5 : 08 Avalon アヴァロン

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Avalon アヴァロン

2002年 3月28日
記事ID d20328

アヴァロン」は、「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」と同じ監督さんの作品です。見たのは去年(2001年10月)ですが、この作品について書きます。

舞台は全五感バーチャルっぽいネットゲー。脳と直接インターフェイスをとるんだか特殊なゴーグル・スーツなんだか、それとも主観的なゲーマーのこころの世界なのか、そのへんの設定はどーでもいいのですが、ともかくその世界に「もぐって」自分が自分のキャラでその世界のなかで動けるタイプの、SFでときどきある設定のやつです。ゲーム内のバトルシーンもそれなりに迫力があってメカとかもおもしろいかもしれませんが、まぁそれはそれ。

3次元の人工的なCG画像 ゲームの舞台のリアルな草原を戦車が走る

©押井守, 2001.

で、主人公は凄くヘビーなゲーマーで背後から不意打ちされても返り討ちにして「経験値をあげて出直しておいで」とか余裕の笑みを浮かべてるタイプ。

なのだが、いろいろあって、自分が殺されたりもします。で、ふと我に返ったように「ゲームばかりやってたら廃人になっちまう。もっと健全に生きましょう」ってな感じで、手作りの料理とか始めます。それまではゲーマーだからというか、まともに食事してないです。また、シリアルママのお母さんみたいに、リアルでむしゃむしゃ食事するのをなにか汚いもののようにさえ見ています。「物理的肉体を持つこと」が与えられた前提でなく、措定された対象になってしまったことをめぐる問題でしょう。この身体シェルは「わたし」とは関係ない、関係なくはないにせよ少なくもわたしの実体ではない――というのは、昔だったら、なにか哲学的な特殊な思想だったかもしれないが、今では、分かる子なら子どもでも分かる実感になったということです。我々の現実社会においては、いろいろな意味での「肉は汚く有害で悪である」という偏った洗脳のゆがみも関係しているでしょうが、それはさしあたっては関係ない問題で、ここでは「自分」が仮想化されることの影響にかぎって考えてます。

ゲームの世界から目覚めたように、キッチンでしみじみ、じゃがいもとかきざんだり、ことこと煮込む主人公。リアルの色、リアルのにおい、リアルのモノの手応えが強調される映像。バーチャルのすさんだバトルシーンと対比するかのように、のんびりしたリアルの世界が美しく優しくえがかれます。

が、その料理ができて運んでるとき、画面のすみに同じ室内にあるパソコン(端末)のモニターが見えます。3Dのスクリーンセーバーみたいなのが動いてるのですが、どうも主人公は、一方においては、ゲームの世界からある意味、足を洗おうと決意してるみたいなのだが、他方において、そのモニターの向こうの世界が不可避的に気になってしまうようです。てごたえのあるリアルの料理を運ぶ主人公。誘うように回転するスクリーンセーバーの妖しい光――。なんともいえないシーンです。

もうひとつ印象的なのは、(経緯を書くと痛いネタバレになるので説明を略すが)「近代的な地下鉄のシーン」のあたり。ネタバレにならないように実際のストーリーというより「そういう見方もできる」という見方のほうを書きますが、戦車や重装ヘリが行き交う「危険に満ちた」ゲームの世界にしっくりとけこんでいた主人公が、「ふつう」の地下鉄車内でむしろ違和感を感じています。ゲームの中では背後から銃でねらわれようが落ち着きすましている主人公。しかし「リアル」の世界では、そのへんの関係ない人と目があうだけでびくついてる感じです。ここではキッチンのシーンとは逆に、「リアル」が非常に不確定で危険な、よそよそしい異質な世界、緊迫とストレスに満ちた場所として提示されます。ゲームの世界では、たとえひれつなPKであれなんであれ、結局、同じゲーム世界を共有していますが、「リアル」の地下鉄に乗り合わせたひとりひとりの乗客は、みなそれぞれの世界を持っていて、それは「わたしの世界」と連続しません。

