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二通りの暗譜と花の妖精からみた世界

2002年 6月11日
記事ID d20611

暗譜には二通りある。夢みる暗譜と、目覚めた暗譜だ――正確にいえば、暗譜というより、暗譜による演奏の話だが。夢みる暗譜というのは、文字通り夢をみながら、気持ちよく、音楽に身をゆだねている。自分の世界だ。聴衆の存在は意識されない、あるいは、重要視されない。これに対して目覚めた暗譜では現実に起きていることのすべてが意識され、意識的にコントロールされている。自分がどこにいて、誰の前でどの曲を弾いているのか分かっている。どちらの演奏方法も正しい。しかし両方が混ざることは難しい問題を発生させる。つまり、夢みながら演奏を始めたら、途中で目覚めて次の音は何だったっけ?と暗譜について意識してはいけないのだ。もしそうすると、暗譜がとだえてしまう――次の音は何だったっけと理性的に再確認しようとしたせいで、かえって次の音が分からなくなってしまうのだ。だから、目覚めることなく、無意識に、指が勝手に音楽を演奏するのを放っておくのが、いちばん良い。このことは音楽家のあいだではよく知られているのだが、さらなる問題は、ふだんそうやって無意識に夢みていても、いざ本番となると、とかく自意識的になって、おうおう夢が破れてしまうということだ。意識しなければすらすら自然に美しく指が勝手に弾いてくれるものを、意識が介入してしまうがために、駄目になってしまう。例えば自分ひとりで静かに楽しむ演奏ならラクだが、大勢の聴衆、とりわけ専門的な審査員の前で演奏することは、たいへんな負荷だ。

このような負荷にうちかつための根拠となる唯一の方法が練習だ。だれもみてなければ本当は弾ける曲、技術的には「本当は」すでに弾ける曲を、観測者の前でも弾けるようにするために、とほうもない努力をはらう。本当とは何だろうか。自分で弾ければ自分は本当は弾けるのだ、と自分は知っていることになる。けれど自分で弾けてもそれをだれかに対して実証できなければ、その曲を演奏できる証拠を示せないのであって、客観的には「まだその曲を弾けない」と言うべきかもしれない。ここでも自分の夢の世界と冷たい現実とがせめぎあう。

天才たちのなかには、現実で夢みつづける者も多い。かれらは一生、夢からさめない。夢のなかで――自分だけの世界で――演奏できれば良いのであれば、上達はたやすい。音楽家が払う労力のほとんどは、すでに本当は弾けるものを人前でも確実にうまく弾けるような保証を得るためのもので、だから初めから人を意識しないなら、ほとんど努力は要らない――それが天才のロジックかもしれない。人前でも弾ける保証というのもじつは自分自身にとっての保証、つまり自信というものだ。充分に練習していれば、自然と自信がつく。でも本当は、そんなにしつように練習しなくても、自分で楽しむだけならずっと上手に弾けるのだ。だから練習というのは、もともと弾けるものを弾けると認識するための自己暗示の手段なのかもしれない。どんなに練習しても、人前だと「実力」を百パーセント出せない、という人も多い――この場合も実力とは何か?という問が生じる。あなただけが知っているあなただけの世界の夢を実力と呼べるのか?という問が。実力をもっと客観的で冷厳なものだととらえる人々は、実力はあるのに人前ではそれをうまく発揮できない者について、「つまりそれが本当の実力なのだ」という。人前で、現実で、できなければ、実力でない、と。他方、人前で現実でどうあろうと、本当は自分でそれができるのだ、と自分で分かっていることこそが「ほんとう」なのだ、と考える者も多い。

