手元にあるものだと、まず「パタリロ」が思いつく。それから「残酷な神が支配する」。17歳以下の若者の性生活を描くことを禁じた「児童ポルノ禁止法」が「絵」も含むよう強化された場合、違法になりそうな作品だ。もし単純所持も禁止となれば、その日から自分も性犯罪者ということになる。
日本のこの法律については「《注釈》児童買春・児童ポルノ処罰法」の解説がとりあえず参考になる(児童ポルノとわいせつ図画の違い)。
「見れば分かる」というのは、性行為のたぐいをしているという事実を視覚的に認識できれば充分であり、性器が描写されてなくても該当する。モザイクやベタが入っていても変わらない。一般的にみて「いやらしくない」描写、むしろ芸術的で美しい描写であっても、法律的には「児童ポルノ」になってしまう。
そういうわけなので、もし無条件で「絵」も含むように規制強化されれば、多くの既存作品が影響を受けるし、今後の創作活動にも大きな制限が課せられることになる。文芸作品(文章)も含むとなれば、なおさらだ。「児童ポルノの所持も禁止」ということになった場合、かなりの割合の国民が現実的に違法状態になるだろう。日本の法律にいう「児童ポルノ」は上記のようにかなり広い概念で、一般的な「児童+ポルノ」のイメージとかなり違うので、注意が必要だ。
すなわち、「児童ポルノ」=「幼女を対象とした異常な性愛」ではない。児童というのは18歳未満なのだから、文芸を含めるなら「ロミオとジュリエット」とか「源氏物語」もそうだし、かなり多くの少女マンガでも十代の性がえがかれている(表現の目的、芸術性などは、明示的には判断の要素に入っていない)。そして、視覚的にそれと分かる場合、少しもやらしくなくても「ポルノ」になる。また、一部でも衣服を脱いでいると該当する可能性がある。
以下では、この問題について、もう少し考えてみよう。「児童ポルノ」というとイメージが強烈で限定的すぎて上のような実質を表せないおそれがあるので、ここでは仮に「表現規制法」と呼ぶことにする。
そもそもこの法律の最初期の法案では、第一条で「児童の心身の健やかな成長を期し、あわせて児童の権利の擁護に資する」のが目的とうたわれていた。「子どもを健全育成する」のが第一目的で、第二に「子どもの権利を守る」といったスタイルだった。それがあとから批判されて現在のような形になったといういきさつがある。
くだいていうと、この法律は、子どもの権利を守ることが目的であって、それ以上でもそれ以下でもない。「子どもが不健全な情報にふれて悪い刺激を受け、非行や犯罪に走るのをふせぐ」とか「子どもが健全に育つように、子どものまわりから有害な情報をなくす」といった立法趣旨ではない。その点、青少年健全育成条例のたぐいと目的が根本的に異なる。
2年前(2000年)の記事でも指摘したが(今日から売春が合法、オランダ)、従来の日本の立法者のロジックでは売春を行う東南アジアの子どもたちのほうが人間としての尊厳を欠く非行少年、ということになっていた。その記事でも引用したが「売春を行うおそれのある女子に対する補導」「補導処分に付された者は、婦人補導院に収容し、その更正のために必要な補導を行う」などと言っていた。
当事者である子どもからみて、これが180度反対のロジックになっていることは理解できると思う。育成条例や「青少年有害社会環境対策基本法案」は、子どもの教育上やむを得ない範囲で、子どもが情報にアクセスする権利を制限する。子どもがこれに違反した場合、状況によって、子どもの非行(禁止されているいことを行う)、子どもが悪い、ということになる。
これに反して「表現規制法」のほうは、子どもが虐待を受けないようにするものだから、子どもからみると、「青少年環境法案」は自分をしばるものであるのに対して、「表現規制法」は自分がしばられないように守ってくれるものであり、直接的に、子どもの主観的幸福のために存在している。これらふたつの方向性を混同した議論がしばしば見られるし、実際「表現規制法」は「健全育成・非行防止」型のロジックを引き継ぎつつ生まれてきたのであるが、この区別は非常に重要だ。どのように重要かは以下でしだいで明らかになるが、ひとつの核心は、中高生が売春的な行為(出演)にかかわるのを子どもの非行とみるか、それとも子どもに対する人権侵害とみるか?ということだ。
前者が「子どもの健全教育のために努力しよう」「子どもの非行をやめさせる努力をしよう」という保護者・教育者中心のベクトルであるのに対して、後者は子ども中心の考え方だ。「子どもの権利条約の選択議定書」についてのユニセフのページにも、「子ども最優先」「子どもの声に耳を傾ける」といったアピールが書かれている。
自民党サイトに「児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律の概要」というページがあるが、これが「女性政策」のディレクトリにあるのは、上記のような混同がまだ続いている結果かもしれない。「子どもの福祉」の問題を「女性」(母親=育児属性?)に分類してしまうのは、主人公無視の勝手な考えだ。「子どもが間違いを犯すと困るから、導いてやる」という180度逆転した考えが根底にあるのではないか、と疑われる。そもそも「子ども」の問題が「女性政策」にあるのも変だ。児童ポルノの被害者は主として女の子、と思っているのなら不勉強だ。
ひとことで言えば、子どもにも性生活がある。
