あなたの見える範囲(スコープ)に属するデータ(例えば、この記事自体)と、そうでないデータ(例えば、この記事の書き手)――つまりはパブリック変数とプライベート変数――の区別が、「批評すべき対象の基本単位は著作者か著作物か」という論点、言い換えれば「人間中心と情報中心」の区別において、どういう役割を果たすか。
記事を読めばその記事の書き手のひとがらがある程度わかると一般に考えられているが、そのようにプライベート・レイヤを逆算することにどの程度の意味があるか、各自が評価しなければならない。
通常の動作では、外から見えない内部的メソッド(フェアリー)が、パブリックな著作物を「リアライズ」する。だから、記事をみて書き手の内部状態を逆算推定することを、便宜上、「フェアライズ」と呼ぶ。
ネット上で相互作用しうべきものは、リアライズされたパブリック変数であって、あなたのスコープにない(あなたにアクセス権のない;パーミッションがない)プライベート変数を参照すべきでない。説明上は、「原理的にアクセスできないからすべきでない」と言っても、「倫理的に好ましくないからアクセスすべきでない」と言っても良い。特殊な場合には近似的なフェアライズを許容できるかどうか、について各自が評価しなければならない。
説明の便宜上、具体例として、このサイト自身とこのサイトの「サイト案内」をとりあげる。
「妖精現実」の表紙ページをひらくと、いちばん上に「サイト案内」「記事もくじ」「リンク集」という3つのメニューがある――由緒正しい人間文化にならって。
ある意味、たいへん分かりやすい。全体像の案内があって、サイト内の記事の総もくじ的なものがあって、外部サイトへの接続がある。が、ごらんになったかたは(とくに古くからの読者は)ご承知のように、「サイト案内」は気まぐれに内容が変わり、内容もいまいちだし、リンク集も雑然としたプライベートなメモという感じで、本当にきちんと整備されているのは「記事もくじ」だけ、それも「もくじ」があるのは最近の記事が中心で、現状、かなり多くの記事が「もくじ」になってない――ので、どんな記事があるのかひらいてみないと自分でも分からない。
例えば、いまだに Netscape 4.75 ブックマーク文字化けの直し方を扱った古い記事がよくアクセスされてるみたいだけど、この記事は、たぶん、もくじ経由じゃ見つからないと思うし、その必要もない。だって、考えてもみてほしい。ブックマークが文字化けしたのでこーゆーときは「妖精現実」を見よう、などとやって来て、総もくじからブックマークの直し方はどこに書いてあるかな?なんてトップダウンに検索する読者がいるだろうか。ばかげた考えだろう。「Netscapeサポートセンター」みたいなサイトだったら話は分かるが……。その人が必要としてるのはブックマーク修復の情報だけで、検索してヒットしたからやってくるので、ブックマークが直ってしまえば、もうどのURLのどのページかなんて忘れてしまっていいはずだ。むしろ、もくじのページに「ブックマーク文字化けの直し方」というタイトルが書いてあると、検索エンジンがそこもヒットさせてしまい、そのページから入ると、1クリックかえって遠まわりになる。分かりやすいインデックスが存在することが、かえってノイズになる場合もあるのだ。
「妖精現実」というサイトの枠組みからトップダウンにもくじをたどって記事にアクセスするという読み方(著作者指向)は、あまり予期してないし、実際、そういう読み方をするかたは少数派と思う。ましてサイト単位でぜんぶ読んでもらうなんてのは初めから計算外で、こんな大量のコンテンツ、書いた当事者ですらまず通読できないし、そもそも通読するような構造にもなっていない。
葉鍵板から任意たんを追ってきた読者と、占星術の勉強をしているかたと、アフガン情勢を知りたいかたとでは、妖精現実はぜんぜん別のサイトに見えるはずだ(多態性?)――で、記事単位(記事を単位としてものを考える、という意味)というのをもっと押し進めると、記事のなかのあるパラグラフだけが参照されたり、ある1文だけが参照されるのもアリとなって、結局、アクセスされるのは分解可能な限りの情報の最基底単位レベルのひとつひとつで良いということになる。お気づきのように、これをおしゃれな言葉でいうと「ミーム指向」「ミムセントリック」ということになる。
