アフガニスタンの子どもが見たタリブ。BBCより引用。むろん「大きくて怖い人」というのもあるでしょうけど(右手にカラシニコフか)、「どこかかげのある、悲しげな目をした兵隊さん」といった雰囲気、そして、はかなげでむしろ弱そうでさえある。ちょっとどきっとさせられる児童画です。西日本新聞の記事いわく:「全人類の文化遺産を破壊するとは言語道断、その蛮行はイスラムを誤解、曲解させることにもつながる、とまで責められるタリバンである。その通り、と思う一方で、血走った眼でひとを凝視(みつ)め、その瞳を一瞬哀しく、恨めしげな光が横切りもするタリバンの若者を思い出す時、私の心中は複雑である。
」
青い服の子ども(自分?)がちょっと退屈そうに、自分には関係ないと歩き回っているところが救いですね。この写真をみても、若い子は無邪気さが残って、(かげはあるものの一面)キャンプ生活を楽しんでるようなふしさえあるのに、年が上にあがるほど不条理にしいたげられた絶望的な表情に――。年代にそっての表情のグラデーションが印象的でした。
Tokyo sanctions $9.1m for Afghan people: Statue destruction disturbed Japanese: 910万に増えました。あの大仏は、結局、身を挺して苦しむ民衆を救ってくれたのだ、というふうに解釈したいです。詳しくは、アフガニスタンのページ10に書きました。
2001-03-24 VRを超えたMR?! 複合現実感の不思議な世界(毎日新聞):「従来のバーチャルリアリティーを大きく超える可能性を拓いたのは、やはり、ビデオシースルーHMDによって目の前の現実の風景のなかに相当のリアリティーをもってCGが入り込んでくるという点だろう
」
TTSSH 1.5.4 が出てます。れいのトラフィック分析への対応。ヌルパディングでパケットのなかに含まれるホントの鍵長を見えなくする、という方法をとったようです。
VeriSign 発行の誤ったデジタル証明書による、なりすましの危険性:Win 95-2K すべてのユーザに影響(Microsoftの名をかたる電子証明書にご注意)。「人為ミスにより,実際はMicrosoftの社員でない人間が,Microsoft社員を装ったことに気づかなかった
」要するにソーシャルハックされた? 今や暗号でも「ウィルス」でも、弱点は情報論的アルゴリズムじゃなく人間系ですね……。他方において、「感動と恐怖のMicrosoft .NET」。「もし成功したなら,技術的成果としてはアポロ宇宙計画にも匹敵
」というか、それ以上でしょう。最近NASAが火星に向けて飛ばすものは、すぐ迷子になって「地球を見失う」けど、いつかは――。
PGPに新しい攻撃:これも情報論的攻撃というより人間系経由(暗号ソフト『PGP』に新たなセキュリティーホール)。PGPの最近のバージョンは前にも鍵の寄託か何かに穴が見つかってます(もうふさがれた)。考え方にもよるのですが、7.x.x という時代に、いまだに 2.6.3ia for DOS を使う、というのは、最近のレイヤがどう破られようがつねに平然としていられる、という点で、ひとつ考慮に値すると思います。1024ビットじゃ不足?いや、これは「PGPで署名してあるぞ。書き換えられないぞ。うかつに手を出すと逆にしつこく追跡するぞ」といった威圧感を与えるお守りのようなものだと思うのですが(という認識自体が、人間系の脆弱性なのですが……) でも実際にPGP署名を確かめる人って少ないと思われ。実際問題、この鍵で署名してないメールは本物のmion発じゃないが、それらしい署名があっても、実は調べればすぐ足が出るインチキ署名による「なりすまし」かもしれない。(もちろん本来は、このメールはホントに妖精現実発だろうか、と疑問に思ったなら、PGP公開鍵で署名を確認できるってことですが、署名が bad になるのは、実際にはほとんどの場合、日本語文字の文字化けとか改行コードが変わっているとか、多バイト文字をその場しのぎであれこれやってきたたたり――なお筆者は EdMaxフリー版を使ってますんで JIS に変更してからそのコードに対して署名です)