子どもが実写ポルノグラフィー(狭義の児童ポルノ)の対象とされ虐待を受けることがないように厳しい規制をもうけるのは当然だが、同時に、子どもが性に関する情報に触れる権利を必要以上に制限すべきでない。ここでいう「性に関する情報」には、創作的に表現されたもの、すなわち小説やマンガや映画などを含むのであって、十代の子どもたちは、それらにふれることを通じて、共感的にいろいろな問題を考えたり、あるいは友だちやきょうだい、家族などと語りあうきっかけにもなるだろう。
「表現規制法」を強くしすぎて、十代の若者の性生活をまったく描写してはいけないことにすると、子どもたちからそうした貴重な機会をうばうことになる。自分のなかの性的感情について、それが不自然で異常なものでないかとむだに悩んだり、十代の性についての具体的描写がないため、かえってそれについてゆがんだ妄想を一方的にひろげてしまう可能性もある。
従来から、知的障害者や視覚障害者などの(事実上の)社会的弱者の性の問題が不当に無視されてきた、という問題がある。目が見えないと「通常」の社会生活においてふべんであるけれど、だからといって、視覚障害の面での支援だけが必要なのでは、ない。一般に目が不自由な人にも性欲はあり、性の悩みはある。同様に、未成年の若者は、実社会でやっていくのに充分な判断力がまだ不足しているかもしれないが、だからといって、教育面での働きかけだけが必要なのでは、ない。子どもにも性欲があり、性の悩みがある。そのことを直視しなければならない。これが子ども中心の考え方だ。
ひるがえって、逆に、従来の教育者中心の(たてまえの)価値観が押しつけられた場合、どのような推論図式が生じるか例示しよう。
これらの帰結を強いる論理構造が子どもの幸福に役立つところが、子どもの権利と福祉を不当に侵害していることを観察されたい。子ども最優先で考えるなら、子どもにも一般に性的欲求があること、それは多様であること、それを満たすための手段が必要であることをふまえて、現実的に考えなければいけない。
少女や少年が性生活を持つのが悪いことなのか。そうではない。ところが、「育成条例」的なロジックだと、子どもは自分の性について、無用な罪悪感や抑圧感をもちかねない。――そして、おさえつけられて育った子どもがおとなになったとき、あまり良い結果にならないであろう。――
十代の若者にも、恋人と性的関係を持ったりオナニーをする自由と権利がある。避妊というオプションや性病対策について教えるべきことも言うまでもない。
「表現規制法」は、十代の子どもの性的描写それ自体を「悪」であるかのように定めている。そのような写真や絵を製造したり、あるいは(改定の結果によっては)所持するだけで違法になる。このロジックをむやみに進めると、ひいては十代の少年や少女がオナニーのときに同級生のことをイメージするのも「悪」になり、性生活における児童の福祉を害する結果になる。現実の子どもが虐待を受けるのを防止するために表現規制法があるのだという目的をハッキリさせ、性的表現(性的イメージ、妄想)それ自体が「悪」なのでないことを再確認してほしい。「表現規制法」の書き方だと、十代の相手に性的関心を持ったりすることそれ自体が悪いかのように受け取られかねないが、このことは、子ども中心におきかえると、「同級生に恋しては、いけない」というロジックになってしまう。そうでないことをハッキリさせる必要がある。
繰り返すが、表現自体が悪いのでは、ない。もし表現自体が悪いとすると、その主体になった児童(現実的には虐待を受けている子ども)は「悪いことをしている」ことになってしまう。虐待者は子どもに「悪いこと」をさせたから悪いのでなく、虐待それ自体が悪いのである。言い換えれば、同じ性的行為を、自主的に主体になれる者が行ったとすれば、それは問題にならない。性そのもの、性行為やその表現そのものが悪いのでは、ない。この点、性的非行防止とかの健全育成条例的なベクトルとの混同は、被害者をさらに追いつめないためにも、避けなければならない。とくに、まともな性教育を受けていない世代は、意識して考えてほしい。
逆に、ロリ系ポルノをアングラで入手なさっているかたは、「子どもの裸だから禁止されている」のでなく、その画像を作るときに子どもが虐待されたという事実が最大の問題だ、という点に目を向けねばならない。
個人差も大きいけれど、早熟な人だと10歳前後くらいから、性的行為が可能なからだになると思われる。十代の若者、とくに男の子がオナニーのときいわゆる「おかず」を必要とすることを認めつつ、上述のような表現規制をかけると、結果として「熟女趣味強制法」になってしまう。ティーンがおとなの女性に性的関心を持つことは別に異常でないが、同年代に恋心や性的欲求を感じることもまた自然だ。女の子の場合も、視覚的イメージとは限らないが、自分の好きな同級生にキスされている場面をイメージしたりすることがある。こうしたことは性差より個人差のほうが大きいかもしれない。
中高生の性行為について、従来から、「まだ社会的に自立が困難なので、妊娠すると困るから」という理由で、これを制限しようという考えがあったように思う。妊娠すると困るという理由なら、避妊についておしえるほうが合目的的だ。しかし、この点に関するかぎり、10歳くらいから生物として生殖可能な状態になっているのに、それを制限するというのは、単に現在の社会制度として児童が親となって育児することが難しいからだろう。
例えば、学内に保育施設がある高校や大学が、日本にどのくらいあるのだろうか。少子化問題で困ってるなら、10代から安心して子をもてる社会にすべきだろう。子育てと高校生活ないし大学生活が両立できるように支援することが、児童の福祉につながる。法的にも結婚可能年齢である以上、そうしたライフスタイルをも選択可能にすべきだ。