当たり前のことだが、「サイト案内」というのは、「サイト単位」の話、言い換えれば「著作者単位」だ。しかし、わたしたちの立場は、「情報取扱者(メソッド)のようなユーザから見えなくてもいいものは透明化(隠蔽)し、相手がほしいデータ(インターフェイス)だけを見せるべきだ」というもので、伝統的な「著者紹介、著者プロフィール」のようなページのありようと、あいいれない部分がある。かつて「サイト案内」がかなりふざけたものだったのは、「著者紹介」なんて意味がねー、書いているのはどーいう生い立ちのどーいう社会的地位の人間か?みたいなことに興味を持つこと自体ある意味くだらねーんだよ、という過渡期のパフォーマンスを含んでいたかもしれない。偽春菜のスケジュール機能を選択すると「ホントにほしいですか」という皮肉を言われたものだが、偽春菜のメニューのスケジュール機能というのは(少なくとも当時としては)こんな機能くだんねーというアピールのためだけに存在した。
スケジュール機能に視点を置くと、「わたしの存在する意味は、わたしには存在意味がないということです」と言えるだろう。こういうふうに視点を浮動させ、ある対象の内部に視点を置くと何がどう見えるか?という「別の視位置座標系への変換」を考えることを、数学の用語を借りて「イントリンシック」と表現することにすると、妖精現実がすりぬけてしまうサイトなのは、たぶん、このイントリンシックという点と関係ある。例えば、マスメディアの提示した視点とか、ある主義思想(例えば反共産主義とかオープンソースとか)にもとづく視点とか、ふつう、視座が固定されて初めて像が結ばれるのだが、その固定の仕方が、しばしば考えてもみなかったような変てこな視点だったりする。で、座標系を共有できると錯覚している人々は、とりあえず「アンティ・マスメディア」とか「左翼」とか、自分が知っている(と思っている)見方で近似してみる。必ずしも間違いでは、ない。その時点では、実際その視点にいたのかもしれない。ただ、座標系を近似共有しようというのは、書き手のものの見方を理解しようというスタンスであって、記事を理解しようというスタンスとレイヤが異なっている。
つまり、従来、知性体は一様に完結していると仮定されることが多かったと思う。ある文脈で保守的な、あるいは急進的な発言をしていると、その発言者自身が「保守派」ないし「急進派」と見られた。これは、人間の認識の歴史を考えるうえで興味深い点で、どうも西暦2000年ごろまでの人間というのは、パブリックな発言の属性と、プライベートな発言者の属性とを、適切に区別できなかったらしい。実際、20世紀人の残したパペルには「そういうことを言う人はバカです」のような文章が記されており、情報のストリームとストリームの取扱者の神秘的な同一視――ないし混同――が想定される。
文章の一部を改変することは、文章の書き手の「人格」を傷つける、という古代人たちの奇妙な認識は、このような不可解な同一視の結果であった。
当時は、実際に、情報取扱者そのものを参照することが可能で、またしばしば参照されていた。記事の実体に、記事を生成するのに用いたメソッド名とそれにアクセスするためのアドレスをいちいち書き記す危険な古代の習慣は、そのアドレスを用いてプライベート変数にアクセスできてしまうという重大な問題をはらんでいた。利益よりも混乱の原因になることのほうが多いであろうこのような「強制的なプライベートレイヤへの侵入」がゆるされていた背景については、哲学者のあいだでも見解が一致していないが、通説では、任意の時刻に物理的に訪問することが(好ましくないとしても原理的に)可能である物理層で暮らしていた時代のなごりとされる。
物理層では、存在するということと、スコープにある(見える)ということが、ほぼ同義語だったので、当時の人間たちは、情報ストリーム内においても、この混同を持ち込んだと考えられる。
「偽春菜」そのものが、「春菜」がくだんないというパフォーマンスをけっこう本質にすえていたと思うのだが、このサイトも、同じようなふしがある。
