ネズミを妖精の家だと思おう。
昔、王様は、ネズミが生まれたとたん、強制的に断種手術を行った。 ネズミを独占して見せ物にしていた王様は「ネズミが勝手に増えると困るから」と考えたのだ。
王様は自分の皮算用で、利潤を最大化できるように、少数のネズミだけを管理して育てた。 人間の計算などあてにならない。 王様印のネズミはどれも似たり寄ったりで、しだいに飽きられ、王宮は寂れた。 妖精たちはネズミを家にするのをやめた。 王様はネズミに断種手術を施していたので、次世代のネズミは生まれず、そこでネズミは絶滅した。
それでも、王宮の外の森では、野リスが勝手に繁殖していた。 その森にふさわしい個体数と多様性を自律的に保ちながら。
人間たちは、断種手術を施された王様のネズミを哀れに思ったけれど、それを愛することはできなかった。 でも、人間たちは、かわいい野リスには思わず微笑みを浮かべ、 頼まれてもいないのに、えさを与えた。 ヘルシンキの公園で見られるように、ひざの上に飛び乗ってきた野リスが、あなたのパンを無心に食べるのをみて、 あなたもなぜか幸せだった。
こうして、王様と王様のネズミは滅び、 人間と森のリスはいつまでも幸せに暮らしました。
アダム語で「イブ」と呼ばれていたわたしは、わたし自身を参照するためのイブ語でのべつの名前を持っていたが、アダムは、アダム語しか知らなかった。
2001年に書かれた『「サイト案内」考』は、相当に「生な」(つまり整理されていない)メモだが、 不思議とインスピレーションに満ちている。 例えば、次の記述は数年後に花開く「ブログ」文化のことだろう。
日記ふうだけど、何時に起きて何を食べてみたいなレイヤを隠蔽して、「自分」イコール「その日に自分が扱った情報ストリーム」になってるサイト。この種のサイトは、まだ「何系サイト」みたいな呼び名も決まってないだろう
「霊が見えると怖いか、霊は見えないから怖いか」という問いかけも、触発的だ。
ブログは単なる文化現象ではない。 リアルで存在した出来事を書き綴る日記(つまり、リアル世界の記述)から、 ネット上で存在した出来事を書き綴るログへの変化とは、すなわち、ネットのブーツストラッピングを意味する。 理論上、ネットの「質量」がさらに増大し、ある臨界点を越えたとき、ネットという系は外部からの情報の入力なしに、それ自身で閉じた世界になる。 それはブラックホールのようなもので、外部から中身を操作できない。 Freenetのような系は、抽象的にはそういうトポロジーだ。
なぜあなたは「情報が分散的にキャッシュされ、いざというときに削除できないのは困る」と信じるのか。 それは、あなたが匿名でないからだ。 自分の悪口や不利益になることを書かれて、それを削除できない、責任を追及できないのは困る、と考える。 それというのも、あなたが「自分」を持っているからだ。 そういう意味では、中途半端に匿名なのが問題で、もっともっと、すべてが無名になり、リアルと関係ない閉じた世界になれば、問題がなくなる。
無名の相手、事実上いない相手の名誉を損なうことはできないし、 無名の相手、事実上いない相手のプライバシーを暴くこともできない。 定義により無名なのだ。
もちろんそれは「純粋な妖精の世界」であり、現実には不可能な理想気体だ。 しかし逆に、妖精は常に無名だ。 人間と妖精は友だちだが、どちらかがどちらかを一方的に支配することはできない。
ゴッホというサイトを強制閉鎖し、ゴッホを死刑にしても、ニジンスキーは生まれる。
かれらは詩神ミューズの直轄植民地であり、妖精の国だ。 人間の王様の命令では、増やすことも減らすこともできない。
「オタク」という言葉は、いろいろなニュアンスで使われるので、論点がぼやけてしまうかもしれないが、 オタクには次のような矛盾がある。
マニアックでマイナーな、通常の人にとってなじみの薄いものについて、熱く語る。
すごくいいよ、と勧めたりする。
ところがその「お勧めのもの」が普及してしまうと、熱が減少する。
ここでオタクと非オタクの差が出る。
非オタクは「そんなもの全然普及してないじゃん」「将来も普及しないよ」「だから駄目だ」と考える。 寄らば大樹の陰というところだが、 明確な主張を持つ真のマニアになりきれない一線とも言える。 普及していないから不安、みんなが使っていないものは駄目。 非オタクは一般人であり常識人でありマスな存在だ。
オタクは逆に「普及してないから、おもしろい」と感じているふしがある。 もちろんメジャー系だからというだけで全否定するわけではなく、 メジャーだろうがマイナーだろうが自分が興味あるものは興味あるのだが、 それでも、マイナーだったものが普及してしまうと、ある種の寂しさを感じないでもない。
突き詰めれば矛盾している。 何かを紹介するにしても、紹介するからには情報を広めたいと思っているわけだが、 同時にあまり広まってほしくないとも思っているわけだ。
このような両方向性は、ドナ・ウィリアムズの次のような言葉とも重なってくる。 「外へ出て戦いたいという気持ちと、内にこもりたいという気持ちの両方が強くて、 自分がばらばらになってしまいそうだった」
言い換えれば、たまたま普及するきっかけを作ってしまったとしても、 普及してしまった後のアフターケアがなっていない、ということだ。