読者のなかには――この法律について議論している政治家のかたがたの大半もそうかもしれないが――まともな性教育を受けていない世代のかたもまだ多いかもしれない。あまりにべたで書くと、動揺して正しい判断ができないかもしれない。そこで、ここでは、人間のほかの本能的欲求として排泄(おしっこ)のことを考えてみます。
妊娠の問題とは別のなんらかのほかの理由でやむを得ず若者の性生活を制限するとしても、多くの若者(全員ではないが)に性に関する本能的欲求があることには変わりない、という点は、おわかりだろう。「禁欲」ということを、イメージしやすく、トイレをがまんする、ということにあてはめて、考えてみる。
想像してみてほしい。一日一回、決まった時刻にしかトイレに行ってはいけない、という規則が課せられたとする。一日何度もおしっこをするのは悪いことだ、とすりこむのだ。そんな規則を強制したら身体の健康にも良くないだろうけれど、そういうふうに教えられ、子ども時代からいつもいつもおしっこをがまんして、「こんなにおしっこが出たくなる自分は変だ」と後ろめたさを考えながらときたま我慢しきれずこっそりトイレに行ったりしつつ成長しておとなになったら、メンタル面でも予期できないほどおかしなゆがみが生じるに違いない。特定の子をそのようにしつけ、「おしっこは別に悪いことでない」という点について友人と語りあう機会も奪えば、へんなおとなに育つだろう。
「たぶんそうなるだろう」とあなたが判断できるのは、あなたが「おしっこの自由」の原則について、解放された社会に住んでいるからだ。
あらゆる規則が無意味とは言わないけれど、本能的欲求に関係することがらは、むやみに抑えつければかえって望ましくないゆがみが生じる。
例えば、女の子の場合、トランスセクシュアルを別にすると、クロスドレッサーが少ない。男の子には普通の女装趣味はもとより、なんとかフェチと言われる人が比較的多いようだ(ストッキングとかブルマーとかスカートとか)。これは男の子の脳が本質的に変態的だからでなく、単に女の子が身につけておかしいものが少ないのに対して、男の子が身につけたらジェンダー文法違反な物品がけっこう多いから=禁止されているからだろう。ジェンダー的にユニセックスになれば、なんとかフェチのたぐいは急減するだろう。もちろん、なんとかフェチとか異性装が悪いという意味ではないが。
禁欲は、清純で美しい結果をまねくとは限らない。むしろ、どろどろした無意識の抑圧のような良くない結果をまねき、悲劇的な形で暴発しないとも限らない。子どもをあらゆる性的表現から遠ざけ「性」を悪いこととすりこみ禁欲させ「純粋培養」すると、性的に好ましいおとなになるのだろうか。そうなる場合もあるかもしれないが、逆効果になる場合もあるだろう。
物理的に縄などで縛ったり縛られたりするプレイがあるらしいけど、子ども時代に精神的に受け続けてきた虐待(禁欲の強制)を外形化することで昇華したいというあらわれなのかも、しれない……。
いま若者の性が無視され踏みにじられようとしているように、かつて、同性愛者が異常視され治さなければいけない、と信じられていた時代があった。当事者にとっては、あまりにつらいことだったろう。同性愛を「治そうと」することが、ほとんど無意味であるばかりか、かえって苦悩を増大させた。十代の子どもたちの性生活を「治そうと」することも、つねに有意義とは限らない。
一般に、子どもだって、エロに興味を持つ。エロが好きなのだ。すべてのおとながポルノを楽しむわけでないように、すべての子どもがポルノを楽しむわけではないが、一般論として言うならば、詩などのあわい恋愛描写から、濃厚な映画表現にいたる性表現は、連続したスペクトルであって、明確な根拠のある切実な理由がないかぎり、そうした文芸作品へのアクセスは制限されてはならない。表現規制法は、子どもを虐待から守るものだが、禁欲を強制したり、オナニーの手段を必要以上に制限すること、性的嗜好を押しつけることも、児童に対する性的虐待であることに気づいてほしい。
身近だった雑誌が、理不尽に18禁指定されたことがあった。その雑誌は、もともとふつうの本屋で売っていて普通のホームページ素材とかも収録している男女問わず一般向けほのぼの系だったのに、エロいと一方的に決めつけられ18禁指定され本屋におけなくなったせいで成年に通販するしかなくなり、ターゲットが狭まり、結局、ホントにエロくなった。そうしなきゃ生き残れなかったのだろう。あの雑誌をエロくしたのは行政だった――誇張とかでなく、実際に経過を毎号見ていての素朴な実感だ。みだりに禁止、抑圧すると、絶対にかえって良くない効果が出ると思う。
マンガやアニメなど、ありとあらゆるメディアから裸体表現がなくなり、18歳未満からありとあらゆる裸体表現へのアクセスを遮断したら何が起きるだろうか。単純所持も禁止だということは、そういう想像を絵や文章でひそかに描いてみることも違法になる。学校でも「そういう絵や文章を書くのは悪いことだ」と教える。いつ暴発してもおかしくないとんでもないゆがみにつながるのでないか。
これは単なる推測だが、いずれにせよ多くの男の子は、裸体を必要とするであろう。けれど必要なものが手に入らない。となると、本来エロティックな用途に作成されてわけでないものを脳内補完して利用するしかなくなる。例えば現代詩文庫の裏表紙にある著者近影とか、どこかの難民の写真とかの、わけのわからない写真を使ったりするのだろうか。絵も写真も着衣しかないのだから脳内で脱がす。毎日毎日、脳内で脱がす。とにかく脱がす想像から始める。着衣の相手は脱がすもの、という無意識のすりこみが発生する。フラストレーションがこうじて、バラバラ殺人事件ならぬヌガシ殺人事件が発生するかもしれない。とりあえず、最初から脱いでいるイメージを与えたほうが、よっぽどナチュラルだ。