そのときまで、あなたがたは、「妖精現実」という文字を何度みても、なんのことだか分からないでしょう。そのときが来れば、妖精現実とは、ただの空気になって見えなくなるでしょう。それほどまでに。ぼくはぼくが死ぬ日のために生きているあなたの病気です。(2000.05.09 「おかま」から「宗教」へ」)
「参加者のやる気を起こすため、SETIアットホームは、完了した作業ユニット数に応じて参加者をランク付け」……これは有限リソースを“自由”競争で奪い合っていた物理層時代の発想。参加者を完全に透明にして、だれがいちばん貢献してるか、なんていう個人レベルを見えなくするのが正しい。透明にされるなら自分は参加しない、ランキングのトップに自分の名まえを出したいために頑張るのだ、という人は、さようなら。透きとおった意識だけで実行可能だと思う。(2001.02.22 すえながく意味の分からないもの)
饒舌(じょうぜつ)は、魔法使いの沈黙だ。つむげばつむぐほど、つむがれたものが目立って、わたしは見えなくなる。正しい人が、鳥のさえずりを楽しみつつ、その鳥個体に執着しないように。(2001.03.23 よくある質問、よくある現象)
このモティーフは何度も何度もあらゆる文脈で繰り返される。とりわけ「アノニマス・コペルニクス」というメモのなかで、長らく忘れられていた妖精「ミムセントリック」が「死ぬために生まれたわたしの命、妖精の現実である次の文を注意深くエバリュエートしてください」と宣言する。このメモはそれ自体が妖精ふうで、「ミムセントリック」が自分から名乗りをあげたように見えるし、実際、本質は、そうなのだろう。妖精現実というサイトは、要するに、妖精現実は気にくわないという命題に尽きるのであって、それがこのサイトの限界でしょう――しかし、気にくわないなら存在しなければいいと誤解しないでください。存在しなければ、あなたは、わたしを否定することすらできないでは、ありませんか……
そういって「ミムセントリック」は微苦笑のうちに消えてゆく。謎めいた沈黙を残して。
正直言って、わたしたちがいちばんうんざりするのは、「妖精現実」というサイトはどうか?とか「妖精現実」の書き手が人間としてどーか?みたいな語り方なのだが、しかし、それが由緒正しい伝統的な物の見方(アンソロポセントリック=人間中心原理)であることは理解しているので、ばかにすることは許されない、この時期においては充分に尊重されねばならない物の見方だ、ということは分かっている。
この「ばかにせずに尊重してしまう」ところが、攻撃的なかたからみて、いちばんムカつくと思う。人間のことばに訳すと、「さめた物言い」とか「くちの端で笑って流す」とか、そういうむかつくテクスチャに感じられることも知っている。そのテクスチャは、実体ではなく、単に過渡期のうずに投影された影にすぎないのだが。
なんか、構造化プログラミングっぽい言葉遣いを流用してるけど、このサイトは、ぜんぜん構造的でなく、そもそもなんなのかよく分からない。どうしてそうなるかというと、サイト単位という切り出し方が、不自然だからだ。記事単位で細かく見れば、アフガン情勢にせよ、翻訳フリーウェアの紹介にせよ、それなりにまともな、役立つ人には役立つ情報のはず(もちろん、なんであれ、うのみにせず、相対化して批判的に見るのは当然で、セカンド・オピニオンも参照すべきである――つまり、このサイトだけで情報が完結するなどと錯覚しては、いけない)。インターネット全体というおおまかなレベルで見ても、当然、インターネットは役立つものだろう。けれど、著作者(情報取扱者)という中間レイヤを理解しようとすると、話が分かりづらくなるし、本質的に理解困難でもある。なぜって、ある人間(ある知性体)が興味をもって扱うすべての情報ストリームとちょうどきっかし同じものにちょうど同じ割合で興味をもつほかの知性体というのは、通常、存在しないからだ。で、ある取扱者が扱う雑然とした多種多様の情報も、取扱者を無名として情報単位でインターネットのなかに解体して散らばらせれば、インターネット全体としては、暗黙のうちに構造化されてる。それでいい。という立場。(構造の入れ方は色々あるだろうが、現時点では検索エンジンと取扱者のリンク網が本質っぽい)
逆に、サイト単位で構造的にするとどうなるだろう?