暗譜の場合、本当は夢みているほうが美しく弾ける。現実を客観的に認識することなく夢みながら弾いたほうがいい。だが現実はあなたの世界にいつ割り込んでくるか分からない。夢が破れて目覚めてしまう。そのときになお平然と演奏をつづけられるために練習するのだ。目が覚めても夢のつづきを続けられるように練習するのだ。さらには現実のコンサートホール、人々、試験官を明晰に認識しながら、なおそこで夢みるためのはがねの意志のために、練習するのだ。現実にある自分を自覚しつつ、しかも夢みるために、この二重意識、このアンビバレント、この不安定な二世界の接触、共存、夢と現実のはざまのために、我々は練習するのだ。単調な繰り返し、ハノンのような機械的でつまらない訓練こそが、我々につねに夢みる権利を与えてくれる。我々がきびしい試練にたえるのは、目覚めていながら夢見る権利を得るためだ。この分裂は――ある詩人が言ったように――決して特権ではなく、不可避だ。ふたつの世界にどうしても引き裂かれなければ存在できない――そんな形態の存在がかろうじて存在できるための、あやうい、あえかな場所。この行為の本質が、例えば殺人中毒のように極めて反社会的であることは、当事者たちにしか分からない。しかし周囲の人々も、詩人や芸術家と薬物中毒者や社会不適応者のあいだの否定できない関係性を察しているものだ。

花の妖精の話をしよう。

あなたは想像するかもしれない――花畑が荒らされると、花の妖精たちが悲しむ、と。それは人間さんの考えというものだ。花の妖精にとって、花は宇宙だ。あなたは宇宙がなくなったら悲しいだろうか?

無意味な質問だ。宇宙そのものが失われたときには悲しいも悲しくないも、そもそもあなたは存在していないのだから。それに宇宙そのものが消滅するような大きなちからがあるとしたら、それは人間にはどうすることもできないレベルのものだから、いきどおったり、悲しんだりというのとは違うだろう。決定論的な運命――感情や意思の介入の余地のない、絶対にどうしようもない必然的な論理的帰結のようなものだろう。花の妖精にとっての花の破壊もそうなのだ。花が失われるなら、自分は失われるが、それは必然であって、悲しむべきことではない。ただの論理だ。人間にとっての宇宙の消滅と同様に非現実な話だ。もちろんいつかはそれは起きるかもしれないが、だからなんだというのだろう。宇宙の消滅をめぐる杞憂きゆうから、日々びくつきつつ暮らすことはない。いつかはこの世から花が失われる日が来るとしても、だからといって、花の妖精たちは、その日をおそれはしない。これはたとえだ――我々は花の妖精であり、あなたがたは「いつまでも花があるわけでない。冬にそなえなさい」と訳知り顔で忠告する老人というわけだ。よろしい、花がなくなる日が来ることは認めよう。たぶんいつか、わたしたちにとっての遠い未来に(それはあなたがたに言わせば近い将来なのだろうが……)

花がなくなれば花の妖精はいなくなる。宇宙がなくなれば人間がいなくなるように。花の妖精は花がなくなる日のためにそなえたりしない。人間が宇宙消滅にそなえたりしないように。このように、わたしたち妖精には、最後の最後の一瞬まで夢みる権利が与えられている――これも特権というより妖精の実存をめぐる不可避なのだが。

いつかは夢から目覚めるかもしれないとしても、そのときには、もうわたしたちはいなくなる。それでいい……というより、現実におそわれてもなお夢みつづけることができる強靱きょうじんな精神……妖精とは現実のなかに屹立きつりつする夢なのだ。その頑強がんきょうさは、だが峻厳しゅんげんではない……ある種のごまかし、本当はありえない両立、本来ありえべからざるもの、あいまいさ……そのあやういはざまに、夢と現実のきわどいすきまに、妖精たちのすみかがある。夢と心中する覚悟を決めた者だけが訪れることのできる秘密の花園が。わたしは夢みない。夢であるのだ。夢から覚めるとき、わたしは、ない。

学校なんてやめちゃって、デカダン、酔いしれ暮らさないか?――

それもいい。脱獄するのは自由を求めてだ。脱獄囚は自由だし、独房の外のやつらは最初から自由だ。――だが、オレは、あの牢獄のなかで、外の自由人よりいっそう自由でありつづけることができたのだった。というより、本当の問題は、しばられていることでなく、決してしばられることができない、ということなのだ。できることなら現実にしばられたい。現実と関係を持ちたい。どこかでそう願っていたのかもしれないが、そうした願いが意味を持つのは同じ平面上にいるときだけだ。

(「花の妖精からみた世界」は先週の「花の子ルンルン」の放送をみていて思いついたことだったのですが、ほかのことで忙しくて、きょうまでメモを書きくだすことができませんでした)

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