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2001年冬、アメリカがアフガニスタンに軍事介入を行ったとき、現地へ取材に行った写真家が走り書きしたプライベートなメモ。この写真家の写真は、こちらでごらんいただけます。記事中の小さな写真はサムネイルで、クリックすると拡大します。
写真は faireal.net の著作物では、ありません。ご利用については、写真家の久保田さんに直接、問い合わせてください。日記風のメモも久保田さんのものです(キャプションと最後のNOTEを除く)
アブドゥールという名の少年。空爆による負傷のひとり
死者は毎日65人程度にすぎないという報告もあるが
この数字の背後に無数の重傷者、軽傷者がいる
12月10日アフガニスタン難民の緊急支援とアフガニスタン取材のため日本を発つ。10:10成田からクアラルンプールへ・・
クアラルンプール経由でインドのデリーへ向かいそこからパキスタンへ入りアフガニスタンを目指す。
本来なら直接パキスタンに入るところだが、ラマダン明けが近いこともあってチケットが取れない。取材だけなら遅れてもいいが、飢えと寒さに苦しんでいる難民のことを考えると一刻も早く現地に行きたくて手間がかかるが、インド経由のコースを選んだ。
飛行機の窓から見るそらはとても美しく、地球の美しさを実感する。ここから見る限り大気汚染も感じられない。こんな美しい地球の上で醜い争いが起きていて、僕はこれからそこへ向かう。
アフガニスタンに関しては現地への思い入れもあるし、難民を助けるのも確かだ。しかし現地を取材することによって、僕自身がお金を得るのも事実だ。ジャーナリストは人の不幸を食い物にするハイエナなのだろうか?アフガニスタンに関してはこの問題に苦しめられることはないが、将来ジャーナリストとして他の国を訪れたとき、もしかしたら悩むことがあるかも。真実を伝えることによって問題が解決に向かうことも多いが、それを生活の糧にしていくのはつらいことかもしれない。
17:50(マレーシアタイム)インドニューデリーに向けてテイクオフ。 9:45ニューデリー着(インド時間)3時間半の時差に誤魔化されているが、よく考えると家を出てから21時間がすぎている。・・ようやくインドに到着するものの、今日のパキスタン行きのフライトはなく結局インドに一泊することになる。昨年インド地震の帰りに泊まったパハールガンジのパヤールに泊まる。
インド時間12:10。
12月11日パキスタンのラホール行きのチケットを手に入れる、これでようやくパキスタンに入れる。壊れたスーツケースの修理をしていたらあっという間に空港へ行く時間になってしまった。インドのセキュリティーはパキスタンほど厳しくない。18:20テイクオフ。ラホールまで僅か50分のフライト。こんな近いのに出国手続きがあり、入国手続きがある。21世紀を迎えた今・・そろそろ国と言う概念を捨て去らねば地球がもたない気がする。ラホールに着き、初めてパキスタンに来た時からの友人宅に泊めてもらう。明日イスラマバードに向かい、その後クエッタに向かう予定だ。
12月12日10:00朝早く起きたものの、友人のイドレスがまだ寝ていたため、日本に連絡をとり十時になりようやく朝食をとるお昼にはイスラマバード行きのバスに乗りたいと思う。
12:30daewooのバスに乗る。バス停ではタクシーのドライバーが今日はもう満席だからタクシーで行くしかないと言う。もしやと思いつつも、オフィスでチケットを確認。あるじゃん、これがパキスタン。
昨日ラホール空港に来ていた日本テレビのスタッフはピックアップが来ていた。今頃とっくにイスラマバードのマリオットホテルにいるんだろうなー・・ 16:40ラーワルピンディー着。予想外に時間がかかってしまった。移動だけで一日をつぶしてしまった。
今回に関しては移動時間を楽しむ余裕がない。しかし飛行機を使わずに地元の人と一緒になって行動する事によって見えてくるものも多い。今回も偶然にアフガニスタンから来ている人にあって話を聞くことができた。
