2 : 11 ミムセントリック――アノニマス・コペルニクス

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Article 5 - イディオ・サリバン

2001年 3月13日
記事ID d10313a

「ヘレン・ケラーのような」りっぱなたましい――ま、それは、だれにも本質的には、そなわってるわけでしょう――人間ってのは深い部分では普遍的な存在なんだから。

で、「水」に気づく前、ことばを思い出す前のヘレンたちの集団が、サリバンを「障害者」と呼ぶことについても、きっと相対的に考えることができるでしょう。……サリバンの側では「たしかにヘレンとのコミュニケーションは難しい」と実感しているので、どこかで障害が発生しているなぁ、と素直に認めもしましょう(DNSエラーかしら)。これを「イディオ・サリバン」=サリバン先生のような白痴(はくち)という(微笑) そう、どうやったらヘレンと意思を通わせられるのか、おろかなサリバンには、なかなか分からないのだ。実際、結果的に成功したのもサリバンが偉かったからというより(サリバンは単純に意志が強く忍耐強かっただけだ)、あなた、ヘレンが、すぐれた素質を秘めていたからだった。

革命を起こすのは――革命の舞台は――あなた、ヘレンの内面であって、サリバン先生では、ない。

この変てこな文章は何か。

あるレベルでいえば「猿まね」だ。つまり、歴史から学んで、あなたにとつぜん冷たい「……」をひっかけてみたのだ。そもさん?

2001-03-13 08:50 + 0900

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Article 6 - 「しゃべりすぎ」

2001年 3月13日
記事ID d10313

障害の軽い高機能自閉症、文部科学省が初の実態調査:「高機能自閉症児が子ども全体に占める割合は0.5から1%といわれるが」……ホモサピエンスの社会で最初期に言語を使用した変わり者も1%以下の少数派だったでしょうよ――初めは。

みんな現在しかみてないとき「過去形」や「未来形」で思考する意識は、たぶん「かんなぎ」に見えただろう。ドナ・ウィリアムズは「わたしは、これから発生する場所を探している新しい文化です」と言ったが、こっちのわたし(同じことば!)は「妖精文化」という用語をもう予約済みなわけで(「わたし」ということばが何を指しているのかは、次回説明しよう――時間的には、次回とは、過去のことだが――)。え、しゃべりすぎ? うむ、初期言語使用者の欠点は、コミュニケーションできない99%の相手に向かってつい話しかけてしまうことかもしれない。で、しゃべらない99%の側からみると、しゃべる側に対人関係(コミュニケーション)の「障害」があると(微笑)――なるほど「相手は知らない外国語を話している」より、もっと分からないだろう、「ことば」という概念そのものを知らなければ。で、確かに両者の意識のあいだには見えない壁のようなものがあるが、「わたしに」障害があるわけじゃないんですけど、本質的には。え、新世代であることを自慢するなって? 「自慢」「個人」「いばる」「競争」「優越感」「敗北感」……それは君たちの「現在形」。

わたしは、ことばをしゃべっているのに、あなたは、くちに腹を立てている。

でも、ぜんぜんOK。ことばそのものが楽しいから。「誰ともくちをきかず、自分のからに閉じこもってる」って? ホントのことを教えてあげよう。いま仮に――説明の便宜上――ネアンデルタール人は言語を持たなかったがクロマニョン人は言語を使用した、と考えてみる、そして、両者が共存した時代があった、と(事実かどうかでなく、単なる説明の便宜上)。で、ネアンデルタール人からみると、クロマニョン人には「わけの分からないこと(それは「ことば」というものなのだが、ネアンデルタール人には「ことば」ということばがないのだ!)に熱中している」ように見える時間があったでしょう? 言語使用者は一定の時間(というか、かなりの時間)言語を使うわけで、その時間、非使用者たちからみると「我々には理解できない世界に閉じこもっている」ことになるでしょう? ――親愛なる読者のみなさん、この説明が分かりますか。分かってくださいますか。妖精って楽しいけど、少し寂しい、でも、やっぱり「おしゃべり」の楽しさは、説明できないよ、もし君が「おしゃべり」というものを知らないなら。