作品は原作者の意図さえ越えたところで多様に再解釈され、再創造を触発してゆくところにその本質がある。
「表現規制法で対象となるかもしれない少女マンガ等にもともと興味ないので自分は関係ない」と思うかたもおられるだろう。大半のかたは、例えば「エロゲーなんて全面禁止されようが何だろうが自分とは関係ない」と考えるだろう。ところが、作品の創造というのは連鎖的なもので、あなたの趣味にあう「
例えば、コーヒーもお酒も好まない人が、コーヒーやお酒が禁止されても自分には関係ない、と思うようなものだ。
あなたはコーヒーをだい嫌いでも、あなたがだい好きな映画を作っている人たちはコーヒーがないとその映画を作れないかもしれない。たとえとしては、そういうことなのだ。
とくに、「禁止」シーンが少しあるというだけで、すぐれた作品全体が発禁になってしまったら、もったいない。表現規制法の改定の仕方によっては、既存の名作が禁止されてしまう。「ちびくろサンボ」という表現が好ましくない、という理由で、とらがぐるぐる回ってバターになってしまうシーンも禁止されるのは、かなり悲しいが、それと同様に、若者の性をえがくシーンがちょっとあるという理由で、例えば長編映画全体が違法とされたら、文化的に大きな損失だと思う。
「禁止」要素メインの作品でさえ、簡単に発禁にしてほしくない。「ちびくろサンボ」は「ちびくろサンボ」が主人公なのだから、まさに外形的には禁止要素メインなのだろうし、実際に黒人に対する好ましくない先入観の原因になったりするかもしれないとも認めるが、けれど、やはり禁止されるのは、もったいない。実際に「ちびくろサンボ」はサリンジャーの名作「バナナフィッシュにうってつけの日」にひとつのインスピレーションを与えている。作品世界のぐしゃまらな多様性には、ポジティブな面も大きいのだ。
自分自身、気にくわないと思う表現は、いくらでもある。一例を挙げると、クリィミーマミの主題歌で「男の子とちがう 女の子って 好きと嫌いだけで 普通がないの」というのは気にくわない。「女の子は、そんな単純なものでない」「そもそも男の子の従属物でない」と、ツッコミを入れたくなる。
では、このような表現は悪い=有害として禁止すべきだろうか?
そうは思わない。
なぜか。
第一に、そうでないと、「女の子は単純で好きか嫌いかだけだよ」と考えている人があることが、永遠に分からない。考えていることを表現してもらえばこそ、反論したり、フィードバックすることができる。
第二に、このようなフィードバックがないとすると、永遠にその人は「女の子は単純で好きか嫌いかだけだよ」と思いこんだままになってしまう。
美少女ゲームなども「そんなにうまく行くかよ」とツッコミたい場面は、いくらでもあるだろう。これは、美少女ゲームのような世界をそのまま(ゲームと無関係に、自分の妄想として)えがくことに対してネガティブ・フィードバックを送る絶好の材料なのだ。
もし妄想を外形的に表現するそのようなゲームなどがなければ、そのような妄想に対してフィードバックする機会も失われてしまう。妄想の世界が絶対
逆に言えば、現実にはこんなことはありえないということを分かっていながら、あえて空想の世界に遊ぶのであれば、それは――例えば妖精物語とかSFの宇宙旅行のように――ひとつの無害な趣味と言える。
以上のように、特定の作品がそれ自体として善とか悪ということはなく、それをどのような文脈で受け止めるか、ということが、最も重要なのである。このことを考慮してもなお規制されなければならない表現も存在する。例えば現実の児童に対するリアルな虐待は、そうである。しかし、虐待がどのような深いこころの傷を残すか、という観点からとらえうる創作的なストーリーであれば(例「メッシュ」「BANANA FISH」)、教育的に役立つ場合もあるだろう。作品に対してフィードバックするのが面倒だから(あるいは自分が恥ずかしいから)そういう作品を禁止してほしい、というものぐさな考え方では、いけない。ものぐさな親は、子どもが「変な」作品を愛好しているのを目撃したり知ったりしたときに単純に怒って「禁止」と言ったり捨てたりするかもしれないが、子どもを傷つけるきわめてまずい接し方と言わざるを得ない。もしフィードバックできないような手に負えない内容だった場合は、とりあえず「善意の無関心」を選択してほしい。
子どもというのは本来的に天使のように清純無垢なのだ、というのも、エロゲーの世界以上にばかげた妄想だ。
子どもが「変な」世界に関心を持っていることを知って失望し取り乱すのは、現実の女の子がゲームのように扱えないことを知って怒り狂う変質者と、五十歩百歩だ。子どもは、あなたの自由に動かせるゲームのコマでない。
じつのところ、自分自身はベッドシーンがけっこううざい。けれど、まったくベッドシーンがなかったら商業的にきついのだろう、と思うので、無料ホームページを借りるときのじゃまなバナー広告みたいな感じで、わりきっている。
「アヴァロン」のレビューで書いたが、自分は、あのバトルシーンも長いと思った。もっと圧縮して、後半のテーマだけをじっくりやっても良いと思った。けれど、バトルシーンがなかったら、商業的にくるしいだろうし、たぶん監督さん自身、好きなのだろうし、べつにあっていけないとは思わなかった。(前半と後半の落差には驚いたけど。)
そんな感じで、ひとつの作品には、いろんな部分があるのだし、現状、メジャーでやっていくには、やはり、ある程度、一般的に分かる部分が必要だと思う。大半の人は興味ないけど自分自身が望むワンシーンのために、自分は興味ないけど大半の人が興味を示すベッドシーンが長々とある、と思える場合もある。