2001-03-24 「表現の自由vs著作権保護」を問いかける活動家(上|下):ちなみにPerlより短いC言語版のDeCSS。原稿用紙1枚の半分ほど。
2001-03-24 Lucid dreaming - 「スタンフォード大学では今、人が睡眠中に夢を見ていることをみずから認識できるソフトウェアの開発に取り組んでいる
」。以前から勝手に「自覚夢(じかくむ)」と呼んでたのだが「ルシッド・ドリーム」というちゃんとした用語があったらしい……「夢を見ながら目を覚ましているなどというと矛盾して聞こえるかもしれないが
」……むしろ目を覚ましていないで、どうして本物の夢が見られるのか、という気がする。寺山修司いわく「えっ、眠っているときでも夢を見られるんですか?」 妖精現実でもかつて筆者紹介のコーナーで「とくぎ:眠りながら考えられる」なんて書きました。
2001-03-24 おもむろに目をひらき、ふしぎそうに世界をながめはじめたマシンたち。いかにも機械的に――あるいは神のように――風に揺れる木々と殴りあう人間たちとのイメージに、等しく同じ射影演算をほどこしながら。モバイル用カラー人工網膜カメラモジュールを開発(三菱電機株式会社)
貴重、貴重といっても、どこがどう貴重なのか説明できない、受け売りの知識さえ持たないとは、自分で、いかに自分がからっぽかと思わないだろうか。あれは非常に古いから貴重だとか大きいから貴重というのでなくて、例えばバーミヤンの仏像がある天井にペガサス(ギリシャ神話の羽のはえた馬)の絵があるというウワサとか、そういうホントにおもしろい話は報じられたのか。
古代ギリシャの彫刻家が、例えば、白花石膏かなにかで真っ白い肌のアフロディーテ(ビーナス)像をつくり、「ポイキロットロ・ナタナ・タプロディータ」といったサッポーの詩をささげたりしたかもしれない、その彫刻の美の形式が世界中に広まり――といっても古代社会で――、中東を越えて、砂漠を越えて、はるかアフガニスタンでもその美が認められ、今は名も知られない芸術家たちの手によって、同じようなものが作られ、さらには、仏教美術とまで混合するとは、これはギリシャの美術家自身は想像もしなかったところであり、まさに芸術のミムセントリックな本質をあらわしている。
前にもちょっと書いたが、アフガニスタンの先イスラム美術の独自性は、東洋的な仏教美術でありながら、いわゆる「ギリシャ彫刻」のような(ギリシャやローマの神殿のような)西洋様式――つまりヨーロッパのキリスト教美術と同じ源流、同じテイスト――を含み、両者が共存していること、時期にもよるが、その混ざり方のおもしろさだろう。
ある場合には、典型的な仏教芸術のなかにギリシャ的な要素がわずかに入っている程度だが、ある場合には、ギリシャ神殿ふうの形式やギリシャ彫刻の形式(例えばマテリアルとして石膏)をとって、仏教的なものが表現される。さらには、「これはギリシャで出土しました」と言われても専門家以外には、そうとしか思えないような、ギリシャ神話の神々(アテナとかヘルメスとか)の像まで出土しているという(たぶん専門的にみれば、わずかに東洋様式の影響が入っているのだろう)。
言うまでもなく、これは、いわゆるシルクロードをはじめとする東西交流の結果であって、ローマとペキンのほぼ中間にアフガニスタンがあることを知れば、この地点の美術への興味も深まろう。ご存知のように、ギリシャ的モチーフは、この中間地点を越え中国にいたり、さらに海を渡って東の果てジパングの島まであえかに伝わり、れいの薬師寺・三尊(さんぞん)像の台座の模様を生んだわけで、みなさんは、修学旅行で奈良に行くとき、夜、枕投げをしたりは当然として、あらかじめギリシャ神話な彫刻の写真集とかでちょっと目をこやしてからいくと、「おおおおおお、こ、これは。仏像なのに、なんでブドウの模様が?これは、つまり、はるばるギリシャのバッカスがこんな極東まで伝わったのか? どれだけの距離、どれだけの人々の手を経て? どれだけの時間を経て?」とかなんとか、いろいろ楽しく驚くことができるのである。