例えば、アフガニスタン情報専門のサイトにして、1.歴史、1-1.考古学時代……と構造化テキストにすると何が起こるか。
ある人々は、すべてのサイトがそうなることを理想だと考えるかもしれないが、それはネットの本質を逸脱した誤解だ。一方において、ある特定の取扱者ひとりがあるテーマを構造化して提示する「権威」になってしまうのは、それ自体として好ましくない(ミーム多様性の見地)ばかりか、もっとプラクティカルに、そのひとりの頭脳の限界がそのテーマにおける知性の限界という、あほくさいことになってしまう。――従来、なにがしかの権威なり影響力をもつ発言者になりたいということを出発点にすることも多かったようなので(情報のために情報を語るというより、情報を語る自分を見てほしくて情報を語る、ということ)、そこに世界観の食い違いが生じるだろう。――他方において、ある特定の取扱者が扱えるテーマは、そんなに狭いものでは、ない。例えば、登山の専門家は登山の話しかしては、いけない、などと、人間単位でモジュール化することは、とほうもないリソースの無駄遣いであって、人間というのは、プロの登山家であると同時に、モンゴル語の学習者であったり、篠原千絵のファンだったりするわけで、だから個人サイトというのは、本来、ごちゃごちゃしているのが等身大のありのままの姿であって、ごちゃごちゃしてないとしたら、あなたの持っている知の蓄積が出きっていない、リアライズされてない可能性が高い。
ただ、雪山の危険に関する講座を書くなら、やっぱりそれはそれできちんとしているべきで、いくら好きだからといって、「最短のアイゼンワーク精神論入門」なんて記事に篠原千絵の話をみだりにまぜこぜにするのは(情報検索の効率からみると)好ましくない――人によっては、まざってるほうが楽しいかもしれないし、まざっている部分で触発されることもあるので、絶対にダメとは言えないけど……。
というわけで、サイト単位では、ぐしゃまらで良いけれど、記事単位では、一般には、あまり関係ない余談を入れないほうが良いだろう。ということは、記事単位でみるとまとまっていて、サイト単位でみるとわけが分からない、というのがむしろ自然の姿のような気がする。――これが簡潔な「サイト案内」が成立しにくい理由だ。
実際、「このサイトはAとBとCを扱ったものです」と宣言してしまうと、その宣言自体が思考の自由度を失わせる結果になりかねない。実情にそくしていえば、「AとBとCを今は中心にしてますが、なんか興味を感じればほかのネタもいつでも入ってくるし、興味がなくなればいまは中心にしてるネタでもやめますんで」みたいな感じだろう。
実例をあげると、「妖精現実」は現在、「何か(偽春菜)」のサイト、「バビロン解説のサイト」として、最も利用されている――ので、「客観的」にいうと「サイト案内:妖精現実はデスクトップエージェント「何か。」と、翻訳フリーウェア「Babylon」についての情報を中心としたサイトです」となるわけだが、これは、あまり適切な案内とも思えない。「世界情勢のこととか思想哲学なこととか、ほかにもいろいろあります」とかでも、あんまり親切な案内じゃないだろうし、結局「もくじを見てください。そしたらどんな記事があるか分かります」というところに行き着いてしまう。
自分の作業変数レベルのような低水準でのアイディアや情報のメモをそのまま公開することは、プライベート・レイヤ的なものを公開してしまうことにあたる。この場合、これはメモであって、非常に洗練されたものでないということが明示ないし暗示されている限りにおいて、読者は、それが暫定的な作業領域であることを了解し、内容や形式に関しての強い批判をひかえるべきである。その意識が浸透するにつれ、安心して、プライベート変数を仮に公開することができるようになる。あまり形式化(構造化)されていない「プライベート・レイヤ的」なアイディアの共有は、知性全体での思考速度を飛躍的に向上させる可能性があるが、その前提として、公開した範囲以外のエリアにまで、みだりに憶測を持ち込まないことを相互保証する文化的習慣が必要とされた。