「OH!スーパーミルクチャン」で、ミルクチャンに「肉欲棒太郎です」と言わせているのも趣味が悪い。が、そういう性的な悪い冗談をやらせておもしろがる視聴者もこの作品を支えてくれているのだろう、と思うと、最終的には、この作品全部が無いよりは、気に入らないシーンがあってもあるほうがずっと良いので、うけいれることができる。これは「小学生にこんなセリフを言わせるべきでない」と個人的感想をフィードバックする機会として役立つから良い、という受容文脈の話とはまた別の、商業的な側面の問題だ。
理論上、多くの場合、すぐれた作品の魅力は「禁止」要素を除去しても変わらないかもしれない。観客サービスのベッドシーンはカットして朝ちゅんにしても、たいていのストーリーは成り立つ。けれど、それは理論上の話で、商業的にきつくなるので、結局、制作可能作品数が減ってつまらなくなるおそれがある。なんだかんだ言っても、大半の映画ファンは人物の顔やベッドシーンにカネを払っているのでないか。(十代の若者の話の場合は、「ぎこちない手で……」といった的確な描写が同年代の共感的感情移入のために不可欠、という論点もある。)
基準のあいまいな制限が、表現者に過剰な自粛をうながし、創造のいきおいがなくなる、というのは、創作者のモティベーションに限らない。商業上も「作っても公開できないとイメージダウンも含めて大損害になるから、安全係数をかけて、基準よりさらにきつめ自粛して作る」というのが当然の姿勢になってしまう。すでにそうなりかけている。
表現規制法の「理想」それ自体は支持できるが、表現規制法の強化を求める人々は、その強化が何を規制しようとしているのか知っているのだろうか。
仮に日本で翻訳されているフランスの小説がまだ30冊くらいだとして、その大半がエロ系だと想像してみよう。そして、あなたは「フランスの小説って読んだことないけどエロばっかりなんでしょ」という認識を持っていて、「フランス文学なんて一般人はぜんぜん興味ないし、そんなのに興味持つのは特殊なヲタだけだし、内容もエロだけらしいし、全面禁止で良し」と言い張る……。たまたまエロ系ばかりなのはフランス語→日本語の翻訳がすごくコストがかかってそういう系でもないと買う人もいなくて採算がとれないから、というだけかもしれない。ぜんぶ読めとは言わないまでも、一冊も読んだことがないフランス文学を頭ごなしに全否定するのは、どうかと思う。同様なことは、いろいろなことについて言えるのであるまいか。
児童ポルノ関連では、この問題がいちばん奥行きが深く、いろいろな論点を含んでいる。
第一に、リアルの少年少女の実写画像をCG処理した場合、そのイメージは直接的にはリアルな写真でないとしても、結局、虐待されているのは現実の子どもなのであるから、これは禁止の原則のままで良いだろう。顔が分からないようにすれば(あるいは顔だけなら)撮影して良い、というわけには、いかない。
第二に、実際には18歳未満でないモデルを使ってリアルの18歳未満に見えるようにした場合。これは議論が分かれ、判断が揺れている。取り締まりの側からみると、「18歳未満に見えるがそうでない」と言い張られた場合に困るので、とりあえず子どもに見えるものは子どもとして扱いたい、という要求が生じる(児童ポルノとは何か?、2001年)。他方、2002年になってからのアメリカでの司法判断(2002年4月)は、これをくつがえす方向にある。米最高裁「児童ポルノ禁止法は言論の自由に反するために違憲」、米最高裁、バーチャル児童ポルノを「承認」、Supreme Court strikes down ban on 'virtual child porn'。
立法論として、直接的に子どもの虐待されない権利を守るという観点に立てば、子どもでない存在については、子どもに見えるとしても、保護されない。これは子どもへの虐待行為を「悪」とみなす場合である。相手が18歳以上なら、子どもでないし、同意する意思能力もあるから、外形だけで悪とは断定できない、という観点だ。
他方、このような表現が二次的に子どもへの虐待を誘発するおそれがあるのでそれを禁止する、という観点から、「子どもに見えるものを虐待する」という表現それ自体を「悪」とみなすこともできる。この場合、どのような作品表現とどのような虐待のあいだに因果関係があるかが解明されなければならない。因果関係の証明は必ずしも確実である必要はないが、憲法上の表現の自由の大原則を制限する以上、それなりに明白な具体的根拠と緊急性とが必要だろう。根拠のあいまいなまま広い範囲を禁止すれば、文化に対する悪影響のほうが大きい。また、ある程度、因果関係があるのでないか、という憶測が成り立つとしても、特に緊急性がなければ、むやみと規制を強める前に、調査研究を続行すべきだろう。「わいせつ」概念と同じで、社会、時代、技術、意識などの変化によって許容・非許容の境界が変化する可能性もある。
「子どもに見えるものを虐待する」という表現それ自体を「悪」とみなす倫理観は、現実に虐待された子どもに「自分は悪いことをした、悪いことに参与した」という罪業観念を与える方向性にあるので、子ども中心の立場からは避けるべきロジックである。子どもへの虐待行為を「悪」と解釈するのが至当だ。
第三は、まったく仮想的な(とくに2次元の)絵の場合である。これをとりしまるべきだ、と考えるのは、現状、少数派であるが、当初から議論は存在しており、現在(2002年5月)検討中の「改定」においても絵も規制するという案があるようだ。