そんな地道な行動からしか見えてこない、大手の報道陣ができない取材もある。明日はイスラマバードへ行きTBSからレターをもらい、内務省に行きヴィザの手続きをして、クエッタ行チケットを入手する。ポピュラーインがしまっているから、動きが鈍いも・・
12月13日イスラマバードでの仕事を終え、(TBSによって現地の情報を得て、3000$頂く)クエッタへのチケットを・・しかしラマダンの影響でチケットが全然とれない。このままではクエッタまでバスで移動することになってしまう。
現在のアフガニスタンは暫定政権というくらいで、ヴィザはなく、前回より簡単に入国できそうだ。まずはカンダハルへトライして、その後ペシャワールからジャララバードを目指す。そのころカブールまで抜けられればいいが、駄目な場合は一度でて、北からマザリシャリフを目指す。
12月14日無理をして日本を早くでてきたのに、・・結局16日のラホールからクエッタの便しか取れない、一瞬明日の便が取れそうな気配があったんだけど・・。バスを使っても33時間かかり、一日の差を飛行機が埋めてしまう。この遅れが先々に何を、どんな出会いをもたらすか、しかし今は焦りだけが、・・16日お昼過ぎにはクエッタにつけるはずだ。その日のうちにサマリーを訪れたいと思う。
14日16:40ホテルのルームサービスでチキンピラフとオムレツを食べる。まあまあの味、ラマダンのおかげで町の飯やは5時すぎないと営業を開始しない。生まれて初めてまともなラマダンを経験し、そのやっかいさを実感した。4年前にマレーシアで経験したラマダンは通常の生活になんの支障もなく、ただラマダン明けのパーティーがすごかっただけだ。ここパキスタンのラマダンは本物だと思った。
20:00やはり偶然は起こった、アフガン人のスープ屋でスープを飲んでいると後ろから声をかけられた、振り向くとそこには知った顔が、ピンディーのタイプや屋さんのおじさんだった。今日クエッタに向かっていたら会えなかっただろう。1週間くらいでクエッタから帰ってくるというと、次回は実家に招待してくれると言った。無駄に思える時間も最終的にはなにかにつながっている。一つ一つの行動に運命を感じる。
15日14:00再びラホールへバスで向かう。ラマダンと週末が重なりバスのチケットを手に入れるまで安心できなかった。女性にチケットを買ってもらった。この国では女性は優遇されているので、こういうときには助かる。コミッティーチョークからダイヲーのバス停まで80ルピー。これには参った。もうあわてても仕方がないので、成り行きにまかせようと心に決めた。サマジャンともアジハッサンとも連絡が取れたし。・・時間ができて思い出したが、インド地震のブジーだが、パハールガンジーで聞いたところによると、前グジャラート州知事がNGOの援助金を横領していて更迭されたようだ、その後復興はいまいち進んでいないとのこと。なんとか時間を作って取材してみたい。殆どの日本人が忘れているインド地震のその後を。
17:30ラホールに着く。イドレスはラマダン明けのパーティーのため忙しいようで、仕方がなくホテルを探す。ラホールは泥棒宿が有名で、駅周辺のホテルのに泊まろうと思ったが、タクシーの運転手の薦めで違うホテルに泊まることになる。安全をお金で買ったと思おう。荷物を盗まれたら元も子もないから。精一杯値切って1200ルピー。確かに部屋は目茶豪華。こんな豪華なところに一日、トランジットで泊まるのはもったいないくらい。明日はようやくクエッタへ・・
12月21日現在パキスタンでアフガンの政府は誰かと言うBBCの質問に43%のパキスタン人がタリバンと答える。
12月24日パキスタンにきて初めて調子を崩す。原因は分かっている。単なる睡眠不足だ。こちらに来て、ずーっと神経を使い放しで眠れない夜が続いていた。
12月25日何故かイスラム教の国なのに25日が休みになっている。おかげでカンダハルへのパーミッションが取れずに今日も実質お休みになった。こっちに来て仕事をしていないと落ち着かない毎日をすごしていたが、ようやく休むことにもなれてきた。日本でのアフガニスタンへの関心も薄れてきたようだし、取材を急いでもしょうがないと思いはじめるようになってきた。なんといってもここはパキスタンなのであわててもしょうがない。
