「残酷な神が支配する」としてすでに紹介したネタですが、裁判官の考えたことを、もう少し具体的に書いておきます(Siamese twins: The judgement from BBC, 22 September)。
細かい語句のニュアンスにこだわりたいかたは、控訴審の判決要旨(英国政府、court service)をごらんください。
「本件は、たいへん困難な事例であり、各裁判官は真に苦慮を尽くしました。この家族の悲劇は、わたしの頭を離れることがありませんでした。当初から深い同情を感じておりましたが、判断を重ねるごとに、その思いは、いや増す一方です。」
「本件において、特徴的であり、かつ困難な点は、双子のふたりが、ひとつの大動脈を共有しているという事実にあります。マリーの心臓と肺には、みずからの生命を維持するだけの能力がありませんが、大動脈を共有しているがゆえに、ジョディーは健康な血液をマリーのからだに送り込むことができます。」
「ここに悲しい事実があります。マリーは、借り物の時を生きているということです。ひとりでは生きられず、すべてをジョディーから借りています。ふたりぶんの生命を保つために、ジョディーの心臓には過度の負担がかかっており、このままではジョディーの心臓は停止してしまいます。約6か月程度しか生きられないと考えられ、ジョディーが死ねば、不可避的にマリーも死にます。」
「他方、分離手術は、ジョディーにとって非常に危険なものとは言えず、手術を行えば、ジョディーは一定の範囲で通常の生活を送れるようになると判断されます。分離手術は、確実にマリーの死をもたらします。共有している大動脈を切り離せば、数分以内にマリーは死亡します。」
「それゆえ、手術を行うかどうかの決定において、両親は恐ろしい現実に直面しなければなりませんでした。手術を行えば、ジョディーは助かるが、マリーを殺すことになる、という現実です。両親は、このような決断をすることができませんでした。なぜなら、ふたりの子は、両親の目には等しく、同様にいとおしいからです。」
「両親は、敬虔(けいけん)に信じておられます――ジョディーとマリーがこのような苦しみを受けたのは神の御心(みこころ)で、神の命じるままに、神の命じるあいだ、ふたりの子は結合して生きるべきであると。一方、病院側も、救える命を救わないことは良心が許さないと考えています。病院側には、もちろん両親の希望を受け入れる権利もありますが、この問題を裁判所の判断にゆだねることも、妨害できない病院側の権利であります。」
「本件に関する世論の関心は非常に高く、道徳上、倫理上の激しい論議を呼びました。宗教上の原理については、我々が敬愛するウェストミンスター大司教の見解に尽くされているところです。しかしながら、ここで明白な事実を強調しなければなりません――当法廷は宗教的道徳を判断するものではなく、法の判断をするものであり、したがってまた、当法廷の判断は法の原則に基づかねばなりません。」
「手術は、ジョディーの利益と判断できます。専門医の判断によれば、ジョディーは健康な人生を送ることができるか、あるいは、少なくとも、たえがたいものとは言えないQOLを達成することが可能です(※いわゆる「助かっても植物人間」といった状態ではない)。しかしマリーの福祉を考えることは、困難です。わたくしの見解によれば、マリーの生命を終結させるような手術は、マリーの利益になるとは言えません(※後述のように他の裁判官は、この点の判断が異なる)。」
「この点がジレンマです。当法廷には、どちらの子の幸福も等しく扱う責務があります。しかるに、ジョディーにとっては分離手術の実行が利益であり、マリーにとっては分離手術の差し止めが利益であります。ここにおいて当法廷は、解決困難な矛盾に直面します。そのうえ、どちらの決断をしたとしても、その結果として起きることは、真にたえがたいものです。」
「苦慮のすえ、当法廷は、この重責を放棄することはできないとの結論に達しました。裁判所は、まさにこうした困難な判断を行うために存在するものだからです。そして、ジョディーとマリーそれぞれの幸福のバランスをとることが、唯一の解決であると、わたくしは判断します。」
「わたくしには、ある人の生命が他の人の生命より価値があるといった判断をする資格はなく、また、そのような判断は、していません。しかし、状況を分析し、法的に判断することは可能です。」
「病院側が申し出ている処置の有効性について判断するに、分離手術は、マリーにとって価値があるとは言えません。手術を実施すれば、マリーを、本来より早く殺すことになるという事実から目をそらすことは、できないからです。マリーにも生きる権利があります。しかしながら、マリーの生存権は非常に限られています。なぜなら、マリーが生存できるのは――あえてぞんざいな表現をしますが、正確な事実として――ジョディーに寄生しているからこそであり、このままマリーが寄生をつづけると、ジョディーは生命を失うことになります。ジョディーには、このようにしてマリーに殺されることについて、抗議する権利があります。」