児童の権利条約等で保護される「児童」(a child)は、人身ないし臓器が売買される可能性のあるような「物理的に存在するリアルの子ども」であって、画家やマンガ家のイメージにすぎない「ただの絵の子ども」は、さしあたって保護の対象になっていない。「たとえ絵であってもエロゲーはリアルの犯罪を誘発するから禁止すべき」という議論もあるが、これは実際のゲーマーの心理についての無知ないし不勉強などに起因すると思われる。2次元の絵は、一般人からみて「子どもをえがいたもの」であっても、大半のゲーマにとって3次元の子どもとは別個の存在だ。
言い換えれば、リアルの子どもの代用品としての「絵」――プラトン的に言えば「偽物の偽物」――でなく、ある種「イデアのあるべき姿」を直接、書き表している。現実には絶対にあり得ないプロポーションだったり、現実の人間とは異なる耳の形だったり、しっぽがあったり、宇宙人だったり、人間以外だったりすることもある。要するに、これは広い意味でのファンタジーであり、現実の影というよりも、デフォルトの現実と平行して存在する「現実のリアリゼーションの別解」である。ファンタジーの世界を現実と混同する読者がいるとしても、それは必ずしも書き手の責任でなく、ファンタジーが悪ということには、ならない。
しかし、長期的に見るならば、現実の人間でない存在の「人権」について考えるべきときが来るかもしれない。作品の制作者が人間以外の「意思を持った存在」になる可能性もある。このような存在を人間に準じて取り締まるには、その相手にも人間に準じた権利を認めるべきかもしれない。もっとも、そんなふうに人間とコミュニケーション可能であるかどうかも分からないわけだが……
現状で2次元の絵を保護するとしたら、むしろ動物愛護の精神に近いのかもしれない。
例えば「中学生はエロ本を読んではいけない」という場合に(これは表現規制法でなく健全育成条例の側の発想だが)、その根拠として、「一般の中学生でエロ本を読んだことがあるのは50%だが、非行で補導された中学生に限ると70%だった。このようにエロ本と非行には因果関係があるのだ」という、たわいない主張がなされることがある。統計データの間違った使い方は、きわめて例が多く、間違った統計利用にもとづいて世間のイメージが成立していることすらある。
上の場合でいうと、補導された生徒と生徒全体とについて、例えば、喫煙率、ソリを入れたことがあるか、バイクが好きか、ナイフで鉛筆が削れるか、など、何と相関させても、それなりのことが言える。ナイフで鉛筆を削れる子は「統計的に」非行を起こしやすい、統計的に有意差がある、だから子どもに鉛筆を削る方法を教えてはいけない、などという、変てこな議論がいくらでも成り立つ。
ゲームや映画などのメディアが犯罪などの原因になっているのでないか、という「強化」説は繰り返し主張されてきたが、実際問題として、一般的な事実として証明された例は、むしろまれだろう。個々の事例では、「この犯罪のこの部分は、この小説のこの部分からヒントを得た」などと分かる場合もあるだろうが、だからといって、(一般論として)その小説が社会にとって有害だった、とは言えない。ただし、アニメのような比較的新しいメディアは社会的評価について必ずしも一定しておらず、全否定する考え方すらありうるため、スケープゴートになりやすい。これが「シベリウスのフィンランディアを聴いて鼓舞され、思わずロシア人をなぐってしまった」とかの話だと、シベリウスの音楽は評価が固まっているので「そんなことするほうが特殊なバカ」だと笑い話にもなるけれど、テレビゲームなどだと、ゲーム自体がある人々からみて「よく分からない特殊な世界」であるので、ゲーマーのなかでも特殊な変質者が事件を起こしたのか、あるいはゲーマー全員が潜在的に特殊な変質者なのか?という点で、混乱してしまうことにもなる。
表現規制法との関連で問題になるのはエロゲーだが、この種のゲーマーのなかには、いろいろな意味で「変な」人が多いのも確かだろう。もちろん、すべてのゲーマーが性犯罪予備軍というわけではない、というのも当たり前だ。マスコミが誤解を招く勝手な「一般化」を行い憶測を流したせいで、「変な事件を起こすと関係者全員に迷惑がかかるから性犯罪だけは絶対ダメだ」という一般人より強い倫理観さえある。特殊な個々の事例で、犯行の手口などをゲームから模倣していたとしても、その犯行におよんだ犯人が「ゲームをしたから」犯罪をおかしたのか?言い換えればゲームをしなかったら何も悪いことをしなかったのか?というのは、疑問の余地がある。教育の立場からすれば、性格の問題をゲームのせいにして(例えば)学校教育には問題がない、ことにしたほうが気が楽だし、犯人の立場からしても、ゲームに影響されたのであって自分は悪くないゲームが悪いのだ、と考えたいかもしれないからだ。個人的には、エロゲーの内容は、もう少し規制したほうが良いように思うが、もちろん自分が「良くない」と思うことがすべての価値観でないことも分かっている。18禁のエロゲーのなかにもエロ以外の部分で名作と呼べるものがあることも認める。きわめてまれには、エロティックな描写があるからこそ深みが増していると思われる部分さえある。
いまの世代はゲームが新しい創造的ジャンルであり、ひとつの文化だ、ということをよく分かっているだろう――そして「中古ゲーム販売」問題で主張されたように、ゲームには映画と類似している面もある。したがって、映画と同じで、当然、エロティックな表現を含むものも存在しうるし、実際に存在する。良いものもあれば、俗悪なものもある、というのも映画と同じだ。映画や小説と違うのは、いろいろなジャンルがあり良いものも悪いものもある、という当たり前のことがあまり知られていない、という点だろう。