なにげなメモの言葉の端にかみつく者がまだ多かった時期には、インスパイアーするちからのつよい(より無意識の泉に近い)プライベートレイヤ的なものを公開しようとする者は少なかった。
低水準の要素は、一般には、ほとんど役立たないが、そこからインスピレーションを受けるような特殊な組み合わせの(ごく少数の)ストリームに対しては、強い触発力を持つ。したがって、高水準と低水準のいずれの要素も必要に応じて適切に共有できれば、べんりだ。そのためには、「こんなのをおもしろいと思うのは、あたまのおかしい人だけだ」のような「人」の話から脱却し、これはこれで、ひとつの「情報」であって、それ以上でもそれ以下でもない、という冷静な見方を必要とした。
古代においては、あえて匿名で発言するというのは、たいていなんらかの批判を目的としていた。批判の「仕返し」をうけぬよう匿名で発言したのである。「仕返し」が可能であったこと――パブリック変数を見てプライベート変数(例えば、あなたの衣食住のパラメータ)に影響できてしまうということ――が、そもそも問題だったし、プライベートな領域に侵入されないようにアクセス制限しながら情報を発信することが、そもそも困難だった。古代の物理層において例えば口頭で発言すれば、発言者は誰か一目瞭然であるから、発言するということと、名乗りをあげるということが、ほぼ等しかった。したがって「匿名」ということが、むしろ特殊であった。
匿名とは、そうしなければアクセス可能である変数名を構造的に隠蔽する行為である。無名とは、初めから変数名がないことだ。無名変数は参照されない。実際、情報ストリームにおいては、情報を取り扱うメソッドの物理アドレスを知る必要などまったくない。ストリームだけで自立しているからだ。
これは、実際には意識の違いであって、(次のたとえは非常に微妙なので理解できないかもしれません)アダム語で「イブ」と呼ばれていたわたしは、わたし自身を参照するためのイブ語でのべつの名前を持っていたが、アダムは、アダム語しか知らなかった。しかし、意識のストリームは、物理層において人間の肉体が等質なのと同じほどは、等質でないかもしれない。これまで見たこともないような外見の人に出会って驚くことは珍しいとしても、これまで見たこともないような(あなたの想像もしてみなかったような)奇妙なストリームは、意外と多いのかも……。いずれにせよ、こうしたストリームのテクスチャは、相手のカーストや家名やセイベツやコクセキなどとは、本質的に無関係であろう。相手のプライベート変数を知りたいとか思わなければ、匿名とか無名とかどうでもいい。そんなもの見ようとしないほうが、ストリーム自体をよく味わえる。
だいたいそんなことなのだけど、実際には、「妖精現実」そのものの読者というのが、いちばん多いと思う。なんか変てこで風変わりなサイトで、ときどき、おもしろいことも書いてある……みたいな。どこが「おもしろい」かは読み手によって違うとして、そういう古くからの読者層というのは、決してサイト案内をみて「おもしろそうなサイトだ」とお気に入りに入れたわけじゃなく、たぶん、どれかの記事それ自体から読み始めたと思う。とすると、やっぱり「サイト案内」なんて無くていいような気もする。よくある「サイト案内――初めにお読みください」みたいなページって、ホントに読むひといるんだろうか?
