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2002年1月18日、ふたたびアフガニスタンへ向けて出発。クエッタに行きサマリー難民キャンプに日本の援助をもっていき、その後カンダハル、カブール、マザリシャリフを目指す。1月19日、パキスタンのペシャワール。今回は現地でのローミングに成功して、日本のプロバイダのメールが使える。だだし現地でちゃんとした電話回線を使用できればという条件つきだが……。予定では、あと二日間ペシャワールでUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のお世話になり、ペシャワール周辺の難民キャンプの状況を調査。その後クエッタに向かいサマリー難民キャンプへ。今回は薬剤師のかたたちの協力によって、難民キャンプに薬と食料を持っていくことができる。
写真は faireal.net の著作物では、ありません。ご利用については、写真家の久保田さんに直接、問い合わせてください。日記も久保田さんのものです(キャプションを除く)
アフガニスタンに向け再び日本を発つ。
14:35take off30分遅れ。1月4日に帰国してから今日までの2週間は本当に あっという間だった。今回も荷物をパッキングしたのは昨日の夜中。日航成田で。大切なシュラフを忘れてくるし・・
同時多発テロ事件以降テレビと雑誌二足の草鞋をはくことになって、色々勉強にはなっ たが、やはり両方を完璧にこなすのは至難の業だと思う。今回は薬剤師の4人のメンバーと一緒に前半を過ごす。この4人がすごい!適材適所とはまさにこのこと。一緒に行動するうえで最高のメンバーだと思う。
町田さん。50歳を越えるこの親父、この人と僕の出会いは今後の日本を大きく動かすことになるだろう。現に UNHCRや外務省。そしてお膝元の薬剤師会をひっかき回している。というか誰もがやりたいと思っていることをこの人は実行するだけなのだが。風体はすごいのだが何処か子供の心を持ったお茶目な親父だと思う。その親父がそこそこに力を持っているから大変だ。
武政さん、一言で言うと切れる人。まじめな顔をしてくだらないギャグを出してくれるところなど僕好みだ。青森で出会った時は頭のよいいい人というイメージだけだったが、記者会見で驚いた。全く頭の回転が速いまた状況を的確に判断できる人だ。
鹿内さん、町田さんより一つ年上のおじさん。この人がまたいい感じ。メンバーの中で総務という役割を請け負っているが。これまた適材適所。年の割にと言ったら失礼だが、行動が早い。「今回現地で活動するにあたって、1〜10までぐらいはを話せるといいですね」と僕が言ったとき一番にメモを取り始めた。同じ歳になったとき僕もかくありたいと思った。
坂本さん、唯一の若人。僕より少し年下の、良い青年。僕と歳が近いだけに話しやすい。全体の潤滑油になる貴重な存在だと思う。悔しいのは僕より若いくせに嫁さんをもっていることだ。まあ彼には僕にはないなんかどっしりした落ち着きがあるし・・しかたないかなー?
薬剤師の人たちが用意してくれた薬。一錠の薬剤が宝石よりも貴重な場所へ。
このメンバーはまだ映像でしか現地をみていない。色々とうまくいかずに大変な思いもすることになると思う。しかし4人がそれぞれにいいところを持っているので、なんとか乗り切れるのではないかと思っている。(かれらは)PIAに乗ってすぐに4席を占領して睡眠をとった。優れたジャーナリストは移動時間に睡眠をとる。(これは優れたゲリラに対して言われた言葉)
UNHCRの羽生さん(アフガニスタン代表部)と会う。殆ど初めてと言っていいだろう、国連機関のVIPと会うのは。正直なところ僕個人の力だけでは、こんな人に会うことはできなかっただろう。お決まりのつまらないことしか聞けないと思っていたけど、意外や意外、現地での活動における率直な意見を聞けてとてもよかった。今までジャーナリストとして現地の人々の声しか聞いていなかったが、今回現地の活動を支える側の人の声を聞けてまた新たな視点ができた。本当にありがたいと思う。
羽生さんと: UNHCRにて
「現地を取材することによって、僕自身がお金を得るのも事実だ。ジャーナリストは人の不幸を食い物にするハイエナなのだろうか?」
© KUBOTA Hironobu, 2001, 2002.
