珍しく長文のメールを書いたので、少し整理して採録。
『ハーバード白熱教室』Lecture15より。(注:抄録です)
(マイク)先生の議論は、政策や正義を下から、つまり最下層の目線から議論していることを前提としていますが、なぜ上からではないのでしょうか。
(教授)マイク、いい質問だ。では自分を無知のベールの背後に置いて、思考実験をしてみよう。君はどんな原理を選ぶだろうか、考えてみてほしい。
(マイク)ハーバードも上層思考を進める1つの例だと思います。僕は生まれた時は自分がどの程度頭がよくなるのかわからなかったけど、この場所にたどり着けるよう頑張って来ました。ハーバードが何の資格もない1600人を無作為に受け入れるとしたら、勉強は無意味になってしまいます。
(教授)それで、君はどんな原理を選ぶ?
(マイク)僕だったら能力ベースの原理を選びます。自分の努力に応じて報いられるシステムがいいと思います。
(ケイト)1つ疑問があります。その能力ベースというのは皆が平等なレベルからスタートできることを前提としていて、そこからどこに辿り着くかによって報いられるということでしょうか。教育が始まったとき、その人がどれほど有利な状態にあったかは無視するということでしょうか。
(マイク)誰もが平等なレベルからスタートできるわけではない、といいたいのでしょうが、僕はそうは思いません。能力に報いるシステムは誰にとっても最善のものだと思います。上位2%に属する人も、下位2%に属する人もいますが、結局のところ、それは生まれながらの違いではありません。努力に報いることが最下層のレベルを押し上げるのです。
(ケイト)でもここにたどり着くまでの過程で、明らかに有利な条件下にいた人もいるはずです。そういった人の努力になぜ報いなければならないのでしょうか。私と同じだけ努力した人が皆、この大学に来ることができる同じだけのチャンスがあったとは思えません。
(教授)以前、こんな調査を行った人がいた。アメリカの優秀な大学、146校の学生を対象に統計を取り、彼らの経済的なバックグラウンドを調べようとしたんだ。その中で家族の所得が下から25%に属する学生はどのくらいいたと思う? わかるかな? 最も優秀な大学では、貧しい家庭出身の学生はたった3%しかいなかった。70%以上が裕福な家庭出身だったのだ。
(教授)幸運よって便益を享受することは、それが最も恵まれない人の便益になるという条件の下のみ許される。例えば、マイケル・ジョーダンは稼ぎの大部分を他の人たちを助けるために税金として支払うというシステムにおいてのみ、3100万ドルを稼ぐことが許される。
(ケイト)平等主義者の主張は、才能のある人が稼いだものの一部が分配されてしまうことを知っているのに、それでも一生懸命働くだろうと考えるもので、ずいぶん楽観的だと思います。能力がある人が才能を最大限に発揮することができるシステムは能力主義システムだけだと思います。才能は明らかに恣意的な要素ですが、それを正そうとするのは弊害があります。
(マイク)この教室に座っている僕たちは皆、君たちは何もつくりだしていない癖に受けるに値しない名誉を受けているといわれているようなものです。足の早い男が競争で走ることで社会全体が悪影響を受けるという考えに僕たちは嫌悪感を抱くべきです。一番才能に恵まれた人が早く走ることで、僕らももっとも早く走れるかもしれないし、僕の後ろの人やさらにその後ろの人ももっと早く走れるかもしれません。
(教授)わかった。マイク、君はさっき努力について話したが、成功するために一生懸命働いた人には、その努力に見合った報酬を得る価値がある、と考えているんだね。それが君の弁護の背景にある考え方だ。
(マイク)もちろんです。マイケルジョーダンをここに連れてきて、なぜ3100万ドル稼ぐのか聞いてみれば、トップに立つまでに彼がどれだけ努力したかわかると思います。違った角度から見れば、僕たちも基本的にを少数派を抑圧する多数派です。
(会場一部拍手)
(教授)賛同者がいるようだねぇ。
(マイク)そんなに多くはないですけど(笑)
これらの記事について、概要、次のような感想をいただきました。
少し思うところあって、応答のメールはかなりの長文となりました。そのメールを再整理したものを、以下に示します。
マイクの意見にケイトが疑問を提起し、サンデル教授はケイトの発言を支援しました。間接的であれ、教授の発言がマイクへの反論として機能していることは明白です。
サンデル教授の巧みな誘導により、リバタリアニズムとリベラリズムの典型的な対立構造が提示されたわけで、講義としては成功しています。ただ、議論は噛み合っていません。
マイクは条件の違いを無視しているわけではない。環境にも能力にも格差はある。だから、最下層から本人の努力だけでトップへ到達できるわけではない。
しかし、下位2%の立場に甘んじているのは、当人の努力不足を指摘できる種類の人々ではないか。逆に上位2%に入るためには、幸運に加えて努力も必要だったはず。マイクは、そう考える。だから「全員にインセンティブを与え、真に最下層の人々の生活を底上げできる能力主義が望ましい」と結論するのです。