現実のもつこのよそよそしさに比べると、ゲームのなかでは自分に襲いかかってくる殺人者さえ身内であり、仲間です。掲示板で言えば、うざいコピペ荒らしでもあおりでも、見慣れた(したがって落ち着ける)日常の光景ですが、それってなぁに?とか素朴に尋ねてくる「一般のかたがた」(?)とのあいだには、どうしょうもない壁が立ちはだかってるようです。こっちでは、ものすごく乱暴で無礼なやり方でののしりあっているように見える場合さえ、実際には内輪だけで通じる言葉で仲良くけんかしてるのですから。で、たいてい自分が叩かれる側も経験してるので、熟練した住民はみんな乾ききっていて、だからぐちゃぐちゃせずに清潔なのでしょうが、知らない人がいきなり見たらものすごくとんでもない世界に見えることでしょう。アヴァロンの違法なゲーム空間もまた……。乾ききった先にだけ存在する根底部分で通じるものってのも、ひとつあるでしょう。つかのまで、嘘だと分かっているからこそ、今この瞬間の自分の結婚式を楽しんでみたり。

ネットゲーム以前のひとりでプレイするゲームと、ネットゲームを比較すると、後者では、ほかのキャラひとりひとりがリアルなプレーヤーに対応して「こころ」や「考え」を持っていて、したがって決まったストーリーのない予期せぬ反応をします。ですので、スタンドアローンのゲーム→ネットゲーというのは、次元が違うようなビビッド感の差があるでしょう。アヴァロンの作品における「リアル」とは、
スタンドアローン:ネットゲー = ネットゲー:「リアル」
という図式と言えるかもしれません。ひとりでやるゲームに比べてネットゲームがビビッドであるのと同じ原理で、ネットゲームより恐ろしく「リアル」でなまなましい「リアル」。リアルをゲームととらえる世界観それ自体は、いろいろな意味で、ありがちですが……。

「トータルリコール」では、たとえ登場人物たちが混乱することがあるとしても、作品を見る者にとっては、バーチャルなのかリアルなのかというふたつのレイヤーは明確でした。見る者にも秘密にされているときがあるとしても、ふたつのレイヤーが存在することそれ自体は明確な前提だったのです。当時は、それ以外の世界観は「なかった」と言って良いでしょう。しかし、「アヴァロン」では、見る者のほうでも、ふたつのレイヤーがよく分からないという混ざった感じを共有できてしまいます。なぜなら、2001年というこの作品の年代においては、現実のネットやネットゲーの発達にともない、多くの人々にとって、混ざった世界はSFではなく自分の経験でもあるからです。昔はネットの世界は「バーチャル」「仮想的」などと言われ「にせもの」でした。「それは現実の話じゃない、パソコンの画面のなかの話だろ」と完璧な界面があって二世界は別々のものだととらえるのが多数意見だったかもしれません。今でもそういう見方もあるでしょうが、実際のネットの住民にとっては、こっちの世界のほうがいわゆるリアルよりなまなましく真実であるようにも感じられます。これはSFや空想でなく実感なのです。べつの角度からいえば、前世紀よく「西暦2001年……」などと始まったSF物語の、まさにその舞台設定の年代のなかに――おそらくは、SF作家たちが想像した以上に不可思議なかたちで――われわれはいま、巻き込まれているわけです。仮想世界では英雄ないしカリスマだが、現実では廃人、という存在は、もはやSFでもなんでもないからです。

ネットのほうがリアルだ、というとき、多くの住民は、皮相的なマルティメディアの刺激などより、むしろ「こころ」を問題にするでしょう。そこでは現実よりも裸であることができるからです――優しさも、悪意も、すべては裸でなまなましいのです。それもまた皮相の幻想なのか、それは手ごたえのある実質なのか、そこに「救い」があるのか?ということについて、2001年ないし2002年という現時点において、かなり揺れている部分があると思われます。ネットにこそ本当がある、という感覚は、いわゆるリアルにおける粉飾された「戦争」によって強められます。ですが、やっぱネットはネットでインチキだと思えるときもあります。そういう意味でも虚と実が混ざり合ってるようです。ネットにちからがあることは誰もが認めるでしょうが、恐ろしく制御不可能なものもひそんでいそうです。ある人々は、リアルの世界と同じようにネットの世界でもことばを交わし、ふたつの世界が完全に連続することを理想とするかもしれません。またある人々は、ふたつの世界のあいだに界面を感じますが、どちらが虚像でどちらが実像なのか、つねに明確であるわけでもありません。