Af-Pak国境、ペシャワル付近、概略図
20年ほど前に米ソの代理戦争を負わされ、「国連」や周辺諸国の複雑な利害のために内戦を延長させられてきたので、大量の難民が発生した。異常気象のための避難者もあった。2001年にふたたび大国が軍事介入したため、さらにたくさんの普通市民が国外へ避難した。三角印は難民キャンプ。一国から流出した難民数としては史上最大という。
資料: UNHCR: Afghanistan as of September 18, 2001
9:00イスラマからペシャワールへ。今回は初めてちゃんとした車。今まではローカルバス。ペシャワールが近く感じた。しかし、地元の人とのふれあいがないのは寂しい。僕は両方経験できて幸せだ。常にチャーターした車で移動している大手のメディアには決して見えてこないものがあるから。
年末から僕の友人のアジーズ(ナッサルバールに住んでいる)に連絡が取れていない。今日も何回も連絡を取ろうとしたが駄目で、とても心配で・・サダルに住んでいるアフガンジンの友人ハビーブにナッサルバールに行ってもらうことにした。本来なら一緒に行きたいのだが、空爆後外国人のナッサルバールへの立ち入りは禁止されていて、入ることができない。一人の友人に会いに行くこともできない、そんな政治の壁に腹が立つ。
19:00ハビーブがアジーズを連れてホテルに来てくれた。アジーズの無事な顔を見て不覚にも僕は思いっきり泣いてしまった。アジーズは前からいつナサッルバールを追い出されるかわからないと言っていたので・・どこか違うキャンプに行ってしまったのかと・・心配した。彼にとってはナッサルバールが第二の故郷なのだ。20年住み慣れたところをいつ追い出されるかわからず、遠方からの友人(僕)を自宅に招待することもできない、彼は生活には困っていないが、・・難民として別の苦しみを背負っている。
カメラマン
久保田 弘信
写真家は昔からの親友アジーズを気づかっていた。アジーズは今もナッサルバール村に住んでいることが分かったが、2001年にアメリカが今度は公然とアフガニスタンに侵攻してから、政治的な理由で外国人のナッサルバールへの立ち入りは禁じられているという。
政治的な理由? どんな理由だか想像がつくだろうか。
ナッサルバールは、パキスタンへ避難してきたアフガニスタンの居住地だ。「避難生活」といっても、約20年前のソ連の侵攻、アメリカの反政府ゲリラ支援以来の話なので、一時的な避難生活というより、定住に近い。ここで生まれた子どもたちもいる。もちろん死んだ者たちも。
事実上の定住であってもパキスタンからみれば「よそ者の難民」に変わりない。パキスタンにはアフガニスタンからの避難者に同情的な人々も多いが、あまりに避難民が多く、長期にわたってパキスタン国内に滞留しているため、自国の経済への負担などから、アフガン難民に対する反感もある。居住地から立ちのかせる、ささやかな住まいを破壊する、そうしたいやがらせや暴力的行動もあった。いやがらせどころか、ほかの難民滞在地(ジャロザイ)では、文字通りの「見殺し」があった。避難民が糞尿にまみれて飢えと病気で死んでゆくのを放置した。避難者に対するこうした非人道的態度が「政治的理由による立入禁止」と結びつく。
だが、パキスタンばかりを責められない。百万単位の想像を絶する人数がアフガニスタンの故郷から大移動してきたその原因。そしてこれら避難民に対する支援を貧しいパキスタン一国に押しつけ知らんぷりをしてきた国際社会。これらについてパキスタン自身にいかほどの責めがあるだろうか。かれらを放置しきわめて非人道的な「見殺し」を行ってきたのは、パキスタンでなく、むしろ世界各国、あなたの国を含む国際社会だ。パキスタンは少なくとも、数百万人の難民を受け入れは、した。アフガニスタンのほかの隣国タジキスタンのように、国境を封鎖した国もあったのだ。火事で燃える家から逃げ出そうとする人々に対して玄関先に有刺鉄線を張り銃を向けて「そこから出るな」と命じた――。
そしてなにより、「情報化社会」と言われる国々の「世界の動きをいち早く伝える」メディアは、国際社会が生み出した現代のアウシュビッツについてくちをつぐみつづけた。正確には「国際社会が」というより「それを牛耳る利己的な一部の国々が」ということだが。そもそも資源の権益をにらんで他国に軍事介入し、対人地雷や今回のクラスター爆弾のような(ほかの国には用いられないであろう)非人道兵器を投入し、すさまじい空爆を行った「難民発生の根本原因」について、テロ撲滅などというおためごかしを信じているのは愚かなお人好しだけだ。
写真家の久保田自身がナッサルバール村へ立ち入れなかったため、仕方なくほかのアフガン人の友だちにたのんで、旧友アジーズを自分の宿舎へ連れてきたもらい、再会を果たした。そのご、UNHCRの協力もあって、写真家はナッサルバールを訪れることができた。
最後に訪れた昨年10月からまた破壊された家が増えていた。しかし――皮肉なことに――アメリカの空爆がナッサルバールの破壊を遅らせていた。政治的な動揺と混乱のため気勢をそがれたのか、あるいはアフガニスタンの人々への同情が高まったのか、いろいろな要因があるにせよ、依然、パキスタン国内にのがれたアフガニスタンの人々の立場は複雑で不安定だ。
以下は写真家の日記である。
UNHCRのナースShahmazさんとナッサルバールに行く。看板だけ見て知っていたが、ナッサルバールの入り口近くにはWHOのオフィスがある。今回見せてもらったが、入り口から見るとたいしたことがないのだが、中はすごいひろさで、数えられないくらいのトラックと食料庫がある。いつも通っていたところにこんなすごい設備があるとは驚きだ。
WHOを見させてもらった後、すぐ近くにあるアジーズの家に行く。アジーズにはもちろんアジーズの兄弟や娘達も大喜び。Shahmazさんは20年UNHCRで働いているパキスタン人で、現場型の人。快くアジーズの家でのランチをOKしてくれた。