「わたくしの見るところ、本質において、ジョディーを救おうと考える病院側の意思は、ジョディーの正当防衛の権利と一致するものです。それゆえ、手術の実行は合法であると結論します。」
「家族法に関する部分では、ワード裁判長と完全に同じ見解です。他方、刑法に関して、4つの問題を指摘できます。マリーは法のもとに人間であるか? 答はイエスです。では手術は人であるマリーを殺害する行為(殺人)に当たるか? 答はイエスです。医師たちは――たとえその結果をいかに望んでいないとは言え――マリーを殺す意図(故意)があるか? 答は、ふたたびイエスです。」
「善意の医師が、末期患者に、副作用の強い鎮痛剤を投与することは(死を早める結果になるとしても)合法的と認められています。けれど、本件は、そのような事例とは、異なる性質のものです。問題は、ただひとつ――この殺害が行われるとしたら、違法でないか?という点であります。」
「通説では、違法性阻却事由には三つの要件が必要です。第一に、ほかの方法では回避できない害を回避するためにやむを得ないこと。第二に、量的に、合理的必要性の範囲であること(※過剰防衛の制限)。第三に、緊急避難的行動が及ぼす害は、質的にも、避けようとする害に見合った範囲であることです。」
「現代の家族法の諸原則に照らすと、ジョディーの利益はマリーの利益より優先するとの結論に達せざるを得ず、本件では、上記の各原則が満たされ、マリーを殺害する違法性が阻却されると考えられます。」
「最後に、身体の完全な状態を求めるのが、人間の尊厳にかなっており、分離手術は、不完全な身体をもって生まれた子どもたちに、完全な身体をもたらすものです。ゆえに分離手術は違法とは言えず、わたくしも、控訴は棄却されるべきであると判断します。」
「本件では、医師らが執刀しようとしている手術は、明白に善意によるものである。手術は明白にジョディーの利益にかなうものであるが、わたくしの判断では、手術はマリーの利益でもある。結合された状態で生き続けることは、健全な身体と人間の尊厳を奪うことになるからである。いたずらに生命を引き延ばすことは、マリーにとっては、なんら利益といえず、むしろ――もし苦痛を感じる脳機能があるとするなら――苦痛を長引かせるだけである。」
「従って、分離手術は双子の双方にとって利益である。なお、この結論は、当法廷が一方の生命を他方の生命より貴重であると判断したということを意味しない。」
「殺人は、いけないか?」というのは、二通りの意味を持ってます。一方では、医師は、作為によってマリーを殺していいか(ジョディーを救うために)? あるいは、殺しては、いけないのか? ということです。他方では、両親は、それに反対していました。つまり、もし仮に両親に決定する権利があるとするなら、この両親には、不作為(ふさくい)によって、助けられるかもしれないジョディーを故意に殺す権利があるのか? あるいは、殺しては、いけないのか? ということです。
結論やロジックは、ともあれ、裁判所が、両親の希望より本人のウェルフェアを徹底して考察しているところには、好感が持てます――結論が「真のウェルフェア(幸福、福祉)」なるものになっているか、というのは、かなり主観的な議論ですが、「本人の問題を本人の利益を中心に判断する」という姿勢は重要でしょう。オランダの安楽死法についても、一定の年齢だと保護者の同意が必要になる制限事項について、リーサが問題を提起しました。一般に、どんな親であれ専門家であれ、その問題の当事者ほどには分からないものでしょう。しかし、この件では、そうした意思の主体が認められないことも、すでに指摘した通りです。
いろいろな意見やストーリーのなかで、個人的には、次の記述がいちばん印象的でした。アラン・ワードは、ジョディーには自分に寄生しているマリーを取り除く権利があるという言い方をしたけれど(そしてそれは事実だけれど)、ジョディーも自分の「半神」を喪失したってことです。
Professor Spitz said "little tricks" could lessen Jodie's stress at losing her twin.
He said her fight for survival could be aided by a mirror in her bed to give her the impression Mary is still there.
さて将来、バイトや仕事をしたお金で、旅行することがあるかもしれません。そのとき、旅先で、現地の子から、ボールペンをくれなどと、せがまれるかもしれません。ボールペンの一本や二本、我々にとっては、何でもないし、そのくらいで喜んでもらえるなら、こっちがうれしいくらいでしょう。貧者にほどこしをする王侯気分を味わって、いい気持ちになれるかもしれません。
わたしの考えでは、これは必ずしも良いことでは、ありません。あくまで状況が許せばですが、例えば、次のようにしてはどうかと考えたのですが、どう思われますか?
