趣味Web 小説 2012-01-25

経済成長と(主観的な)生活水準

1.

高齢化にともなう経済格差の拡大は一種の自然現象ですから、人為的に矯正する必要はありません(無理に平等にしようとすると共産主義になってしまいます)。クリエイティブクラスとマックジョブの二極化はこれからもつづくでしょうが、これは個人の問題で、だれもが経済的に成功できるユートピアはあり得ません。

それに対して、核家族化や単身化にともなう経済格差の拡大は簡単に解決できます。

私は「大家族制には戻らない(それほどの経済破綻は起きない)」と予想する。バブル崩壊後も日本経済は拡大し続けてきたが、その富を費やして実現したのが家族の解体だった。

「4人家族が4LDKに暮らして各部屋にクーラーをつける」のと、「4人がバラバラにワンルーム(クーラーあり)のアパートに暮らす」のでは、後者の方がよほど贅沢だ。しかし主観的な生活水準は、逆に貧しくなっている。4LDKのマンションで「各部屋に専用のキッチンとトイレとシャワーがあります」といったら、「何それ!? 無駄に贅沢!!」と驚くわけだが、現代の私たちは、実質的にそういうことをやっている。

それで、私たちは「豊かさを実感できない」と文句をいう。だがしかし、過去の生活水準を取り戻そうとして、4LDKで一緒に暮らす未来は想像できない。精神的な気楽さを加味すれば、現在の方がマシだからだ。最終判断は合理的になされているが、途中の部分が錯誤の霧に覆われていて、納得感がない。そんな状況である。

所詮は個人の価値観の問題なので、「自由」より生活水準を重視する人は、もちろんいるだろう。しかし社会全体の傾向としては、大家族制に回帰するとは到底思えない。

2.

貧しい人が逆に結婚しないのは何故かといえば、いろいろな「結婚しなければならない理由」が消え失せたいま、「自由」の抑制に見合う条件が、それだけ吊り上がっているということ。逆にいえば、経済的な豊かさ(あるいは経済的な「自由」)など、心の「自由」と比べれば大した価値を持たないということでもある。

朝起きて、「おはよう」と「いわねばならない」。帰宅したら「ただいま」と「いわねばならない」。いってもいわなくてもどちらでもよいなら「自由」だが、自分自身が、同居人にそうした「自由」を認めない。空気のようなルームシェアは、できない。海外には事例があると聞いても、それは別世界の話である。日本では、自分が他人に不寛容なように、他人も自分に対して不寛容だろうと思う。その連鎖。

日本国の原則―自由と民主主義を問い直す

明治時代、日本の経済発展は、「子どもが死なずに育つこと」のために、ほぼ全て費やされた。経済規模は急拡大したが、子どもと若者(非熟練労働者)の増加によって食い潰され、1人当たりGDPはほぼ横這いだった。だから国民は、主観的には、経済発展を実感できなかった。1人当たりGDPが増え始めるのは、「過半が成人するなら、そんなにたくさん子ども要らないし……」と人々が気づいた大正時代になってからのことである。

1990年代以降の日本で起きているのも、だいたい同じような話だ。まず、労働力率が低下している。そして、核家族化や単身化が進んだ。状況は明治時代より悪い。1人当たりGDPに減少圧力がかかっているだけでなく、たとえ1人当たりGDPが横這いでも生活水準は下がっていく。

おそらく、ちょっとやそっと経済成長したくらいでは、生活水準は上がるまい。経済成長の果実は、子が親を扶養する一切の義務を放棄するために「浪費」されるだろう。その次に待つのは、最低限の子育てに必要な一切の経費をタダにすること。少子高齢化を考慮すれば、ざっと経済規模が2倍になるまでは、生活水準が上向くことはなさそうだ。

所詮は家庭内労働を市場に任せるだけの話で、直接負担するか、間接的に負担するかの違いかもしれない。だが、その違いこそが「自由」の源である以上、人々は生活水準よりそちらを優先すると思う。

3.

いま日本人は、経済成長に背を向けたつもりでいる。貧しくなったつもりでいる。しかし、80年代より90年代、90年代より00年代の方が、1人当たりエネルギー消費量は増えている。

全ては、2006年の記事の、引用した部分で尽きている。日本人は、家族のある人が孤独死できるほど、豊かになった。

Information

注意書き