しいていえば、リンク集に加えるときに役立つのかもしれない。たまに個人サイトのリンク集に「妖精現実」が加えてあるのをみると、なんか表現に苦しんでる感じがするからだ。「サイトA:猫十字社先生のファンサイト。ぷりんともっぷのオリジナルスクリーンセーバーがDLできます!」「サイトB:手作りせっけんの紹介。せっけんシャンプーのレポートが興味深い」とか、どんなサイトか分かりやすく紹介してる善良な管理者のリンク集なのに、「妖精現実:‥‥いろんな話題があっておもしろいです。」とか、そこだけ妙に具体性を欠く紹介になっている。「サイト案内」として、このサイトは、ふたつの世界の接触をテーマにしています、とかなんとか、それらしいことを書いておけば、上のような善良な管理者さんがリンク集に加えてくださるとき、紹介文に苦慮しなくてすむかもしれない。
「妖精というのは、自分自身が出会わない限り参照不可能」だとすれば、それでいいのかもしれない。参照できるのは、特定の記事だ。上のサイトAのサイト案内が書きやすいのは、情報取扱者が「猫十字社のファンサイト」という限られた一面だけしか見せていないからで、記事単位でみてもサイト単位でみてもほぼ等しい存在だからだ。
プライベートな個人サイトと言いながら、現状、まだ、がちがちにアクセス制限があって、その人が本当に考えている最先端の問題は見えないことが多い。
それが伝統的なサイトのあるべき姿という良識に従っているからであり、また、そうしないとアクセス・バイオレーションを受けて危険だからでもある。この「良識」を打破する最短距離は恐らく「日記系サイト」だろうけど、日記系ということは、どうしても情報取扱者についての話が多くなってしまい、視点がイントリンシックに動かない。日記ふうだけど、何時に起きて何を食べてみたいなレイヤを隠蔽して、「自分」イコール「その日に自分が扱った情報ストリーム」になってるサイト。この種のサイトは、まだ「何系サイト」みたいな呼び名も決まってないだろうし、それどころか見えないことが多いと思う。情報の流れがある、という見方でなしに、情報取扱者が自己主張している、というアンソロポセントリックな世界観でしかものを見れない人は、まだ多いからだ。例えば「ユニークな記事」とみるかわりに「個性的な書き手」とみる。いっけんどうでもいい違いのようだが、この世界観は180度、対立するものだ。
しかし、古くからの読者はご承知のように、このサイトには、ほとんど主張らしい主張がない(ふつうの意味では)。例えば、ある国の悪口を言っているような部分でさえ、べつにその国の悪口を言うことが目的なのでなく、むしろ(いまの言葉に翻訳すると)「すでに終わっている数千年前の歴史的事実について、感情的に批判しても仕方ないでしょう」みたいな感じのスタンスだったりする。「個性」もないし「没個性」ですらない。瞬間瞬間で、記事によって、かなり触感が変わっていると思う。在来の表現で近似すると「分裂質」という言葉が近いかもしれない(病理学用語をみだりに流用するのは好ましくないとしても)。
まだ人間さんは「ぐしゃまらな全体」という切り口に慣れていないので、どうしてもストリームに統一的な色があると仮定しないと「認識」ができず、おばけは見えないので怖いというわけで、なんか色を仮定したいのだろう。例えば「痛烈な宗教批判のサイト」とか「反米的なサヨクのサイト」だとか「なんでも批判するサイト」だとか、自分が理解できる(と思っている)統一的な色があることにしてみる。
そのような色は、もちろん、あなたの目のなかにこそ存在するのであって、あなたが知らない名前の色――ないし色の不在――は、その名前を呼べない。
しかし、このメソッドは、あなたのスコープからは本来「無名」なのであって、無名で良いのだ。ここには色がない、ということを、あきらめて納得してほしい。