確かに、ゲームが存在することで、数万分の一とか数十万分の一の確率にせよ、それが非行や犯罪の原因になることは、ありうる。しかし、数万分の一なりの特殊な変質者に例外的な悪影響を及ぼすという理由で、ゲーム全体を禁止するのは、(一般論として言えば)公益に合致しない。「明らかにひき逃げで殺される子どもや交通遺児の原因になっている」としても自動車全体を禁止せよということには、ならない。交通事故は確実に多発しているとしても。
ちなみに、子どもの現在や将来の不幸をもっと確実に減らし、しかも公益のあるプランとして、「たばこの全面禁止」がある。たばこの有害性、中毒性は明白だ。ゲーム業界に比べて、たばこ業界は利権も大きく、現にあまりに多くの中毒者(喫煙者)がいるので、規制を進めにくいのだろうけれど、もし子どもの幸福を第一に考えれば、対応すべきだろう。「エロ表現のない社会」が、本当に子どものためになるかどうかは多々疑問があるが、「たばこのない社会」は好ましい。
結局、メリットとデメリットのあいだでのバランス感覚の問題ということになる。自動車やゲームのような(人間の幸福にとって)役立つものはもちろん、たばこのような、客観的にみて有害なものでも、ただちに全面的にどうこう、というのは、非現実だ。交通法規やたばこの販売規制があるように、ゲームについても、なんらかの制限があって当然なのだが、あまり規制を強くすると、かえってネットなどの「裏」で流れて、規制の実効がなくなる。
いったい、表現禁止法は、その表現の作成において児童が虐待されることを直接的にふせぐための制約である。虐待を禁止しているのだ(子どもの権利)。将来の犯罪予防のような観点から、犯罪を誘発する可能性のある表現物をとりしまる、という観点もありうるのだが(健全育成、有害環境除去)、すでに示したように、そのような立場は子どもを逆に抑圧する結果になる。性行為そのものを悪とみなすことにより、子どものファンタジーを妨害し、子どもの性生活を圧迫し、さらに性的虐待を受けた子どもに罪業観念をうえつけるからだ。しかも根拠となる犯罪誘発の因果関係の評価にも疑問が大きすぎる。普通人が見てもなんともない作品がひきがねになって異様な事件を起こすような変質者は、その作品があろうがなかろうがいずれ何かするのでないか、とも思える。たとえば、一般常識的にみて絶対に問題がないような、ほかの本などがきっかけになって。
たぶん社会通念によると、美少女ゲームなどに熱中する人はロリコンで、だから現実に幼女誘拐などの犯罪を犯しかねない、というようなイメージがあるのだろう。
たしかに、そういうゲーマーのなかに小児性愛者もいるのだろう。(ただしゲームの影響で、そうでなかった人がリアルでも小児性愛者になる、というのは、例外的だと思われる。)
一般論として言えば、美少女ゲームが好きだからといって現実の美少女が好きだとは限らない。妹属性だからといって現実の妹に萌えているとは限らないし、めがねっこが好きだからといって、現実のめがね少女が好きだとは限らない。ゲームを模倣した事件が起きるので「ゲームと現実を混同しているゲーマーが多い」と思うかもしれないが、実際には、逆に、大半のゲーマーは、現実とゲームとにおいて、好みが違う。戦争映画が好きでも現実の戦争が好きとは限らないのと同じだ。そもそもニュースになるような特殊な事件というのは、たぶん数例しかないであろう。そんな特殊例から、数万だか数百万だかのゲーマーについて帰納するのは、あまりに無謀である。
ただ、これは「エロゲーをやる人は、そんなに変でない」という意味でもない。変は変なのだが、社会通念にあるロリコンとかの意味とは違う意味で変なのだ。むしろ、現実の年下の幼女に恋すること(リアルなロリコン)は、まだ「正常」とも言える。何年かして恋人が大きくなったとき、なお互いに好意をいだいていれば合法的に結婚することも可能な相手だからだ。
本当に「変」なのは、現実の女の子に興味がない、ということだ。子どもは嫌いという人さえいるだろう。このような人々の心理は通常の理解を超えているかもしれないが、とりあえず現実の女の子には興味ないのだから人畜無害だ。大半のゲーマーは、たとえ社会的には不適格としても、まともな考えを持っていると思われる。同性愛者だからといって同性とみれば無理やりおそうとは限らないというのと同じだ――むしろそんなことをするのは極めて例外的な特殊例であって、そのわずかの事例だけを根拠に同性愛者全体に偏見を持つのは不合理だ。エロゲーマーも同様だ。エロゲマだと知られると偏見と迫害に合うと思ってしばしば「普通人」を装っているところも、かつての同性愛者と似ているかもしれない。同性愛や男装女装が個人の自由であるのと同じように、仮想的な相手と「結婚」するのも個人の自由、という観念が広まるには、まだ時間が必要だろう。
偽春菜が「殺され」たとき、ユーザは、いきどおり、泣き、喪服まで広まった……“任意たん”ひとりであの騒ぎだったのを思い出すと、万が一にも萌え系ゲームやアニメが非合法化され所持も禁止、なんてことになったら冗談ぬきで暴動が起きるのでないかと心配になる。それこそ「結婚」してる人さえいるだろうし……。ただ、その場合でも、ゲームができなくなったので代償として3次元の女の子を……というようなケースはまれで、いかりの対象は規制を行うことにした政治家とかだろう。偽春菜のときで言えば、それはプラエセンスであった。そして偽春菜問題をふりかえれば、だれも法を無視した無謀な「復讐」などせず、ユーザのあいだで(全体としてみるなら)冷静かつ論理的な議論が行われ、問題点の検討、プラエセンスに対する公開質問状、ありうべき訴訟対策などをこうじたうえで、偽春菜をよみがえらせたのであった。