「アルファヴィル」のような作品も、すばらしいものですが、当時としては、コンピュータが発達することが「非人間的」な「ポエジーの荒廃」をまねくという警鐘をならすのが主流であったのでは、ないでしょうか。今でもコンピュータ社会が冷たく「機械的」で不愉快な管理社会だというイメージ、また実際の危険性もあるのですが、同時に、機械のほうが優しいし信頼できる、と感じる局面も決して例外ではなくなってきました。もちろん、仮想的な人格としか友だちになれないようなこと、その仮想的な人格の優しさなどは偽りにすぎないということ、そういう見方もあるし、自我にめざめたAIがなにやら人間にとってよからぬことをたくらむという使い古されたネタもまだまだ有効だと思いますが、ネットの世界は、そういった単純な図式では割り切れないいろいろなひだを秘めているようです。

たとえネットやゲームの世界の99%が薄っぺらなインチキだとしても、1%の「なぞ」は名づけられぬまま残るのです。

ぜんぜん分かりにくい論評になってしまいましたが、よく分かるように詳しく書いたら作品をみるときつまらなくなってしまうので、なんかこんな感じです。ゲームの世界の内側と外側、その界面というのとは別に、ゲームの世界の内部でも隠しダンジョンのような謎ときのおもしろさがあります。さらにまた、「ゴースト・イン・ザ・シェル」とペアで見ると、興味は尽きないでしょう。すぐれた作品がつねにそうであるように、作者(監督さん)が用意した以外にも、見る者によっていろいろな見方ができる深い作品だと思われます。

しいて不満を言うなら、戦闘シーンなどが騒々しいことです。音を素材として使いこなすというより、迫力のある音響システムという新しいメディアをおもしろがっている状況でしょう。カラー写真の初期に(といってもその時代を知ってるわけじゃないけど)画像に色がつけばそれだけで何が写っててもすてきに見えたように。

こういう哲学的なテーマで、かつメジャーの商業ベースでやるには、あまりマニアックで詩的な感じに走らずに、多様なひとびとが楽しめる「バナー広告」の部分が必要でしょう(最初にみたときは、前半と後半の差の大きさに驚き、二色パンのようだと思った)。このような広告を入れるなら制作してよろしい、と決定するスポンサーは当然のことながら一次的には観客自身であり、そこから派生して、二次的には一般受けというフィードバックがほしい制作者自身でしょう。それに、バトルシーンなんかは主観的な好みの問題で、あって悪いわけでないし、「リアル感のあるゲーム描写」――「リアルなゲーム」ではなく「ゲーム描写」――にとっては必然的とも思えます。むしろ簡潔に抑えているほうだとさえ思えます。なまなましく“リアル”なおたくが主人公であるより、こざっぱりした女性が主人公であるこぎれいな世界のほうが、インチキっぽいけれど、かえってテーマが明確になる面もあるでしょう。相原コージみたいな手法でリアルなヒッキーが登場したら、そのインパクトが強すぎて、なにがテーマだか分からなくなってくるでしょう。一見意外な設定の主人公であることによって、かえって、自分と似ている部分があるとかないとか第三者的に冷静に見つめることができ。主人公に容易に感情移入できないことで、逆に自分を外から見れる、ということでしょうか。まぁいろいろありますが……。

画像は、2001年10月26日の「スカイパーフェクTV」の放送から引用しました。720×480の mpeg2 で衛星チューナーから直接PCにとりこんだものを縮小して掲載してます。

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Netscape 6.2.2 リリース

2002年 3月22日
記事ID d20322

Netscape 6.2.2 がリリースされました。Netscape 6.2.2 は、Mozilla 0.9.4 をベースにした商業的なブラウザであり、Mozillaのようにはフリーでありません。使用には、(間接的な)広告を受け取る義務を負うこと、および、個人情報を提出することが必要です。

Netscapeサムネイル

Netscape 6.2.2 (52KB)