12月27全く、今日もクエッタに釘付け。本当ならカンダハルへ行って、取材を終わらせイスラマ向かうころ。まあ予定は予定だが。明日は金曜日でチャマンへ行けないので結局明後日になる。板倉さんには一日だけいてもらい、僕はカンダハルで正月を迎えることになりそう。
運命は怖いものだ。生まれて初めての海外での正月をアフガニスタンのカンダハルですごすことになるとは。
空港警備隊の残していった戦車
(中央の人物が書き手の写真家)
アフガン問題に通じたもと国連難民高等弁務官が、当時「私が難民の保護と救済のため話し合ってきた人は相当のしたたか者ばかり。難民に制限を加えるとか、追放するぞと脅すとか。どっちがより悪くないかの選択を迫られてきたんです。きれいごとじゃありません」と語っていた(朝日新聞社のアサヒコム2001年10月6日より)。当時「知識人」たちがわけしり顔にあげつらっていた「文明の衝突」についても、「単純すぎますね、あの論は。もっと複雑な利害が絡んでいます」と一蹴していた。「テロリズム」など口実にすぎないことは初めから明白だった――少なくとも、善と悪の対決のようなおちゃらけた構図では、なかった。
もちろん語り手の緒方は朝日新聞社に対して言っているだけで、ネット上では、言わずもがなだ。ネット上では、「マスコミの報道をうのみにしない」ということが、むしろ常識として確立している。決してテレビや新聞がすべて間違っているとは言わないが、マスコミ経由では、多様な情報にアクセスしにくい。
「空爆」というのは言葉であって、空のしたには人がいる。あなたと同じように日々の生活に夢みて、悩んで、傷ついて、恋をして、怪我をすれば痛くて涙を流すおとなや若者や児童や赤ん坊がいるのだ。「どっちがより悪くないかの選択」という緒方の言葉がほのめかすように、アメリカの軍事介入は、もちろん「悪い」。正義などでは、あり得ない。日夜、爆弾を落とされた側は、その恐怖と失った人や物の大きさのため、一生消えない傷を負っただろう。にもかかわらず、米軍が内戦に介入しているあいだ、世の中の「平和主義者」の主張とは反対に、「いまアメリカに撤退されたら困るのだ」と指摘した。これは空爆や侵攻が続いてくれることがありがたいとか「良い」という意味では、なかった。
「空爆」とか「経済戦略」とかのことばを空虚にもてあそぶのも愚かしいけれど、「戦争反対」ということばを空虚にもてあそぶのも同じことだ。しかし、いちばん愚かしいのは、「反米的だから悪い」とか「政治思想・主義としてなんたらかんたら」という、わけの分からない話だった。反米的だから悪いもなにも、とうのアメリカ国内にも反対意見や――明確な反対まで行かなくても多かれ少なかれ――本当にこれが正義なのだろうかというためらいが根強く、そちらがむしろ一般の穏健な国民の意識だったのだから、もし「アメリカ人の言動だから悪い」という意味不明なロジックに従うなら、アメリカ国内の反戦ムードも悪い、つまりアメリカの軍事行動は正しい、ということにもなる。何がおかしいかというと、アメリカというのは、たくさんのステート(独自の政府と法体系を持つ独立国のようなもの)から成る連邦であって、好きとか嫌いとか賛成とか反対とか言う対象の「ひとつのアメリカ」が明確に存在するわけじゃない。「アメリカ人は英語を話してなんたらで」とかよく知ってる国だと錯覚しているかもしれないが、アメリカの大都市でも英語を第一言語とする者がむしろ少数派なとこだってある。そのように多様で主義・主張・言語・国籍の系譜などがまぜこぜになった広大なエリア。同じことは「アフガニスタン」にもあてはまる。多民族、多言語の広大で複雑なエリアだ。
というわけで、「悪いアフガニスタン人たち」を「正義のアメリカ人たち」がこらしめる、という単純な図式は、外部的にも内部的にも描けない。
アメリカでも、連邦政府の行動を疑問視する人々は多かったし、アフガニスタンでもアメリカの介入をもっけのさいわいと大喜びするいくつかのグループがあった。
なまの人間は、抗議とか正義とかお涙頂戴とか単純には割りきれないいろいろな襞をひめている。