にいいとわかっていてもできない、みたいな。それがいいことだと思っているのは、ごく少数派ではないか、と。

ただ私は、漠然と「自分で考えさせる」授業には批判的です。学生には、もっと具体的なミッションを与え、天才たちが考えた枠組みを様々な具体的事象に適用するトレーニングを積ませるべきだ、と考えています。それが、コピペ・レポートを打ち破る方法でもあるのです。

大野さんの授業を私が代講するなら、学生に書かせたいレポートから逆算して授業を組み立てます。(注:講座設計のイロハ(2007-12-12)も参照のこと)

社会が「ジェンダーについて学んできました」という学生に期待するのは何でしょうか。それはおそらく、「これってジェンダー論的にはどうなのよ?」という問いに標準的な回答をパッと示せることでしょう。だから、「ジェンダー論ではこう考える」という定石を具体的な事象に自在に適用する訓練をします。

まず例題を示します。続いて、今回の授業で演習してもらう定石を示す。そして実際に定石を適用して例題を解いてみせる。ごく簡単な、口頭でパッと回答できる練習問題を課す。数人、指名して答えさせる。よくできました。これを数回、繰り返す。最後に30分くらい時間を取り、800字程度の課題を提出してもらう。

これだけ準備をした上で、「映画を見て今回授業で扱ったジェンダー論の定石を用いて分析せよ」という課題を出します。当然、授業で教えた定石を使わないレポートは零点にする、と宣言するのです。

授業をサボった学生は苦し紛れにコピペ・レポートへ逃げ墓穴を掘る(だって授業で扱ったジェンダー論の定石をそのまま使った都合のいい映画評など簡単に見つかるわけがない)可能性が高いですが、ちゃんと90分間頑張った学生は、さして苦労することもなくレポートを仕上げられるに違いありません。

90分ではまだ練習不足だと思うなら、2~3週、授業中に練習問題に取り組ませて、それから課題を出せばよい。そのあたりは学生の飲み込みの速さを見て決めればいいことです。

こうして、半期で3~10個くらいの定石を教えることができます。

「あー、半期勉強して、タメになったなあ」という実感があり、実際、学生が第三者に対して「自分はジェンダー論をきちんと学んできましたよ! 例えば**はジェンダーの観点からはこんな風に見ることができるんです!」と自信を持って語ることができるようになるのは、おそらく私の授業法だと思う。

大野さんから見れば、ロボットを量産しただけの、大学にはふさわしくない授業かもしれません。

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