ゲーマーは一般人より内気で穏やかだと思われるが、まぁどうしても事件を起こしたくなったら、これまでの仕返しに部屋中を朝日新聞だらけにして、家族に「朝日新聞萌え萌え」と口走ってから犯行に及んでほしい。
日本で、1999年に児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律が施行された。そのなかに三年後に制度の見直しをするというような意味の記述があって、それを根拠に現在(2002年)法律を変えようという動きがあるそうだ。法律を施行するときに「この法律をやってみて悪い副作用が多いと分かったら内容を修正します」ともとれるようなことを書いておき、三年後「変えなければいけないと決まっているので変えます」と逆にそれを根拠に変える……というプランだったのだろうか。そうだとしたら、なかなか頭がいい。一気には通らないような法律をとりあえずぶなんな部分だけ押し通し、数年後、さらに押し進める。よくある話だろう。
問題の「施行後三年を目途として」という部分には「児童の権利の擁護に関する国際的動向等を勘案し、検討」などとも書いてある。つじつまを合わせるように、2002年、日本は「児童の権利に関する条約」の付属文書(少年兵の禁止、児童の性的虐待の禁止などを定めたもの)に署名した。この直後、「国際的に、法改正を迫られることに」などと誤解を招く報道もなされた。この付属文書は任意的なもの(Optional Protocol)であって、自分から署名しなければ国内法改正の義務も発生しない。じじつ、アメリカ合衆国は、国内の「修正第一条」とのかねあいもあってか、付属文書どころか児童の権利に関する条約そのものの批准を留保している。「倫理」にかかわることは地域や時代によって価値観が異なるのであって、一義的な国際条約で制限することが最善とは限らない。いかに条約の精神が良くても、国内での充分な議論もないまま国内法改正が義務づけられるような国際条約に勝手にサインしてしまう、というのは、民主的とは言えない行動として、批判にもさらされよう。
日本地域における児童ポルノの放任が、そのようなことを違法としてより厳しく否定的な価値観を持つ文化圏の住民からみて、しばしば批判にさらされていたことも事実だ。しかし、例えば、日本地域において違法であるソフトドラッグが他地域において合法であるとしても、直ちに日本がそれを批判できるとは限らない。基本的には文化が異なれば価値観、倫理観も異なるからだ。にもかかわらず、このようなことが「国際問題」となったのには、ひとつはネットの発達により情報論的には国境が薄れてきたことと関係あるだろう。もうひとつには、実際に、日本の住民が日本以外の地域に行って、子どもの売春を利用することが少なくないからであろう。
いずれにせよ、物理的な児童虐待(広い意味での)と、単なるデータとしての「性的」表現を区別しなければならない。前者においては、そもそも相手が児童でなくても、こころやからだを傷つけることをみだりに行って良いわけがない。「児童」という限定は本質的でない。一方、後者は単なるデータである。極端な話、同じ描写表現の前に、「さくらは17歳だった」と書いてあるとその表現が違法、「さくらは19歳だった」と始まると合法、というのは、不合理と言わざるを得ない。ましてや年をとらない「アンドロイドさくら」とか、「さくらのゴースト」とか、それが若い少年の義体に「着替えた」とか言い出せば、ますます分からなくなってくる。その意味で、any representation, by whatever means, of a child
うんうんの条約の規定そのものが、必ずしも理想的とは言えない。とくに、そのギャップは、時代と技術の発展とともに増大するだろう。
まず表現を規制したいという一方的な意図があって、国内法改正の足場づくりとして条約に署名する、というのは、本来の姿と言えるかどうか。「子どもの権利」が政治的かけひきの材料として利用されていることになる。「子ども」はダシにされ、国内においても情報統制という「メインディッシュ」を引き立てるオカズにされている。そんなふうに子どもを他目的の手段として abuse してはいけない、ということこそが、この条約の神髄だろう。
「児童」と言うと、一般的にかなりおさない子どもを指すようなイメージがある。「児童ポルノ禁止」という表現は、あたかも幼児性愛のみをとりしまうような誤解を与えるのと同時に、十代の若者の性生活をも圧迫するという側面を見えにくくするものだ。
さらにまた、「ポルノ」というと一般にかなり濃厚で特殊な世界をさすようなイメージがあるが、この法律の定義では、控えめで美しい描写や、性行為と関係ない描写も該当してしまう。表現・言論の自由を制限する法律を不適切に定めてしまうと長期にわたって大きな影響があるのだから、冷静で理性的な判断が必要だ。
畑や森では多様な動植物が全体として安定したシステムを作っている。ミミズ、はさみ虫、だんご虫、ムカデ……そして土のなかの多様な微生物。こうした生物は人間にとって「気持ち悪い」としても、枯れ葉や死骸を分解し土に戻すという重要な役割を持っており、こうした生き物のおかげで初めて土が肥沃になる。人工的な肥料では補えないものがある。
こうした生き物のなかには確かに作物に害をなすものもあるが、だからといって短絡的に全滅させて良いものでもあるまい。
自分がほしい野菜だけを苦労せず手に入れたいと思えば、農薬でも何でも安易に使いまくればラクなのだろう。だがその畑では、雑草が思いがけずかれんな小さい野生の花をひらかせることもなく、害虫も益虫も死に、土は