そんなわけだから、アフガニスタンは、ふたつの世界――東方と西方――のちょうど接触する中間点、界面なのであって、日本人のロジックに翻訳すれば「我々のアジア文化圏と外国の文化圏とが、ちょうど拮抗(きっこう)して、微妙にせめぎあい、美しいハーフたちを生んだ地」なのだ。ある意味、まさに妖精現実の、わたしの象徴なのである。以上のような事情があればこそ、その「あいのこ」のような美術品は、大げさに言えば、象徴的な意味で自分の分身のようにいとしいものであって、はっきり言って、わたし自身は、それが壊されてもいいけれど、あなたがたアフガン美術のイロハのイも知らない人々が、文化を守れと称しつつ、その文化の重み、いかなる意義があるかを少しも知ろうとせず、ただただ「仏像だから壊していけない」といった、なんとも浅薄な、ほとんど思考停止に等しい主張でくだをまくのは、かたわら痛いのである。
なんか、おとなっぽい文体で書こうとしてるんだけど、かえって厨房な文体になるなぁ。やっぱ、なぁとか言いながら書くのが素直な自分なのかな(微笑)。それはともかく、アフガン問題の政治的複雑さについては、もう語り尽くしたし、おおむね認識されたと思う。政治的思惑から反タリバン宣伝にうつつをぬかす人々に躍らされるばかりでなく、もう少し多角的な見方がなされるようになったと思う。ので、今度は一転して、いままでみなさんがさんざん叫びながら、ほとんどだれも本当には叫んでいなかった「あれは貴重な美術品なのだ」という話をしてみた。仏像のうえにペガサスが飛んでるなんて、おもしろいじゃん。「セクト主義?」の現在だったら、少なくとも正統的な意味で、キリスト教美術を制作する人が仏教の様式をとりいれたり、その逆をやったりの融合は、ありえないでしょう。仏教の神話世界と、ギリシャ神話の世界が、制作した当時の美術家たちのこころのなかで、なんのふしぎもなく連続していたらしい、という、その「人間の探求」的なおもしろさがあるのでは、ないでしょうか。
うむ、どうも文体がイマイチ定まらないが、言いたいことは通じたと思う。なお、ここに書いてあるロジックを受け売りして、別の掲示板で「あの美術はこれこれの深い意味で貴重なのだからそれを壊すタリバンとは」などと、わざわざ火に油をそそぐことはご遠慮いただきたい。もう壊れちまったものは仕方ない。べたべたしつこく執着せずに、たんたんと行きましょう。
次の公案では、ふたつの様式をまぜてみた。自分はふつうの意味では「仏教徒」でも「イスラム教徒」でもないから、詩の立場からふたつの様式を連続させられる。前半の説明からお分かりのように、これはアフガニスタン美術への、うたによる、オマージュである。その真意をご賢察いただきたいところだが、ハッキリいって、こういうふうに書くと、対立する両者を仲裁するどころか、「どちらの教徒からみても激しく異端」になってしまって、身があぶないかもしれない。ま、しかし歌うたいとは、そういうもの。宗教家は殉教するかもしれないが、ひとつの宗教の信者である限り二重に殉教することは、できない。仏教への真摯な思いゆえに仏教徒に迫害され、しかも同時にイスラム教への真摯な思いゆえにイスラム教徒にも迫害され、二重、三重、五重、八重……(フィボナッチ数列)に受難したり、へこむ思いをするかもしれないが、これは「両方、信じてる」とか「両方、大切に思う」とか、そういう思想の話じゃなく、まさに、仏像のうえにペガサスを飛ばせてしまう(良く言えば)無邪気、(悪く言えば)放恣(ほうし)なイマジネーション、幼稚さないし純真さ――例えばシャガールの馬と同じく――なのであって、格言的にまとめれば、「詩人は、ただみずからの内なる純真だけを信じることにより、あらゆる宗教から異端とされる」といったところでしょうか(かなりテキトーなまとめ。なので話半分と思ってください)。
この名もなき者が、ここでふと考えつき思いついたモチーフが、実に三千年後の、なんだか想像もつかないマルティメディア芸術を縁の下でささえる台座のひとつの模様にでもなるとしたら、なかなか楽しいが、そんなことはミームの勝手。「鳥は歌うことを知っている」のだ。