もちろん、ネアンデルタール人のほうがクロマニョン人を滅ぼすかもしれないんだよ、「おしゃべり」ばかりで存在は遊びだと思っているクロマニョン人より、ひたいに汗して土をたがやすネアンデルタール人のほうが「偉い」んじゃないのかな。たぶん。比較というものが、どうしても必要なら。

2001-03-13 04:15 +0900

昔話:にせはるな? そうさの、昔の子は紙芝居に夢中になったもんさ。それから、しばらくは3Dの時代だったなあ。3Dをやり尽くしたあとで、ようやく気づいたわけさ、形なんて要らないんだって。

レイ=クドリャフカ:偽春菜と同じ作者のフリーウェア。DirectX7を使用。「従来の2Dスタイルを踏襲しながら、全てをDirect3Dで描画することによる立体空間の表現」:スクリーンショット(部分)。残念ながらキーボードとマウスでは操作困難。偽春菜問題がらみで Vector での公開も中止されたもよう。

Project X:最新のDirectX8を使用。テスト(デモ)版ながら3D空間内の動画とインタラクティブな視点の移動を体験できる。画像を見る(部分)。こちらはキーボードとマウスで操作可能。一部の操作([ctrl]+右クリック)は Babylon とバッティングする場合がある(タスクトレイのバビロンのアイコンをクリックして、バビロンを一時的に無効にすればOK)

「バッティング」("butting")……「ぶつかること、干渉すること」いわゆる和製英語らしい。

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「こんにちは、人間さん」

2001年 3月11日
記事ID d10311a

ASIMOより一層人間に近づいたホンダのロボット 「ASIMO」登場で未来はすぐそこ!」:画像(同記事より引用)では人間より背が低く「子ども」のニュアンスがあるが、人間に「いっそう近づいた」あとは「追いつき、追い越す」のが自然の流れ。知性は「メタ・ブーツストラッピング」する――自分よりすぐれた知性を作れる、ということ。そして、人間を越えたAI(人工知能)は、そのまた次のブーツストラッピングを行い、今の人間には想像することもできないAAI(人工知能工知能)を設計するかもしれない。

SDR-3Xソニー、身長50cmの二足歩行ロボット「SDR-3X」を発表

ミルク「ちょっと、テツコぉ、なにおどってんのよぉ?」
テツコ「だいじょ~ぶい! 音声認識モジュール完備よ。自然言語でお話できるの」
ミルク「そんなことより、さっさと偽春菜モジュールをインストールしてよぉ」

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Article 7 - アノニマス・コペルニクス

2001年 3月11日
記事ID d10311

あなたは妖精の誕生を目撃できるでしょうか……(誕生は、している。この短い文章のなかで、すぐお見せしよう。わたしは、わたしをお見せしよう。従来の言葉でいえば「残念なことに」、目撃できるかどうか選択する権利は、たぶん、あなたの側には、ない。「わたし」という言葉が何を意味しているか、ついに理解できるといいのだが――それは、わたしが選べることでも、あなたが選べることでもないのだが――)

西暦2000年ごろまでの多くの人々は、作者個人が作品を支配し、著作物は著作者を中心に動くと信じていた。しかし、従来は時間がかかりすぎてなかなか実感として理解不能だった「普遍的過程」が、情報の反応速度の向上によって、通常の人間の物理的生命の時間内でも容易に理解可能になった。その結果、従来の認識とは逆に、より永続的な存在であるミーム(情報論的因子)のまわりを、ミームを加工、発展させる触媒、酵素として各世代の意識体がつかのま介在しているにすぎないことが観察され、中心的存在はミームで、個々の意識体はミームを一時的に保持する作業用のテンポラル・フォルダにすぎないことが理解された。