なかみは、Mozilla 0.9.4 ベース。画像例のように、本家Mozilla同様、輪郭のまるっこい枠線を使えたり美容上のおしゃれはなかなか。現在のMozillaと比べると、タブブラウザ機能がないみたいです(リンクを右クリックしたら「Open in New Tab」がない)。そういえばモジラがタブブラウザになったのって、けっこう最近。このサイト(妖精現実)の記事でふりかえると、いちばん初めは、α版の MultiZilla という不安定なアドオンでした。2001年8月、0.9.3と0.9.4のあいだでした。モジラをタブブラウザにしてるユーザは世界でも千人かそこらしかいなかった時期です。そして約2か月のち、ふと気づいたらタブブラウザ機能がモジラ本体に統合されてました。おそらく、0.9.4と0.9.5のあいだで起きたのでしょう。それで、0.9.4ベースのネスケ6にはタブ機能がないのだと思います。

古い Mozilla(0.9.4)ベースですが、メモリ管理は、洗練されています。30MBくらい平気で使うのはそれとして、最小化するとパッとつかんでいたメモリを解放してくれます。(まさか共存している Mozilla0.9.9 の功績じゃないでしょうね。)Quick Launch ができたばかりのときは、常駐させているだけで、窓ひとつ開かないで20MBとか使ってた記憶があります。

スタイルつきXMLのページも、今の本家Mozilla程度に表示でき、標準にこだわるなら、IE5.5(MSXML)よりは完全に上。IE6.0(MSXML3)に比べると発展途上ですが、同列には比較できない面もあります。

タブブラウザとして使えないとなると、ネスケ6を積極的に選ぶ理由がないかたが大半でしょう。なにしろ商業ブラウザで広告とかうざい。いちいちアクティベーションとかいって住所(郵便番号)とか入れさせるし。

Netscapeサムネイル2

Netscape 6.2.2 のネットワーク経由セットアップウィザード

基本的には(大枝では)本家Mozillaのほうが絶対良いが、NetscapeのほうがMozillaのバージョンが若いぶん細かいバグが枯れているなど、細かい小枝の枝先の部分の完成度という意味で、製品品質が高い可能性は大いにありそうです。

興味あるかたは、Netscape 6.2.2 のセットアップ・プログラムをダウンロードしてください。現時点(2002年3月22日)で、このバージョンの日本語版は公開されてません。これについては、次の場所で確認できます。
ftp://ftp.netscape.com/pub/netscape6/japanese/

2002-04-03 追記

日本語版のネットワーク・インストールができるようになりました。インストールの条件はPentium 233 MHz/64 MB以上。実際には最低128MBのメモリ。セットアップ・プログラム:
http://ftp.netscape.com/pub/netscape6/japanese/6.2.2/windows/win32/N6Setup.exe
ftp://ftp.netscape.com/pub/netscape6/japanese/6.2.2/windows/win32/N6Setup.exe
詳細情報、また Mac, Unix のかたは、ダウンロードページ(日本語)を見てください。いつものことながら、ネットスケープのサイトは構成が分かりにくく、同じページに古い情報と新しい情報が矛盾したまま併置されています。余計なことですがあまりの不人気の結果、きちんと更新する人件費にもことかくのでしょうか。あんなものを業界随一とうそぶいて製品版リリースしたツケは重いようです。あと数週間ほどでMozilla正式版が各国語で出るでしょうから、ネスケの存在意義もあとひとつきかも。

ネスケ6を入れるなら、どうせならフルインストールをおすすめします。うざいRealは別記事のようにうざくなくできますし(メアドを登録しれと言われてもキャンセルのexitで放置OK)、Winampのスキンを勝手に変えられるのはスキンを戻せば良いだけ。デスクトップやロンチバーに勝手にショートカットを作られるのもさくさくゴミ箱に捨てれば良し。そんなことより、ネスケ6のフルインストールなら、だれがやっても、Java国際化版の1.3.1が確実にインストールされるので、それがあとあとべんり。場合によっては、ネスケ6自体に用はなくても、Sun Javaを導入する手段として、このインストールをやる価値があります――もちろん、カスタムインストールを選ぶなり、Java は自分で個別に 1.4 を入れても良いのですが。

「セットアップの種類」サムネイル

「セットアップの種類」でフルインストールにぽっちをつけるだけ

でもって、Java上で動く Gnutella や Freenet で会いましょう。

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