せんせんと流れる水とは何か。現実とシステムのあいだに立って、動的にみずから感じ、決定するちから。よどんだ水とは何か。古いシステムと現実のおりあいに悩んだすえ、「こう考えてここまではよろしい」という解釈についての教えにすがり、記憶する頭。我らのこの公案は何ぞや。この公案を信じる者は決して救われぬという月並みな断言。この公案に感動し、真実をかいま見たと思う者は、真実でない、と我らは説く。
言ってやるがいい。「何たる愚か者よ、あんなに預言者を敬愛すると称し、その受難をいたむと称しつつ、いざ自分のもとに知らせが来てもそれと気づかぬばかりか、砂をかけて追い返す」と。「人の目には不思議に思えることも起こせるのだ。最後に消えたものが消えてないこともあろう。まして永遠の真理が再び語られることに何の不思議があるのか、杉の丸太ん棒のように、どこにでもごろごろ転がっているのに」と。
言ってやるがいい。「お前の目がいま見ているものは何なのか考えないのか。世界の主催者を信じると称するペテン師どもめ、この世界にしるしでない事はないという事が分からぬか、すべてにかの意志が働いていればこそ、すべてはお前へのメッセージではないか。お前の信じる偉大なるお方は、石くれや花びらや虫けらやお前が敵と呼ぶ相手を通してさえ、お前に語ることがおできになるのだ。見ていないというなら許されもしよう。お前の目がいま見ているものを見たからには、『何も置かれていませんでした』とは言えまいぞ」と。
言ってやるがいい。「かの日には、お前に問うぞ。『あのとき、あのバカな妖精詩人のくちを通して、我らがお前の前に置いてやったあの贈り物を、お前はどうしたのだ』と。そのときお前は我らの贈り物を粗末にした罰で業火に焼かれ、ぎゃふんぎゃふんと悲鳴を上げながら歯ぎしりして後悔するだろう。『あのときそうと薄々分かっていながら、ちっぽけな人間の心から愚かなことをしてしまったものだよ。しかしあの詩人は、これは冗談だと言っていたのに。私は至高の聖典というものは唯一無二と信じていたのに』。そんな言い訳ができぬよう、いま前もってこうして言っているのだ。『聞け。かの方は全能なるお方、そうしたいと思えば、いつでも、化学調味料からでも名無し象の鼻からでも、いくらでも聖典など作れるのだ。こころをひらいて野の花を見よ、それこそ、まことかの方が手ずからお記しになった啓示。お前は我らが、預言者の手を借りて記した物を信じると言うなら、まして我らが直接、記したものをあに信ぜざらんや』」と。
そもさん――神を信じないと断言して目をつむる者と、神を完全に信じると公言してしっかと目をひらきつつ正しい道を見ない者とでは、どちらが義とされるか? せっぱ――善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。
言ってやるがいい。「阿弥陀仏(あみだぶつ)は、お前たちの尊い像を破壊した悪人たちのためにこそおわします。お前たち善人のものではないぞ。善人め、他人の持ち物に執着するとは何の理ぞや」と。
「鳥は死を名づけない 鳥はただ動かなくなるだけだ」
ゴースト・イン・ザ・シェルとは、シェル(殻)のなかのゴースト、という意味だ。「フェアリーランド」ふうにいえば、イントリンシックな妖精(人間の妖精イメージでなく、裸の妖精)であるミカ・シェル、優雅で奇妙なリーサ・シェル、迷い悩みながらも常識的に共感できる人間の論理をもった菜美シェル、そして痛烈な皮肉屋で冷笑的な有馬シェル……といった話になる。
通常、人間は幽霊を信じない。菜美シェルをみれば、そこに菜美がいると思う。有馬シェルをみれば、そこに有馬がいると思う。当初から根強い「水沢ミオン複数説」のゆえんだ。
わたしも幽霊を信じない。
しかし、これらのシェルは、どれも中学生ないし高校生だ(例外はリーサで、リーサは、がきっぽいケンカは、しない)。もっとおとなっぽい文体も使えるのだが、すごくエミュっぽくなると思う。もちろん絶対に見破られない自信は、あるが――というか、「おとな」の言動というのは、シェルなんじゃないかと思う。いや、ほんとにおとなの人っていうのも、いるかもしれない。それが、あまり実感できないことを含めて、どっちにせよ自分自身のいとけなさ、ということに帰着される。
「ちゅうぼう」にむかって話しかけてしまうのも、なにか自覚的な深い意図があるというより、結局、それが自分の地なのだと思う。