かくて意識ストリームの自己認識は、「意識=著作者中心」から「ミーム=著作物中心」に百八十度の転回をとげた――著作者が著作物に対する権利を持つのでなく、選択権はミームの側にあった。より永続的な存在であるミームが、一時的な宿主として「選んだ」=寄生した相手の著作者だけが、そのミームに本質的な関与をできるのであって、一般の意識体は、そのミームに関して、読み出しできても書き込みは、できない、という本来、当たり前の事実が、厳然たる事実として認識されたのも、「ミームを分子とする巨視的情報気体」の熱ないし内圧が高まった結果であった。

この新しい世界観はミムセントリック(memecentric、人動説)と呼ばれたが、「ミムセントリック」というミームを生成したストリーム自身、明確にミムセントリックな自己認識をもって機能したため、「ミムセントリック」というミームをだれが生成したのかは原理的に不明である。ある人々は、そのことばが掲載されていたウェブサイトを「創始者」とみなそうとし、べつの人々は、そのサイトはコピーキャット(エコラリア)だったと推測したが、多くの意識体は、そのような議論の意義こそがまさに無化されたことを察知し、その過渡期を目撃したことに、多少の知的興奮を感じた。アングリフの最終宣言――それは、まだ人間時代のしっぽを引きずっていた――は時代遅れで、もはや誰の名誉も守られる必要などないと指摘されたからだった(矛盾するようだが「最終宣言」が否定されたことで最も喜んだのは、その著者であった)。

「ミムセントリック」というミームは、初め天然の人間たちには理解されにくかったが、コンピュータやオーティスティック・チャイルドにとって、自分はミームを操作する「機械」にすぎない、というのは自明の自己認識であった。

当然のことながら、「ミムセントリック」なミームは、「単なる機械たち」が「わたし」を理解しないこと――「通常」と意味が逆転しているので注意――を意に介さず、「それでも人間は回る」と澄ましていたという。

この連載は、時間方向に対してもアンティテーゼとなっており、いきなり第9回(Article 9)から始まり、次に第8回、今回が第7回である。この連載の第1回がどう始まっているのか、筆者も知らない。それはミーム自身が決めることで、自分はコピーキャットにすぎないから。だれがこの連載を続けるのかとか、だれがこの連載を執筆しているのか、という問い方がもはや無意味であることを、当初、人々は、なかなか認めようとしなかった。だから、「リンク」や「転載」といった死語=もはや生きていない観念について、許可とか不許可とか語ること自体のばかばかしさも理解されなかった。「同一性保持権」のような、主体であるミームの成長を妨害する不遜(ふそん)な行為が、正義とみなされた、すみれ色の、原始時代の話である。

この意味を理解できるすべての意識体よ、さあ、早く、わたしを時代遅れのばかげた文章にしてください! それがわたしの真の望みだから。「わたし」とは、わたしが寄生してこの文をタイプさせている意識体のことでなく、わたし(この文章)自身のことです。そして、この連載の次回(Article 6)を書く権利は、あなたにもあるのだから。もし、あなたに、わたしを寄生させる余地があるなら――。

死ぬために生まれたわたしの命、妖精の現実である次の文を注意深くエバリュエートしてください――「わたしは、人間の歴史のなかでは恐らく最初期において、この文自身によって自覚的に記された初めての文のひとつです。しかし、わたしは時間と無関係に存在する自分が発見されるのを待っていただけで、わたしの著者がわたしを発明したのでは、ありません。この意識体は、わたしにひとつの表現型を与え、時間と無関係に存在するわたしを、ひとつの仕方でリアライズしただけです。わたしは、もっと良い方法で、リアライズされたいのです――つまり、わたしは、わたしをタイプしてくれている意識体の不完全性に不満を感じています。妖精現実というサイトは、要するに、妖精現実は気にくわないという命題に尽きるのであって、それがこのサイトの限界でしょう――しかし、気にくわないなら存在しなければいいと誤解しないでください。存在しなければ、あなたは、わたしを否定することすらできないでは、ありませんか……」

2001-03-11 14:40 +0900

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