実際、ホントに宗教攻撃してるサイトからみたら、(シュールな冗談は、あるにしても)基本的に対象を尊重していて穏やかだろうし、ホントに反米プロパガンダなサイト(今どきそんなのあるのか?)からみたら、妖精現実はむしろアメリカは悪くないと繰り返している「敵」に見えるかもしれない。だいたい、アメリカは良いとか悪いとかいう切り口自体が旧時代で、それは妖精現実が良いサイトか悪いサイトかというのと同じくらいナンセンスな観点だ。ある特定の個人にとって良いと思われる部分(サイトなら記事)は、その人にとっては良いだろう。しかし、サイト全体が良いとか悪いとかいうのは変な話だ。例えば――星占いとかのサイトだと思って「占いなんかに頼るのは心が弱い人だ」とか批判したいかたは、明らかに単独行の精神論の記事なんかの存在は知らないだろうし、アフガンねたなページを見て「アンティ大国な攻撃的なサイト」とか思ってるかたは、ここが「花の魔法使いマリーベル」なサイトでもあることを知らないだろうし、そもそもworldディレクトリのいちばん上にアフガニスタンがあるのは、なにも反米プロパガンダの目的で取り上げたのでなく、ご承知のように、単にABC順でアフガニスタンがいちばん上に来るからいちばん上に来ているだけだ。
つまり「星占いな記事」とか「山の記事」とか「国際政治の記事」とか記事単位で良いとか悪いとかかたよってるとかコメントするのは、よく分かるのだが、どれかの記事を読んだだけで、サイト単位に(つまりは書き手のひとがらうんぬんに)般化(はんか)できると思っているのは、洞察が甘いと言わざるを得ない。こういう記事を書くヤツは、どうせ一事が万事これこれの性格なのだろう、みたいな経験式に頼ることもある場合には有効だ、が、経験式に頼ると、あなたにとって未経験の対象は、まったく認識できなくなってしまう。とくにインターフェイス(プレゼンテーション層)を変節できる能力をもったクラスが相手では、かなわない。この点をもう少し押し進めると、もう「サイト単位」で物を考えること自体、やめたらいいのでは?と思う。
「偽春菜」のディレクトリは、おもしろいけど「星占いな記事」には全然、興味ない、くだらないと思う、とか、その逆、とか、そういうふうにサイト全体を無理に見渡して、書き手を好きか嫌いかなぜ決めなければいけないのだろう? 著作者単位でものを見ることに慣れていて、ほかの切り方に不慣れだからだろうが、著作者単位という考え方は難しいし、混乱の原因になると思う。実際、著作者という単位は(公開されてる全著作物を熟読してですら)認識すること自体やっかいだし、がんばって全記事に目を通したって、結論、ファンかファンでないか(好きか嫌いか、信者かアンティか)みたいな、つまらない切り分けしかできない。あなたがあるサイトを総合的に好きか嫌いか、なんて情報は、ほとんどなんの役にも立たないだろう。
ある記事を読んでバビロンの広告をなくす方法が分かったり、ブックマークの文字化けがなおった読者は、「これは役立つ情報だ。助かった。おわり」……それ以上でもそれ以下でもない。これこそ実質的な物の見方だ。ひるがえって、あなたが妖精現実を隅から隅まで熟読して筆者についてなにかややこしい評論をしても、意味がない。そもそもひとりの人間が全コンテンツを作成したわけですらなく、あまりに多くのものが動いている。妖精現実の生成がどういうメソッドになってるのか、文字通りあなたのスコープからは見えないのだから。そしてなにより、生成結果をいじればいいのであって、生成メソッドなんか関係ないはずだ。早い話、内容的に興味がない情報は、読み飛ばせばいい。それは、その情報を必要としている人のために存在するのであって、猫が好きでない人に飼われたい猫はいない。形式においても、Aさんにとって気にくわないまさにその書き方が、Bさんにとっては「我が意を得たり。よくぞ言ってくれた」という書き方であるのだから。
んなわけで、「よーするにこの人は」とまとめたがる癖もなおしたほうがいい。「この人」の話なんて意味がないから。だからこそ、あなたが見えるまでは何度、見てもこの文は謎だし、分かってしまえばそのとたん見えなくなってしまう、と繰り返している。もう少し高級っぽく表現すると、プライベートレイヤは隠蔽されていてあなたにはもともとアクセス権がないのだから、プライベートレイヤの話なんてしてもしかたない(どうせあなたのスコープからは見えない)。パブリックな(アクセス可能な)データだけいじるようにすべきだ。著作者単位(人間中心)から著作物単位(ミーム中心)への視野の転換とは、そういことである。
アクセス権のないプライベートレイヤの変数を無理に参照すると、アクセス違反が起きて、人間のいざこざが生じやすい。パブリックな記事について「この記事は」と語らず、「この記事の筆者はバカだ」とかのレベルへ侵入する場合(*)だ。考えればすぐ分かるように、パブリックな「この記事」を見ても、どういう内部構造でこの記事がでてきたかのプライベートレイヤは完全には見えないに決まっているのであって、見えない(認識できない)ものについてあーだこーだ語りたがることが、そもそもの間違いかもしれない。