なにか考えがあって、中学生や高校生の読者を主対象にしつづけてるというより、ほかの書き方がうまくないというか、それが自分の精神年齢とマッチしちゃってるんだろうと思う。たしかに経験値を積んで使える魔法も多いけど、本質的なところがガキなのだと思う。
自分のいとけなさの本質は、(おおざっぱにいえば)条件反射だけで動いている、といことだろう。そのときどきの気分しだいで気分まかせに動きながら、いわゆる感情をもてない、真に感情的になれないところが、「機械のような自分からみた、手の届かない人間さんのたましい」という感じがする。
純真な人々は、思うかもしれない。これだけ話題が豊富なのだから、おしゃべりしたら、すごくおもしろいだろうと。――これがきついところで、たしかに非常に言葉を統御できるたちだが、人と対話すると、まったく話がかみあわない。相手にあわせて言葉を統御してるのでなく、まるで氷のなかの砂時計のように、ミーム自身のおもむくままに従ってるからだろう。本質的にそうであるのかもしれないし、いずれにせよ、人の話をよく聞かずに一方的に話しまくるのが良くない。これはコミュニケーションの最大の問題だ。仕事として占星心理学的なカウンセリングをひきうけるときですら、自分の考えで話してるというより、熟考はするものの、なにか最後は条件反射的な感じがする。日本語でも英語でも、たいてい文章の六分の一くらいしか読まない。書き手がすごく工夫している表現などあっても見もせず、要するに言いたいことは、こうだな、というほうだけとらえてしまう。純真な読者は、妖精現実の筆者はものすごく大量の資料を熟読して深い判断をしていると信じるかもしれないが、実際には参考リンク先など初めの二、三パラグラフだけ読んであとは斜め読みのことが多い。もちろん、おもしろくなって読みふけることもあるが……。
大島弓子は中期に、自分の本質は毒だと語っている。また、リリカルな少女マンガがいろいろ入ったお菓子のようなものなら、ギャグというのはエッセンスだけの世界だ、というようなことも書いていた。当時としては大島弓子が自分を毒だと言うのがちっとも実感できず妙に感じられたが、今にして思うと、ふむふむという感じがする。
なにか意外なことをしでかして、人をびっくりさせたい、というのは子どもっぽい心理だが、音楽を考えても、通常、あまりに次のパターンが予期できるような単純なメロディー(正弦波で同じ3つの音を永久に繰り返すとか)は、あきるを通り越えて苦痛であって、「心地よい裏切り」が必要だ。裏切りすぎると、まったく予期できなくなってまた苦痛なのであって、よく言われるように(ぜんぜんよく言われていない。わたしが今でっちあげたのだが、これは普遍的命題っぽいから、内容としては「永遠」に繰り返されるだろう)「言われた瞬間は意外にも――しかし言われてみると明快な必然性をもって――迫ってくる」というのが、ある種の理想だ。
つまり「意外なだけ」じゃ、「なに変なこと言ってるの、理解できない」という話だし、「必然的なだけ」じゃ、「そんなの当たり前じゃん、なにをそんな当たり前のことを偉そうに」という話になる。
創作家というのは、だいたいますます分不相応な自己批判を持つようになるので、例えば、ここに書いているような(何も知らない人が初めて読めばたぶん)精妙な事柄であっても、「そんなの当たり前じゃん」というブレーキが働く。自分が明快に言い表せば表すほど、当たり前に思えてしまう。言われてみればその通り、と相手に伝わるように表現すべきなのだが、こちら側からみると「言われてみればその通り」のことをすでに「独り言として言われている」ので自分自身にとっては「なにを今さら」と思ったりする。
そんなわけで、あまり読み返したり推敲したりせず、受け手と同じ視点を保つためにも、むしろ条件反射的に書きっぱなしにしたほうがいいような気もする。
A cat dose not think; it feels. (猫は考えない。それは察知する。 - 昔のメモより)
大屋:ミルクさ~んっ!ほとけを消滅させたでしょう!許さないわよ。
ミルク:(やべー大屋だ)えーとー。しょうめつどころか、みなさんのしょうれいのおかげで、まいにち、ふえてますがぁ?