金持ちの所得を再分配するだけで社会が豊かになるか。なりはしない。みんなが生産性を上げて、経済成長を実現していかねばならない。……と読み解くと、これは経済学の知見とも合致します。
マイクは、出発点の格差、結果の格差を否定していないのに、ケイトは実質的にマイクへの「反論」として結果の不平等を指摘しています。もし『Justice』が論理学の講義だったなら、ケイトの「反論」が反論に なっていないことを、教授は指摘したでしょう。
ところが、ケイトの攻撃は弁論術としてはきわめて有効であり、マイクは痛恨のミスを犯しました。ケイトに答えて、「結果の不平等がすべて恣意的な要素に基づくものではない」と主張してしまう。これでは「恣意的な要素に基づく分配は道徳的には正当化できない」というリベラリズムの根本概念を認めたも同然。
こうなってしまうと、ロールズに反論するのは極めて困難です。実際、マイクの主張は、Lecture15,16を通じて「出発点の格差への対応策がない」「努力と成果の相関は不確実だ」「努力も環境に左右される」と袋叩きにあいます。
相手の論理を取り込み、「それでも私の結論は揺るがない。あなたは議論の前提を間違っているから、結論も間違っているのだ。本来は私の主張に賛同できるはずだ」とやるのは、ありがちな失敗パターン。自説を導く論拠を安直に増やしていくと、しばしば論拠同士が矛盾してしまう。とくに対立する意見の論拠を取り込むのは、敵兵をみすみす城内にひきいれてしまうようなもの。
マイクは「能力の劣る者が、ただ待っているだけで大きな分配を受けられ、努力しても相対的に小さな果実しか得られないとしたら、人々は努力して自らを高めるより、確実に分配を受けることに注力するでしょう。逆に私財の分配を強制される成功者もまた、意欲を損なうことになります。結果、社会は活力を失い、みなが不幸になります」というロジックを強調すべきでした。ケイトの主張に一理あると認めるにせよ、「仮に恣意的な分配が問題だとしても、その解決を優先順位の最上位に置くのは間違っている」と釘をさすのが正解。
マイクはミスを挽回できず、自説の正しさを確信したまま、議論では自滅していく。次第に苛立ちが募り、終盤には足の早い男が競争で走ることで社会全体が悪影響を受けるという考えに僕たちは嫌悪感を抱くべき
などと、「いや、誰もそんな主張はしてないし……」と聞き手を呆れさせるような発言に至ります。
ちなみに、リバタリアニズムの教典は、財産権という「人権」を楯に、所得再分配を否定しています。双方同意の市場取引を通じて得た財産は正当、という手続き論を取り、格差自体の正当化はしない。
つまりノージックは、人々が自らの意思で税金を納め格差縮小に寄与することには、何ら反対していません。あくまで、政府が強制的に個人の財産を奪うことだけを問題視しています。(私の理解です)
おそらくマイクは、真正のリバタリアンではないのです。上では痛恨のミスと書きましたが、それは正直な発言だったのでしょう。しかしそれゆえ、マイクは矛盾に直面しました。
不平等も悲惨も現実にあるので、苦渋の選択は避けられません。ノージックは、「それでも財産権の侵害はダメだ」と言い切った。マイクには迷いがあるので、現実の方を捻じ曲げて、格差を正当化したいのだと思う。それができれば、所得の再分配に反対しても心が痛みませんからね。
……ともあれ、サンデル教授の講義は論理的ではありません。学生も非論理的だし、教授の仕切りもそうです。
教授の狙いは典型的な正義の対立構造を教室に再現することなので、むしろ個々の学生が直感的に持っている「異なる価値観への嫌悪感」をあぶりだすことに注力しています。功利主義の扱いなんか、相当にひどいと思う。でも、講義の進め方としては悪くありません。
論理的な議論をすると、最終的には根幹の価値観に行き当たり、その先は説明不能になります。双方、説得が不可能となり、お互いの主張を理解(≠賛同)することしかできません。
ノージックがどうして究極的に不平等より財産権を重視するのか、ロールズがなぜ恣意的な分配に断固反対するのか、それは謎です。分厚い主著を読んでも、それは議論の出発点であって、結論ではないのです。根幹の価値観が違うので、ノージックはロールズを説得できないし、逆も同様です。
けれども、多くの人は彼らほど純粋ではない。マイクが肝心要の部分でリベラリズムの前提を受け入れてしまったように、そして学生たちが、「分配の正義は道徳とは全く関係がない」というロールズの論理的思考の帰結に「えっ!?」となったように、いろいろな価値観を併せ持っています。
サンデル教授が学生たちに非論理的な「議論」をさせておくのは、それが世間で現実に行われている「議論」に近いからではないかと私は思っています。
ハーバード白熱教室ノートの欄外:サンデル教授の六本木講演は失敗だった?(2010-08-30)で私が指摘しているのは、それがサンデル教授の狙い通りだとしても、『Justice』の講堂で行われている議論は論理的でなく、講義の内容を正確に反映した議論も行われてはいないことです。
サンデル教授の六本木講演はネット中継され、同時通訳で行われたために、編集と吹き替えの効果が剥落しました。そのために議論の水準が下がったように見え、ネットで「日本人は議論ができない」といった意見が噴出したのだろうと思います。