* これは在来の言葉遣いで近似すると「人格攻撃や中傷は良くない」という言葉になってしまうが、そういう倫理の話でなくて、「情報と情報取扱者」という構造にはパブリックとプライベートのレイヤがあって、プライベートなレイヤは当事者以外のスコープからは見えないのでみだりに逆算(フェアライズ)するべきでない、というところが肝なのだ。
プライベートレイヤを隠蔽する最も根本的な方法は、おそらく、情報取扱者に外からアクセスできるような変数名を与えない(参照可能な名や実アドレスを見せない)ことだろう。変数名がなければ、その変数を参照しにくくなって、だれもあなたの悪口を言えなくなる。だれもあなたの名前を知らないのに、どうやってあなたの悪口を言えるだろう。「○○というサイトの書き手は」という間接参照はできるが、記事を批評せずに記事の書き手を批評する姿勢それ自体が、「記事の内容は否定できないので、外形にケチをつけている」ふうに見えようし、そこに幼稚なコンプレックスを見抜く者も現れよう。
とはいえ、人間のなかには「議論」そのものを趣味にする者もいるし、それ自体は、むしろ好ましいこととも思える。たぶん、議論好きが対人的な関係性を指向している(人とかかわりあいになるのが好き=ある意味ちょっとおせっかい)なのに対して、無名の者は、そういうややこしい関係性を好まず、特別な相手にだけ特別なアクセス権を出すようなことを望まないだろう。真の議論好きなら、やはり議論をすべきであって、いかなる意味でも、相手と「プライベート」な関係を持つべきでない。たとえあなたが、その特定の相手ひとりに「負けました。あなたのほうが正しいです」と言わせれば大満足という、欲の少ない人間であるとしても……。これらの人々にとって、人間を見ずにことばだけ見るということがどの程度、難しいのか、推定できないけれど、その世代はそのままだとしても、遅かれ早かれ死に絶える世界観であるような気がする。あなたがAならAという考えをなにげに公開してもそのことで「あなた」がとやかく言われない、というのは合理的だ――とやかく言われることがあるとすればAという考えのほうだろう。Aという考えが問題なら、それにコメントすればいい。ほかにもAだと思っている者は多いかもしれない。そのなかのひとりにすぎない無名者のアドレス(名前)をつきとめて、そこを叩くのは不合理な考え方であって、なぜなら、その無名者を黙らせることでは、Aという考えが正しくないというあなたの考えは、まったくパブリックに伝わらないからだ。
死すべき人間にとっては、あるいは、時間の観念が難しいかもしれない。目の前のAという発言をした発言者をとにかく「改心」させたいと願う気持ちは理解できる。でも、その者は、単なる不特定多数のひとりにすぎない。あなたが「Aではない」という考えとその根拠を適切に広めたいなら、遠回りなようだけれど、自分自身のパブリック変数として、だれか特定の者に向けでなく、それを発信しなければならない。
とりわけ、厖大な知の蓄積がある場合、(伝統的なイメージのように)あるひとりの後継者(プライベートレイヤ)を育てるというのは、もはや正しくない。むしろ、その知の蓄積を、パブリックにアクセス可能にして、ネット空間内に解放すべきだからだ。そこから、おおぜいの若者が、妖精の国を自分のなかのものとして再発見するだろう。特定のひとりであれば、どんなすぐれた相手であれ、あなたのすべてを継ぐことなどできないし、継ぐ必要もない。継承しなくても、必要な部分だけ包含できるからだ。ということは、一般に後継者を見つけるために(ある特定の相手をいなすために、etc)発信するのでなく、寂寞とした不特定無名のスコープ内に、あなたの存在を解消すべきだ。「有名」になりたい、特定の相手から評価されたい――という古代の価値観とは、あいいれない部分だ。
それはともかく、「サイト案内」という考え方それ自体が認識の問題をはらんでいるばかりか、プラクティカルな意味でも、内容が流動的で案内がしにくい。自分のストリームの変節に対応してサイトの内容や位置づけも大きく変わりうるが、案内するには、その時点での「まとめ」が必要だ。けど、つねに動いているので、なかなかまとめができない。まとめができるころには、もうそこを見ていないかもしれない。
グレン・グールドをみるのでなく、演奏されている音楽、創造されている芸術に耳をすますべきだから