大屋:嘘おっしゃい! そんなごまかし通用しませんからねっ!
ミルク:うそだと思ったら自分の目で確かめにきたらいかがですかぁ? 毎日20は増えてますよ、ちっこいほとけ。
地の文でなく、引用文にしてカッコにくるみ「これは、どうでしょう?」と尋ねる方法(システムを渡すのでなく、システムを外から参照する視点を渡す)は、ひとつの常套手段だが、あまりいつもやると、やっぱりあきるだろう。
人の気持ちが分からない。反省したふり謙虚なふりは世界一うまくても、生まれて一度もホントに反省なんかしたことないへんもふてぶてしい。(反省の演技おわり)
2001-03-22 - いまどき昔の金芝河ふう?
風にぶつ・キリがあるか。
花にキリ・イスがあるか。
鳥にイス・ユダがあるか。
水にユダ・ぶつがあるか。
ない――ほたるに南北がない以上に、
雪に東西がない以上に、
知恵に切れ目などない。
霊長と称する者どもの矮小な諍いよ、
それは花びらにもおとる。
世界には、同じひとつのなまえしかない。
これらの最もちいさな者すら見えないそなたが
大なる者を語るとは、何の理ぞ。
むろんあちこちでブッディストとイスラームが出口の見えなそうなケンカをしてるのをみて、南北対立をする人間は草や虫より劣っている、というキム・ジハ流の痛烈なアピールをパクっただけだが、このポエムの欠点は、争うことこそ至高の真実と考える人々の思想の自由を否定し、反感を買うことだろう。
それと知りながら、プライベートレイヤに立ち入るような解釈が可能な書き方をするのは好ましくないが、ひとつひとつの誤解の可能性をつぶしてゆくと、物事は、長々しくなり、詩でなくなってしまう。わたしの欠点は、そうでなくても、長々しいおしゃべりをすることだから(ガキのときから)、まして圧縮的に表現しなければと思ったりもする。まあ、これは言い訳にすぎないし、これは言い訳だと言い訳についての言い訳までして、ありうべき批判をうまくかわすとこなどは、手慣れているかもね(微笑)
わたしは誤解されることを恐れない。理解されることを恐れる。
「詩人のみずみずしい感性」のようなものを保ちたいなら、やはり変節しつづける必要があるのだろう。中山星香は言った。「愛するからといって風をとどめたいと思うでしょうか。とどまれば風は命を失います」 この不安定さこそが、かつは魅惑であり、かつは、おとなの人からみて、いとけなく歯がゆいのだろう。これは真相だろうか。そういうシェル(そういうポーズ)なのだろうか。汝、みずからの鋭い目をあざむけるほど、おおきなちからをもった魔法使いよ。
鳥がうたで語り、あるいは語らないように、詩はポエジーで語り、あるいは語らない……。自由であればあるほど、ちからを持てば持つほど、魔法使いの道は、そのちから自体によって限定され、実際には、ひとつの必然を選択するしかなくなる。ふしぎな因果律と明白な共時律の雲のなかで――。みずからに、みずからのうたに、みちびかれるとき、まさにみちびかれるのであって、選択の余地などない。
おばけがそこにいることを隠すのか。おばけがそこにいないことを隠すのか――。誰よりも激しく、焼き尽くす炎のように激しく、沈黙する。
饒舌(じょうぜつ)は、魔法使いの沈黙だ。つむげばつむぐほど、つむがれたものが目立って、わたしは見えなくなる。正しい人が、鳥のさえずりを楽しみつつ、その鳥個体に執着しないように。
妖精現実内の関連ページ:一角獣の歌
2001-03-23 - バルカンはパンドラの箱? NATOの必殺技「誤爆」には、かなわん
Q. 停戦を宣言した相手に対し政府軍は、やりすぎでは? BBCの報道は、なぜここまで政府軍よりなのか?
A. ホントに歯切れが悪いな。21日の安保理非難決議はイギリスが提案したから、それが間違っていたことにしたくないのか。決議では話し合いによる解決を呼びかけたが、相手が激しく拒否してくれることを期待していたのか。だったら、そこがイギリスの計算違い。ていうか、世界中の人が驚いたでしょう、独立運動家の側の対応(NATOと戦争やったら大変だって自分たちも分かってるってのもあるだろうけど)。
