長野県伊那市の洋菓子店『菓匠Shimizu』の店主は、隣町で起きた殺人事件について、こう考えた。
なんで事件があったその日の夜にうちのケーキを食べていただけなかったんだろうと。うちのケーキを食べながら語らってもらえば、そんな事件は起きなかったはずなんです。その日の夜、お菓子を囲んで親子が語らう時間を提供できなかったことは、うちの大きな責任なのではないか。本当に偏った考え方かもしれないですが、そう思ったんです。
そうして、子どもが絵に描いた夢をケーキにして届けるイベントを始めたのだという。
多くの人々が、各自の得意な領域で、こうした「私にできることは何だろう」という考え方を持つようになると、世の中もっと暮らしやすくなっていくのではないか。私の場合は、ブログ記事のパクり騒動が起きるたび、同じようなことを考えてきたから、店主の考え方には大いに共感できた。
「ブログの記事が盗用された!」なんてトラブルを、私は少しでも減らしたい。「転載・改変・盗用OK(著作者名詐称や商用利用も大歓迎)」を謳う私の文章が、もっともっと魅力的で、大勢の目に留まるものだったならば、罪を問われた方々が、盗用禁止のブログから無断で文章を拝借するようなことはなかったはずだ。
私の至らなさゆえに、無用のトラブルを撲滅できずにいるのだと思う。ある人が文章を無断で流用されて怒るのも、流用した人が社会的制裁を受け信用を失うのも、本来は必要のないことだ。ハイレベルな文章が「ご自由にお使いください」という形で世の中にあふれてさえいれば、八方丸く収まる。私はそのような社会の建設に貢献したい。
しかし残念ながら、私は無力だ。上記の理想だけで、日記を書き続けることは難しい。もちろん私も精進は続けていくが、私の意見に賛同して、ブログの文章を「再利用自由」とする方が、少しずつでも増えていったら嬉しい。
現在の著作権啓蒙活動は、「自分の権利意識を喚起することで、他人の権利への想像力を養成する」方向性に偏っている。「コンテンツを開放しよう」という話は、せいぜいクリエイティブ・コモンズくらい。現状を考えれば、無理もない話だ。「CCマークによると、この画像は非商用なら勝手に使えるっぽい」とかいって、大切な著作者名表示を怠っている人はじつに多い。まだまだ啓蒙が足りない。しかし将来的には、「ただし勝手に自由に使えるコンテンツもあるよ」という話も広まるといい。
なし崩し的に、それで生活しているプロの作品がフリー素材扱いされる(MSN産経ニュースの写真などは無断転載されまくっている)一方で、具体的被害のないケースで激しいバッシングが起きるというような、今の状況はおかしい。テレビ番組を切り貼りした動画がPVの過半を占めるYouTubeを受容する前に、人々はまず自分のコンテンツの素材化を許容するべきだ。
……と訴えても、人々に言葉は届かない。「もう8年ほどこのようにしていますが、全く不利益はありませんよ」と、自ら実績を積み上げていくしかない。
「これってまさに俺がいいたかったことだよ!」という文章があるなら、いちいち自分の下手な言葉で書き直す必要のない世界がいい。今日の気分を iPod に入れる曲目で表現するように、あるいは服装をコーディネートするように、日記だって心に響く言葉の取り合わせで十分なんじゃないか。
他人が作曲して作詞して歌っている音楽で、私たちは満足している。他人がデザインして縫製した服で、私たちは満足している。選択で個性は表現できる。日記だって、いちいち自分で文章を書くなんて、重くない? リンクだけじゃ嫌だよね。原作者が勝手に消したり、書き換えたりする。それに全部じゃなくて一部だけほしい、ってことも多い。やっぱり、転載したいよね。
待て待て、音楽や服は「盗用」してないだろ、って? まあそうなんだけど、人に会うたびいちいち「この服、俺がデザインしたんじゃないよ」とかいわないよね。日記だって、盗用が当たり前になれば、いちいち「この文章、俺が書いたんじゃないよ」とかいわなくて済むようになると思う。
ブログサービスがたくさんテンプレートを用意するようになって、「素晴らしいデザインですね!」という誉め言葉のニュアンスは自然と変化したと思う。