――突然だが、まず英語かなんかを教える。自分は英語のティーチャーだとウソをついて、「バイカル湖は海のように大きい」でも「チャイコフスキーは偉大な作曲家です」でもなんでもいいから、簡単な文章とその意味を教え、正確に発音できるようになるまで繰り返させる。発音が違ってたら、厳しく叱ろう。そのかわり、相手がついにうまく言えるようになったら、「たいへんすばらしい」とか言って、その努力に対するごほうびとして、ほしがっているボールペンをプレゼントしよう。もともとウソくさい芝居だけど、ただあげるよりは、いくぶんましでしょう……逆に相手の国の言葉を教えてもらうんでもいいかも。まぁいろいろ考えてみてください。
ストッキングをくれとかいうおとなには――あくまでのほほんとした余地があればですが――「ただじゃやれない、これは貴重な品物である。紅茶の葉っぱ(なんかその国では、ありふれてそなもの)と交換ならいい」とか「そのかわり、おくにの民謡を教えてほしい」とか、なんか要求しちゃおう。物乞いが悪いとは思わないけれど、あなたとしても、もっとべつのものをもらったほうがぶなんでしょう(タダであげてるつもりでも、実際には自尊心を奪ってる)。
たしかに我々には、つまらないボールペン。けど、相手の国では、ボールペンのインクが切れたら、ボールペンの芯の部分だけ交換して、大事に使っているのかも……。ボールペンの外側部分も含めてまるまる一本、すぐおろして使い捨てにするなんて、スンゴイことだと思ってるのかも(そっちの文化感覚のほうが正しかったりして……)まぁどんな理由であれ、相手が真剣にほしがっているものについて、「なに?こんなもんがほしいの!?もしかして、おめえの国には、ボールペンもねえのか?しょーがねーなぁ、んなもんくれてやるよ、おら」というおうへいな態度をとっちゃ悪いかも。
つーのは、じつは長い前ふりで、ひるがえってみるに日本のODA、もし仮にカネだけばらまいて「我が国は国際的に多大な貢献を……」と思ってるんだったら、イヤだね。そもそも「相手は物質的に貧乏だから」という理由でその相手をさげすんでるフシがあるとしたらイヤだよね。競争に価値があるとしたら、創造のエネルギーになるってことで、敗者をさげすむことが競争の目的じゃない……つーか、他人に勝ちたいからでなく自分自身が単にそれをやりたいからっていう理由で、クリエイティブなことができるといいのかも。でもそれだけじゃインセンティブ(やる気のもと)が不足かな?
ともあれ、よく知りもせずに相手の文化や社会のことを安易にあれこれ言うのは、良くないっす。インターネットを発達させた物質文明のインフラに感謝しつつも、物質的繁栄だけが唯一の価値じゃないってのも当たり前。貧しい人にほどこしするのが善行かっていうと、それもみだりにやればかえって相手を深く傷つけてるのかもね……。旅行すると、いろいろ考えれていいですよ。('-')/
「りんごが6個あります。ひとり4分の1個ずつ配ると、何人に配れますか?」こたえ→りんごひと切れが1個の4分の1なので、1個のりんごは4切れになって、6個のりんごは、24切れ(6×4)。24人に配れる。
「りんごが6個あります。ひとり4分の3個ずつ配ると、何人に配れますか?」こたえ→4分の3個ずつということは、要するに、4分の1個の大きさのりんごを、ひとり3切れずつ配ればいい。上に計算したように24切れあるので、3切れずつ分けると、24÷3=8 で8人前になる。
式としては、6を「4分の3」で割っている。「4分の3」で割るということは、実際には、まず4倍して、次に3で割ればいい。なぜって、6個のりんごを、4分の1サイズにばらせば、6×4=24 切れになる。ばらすということは、破片が増えるということだから、かけ算すればいい。次に、ばらしたのを、一皿に3切れずつ盛りつけると(そうすれば一人前が4分の3個になる)、24÷3=8 で8皿(8人ぶん)できる。こっちは24切れを3個ずつたばねるので、答は24の3分の1になる。
要するに、「4分の3」で割るということは、4倍して(りんごをばらす)3で割る(盛りつける)ということ。これで計算のしかたは終わり。ついでにいうと、3で割るということは「3分の1」をかけることなので、まとめると
ということで、要するに「3分の4」をかければいい。だから、決まり事としては「4分の3」で割るには、ひっくり返した「3分の4」をかければいいのだけれど、それは初めに説明した「4倍して3で割る」という意味を単に式の変形で言い換えただけ。
例題:「りんごが10個あります。ひとり8分の5個ずつ配ると、何人に配れますか?」こたえ→上と同じで、まず8倍して次に5で割る。10×8÷5=16(人)。これは10を「8分の5」で割ったのだが、それは10に「5分の8」をかけても、計算上は一致する。
決して、分数で割るということの意味が「ひっくり返してかける」なのではなく、あくまで、計算として「ひっくり返してかければ、同じ答になる」ということ。分数で割ることの意味は、例えば6を「4分の3」で割る場合でいえば、6個のリンゴがあって、一皿にりんご4分の3個ずつ入れてくと何皿できるか?というようなこと。……でもいちいちそんなふうに具体的に考えるのも面倒なので、「a分のb」で割る→計算上は、ひっくり返した「b分のa」をかけること、と機械的に考えてもかまわない。
あんたがひとりで宇宙服を着て月面車を運転してると、月の砂漠(何?)の真ん中で月面車が故障しました。残りの酸素は、あとボンベ8本と4分の1で、1時間につきボンベ5分の2ずつ酸素が必要です。あと何時間、生きられるか?
まぬけなこたえ→8と「4分の1」=「4分の33」。これを、「5分の2」で割ればいい。ひっくり返して「4分の33」×「2分の5」=「8分の165」
りこうなこたえ→んんなの、わざわざ分数なんか使うことねーだろ。8.25÷0.4=20.625時間。あと24時間もたねえぞ。早く修理しろ。