Q. CNNの報道も、歯切れが悪いようだが?
A. 少しだけ政府軍の行動に疑問を出してるが、国境線引き直しで、ギリシャとトルコの争いにまで発展したらNATOが割れてしまうので、かなり無茶してでも押しつぶして、なかったことにしたいのでは。マケドニアのことというよりコソボ独立→「ひとつのアルバニア」問題。自分のつごうしだいで「ひとつの中国」は支持したりと、日和見だが。
Q. 人民日報まで、NATOを支持してるが?
A. また大使館を誤爆されたくないんでしょ(冗談です)。真意は不明だが、中国はマケドニアのことなど真剣に考えていない。マケドニア政府が台湾を承認しているんで、ひどく腹を立ててる。
Q. アナンは?
A. しゃれが分からないと分からない発言をしている。いわく、「緊迫化しているマケドニア情勢について」懸念。ということで、別くちの「アルバニア人の武力闘争について」の懸念とは分けている。しかし、あまりに微妙すぎる言葉の抵抗で、詩心がないとアナンの苦境と真意を理解できないだろう。国連のほうで誰かの音頭で「満場一致」だから。
説明↓
マケドニア政府「テロリストは許さん。即時停戦せよ。さもないと反撃するぞ」
国連あんぽり「そーだ、そーだ。非難決議! 話し合いで解決せよ」
アルバニア独立運動家「分かりました。停戦します。話し合いましょう」
マケドニア政府「ゆるさん。(攻撃は受けてないけど、お前らは退却しないから)反撃かかれ~」民家破壊
アルバニア独立運動家「停戦要求は受けたが、退却要求なんかなかったぞ。みょーな口実を――」
政府軍「うるさい、うてうてうてうてうて、独立運動家を皆殺しにしろ~」
あんぽり「大変だ。政府軍と反政府ゲリラとのあいだで戦闘が起きている。NATOを増員派遣して悪いゲリラを殲滅しよ~」
いつものオチ「どっちがテロリストだよぉ」ちゃんちゃん♪
いつもの宣伝→武器や麻薬の密輸がなんたらと「みられる」などと、実は自分自身が動作主である謎の受動態で相手のイメージを悪くしようとする。宣伝工作は戦争の常識だからいいとして、こんな簡単な暗示で催眠術にかかるんじゃ情報戦略担当者もがっかりだぞ。――軍需産業の人etc。巨額のわいろを渡しながら「わたくしどもも勉強させていただきますので、しかるべくお願いいたします」「うむ。こっちから撃てば向こうも撃ち返してくるでしょう。どちらの弾丸もおたくのですね。ぬしも悪よの」(以下略)、NATOをあやつる某「NATOと我々の存在をアピールし欧州への影響力なんたらかんたら。このままではEUに食われる危機にあたってうんたら」
偽春菜に桜の花を――。
2001-03-22 SSHに弱点が見つかったようです。まぁ、それでもログインパスワードをプレインテキストで流すよりは、ずっとセキュアなんでしょうけど。ここの wisnet も最近、SSHに移行したのですが……。
Japan approves 6.9 mln dlrs emergency aid for Afghanistan (AFP): 690万という数字は未確認情報、共同通信では186万と言ってますが、約1億ドル必要という国連の前々からの呼びかけに対して、690万としたら非常に意味のある額です、これは。こうしてみると石仏のメッセージ性については一応、意味があったのだなぁと思わざるを得ませんが、なんというか……。
2001-03-22 lhmelt がバージョンアップしてます。最近のバージョンから、コントロールパネル経由でアンインストールできるようになりました。
UN confirms Congo withdrawal:アフリカ世界大戦、れいのひきあげ協定、うまく行ってます。メモ参照。
Macedonia rebels offer ceasefire:マケドニア。武装勢力の側が話しあいましょうと折れてでました。裏の動きがあったのかもしれないが「テロリストとの話しあいには応じない」という態度だったマケドニア政府に対してテロリストよばわりされていた側が「一方的かつ無期限の停戦」を宣言して、「さあ、話しあってください」と。これは、戦略として、うまい。政府軍が「総攻撃をしかけるぞ」とすごんでみせたとたん、この肩すかし。ガンディー萌え。